結局、一日かけても世界史のノートを書き終えることができなかった穂香は、鈴乃に頼み込んで持ち帰らせてもらうことにした。
さらに現代古文の授業で、次までに教科書に載っている夏目漱石の『こころ』を予習しておくようにとお達しがきた。事前に知っていたのか、鈴乃がニヤニヤと笑みを浮かべていたのを見て少し恨めしく思った。文系の強い彼女にとっては朝飯前なのだろう。だからこそ明日が提出にも関わらず、穂香に世界史のノートを貸し出す余裕があったのかもしれない。
高校から帰ってきた穂香がリビングへ入ると、やつれた顔の母がソファに座り、どこか遠くを見ていた。
視線の先にあるテレビでは、母が苦手なバラエティ番組の再放送が流れているが、目線は遠くに向けられている。無音に包まれた部屋にいるのに耐え切れず、人の声が恋しくてつけたのかもしれない。穂香が背負っていたリュックを置いて手を洗おうとキッチンの水道を開く音でようやく母が気付いた。
「あ、おかえりなさい。早かったわね」
「……うん」
「夕飯までまだ時間があるけど、なんか食べとく?」
「いいよ、大丈夫。……お母さん、夕飯作るのは私がやるよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。穂香だって課題があるでしょう? それに何かしていないと気が済まないから、お母さんにやらせて」
返答を待つ間もなく、母はテレビを消してキッチンに向かう。
ついさっきまで母が座っていたソファの上には、数年前に旅行先で撮った家族写真が置かれていた。色褪せた写真の中で、幼い頃の穂香と十個も年の離れた姉を中心に、両親が包むようにして映っている。最後に集まったのは、姉の結婚式が迫った頃だっただろうか。まだ半年ほど前の話なのに、随分と昔に思えてならない。
冷蔵庫の中を漁りながら、母は思い出したように言う。
「そうだ、お父さんは今日、残業してくるから遅くなるって」
「残業? 珍しいね」
「ええ。土日のビラ配りを手伝いたいって、今週の休日出社日の分まで仕事してくるみたい」
「そっか……」
穂香の両親は共働きで、父親は区役所に勤めている。人の移り変わりが激しい住民課で、退職まであと数年といったところだ。
母は近くのスーパーの鮮魚コーナーで毎日のように魚を捌いている。パートではなく正社員のため、朝早く出ていくことが多い。しかし、ここ数ヶ月の間に体調を崩した母は貯まった有休を消化しつつ、遅番のシフトで鮮魚コーナーからレジ担当へ移行していた。
「お母さんも土日はそっちに行ってくるわ。穂香の予定がなければ家にいてね。友達と予定があるなら出掛けてきてもいいけど」
「予定はないよ。ねぇ、私も手伝いに――」
「いいから!」
突然母の怒鳴りに近い声があがり、穂香の言葉は遮られた。思わず身体が強張る。思っていた以上に声が大きかったからか、ハッとした母も動揺を隠せずにいた。
「ごめんね、でも人手は足りているから。あなたは来年受験生だし、自分を優先してちょうだい」
睨まれた目が潤んでいることに気付いて言葉が詰まる。
母だけではない。ここ数ヶ月、両親ともにやつれてきている。仕事が終わると駅に行き、ビラを配る――そんな日々を半年間、ずっと続けていた。身体を壊しても仕方がない。
穂香も手伝いたいと申し出ているが、両親は頑なに首を縦に振らない。人手が足りているから、学生だからと言葉をつらね、そして決まって無理に笑うのだ。どんなにやつれていっても、辛そうにしていても、穂香の前では笑顔を作る。大切な両親にそんな顔をされてしまえば、穂香は何も言い返せなかった。
「……わかった」
それが善意であることはわかっているのに、穂香にはどうしても「無力だ」と現実を叩きつけられている気がしてならない。目を背けた穂香に、母はまた「ありがとう」と、辛そうに笑った。
夕飯ができるまで荷物を持って二階の自室へ行く。制服から部屋着に着替えて、学習机に山のように積み上げた参考書を端に寄せると、鞄から世界史のノートを取り出した。
学校で終わらなかった板書の続きを書き写しながらふと、鈴乃と自分のノートを見比べる。
彼女のノートはすべて綺麗に埋められており、教師のちょっとした雑談さえもノートの端に書き込んでいるほどまとめられていた。対して穂香のノートは今日の授業だけでなく、その前の授業時に書くべき板書も抜けている。授業には確かに参加していたはずだが、また寝落ちしていたのだろうか。走り書きのような自分の字がどれだけ酷いのかさえも一目瞭然だった。
六十分という時間の中で、しかも教師の話を聞き取りながら板書とメモを綺麗に、懇切丁寧に両立させている鈴乃を改めて尊敬する。高校二年生に進級しても不思議で仕方がない。それほどまでに自分は勉強が苦手なのかもしれないと、ノート提出さえ諦めていた。このまましらばっくれてしまおうか。
そう溜息をついたところで、ふと鈴乃のノートに書かれたメモが目に入った。
・「月が綺麗ですね」は、夏目漱石なりの「愛しています」という告白。※諸説あり。
事の発端は、ある生徒が「我、君を愛す」と訳していた『I love you』を、夏目漱石が「日本人はそんな直接的な愛情表現はしない」と言って自ら翻訳したものだと聞いたことがある。控え目で自己主張が弱いという、日本人の特徴と捉えていたからこそ言えたものだとしたら、随分洒落た言い換えだったように思える。
もし告白をする場面に使ったとして、月が雲で隠れていたとしたら。
はたまた、月の存在自体がまだ解明されていなかったとしたら。
逸話が語り継がれる今だからこそ意図をくみ取れるかもしれないが、まだ英語が普及し始めてきた頃の夏目漱石の時代だったなら――。果たして「月が綺麗ですね」と言ったところで、それは告白として受け入れられたものだったのだろうか。名の知れた夏目漱石が発した言葉だからこそ、現在に至るまで逸話として語り継がれている証なのかもしれない。
穂香はなんとなくスマホで検索すると、葉山先生が授業で話した通りの逸話が出てきた。
中には「月が綺麗ですね」の返し方も掲載されていたが、夏目漱石ではなく、明治時代の文豪が発した「死んでもいいわ」が取って付けただけのような気がして腑に落ちない。
(まぁ、ただの例えだし。比喩表現だし)
そう割り切ってスマホの画面を消すと、脇に置いてノートの続きを写し始めた。テストの点数が取れない以上、提出物だけでもなんとかしなければ。
夢中になって書き続け、穂香が世界史のノートをすべて写し終えたのは、ちょうど夕飯の準備が出来たと母から声をかけられた頃だった。
達成感に浸りながら階段を降りてリビングに行くと、食卓には二人分の夕食が並べられていた。白い湯気が立つ白米、わかめと玉葱の味噌汁。焼き鮭の横には大根おろしが添えられ、小松菜のごま和えと、具材がごろっと入った筑前煮がそれぞれ小鉢に入れられている。
「ありものでごめんね。明日買い出しに行くから」
「いいけど……お母さん、焦がしたほうを食べる気?」
穂香の目線は母側に並ぶ焼き鮭に向けられていた。自分に配られたものに比べて、皮だけでなく身まで真っ黒に焦げてしまっている。二つに割れてしまっているのは、内側が食べられるか確認した証拠だ。
「これくらい平気よ。黒いところを省けばいいし、そんなに量も食べられないから」
「食べられる分が少なすぎる。身体に悪いよ。私の分を半分こにしよう。それでも食べきれなかったらそれでいいから」
体調を崩しがちだとわかっていながら、無理をする母をどうにかして言い包め、自分の焼き鮭を半分に分けて、なるべく脂身の少ない方を渡す。真っ黒に焦げた母の焼き鮭を食べられる部分だけにするが、一食分にも満たない量だった。鮭フレークにして、明日の昼食用で持っていくおにぎりにしよう、と提案した穂香に、母は「ごめんね」と小さく微笑む。
「紗栄子がいなくなってから、お母さんらしいことできなくてごめんね」
謝らないでほしかった。
母は何も悪くない。万全ではない体調に炭のようなもの食べさせるわけにはいかないだけだ。
喉から出てくる言葉を、穂香はぐっと飲み込んだ。半年もずっと続くこの日常に慣れてきた自分を、今一度恨めしく思った。
自宅から学校まで距離が遠いこともあって、穂香は家族の誰よりも早起きだ。
十二月の早朝はまだ外は薄暗く、うっすらと霧が出ている。穂香が制服に着替えてリビングに行くと、遅くまで残業していた父がソファで眠っていた。
冬の寒い時期にこんなところで寝落ちしなくてもいいのに。穂香は父の肩を軽く叩いて起こし、寝起きでボソボソと喋る父のから今日の予定を聞き出す。午前中は母の通院に付き合うようで、あと小二時間は寝ていられるとのことだった。
「少しでもいいから布団で横になって。電気毛布入れてあるから、あったかいよ」
「ああ……すまんな」
一体何時まで仕事をしてきたのだろうか。父はよれたシャツのまま、母が眠っている隣の自分の部屋へ向かう。きっと布団に着いてすぐ寝落ちして、起きてきた母に呆れた顔をされるのが目に見えた。
穂香は父を見送ると、キッチンに向かい三人分の朝食と自分のお弁当を作り始めた。
毎朝は必ず白米と味噌汁が決まっていて、おかずは漬物や母が作り置きする煮物を温めるだけ。
勤務先まで近いこともあって朝は余裕がある両親に代わって、味噌汁だけ作るのが穂香の朝一番の仕事だった。
生姜と長ねぎを炒めたところに出汁と味噌を入れ、最後に木綿豆腐と油揚げをいれて仕上げる。並行して昨晩余った鮭をほぐしたフレーク、白ごまを白米に混ぜておにぎりを作っておけば一石二鳥だ。おにぎりの粗熱を取っている間に朝食を済ませ、両親の分とは別にスープジャーに味噌汁を入れて蓋をする。おにぎりをラップに包み、スープジャーとともに巾着に入れると、通学用のリュックにつっこんだ。
片付けをして時計を見れば、まだ六時半を過ぎたところだった。両親が起きてくる気配はない。
食卓に書き置きをして、穂香はそっと家を出た。
冷え込んだ朝方に思わず身を震わせ、学校指定のコートと意図的に袖口を伸ばしたカーディガンを一緒に擦りながら、穂香は今日も学校に向かう。
電車の中は微弱ながらも暖房が入っていることにホッと息をついた。一時間ほど揺られて最寄り駅まで行くと、出勤する人の流れに紛れて改札を出る。ここからさらにバスに揺られなければならないのだが、道中には小中一貫校があるため、この時間帯は学生の利用が多い。
「さむっ……」
駅から少し離れたバスターミナルまで行くのにだって、冷たい風が肌に刺さってくる。少しでも足を止めれば寒さが襲ってくることもあって、信号待ちはいつもより長く感じた。早く変われ、早く変われと赤く点灯した歩行者用の信号機を見つめる。
すると突然、背後からドン!と衝撃が走った。
(えっ……⁉)
突き飛ばされた、というよりぶつかったような感覚だった。
穂香は勢いで前のめりに倒れ込んでいく。一歩前に踏み出せば車道だった。信号機はまだ赤く点灯したままで、ちょうど車がこちらに曲がって来るのが見えた。
(あ、終わった)
寒さで悴んだ身体が思う通りに動くわけもなく、穂香はそのまま地面に倒れていく。
これが自分の最後かもしれない。不思議と目の前の光景がすべてスローモーションに見えるのも納得してしまう。
振り返れば、白い帽子を被った小学生が視界の端で揺れていた。
もう終わった、私の人生終わった! ――そこまで考え、ぐっと目を閉じたその瞬間、後ろから勢いよく後ろから引っ張られた。
「えぐっ――⁉」
どこぞの蛙のような声が喉から飛び出すと、掴まれたリュックとともにコートごと引っ張られた。ワイシャツの第一ボタンまでしっかり留めていたことが災いし、穂香の首が一瞬締まるが、お構いなしにそのまま後ろに引き戻されて勢いよく尻餅をついた。
咳き込みながら顔を上げると、先程まで迫っていた車が横切っていくところだった。
「た、すかった……?」
生きた心地がしない。心臓がこんなにもバグバグと音を立てて、生きていることを証明しているのに、座り込んだ際に触れたコンクリートのひんやりとした感覚も確かにあるのに、何が起こったのか上手く呑み込めない。ただ茫然と、信号機が青に切り替わって人が歩き出す横断歩道を見つめていた。
「――大丈夫か?」
掴まれていたリュックから手が離れ、今度は軽く肩を叩かれる。穂香がそっと顔を向けると、同じ制服を着た長身の男子生徒が焦った表情をして屈んでいた。
「悪い、咄嗟にリュック掴んじまった。怪我は?」
荒々しい口調と低めのハスキーな声で問われると、穂香は目を疑った。
重ための前髪から覗く、焦りの色を浮かべた目がつり上がると、蛇に睨まれた蛙のように穂香は身を固くした。どうして彼がここにいるのかと彼の顔を見る。
「な、んで……」
「は? 大丈夫かどうか聞いてんだけど。……まぁ、人の顔を見て驚いているくらいなら平気か」
立てるか、と男子生徒から差し出された手を思わず凝視する。
在り得ない、この人が人助けなんてするはずがない。
同じ目線になる彼――敷島尚を見て、穂香は息を呑んだ。
隣のクラスに在籍する彼は、一八五センチの長身と整った容姿、つり上がった眼力に加え、垣間見える気怠そうな態度で問題児扱いされるほど有名だった。話しかけても大体の生徒に対して見下ろす形になってしまい、怖がられることも日常茶飯事だという。
差し出された手を前に穂香が躊躇っていると、「はぁ……面倒くせぇ」と大きな溜息をついた敷島が強引に手を取った。自分と二十五センチも差がある彼に引っ張られ、穂香はあっという間に立ち上がる。そして手を握ったまま、ざっと全身を見ると、敷島の眉間に寄っていたシワが消えていった。
「怪我は……なさそうだな。よかった」
「あ、ありがとう……」
震える声でぎこちなく礼を言うと、ぶっきらぼうに「気にすんな」と穂香の手を離した。
穂香は思わず身構えた。いきなり話しかけられたからということもあるが、何より敷島尚は校内で『一匹狼』と謳われるほど有名なのだ。
今から一年前――穂香が高校に入学した年に行われた文化祭でのことだ。
鈴乃から聞いたため詳しい話はわからないが、開催されていたミスコンテストで優勝した当時三年生の女子生徒からの猛烈なアプローチを完膚なきまでに無視し続けたと聞いた。女子生徒は諦めずに声をかけ続け、ようやく目が合って話をしたが彼は悪びれもなく「どちら様ですか?」と一言で終わらせたという。
それがきっかけで血も涙もない冷徹な人間だと批判され、上級生の目の敵にされていた。
穂香との接点は今まで一度もないが、一匹狼の話しか知らない彼女にとって、敷島尚が人を助け、手を差し出すなどという行動を目の当たりにして躊躇うには充分だった。
敷島は周囲を見渡し、横断歩道の向こう側に渡った小学生に向けて舌打ちをした。
「あのガキンチョ……謝りもしないで行きやがった」
「ガキンチョ?」
「お前を突き飛ばした奴らだよ。それが気になって引っ張ってた」
それ、といって敷島が指さしたのは、リュックのつけているウサギのキャラクターが描かれたキーホルダーとオレンジ色の石がついたチャームだった。
敷島の話によれば、穂香が横断歩道前で信号機に早く変われと念じていた最中、高校に行く道中にある小中一貫校の制服を来た小学生が、キーホルダーを引っ張っていたのだという。キーホルダーは穂香の親戚が趣味で作ったものであり、銀のプレートにウサギのキャラクターが描かれている。よくテレビで見かける人気のキャラクターであり認知度は高いが、よくもこんな小さなものを見つけられたものだ。
しかし、敷島は首を横に振った。
「ガキが気になったのは、一緒についているチャームのほうだよ」
「チャーム?」
「寒さに耐え切れずお前が小刻みに揺れたせいで、反射でキーホルダーが光って見えたんだ。気になって思わず手に伸ばしちまったってところだな。別のガキが俺の横を通り過ぎて行って嫌な予感がしていたら、そいつがキーホルダーに夢中になっていた奴の背中を叩いて、驚いた反動でお前を突き飛ばすように倒れたってわけ。ま、ウサギよりかはキラキラしたものに目に入ったってところだな。手に取らないとわからないくらい小さければ、余計気になるだろうし」
「どうして敷島くんは、ウサギだって見えたの?」
穂香はプレートに描かれたものがウサギだとは一言も告げていない。自分よりも二十五センチ差もある身長では屈まないと見えないはずだ。もちろん一点ものでもあるため、類似品が売っているはずもない。それに対して敷島は「あー……それは」と言葉を詰まらせた。
「リュックを掴んだときに見えたから。長い耳があれば大体ウサギだろ?」
「そ、そう……」
良いように言い包められた気がしたが、これ以上問い詰めても答えてはくれないだろう。早々に切り上げると、敷島の表情が少しだけ和らいだように見えた。
「キーホルダーが千切れなかったことが幸いだったな。……ったく、お前もボーッとしすぎ。考え事でもしていたのか」
「そういうわけじゃ……」
初対面の彼に話すことじゃない。内心モヤモヤしながら穂香は目線を逸らした。
鈴乃からの忠告が効いていることが大きいからかもしれない。助けてもらったことに代わりはないが、それだけで信頼できるとは限らないのだ。詳しい話をするつもりは毛頭なかった。
(今日はなんて運がないんだろう)
朝から寒いし、車に轢かれそうになるし、更には関わるとろくなことがないとまで噂される学校の問題児に遭遇してしまった。
項垂れている穂香をよそに、敷島はあっけらかんとした口調で問う。
「別にいいけどさ。ところでお前、学校までバス通学?」
「そうだけど、何?」
「最終便、そろそろ出るぞ」
ああ、本当についていない。
*
穂香が教室に自分の席に着いたのは、始業開始のチャイムが校内に鳴り響いた頃だった。敷島の指摘によって最終便ギリギリに乗り込んだものの、これでは朝早く家を出た意味がない。
一緒にいた敷島は「間に合わねぇから」といって次の出発時刻まで待機しているバスに乗り込んでいった。遅刻前提で確実に乗車する彼の判断力が羨ましいと思う反面、堂々と遅刻する理由が穂香には不思議で仕方がなかった。
朝からの疲れが顔に出ていたのか、席に着くと同時に鈴乃が声をかけてきた。
「遅刻しかけるのって珍しいよね、何かあった?」
「まぁ、いろいろと。学校に来るまでがちょっとね」
「ふーん……」
何か探るようにして見てくる鈴乃を横目に、穂香はリュックから授業で使うものを引っ張り出した。文房具、教科書、参考書。鈴乃から借りていた世界史のノートと一緒に、事前にコンビニで買っておいたクッキーを添えて彼女に手渡しする。
「鈴乃、貸してくれてありがとう。すごく助かったよ」
「いいえー。相変わらず穂香はマメだね。わざわざお菓子もつけなくたっていいのに」
「でもすごく助かったから。それにほら、鈴乃が好きなクッキーを見つけちゃったし」
中学からの付き合いということもあって、穂香は鈴乃の好物を自然に覚えていった。特にアーモンドスライスの入ったボックスクッキーは、コンビニでも手作りでも関係なく、目に入ったらすぐに手に取っているのを何度か見かけたことがある。
鈴乃はノートとクッキーを受け取ると、クッキーを見て頬を緩めた。穂香が内心ホッとしたと同時に、教室の入口から葉山先生が入ってきて授業が始まる。
「藤宮、授業ノートは間に合ったか?」
何もクラス全員の前で聞かなくてもいいのに。穂香は完璧に写したノートを広げて堂々と見せると、先生は感心したように「西川にちゃんとお礼を言っておけよ」と見透かされてしまった。
そのまま何事もなかったかのように授業が進み、いつの間にか終業のチャイムが鳴り響いた。回収されたノートを抱えて先生が教室を出ていくと、一斉にクラスメイトが動き出す。
「穂香、次の選択科目ってどこ?」
「化学だから、理科実験室!」
「そっか。私、古典だから二階の自習室。方向逆じゃん、ショック……」
この高校では二年生の後半から三年生にかけて、他のクラスと合同で自分が選択した教科を追及する授業が組み込まれる。大学進学への対策はもちろん、苦手な教科を集中的に受けられることに特化しており、そのまま卒業制作に繋がってくるのだという。
鈴乃は得意な文系を更に伸ばしたいという理由から古典を選んだが、穂香は化学にした。昨年の授業で一番成績が悪かった教科であり、ここから巻き返すことも充分間に合うと、葉山のアドバイスを受けてのことだった。「一緒だったらよかったのに」と鈴乃が拗ねた顔をしたが、ここまで一緒にいると、自分が鈴乃に頼りっぱなしになってしまうような気がした。
授業に使用するものを抱え、鈴乃と別れて理科実験室に向かう。早めに着いたわりには、すでに半数くらいの生徒が来ていて黒板に群がっていた。上半期の選択教科でも授業を受けているため、実験室の勝手はある程度把握しているが、誰も席に座っていないのは珍しい。
実験室に入ってくるたびに生徒が足を止めて黒板を見つめる。それは穂香も例外ではなかった。黒板に貼られた図面には、八つのテーブルにそれぞれ生徒の名前が書かれていた。
「今日のメインは実験だってさ!」
「マジかよー……サボれねぇじゃん」
近くにいた男子生徒が面倒臭そうにぼやいた。黒板の上に大きく「実験のため、グループを分けます。この座席で座ってください」と書かれている。学校の備品に限りがあるのは仕方がないが、内容が変わるなら事前に告知してほしい。
一部不満の声が聞こえてくる中、穂香は自分の席を探し出す。一つのテーブルに四席。一番後ろのテーブルで、備品が置かれている棚のすぐ近くの席だった。
人混みを抜けて、まだ誰も座っていないテーブルの自分が座る席に荷物を置こうしてと、突然背筋がぞっとした。
(誰かに見られてる……?)
そっと後ろを向くと、機材や薬品が置かれている戸棚とちょうど穂香の目線と同じ高さに、ホルマリン漬けにされた得体の知れない生物がこちらに目を向けていた。蛙か蛇かもわからない。魚だったらどれほどよかったことだろう。
「………」
穂香は絶句した。最悪だ。なんの生物にせよ、どうしてこちらに顔を向けて置くのか。なぜ戸棚の、しかもガラス張りの段に入れたのか。言い出したら不満しかなくて、そっと顔を背けた。
戸棚には鍵がかかっているため、化学担当の若狭先生の許可なく動かすことができない。もちろん先生に事情を話して開けてもらうことは可能だろうが、いつも授業開始のギリギリに入ってきて、終わりと同時に次の授業準備で慌しい先生に話しかけるのは一苦労だ。
鍵だけを借りられたとしても、穂香自身が動かすことに抵抗がある。移動させる際に中が揺れ、得体のしれない生物と目が合ってしまったら――。
ああ、考えたくもない!
「――あれ、今朝の人だ」
頭を抱えていると、今朝聞いたばかりの声がした。見れば、穂香の座る前の席に荷物を乱雑に置く敷島尚がいた。
「あっ……⁉」
「そんな化け物見たような顔するなよ。傷つくじゃん」
選択授業は今日までに数回――片手で数える程度だが――受けてきているが、穂香の記憶には敷島の姿がない。廊下で先生と話しているだけで噂が立つほど目立つ彼が、同じ教室で授業を受けていたらすぐにわかるはずなのに、まったく覚えがない。
ただ、今朝の時点でお互いが初対面で初めて言葉を交わしたことは、彼が穂香の名前ではなく「今朝の人」と認知していることで証明された。
「この間、選択授業を変更したい奴は申請するように、ってアンケート用紙が配られただろ? 古典が飽きたから化学に切り替えたんだよ。若狭センセーの授業、楽しいし」
「……アンケートなんてあった?」
「あったよ。一週間前に全クラスに配布されたやつ。覚えてねぇの?」
全くもって覚えがない。懸命に思い出そうとしても、いろんな記憶が混雑して確実にあったとは断言できない。次第に穂香の顔色が青くなるのを見て、敷島は首を傾げた。
「さっきからしかめ面ばかりだな。もしかして教科変えたかったとか?」
「ううん、そうじゃないんだけど……アンケ―トを受け取った覚えがなくて」
「別に変更がなければ用紙を失くしたって問題ないだろ。変えたい奴だけが出せばいいことになってるし。……そんなことよりさ」
敷島が突然前のめりになって穂香に近付いてくる。急に距離が近くなって、驚いて息が詰まりそうになる。
そんなことも知らず、敷島は小さな声でこっそりと問う。
「席、交換してくんない?」
「……へ?」
随分間抜けな声を出したと、我ながらに思う。
頼まれているのは席の交換という、頷くだけで解決するようなことなのに、困惑する頭でなぜか彼が「ホルマリン漬けに見守られながら授業を受けたいのではないか」と突飛な想像までしてしまった。
穂香が顔をしかめたからか、敷島は「えっと」と一つ置いて続ける。
「頼むよ。ここだといろいろと不味いんだ」
「不味いって……内申点が足りないとか?」
授業の取り組みの点では良く見られるかもしれないが、仮にも選択教科だ。通常授業に組まれている授業のほうがよほど重要だろう。
「そうそう。内申点もだけどこの身長だろ? 目立ちたくないし、そっちの席の方がいろいろと都合がいい。もしかして先生に怒られるとか考えているなら、俺から言って――」
「い、いや、いいけど……でもいいの?」
「何が?」
「も、もれなく背後霊がついてくるけど」
「……はぁ?」
穂香がそっと横に身体を避けると、戸棚の向こうでこちらを見ていたホルマリン漬けが現れる。心なしか、先程見たときより顔が正面を向いているような気がした。
すると、敷島はさらに前のめりに身体を倒して戸棚の奥を見つめる。よく見えていないのか、前髪で隠れた左目を限界まで細めていた。そしてようやく身体を引くと、大きな溜息をついた。
「なるほどな。隠さなくてもアレの近くが良いのなら言ってくれたらいいのに」
「ち、ちがうよ! 私だって嫌だもん!」
「嫌なら素直に変わればいいだろ。それに、さっきからお前が屈むたびに俺と目が合っているから」
「えっ……⁉」
「気付いてなかったのか。その棚の位置なら、俺の背中で隠れるからお前も目を合わせるようなことはないと思う。……頼むよ、今朝の借りを返すと思ってさ」
「……わ、わかった」
誰も好んで座りはしないだろうホルマリン漬けの特等席に執着するのは、ただ端の席だからではないのか――なんて、聞けるわけもなく、穂香はそれ以上何も聞かずに席を交換した。
実際に座って、改めて彼との身長差を感じた。敷島の長身と背中の広さ、そして姿勢の良さによって棚のホルマリン漬けは隠され、穂香と目を合うことは一度もない。こんなことなら、渋ることなくすぐに交換すればよかったと、内心で大きな溜息をついた。
しばらくして同じグループになる生徒がやってくると、それぞれの位置に座った。そのうち一人は敷島と仲が良いのか、授業が始まるギリギリまで談笑していた。勝手に席を変えたことについては誰も触れることはなかった。
授業開始のチャイムが鳴ると同時に、慌しく入ってきた若狭先生が出席を取るとすぐに板書が始まった。今日の実験は準備に時間がかかるらしい。
通常の教室なら、顔を上げれば正面に黒板があるが、実験室のテーブルは黒板を前に縦に長く、生徒は横向きで座ることになる。
席を交換した穂香は板書のために左を向いてはノートに書き写すのを繰り返していた。ふと、視界に敷島の顔が映る。背筋の伸びた美しい姿勢でノートをとる姿は、どう見ても問題児という噂からはかけ離れていた。横目で見た彼のノートは鈴乃と同様に綺麗にまとめられている。今朝助けて貰ったときといい、聞いていた人物とは考えられなかった。
授業を終え、備品を片付け終えたところで終了のチャイムが鳴った。次回は今日の実験結果をグループごとに発表するという。挨拶を終えて穂香が荷物をまとめていると、敷島が声をかけた。
「今日は助かった。アレのことは言っとくから!」
「あ、うん……って、ちょっと待って!」
若狭先生が理科実験室から出ていくのが見えたのか、敷島は慌てて飛び出していく。途端、抱えた荷物からプリントが一枚、ひらりと舞って床に落ちていった。前の授業のものなのか、赤ペンで丸ばかりついた数学の小テストだ。そんなことにも目もくれず、敷島は先生の名を呼びながら出て行ってしまう。
「えぇ……」
ガラスの靴に比べたら採点済みの小テストなんて安いものだが、放置するわけにもいかない。
仕方なしに追いかけると、敷島は少し離れた先で先生と真剣な顔つきで話しながら歩いていた。すらっとしたスタイルが存在感を醸し出しており、不意に近付くことを躊躇う。まだ走れば届く距離にいるのに、そこにいるのが敷島ではなく別人のように見えた。
(あんなに近くにいたのに、急に遠い人になってしまった)
茫然と見つめていると、穂香の後ろから数名の女子生徒が追い越していき、彼の元へと向かっていく。そのまま囲うようにして話しかけているが、彼は応じることなく先生と一緒に先に行ってしまう。いつかの先輩のアプローチにも振り向かなかった冷酷さは健全のようだ。
(冷酷? ううん、話を聞く気がないというよりあれは……)
「穂香、やっと見つけた!」
「わぁっ⁉」
突然、後ろから羽交い絞めにされる。振り返れば授業終わりの鈴乃が片腕で穂香に抱き着いていた。驚いた穂香の顔を見て満足したのか、解放して「こんなところでなにしてるの?」とケロッとした顔で訊いてくる。
「鈴乃だって、古典のクラスはこの階じゃないでしょ?」
「早めに授業が終わったから穂香を待ってたの。私たちの教室も、別の選択科目がまだ授業中だから入れないしね。それより……」
鈴乃は穂香が見ていた方向をじっと見つめる。先を歩いていた敷島たちはすでに立ち去っており、廊下には穂香たち以外誰もいない。
「さっき、先生に声をかけようとしてたの?」
「ううん。その……敷島くんに忘れ物を……」
彼が落とした小テストのプリントを見せると、鈴乃は途端に顔をしかめた。
「敷島って、あの敷島尚? 授業同じだったの?」
「うん。席が近かったんだ。初めて話したけど、聞いていたより全然話しやす――」
「ダメって言ったでしょ⁉」
穂香の言葉に被せるように、鈴乃は強い口調で声を荒げた。
今まで見たことがない、苛立っている彼女を前に、穂香は驚いて言葉をひっこめる。ここまで声を荒げることなど、今までなかった。
「鈴乃……?」
「……ごめん、でも良い話は聞かないからさ。この間も他校の男子と喧嘩したらしいし、取り巻きも多いらしいよ」
「そうなの?」
「そうだよ。ああいう奴は猫被っていてもおかしくないんだから。だから何度も近付いちゃダメって言ったでしょ?」
自分のクラスに戻ったら、理科実験室で話した彼とは別人がいるのかもしれない。アウエーが苦手で猫を被っている可能性もあるだろうが、穂香はそう思えなかった。
敷島は、授業に支障が出るからといって席を交換してきた。見た目だけで問題児と認定されているが、熱心に授業を聞いていたし、積極的に実験に参加して意見を出していた。なにより、車道に飛び出した自分を助けてくれたのだ。簡単に悪い人というレッテルを貼るには早すぎる気がした。
今朝のことを含めて鈴乃に話すも、呆れた顔で穂香に言い聞かせる。
それは嘘だ、あとで何かされるかもしれない――と。垣間見る鈴乃の目がぎらりと光る時は、大抵苛立っている時だと穂香は知っていた。
「穂香は疎いんだから、警戒したほうがいいよ。男なんて何を考えているのか分からないんだから。そんなことより早く教室に戻ろう。次の授業に遅れちゃう」
「……うん」
敷島くんはそんな人じゃないよ。――声が出そうになるが、必死になって飲み込んだ。
今朝が初めて言葉を交わした彼を擁護できるほど、自分は彼について何も知らない。
胸の奥がモヤモヤしたまま、先を行く鈴乃を重い足取りで追った。
穂香はまた、灰色の夢を見る。
広い世界に取り残されたようなものではなく、狭い小屋に押し込まれた気味の悪いそれは、物心がつく頃から見続けている。
年々視界が広がり、近くにあるものを認識できるほど明白になっていった。これが夢だと気付くたびに穂香は落胆した。明晰夢なんて見たくなかった。どうせならもっと楽しいものが良かったと、何度思い、願ったことだろう。
ただこの日は、珍しく雨が降っていないことが気がかりだった。静まり返った小屋に押し込まれ、屋根と壁の隙間から漏れた光に手を伸ばす。生い茂った木々の隙間を縫うように、半分に欠けている月が顔を覗かせる。灰色一色で染まるのに、その月だけが輝いて見える。
「お月さまが見てくれているから」
きっと大丈夫。――隣でそう言ったのは、誰だっただろうか。