金曜日、深夜までかかった残業は体力を奪い、心を蝕む。
終電に乗り合わせるのは酔った客。乗り換え客待ちの停車。危うく踏みかけるゲロだまり。
お腹は確かに空いているが、じゃあ食べたいかというと食べたくない。寝たい。
どうせシャワーすら浴びられないのだ。すぐに、寝たい。
『深夜の入浴、洗濯はご配慮ください』だかなんだかという手紙が、管理会社から全戸配布されたのは1週間前。言われなくてもそんな時間にシャワーを浴びることはないし、シャワーを浴びられないことに不満はない。しかし、水回りについて注意されたとなると、トイレに行くのさえ気をつかう。だから、駅で済ませてきた。
完璧だ。後は寝るだけ。早く、寝たい。
疲れ果てているからだろうか、コンビニの前にバリアがあるように思う。店内から外には出られるだろうが、外から店内には入れない、そんなバリアが。
強烈なバリアを感じながら、コンビニを素通りした。
揚げ物五十円引きセールがなんだよ。昼ごはんを買う時ならば「やった、じゃあついでに春巻きひとつ」なんてくらいつくのぼりが、今はただの布切れでしかない。
コンビニ以外の店はほとんどが閉まり、人はもちろん車もまばらだ。
ああ、またバリアだ。あの煌々とした光はバリアだ。あんなところにコンビニはあったか?
あそこへ行けば、寄り道になる。最短最速で家に帰ることはできなくなる。けれど、吸い寄せられるように光る方へと足を運んだ。光源はなんと、駄菓子屋だった。
子どもが人っ子一人いない、大人だけの駄菓子屋だった。
鉄板では粉気しかないもんじゃを焼いていて、丸椅子に腰掛けたオッサンが瓶コーラをぐびっと飲んでいる。
駄菓子をつまみに、一杯やっている。
「おう、一緒にどうだい? ほらほら、そんな荷物を持って突っ立ってないで。ほら。おいで、おいで」
誘い口調はオッサンらしかったが、そのテンションはまるで小学生だった。いや、幼稚園児といってもいいかもしれない。
なんだっけ? 沖縄の人が言うところの、イチャリバチョーデー、だっけ? そんな感じ。初対面であるのに、友だちのような。
まったく疑っていない。この時間に危険人物がうろついている可能性を考慮していない。
もっとも、自分で言うのもなんだが、私は危険臭がするような身なりではないし、社畜臭を醸す人間でしかないのだけれど。
「え、ああ」
「おいおい、シャキッとしろよ」
いやいや、てっぺん回ってるんだからシャキッとしてないでバタンと寝た方がいいのでは。そんな考えはオッサンに押し付けられたオレンジジュースと共に飲み込んだ。
オレンジジュースなんて、飲むのいつぶりだろう。
いや、そんなに遠い過去ではない?
ああ、もう、頭が回らない。
あっちのオッサンはもんじゃをくれて、そっちのオッサンは酢だこをくれた。
もらってばっかりだ。
「あら、珍しい。お若い方が来るなんて」
「あ、すみません。お邪魔してます」
「誰に引き摺り込まれたの?」
「引き摺り込まれた?」
「だって、そうでしょう? みんな、その辺歩いている人見かけると声かけるのよね。それで、なんでだか私にはわからないけれど、結構よく釣れるのよ」
「釣れる……」
なかなか個性的な――彼女はなんだ? 駄菓子屋となると、ママではないよな。店主、でいいのか?
丸椅子に腰掛け、懐かしの駄菓子を口に放り込む。
大人になってからは、買うのに少しの恥ずかしさがあって、だからもらった時しか食べていない。
この安価な菓子は、こんなにワクワクするものだったか?
心が若返っていくような感覚。たった数十円の積み重ねで、どんどん心が軽くなっていくような。
「昼間は子どもたちがいるから、大人は入りにくいでしょう? それで、金曜日の真夜中は、大人専用で開けるようになったの。大人専用って言っても、お酒はないわよ? だって、お酒なんて飲んだら、せっかくの駄菓子屋さんが台無しでしょう?」
ふふ、と店主が微笑んだ。
とん、と置かれた瓶コーラ。ご丁寧に栓が開いている。
くっと傾け、ゴクンと飲んだ。
いやいや私ゃ缶コーラ世代なんですけどね、などと思うが、言葉と共に、コーラを飲む。
多分、腹の中にいた時の朧げな記憶なんだろう。いや、もっと昔だろうか。ご先祖から代々引き継がれた記憶なんだろうか。
なぜだか不思議と、この口当たりが懐かしい。
「お、そのラーメンおつまみ、入れようぜ」
粉気しかないもんじゃに、カリカリにされたラーメンのかけらが放り込まれた。結局、粉気ばっかりのもんじゃだが、たまらなく美味い。
名前も知らないオッサンたちと、ヘラでジュウジュウ焼いて食べた。
どうでいいことを語っては、ゲラゲラと腹を抱えて、涙が出るほど笑いながら、ヘラでジュウジュウ焼いて食べた。
なぜだかふと、修学旅行を思い出す。
たしか、高校生の時だ。自由行動の時に、男ばっかりでお好み焼き屋に行って、もんじゃも食べたんだ。
お好み焼きは食うだけだった。でも、もんじゃは違かった。
焼くのがエンターテイメントだったんだ。
食べるだけではなく、焼く時間すら楽しかった。
お前の食い方なんだよ! って突っ込まれて、これが普通だろ? なんで反論したけど、自分の食べ方はもんじゃを味わいきれていないことに気づいたのもあの時だった。
アルコールなんて一滴も飲んでいないのに、ほろ酔いだった。
見上げた夜空は笑っているように見えた。
疲れ果てていたはずの体は、眠ったわけでもなんでもないのに、やけにスッキリしている。
今日は、このままでいい。
シャワーを浴びることができなくても、体の汚れは落とせなくても、心はスッキリと晴れていた。
家に帰るなりベッドに飛び込んだ。深夜を彩る、幸せな夢。
翌週、付き合わされて飲み会に行ったら終電で帰るハメになった。
私はせっかく深夜なのだから、あの駄菓子屋に寄っていこうと思った。金曜の夜限定と言っていた。今晩もきっと、釣り糸が垂れているはずだ。
確か、この辺りに。そう思って彷徨いてみるも、どこにも駄菓子屋はなかった。オッサンの代わりに私を釣り上げたのはおまわりだった。ぐるぐると同じような場所を歩き回っているその様が、不審者に見えたらしい。
おまわりに駄菓子屋のことを聞いてみたが、「飲み過ぎですよ」と呆れられただけだった。
その夜、駄菓子屋でもんじゃを焼くことも、瓶ジュースを飲むこともできなかった。
酒臭い体のまま、ベッドに飛び込む。悶々とした気分は、幸せな夢など見せてくれない。
くだらないテレビを垂れ流しながら、アルコールが残ってガンガンする頭を出来る限り回した。
どうして、どうして忽然と消えたのだ。
あの駄菓子屋は、どうして――。
『昼間は子どもたちがいるから、大人は入りにくいでしょう? それで、金曜日の真夜中は、大人専用で開けるようになったの。大人専用って言っても、お酒はないわよ? だって、お酒なんて飲んだら、せっかくの駄菓子屋さんが台無しでしょう?』
店主の言葉が、脳みその中でふわふわと踊った。
ああ、そうか。あそこに大人は入れない。違う。きっと、お酒を飲んだ奴はお断りなんだ。
シラフの大人だけに入店が許される、不思議な不思議な駄菓子屋なんだ。
残業後の飲み会を断るのはなかなか難儀だ。
「えぇ、金曜日ですよぉ、飲んでいきましょうよぉ」
「付き合い悪いですってぇ。彼女さんがいるわけでもないくせにぃ」
「愚痴のひとつやふたつ、あるでしょ?」
酒の席に誘ってくれる人がいるというのは幸せなことだろうが、その幸せを投げ捨ててでも、私はまた、駄菓子屋に行きたかった。
金曜日の真夜中でないと開かない、あの、不思議な駄菓子屋に。
日付が変わるまで、私は夜の暇つぶしをした。
駅前で、公園で。ストリートミュージシャンの魂を受け止め、そして心ばかりの銭を投げた。
彼らの魂は、プロミュージシャンのそれが上菓子とするなら、駄菓子だ。洗練された風味はない。けれど、だから、うまい。
聴いていたミュージシャンが演奏を終えると、次のミュージシャンを探し移動した。駅へ向かう人の流れが途切れ、ミュージシャンを見つけることができなくなった頃、私は目的の場所を目指し、ふらり歩いた。
歩いて、歩いて――。
おまわりにチラリと見られるも、職務質問の対象からは外してもらえたようだ、すぅっと駆けていくその背中を見送り、また歩く。
見つけた光源。あれは――。
「なぁなぁ、一緒にもんじゃ食わねぇか?」
私は、釣られた。
ラーメンおつまみだけではなく、珍味を入れたりもした。アルコールなんてないのに、酔っ払っているんだか、麦チョコを放り込んだオッサンがいた。
マジかよ、んなもんぜってぇ不味いだろ。
そう思ったけど、なかなかいけた。
ふふふ、と微笑む店主を見るに、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。あのオッサンは麦チョコを放り込むから、その時は出汁を変えるとか、そういう工夫が。
神の舌なんて持っていないから、食べただけでは分からないけど。たぶん、きっと、そう。
飲み屋に行けば、愚痴が溢れる。「あーやってらんねぇなァ」なんて毒が漏れて、聞いた人の心に毒が纏わりつく。どんどんと伝播、増殖していく。
しかし、ここには、毒がない。
ワイワイと駄菓子を開けて、口に放り込んで、ジュウジュウともんじゃを焼いて。
「ちょっと聞いてよ、誰々がさ」なんて話をするけれど、それはすごいことであったり、かっこいいことの共有であって、誰かを貶すものではない。
なんだろう。この、不思議な感覚は。
駄菓子屋にいるから、みんな揃って童心に帰っているのだろうか。まぁ、駄菓子屋で部長の愚痴なんて言ってられないよね。愚痴を言うなら、先生のって感じがするもんな。
先生?
先生といえば、中学校の時、先生に説教されたなぁ。もしも愚痴を吐くとしたら、あのエピソードが一番だと思う。
正門まで回るのが面倒くさくて、裏門を飛び越えて校内に入ったら……叩かれたような気がするけど、気のせいか?
っていうか、説教っていうより、注意だったんだっけ?
歳をとったせいだろうか、記憶が曖昧だ。
あれに勝る先生の愚痴なんて無いはずなのに。
「何飲む?」
「え?」
「え、だって瓶、空っぽじゃない」
店主に声をかけられて、ようやくコーラがないと気付いた。前はこうして聞かれたっけ? 勝手に出てきたような気がするけれど。
前?
そう言えば、以前ここにきた時は、お会計とかどうしたんだっけ。もしも払わずに去っていたなら、今請求されているだろうから、多分ちゃんと払ってはいるんだと思うけれど。
何かが違う。
同じように見えて、感じられて、でも、何かが。
「オレンジジュースが、飲みたい、です」
「はーい。持ってこようね」
シラフだ。酒なんて飲んでない。でも、頭がクラクラする。
隣に腰掛けた店主が肩を貸してくれた。よーしよーしと撫でられると、いっそう心が幼くなる。
これは、母さんにしてほしかったこと。
だけど、母さんにしてもらえなかったこと。
よーしよーしと撫でられるうち、目が痛くなった。鼻から空気を吸おうとしたら、ズズッと鳴った。
あれ――私はなぜ、泣いているのだろう。
もはや、童心に帰っているというよりも、脳みそが退化しているような気さえする。
このまま、ここに居ていいのか。
少し、怖い。
「今日は、泊まっていく?」
「……え」
「みんな、奥で寝てるけど」
指の先が向く方を、視線で追った。
オッサンたちが、ゴロゴロと寝ていた。
「い、いや。私は、帰ります」
「あら、そう……。残念だけど。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「あの、お代は」
「もういただいているわ」
朝、目覚めるとすぐ、私は駄菓子屋での出来事を思い出し、記憶のカケラを繋ぎ合わせはじめた。
ところどころ曖昧ではあるけれど、それでも確かにそれらしい記憶はある。あるのにどうしても、お代を払ったという部分だけが見つからなかった。
払った?
いつ?
どうやって?
記憶がないのが、気持ち悪い。
ストリートミュージシャンへの投げ銭は、いちいち帳簿をつけたわけではないから、把握していない。
だから財布の中を見ても、駄菓子屋で代金を払ったか否かを判断することはできなかった。
モヤモヤするけれど、どこかスッキリもしていた。心に引っかかっているのはお代のことだけで、あとのモヤは晴れていた。
今なら毒なんて気にせずに飲み会に行けて、どんな愚痴でも聞いてやれる気がした。
心にバリアを張って、聞ける気がした。誰かの毒を受けたところで、私自身が蝕まれることはなく、誰かの毒を解ける力を持っているように思えた。
土曜の朝は、学校がないからだろう、街の中に子どもの声がよく響く。
元気で何より。
そうだ、昼間の客はこの子らだろう。子どもばかりの場に行くのは少々勇気がいるが、店に行って記憶のカケラを埋めようと考えた。
店主に聞けばいい。それだけだ。
あの時は頭がクラクラしていたからか、ちゃんと聞けなかった。今なら聞ける。頭がはっきりしているから。
街の中をくるくる歩いた。
駄菓子屋は何故だか見つからない。
代わりに見つけたのは、私の幼少期には既に過去のものと化していた紙芝居屋だった。
今時の子供たちには面白みに欠けるのでは? などという考えは要らぬものだったらしい。集まった子供たちは、キラキラと目を輝かせながら駄菓子と話に齧り付いている。
『オモイデクライ』
私は遠く、語りが聞こえるギリギリの場所から、その紙芝居を楽しんだ。そして、気づき、笑った。
お代というのは、そういうことか。
私は、喰われたのだ。あの駄菓子屋に、暗い記憶を。
真昼の紙芝居屋に行った後から、真夜中の駄菓子屋には行けなくなった。酒を飲んでいなくても、私の目には見えなくなってしまったのだ。あの、不思議な夜の楽園が。
オッサンと語らうことができないのは残念だが、私は家でひとりもんじゃを焼いては、オモイデごと喰らうようになった。
瓶入りジュースは簡単に手に入らないので、缶ジュース。だけど、もんじゃには麦チョコを放り込んだりする。
そうして、ジュウっと過去を焼いて喰らう。
ああ、あの出来事を、消化したい――。
ヘラを鉄板に押し付けた。
パリッと焼けたそれを、口に運ぶ。
自分一人でやるこれに、効果があるかはわからない。
きっと、プラセボなのだろう。
それでもいい。
喰らってもらえないのなら、自分で喰らってしまうのみ。
アツアツのもんじゃが、舌を焼いた。
痛みは甘い記憶を引き出し、苦い記憶を焼き消した。
もう、コンビニの前にバリアはない。
残業しようが何をしようが、駄菓子屋同様、バリアを見ることは無くなった。
モヤモヤとした感情は、もんじゃに込めて、焼いて喰らう。
そうして私は、晴らしてきた。
しかし、何事もなく過ごす人生など、おそらくない。
プラセボで晴らせないことも、時に起こる。
一世一代と言っていい、告白の夜。私はもんじゃセットをカゴいっぱいに買った。
どれだけ焼けば癒えるか分からないほどに、大きくて深い傷を埋めるためにだ。
ぷらぷらと袋を揺らしながら歩いた。
ぼーっと足の少し先を見ながら歩いた。
ぼわりと包み込むようにあたたかい光を感じて、視線を上げた。
そこにはあの、最近はたどり着くことができなくなった駄菓子屋があった。
「おい、何持ってんだ?」
オッサンの釣り糸が垂れる。
「ああ、もんじゃセットです」
「ひとりで食うのか?」
「そのつもりでした」
「どうせ食うならみんなで食おうぜ? ほれ」
差し出されたオレンジジュースを、受け取るために踏み出した。
――疲れてんだな。傷ついてるんだな。すごく。でなけりゃ釣られなかった。きっと、釣ってもらえなかった。
ひとりで焼き切れないだろう、膨らんだ想いを焼き喰らう。
誰かと一緒だと、泣けないからいい。
ただ、悲しみに堕ちていくだけではないところがいい。
堕ちようとすれば、釣り糸の先についた、痛みのない針につつかれる。
それを握りしめると、水面まで連れて行ってもらえるんだ。
プハーッと息をすると、また生きられる。前を向いて、生きられる。
暗い過去を消化して、再び未来へ歩き出す。
オッサンにまた会いたいけれど、会えないほうが、たぶん幸せ。
だから、願う。
――今日もまた、駄菓子屋へ行けませんように。
〈了〉