「い、行きません!」
「美凰……」
「私のような平凡な女子には恐れ多すぎます。そ、それに……私は秀快のこと、なんて……」
好きじゃない、と言おうとしたのに言えなかった。まるで声の出し方を忘れたかのように。
嬉しい、嫌い、怒りなどの色々な感情が複雑に混ざり合いながら、胸に流れてきたせいで……。
「とにかく、私は秀女選抜に出ませんので、ご冗談はよしてください」
そう言い捨て、その場を去る。
そのまま、叔母に会いに行こうとすると、声を掛けられた。
待っている、と。
――秀快の秀女選抜の日――
美凰がいたのは、秀快の秀女選抜が行われる碽貴妃の住まう宮・長春宮―――ではなく、徐昭儀が住まう祷容殿である。祷容殿は歴代の寧妃が住まう永和宮の中にある。
常ならば、叔母と会えたことによって機嫌が良い美凰なのだが、いかんせん今日は不機嫌だ。その理由は、叔母が秀快の秀女選抜に出すために、あれやこれやと美凰を着飾らせているためである。
(叔母上ったら、話が違うじゃない!珍種の茶葉があるというから来たのに……!)
先日、人一倍、茶に対して愛着が強い美凰の元に文が来た。
『郭姐から異国の茶葉を頂いたのよ。今度、一緒に飲みたいから会いにいらっしゃい』
郭姐とは、父である徐 達の親友・郭兄弟の妹、郭寧妃のことである。
寧妃といえば、十二妃の最下位、昭儀の一つ上の位だ。
身分の差はあるが、兄同士が親友の郭寧妃と徐昭儀は同時期に宮中入りし、同じ殿舎に住んでいるということもあって仲が良い。
徐昭儀は子がいないため、郭寧妃の二人目の娘・汝寧公主を養女にもらっているのも、二人の仲の良さがうかがえる。
後宮では、年上の女性を姐姐、年下の女性を妹妹と呼ぶものだ。だが、姉妹ごっこの裏で、互いが互いを陥れるため、卑劣な奸計の爪を研ぐ。
そのため、郭寧妃と徐昭儀の仲の良さは稀有である。
「妹妹、美凰、久しぶりね」
「郭姐、来てくれたのね。美凰の嫁入り支度を少し手伝ってくれない?」
「叔母上!?私は嫁に行きませんよ!」
「それは駄目よ!」
叔母上が何か言う前に郭寧妃が強く諭してくる。嫁に行かないなど論外だと。
「そうよ、郭姐の言うとおりだわ!それに、燕王殿下はそなたを好いているのでしょう?」
「誰からそんなことを……」
「阿蘭からよ。燕王殿下から熱烈な求婚を受けたそうじゃないの、青春ねえ」
「そうではなくて!阿蘭!どうして言ったのよ!」
阿蘭は幼いころから仕えてくれている美凰の腹心の侍女だ。王家の娘で、父の王 溥は主上も一目置くほどの軍の実力者である。
「美凰さまが燕王殿下に求婚されたのですよ!誇らしすぎることですよ!」
「阿蘭?誰にも言わないでって言ったわよね?それに、私は秀快に嫁がないから」
「そうは言っても、昔から親しい燕王殿下が誰か他の女人を娶ったら寂しくないの?」
徐昭儀が心配そうに問いかけてくる。
「それは……別に、寂しくないです」
そのころの長春宮はというと、―――
「燕王殿下の秀女選抜がされて、ようやく碽貴妃さまが肩の荷が降りるでございましょう。こんなに賢くお育ちになられたのは、碽貴妃さまの教育の賜物ですわ」
「ええ、全くですわ。燕王殿下に嫁げる娘は果報者ですわ」
「ご立派な皇子さまをお産みになられた碽貴妃さまが羨ましいですわ」
秀女選抜に参加する女子の母親たちが碽貴妃に媚びを売り、女子たちは王妃の座を得ようとしている。
だが、その中に恋しい人はいない。
(なぜ来てくれないのだ、美凰)
「そろそろ、始めてはどう?」
「もう少し、ゆっくり決めたく思います」
(あと少しだけ待ちたい。美凰が来るのを)
「そうね、そなたの妻たちになるのだから、じっくりと考えるのも良いでしょう。王妃には張氏を選びなさい。父親である張 玉殿は、主上も大変評価なさっておられるから王妃として釣り合うわ。良妃、静妃などの上級妃には、喩氏、楊氏、李氏、劉氏になさい。その他の者は、下位の位であれば何でもよいわ」
碽貴妃は良家の娘たちを見て、満足そうにしている。
しばらくたった後、碽貴妃は飲んでいた茶杯を几案に置き、急き立てた。
「秀快。もう、良いでしょう。そろそろ始めなさい」
「ですが、……」
「始めなさい」
有無を言わさぬ声音で言われる。
「はい……」
秀快は、ちらりと回廊の方に目を向けた。しかし、求めている姿は見えず、諦める。
如意を手に持ち、張氏が立っている目の前まで行くと、母妃が頷いているのが見えた。
張氏に如意を与えようとした、その時――
「――さま!お待ちください!」
回廊の向こう側から、侍女らしき者が誰かを追いかけているようだ。
その〝誰か〟は、真っ直ぐこちらへ向かってきている。
春風に舞う桜の花びらが彼女の訪れを歓迎するかのように、背景を桃紅に染めえている。
秀快は微笑を浮かべ、張氏が如意を受け取ろうと伸ばしている手をかわし、訪れた彼女の名を呼んだ。
「美凰」
美凰は応えるように微笑んだ。
それから、碽貴妃の御前まで行き、両手を左腰にあてて軽く膝を折る万福礼をした。
「貴妃さまと燕王殿下に拝謁いたします」
「楽になさい」
「感謝いたします、貴妃さま」
碽貴妃が声をかけてはじめて、美凰は万福礼の姿勢をとく。
宮中の規則では、上位の者が許可を出すまで敬礼し続けなければならないのだ。
「徐氏、なぜ来たのかしら?今日は燕王の秀女選抜ですよ。昭儀の位の妃しか輩出することができない徐家の娘が、この場にいるなど身分不相応ではなくて?」
徐家は明の建国を共にしてきた家柄で名家なのだが、どうやら叔母の地位の低さで貶めるつもりのようだ。
「母妃、私が……」
「お黙り!私は徐氏に問うているのよ」
嫌悪感を隠そうともしない様子に、まともに話しては無駄だと悟る。
ならば、攻めるしかない。
「確かに本来ならば、私が居て良いような場所ではありません。しかし、今回、私が参りましたのは貴妃さまのお命が懸かっておられるからです」
「あら、そんなことで私を脅すつもりかしら?」
「いいえ、滅相もございませんわ。先日、皇后さまが崩御なさり、主上は大変心を痛めておられます。主上は亡き皇后さまの葬儀と共に、殉葬する者を選んでおられるのです。候補者が誰かご存じでございますか?」
美凰は貴妃の怒気をさらりとかわし、淡々と話を進めて行く。
「誰であろうと、私には関係ないことです」
吐き捨てる碽貴妃に向かって緩く首を振る。
「確かに貴妃さま自身には関係ないのでございますが、全くの無関係かと言われれば、そうではありません」
怪訝そうな顔を振り仰ぎ、言葉を発する。
碽貴妃、燕王は唖然とした表情で固まり、他の者たちは二人の様子を窺いながら口を閉ざしている。
「嘘……嘘だわ……」
「偶然、主上が話しているところを聞いてしまったので、間違いないかと……」
「噓よ!私の公主が……盈容が、殉葬だなんてありえないわ!」
そう言うなり、茶杯を床に投げつける。茶杯は床に叩きつけられたのと同時に粉々に砕け散った。
「お静まりを。激しては身体に毒でございます」
「我が公主が殉葬されそうな時に、落ち着いていられるものですか!あの女、死んでもなお私を苦しめ続けるだなんて!」
盈容公主は碽貴妃の娘で、燕王の妹だ。身体の状態によって、最後の懐妊だろうと太医に診断された碽貴妃が命懸けで産んだ子で、碽貴妃は盈容公主を掌中の珠として大事に育ててきた。
「ぐずぐずして居られないわ。盈容を早く逃がさなければ……!」
「それはなりません」
「何ですって!?我が公主に死ねというの!?」
ぱんと乾いた音が響く。碽貴妃が美凰の頬を引っ叩いたのだ。
「公主さまを逃がしてはいけませんと言いましたが、死ねなどとは一言も言っておりません。なぜ、私が公主さまを逃がしてはいけないと申し上げるのかお分かりになりませんか?」
「無礼者!田舎娘のくせに貴妃に向かって何という口の利き方なの!?」
「気分を害されたのであらば謝罪します、申し訳ございません。ですが、公主さまを逃がしてしまえば、碽一族は宗室に歯向かったとして誅殺されるでしょう。そうなれば、一族のみならず燕王殿下や貴妃さま、しまいには公主さまも探し出され殺されてしまいます」
「ならば……どうしろと言うの?我が子が殺されるのを黙ってみろというの……?」
「私に良い考えがございます」
虚ろな目がこちらに向く。
「公主を、盈容を、……救えるの?」
「もちろんでございます」
「分かったわ。公主を救うのが最優先よ。悪いけれど、秀快の秀女選抜は後日行います」
――乾清宮――
「主上、貴妃さまが御目通り願いたいとおっしゃられています」
「貴妃が?通してやれ」
皇帝付き首席宦官は、はい、と返事して扉の方へ行き、碽貴妃を入れる。
「主上に拝謁いたします」
「楽にしなさい」
「感謝いたします」
「貴妃よ、どうしたのだ?昨日訪れたというのに、もう余が寂しくなったのか?」
碽貴妃の腰に手をまわして引き寄せながら冗談交じりに言う今上帝は、御年四十八。名は朱 元璋。字を国瑞というが、勅命で発せられた元号洪武を冠して洪武帝と呼ぶのが通例である。
鍛え上げられた長軀はもうすぐ五十路になるとは思えないほど筋骨たくましく、その身にまとう五爪の龍が縫いとられた龍袍は明黄色。これはもっとも尊貴な禁色であり、皇帝と皇后、太上皇、皇太后、無上皇、太皇太后しか身にまとえない。
「もちろん、寂しいですわ。主上には少し離れてしまっただけで、お会いしたくなりますもの」
「ならば、今夜もそなたの元を訪れよう」
「まあ!嬉しいですわ!お待ちしておりますね。ですが、今日参りましたのは、主上にお願いしたき事があるからですの」
上目遣いをしながら甘ったるい声で囁く碽貴妃に、言ってみなさい、と顔を綻ばせて促す主上。
「先日、皇后さまが崩御なさいました事がとても悲しく、皇后さまのために何かできることはないかと思いましたの。それで、お願いがあります。娘の盈容を殉葬したいのです」
「盈容を?そなた良いのか?」
「もちろんです。それに、盈容だけでなく他の公主たちも皇后さまに恩をお返ししたいと言い、殉葬を願っております」
碽貴妃の言葉に、頭を押さえて呻く主上。
「主上!いかがなさいました!?誰か!太医を呼んで!」
「大丈夫だ……」
「主上――」
お休みになられた方が良いのでは、と言おうとした碽貴妃は息を吞む。床にはらはらと落ちるしずくを見つめて。
「主上、泣いておられるのですか……?」
「ああ。余の皇后が公主たちから慕われているのが嬉しくてな……」
先日、病により五十歳で崩御した皇后馬氏は洪武帝の最愛の妃だった。彼女は聡明かつ慈愛に満ちた献身的な女性で、夫である洪武帝を助けた。明の建国に伴い皇后に冊立されたが、皇后となっても驕ることがなく、贅沢もほとんどしなかった。長年、支えてくれた馬皇后が崩御したことを知った洪武帝の悲嘆は相当なもので、しばらくの間は身もだえして慟哭し、立ち上がることすらできなかったという。
「皇后さまの御恩は計り知れません。公主や皇子たちはたくさんの愛情を注いでもらったのです。皆が慕うのも当然のことでしょう」
「貴妃の言う通りだ。慈愛に満ちた皇后は皆に愛情を注いだ。そなたのおかげで皇后との約束を思い出せた。礼を言う」
「恐れ多いですわ」
「謙遜するな。皇后の病が分かった時に交わした約束を忘れずに済んだのだから」
「約束……とは?」
「もしも亡くなってしまったら、葬儀には気持ちを添えてくれるだけで良いから派手にしないでほしい、と言われたのだよ」
馬皇后は建国されたばかりで不安定な明の財政を憂い、莫大な費用がかかる葬儀を縮小するように頼んだ。
臣下たちは宗室の威厳が損なわれるとして反対したが、馬皇后は民たちが苦労して国の基盤を作ってくれているというのに国母たる私が贅沢などできようかと言い返し、臣下たちは皇后さまは英明なりと讃え、ひれ伏したという。
「皇后が亡くなった悲しみのあまり、約束を忘れてしまうとは……余は愚かなものだ。皆の殉葬は取りやめよう」
「主上……」
「殉葬は……皇后が望むものではないだろう。代わりに牡丹を添えてやってくれ。喜ぶであろうから」
「かしこまりました」