1、いつもの純白世界
どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しいーーこんな自分のことが大嫌いだ。
六月上旬、梅雨で街が湿気を帯びている今日も私は学校へ行かなければならない。入学して約二ヶ月になる高校にはいつになったら慣れるのだろうか。ベットで仰向けになったまま天井を見つめる。今何時だろうか。手でスマホを手繰り寄せて時間を確認する。五時四八分。もう起きてから一時間経ったのか…。五十分の授業はとてつもなく長く感じて、何度も教室の掛け時計を見てはため息をつきそうになるのに、こうやって好きでぼーっとしているとあっという間に過ぎていく。本当に同じ速さで時計が進んでいるのか不思議に思うくらいだ。二度寝をして学校に遅刻してはいけないので、念の為スマホのアラームを設定してまた瞼を閉じる。

気づいたらいつもの部屋にいた。白い床に座り、白い壁にもたれかかっていつも通りに三角座りをしていた。横を見れば、外の景色が見える大きめの窓がある。座っていると空と木の頭の方しか見えない。
しばらく空を眺めていたが、白い鳥が二匹飛んできたのが見えたので立ち上がり窓に近づいた。そこにはきれいな白色の芝生が広がっていてところどころにパステルカラーの絵に描いたようなお花が咲いている。少し右に目線を逸らすと二メートルほどの太い木が一本だけそびえ立っている。佐原世奈の目にはいつもその木が堂々としていて、迫力があって羨ましく思う。
「私もそんな風に堂々と生きていたい」
真っ白な空には、わたあめのような可愛らしい雲がいくつか浮かんでいた。
ほとんどのものが真っ白だけど、眩しい白さじゃない。優しく、世奈を包んでくれるような、そんな温かい不思議な色をしている。
外から目線を外し、部屋を見渡す。この室内には何もない。机や椅子、電気さえもない。でもどこからかひとつの光が窓から差していて、部屋は十分に明るい。
窓の数歩右に言ったところには、真っ白な部屋には不似合いなボロボロの分厚い青色のドアがある。鍵穴はあるが鍵はかかっていない。少し錆びついている銀色のドアノブに手をかける。右に回して引くと、ギギギッと音を鳴らして外の光がさらに入ってきた。
あたたかい風が世奈の黒くて長い髪と純白のワンピースをなびかせた。裸足のまま一歩前に足を出す。芝生が少しくすぐったい。普通なら靴を履かなければいけないけれどこの世界では履かなくていいことが嬉しかった。いつもの世界のルールを守らなくていいということが世奈の心を自由に連れていった。足裏の慣れない感覚を不思議に感じながら二羽の白い鳥がとまっている木のもとへ走り出した。

ブーブー、ブーブー。六時一五分を知らせるアラームが鳴った。
終わっちゃった。スマホの停止ボタンを押して、また天井を見つめる。
アラームがなる数秒前にタイムオーバーとでもいうかのように、木に向かっている途中で一気に地面が沈んで暗闇に落ちた。いつもそう。木に辿り着けたことがない。二羽をもっと近くで見てみたいのに。あんなに綺麗な世界だからあの二羽もすごく綺麗なんだろう。
まだあの世界に居たかったなぁ、と残念に思いながらも、仕方なく起き上がってベッドから降りる。家族はまだ寝ているから音を立てないように制服を着て、髪を解かしてひとつに結ぶ。歯磨きをして、キッチンへ。水筒に水を入れ、パンが入っているカゴから適当にメロンパンを取り出し、またすぐに部屋に戻る。山積みになった本を横目で見ながら椅子に座る。メロンパンの袋を開けて食べながら、スマホを弄る。月曜日だからか、「憂鬱だ」「雨の月曜日」「学校行きたくない」などといった言葉が画面の中に溢れている。私もそう思っているかと言われると、半分そうで、半分そうじゃない。学校は息苦しいから行きたくない。かといって家も好きじゃなくて、息苦しい。だから学校が休みだろうとなんだろうとずっと息苦しいのだ。特に平日にある祝日は余計に家に居たくないけれど両親は共働きで大体家にいないから、小学生の妹の面倒を私が見なくてはならない。お昼ご飯を作ったり、洗濯物を取り込んだり、宿題を教えたり。正直言って面倒くさい。長女だからといってなんでこんなことをしなくてはいけないのだろうか。
「お姉ちゃんにやってもらって」「お姉ちゃん、よろしくね」
今まで私に向けられた言葉が脳内で反芻する。呆れるほど聞いた言葉。そんな類の言葉を聞くたびに胸がモヤっとする。どうして、私ばっかり。
「テスト満点じゃない!そらはすごいね〜」「あおいは絵も上手いなぁ」
私は何もしても褒めてもらえない。今までの記憶を掘り起こしても褒められた記憶なんかほとんどない。どうしてなんだろう。妹はほめてもらえるのにどうして私だけ。
窮屈だ。この家も、あの教室も、捻くれたこの心も、全部。

2、灰色のキャンバス
七時になったら重いリュックを背負って家を出る。途中のコンビニでサンドウィッチを買い、最寄りの「かなしま駅」へと向かう。満員電車が嫌いだから、いつも混み合う時間の二本前の七時二三分の電車に乗って学校へ行く。と言っても、いつも椅子は全部埋まっていて、数人が立っている状況だからすごく空いているっていうわけでもない。満員電車よりはマシか、と思いつついつも通りに私はリュックを前に背負ってドアの近くに立つ。
ああ、今日も心が重いな。
「まもなく一番線乗り場、さやき行き普通列車が出発します」発車を知らせる駅員さんのアナウンスがホームに響く。
電車が発車して、いくら進んでも変わらない灰色の雲で覆われた空が私の心を表している様に見える。白でも黒でもない。灰色。正義でもなければ、悪でもない。一番厄介な中途半端な位置にいる私は、白や黒の人から見ればきっとめんどくさくて、鬱陶しい存在だろう。
真面目に授業やテストは受けているけれど、授業中に発言をしたり意見を言ったりができないから意欲点が低くて『良い成績』にはあと一歩及ばない。 もし答えを間違えたら?的外れなことを言ったら?笑われたら?そんなことが頭にいつもよぎって結局手を挙げれずに、口を開くことなく一日が終わる。
自分のことを優秀だと思っているから、間違ったり失敗したりすることを恐れているのだろうか。そんな優秀なわけがないのに。変なところでプライドが高い自分が嫌いだ。
誰に話しかけられても、やっとのことで出した声は相手には聞こえているかどうかわからない声量しか出せない。もっと大きな声で言おうと思っているのに、喉が閉まっている感覚がずっとあってオドオドしている人になる。そしてその度に「またやってしまった…」とひとり反省会が始まる。そんな自分が嫌で仕方がなくて呆れてしまう。
他にも何かが嫌で、鬱陶しくて、うんざりしている。その原因を見つけることができたら、心を守るための対処法を考えることができるかも知れないけれど、考えても考えても「わからない」しか出てこない。
なんで何も出てこないの。なんで私はこんなにモヤモヤしているっていうの。なんで、なんで。
ほら、またこうだ。またこうやって「なんで」しか言わない。
自分の声で繰り返される「なんで」という言葉と空回りしている思考を止めるために、リュックの前ポケットからイヤホンを取り出して耳に押し込んだ。
スマホでミュージックアプリを立ち上げ、お気にいりの曲をタップすると、イントロのピアノ音が聞こえてくる。端末から線をつたって、まるで別世界にいるような女の人の儚い心地よい高音が聞こえてくる。そんな声に反して今の社会に反抗するような歌詞が耳に響く。電車の揺れを感じながら、曲に集中するために目を閉じた。

「まもなく、はなしま、はなしま。傘のお忘れ物にはご注意ください」
スーツや制服を着ている人を早歩きで通り抜けて階段を降り改札機に定期をかざす。
ピッと鳴るこの機械はどんな気持ちなのかな。機械だから感情なんてないのかもしれないけれど、たまに生き物じゃないものに対してそういうことを考える。雨に当たりながら光る信号機は、人を乗せているバスは、線路と道路を分ける黒いフェンスは、あの灰色の雲たちは。
高校生にもなってこんなことを考えていると知られたら、周りの人はどう思うだろうか。バカにされて笑われるだろうか、陰口を言われるだろうか、いじめの標的になってしまうだろうか。
いじめられるか、いじめられないか。私の世界は基本白か黒でできていて、心はいつだってその間の灰色。自分でも選択肢が少なくて視野が狭いと思っている。でも、できるだけ白がいい。黒にはなりたくない、その方向に行きたくない。私だって、笑ってたい。楽しく毎日を過ごしたい。でも、無理だ、無理だよ。いつから私の持つ絵の具は白と黒しかなくて、選ぶことができるのはその二色を混ぜることだけになったんだろう。どうして私のキャンバスは灰色だらけなんだろうーー。

3、白紙の未来図
ひんやり冷たいドアに手を掛けて教室に入る。黒板上の掛け時計を見ると八時を示している。いつも通り。他のクラスにはすでに数人いるみたいで話し声が聞こえてくる。それに比べてこの静まりかえった一年三組の教室にはまだ私一人だけ。後ろのドアから入ってそのまま一番前の席に行って思い出した。
「あ、そっか。昨日席替えしたんだった」
少し後ろに戻って教室の真ん中に置かれた席に着いた。水滴がついたリュックから教科書とノートを取り出して机の中に詰め込んでいく。あと十五分もすれば人が増えてくるから、それまでは私だけの空間。ザーザーと心地よい自然音を聴きながら、ホームルームが始まるまでの時間を図書館で貸りた本を読むのに使う。読む本のジャンルは異世界を舞台にしたものやファンタジー要素が含まれているものが多い。現実世界では有り得ないことだから単純におもしろくて続きが気になってページをめくる手が止まらなくなる。あとは、たぶん、現実逃避な気がする。…現実逃避?なんの現実から?何から逃げたいんだろう。また答えが出ない問いに引っかかってしまった。
「わかんないよっ」
小さく呟いて、閉じた本の上に伏せた。わからない。何も、わからない。自分が何が得意なのか、好きなのか。やりたいことも、何もわからない。未来が白紙すぎて、もうどうしたらいいかわからない。高校一年だから二年はまだ道があるけれど、三年になれば進路のことを考えないといけない。どうしよう。迷子だ。完全に迷子。でも、迷子といっても、目的地は用意されてない。誰かが決めてくれる訳じゃない。自分で決めないといけない。誰かが決めてくれたら楽なのに。
それでもいつかは働いて、お金を稼いで、生きていかなきゃいけない。私が社会に出れるのだろうか。無理なんじゃないか。いくら無理と言ったって、生きていくためには避けては通れない道。でもどう考えたって生きるの向いてない。他人と話せないし、要領悪いし、自分の気持ちを言語化するのも苦手だし。どう考えたって向いてないでしょ。
「はあ。もういやだ。『でもでも』ばっかりーー」
体を起こして伸びをしながら放った言葉が、ガラガラという音に遮られた。ドアの方に目を向ける。
「あ、佐原さん。おはよー!」
笑顔で挨拶をしてくれたのは、明るくて人気者の光島(みつしま)くんだった。
「あ、お、おはよう」
「雨だね。濡れなかった?僕は靴下濡れたかも」
足冷たいよ、なんて笑いながら話しかけてくれる。彼は誰とでも話してくれる優しい人だ。その上、爽やかで綺麗な顔立ちの勉強も運動もできてしまうという少女漫画から飛び出してきたような人だから、他クラスの女子が見に来ることも多い。
「う、うん大丈夫だった。私が来たときはここまで土砂降りじゃなかったから」
「あ、そうなの?ていうか、僕でまだ二番目か。佐原さんは何時に着いたの?」
斜め掛けをしていた白にショルダーストラップが青のエナメルバッグを肩から下ろしながら私の右斜め後ろの席につく。
「大体八時くらい、かな」
「へー!そうなんだ。早いね。いつも一番乗り?」
「うん」
「すご!早起きなんだね」
う、寝れないからなんて言えない。光島くんのことだから、そんなことを言えば心配してくルカもしれない。他人に迷惑かけちゃダメだ。
返答に困っていると、「おはよー」という声がいくつもドアを跨いで届いてきた。
「久遠おはよう!」
「おはよう!」
やっぱり私には眩しいくらい人気だ。どう頑張っても、私は彼のようにはなれないだろうな。私は光島くんに向けていた体を黒板の方に向き直して、飛び交う言葉を聞きながら本を開いた。

4、鈍色(にびいろ)をかけられて
三時間目の数学が終わり、十分の休憩中。今日は、職員会議だかの都合で昼食を食べた人から順番に帰っていいと朝のホームルームで担任の曽泉(そいずみ)先生が言っていたから、なるべく早くサンドウィッチを食べて大好きな場所へ行こう。今日は妹たちは六時間だから帰りは一五時半ごろになるはずだから十三時から二時間ほどは自由だ。平日に遊びに行ける自由時間が与えられたのは久しぶりで、自分でもワクワクしていることがわかった。
四時間目は現代文だった。
国語担当の花枝(はなえ)先生は、 寝ている人や、隣の席の人とおしゃべりしている人をいつも注意しないから、みんな自由だ。
今日は夏目漱石の「こころ」の初回授業で先生が音読をする。読むことを宿題にして、もっと授業っぽいことをしたらいいのにと思うけれど、音読だけで授業が終わるならラッキーだなと思っている自分もいる。
こういった昔に書かれた文章は読んだことがなかったので、先生の音読に合わせて指と目で文字を追っていく。独特の雰囲気に読む気が失せそうだったが、ここで真面目な性格が出て、必死でまた文字を追い始めた。

話の前半が終わった頃だろうか、教科書とノートの上で寝ていた左隣の男子と私の後ろの席の男子がこそこそと話し始めた。
「なあなあ、俺の隣のやつ何なの?地味すぎない?」
「ガリ勉ってやつじゃない?学校一浮いてる説あるくね?」
「まじそれな。真面目に授業受けすぎてなんかうざいしきもいんだけどー。席替えさいあくー。まじ死ねばいいのに」
静かだけれど確かに嫌味を含んだ笑い声と共にそんな言葉が聞こえてきた。
え、え、私?嘘。どうしよう。どうしよう。お願い先生、気づいて。注意してよ。それか早くチャイム鳴って。早く、早く、早く。お願い。お願い。
心臓の鼓動が速くなるのを感じる。ドクドクドクドク。額から冷や汗が出て、背筋がゾワゾワする。シャーペンを持っている手も震え始めた。嫌だ、嫌だ。お願い止まって。そう願ってシャーペンを持ったままの左手を右手で握る。右手も震えてきた。もう笑わないで。
走って教室から飛び出たら、先生が気づいて心配してくれるだろうか。誰かが私のことを気にかけてくれるだろうか。いや、そもそも椅子から立ち上がれそうもない。震えが止まらない。今まで陰口を叩かれても耐えれたのに。なんで今回はこんなに焦ってるの。「死ね」なんて初めて言われたから?なんで。なんで。世界からどんどん色が消えていく。机も筆箱も手も、どんどん暗い灰色になっていく。やめて、止まって。
何もしていないのに、話したことさえない人になんでそんなこと言われないといけないの。目頭が熱くなってくる。だめだ。泣いちゃだめだ。こんなところで泣いちゃだめだ。もっと疎まれる。耐えろ自分。大丈夫、大丈夫。大丈夫だから。
もう目も焦点が合わなくなってきた。どうしよう。どうすればいいの。横を見る勇気も、掛け時計を見る勇気もない。体が固まるってこういうことなのかな。どうすればいいの。早く終わって。
先生の声すら耳に入ってこなくなって、ただ呼吸をすることしかできなかった。

キーンコーンカーンコーン。
四時間目の終了と昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、一斉にみんなが立ち上がった。友達と食べるために机や椅子を移動させたり食堂に行き始めた。
やっと終わった。
隣の人たちがどこかへ行ったことがわかると、一気に全身の力が抜けてしまった。
「はあ、はあ」
早くここから抜け出したい。
気を抜いたら泣いてしまいそうだったから、まだ少し震えている手に力を入れて無理矢理動かし、なんとか持ち物をリュックに押し込んで帰りの支度をすませることができた。
先生に言うべきだろうか。でも今日は先生たちは会議だから忙しいんじゃないんだろうか。それならもう、このまま学校を出よう。
ただこの『学校』という場所から離れたくて、早歩きで教室を出て人混みをかき分けて廊下や階段を通って昇降口へ出た。自分の靴箱の上履きとローファーを入れ替えて、ゴロゴロとなる鈍色(にびいろ)の空の下で自分が出せる全力で走り出した。

5、広がる暖色
駅まで全速力で走った。中学も高校も帰宅部の私は、駅に着いた時には喉や胸が痛くなっていた。荒い息をしながら、四時間で持ち物が少なくてよかった、と思った。もし六時間で荷物が多かったら、もっといろんな所が痛んでることだろう。
帰り道と反対方向へ行く電車に乗るために、いつもと違う階段を上がった。時計と時刻表を確認する。電車到着まであと数分だったが、走って疲れたので椅子に座って待ってることにした。
リュックを膝に乗せて息を整える。手の震えはいつの間にかおさまっていた。世界にも色が戻ってきた。大丈夫、ちゃんと色もある。大丈夫。心の中で何度も唱える。
嫌な記憶がまた蘇ってこないように、イヤホンを取り出し曲を聴く。今度は、五人組の男性バンド。ドラム、キーボード、ベース、ギター。そしてボーカル。力強く歌っていると思ったら、急に儚い感じになったりして、初めて聞いた時から魅了されたことを思い出した。声に感情を乗せれることがすごいな、と思う。
ちょうど二曲聴き終わったところで電車が来た。丸印の上に立って、電車が止まりドアが開くのを待つ。平日の真っ昼間だからか、乗る人も乗ってる人も少なかった。座席に座って、また曲を聞きながら外を眺めた。
『死ねばいいのに』
この言葉が、頭の中で反芻する。そんなことは今まで言われたことがなかった。たとえ冗談だったとしても言ってはいけない言葉ぐらい高校生になったら分かるはずだと思っていたのに。分からない人がこんな近くにいるなんて思ってもみなかった。幼稚な人が発したただの幼稚な言葉だから、と何度も言い聞かせても、心に刺さって取れない。
どうしてそんなことを言われなきゃいけないの。こんなことならもう、学校行かなくていいかな。行かなくなったら、あの人たちは何か罰を受けるんだろうか。退学?出席停止?反省文?どれも違う気がする。ただ先生たちが怒って、あの人たちは表面上だけテキトーに謝って、先生は「もうこれでいいよね?」なんて圧をかけてくるんだ。小学校の頃から先生たちはそうだった。ああいう人たちは何度怒られても同じことを繰り返す。こっち側の人間にはどうしろっていうんだろう。どうして傷ついた側がいつも逃げないといけないんだろう。右手で左手をぎゅうっと握った。
さやき駅到着を知らせるアナウンスにはっとして、イヤホンをしまってリュックを背負い電車を降りた。
改札を通り、二番出口を目指す。 逆方向から来る人たちの傘はきれいに閉じらているから、まだ雨は止んでいるんだろう。よかった。傘をさす気力が今の私にはないから、帰るときまでどうか降らないで。そんなことを願いながら、無心で足を進めた。
さやき駅の近くには、市の図書館や小さめの本屋さん、喫茶店などの飲食店がある。昔ながらのお店が多いからか若い人はあまり見かけない。喫茶店ではおばあさんたちが数人でおしゃべりをしていたり、一人で新聞を読むおじいさんがいたりするだけだから、同じ学校の人たちに会う心配はそんなにしていない。
まず初めに、図書館で今日の朝に読み終わった本を返却する。海外文学のもので、簡単に言うと、本の中に入ることができる兄妹が助け合いながら本の中の世界で冒険をするといった本だった。ときに危険にさらされたり喧嘩もするけれど、人の温かさに触れたりする平和的な物語。その平和さが心地よくて、借りて読むだけじゃなくて買っていつでも読めるように手元に置いておきたいと思った。シリーズもので今は五巻まで出ているらしいから、しばらくこの本が唯一の楽しみになりそうだ。
次にお目当ての本を買いに本屋さんへ。図書館の向かいの通りにあって、わりと近い。湿気で本が傷まないようにするためか、今日は木製のガラス窓がついた引き戸がきっちり閉められていた。狭いのに加え落ち着く照明加減のせいか、古本屋さんのような雰囲気があるけれど、「本日発売!」と手書きで書かれたポップが新刊コーナーに貼られている。新刊コーナー、文庫コーナーを通り過ぎ、レジ近くの海外文学のプレートが掛けられている本棚の前で止まる。
天井まである焦茶の本棚の上から三段目に一巻から五巻まで並べてあった。背伸びをして、一巻と二巻を取り出す。ページ数も多い単行本で多く少しずっしりするが、このずっしり感が妙に安心感を与えてくれる。
レジに行って、奥で新聞を読んでいるおじさん店主に「あの、お願いします」と声をかける。「あーはいはい。まいどあり。よっこらしょ」といって掛けていた銀縁の丸眼鏡をとりこちらに駆け寄ってくる。財布からお金を取り出し、受け皿に乗せる。
「えーと値段は…。はい、丁度いただきますね。ブックカバーはどうしましょう?」
「いえ、このままで大丈夫です」
「はい。それじゃあこれで。ありがとうねぇ」
おじいさんに軽くお辞儀をして、まいどありーという声を背に店を出る。
「さすがに二冊はちょっと重いな…」と声を漏らしながら、右にある角を曲がる。スマホの地図で見て、いつか行ってみたいと思っていた「喫茶さやき」という喫茶店へ行く。口コミも良く、写真を見ると落ち着いた雰囲気の店内でゆっくりできそうだった。
三分ほどで着き、金色の取っ手を引くと、カランカランと音がした。


6、溢れる透明
どれくらい経っただろうか。一巻を軽く読み返してから、二巻を読み始めてもう半分ほどまできた。顔を上げて、なぜか鳩が出っ放しの鳩時計を見る。一四時四五分。一時間も読み耽っていたようだ。そろそろ帰ろうか。ずっと同じ姿勢だったので軽く肩を回す。
すると「ぐぅ」とお腹が鳴ってしまった。そういえば、お昼ご飯を食べてなかった。コンビニで買ったサンドウィッチはどこにいったかな、とリュックを除くと教科書たちの下敷きになって潰れてしまっていた。一度空腹を感じるとどんどんお腹が空いてきた。どうしようか、ここで食べるわけにもいかないしな。ここでご飯を食べて、潰れちゃったサンドウィッチは家で食べよう。メニュー表を見て、一番安かった「たまごサンド」を頼んだ。
本を閉じてリュックに入れて、サンドウィッチが来るまでぼーっとしていると、四人組のおばあさんたちがまあまあな声量でおしゃべりをしながら入ってきた。常連なのか、迷うことなく四人掛けの席に座るとメニュー表を見ずに飲み物を頼み出した。
店員さんが厨房から出てきて、私のテーブルにサンドウィッチを置いて、四人組の注文を取りにいった。
サンドウィッチをかじる。よく見るペースト状の卵ではなく、卵焼きのように分厚いくて甘いものが挟まれていた。おいしい。お腹が空いていたから余計においしく感じるのかもしれない。
すると聞き覚えのある言葉が聞こえてきた。
「あ、そういえばね。華沢(はなさわ)高校ってあるでしょう?はなしま駅のとこの」
食べる手を止めて、思わず四人組をチラッと見た。なんだか嫌な予感。
「なんだか派手よね。いかにもやんちゃ!って感じ」
「そうそう。この前旦那が仕事帰りにコンビニ前で見かけたらしいのよ。男の子の集団がでっかい声でしゃべりながらアイス食べてたんですって。夜の八時よ?」
「親はどうなってるのかしらねえ」
「ほんと。ほんと。しかも制服だったってことは、学校が終わっても家に帰らずにそのまま遊んでるってことでしょう?」
「不良じゃない!」
華沢高校。私が通っている高校だ。華沢だとわかったのは、制服に黄色の大きめの後章が付けられているからだろう。思わず手で隠す。
本当ならあの高校に行きたくなかった。本当に行きたかった高校には電車で一時間近くかかるところにあった。でも、まだ小学生の妹たちの面倒を見るために一番近くの華沢を選ぶという選択肢しか私には与えられなかった。「私がいきたいところはここじゃなくて、ここなの」とパンフレットを見せながら勇気を出して両親に言ったが、父に「いやぁ、だってそこは遠いし大変だろ?そらとあおいのためにも近いところにしてくれると助かるんだがなぁ」とお願いするかのように言われて、押し切れなかった。いつだって私には興味がない両親にこれ以上言っても何も変わらないだろうなと感じ、諦めた。その時に入学したら、目立たないように静かにしていようと誓った。
学校にはそんなに派手じゃない人もいるけれど、真面目とは言いにくい人たちばかりの中で、真面目しか取り柄のない私は“あの人たち”の言う通り浮いていることはわかっていた。わかっていたけれど、他人に言われると、さすがにダメージがでかかった。
『うざい。きもい。死ねばいいのに』
またあの時の状況が思い出される。嫌だ。せっかく本を読んで逃げれていたのに。どうしたらいいんだろう。明日から学校を休むと言ったら、両親はどういう反応をするだろうか。私のことをどうでもいいと思っているのなら、「そう」で終わるだろうか。それはそれで助かるけれど、心配されないのも落ち込むな。どうして、妹たちばっかり。友達もいなくて、学校にも家にも居場所はどこにもない。もうお先真っ暗だ。どこにも行けないのなら、生きている意味なんかない。生きていけない。こんなことならいっそのこともうーーー。
そんなことを考えていると、必死で止めていた涙が溢れてきてしまった。ボロボロと色のない雫が落ちてはスカートの色を変えていく。もう、こんなことなら、家に帰れば良かった。早く出よう。 口いっぱいにサンドウィッチを詰め込んで、口を動かす。

7、永久に消えない光
泣いていることがバレないように出来るだけ下を向き、最後の一口を飲み込んだ。カランコロンと客がきたことを知らせる音が鳴って、入ってきた人が隣の席に座る気配を感じた。私はおでこが痒い人を咄嗟に演じて顔を隠した。
「あの、佐原さん、だよね?」
え?と思って、思わず顔を上げて左を見てしまった。
光島くんだった。
「大丈夫、じゃないよね…。どうしたの?」
私はただ顔を横にふることしかできない。泣いているところを見られてしまった。どうしてここにいるのか聞きたかった。でも声が、出ない。存在するだけで嫌がられる私が、人気者の光島くんと話していいわけがない。また体が固まってしまった。
「あ、僕いつもこの店の前通るんだ。僕の通学路で」
そうなんだ。知らなかった。まさか、同級生がここに住んでいるとは思ってなかった。なんでこの考えが頭に出てこなかったんだろう。
「それで、窓からたまたま佐原さんみたいな人が見えて、もしかしたらって思って入ってきたんだ」
私はただ光島くんを見ることしかできない。どうして、私が見えたから入ってきたんだろう。別にスルーしてもいいのに。
「現代文の授業のとき、“あいつら”が話してること聞こえて…。でも、本当に気にしなくていいよ!あいつらの言葉なんて信じなくていい」
わざわざそれを伝えるためにお店に入ってきてくれたの?ずっと気にしてくれてたの?聞きたいけど、自意識過剰だと思われそうだと思って、口が動かない。
「気にしなくていいって言っても、気になるよね…。えーっと、なんて言えばいいかな」
一生懸命に言葉を探す光島くんを見ていると、さらに涙が溢れてきて、慌てて手で拭う。
「佐原さんは何も悪くない。あいつらがひどいんだ。あんな事言うなんて、どう考えてもおかしい」
「でもっ、誰も、私に生きててほしいなんて思ってないっ」
「僕は佐原さんに出会えてうれしいよ」
「うそっ」
涙が止まらない。それどころか、さっきより増えていく。きっとひどい顔をしている。
「僕はこんなこと嘘でなんか言わないよ」
光島くんが、目を拭っていた私の手を優しく掴んで、代わりにハンカチを差し出してくれた。
「使って。大丈夫。僕に佐原さんのことを守らせて」
どうしてここまで私のことを気にかけてくれるんだろう。私はハンカチで涙を拭きながら、首を横に振り続ける。
「私なんか消えた方がいいっ。どこにも居場所なんてないのに生きてても苦しいだけだよっ」
震える声で精一杯に思っていたことを口から放つ。迷惑かけたくなんかないのに、願わくば光島くんが味方になってくれたらいいな、なんて考えてしまっている自分が気持ち悪くて嫌だった。
「佐原さんがあの言葉に傷ついたのなら、ちゃんと自分に価値があると思えてるからだよ。価値は消えたりしない。どれだけぐちゃぐちゃにされた千円札も千円の価値があるのと一緒だと思う。自分のことが嫌いなら、嫌いでもいいよ。でもね、お願いだから、愛を受け取ることだけは怖がらないでほしい」
『愛を受け取ることを怖がらないでほしい』?いいんだろうか。私が、愛を受け取っても。
「信じて。誰がなんと言おうと僕は味方だよ」
その言葉に、ハンカチを目から離して光島くんの目を見ると、綺麗な瞳がまっすぐ私を捉えていた。

私が落ち着くまで、光島くんは私の左手に手を重ねていてくれた。左手に染み込んだ怖さを吸収してくれるかのように、優しく。
「ありがとう」
光島くんは、微笑んで頷いた。

それから私たちは連絡先を交換して、メールのやり取りをするようになった。お互い名字呼びだと距離があるね、って話して下の名前で呼び合うことにもなった。学校のことは、二人で相談して、私が先生に言うことで悪口がエスカレートしてしまう可能性を考えた久遠が先生に言ってくれることになった。
学校も家も息苦しいし、自分のことは相変わらず嫌いだけれど、『自分を嫌いな自分』を受け入れることはちょっとずつできるようになってきた気がする。死にたいと思うことも少しだけ減った。 日常がガラッと変わって、生きやすくなるなんてことはこの現実できっと起こらない。でも、誰かの勇気が勇気を呼んで、少しずつ変わっていくことはある。
もう、大丈夫。私には十分すぎるくらい大切にしたい人が見つかったよ。
自分でも気づかないうちに分厚くしていた殻に、久遠が穴を開けて光を入れてくれた。
少しだけ息がしやすくなった気がした。