プロローグ
水宮殿。
紫紺の王である波琉が住まうその場所に、今は彼の姿はない。
代わりに紫紺の王に属する龍神たちが、波琉の代わりとなって働いていた。
それらの龍神をまとめるのは、波琉の側近の中でも特に彼に近しい存在である瑞貴である。
本来のんびりとした穏やかな性格である波琉を、後ろからせっついて仕事をさせていたのは瑞貴であった。
波琉ときたら、すぐにさぼろうとするのである。
だから瑞貴が常に目を光らせていないとならない。
そんな瑞貴を、波琉は「真面目だねぇ」と、他人事のようにのんびりと見ているのだから、何度瑞貴が怒りを爆発させたかしれない。
時間の感覚が緩い龍神だから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、紫紺の王に属する龍神たちのこととて、波琉はあまり関知しないため、瑞貴が指示を出して取りまとめていたのだ。
波琉が人間界に降りて十六年程の月日が経つが、そもそも瑞貴が指揮をとっていたおかげで、波琉がおらずとも大きな問題は今のところ起きていない。
それがよかったのか悪かったのかは正直悩むところだ。
なにせ、紫紺の王がおらずとも水宮殿は回っているということなのだから、波琉の存在理由にもつながる。
しかし、さすがに王がいなくなって十六年ともなると、波琉でなければ解決できない問題も溜まり始めてきた。
早急に解決せねばならないものではないが、このまま溜め続けていたら支障が出てくるだろう。
波琉の執務室にある机の上に積まれた書類を見て、どうしたものかと悩む瑞貴。
波琉と連絡を取るのが一番早いのだろう。
波琉のいる龍花の町に手紙を送ることは簡単だ。
しかし、時間の感覚の緩い龍神の中でも特にゆったりとした波琉に手紙を送ったところで、いつ返事が来るか分からない。
さすがに何十年もかかるとは思わないが、龍花の町に降りてから初めて頼りを寄越すまで十六年かかった波琉である。
あまり期待はできない。
「困ったものですねぇ」
いっそ手紙ではなく誰か龍神を送り込んだ方が早いかもしれないと思い始めてきた。
問題は誰を送り込むかだが……。
「さすがに私が行くのは難しいでしょうねぇ」
波琉のいなくなった穴を埋めているのは瑞貴である。
ここで瑞貴までもが龍花の町に降りてしまっては、他の龍神たちが困ってしまうだろう。
けれど……。
瑞貴は波琉が選んだ相手に会いたいという気持ちもあった。
波琉がその伴侶とどのように過ごしているのか。
あの波琉に伴侶と認めさせたのはどんな人間なのだろうか。
興味は尽きない。
なにかしら理由をつけて龍花の町に行くには、今の機会を逃すと伴侶が寿命を終える数十年先にならないと会えないだろう。
見逃す手はない。
「よし、やはり私が龍花の町に持っていきましょう」
だが、それに慌てふためいたのは、他の龍神だ。
「よしじゃありません。なにおっしゃってるんですか、瑞貴様! あなたまでいなくなったら、誰がこの水宮殿をまとめるんです!」
「そうですよ、瑞貴様が行くくらいなら私が行ってきます!」
「しかし、あなたたちが行って、紫紺様が素直に仕事してくれますかね?」
「…………」
その問いには、他の龍神たちもそっと視線をそらす。
彼らでは少々自信がないのがうかがえた。
やはり自分が行って無理やりにでも仕事をさせるしかないと、決意を固めたところで、慌ただしく別の龍神が執務室に飛び込んできた。
「瑞貴様!」
「なんですか、騒々しい」
「今しがた、水宮殿に金赤様が降り立たれました」
彼の言葉が『いらっしゃった』ではなく『降り立たれた』と表現したのは、その言葉通り、龍となって空を翔け、空から降り立ったからである。
「金赤様が?」
瑞貴は目を丸くする。
四人の王は特に諍いもない間柄だが、特別仲いいという訳でもない。
それゆえか、密にやり取りしてもおらず、用事がなければ数百年普通に会わないこともしばしば。
波琉と金赤の王は穏やかな性格ゆえ、他の王より気が合うようだが、それでも最後に会ったのはいつだったか思い出せないほど昔である。
そんな滅多に会いにこない王が、よりによって波琉がいない時に会いに来てしまった。
「困りましたね。金赤様には紫紺様がいらっしゃらないとお伝えしなければ」
「知っている」
突然聞こえてきた第三者の声。
執務室の出入口を見れば、赤茶色の長い髪を下ろし、王の名とも言うべき金赤色の瞳をした男性が立っていた。
快活そうな雰囲気を発する男性は、細身の波瑠と比べると筋肉質で引き締まった体躯をしている。
男性の登場に、その場にいた龍神たちが頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。金赤様」
代表して瑞貴が声を発すると、金赤の王は手を挙げた。
「楽にしてくれ」
そう言われ頭を上げると、瑞貴は困ったように眉尻を下げる。
「せっかくお越しいただいたのに申し訳ございません。現在紫紺様は下界へ降りておりまして……」
「そのようだな。噂は私のところにも届いている」
ならば何故ここに来たのかと瑞貴に疑問が浮かぶ。
「波琉から久遠つてで連絡があって、私も龍花の町に降りることになった」
「なんと!」
波琉に続いて金赤の王まで。
ふたりもの王が天界を離れることなど過去にあっただろうか。
「なにか問題でもございましたか?」
波琉に限ってなにかあるとは思えなかったが、紫紺の王の側近であることに誇りを持っている瑞貴は、波琉が心配でならない。
「問題と言えば問題なのだろう。どうやら百年前の出来事を知りたいらしい」
「百年前というと、金赤様が龍花の町に降りられた頃ですね」
「よく覚えているな」
金赤の王は感心したように瑞貴を見る。
龍神はそんな細かく時間の流れなど気にしていないのが通常なのだ。
「それはもう覚えていますとも。金赤様が誰にもなにも言わずに龍花の町に降りられたせいで、大迷惑を被った久遠から散々愚痴を聞かされましたからね」
王に対して無礼と言われかねないが、多少の嫌味は許してくれるだろう。
金赤の王も、ばつが悪そうな顔をしている。
「あ、あの時は花印が現れて少々気が動転していたんだ」
ポリポリ鼻を掻きながら、視線を瑞貴からそらす。
どうやら本人は悪いことをしたと自覚があるらしい。
ならば、それを追求するのは一番の被害者である久遠がすべきだろうと、瑞貴は話を終わらせて話題を変えた。
「そう言えば、久遠も花印が現れ龍花の町に降りたようですが、縁がなかったらしいですね」
「ああ。花印が浮かんだのを喜んでいたのに残念なことだ。まあ、今回縁がなかったとしても次があるかもしれないと、本人はさほど落ち込んではいないがな」
「それならよかったです」
瑞貴も安堵したように微笑むのは、同じく王の側近という立場ゆえに久遠とはそれなりに仲がいいからだ。
花印が現れるのは一度とは限らない。
久遠のように、一度花印が浮かんでから龍花の町に降り、同じ花印を持つ伴侶と相性が悪く天界に戻ってきたとしても、同じ花印を持つ人間が亡くなり印が消えた後、何年かして再び花印が浮かんだりもする。
すでに龍神の伴侶がいる者などは、もう他の伴侶など求めていないにもかかわらず、数百年の間に二度も三度も花印が浮かんでしまいうんざりしている者もいるという。
そこまで来ると、もう笑い話だ。
けれど、金赤の王のように、花印がある伴侶を持つと、再び花印が現れることはない。
そこの理由は不明だが、久遠にも再び花印が浮かぶかどうかを含め、天帝の御心次第ということなのだろう。
期待して待つしかない。
「それにしても、紫紺様が百年前の出来事を知りたいとはどういうことでしょうか?」
瑞貴のことろには波琉から連絡が入っていないので見当もつかない。
「私は百年前の時に、ある一族を龍花の町から追放したのだがな、波琉の伴侶はどうやらその一族の子孫のようなのだ」
「なんとまあ」
なんという因果か。
「町には当時を知る者もおらず、一度龍花の町に来て話を聞きたいと言うのでな。これから龍花の町に行くことにしたのだ」
それを聞いた瑞貴は難しい顔をする。
「金赤様まで下界に降りられるのですか」
「ああ。そう長居するつもりはないが、せっかくだから妻を連れて息抜きをしてくるつもりだ。妻にとっては久しぶりの里帰りになるからな」
金赤の王の伴侶は花印を持つ人間だ。
それはつまり、龍花の町出身であることを意味する。
「波琉に加え私も天界を留守にするので、なにか問題が起きたら他の王を頼ってくれ。今日はそれを伝えに来たのだ」
「他の王……」
瑞貴はなんとも言えぬ複雑そうな顔をした。
口にはできぬ。
ただの側近でしかない瑞貴には恐れ多い。
けれど、瑞貴の言わんとするものを金赤の王は察していた。
「あれたちにも一応直接会って頼んできた。たぶん大丈夫だ。たぶん……」
二度も『たぶん』と繰り返すところを見るに、あまり信用していないのを感じる。
それは瑞貴も同じこと。
龍神をまとめる四人の王は、よくも悪くも個性的なのだ。
そして、温厚な波琉と金赤の王と比べると、白銀と漆黒の王は特に個性が強い。
瑞貴は金赤の王がいなくて大丈夫だろうかと今から心配になってきた。
「何事もないといいんですがねぇ」
「そうそう王が出張ってこざるを得ない問題など起こらないだろう。案ずるな」
「だといいんですが。金赤様もなるべく早くお戻りくださいね」
「ああ。なにかしらあれば久遠と話し合ってくれ」
瑞貴はこくりと頷くと、波琉の机の上にある書類が目に入った。
「金赤様。実は紫紺様への仕事が溜まっているんです。私が龍花の町まで行ってお届けしようと思ったのですが……」
金赤の王は、瑞貴が最後まで口にせずとも理解してくれたよう。
「分かった。私が責任をもって届けよう」
「お願いします。くれぐれも、サボらぬよう念を押しておいてください」
書類をまとめながら、「くれぐれも」のところを強調する瑞貴に、金赤の王も苦笑する。
「お前といい、久遠といい、側近はしっかりしているな」
「側近だからこそです」
王を支えているという自負が、瑞貴に胸を張らせる。
金赤の王はくっくっと笑いながら「頼もしいことだ」と、波琉に渡す書類を受け取った。
金赤の王を見送って、波琉の執務室に戻ってきた瑞貴は、綺麗さっぱりとした机の上を見て、満足げな顔をする。
「紫紺様の伴侶様とお会いする機会を失してしまいましたが、まあ、いずれ会えるのでいいでしょう」
それよりも、紫紺と金赤のふたりの王がいなくなった穴を埋めなければならない。
金赤の王の側近である久遠と対策会議をしなければなるまい。
瑞貴は文をしたためるべく、執務室を後にした。
一章
皐月の事件から数日後、ミトは何事もなかったかのように学校生活を送っている。
けれど事件の記憶がなくなったわけではなく、神薙本部に連れていかれたという皐月がその後どうなったのか気になって仕方ない。
しかし、そもそもミトと皐月とは仲がよかったわけではない。
むしろその逆で、ミトは彼女から虐められたりしていたため、親愛の情などあるはずもなかった。
ただ、どうなったのか知りたいという興味本位なのは隠しようがなく……。
そんなミトに、事情を知っていそうな、神薙の日下部蒼真や彼の祖父である尚之が皐月の状況を教えてくれはしなかった。
聞いてみても、それより学校生活を優先しろと言われてしまうだけ。
学校でのお世話係として選んだ成宮千歳も、ミトがその話をし始めるとあからさまに話題をそらしてくるから、ミトは不満いっぱいだ。
ならばミトに甘々の波琉なら教えてくれるかというと、それはそれで難しい。
ミトを虐めていた皐月のことを、波琉は今もなお怒っているのか、彼女の名前を口にするだけで機嫌が悪くなってしまうのである。
虐めに加え、皐月を止める時に傷を負ったことも、波琉が不機嫌になる理由のひとつだ。
あの時は暴れる皐月を止めるために体を張るしかなかったのだが、どう説明しても波琉は納得がいかないよう。
ミトにはその時についた傷はすでにないのに、波琉はミトのことになると心が極端に狭くなるから困ったものだ。
顔や腕についた引っかき傷は、その日のうちに波琉が治してくれた。
人を畏怖されるようなものではない、温かな空気に包まれたように神気がミトを覆い、小さな跡すらなく綺麗にしたのである。
これにはミトだけでなく両親や蒼真も驚いていた。
波琉が神様だと改めて教えられた気がする。
そんな波琉からは、堕ち神についても語られることはなく、今回の事件でミトに流れてくる情報はほとんどなかった。
これはもうあきらめろということなのだろうか。
ミトはなんだかモヤモヤする気持ちを昇華できないでいた。
ホームルームが始まり、担任である草葉が教室に入ってくる。
草葉が必死に声をあげて話しているというのに、一向におしゃべりをやめない特別科の生徒たち。
周囲を見渡しても、草葉の話を聞いているのはミトぐらいだろう。
草葉の苦労が忍ばれる。
いつものことだからだろうか、草葉もそうそうにあきらめて、唯一聞いているミトにだけ伝えるように話を進めていく。
その疲れた様子からは哀愁すら漂っているので、なおさら不憫だ。
事件直後は草葉からなにかしら話がされるかとホームルームでも静かにしていたのに、草葉からなにも話されないと悟ると一気にうるさくなった。
それに、当初こそ皐月のことを気にしていた生徒たちも、そんな事件などあったのを忘れたかのように話題にすら登らなくなっていった。
あんなにも皐月、皐月と媚びていた皐月派の生徒もだ。
なんと薄情なのだろうかと思ってしまうミトの方がおかしいというかのように、皐月の存在が消えていく。
平穏を取り戻した教室には、ありすの姿もない。
彼女もまた、あの事件以降学校には来なくなっていた。
なぜなのかは、皐月の件同様に知りえない。
龍神に選ばれた伴侶であり、特別科のリーダー的存在だったありすがいなくなっても、教室内は普段通りに時間が過ぎていく。
むしろ特別科の生徒たちが生き生きしているように感じるのは気のせいだろうか。
いや、恐らくミトの気のせいではない。
これまでは、ありすと皐月という龍神に選ばれた権力者を前に、気を遣って全力で媚びていたが、ふたりがいなくなったのでその必要がなくなった。
皐月の機嫌をうかがう必要も、ありすの言動を気にかける必要もない。
まさに自分たちこそが、この学校でもっとも権力があるという気持ちが、特別科の生徒たちを傲慢にしている。
そんな姿を見ていると、ありすと皐月ふたりは、派閥を作ることで特別科の生徒のストッパーになっていたのだと感じる。
この教室にいるのは、まだ龍神に選ばれていない対等な立場の子たちばかりだ。
唯一、ミトだけが例外だ。
波琉に選ばれた伴侶。
しかも、最上位にある紫紺の王の伴侶だ。
そして、幾度か学校へやって来た波琉の様子から、ミトとの関係は良好であると多くの学校関係者が知っている。
この学校で、ミトを虐めようと考える者などいないだろう。
いや、学校だけでなく町では。
あの閉鎖された星奈の村では周囲の顔色を気にする立場だったミトが、龍花の町に来るや気にされる側になるなんて誰が思っただろうか。
今日もミトのところには人がやって来る。
「ねぇ、星奈さん。今日こそは一緒にお昼ご飯食べない?」
これで何度目か分からないお誘いに、ミトは嬉しいというより悲しくなる。
少し怯えながら、それでもミトに気に入られたいという欲を持った眼差しでミトを囲む複数の女子生徒。
ありすがいない今は、ミトの取り巻きになろうと必死なようだ。
そんな彼女たちの思惑が透けて見えて、ミトは気分が悪くて仕方がない。
「ごめんなさい。千歳君と食べるから」
いつもと同じ断り文句に、一瞬不満そうにする彼女たちだが、それ以上しつこくしてくることはなかった。
彼女たちも、別に心からミトと食事を一緒にしたいわけではないのだ。
彼女たちが見ているのはミトの後ろにある波琉の存在。
それは仕方のないことなのかもしれないが、本気でミトと仲よくしたいと思ってくれる人間がいないのは切ない。
村から解放された時、そして学校に通えると分かった時は、学校で友人たちと楽しく過ごせると夢見ていた。
それが蓋を開けてみたら、自分たちの利益しか考えていない人たちしか寄ってこないのだから、ミトもうんざりしてくる。
それは生徒だけでなく教師もだ。
あからさまにミトに忖度してくる教師たちには残念感が半端ない。
夢と現実の違いに、肩を落とすミトだった。
「そりゃあね、私もあの人たちの気持ちが分からないわけじゃないの。波琉は私にすごく過保護だし、人間は龍神に敵わないわけだから、私を通してご機嫌うかがいをするのは仕方ないって思う。でも、やりすぎるっていうか。私は普通の学校生活を送りたいの。ずっとずーっと夢だったんだから。ねえ、聞いてる? 千歳君」
などと、ミトはお昼ご飯を食べながら、目の前に座る千歳へ不満を訴える。
「はいはい。困ったねー」
「全然心がこもってない」
棒読みの千歳を、ミトはじとーっとした目で見る。
「そもそもさ、紫紺様に選ばれた時点で普通じゃなくなってるし、無理じゃない? 特にこの龍花の町ではさ」
「うっ……」
それを言われるとミトも反論できない。
波琉が紫紺の王であることは変えようのない事実なのだ。
「嫌なら紫紺様と縁を切るしかないね」
「それは嫌!」
ミトは食い気味で声をあげる。
千歳ときたら、なんということを言うのだろうか。
波琉と縁を切るなど、冗談でも考えたくない。
波琉の存在は村で虐げられていたミトにとって、救いだったのだ。
夢の住人でしかないと思っていた人が、現実に存在していると知った時の喜びは今も忘れていない。
毎日毎日朝になって波琉の顔を見るたびに、その喜びを思い出し噛みしめているのに、離れるなどとんでもない。
「じゃあ、あきらめて受け入れるしかないね」
「千歳君が意地悪だ……」
しかし正論なのでミトも反撃できない。
「じゃあお世話係から降ろす?」
「それも嫌だ」
「そんなんじゃあ、我儘女その三の誕生だな」
なんて意地悪を言う千歳の表情は言葉に反して楽しそうだ。
本当は他の子とも千歳とのやり取りのように気さくに会話したいのだが、ままならないものだ。
学校でのミトには、この千歳と過ごす時間だけが心のよりどころである。
草葉は担任と生徒という間柄なので、仲よくとはちょっと違う。
そして校長とは……。あれはなんと名付ければいいのか分からない関係である。
茶飲み友達と言えばいいのか。しかしミトが一方的に校長の愚痴を聞かされているだけのようにも感じる。
そして、ハリセンで叩き叩かれる関係はなんと表現したらいいのだろうか。
「それはそうと、我儘女その一とその二がいなくなって、特別科は問題ないの?」
千歳の言う我儘女その一とその二とは、皐月とありすのことだ。
なにがあったか知らないが、千歳はふたりにやや厳しい物言いをする。
千歳の問いかけに、ミトは眉間にしわを寄せた。
「うーん。一応は?」
「なに、その曖昧な感じ」
「だって私もその現場を見たわけじゃないからなんとも言えないんだもの」
「見てないってなにを?」
自分から聞いておきながら特段興味がありそうにはない千歳に、ミトは話し出す。
「これまでは龍神に選ばれた皐月さんとありすさんをトップに、まだ選ばれていない他の子たちが平等に下にいるって思ってたんだけど、皐月さんとありすさんがいなくなって、選ばれていない他の子の間にもカーストって言うのかな?そういうのがあるみたいなの」
「そりゃそうでしょ」
千歳は特に驚いてはいなかった。
「特別科の奴らはどっちが上かを常に争ってマウント取る奴ばっかりだから」
「そんなことはないんじゃない? 確かに最初は虐めっぽい嫌がらせされたけど、それはどっちの派閥にも入らなかったからでしょう?」
「まあ、それもあるけどね。でも、今はミトが問題なさそうに思うのは、奴らが紫紺様の伴侶であるあんたの前では行儀よくしてるだけだよ。だって、誰もミトの言葉に逆らえないんだから」
「そう、なのかな?」
ミトは首をひねる。
「ミトは前にも我儘女その一が久遠様に捨てられて虐められた時に助けに入ってたからね。ミトの前でそういう行いはしないように気をつけてるだけだよ。実際は結構ドロドロしてるはずだよ。よく見てたら分かると思う」
「ふーん」
ミトはあまりよく分からないまま食事を終えた。
午後の授業を終えて、特別科の教室に戻るミト。
やはりひとりだけで授業を受けるのはなんともつまらない。
ミト以外に特別科の高校一年生がいないのだから仕方ないのだが、キャッキャウフフな学校生活を送れると思っていたのにあまりにひどい裏切りである。
「はぁ……」
思わずため息をつくぐらいは許してもらいたい。
けれど、ミトも分かっているのだ。
村での孤立した生活に比べたら、学校に通えていられるだけでとんでもなく幸せなのだと。
ここではミトを虐げる者も、忌み子と蔑む者もいない。
けれど、期待していた分だけ少し物足りない気持ちがある。
千歳の存在に大きく助けられているが、千歳以外の友人も欲しかった。
できれば同性の子だとなおいい。
女の子同士で恋バナだとか、ファッションやメイクの話だとか、そういう年頃の女子高生のような会話をしてみたいものだ。
それはもう切実に思う。
だが、現在の特別科の面々を見ていると、ミトに媚びるばかりでそれが難しいと感じる。
とても対等な関係は作れないだろう。
ならば普通科の子に狙いを定めようかと考えたりもしたが、それはもっと厳しい現実があった。
なにせ、龍花の町においても学校においても、優遇されている花印を持つ特別科の生徒は、文字通り特別な存在なのだ。
神の花嫁、花婿候補。
それがこの龍花の町においての、花印を持った者たちへの認識。
世話係をすることもある神薙科の生徒と比べると、普通科の生徒は特別科の生徒を遠巻きにしており、積極的に関わらないようにしているところがある。
それは特別科の生徒が、普通科に対して傲慢な態度を見せるからでもあった。
自分たちは選ばれた人間なのだと、普通科の生徒に高圧的な態度を取っている場面を時たま見かける。
龍神のために作られたこの町において、花印を持った人間に逆らうのは、町で生きにくくするだけ。
普通科の生徒は嵐が過ぎ去るのを待つように、特別科の生徒の言いなりになるしかない。
そんな背景があるので、いくらミトが仲良くしたいと近づいていっても、対等な関係など築けるはずがないのである。
特別科の生徒だろうと龍神に選ばれていようと、物怖じせずに皐月やありすの世話係の要請を断った千歳がまれな例だっただけなのだ。
悲しいかな。それが現実だった。
「友達欲しい……」
ミトが肩を落としていると、ピチチという鳴き声が聞こえる。
廊下を歩いていたミトが開いた窓の外を見るとスズメのチコがいた。
チコは窓辺へと降り立つ。
『またなにか落ち込んでるわね。友達なんて私やクロやシロがいるじゃない』
どうやらミトのひとり言を聞かれていたようだ。
「もちろんチコたちは大事な友達だけど、それとはまた違うの。人間の女の子の友達が欲しいのよ。チコは人間のことは分からないでしょう?」
『まあ、そうね』
「私も村から出たことがないから、普通の女子高生の生活が分からなかったりするし、そういうのを教えてくれたり、一緒に経験したりしてみたいの」
ミトは一般常識が少々欠けている。
それはあんな外部から閉鎖された小さな村から出ることを許されなかったのだから無理もない。
だからこそ、これまでできなかったいろんな体験をしてみたいのだ。
どうせなら、ひとりではなく、波琉や気を許せる友人とがいい。
それは我儘が過ぎるのだろうか。
「少し前までは、村から出て学校に行けるだけでも十分幸せだって思ってたのに、望みすぎちゃってるのかな?」
『いいんじゃないの? 人間ってのは欲が深い生き物ですもの。ミトの我儘ぐらい大したことないと思うわよ』
「波琉に嫌われない?」
ミトにとってはそれがなにより気になる。
『ならないわよ。あの神様はそれぐらいを受け止められないほど狭小じゃないはずだもの』
「だといいんだけど」
ミトは再度深いため息をついてからはっとした。
「あっ、ホームルームに遅れる! またね、チコ」
『コケないように気をつけるのよ』
チコといいクロといい、気にかけてくれるのはいいのだが、まるで母親のようだなとミトは苦笑しつつ、教室へと急いだ。
教室へ行くとすでに生徒はそろっていた。
けれどまだ草葉は来ていないようだ。
ほっとして扉の前にいたミトが教室内へ入ろうとすると、なにやら教室内の空気がピリピリとしたようなおかしなことに気がつく。
原因となっているのはひとりの女子生徒のよう。
大人しそうな雰囲気のその女子生徒を、男女複数人の特別科の生徒が囲んでいる。
あきらかに怯えている様子を見るに、友人同士で楽しくおしゃべりしているとはとても思えない。
「彼女は確か……」
ミトはまだ特別科の生徒全員の名前を記憶してはいなかったが、囲まれている彼女は覚えていた。
以前まで皐月の取り巻きのひとりとして、皐月の後を追いかけるようにくっついていた子だ。
自己主張が激しい特別科においては珍しく影が薄い子だが、ミトは気の強い皐月とは正反対の大人しそうな彼女のことが逆に印象に残っていた。
皐月がミトに怒鳴り散らしている時も実はいたのだが、影の薄さをさらに薄くしてひっそりと皐月の後ろについていたので気にしていなかった。
名前は確か吉田美羽と言ったか。
皐月の派閥に属してはいたが、絶対にいやいや付き合っているのだろうなというのを感じていた。
彼女は率先してミトを虐めるようなタイプではなく、気弱そうで人の顔色をうかがって生きているいるような人。
周りから特別扱いされ続けたがゆえに我儘な性格の者が多い特別科の生徒の中では異質だろう。
とはいえ、虐められているミトを助けるわけでも、また、皐月を諌めるでもない彼女への関心は低い。
そんな彼女を囲んでなにをしているのだろうかと、ミトは教室の外からこっそりと様子をうかがう。
「なあ、吉田さん。俺たちこの後用事あるから、教室の掃除しといてくれるよな?」
「えっ、あの……」
「なに? 嫌なの? 私たちがこんなにお願いしてるのに」
「そういうんじゃ……」
モゴモゴと語尾が小さくなりながら話す美羽は、はっきりとした返事はせずに視線をさ迷わせている。
教室の掃除は当番制。
大事な花印を持つ子に掃除などさせて不満が出ないのかと思ったが、天界へ行けば龍神の位によっては龍花の町のような特別待遇がされるとは限らないので、最低限身の回りのことはできるように教育しておけと、過去龍花の町を訪れた龍神が命じたとか。
そのため、学校では掃除などは特別科の生徒もすることになっている。
さすがの特別科の生徒も、龍神の命令に異を唱えることはしない。
不満を持っているかは別としてだが。
なので、ミトもきちんとしている。
千歳や蒼真などからは王の伴侶のだから天界へ行っても特別待遇は変わらず、きっと身の回りのことは誰かがしてくれるはずなので必要ないんじゃないかとも言われたが、学校でできる行いすべてがミトには新鮮なのだ。
それがたとえ他の人が嫌がる掃除と言えども、ミトには楽しくてならない。
皐月やありすなどは周囲が気を使って当番を変わっていたらしく、ミトにも同じように他の生徒が気を使って当番を変わろうとしたが、こんな楽しいことを譲るつもりはなかった。
鼻歌交じりに掃除をするミトを、周囲は異質な目で見ていたが、ミトは気づいていなかった。
けれど、やはり喜んで掃除をするのはミトぐらい。
どうやら美羽を囲んでいる生徒は、美羽に掃除を押しつけようとしているらしい。
「それとさ、日直の日誌も書いて先生に渡しといて。それから掃除が終わったら鍵も閉めといてよ」
「あ……。でも私、今日は用事が……」
「えっ? なに? 聞こえなーい」
か細い美羽の声は他の生徒の声でかき消される。
高圧的な女子生徒の声に負けて、美羽は顔を俯かせている。
「えっと、その……」
「やるわよね?」
それは有無を言わせぬ命令と変わらぬものだった。
最初こそ抵抗を見せていた美羽も、あきらめたのか小さく頷く。
「うん。分かった……」
「それとぉ」
彼女たちは美羽の机の上にバサバサとノートを置いた。
「これ、今日の課題。代わりにやっておいてくれよな」
「えっ!」
美羽が驚愕したように俯かせていた顔を上げると、囲んでいた生徒たちはそろって意地悪く笑っていた。
「用事があるって言ったでしょ。そんな課題なんてしてる暇ないの」
「それなら、お世話係の人に頼んだら……」
「なに言ってるのよ。そんなことしたらかわいそうじゃない。神薙科の生徒はただでさえ課題が多いんだからさ。そんな気遣いもできないなんて吉田さんたらサイテー」
「ほんとほんと。性格悪いわよ」
いやいや、どの口が言うのか。
ミトはツッコミを入れたいのを我慢した。
美羽に絡んでいない他の生徒は我関せずといった様子。
かかわり合いになりたくないのか、もとより興味がないのか。
どっちにしろ、美羽を助けるつもりはないらしい。
ここはミトが行くべきか。
これまでミトが村でされてきた虐めと比べたら優しいものなので虐めと言っていいのか判断に迷う。
以前蒼真から、ミトは虐められ続けてきてその辺の感覚が麻痺してるなどと怒られたりしたので、なおさら困った。
どうしようかと足踏みしていると、後ろから肩を叩かれる。
ビクッとしたミトが振り返ると、担任である草場がいた。
「あ、先生」
「星奈さん、なにをしているんですか? ホームルームを始めますから早く席についてください」
「はい……」
草葉は今の教室内でのやり取りを見ていなかったのか、いつも通りの様子で教室内へ入っていく。
それとともに美羽を囲んでいた生徒たちも自分の席へと戻って行った。
ホームルームが終わり、生徒が一斉に帰り支度をする。
先程美羽に掃除を押しつかていた生徒たちは我先にと教室を出ていってしまった。
ミトは彼らの背をなんとも言えない表情で見送る。
美羽はひとりで掃除を始めた。
沈んだ表情の彼女を見ていると、ミトの良心が揺れ動く。
今日はミトの当番ではなかったが、先ほどのやり取りを見た後ではなんとも帰りづらい。
「はぁ……」
ミトは息をついてから、持っていた鞄を机の上に置いた。
「きっと千歳君に文句言われちゃうだろうな」
千歳からの苦言は覚悟の上で、ミトはロッカーからほうきを取り出した。
それを見た美羽が驚いたように目を大きくする。
「私も手伝う」
「え、でも……」
「いいの。ふたりの方が早いから。さっさと終わらせちゃおう」
これまで美羽とは接点がなかった。
話をしたのもこれが初めてかもしれない。
なにせ、美羽はいつだって皐月の背後に隠れるようにして付き添っていたから。
「吉田さん。嫌なら嫌ってはっきり言ってもいいと思うよ。でないともっとひどい要求をされちゃうかもしれないから」
強者におもねるのが悪いとは言わない。それもまた平穏に生きるための知恵のひとつなのだから。
けれど、押し殺し続けた心は悲鳴をあげて、いつかぱりんと壊れてしまう。
村で忌み子と呼ばれ続けたミトと違い、美羽は花印を持つ者としてこの町で絶対的な地位が約束されているのだから、同じ立場の彼らの言うことを素直に聞かなくても生きていける。
彼らに反抗するだけの力はすでにその手に持っているはずなのだから。
村での苦しい生活を思い返しながら、ミトはそう忠告した。
しかし、どうやら美羽にミトの気持ちは届かなかったよう。
「それは星奈さんが紫紺様の伴侶だから強気なことが言えるのよ。弱い私は人の顔色をうかがって生きるしかないわ。私の気持ちなんて分からないくせに!」
「吉田さん……」
美羽はミトからほうきを強引に奪った。
「手伝ってくれなくていい……。そんなの頼んでないわ。同情なんてしないでよ。惨めになるだけじゃない! さっさと帰って!」
強い口調で拒否されてしまった。
悲しげな顔をするミトは、全身で拒絶の姿勢をとる美羽にそれ以上なにか口にするのは逆効果になると思い、仕方なく鞄を持って立ち去ることにした。
教室を出るミトと入れ違うようにしてひとりの男の子が教室へ入っていくと、美羽は表情を明るくし男の子にすがりつく。
「陸斗!」
「美羽。また押しつけられたのか?」
「うん……」
「俺も手伝うよ」
すると美羽は涙をにじませ手で拭いながら何度も頷いていた。
複雑な心境のまま教室を出たミトは、外で千歳が立っていたのに気づく。
「千歳君。ごめんね、待たせちゃったね」
「別にいいよ。ていうか、ミトにあれだけ言い返せるなら気にしてやる必要はないって」
「聞いてたんだ」
いったいどこから見られていたのやら。
「彼女なの。昼ご飯の時にカーストがあるって言ったでしょう? これまで現場を見たわけじゃなかったんだけど、彼女は他の特別科の子にいろいろ押しつけられてるっぽいの」
「みたいだね」
「手助けしようとしたんだけど、ちょっと押しつけがましかったかな?」
「いいんじゃない? ミトらしくて。お人好しなとこが」
その言葉には少々嫌味が混じっている気がするのだが、ミトの気のせいだろうか。
「ああいうのは放っておくにかぎるよ。世話係も一緒にいるんだしなんとかするでしょ」
「さっきの男の子が吉田さんのお世話係なんだ」
美羽は陸斗と呼んでいた。
ずいぶんと気を許しているように見えた。
まあ、ミト自身も千歳にはかなり心を許しているので、お世話係との関係は距離が近いものなのかもしれない。
「虐められてるなら止めた方がいいよね。私が言ってやめてくれるかな?」
美羽を囲んでいた生徒たちをミトはよく知らない。
そんな人たちに言葉は届くだろうか。
懸念はもうひとつ。先ほどの美羽の様子だと、ミトがなにかすることを望んではいなさそうだということ。
すると、千歳が真剣な表情でミトを止める。
「やめときなよ。ミトが下手に首を突っ込んでなにかあった時に被害をこうむるのは町全体なんだからさ。ミトだって紫紺様を怒らせたくないでしょう?」
「波琉か……。うーん……」
ミトが虐められていたと知った時に嵐が起こった時のことを思い出してミトは唸る。
あの時は暴風雨で済んだが、天候を操る波琉の機嫌を悪くしないようにと蒼真からも口酸っぱく言われている。
「俺から特別科の担任に言っておくよ。今回はそれで引いておいて」
「うん。分かった」
草葉がなんとかしてくれるだろうか。
いつもやりたい放題の生徒たちをまとめきれていない頼りない姿を見ているに、草葉ではなんともできないような気がしていた。
「まあ、期待はしない方がいいよ。この町では教師なんかより特別科の生徒の方が立場が上だから。普通科のことならまだしも、特別科の生徒のやることには教師も生徒も見て見ぬふりだよ」
やはりそうなのかと、千歳の言葉を聞いてミトは意気消沈した。
「私はごくごく普通の学校生活を送りたいだけなのに……」
ミトのつぶやきに、千歳から「無理でしょ」という言葉が返ってきて、さらにミトを落ち込ませるのだった。
その時、ミトははっとして振り返る。
しかし、その先には誰もいない。
様子のおかしなミトに千歳が首をかしげる。
「どうかした?」
「……ううん。なんでもない。たぶん気のせい」
「なに?」
「なんか最近誰かに見られてるような気がするんだよね。でも、特に誰もいないし。だからきっと気のせい」
きっと皐月の一件で警戒心が強くなっているだけなのだ。
「待たせてごめんね。帰ろう」
ミトは気を取り直して笑顔を見せた。
二章
紫紺の王、波琉の神薙を勤める蒼真は、龍花の町の中心にそびえ立つ神薙本部を訪れていた。
髪をかきあげる蒼真の口にはタバコに見えるお菓子をくわえている。
タバコの煙が苦手なくせに、かっこよく見えるからとタバコをくわえたがるのだから、蒼真という男は少々見栄っ張りなところがあるのかもしれない。
神薙を示す青いカードを壁にある機械にタッチすると、扉が開きエレベーターの中に入れるようになった。
この神薙本部は随所で身分確認が必要となり、龍花の町の中でも一二を争うセキュリティを持っている。
そのままエレベーターに乗り込み、向かったのは最上階。
エレベーターはガラス張りになっており、外がよく見えた。
龍花の町の中でもっとも高い建物である神薙本部の最上階からは、龍花の町が一望できる。
とはいえ、幾度となく神薙本部を訪れている蒼真は見慣れた光景に今さら感動したりはしない。
一度だけ花印の確認のために連れてきたミトは、エレベーターからの絶景にテンションを上げていたが、それはミトが村以外の世界を知らないせいでもあるだろう。
最上階に着き、スーツのポケットに手を突っ込みながらだるそうに歩く蒼真は、どこからどう見てもチンピラにしか見えない。
サングラスもしていたら完璧だったろうに。
時には紫紺の王のボディガードにもなる神薙としては、そのガラの悪さは人を寄せつけないので有効と言えなくもない。
それにしたって怖すぎる。
しかも今の蒼真は不機嫌そうに険しい顔をしているのでなおさらだ。
蒼真がなぜにそこまで機嫌が悪いかというと、それはたどり着いた部屋の中に理由がある。
少々荒々しい手つきでコンコンとノックをして部屋の扉を開ける。
中からの返事がないのに開けるのだから、ノックの意味はほとんどなかった。
それでもかまわずズカズカ部屋の中に入ると、ベッドの上でぼんやりしたように一点を見つめて座っている皐月の姿があった。
事件以後、皐月は神薙本部に引き渡され、それからずっとこの部屋で隔離されていた。
それは波琉の指示であったため、花印を持った特別な人間だったとしても、神薙たちは粛々と従うほかなかった。
なにせ紫紺の王の命令なのだから、神薙が逆らえるはずがない。
しかし、配慮はされているようで、部屋は毎日綺麗に整えられており、掃除も行き渡っていた。
食事もしっかり栄養を考えられたものが届けられていたが、それはテーブルの上に置かれたまま手をつけた様子はない。
それを見て蒼真はさらに顔を険しくさせる。
「飯は食べてねぇのか?」
「…………」
皐月は答えない。
事件の時は誰にも手がつけられないほど大暴れした皐月だったが、神薙本部に連れてこられてからは大人しくしている。
まるで憑き物が落ちたように静かで、それは以前の高慢な皐月とも違っていた。
「食べねぇと体力つかねぇぞ」
「……食欲がないの」
やっと口を開いたかと思うも、その声は弱々しい。
蒼真は困ったように頭を搔いた。
生まれた時よりこの龍花の町で育ち、神薙となってからは深く町に関わるようになった蒼真は、龍神に選ばれた皐月のことは昔からよく知っている。
とはいえ、皐月と深く関わってきたわけではない。
皐月が同じ花印を持つ久遠に選ばれた時にはすでに波琉に仕えていたので、情報は嫌でも入ってきたというだけだ。
その情報からは、いかにも甘やかされて育った花印を持つ人間らしい娘という印象だった。
久遠に仕えていた神薙からは、胃薬が欠かせないと、我儘放題な皐月に対する嘆きを嫌というほど聞いていたので、正直かかわり合いになりたくない種類の人間である。
他の神薙も皐月の相手だけはしたくないと、入れ替わりが激しかったのだ。
久遠が穏やかな性格で、問題が起きても取りなしてくれていたからこそなんとかなっていたと言っていい。
そんな神薙の間では有名な我儘娘がこんなに大人しくなるのだから、蒼真としてもびっくりだ。
「無理でも食え」
「……私のことは放っておいて。久遠様に捨てられた私に媚びても意味ないわよ」
「そんなこと気にしてんな」
顔を俯かせる皐月に、蒼真も気を遣い言葉を選びながら話していると、扉がノックされ返事をする間もなく開いた。
入ってきたのは千歳である。
「お前、返事する前に開けてたらノックの意味ないだろうが」
あきれたように千歳に文句を言う蒼真だが、皐月からはなにか言いたげな視線が向けられる。
きっと、お前が言うなと告げたいに違いない。
「なんだ、蒼真さんいたの」
「いたのじゃねぇよ。ミトはちゃんと車に乗り込むまで見送ったんだろうな?」
「当たり前」
そう、千歳は表情を変えることなく返した。
「それで、なにしに来たんだ?」
「ミトが気にしてるようだから様子見に来ただけ。まあ、そこまで強く関心があるわけじゃないみたいだけど」
「お前、ミトに余計なこと言ってないだろうな」
「言ってないよ。ミトや他の生徒は知りたそうだったけど、この件は教師にも伝えられてないからあきらめたって感じ」
やれやれと蒼真は肩をすくめる。
「暇人が多いな」
「よくも悪くもこの町は話題不足だからね。学校では神薙の資格を持ってるのは俺だけだから質問攻めにあって面倒くさかった」
「だろうな」
ここは龍神のための町。そして、龍神に守られた町。
平穏が約束され、外の世界と隔絶されたこの町で、大騒ぎするほど大きな事件は滅多にない。
「それよりさ、なんかしゃべった?」
千歳の視線が皐月に向けられる。
皐月は自分の話題になると、再び顔を俯かせた。
「今、飯食べろって言ってたところだ」
千歳の視線がテーブルの食事に向くが、興味はなさそう。
「ふーん。で、どうなの?」
千歳が皐月を見る眼差しがやや厳しいのは、ミトを襲ったからだろう。
蒼真としてはふたりが仲良くしているのは歓迎だが、波琉が焼きもちを焼くほどの関係になるのは勘弁願いたいところだ。
波琉のミトへの執着を知る蒼真は、心から願った。
蒼真は俯いた皐月と視線が合うようにしゃがみ、これまで幾人もの神薙が何度となくしてきた問いかけをする。
「あの日の前後、なにがあったか覚えてるか?」
皐月は少しの沈黙の後、首を横に振った。
「なにも覚えてないわ。久遠様が帰ってしまわれて、学校に行ったら周りの視線がすべて変わっていた。周りが全員敵になっていて……」
千歳が小さく「自業自得だろ」とつぶやいたため、皐月が言葉を詰まらせる。
話の腰を折るなというように蒼真がにらんだため、千歳は不機嫌そうに視線をそらす。
「それで?」
蒼真は続きを促すと、再び皐月が口を開いた。
「周りから向けられる視線が嫌になって学校を飛び出して、それから……。それからは……覚えていないわ。気がついたらこの部屋にいたから」
「誰かに会ったとかねえのか?」
「分からない。なにも覚えてない」
一貫して覚えていないと告げる皐月に、蒼真も千歳もお手上げだ。
困ったようにため息をついた蒼真が立ち上がる。
「……私は今後どうなるの?」
皐月には覚えていないという間にあったことを知らせていた。
行方不明となり、姿を現したかと思えば学校で暴れ、ミトやありすを襲ったことなどを。
今の皐月は龍神の後ろ盾がない状態だ。
そんな皐月が龍神の伴侶であるミトやありすを襲ったのだから、どうなるか分からないほど無知ではなかった。
確実に龍神を怒らせたと理解している。
「紫紺様次第だが、今のところお前をどうこうするつもりはないようだ。お前はどうしたい?」
蒼真は問いかける。
「学校へ戻るか?」
皐月はなにかをこらえるように唇をしめてから吐き捨てる。
「こんな落ちぶれた私のどこに居場所があるって言うの」
その言葉にはあきらめの感情しか浮かんでいなかった。
「これだけの騒ぎを起こして、今まで通り暮らすなんて無理よ。少なくとも、紫紺様の勘気に触れてしまっただろうし、私を味方する人間なんていないわ」
沈んだ顔をする皐月。
蒼真はかける言葉を失う。
なぜなら皐月の言葉が事実だからだ。
下手な慰めなど意味はないだろう。
けれど、なにか言わずにはいられない。
「ひと段落ついたらこの本部からは場所を移ってもらうが、お前は花印を持ってる。少なくともこの町にいる間はその生活を保証されているから、その点は安心しろ。学校に行きたくないならそれでもかまわない」
皐月からの返事はなかった。
「また来る。飯食えよ」
そう言って皐月に背を向ける蒼真は、部屋を出た。
その後に千歳も続く。
そして、少し部屋から離れた辺りで千歳が問いかけた。
「紫紺様はあいつをどうするつもりなの?」
「さあな。ただ隔離しろと言われただけで、今のところそれ以上の指示は受けていない。」
蒼真も困っているのだ。
このような問題など、蒼真の知る限り起こった記憶がないから。
ただ、波琉の指示に従うしかない。
「……堕ち神だっけ? あの我儘女その二を操っていた奴って」
「お前その呼び方は駄目だろ。気持ちは分かるが」
蒼真は皐月を『我儘女その二』と呼んだことをあきれ顔でたしなめる。
「そっちはどうでもいいよ。それより堕ち神のこと」
「ああ、堕ち神、な。紫紺様によると天帝より天界を追放された元龍神だそうだ。堕ち神ってのは天界を追放されるとそう長くは存在を保ってはいられないらしい」
「その堕ち神はどうして我儘女その二を操ってたわけ?」
「知らねえ」
蒼真の返事は至極簡単なものだ。
それに対して不満いっぱいの千歳は、神薙の資格を持ってはいても、いまだ龍神に仕えたことはないので、情報不足だった。
「紫紺様から聞いてないの?」
「聞いても詳しくは教えてくださらねぇんだよ。一応紫紺様の命令で、現在龍花の町に滞在されている龍神様方に堕ち神が現れたと伝えたが、どの龍神様も神薙が聞いても教えてはくれない。人間が知る必要のないことなんだとさ。だから俺も堕ち神についてはなんも知らないお前と一緒だ」
「ほんとに?」
千歳は疑いの眼差しで蒼真を見る。
「嘘ついてどうすんだ。こっちはあまりにも情報不足で頭悩ましてるってのによ。そもそもなんだよ、堕ち神って! 元龍神とか人間に相手できんのか!?」
蒼真は八つ当たりするように語気が荒くなっている。
苛立ちを飲み込むように咥えていたタバコのお菓子をボリボリと噛み砕いて食べた。
その様子に千歳がドン引きしている。
「とりあえず、皐月のことはこれまで通り話をそらしとけよ。紫紺様の許しがない限り人間は下手に動けないからな」
「分かった」
千歳はしぶしぶといった様子で頷いた。
***
学校から帰ったミトは、一目散に波琉のいる部屋へと向かう。
「波琉! ただいま!」
ご主人様に会えて尻尾を振る犬のように喜びを隠しもせず部屋へと飛び込む。
そうすれば、波琉は穏やかな笑みを浮かべてミトを迎え入れた。
「おかえり、ミト。危ないことはなにもなかった?」
「危ないもなにも、学校へ行っただけだよ」
「その学校で襲われたのを忘れたの?」
「そうだけど……」
波琉は皐月の起こした事件を言っているのだ。
安全であるはずの学校で襲われたのを忘れたわけではないが、そう何度も同じような事件があってたまるものか。
波琉の横にちょこんと座れば、波琉はニコニコと微笑みながらミトの頭を撫でる。
愛でるようにふれる波琉に、ミトも抵抗なんてしない。
ミトは波琉にふれられるのが好きだ。
恥ずかしさはもちろんあるけれど、それ以上の幸福感がミトを満たしてくれる。
波琉の手はどこまでも優しく、ミトの心を癒してくれた。
そう時は経っていないのに、村での生活が何年も前のことのように遠い昔に感じる。
そう思えるのは、波琉がいるからだ。
「もっとこっちへおいで」
波琉に誘われるままさらに距離を詰れば、引き寄せられ波琉の腕の中にすっぽりと包み込まれた。
奥手なミトは波琉のスキンシップの多さにまだまだ慣れない。
けれど、逃げたいわけではなく、ただただ頬を赤らめる。
「ふふっ。ミトはかわいいね」
そう言って頬に一瞬ふれるだけのキスをされ、ミトの顔はさらに紅潮する。
どうしていいものか反応が分からず硬直するミトだが、内心ではアワアワと激しく動揺していることを波琉は知らないだろう。
「たまにはミトからしてくれてもいいんだよ?」
さあどうぞ。というように波琉はみずからの頬を向けてくるが、とんでもない。
ミトは勢いよく首を横に振った。
自分から波琉にキスをするなんて難易度が高すぎる。
波琉から頬にキスをされるだけでいっぱいいっぱいだというのに。
「無理無理」
顔を真っ赤にして拒否すれば、波琉は残念そうにする。
「えー。頬でも駄目?」
かわいらしくおねだりする波琉はあざとらしく首をかしげる。
いったいそんな仕草をどこで覚えたのやら。
ミトは少々心が揺れ波琉の頬をじっと見つめ考えたが、その美しい顔を間近にするとやはり自分にはまだ早いと顔を背け両手で顔を隠す。
「無理ぃ~」
「あはは。残念」
波琉ののんびりと楽しそうな声色を聞いていると本気で残念に思っているのか判断しづらい。
ただミトをからかって遊んでいるだけではないのかと思いすらする。
波琉は顔を隠すミトの両手を外し、指を絡めるように握った。
ミトにはそれだけでも羞恥心で身悶えたくなる。
「龍神は気が長いから焦らなくても大丈夫だよ。でもいつかはミトから。ね?」
人畜無害そうな笑顔で『ね?』なんて言われても、ミトも『はい』とは答えられそうにない。
ミトが心の中で自分からキスできるかできないか葛藤している間、波琉はミトの手を弄ぶように指をからませている。
ふと、その手が止まると、波琉は今思い出したように口を開いた。
「そうそう、ミト。今度煌理が来ることになったよ」
「おうり? 誰?」
聞いた覚えのない名前にミトは首をかしげる。
「金赤の王だよ」
「金赤の……。波琉と同じ龍神の王様?」
「うん」
波琉と立場を同じくする、龍神たちをまとめる四人の王。
紫紺の王である波琉。白銀の王。漆黒の王。そして、金赤の王。
「どうして来るの?」
「少し前、天界へ帰る久遠に煌理への伝言を頼んでいたんだよ。龍花の町に来てくれるようにって。星奈の一族がどうして龍花の町から追放されたのか、本人に聞くのが一番早いからね。久遠は煌理の側近だけど知らないみたいだったから」
「そうなんだ」
ミトは思い出す。
星奈の一族が龍花の町を追われたのは、金赤の王が命じたからだ。
それが起きたのは百年前。ミトが生まれるずっとずっと昔のことで、龍花の町では星奈の一族のことが禁句扱いになっており、尚之や蒼真でもなにがあったのかを知らない。
「金赤の王様に聞けば、百年前になにがあったか分かるの?」
なぜ自分が星奈の村で虐げられていたかも。
「たぶんね」
「そう……」
知りたい。けれど知るのが怖い……。
なぜ自分はあんなにも理不尽に村の人たちから嫌われていたのか。
花印を持つ者がどうしてあの村で忌むべき存在となったのか、それは両親ですら知らない。
知ることで余計に辛くなりやしないかと、ミトは心配で表情が曇る。
そんなミトの頭を波琉が優しく撫でる。
「大丈夫だよ。僕がいるからね」
すべてを包み込むような波琉の笑顔が、ミトの中の不安を吹き飛ばしてくれる。
「うん」
百年前なにがあったのか。もうすぐその理由が知れる。
それから数日のこと。
朝食を終えて学校へ行く支度をしていたミトのところに蒼真がやって来る。
「ミト。今日は学校は休め」
「えっ、どうしてですか?」
もう制服に着替えて準備万端だというのに。
「先ほど神薙本部から連絡があって、金赤様がこの龍花の町に降りられた。そのまま紫紺様のいらっしゃるこの屋敷にお越しになるそうだ。紫紺様が、金赤様との話し合いにはミトも同席するようにだとさ」
「そういうことですか」
あらかじめ金赤の王が来ると教えられていたミトは特に驚かなかった。
そして、金赤の王が過去に来るのは星奈の一族について話すためだとも理解した。
「分かりました。じゃあ、千歳君に連絡を……」
ミトはスマホを手に持って、千歳にメッセージを送ろうとした。しかし……。
「もうしてある」
「えぇ!」
蒼真の先を行く対応に、ミトは喜ぶでも感心するでもなく、ひどく残念そうな顔をした。
そんな顔をされる理由が分からない蒼真は不思議がる。
「なんか問題か?」
「私が連絡したかったです。せっかくスマホを使うチャンスなのに……」
「あー、そういうことか」
蒼真はあきれ顔。
これまで村で暮らしていたミトには、スマホなどという外部と接触できるツールなど与えられなかった。
存在は知ってはいても、手に入れるなど夢のまた夢でしかない。
それが、この町にやって来たことで、学校にも通うし連絡を取れるようにしておいた方がいいだろうと、ミト専用のスマホが用意された。
初めて手にするスマホに、ミトは目を輝かせながら大喜びしたものだ。
とはいえ、学校で友達などできなかったミトのスマホの中に登録されている名前は数える程である。
せっかく手に入れたのに使う機会がまったくないのだ。
そんなミトにとって、今まさにスマホという夢のツールを使う時であった。
それが、あっさりと蒼真によって壊されたのだから、がっくりと肩を落としてしまうのは仕方ない。
蒼真もなんとなく理由を察したようで、少々申し訳なさげであった。
「持ってりゃ今後も使う機会はいくらでもある。今回はあきらめろ」
「はい……」
ミトは泣く泣くスマホを元の位置に戻した。
そしてせっかく着た制服を着替えると、波琉の部屋へ向かう。
蒼真は金赤の王を迎える準備があるからと、急ぐように行ってしまった。
神薙という職業はなにかと大変そうだ。
いつもは比較的静かなこの屋敷が、今日ばかりは少し騒がしい。
人も普段より多い気がする。
ミトが廊下を歩いていると、黒猫のクロが、スズメのチコとともに日向ぼっこをしていた。
「おはよう。クロ、チコ」
『おはよう。ミト』
普通の人間にはチュンチュンとしか聞こえないチコの言葉を、ミトはしっかりと理解していた。
チコに続いて、大きなあくびをしたクロが挨拶する。
『おはよう~。なんだか今日は朝から騒々しいわね。知らない人間が出入りしていたわよ。なにかあるの?』
「これから金赤の王様がここに来るんだって」
ミトはしゃがんでクロの頭を撫でた。
『ふーん、そうなんだ』
クロは金赤の王と聞いてもあまり興味はないようだ。
「そういえば、シロは?」
ミトは犬のシロを探して周囲を見渡すが、白いもふもふは見当たらない。
『朝ごはん食べてから森の奥に行っちゃったわ。夜には戻るでしょう』
「シロはここに来てからずいぶん楽しそうね」
ミトはクスクスと笑う。
元は村長の家で飼われていたクロとシロだが、二匹はあっさりと村長たちを捨ててここに一緒に来ることを望んだ。
もともとクロもシロも、ミトを虐める中心的存在である村長一家を嫌っていたので、捨てる決断は早かったようだ。
おバカかわいいシロはあまりよく考えずに、大好きなクロが家を出る選択をしたから一緒に来たという感じもするが、結果的には自由に走り回れる大きな庭のあるこの屋敷に来て正解だったのだろう。
村では他の住人もいるため放し飼いとはいかずに、散歩以外は外の犬小屋を家にして首輪と鎖でつながれていたから。
その頃を思えばかなり自由にしている。
それはシロだけでなく、クロも村長の家にいた時よりリラックスしているように思える。
のんびり日向ぼっこをしている姿をよく見かけるのだ。
そこには時々チコを見かける。
鳥と猫という危うさの感じる生き物同士だが、同じくミトのために戦った同志として仲良くやれているみたいだ。
クロもチコも好きなミトにとったらとても嬉しい。
そうしてクロとチコとおしゃべりをしていると、違和感を覚える。
強いなにかが迫ってくるような重圧感。
それはクロとチコも敏感に察知したようで、寝転んでいたクロが起き上がる。
「なんだろ。なんか変な感じ」
『たぶんさっきミトが言ってた龍神様ね。波琉と似た大きな力を感じるもの』
「いわゆる神気ってもの?」
『そうね。人間は鈍いから気づきにくいけど、ミトは勘がいいからすぐ気づいたわね』
それがいいのか悪いのかはミトには分からない。
『波琉は凪いだ海ように穏やかな神気だけど、金赤の王ってのは燃えるような荒々しさが少しあるわね』
そう、クロは神気の違いを分析する。
「うーん。私にはよく分からない」
『まあ、人間はそんなものよ。とりあえず神様だって崇めるのを忘れなければいいんじゃない?』
『そうそう。神罰なんて受けたくないものね』
チュンチュンとチコが同意するが、なにげに怖いことを言っている。
それは波琉と同じ花印を持つ自分とて失礼なことをしてしまったら神罰を与えられるのではないかと、ミトは怯えた。
なにが龍神の逆鱗に触れるのかミトはまだ龍神というものをよく知らないのに、どうしたらいいのだろうか。
金赤の王との話し合いにはミトも同席することになっているのに、ヘマをやらかしてしまったらどうしたらいいのだろう。
ミトは急に怖くなってきた。
これは早く波琉のとかろへ行って、波琉の後ろで大人しくしているのが賢明だと判断したミトが立ち上がると、角を曲がり尚之に先導されて誰かがやってくる。
腰ほどある長い赤茶色の髪。
快活そうな美しい男性で、どちらかと言うと細身で中性的な波琉と比べると男性的な引きしまった容姿をした男の人。
その瞳の色は金赤色。
紫紺の色を瞳に持つ波琉が紫紺の王だというなら、きっと彼が金赤の王なのだろうとミトはすぐに察した。
なにより、彼からあふれ出るオーラのようなものが人ではないと教えてくれる。
この町に来た最初こそ分からなかったが、波琉と過ごすようになってなんとなく分かってきた神気というものだ。
そんな男性の隣には、着物を着た若い女性がいる。
見るからに品があり、黒い艶やかな髪は結い上げており、髪に刺された控えめな飾りのついた簪がゆらゆら揺れている。
金赤の王と思われる人は、その女性をエスコートするように手を引いて歩いてくると、ミトの前で足を止めた。
そして、ミトを値踏みするようにじっくりと見つめ、ミトの左手にある花印に目を止めて納得したような顔をする。
「なるほど、お前が波琉の伴侶か。名前は?」
「ミ、ミト。星奈ミトです!」
「星奈……」
とたんに金赤の王の顔が険しくなり、ミトはびくりとする。
自分はなにかしてしまったのだろうか。
『神罰』という文字が頭を過ぎり、ミトはビクビクと怯えた。
「あ、あの……」
「聞いてはいたが、本当にあの女の一族の子孫なのだな」
怖い……。
なにが彼の琴線に触れたのかは知らないが、目の前の人物が不機嫌だということは嫌でも伝わってきた。
まさに蛇に睨まれた蛙のように硬直するミトを見る金赤の王だったが、突如彼の横っ腹に肘打ちがめり込んだ。
一瞬痛そうな顔をした金赤の王は、自分に攻撃した隣に立つ女性に目を向ける。
「千代子、なにをする?」
「あなたがかわいらしいお嬢さんを虐めているからですよ」
「虐めてなどいない」
「いいえ、虐めてます」
千代子と呼ばれた女性はニコニコしながらも、金赤の王に有無を言わせなかった。
そして、金赤の王とつながれた手を振り払い、固く握りしめられたミトの手をそっと包むように手を乗せた。
「ごめんなさいね、怖かったでしょう」
「あ、いいえ! そんな……」
「いいんですよ、本当にこの人ったら見た目はいいくせに、それをあまり理解していないのよ。綺麗な人ににらまれると迫力があって逆に怖いわよね」
「えーと……」
確かにその通りなのだが、本人がそばにいる手前、肯定していいものかミトは悩む。
「さあさあ、かわいらしいお嬢さんを虐める悪人は放って、行きましょうね。尚之さん、案内をお願いします」
「かしこまりました」
尚之は心配そうな目線をミトに向けてから動き出し、千代子もミトの手を引いて歩みを進めた。
「こ、こら、千代子」
慌てたように後ろから金赤の王がついてくる。
「えっ、えっ?」
ミトは混乱しながら千代子に引っ張られるしかない。
そして、波琉の部屋までやって来ると、ようやくミトの手が離された。
部屋の前には蒼真が正座しており、金赤の王と千代子に向けて頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。金赤様。千代子様。紫紺様が中でお待ちです」
すっと尚之が襖を開けると、尚之と蒼真がいるのはここまで。
部屋の中にはミトと千代子と金赤の王だけが通された。
中へ入ると、助けを求めるように波琉のそばに駆け寄り、一歩後ろで波琉の背に隠れるように座った。
そして、千代子と金赤の王は、波琉の向かいに座る。
「遅かったね。待ちくたびれたよ」
「なにを言う。久遠からの連絡があってそんなに時間は経っていないだろう」
「久遠が帰ってから結構経ったよ。ねぇ、ミト?」
「えっ、あ、えっと……」
急に話を振られたミトは言葉に詰まった。
そんな少し様子のおかしなミトに波琉はすぐに気がついた。
「ミト、どうかした? なんか怖がってる?」
なんでもないと言い返そうと思ったが、千代子の方が早かった。
「先ほど煌理様が威圧して虐めてしまわれたのですよ」
「おいおい。言いがかりだろ」
金赤の王は苦い顔をするも、千代子は言葉を翻さない。
すると、波琉からそれまで浮かんでいた笑みが消える。
「煌理。僕のミトになにかしたなら、君だろうと容赦しないよ」
とたんに重くなる空気に、ミトだけでなく千代子の顔色も悪くなる。
それに加え、なにやら外から雷のゴロゴロという音も聞こえてきたので、さすがにこれまでに学習したミトは、波琉が怒っているのを悟る。
その一方で、金赤の王は驚いた顔をしていた。
「……お前がそんな顔をするとはな。よほどその娘が大事なようだ」
「当たり前だよ。ようやく見つけた僕の唯一だからね」
冷え冷えとした眼差しで金赤の王を見つめる波琉とは反対に、金赤の王は柔らかな笑みを浮かべていた。
「くくくっ。お前がここまで変わるとはな。安心しろ。お前の唯一に手を出すほど愚かではない」
耐えきれずに声を上げて笑う金赤の王に、波琉は苦虫を噛み潰したような顔をする。
それとともに、雷もどこかへ行ってしまったようだ。
ほっとするミトだが、きっと部屋の外で待機している蒼真や尚之も安堵していることだろう。
中の様子が分からない分、空模様が急に変わって焦りまくっていたはず。
後で説明を求められそうだなと思っていたら、金赤の王と目が合った。
反射的に体を強ばらせるミトだったが、金赤の王は先ほどとは違う穏やかでいて親しみのある笑みを向けてきた。
「先ほどはすまなかった。特に怖がらせたいわけではなかったが、結果的に怖がらせてしまったな。もうしないと約束する」
「いえ。金赤の王様になにかされたわけではないですし」
「煌理でいい。金赤の王などといちいち呼ぶのは長いからな。私の伴侶である千代子とて、波琉と呼んでいる」
ちらりと千代子に視線を向ければ、笑顔で頷いたのを見て、ミトも素直に受け入れる。
「はい。ありがとうございます。煌理様」
「ああ」
どうやら怖い人ではなさそうだと安堵するミト。
先ほど伴侶と言われた千代子も優しそうな雰囲気の人で、ミトはいろいろ話を聞きたくなった。
なにせ波琉からは煌理の伴侶は花印を持つ人間だと聞いていたからだ。
つまりはミトの先輩。
天界がどういうところなのか、どういう生活をしているのかとても気になる。
けれど、先に済ませておかねばならない重要な話があった。
「それで、さっそく本題に入りたいんだけどいいかな?」
波琉が切り出すと、煌理も真剣な顔をする。
「星奈の一族に関してだったな」
「そうだよ。百年前なにがあったか知りたい。そのせいでミトは生まれてからずっと大変な目にあっていたからね」
「どういうことだ?」
煌理はミトの生い立ちまで聞いていないのか、不思議そうにする。
波琉はミトを見る。
「ミト、話して構わない?」
「うん。でも、私から話す方がいいかな?」
「辛い記憶をわざわざ口にする必要はないよ」
そう言って、波琉はミトの頭を撫でた。
まるで、ミトのつらい気持ちすら自分が引き受けるとでもいうように。
ミトは波琉に甘えることにした。
正直言うと、村での生活を思い返しながら自分から話すのは涙が出そうなほどしんどいのだ。
そうして、波琉からミトが生まれてから星奈の一族の村での扱いが伝えられた。
時々顔を険しくさせる波琉からは村民への怒りが感じられると同時に、空が曇ってきたのでいつ雷が落ちないか心配でならない。
やはり自分から伝えた方がよかったのではないかとミトは後悔した。
ミトの生い立ちが話終わると、煌理も怒りを感じた表情をしており、千代子にいたっては悲しげに目を伏せていた。
「あの一族はまったく変わっていないようだな」
煌理の口から吐き捨てるように紡がれた言葉には、嫌悪感があった。
「……ミトさんがそんな目にあってしまったのは私のせい、なのかもしれませんね」
千代子から発せられた小さな声を聞き取った煌理が強く否定する。
「馬鹿言え! あれは星奈の一族が悪かったのだ。あの女が元凶であるのは間違いない」
そう言って千代子を腕に抱きしめた。
それでも千代子の顔色は晴れない。
「ですが、九楼様が堕ち神となってしまったのも、その事件があったからです」
千代子の『堕ち神』という言葉にミトだけでなく波琉も反応する。
「なにがあったんですか? 百年前に」
煌理は千代子を抱いたままゆっくりと話し始めた。
今や龍花の町の人間が知らない百年前の出来事を。
「話しは百年ほど前、私に花印が浮び、龍花の町へ降りたことから始まる。すでに家族とともに龍花の町に移り住んでいた千代子を見つけるのは至極簡単だったな。まだ幼かった千代子の成長を間近で見られるのは私の楽しみでもあり、千代子も歳を経るごとにつれ、私への好意を抱いてくれているのを感じるのが嬉しかった」
昔を思い出しながら話す煌理の顔は優しく、千代子をどれだけ愛しているのかが伝わってくるようだった。
けれど、突如として煌理の表情が抜け落ちる。
「そんな千代子には友人がいた。星奈キヨという千代子と同じ歳の娘だ」
ミトははっとして反芻する。
「星奈……」
自分と同じ星奈の名前。
「当時星奈の一族は代々優秀な神薙を輩出する名家だった。そんな名家から初めて花印を持って生まれたのがキヨだ。星奈の一族はそれは大事に育てていたのを覚えている」
「ま、そうなるだろうね」
波琉は冷めた声色で相づちを打った。
誰よりも神のそばに仕える神薙だからこそ、花印を持つ者への扱いには慎重だったのだろう。
「キヨはよく私の屋敷に顔を出していた。千代子とは仲がよかったからな。私もキヨが遊びに来ることに否やはなかった。千代子も楽しそうにしていたし、よく三人でお茶会をしたりもしたものだ」
話しだけを聞いているとここまでなにも問題はないように思える。
「楽しかった……。そう、私も千代子とキヨといる時間はとても楽しく、天界では味わえない穏やかな幸福感に満たされていた」
煌理はどこか悲しげな目で昔を懐かしむ。
それは隣にいる千代子も同じであった。
「そんな関係が壊れ始めていたことに気づけていたら、もっと違ったのかもしれない」
「なにがあったの?」
波琉が問う。
「私が鈍かったのだろうな。年頃の女性に成長してきたキヨは、いつからか私に恋心を抱くようになっていた。それにより、私の伴侶である千代子を邪魔に感じ出したのだ」
「あの……。邪魔もなにも、花印が違う龍神様に好意を持っても報われるんでしょうか?」
ミトがおずおずと口を挟む。
「いや、花印とは天帝が決めた龍神と人とのつながり。花印が違えば天界へ連れていくことは叶わない。そもそも私は千代子を愛していたからな。他に目は向いていなかった。キヨにもそうはっきりと告げ、私のことはあきらめるようにと言い聞かせていた」
「キヨという方はそれで納得したんですか?」
「いや、それどころか、千代子を排除しようと動いたのだ」
ミトが千代子に視線を向けると、顔を俯かせている。
「キヨには普通の者とは違う不思議な力があった」
体をびくりとさせたのはミトだ。
ミトもまた動物と会話できるという普通の人間にはない不思議な力がある。
これは偶然なのか、星奈の一族自体にそういう力を持った者が生まれやすいのか、ミトには分からない。
「どういう力だったの?」
ここで初めて強い興味を示した波琉が問う。
「人を操る力だ」
苦々しく感じているのか、煌理の顔が険しくなると、波琉もまた眉根を寄せた。
「人を操るってどういうの?」
「その言葉通りだ。本人の意思を奪い、自分の思うように命令を遂行させられる。キヨはその力をみずからの一族に使い、あろうことか千代子を殺そうとした」
「そこまでするなんて……」
ミトは両手で口元を隠す。
「千代子がいなくなれば、自分が伴侶になれると本気で思っていたようだった。ありえないというのに」
ミトは衝撃を受ける。
そんなことで人の命を奪おうとするキヨという人物に対して。
そして、人にはない力は時に人の命を奪おうと思えるものなのだと知り、ミトは自分の力が危険なものなのではないかと初めて怖くなる。
「キヨさんはどうなったんですか?」
目の前に千代子が無事でいるというのを考えれば、キヨの計画は防がれたと考えていいはずだ。
「キヨは、私が殺した。操られた人間たち諸共な」
淡々とした口調の煌理からは、なんの感情も感じられなかった。
ミトもどう反応していいのか分からない。
そんな中で波琉は関係ないとばかりに口を開く。
「珍しいね。基本的に温厚な君が操られた被害者と言ってもいい者たちまで殺すなんて。いくらでも手加減できただろうに。ましてや、最愛の伴侶を殺そうとした害悪に安易な死を与えるなんてずいぶん優しいんだね」
「操られていたと言えど千代子を殺されそうになって手加減できなかったんだ。キヨに対しても同じだ。殺してしまった後で、千代子を狙った罪をその身に償わせればよかったと後悔したさ」
そのふたりの会話の内容を聞いていたミトは、やはり龍神なのだなと再認識させられていた。
淡々と人の死を語っている。
慈悲と冷酷さのふたつを相反するものを持ち合わせているのがきっと神なのだろう。
「私はその事件の後、星奈の一族を龍花の町から追放した。それまでにもキヨの危なっかしさを感じていた私は、キヨをよくよく見張るように言いつけておいたのに、見張るどころか一族の中には逆にキヨに協力する者もいたのでな」
「なるほどねー。それは追放されてもおかしくないね。僕だったら同じことがミトに起こったら、町どころか国から出ていけって言ってるかも」
膝を立てて頬杖をつく波琉は少々あきれ気味でそう言った。
「それで、さっき言ってた堕ち神がどうして星奈の一族に関わってくるの?」
「キヨを私が殺したことでそれに怒った者がいたんだ。それは、キヨと同じ花印を持つ龍神だった。九楼と言って、漆黒の王に連なる者だ」
「えっ、その方には同じ花印の龍神様がいらっしゃったんですか?」
ミトはびっくりして目を大きくする。
なにせ、煌理を好きだったというから、てっきり龍神の伴侶はいないものと思っていたのだ。
「ああ。と言っても、キヨは私が好きだと言って、九楼の求愛を断っていた。それもあって九楼からは憎々しく思われていたようだが、さすがに王である私になにかするわけではなかった。しかし、私がキヨを殺したことで歯止めが消えてしまってな」
煌理は、小さく嘆息した。
あまり思い出したくない記憶なのだろうか。表情が曇っている。
「怒りを私だけに向けてくるならまあいい」
「いや、よくないでしょう。人間界で龍神同士が戦うのはご法度だよ」
「そうなの?」
思わずふたりの会話を遮るようにミトが声をかけてしまった。
波琉は怒ることもなく、ミトに微笑む。
「そうだよ。龍神といっても制約がないわけではないんだ。特に人間界にいる間わね。天帝が取り決めたルールがあって守らないと堕ち神になる場合もある。それはまたいつか教えてあげるね」
「うん。話の腰を折っちゃってごめん」
ミトは申し訳なさそうにした。
気にする必要はないというようにミトの頭を撫でてから、波琉は煌理に視線を戻した。
「それで、その龍神はなにしたの?」
「手がつけられないほど怒り、龍花の町で暴れ回った結果、多くの命を奪ったのだ」
「あー、それは駄目だね。天帝から罰を与えられるのも仕方ないか」
波琉は納得しているが、ミトは首をかしげる。
ミトには違いが分からなかったのだ。
疑問符を浮かべるミトの様子に気がついた波琉が声をかける。
「どうしたの、ミト?」
「いや、煌理様は千代子様の命を狙われて操られた人やキヨさんを殺したのに、その九楼っていう龍神様がたくさんの命を奪ったのはいけないの? どっちもたくさん殺したことに変わりはないのに」
ミトの素朴な疑問だ。
別に煌理を責めるわけではないが、やっていることは同じように感じるのに、九楼だけが罰を与えられたというのが腑に落ちない。
「そこが気になったのか。まあ、確かに同じように感じるけど全然同じじゃないんだよ」
「ん?」
「ねえ、煌理。命を狙われた時に千代子とは花の契りを交わしていたんだよね?」
「ああ。その通りだ」
またミトの分からない単語が出てきた。
『花の契り』
波琉はミトに目を向け説明する。
「花印を持った人間が天界へ行くためにはね、龍神に選ばれればいいってものではないんだよ。それ以外に花の契りという契約を交わす必要があるんだ」
「それをしないと天界へ行けないの? 私も?」
「そうだよ。そして、その花の契りをしている伴侶は龍神と同じ存在とみなされる。それを踏まえた上で考えてみて。人間が龍神の命を狙ったとしたらどうなると思う?」
「龍神様を怒らせちゃう?」
ミトは自信なさげに答えた。
「その通り。龍神を害そうとする人間に神罰を与え、神の威光を知らしめたところでなんら問題ない。人間に舐められたら駄目だからね。だから龍神と同等の存在である千代子を殺そうとした人間たちは、ただ神罰を与えられただけなんだよ。ここまではいい?」
「うん……」
「けれど、その九楼という龍神は、なんら罪のない命を無為に奪った。その中にはきっと人間だけじゃない命も含まれていただろうね」
煌理に視線を向けると、波琉の言葉を肯定するように頷いた。
「天帝は罪なき命を刈り取ることを許しはしない。だから、その罰としてその者は天界から追放されたんだ。至極真っ当な理由だよ」
「同じだけど違うってのはそういうことなんだ」
「うん、そうだよ」
波琉はニコニコとミトの頭を撫でた。
小さな子を褒めるような行いにミトは恥じらう。
「それにしても、その龍神が怒ったってことはキヨという子と花の契りはしていなかったのか……」
つぶやくような波琉の言葉に、煌理が肯定する。
「ああ。なにせ、私を追っかけ回していたからな。だが、キヨの悪いところは、はっきりと拒否はせずにあいまいにしつつ九楼を手放してはいなかったことだ。だからこそ、九楼もあきらめきれずキヨから離れられなかった」
「うわー、最悪」
波琉が嫌悪感をあらわに顔をしかめる。
ミトもそれがいかにひどいか分からないほど恋愛に無知ではない。
「いいように使われちゃったんだね」
「ああ。だから、九楼が堕ち神となった時、桂香はキヨに対してかなり怒っていたな。自分の身内から堕ち神を出す原因となった女なのだから」
「苛烈な彼女ならそうなるだろうね。もしかして星奈の一族を追放したのもそれがあるから?」
「ああ。星奈の一族を皆殺しにしかねない勢いだったからな。桂香まで堕ち神にするわけにはいかない」
会話を続ける波琉と煌理のそばで、千代子がそっと教えてくれる。
「桂香様とは漆黒の王のお名前ですよ。波琉様にも負けず劣らずお美しい女性の龍神様なのですが、怒らせると天界一怖い方なので気をつけてくださいね」
「そうなんですか。ありがとうございます」
ミトひとりだけ話についていけなかったのでその情報は非常に助かった。
漆黒の王は苛烈な女性。というのをミトは胸に刻んだ。
それにしても皆殺しとは穏やかではない。
「全員が全員キヨに加担していたわけではなかったが、キヨを止められなかった責任と桂香のことを考慮して追放としたのだ。その後星奈の一族がどこへ行ったかは私も知らない。まさか、よかれと思ってしたことが巡り巡って波琉の伴侶に辛い思いをさせるとは思わなかった。すまない。私の責任だな」
煌理は素直に謝ったが、ミトは煌理が悪いなどとは微塵も思っていないので慌てた。
「いえ! 確かに村での生活は苦しかったけど、今は波琉がいるから大丈夫です」
「それなんだけどさ、村の人たちはキヨや星奈の一族の罪を知っていてミトを虐げていたのかな?」
などと、突然波琉が言い出したが、確かにそこは気になるところだ。
両親は花印が村にとってよくないものとは代々教えられていたが、なぜなのかまでは知らなかった。
村の中でも、真由子ぐらいの若い世代の子たちも知らなかったのではないかとミトは思っている。
「……村長なら、知ってたかもしれない。たぶんだけど……」
村長以外にも年寄りは知っていたのではないだろうか。
確証があるわけではないのだが、ミトを見るあの目を思い出してそう感じさせた。
まるで危険なものでも見るかのような目。
そして、執拗に外に出さないようにしていたのは、なにか理由があったのではないかと思っていた。
「本人に聞いてみようか」
「えっ!?」
突然の波琉の発言にミトはびっくりする。
「蒼真~!」
声を大きくして部屋の外に向かい波琉が呼びかけると、すぐに蒼真が襖を開いて姿を見せた。
「御用でしょうか?」
「うん。あのさ、星奈の村の村長たちってどうなった?」
「花印を故意に隠していた罪で裁判中ですね。その者たちがなにか?」
「村長たちと話とかできる?」
蒼真は一瞬間が開いたが、すぐに頭を下げた。
「紫紺様がお望みとあらば、すぐにでも手配いたします」
「じゃあ、頼むよ」
「かしこまりました」
今は煌理もいるからだろうか。
いつもより蒼真の態度が丁寧なのでなんか変な感じだ。
完璧な笑顔を仮面のように貼りつけた上で、猫を何重にも被っていて気味が悪い。
しかし、空気の読めるミトは口にはしなかった。
三章
ひと通り話を聞いたので、煌理と千代子は自分たちに用意された屋敷へと向かっていった。
千代子とはもっと話をしたかったが、星奈の一族の罪を教えられたすぐでは、少し頭を整理する時間が必要だった。
ふたりはしばらく龍花の町に滞在するというので、話をする機会はこれからもあるだろう。
煌理はというと、波琉に大量の書類を持ち込んでいた。
目の前に積まれた書類を苦々しく見る波琉は、今にも頭を抱えそうな顔をしている。
煌理は実に楽しげに、「お前の優秀な補佐からだ」という言葉を残していった。
「瑞貴……」
その名前は以前にも聞いた覚えがあったのでミトは知っていた。
紫紺の王である波琉を補佐している龍神のことだと。
ふたりが帰った後、波琉は大きなため息をつきながら書類に目を通していくことにしたようだ。
ミトは波琉の邪魔にならないように部屋を出て、大きな庭にあるミトの実家に向かった。
今は両親が住んでいるが、食事などの時はミトもこの家で取るし、暇があれば訪れているので、そういう意味ではあまり今までと生活は変わっていない。
両親はそれぞれこの町で仕事を斡旋されて働いているが、今日は休んでいる。
それは煌理が来て、星奈の一族についての話し合いがされると聞いていたからだ。
なにかあればミトのサポートをしたいとわざわざ仕事を休んでくれた。
なので両親にも先ほど煌理から聞いた話を伝える必要がある。
きっと心配してくれているはずだ。
「ただいま~」
正確にはミトが住むのは波琉がいる屋敷の方なのだが、やはり生まれながらの家に来ると帰ってきたという気持ちが浮かんで『ただいま』と口から出てしまう。
ミトが靴を脱いでリビングへ行くと、両親が待ちかまえていた。
「ミト。もう話は終わったのか?」
「うん」
父親の昌宏は新聞を広げながら心配そうにミトをうかがう。
「今、お茶を淹れるわね。話はそれからにしましょう」
母親である志乃はお湯を沸かし始めた。
お茶が用意されるまでの間、なんとも言えぬ緊張した空気が漂う。
昌宏も志乃も早く聞きたくて仕方ないのだろう。
星奈の一族によって大きな影響を受けたのは、ミトだけでなく両親もなのだから。
村人と接する機会が多かったことを考えると、ミト以上に深刻だったかもそれない。
両親は決して弱いところをミトには見せなかったが、村での生活で苦労していたのをミトは知っていた。
だからこそ、両親もこの町に連れてこられ、こうして一緒に暮らせて本当に安堵しているのだ。
お湯が沸き、志乃が人数分のお茶を淹れたカップをテーブルに置いていく。
ひと口飲んでほっと息をつくミトは、両親の顔を見て話し始めた。
先ほど煌理から聞いた星奈の一族のこと。
百年前になにがあり、どうして星奈の一族は追放されたのかを。
「私が忌み子って言われ続けていたのは、たぶんその件があったからだと思う……」
まだミトも確証があるわけではないが。
「どれだけの村人が知ってたか分からないけど、少なくとも知っていそうな村長に近々波琉が話を聞くらしいから、そこではっきりすると思う」
両親の反応はというと、昌宏は怒りを感じ、志乃はあきれているように見えた。
「なんなんだ、それ! そんな昔のことに振り回されていたってことか!? 悪いのはその女であって、ミトは関係ないだろう!」
「ええ、まったくだわ。追放されたからその女のことを恨んでいたのかもしれないけど、周りの人間だって同罪じゃないの。それなのに、百年も経ってミトひとりが悪いようにすべてを押しつけるなんてっ」
ふたりは事実を知って憤っているようだ。
かく言うミトも複雑な心境だった。
まさか百年も前の出来事が今になって自分に影響を及ぼしているのだから。
「お父さんもお母さんも知らなかったんだよね?」
「ああ」
「私も全然知らないわ。ただ年上の人たちから花印を持つ者は不吉だってことぐらい。その理由なんてミトが生まれるまでは考えすらしなかったもの」
それはある種の洗脳だったのかもしれない。
両親のようになにも知らずその言葉だけを信じてミトを忌み子とした村人はそれなりにいたのではないだろうか。
なにが悪いかも考えず、自分たちのすることが善と思い込んで。
それに振り回されたミト一家はいい迷惑だ。
まあ、村長たちは花印の子を隠していた罪で裁判中とのことだが、反省はしていないような気がしてならない。
「それにしてもキヨ、だったかしら? 彼女も特別な力があったのね。ミトみたいに」
志乃もそこは気になったようだ。
「うん。そうみたい」
「人を操る力なんて怖いけど、よくよく考えたらミトの力も使い方によってはかなり怖いわよね」
「そうだな。村長たちに隠していたのは正解だった。じゃなきゃミトになにをしていたか分かったものじゃない。もっと最悪な環境に身を置かされたかもそれないな」
志乃と昌宏は顔を険しくさせている。
ふたりの言うように、人を操る力と動物と会話できる力の違いはあれど、動物たちはミトを村から出すために協力して村人を襲った過去がある。
もちろんそれはあくまで襲うふりだが、ミトが望めば本当に人を襲っていてもおかしくはなかった。
ただでさえ手にアザがあるだけで大騒ぎとなったのだ。
そんな力もあると知ったらどういう行動に出たか考えるだけで恐ろしい。
両親の判断は正しかったのだと思う。
すると、志乃が「あっ、でも……」と口を開いた。
「波琉君によると、ミトほどじゃないけど、花印を持つ人間は少しなりとも不思議な力があるらしいわよ」
「え、そうなの?」
初耳なミトは驚いた。
「ええ。もともと花印には神気が含まれているらしくて、その影響で勘がよかったり、予知夢?みたいなのを見たりする子だったりいるそうよ。まあ、実際に活用できるほど強い能力を持つのはごく稀な上に、本人が気づいていないパターンが多いんですって」
「じゃあ、私の能力もこれのせい?」
ミトは己の左手の甲にある椿のアザに視線を落とす。
「かもしれないわねぇ。といっても、私も聞きかじりだから詳しいことは知らないのよね。気になるなら波琉君に聞いたらいいわよ」
「うん」
そういわれてみれば、波琉はミトに動物と話せる力があると聞いても特に驚いたりはしなかった。
過去、不思議な力を持つ人間がいたとも言っていた気がする。
他の特別科の生徒はどうなのだろうか。
気になるが、特別科に友人がいないミトには情報が入ってこない。
うぬぬっと眉間に皺を寄せるミトになにを思ったのか、昌宏が表情を明るくさながらミトの肩を叩く。
「まあ、なんにせよ、ここにいたらもう安心だ。波琉君もそばにいるんだしな」
「あら、やっと波琉君を認める気になったのね」
志乃が微笑むが、昌宏が豹変する。
「まだ結婚は認めてないからなぁ! それだけは許さんぞ! ミトにはまだ早ーい!」
「まったく……」
志乃はあきれたように息をついた。
「ミトぉぉ。波琉君と俺とどっちが大事なんだぁぁ? もちろんお父さんだよな? なあっ? 昔はお父さんと結婚するって言ってくれただろぉー」
ミトに抱きつきながら嘆く昌宏に、ミトも苦笑するしかなかった。
ここで素直に『波琉』と口にしたらきっと面倒臭いことになるなと、あえて口をつぐんだ。
そして数日後、村長が龍花の町に移送されてきた。
これでもかと厳重に監視をされながら。
どうしてそんなことが可能だったのか知らないが、龍神の願いと言葉はそれだけ重いのだろう。
手続きに苦労したと蒼真が疲れたように愚痴を漏らしていたので、簡単ではなかったと思われる。
ミトには同席するかどうかと問われた。
無理する必要はないと気を使ってもらったが、ミトも知りたかったので一緒に連れていってもらうことになった。
村長との面会が叶ったのは、龍花の町にある警察署。
驚くことに龍花の町にも警察署があったのである。
よくよく考えれば、それなりの人口がある町なのだから、犯罪者がひとりも出ないなんてことはないのだから、そういう施設があってもおかしくはない。
ふたつの部屋の間には透明なアクリル板で隔てられている。
安全のためそういう作りになっているのだろうが、透明とはいえ壁越しというのは少しだけ安心できた。
それでもミトは緊張を隠しきれず、波琉の服をぎゅっと掴む。
その手を上から包むでくれる波琉の温かな手が、わずかながらミトを勇気づけてくれる。
連れてこられた村長は、最後に見た時よりずいぶんと老け込んでしまったように見えた。
けれど、ミトを見るその目は変わらない。
「貴様! やはり忌み子は村に災いをもたらすのだ! お前さえいなければっ!」
「こら、暴れるな!」
「大人しくしろ」
両手に手錠をかけられたまま身を乗り出す村長は、両側にいたふたりな男性によってすぐに抑え込まれた。
それでも目を血走らせながらミトだけに目を向けている。
その迫力にミトは気圧されてしまうが、波琉が村長の目から隠すように抱きしめた。
そして、ぶわりと波琉から神気があふれ出し、村長を襲った。
それまでの勢いはなりを潜め、顔色を変えて怯えている。
「やっと静かになったね」
やれやれという様子の波琉は、大人しくなった村長を見てもミトを離すことなく、大事に守るようにその腕に包み込んだまま村長をにらみつける。
「君にはいろいろ聞きたいことがあるんだ。百年前にいたキヨと星奈の一族について」
ぴくりと村長が反応したが、それは百年前という言葉なのか、キヨという言葉なのかは分からない。
「キヨという娘を知っているのかな?」
「…………」
村長は答えず、再び波琉から神気があふれ、まるで圧力を与えるように村長を攻撃する。
「ぐっ……」
苦しそうに呻く村長。
それは少しの間のことで、すぐに圧がなくなるが、村長は苦しそうに呼吸を荒くしていた。
「あまり手間をかけさせないでくれるかな? 僕も暇じゃないんだ。今は手加減したけど、次は容赦しないよ」
微笑みを浮かべる波琉だが、その笑みはいつもミトに向けられる優しいものではなく、ひどく冷淡なものだった。
「ひっ」
波琉を見て息を飲む村長は、それからずいぶんと口が軽くなる。
「もう一度聞くよ? キヨを知ってる?」
「……む、昔、龍花の町から追放される原因となった女だと」
やはり村長は知っていた。
ならば、その昔星奈の一族が神薙であったのも承知のはずだ。
「当時君はまだ生まれていないよね? なんて言われてきたの?」
「花印を持つ者は一族に災いをもたらす。決してその存在を認めてはならないと」
「それだけ? それだけのためにミトを苦しめてきたの?」
「親もその親の代からこんこんと聞かされてきたんだ。花印を持つ者は一族の害悪でしかないと。本当ならすぐに始末するつもりだった。けど……。そうすることで災厄が振りかからないかとも限らなかった。だ、だから生かしておいたんだ」
村長は冷や汗を流しながらしゃべり続ける。
ミトは村長から発せられた『始末』という言葉にショックを受けていた。
まさか生まれた時点で殺されかけていたなんて。
それすら村長たちの弱さによって奇跡的に難を逃れたにすぎない。
ひとつ間違えば、ミトは今この場に立っていなかった。
両親に抱かれることもなく、波琉に出会うこともなく。
「私が悪いわけではない! 悪いのは花印を持ったそいつだ! 生まれてきたのが悪いんだ!」
ミトに対して激しく罵倒する。
なんて身勝手なのだろうか。
今ですら村長が心配しているのは自分の身のことだけ。
怒りを通り越してあきれてしまう。
「他の村民は知ってたの?」
声は平静を装ってはいるが、波琉の眼差しは強い怒りを宿していた。
「若い者たちは知らん。だが、私や私より上の世代の一部は親たちから教えられていたから……」
「昔、星奈の一族が神薙として暮らしていたことも、キヨの行動により追放されたこともすべて?」
「あ、ああ……。私が若い頃は当時を生きていた者がいたからな」
村長はたしか七十歳ぐらいだったろうか。
百年前という時間を考えれば、村長の祖父母だったら実際にキヨの起こした事件を見聞きしていてもおかしくない。
「彼らは言っていたんだ。花印なんてものは災いしか呼ばないと。おかしな力を持って生まれ、また神の怒りを買うから関わるべきではないと。それなのに一族からまた花印を持った者が生まれるなんて……。私がこんなことになったのもすべて花印のせいだっ」
両手で顔を隠しうなだれる村長からは、ミトへ行ってきた罪の意識はない。
ただただ、自分をかわいそうに思っているだけ。
今の状況も花印へ責任転嫁していることにも気づかない。
はあ……。というため息が聞こえて横を見ると、波琉がミトを見ていた。
「帰ろう。もう聞くことはなさそうだ。結局、なにかしら重要な理由があったわけではなく、自分たちを哀れんだ者たちが自分たちのことだけを考えて行動しただけだった。もうミトが関わる必要はないよ。こんな胸くその悪い者たちの存在は忘れてしまおう」
「うん……」
もうミトには関係ない。
二度と村に帰りはしないのだから。
そして、この部屋を出たら村長にも他の村人にも会うことはないはずだ。
波琉に背を押され部屋を出るミト。
閉じていく扉の向こうに見えた肩を落とす村長を見たのが、彼を見た最後だった。
ミトは屋敷へと帰る途中の車の中で蒼真に問う。
「蒼真さん。村長はこの後どうなるんですか?」
「花印を持った子を隠すのはお前が思ってるより罪が重いんだよ。その上村ぐるみでミトを虐待していたわけだから、禁固刑は免れないだろうな。あの村長の年齢を考えると、生きている間に出られるかどうか分からんな」
「そうですか」
蒼真は遠慮なく話してくれるので好感が持てる。
これが尚之だったら、ミトを気遣ってすべては話してくれないだろう。
別にだからといって尚之が嫌いというわけではない。
尚之もミトを思って配慮してくれるのだろうし。
これまでの扱いのせいで特別扱いに慣れないミトには、蒼真の遠慮のなさが気楽というだけだ。
「お前はもう気が済んだのか? 文句を言い足りなかったんじゃないか?」
静かな蒼真の眼差しを受けて、ミトは考えてみた。
けれど、答えはすぐに出る。
「今は幸せだからいいです。波琉がいるので」
ミトが隣を見れば波琉が穏やかに微笑んでおり、ミトは自然と笑みがこぼれた。
そう、もう村での出来事は過去でしかない。
波琉がいる今、村長たちのことなど考える暇なんてないのだ。
村長はその後再び龍花の町から移送されたそうだ。
これで完全に村長と顔を合わせる機会はなくなった。
ミトには穏やかな日常が始まる。
「おはよう、波琉」
「おはよう」
にっこりと微笑む波琉の笑顔が朝から眩しい。
まるで後光が差しているかのようだ。
周囲を浄化していそうな笑顔の波琉とともに、両親のいる家に向かう。
基本的にミトが暮らしているのは自室が用意されている屋敷の方だが、食事の時は両親と一緒に過ごす。
まあ、それに関わらず頻繁に出入りはしているのだが。
朝から忙しく朝食を作っている志乃の手伝いをする間、波琉はシロにご飯をあげている。
ついでに「お手」などと言って芸を教えているのがなんとも微笑ましい。
「波琉、ご飯できたよ」
「うん。今行くよ」
まるで新婚夫婦のようなやり取りに、先に席に着いていた昌宏がギリギリと歯噛みしている。
相手がたとえ龍神と言えども父親的には許せないらしい。
志乃はやれやれとあきれ返っている。
全員が席に着き、ようやく朝食が始まる。
これがミト一家の日課だ。
波琉が納豆を混ぜているのを最初こそ楽しげに見ていたミトも、毎日の光景となっては物珍しさは一切ない。
すると、突然波琉が手を止める。
「そうそう、ミト」
「なに?」
波琉に呼ばれてミトも手を止める。
「煌理と一緒に、煌理に属する龍神がひとり花印が浮かんだから天界から降りてきているんだけど、どうやら特別科の生徒が相手みたいだよ」
「そうなの? 誰?」
「さあ、なんて言ったかな? 特に興味なかったから覚えてないや」
「波琉ったら」
本当に興味がなさそうな波琉にあきれるミト。
今でこそ食事を一緒に取るようになったが、ミトが町にやって来るまでは食への興味もなく食べ物を口にしていなかったとか。
龍神は食べなくとも生きていけるとはいえ、食に関わらず、波琉はどこか他への興味が薄い。
ミトはときどきそれが危うく感じてしまう。
ミトのことになると自分から読心術を習ったりと行動力をみせるのに、興味のあるなしが極端すぎるのだ。
「龍神の名前は分かるよ。環って言うんだ」
「環様か……」
名前だけ教えられてもどんな龍神かは分かりようがない。
けれど、それ以上の情報を教えてくれる様子はなく、波琉は再び納豆へと興味が移ってしまっている。
「まあ、学校へ行ったら噂になってるかな」
おそらく千歳が情報を持っているだろう。
千歳はまだ学生ながら神薙の資格を持っているので、龍神の情報は共有されているはずだ。
食事を終えると屋敷の方へ戻り、制服に着替えて玄関へ向かう。
波琉も玄関まではお見送りをしてくれる。
「気をつけてね、ミト」
「うん。いってきます。本当はそろそろ波琉とデートしたかったんだけど……」
皐月の事件以降は波琉と出かけるということをしていなかった。
煌理から星奈の一族の過去も聞けたし、せっかく村から解放されたのだから、波琉と行ってみたい場所はまだまだたくさんあった。
行動範囲は龍花の町の中に限定されるとは言え、この龍花の町は広く、たくさんの店や施設が充実しているので飽きることはなさそうだ。
「ごめんね。瑞貴が煌理伝てにたくさん仕事を送ってよこしたから、先にそれを片付けないといけないんだ。まったく、天界へ帰ったら瑞貴に文句を言わないといけないよね」
などと波琉も嫌々なのがよく分かる。
ミトを溺愛している波琉が優先させるのだから、早めに対処する必要がある仕事なのだろう。
それが分かるのに、ここで自分を優先しろと我儘を言えるミトではない。
ミトは残念そうに笑う。
「波琉の仕事が終わったら一緒に出かけてね」
健気な姿を見せるミトを、波琉はたまらずという様子で抱きしめた。
「やっぱり仕事は後回しにしようかな。ちょっとサボったぐらいで人類が滅んだりするわけじゃないし」
何気に怖いことを言う波琉にミトはぎょっとする。
波琉の仕事がどんなことかまだ知らないが、天候を操る波琉に任せられる仕事なのだからかなり重要度が高いはずだ。
ミトは慌てて波琉を止める。
「わ、私は大丈夫だから、波琉はお仕事頑張って! 私も学校の試験勉強で忙しかったりするし、私も頑張るから波琉もね?」
「そうだね。ミトがそう言うなら頑張るよ」
ほっとしたのはミトだけではなく、ふたりのそばで静かに控えていた蒼真もであった。
学校へ着くと、千歳がミトを待ってくれている。
これは千歳が世話係となってからずっとだ。
その分ミトに合わせて早く学校に来なければならないので千歳には申し訳ないが、他の世話係も同じことをしているから気にするなと言われている。
神薙となれば仕える神に合わせて動くのは当たり前なので、これぐらいで文句を言っていては神薙などにはなれないたいうのが千歳の言い分だ。
なるほどと納得しないでもない。
蒼真や尚之も波琉に合わせ、波琉の願いを叶えるためすぐに動けるよういつも待機しているのだ。
ちゃんと休みを取れているのか心配になったりもするが、波琉は他の龍神に比べると大人しく仕えやすい主人なのだとか。
他の龍神に仕える神薙の中にはそれはもう入れ替わりが激しいところもあるらしい。
それが顕著だったのが、久遠に仕える神薙だったというのだから驚きである。
久遠のことを詳しく知るほど久遠を知っていたわけではないが、温厚そうな龍神だったのでなおさらそう思う。
けれど、問題は久遠ではなく皐月の人使いの荒さが原因と聞いて、ミトは深く納得してしまった。
学校内での横暴さを見れば確かに逃げたくもなる。
今のところ千歳は未成年というのもあり、龍神に仕えるとしても先になるだろうとのこと。
「千歳君は早く龍神様に仕えたいの?」
「んー、特には。なんか他の神薙の話聞いてると大変そうだしならなくてもいい」
千歳は意外にもそう言った。
「え、でも龍神様のお世話がしたくて神薙になったんじゃないの?」
「違う違う。神薙だと他と全然違うんだよね」
「なにが?」
すると、千歳は親指と人差し指で丸を作った。
「給料。龍花の町で就ける職業の中でダントツで高収入なわけ」
「えー」
なんて夢のない。
いや、ある意味夢はあるのか?金銭面において。
「まさかそんな理由だなんて……」
「人間そんなものだよ。欲望の塊なんだから。神薙が人気職業トップなのもそれが理由の一端なんだろうし」
「神薙のイメージが壊れそう」
神に仕える神聖な職業というイメージだったのに、ずいぶんと俗物的である。
だが、まあ、それでもすでに将来の職業を決めている千歳はすごいと思うのだ。
「私も学校卒業したら働いてみたいなぁ」
「無理でしょ」
ミトの願望を千歳はバッサリと切り捨てた。
「紫紺様の伴侶を雇ってくれるとこなんかないよ」
「それは分かってるけど、学校行くのと同じぐらいバイトとかしてみたいなって思ってたんだもの」
あの村ではどこへ行っても招かれざる客だったので、ミトが働ける場所などなかった。
それは両親も同じで、決められた仕事以外することができず、監視されながらの仕事は両親の精神を削り取っていた。
けれど、この町で紹介された仕事をするようになってからは、職場であった話を楽しそうに教えてくれるのだ。
それを聞いていたらミトも仕事がしたくなってくる。
「この町ならたくさんお店もあって求人募集してるところも数多くあるのにぃ~」
花印のおかげでこの町に来られたのに、その花印がミトの邪魔をした。
ままならないものである。
ミトからは思わずため息が出る。
「あきらめな」
「あうぅ」
せめて職業体験で一日だけでも働けないものだろうか。
しかし、この町での花印を持った子の特異性を考えると、一日ですら許されない気がする。
教室へ向けて歩いている途中、ミトは波琉の言葉を思い出した。
「あっ、そうだ、千歳君」
「なに?」
「天界から環様って龍神様が降りてきたんでしょう? 相手は特別科の生徒だって。どの人か知ってる? 蒼真さんに聞き忘れちゃって」
「あー、金赤様と一緒に来た方だね。ミトもよく知ってる奴だよ。吉田美羽って女」
ミトは驚いて反射的に「えっ!」と声が出た。
「吉田さんて、あの吉田さん?」
「他にどの吉田がいるか知らないけど、たぶんミトが思ってる吉田だよ」
以前まで皐月の取り巻きをしており、特別科の一部の生徒から虐めのような扱いをされている女の子だ。
なにかと仕事を押しつけられているようで、前にミトが手伝ったらミトの言葉に気分を害して怒らせてしまった。
それ以後も嫌がらせは続いているようだが、なにぶんミトのいないところで嫌がらせが行われているのもあって、口を挟めない。
それに、美羽自身が関わってくるのをよしとしていないから、ミトもどうしようもないのだ。
「彼女いろいろと嫌がらせされてたみたいだけど、龍神が迎えに来たならもう大丈夫になるかな?」
「だろうね。この話はすでに生徒の間にも伝わってるから、これまであの女をいいように使っていた奴らは顔色変えてるんじゃない? 特別科の勢力図が変わるかもね」
「そんなあからさまになる?」
「ミトが一番よく分かってるんじゃないの?」
千歳の言う通りだ。
わざと隠していたわけではないが、入学当初はミトが紫紺の王の伴侶とは知られておらず、皐月に楯突いのを理由に無視されるようになった。
それが、紫紺の王の伴侶と知るや、手のひらを返したように媚びを売り始めたのだ。
あの豹変の仕方はミトもドン引きするほどであった。
おそらく、あれと同じ状況が繰り返されるのだろう。
「じゃあ、吉田さんの派閥ができるのかな?」
今はありすも学校に来なくなったので、龍神に選ばれた人間はミトを除いて美羽だけということになる。
「まあ、ミトはいつも通り過ごせばいいよ。ミトにはあんまり影響ないだろうし」
「まあ、そうだね」
美羽とは仲がいいわけでも特別悪いわけでもない。
同じ特別科だというのに、朝の挨拶すらしないほど希薄な間柄なのだ。
龍神に選ばれ虐められる心配もなくなったとあれば、ミトが関わる理由もない。
さらに言えば、これまでミトに媚びてきた生徒たちがミトでは反応が薄いといって、美羽に流れていくのではないだろうか。
そうなればミトにようやく平穏がやって来るかもしれない。
影響がないどころか、むしろいいことなのではないかと思い始めた。
まあ、それは美羽の対応次第になってしまうが、今より悪くなったりはしないはず。
ミトは意気揚々と教室へと向かい、扉の前で千歳と別れた。
教室に入れば、教室の一部分に人が集まっている。
そこは普段美羽が座っている席だ。
どうやら早速狩人たちに群がられているよう。
その集団から少し離れた場所では、前にも美羽に仕事を押しつけていた生徒が顔色を悪くして集まっている。
この龍花の町では、龍神選ばれるかどうかで大きな差が生まれる。
発言力が違うのだ。
今、学校内で美羽に物申せるのは、ミトぐらいのものだろう。
しかし、波琉の威光に頼りたくないミトが、率先して物申すのはよほどのことがない限りない。
ミトは様子を見守ることにした。
観察していると、美羽が非常に困惑しているのが伝わってくる。
困った顔で、これまで見向きもしなかった生徒たちが、美羽を褒めたたえている。
「すごいわね、吉田さん。龍神様が迎えに来てくださるなんて羨ましい」
「やっぱり吉田さんの人柄がいいから、運を引き寄せたのよ」
「ねえねえ、吉田さんの龍神様ってどんな方?」
「一度でいいから屋敷に招待してくれよ」
皆言いたい放題だ。
あからさますぎて美羽でなくとも困惑するだろう。
おそらくミトも少し前まで同じ顔をしていた。
本当にここは龍神のために作られた、龍神を中心に回る町なのだと実感する。
しばらくは大変だろうなとどこか他人事のように思っていると、草葉が教室に入ってきてホームルームが始まる。
けれど、美羽に集まる生徒は席に戻る気配もない。
草葉と目が合ったミトは苦笑いを浮かべる。
草葉もやれやれとため息をついて、そうそうにホームルームを終わらして出ていった。
草葉も今日ばかりは仕方ないと思っているのだろう。