二章
紫紺の王、波琉の神薙を勤める蒼真は、龍花の町の中心にそびえ立つ神薙本部を訪れていた。
髪をかきあげる蒼真の口にはタバコに見えるお菓子をくわえている。
タバコの煙が苦手なくせに、かっこよく見えるからとタバコをくわえたがるのだから、蒼真という男は少々見栄っ張りなところがあるのかもしれない。
神薙を示す青いカードを壁にある機械にタッチすると、扉が開きエレベーターの中に入れるようになった。
この神薙本部は随所で身分確認が必要となり、龍花の町の中でも一二を争うセキュリティを持っている。
そのままエレベーターに乗り込み、向かったのは最上階。
エレベーターはガラス張りになっており、外がよく見えた。
龍花の町の中でもっとも高い建物である神薙本部の最上階からは、龍花の町が一望できる。
とはいえ、幾度となく神薙本部を訪れている蒼真は見慣れた光景に今さら感動したりはしない。
一度だけ花印の確認のために連れてきたミトは、エレベーターからの絶景にテンションを上げていたが、それはミトが村以外の世界を知らないせいでもあるだろう。
最上階に着き、スーツのポケットに手を突っ込みながらだるそうに歩く蒼真は、どこからどう見てもチンピラにしか見えない。
サングラスもしていたら完璧だったろうに。
時には紫紺の王のボディガードにもなる神薙としては、そのガラの悪さは人を寄せつけないので有効と言えなくもない。
それにしたって怖すぎる。
しかも今の蒼真は不機嫌そうに険しい顔をしているのでなおさらだ。
蒼真がなぜにそこまで機嫌が悪いかというと、それはたどり着いた部屋の中に理由がある。
少々荒々しい手つきでコンコンとノックをして部屋の扉を開ける。
中からの返事がないのに開けるのだから、ノックの意味はほとんどなかった。
それでもかまわずズカズカ部屋の中に入ると、ベッドの上でぼんやりしたように一点を見つめて座っている皐月の姿があった。
事件以後、皐月は神薙本部に引き渡され、それからずっとこの部屋で隔離されていた。
それは波琉の指示であったため、花印を持った特別な人間だったとしても、神薙たちは粛々と従うほかなかった。
なにせ紫紺の王の命令なのだから、神薙が逆らえるはずがない。
しかし、配慮はされているようで、部屋は毎日綺麗に整えられており、掃除も行き渡っていた。
食事もしっかり栄養を考えられたものが届けられていたが、それはテーブルの上に置かれたまま手をつけた様子はない。
それを見て蒼真はさらに顔を険しくさせる。
「飯は食べてねぇのか?」
「…………」
皐月は答えない。
事件の時は誰にも手がつけられないほど大暴れした皐月だったが、神薙本部に連れてこられてからは大人しくしている。
まるで憑き物が落ちたように静かで、それは以前の高慢な皐月とも違っていた。
「食べねぇと体力つかねぇぞ」
「……食欲がないの」
やっと口を開いたかと思うも、その声は弱々しい。
蒼真は困ったように頭を搔いた。
生まれた時よりこの龍花の町で育ち、神薙となってからは深く町に関わるようになった蒼真は、龍神に選ばれた皐月のことは昔からよく知っている。
とはいえ、皐月と深く関わってきたわけではない。
皐月が同じ花印を持つ久遠に選ばれた時にはすでに波琉に仕えていたので、情報は嫌でも入ってきたというだけだ。
その情報からは、いかにも甘やかされて育った花印を持つ人間らしい娘という印象だった。
久遠に仕えていた神薙からは、胃薬が欠かせないと、我儘放題な皐月に対する嘆きを嫌というほど聞いていたので、正直かかわり合いになりたくない種類の人間である。
他の神薙も皐月の相手だけはしたくないと、入れ替わりが激しかったのだ。
久遠が穏やかな性格で、問題が起きても取りなしてくれていたからこそなんとかなっていたと言っていい。
そんな神薙の間では有名な我儘娘がこんなに大人しくなるのだから、蒼真としてもびっくりだ。
「無理でも食え」
「……私のことは放っておいて。久遠様に捨てられた私に媚びても意味ないわよ」
「そんなこと気にしてんな」
顔を俯かせる皐月に、蒼真も気を遣い言葉を選びながら話していると、扉がノックされ返事をする間もなく開いた。
入ってきたのは千歳である。
「お前、返事する前に開けてたらノックの意味ないだろうが」
あきれたように千歳に文句を言う蒼真だが、皐月からはなにか言いたげな視線が向けられる。
きっと、お前が言うなと告げたいに違いない。
「なんだ、蒼真さんいたの」
「いたのじゃねぇよ。ミトはちゃんと車に乗り込むまで見送ったんだろうな?」
「当たり前」
そう、千歳は表情を変えることなく返した。
「それで、なにしに来たんだ?」
「ミトが気にしてるようだから様子見に来ただけ。まあ、そこまで強く関心があるわけじゃないみたいだけど」
「お前、ミトに余計なこと言ってないだろうな」
「言ってないよ。ミトや他の生徒は知りたそうだったけど、この件は教師にも伝えられてないからあきらめたって感じ」
やれやれと蒼真は肩をすくめる。
「暇人が多いな」
「よくも悪くもこの町は話題不足だからね。学校では神薙の資格を持ってるのは俺だけだから質問攻めにあって面倒くさかった」
「だろうな」
ここは龍神のための町。そして、龍神に守られた町。
平穏が約束され、外の世界と隔絶されたこの町で、大騒ぎするほど大きな事件は滅多にない。
「それよりさ、なんかしゃべった?」
千歳の視線が皐月に向けられる。
皐月は自分の話題になると、再び顔を俯かせた。
「今、飯食べろって言ってたところだ」
千歳の視線がテーブルの食事に向くが、興味はなさそう。
「ふーん。で、どうなの?」
千歳が皐月を見る眼差しがやや厳しいのは、ミトを襲ったからだろう。
蒼真としてはふたりが仲良くしているのは歓迎だが、波琉が焼きもちを焼くほどの関係になるのは勘弁願いたいところだ。
波琉のミトへの執着を知る蒼真は、心から願った。
蒼真は俯いた皐月と視線が合うようにしゃがみ、これまで幾人もの神薙が何度となくしてきた問いかけをする。
「あの日の前後、なにがあったか覚えてるか?」
皐月は少しの沈黙の後、首を横に振った。
「なにも覚えてないわ。久遠様が帰ってしまわれて、学校に行ったら周りの視線がすべて変わっていた。周りが全員敵になっていて……」
千歳が小さく「自業自得だろ」とつぶやいたため、皐月が言葉を詰まらせる。
話の腰を折るなというように蒼真がにらんだため、千歳は不機嫌そうに視線をそらす。
「それで?」
蒼真は続きを促すと、再び皐月が口を開いた。
「周りから向けられる視線が嫌になって学校を飛び出して、それから……。それからは……覚えていないわ。気がついたらこの部屋にいたから」
「誰かに会ったとかねえのか?」
「分からない。なにも覚えてない」
一貫して覚えていないと告げる皐月に、蒼真も千歳もお手上げだ。
困ったようにため息をついた蒼真が立ち上がる。
「……私は今後どうなるの?」
皐月には覚えていないという間にあったことを知らせていた。
行方不明となり、姿を現したかと思えば学校で暴れ、ミトやありすを襲ったことなどを。
今の皐月は龍神の後ろ盾がない状態だ。
そんな皐月が龍神の伴侶であるミトやありすを襲ったのだから、どうなるか分からないほど無知ではなかった。
確実に龍神を怒らせたと理解している。
「紫紺様次第だが、今のところお前をどうこうするつもりはないようだ。お前はどうしたい?」
蒼真は問いかける。
「学校へ戻るか?」
皐月はなにかをこらえるように唇をしめてから吐き捨てる。
「こんな落ちぶれた私のどこに居場所があるって言うの」
その言葉にはあきらめの感情しか浮かんでいなかった。
「これだけの騒ぎを起こして、今まで通り暮らすなんて無理よ。少なくとも、紫紺様の勘気に触れてしまっただろうし、私を味方する人間なんていないわ」
沈んだ顔をする皐月。
蒼真はかける言葉を失う。
なぜなら皐月の言葉が事実だからだ。
下手な慰めなど意味はないだろう。
けれど、なにか言わずにはいられない。
「ひと段落ついたらこの本部からは場所を移ってもらうが、お前は花印を持ってる。少なくともこの町にいる間はその生活を保証されているから、その点は安心しろ。学校に行きたくないならそれでもかまわない」
皐月からの返事はなかった。
「また来る。飯食えよ」
そう言って皐月に背を向ける蒼真は、部屋を出た。
その後に千歳も続く。
そして、少し部屋から離れた辺りで千歳が問いかけた。
「紫紺様はあいつをどうするつもりなの?」
「さあな。ただ隔離しろと言われただけで、今のところそれ以上の指示は受けていない。」
蒼真も困っているのだ。
このような問題など、蒼真の知る限り起こった記憶がないから。
ただ、波琉の指示に従うしかない。
「……堕ち神だっけ? あの我儘女その二を操っていた奴って」
「お前その呼び方は駄目だろ。気持ちは分かるが」
蒼真は皐月を『我儘女その二』と呼んだことをあきれ顔でたしなめる。
「そっちはどうでもいいよ。それより堕ち神のこと」
「ああ、堕ち神、な。紫紺様によると天帝より天界を追放された元龍神だそうだ。堕ち神ってのは天界を追放されるとそう長くは存在を保ってはいられないらしい」
「その堕ち神はどうして我儘女その二を操ってたわけ?」
「知らねえ」
蒼真の返事は至極簡単なものだ。
それに対して不満いっぱいの千歳は、神薙の資格を持ってはいても、いまだ龍神に仕えたことはないので、情報不足だった。
「紫紺様から聞いてないの?」
「聞いても詳しくは教えてくださらねぇんだよ。一応紫紺様の命令で、現在龍花の町に滞在されている龍神様方に堕ち神が現れたと伝えたが、どの龍神様も神薙が聞いても教えてはくれない。人間が知る必要のないことなんだとさ。だから俺も堕ち神についてはなんも知らないお前と一緒だ」
「ほんとに?」
千歳は疑いの眼差しで蒼真を見る。
「嘘ついてどうすんだ。こっちはあまりにも情報不足で頭悩ましてるってのによ。そもそもなんだよ、堕ち神って! 元龍神とか人間に相手できんのか!?」
蒼真は八つ当たりするように語気が荒くなっている。
苛立ちを飲み込むように咥えていたタバコのお菓子をボリボリと噛み砕いて食べた。
その様子に千歳がドン引きしている。
「とりあえず、皐月のことはこれまで通り話をそらしとけよ。紫紺様の許しがない限り人間は下手に動けないからな」
「分かった」
千歳はしぶしぶといった様子で頷いた。
紫紺の王、波琉の神薙を勤める蒼真は、龍花の町の中心にそびえ立つ神薙本部を訪れていた。
髪をかきあげる蒼真の口にはタバコに見えるお菓子をくわえている。
タバコの煙が苦手なくせに、かっこよく見えるからとタバコをくわえたがるのだから、蒼真という男は少々見栄っ張りなところがあるのかもしれない。
神薙を示す青いカードを壁にある機械にタッチすると、扉が開きエレベーターの中に入れるようになった。
この神薙本部は随所で身分確認が必要となり、龍花の町の中でも一二を争うセキュリティを持っている。
そのままエレベーターに乗り込み、向かったのは最上階。
エレベーターはガラス張りになっており、外がよく見えた。
龍花の町の中でもっとも高い建物である神薙本部の最上階からは、龍花の町が一望できる。
とはいえ、幾度となく神薙本部を訪れている蒼真は見慣れた光景に今さら感動したりはしない。
一度だけ花印の確認のために連れてきたミトは、エレベーターからの絶景にテンションを上げていたが、それはミトが村以外の世界を知らないせいでもあるだろう。
最上階に着き、スーツのポケットに手を突っ込みながらだるそうに歩く蒼真は、どこからどう見てもチンピラにしか見えない。
サングラスもしていたら完璧だったろうに。
時には紫紺の王のボディガードにもなる神薙としては、そのガラの悪さは人を寄せつけないので有効と言えなくもない。
それにしたって怖すぎる。
しかも今の蒼真は不機嫌そうに険しい顔をしているのでなおさらだ。
蒼真がなぜにそこまで機嫌が悪いかというと、それはたどり着いた部屋の中に理由がある。
少々荒々しい手つきでコンコンとノックをして部屋の扉を開ける。
中からの返事がないのに開けるのだから、ノックの意味はほとんどなかった。
それでもかまわずズカズカ部屋の中に入ると、ベッドの上でぼんやりしたように一点を見つめて座っている皐月の姿があった。
事件以後、皐月は神薙本部に引き渡され、それからずっとこの部屋で隔離されていた。
それは波琉の指示であったため、花印を持った特別な人間だったとしても、神薙たちは粛々と従うほかなかった。
なにせ紫紺の王の命令なのだから、神薙が逆らえるはずがない。
しかし、配慮はされているようで、部屋は毎日綺麗に整えられており、掃除も行き渡っていた。
食事もしっかり栄養を考えられたものが届けられていたが、それはテーブルの上に置かれたまま手をつけた様子はない。
それを見て蒼真はさらに顔を険しくさせる。
「飯は食べてねぇのか?」
「…………」
皐月は答えない。
事件の時は誰にも手がつけられないほど大暴れした皐月だったが、神薙本部に連れてこられてからは大人しくしている。
まるで憑き物が落ちたように静かで、それは以前の高慢な皐月とも違っていた。
「食べねぇと体力つかねぇぞ」
「……食欲がないの」
やっと口を開いたかと思うも、その声は弱々しい。
蒼真は困ったように頭を搔いた。
生まれた時よりこの龍花の町で育ち、神薙となってからは深く町に関わるようになった蒼真は、龍神に選ばれた皐月のことは昔からよく知っている。
とはいえ、皐月と深く関わってきたわけではない。
皐月が同じ花印を持つ久遠に選ばれた時にはすでに波琉に仕えていたので、情報は嫌でも入ってきたというだけだ。
その情報からは、いかにも甘やかされて育った花印を持つ人間らしい娘という印象だった。
久遠に仕えていた神薙からは、胃薬が欠かせないと、我儘放題な皐月に対する嘆きを嫌というほど聞いていたので、正直かかわり合いになりたくない種類の人間である。
他の神薙も皐月の相手だけはしたくないと、入れ替わりが激しかったのだ。
久遠が穏やかな性格で、問題が起きても取りなしてくれていたからこそなんとかなっていたと言っていい。
そんな神薙の間では有名な我儘娘がこんなに大人しくなるのだから、蒼真としてもびっくりだ。
「無理でも食え」
「……私のことは放っておいて。久遠様に捨てられた私に媚びても意味ないわよ」
「そんなこと気にしてんな」
顔を俯かせる皐月に、蒼真も気を遣い言葉を選びながら話していると、扉がノックされ返事をする間もなく開いた。
入ってきたのは千歳である。
「お前、返事する前に開けてたらノックの意味ないだろうが」
あきれたように千歳に文句を言う蒼真だが、皐月からはなにか言いたげな視線が向けられる。
きっと、お前が言うなと告げたいに違いない。
「なんだ、蒼真さんいたの」
「いたのじゃねぇよ。ミトはちゃんと車に乗り込むまで見送ったんだろうな?」
「当たり前」
そう、千歳は表情を変えることなく返した。
「それで、なにしに来たんだ?」
「ミトが気にしてるようだから様子見に来ただけ。まあ、そこまで強く関心があるわけじゃないみたいだけど」
「お前、ミトに余計なこと言ってないだろうな」
「言ってないよ。ミトや他の生徒は知りたそうだったけど、この件は教師にも伝えられてないからあきらめたって感じ」
やれやれと蒼真は肩をすくめる。
「暇人が多いな」
「よくも悪くもこの町は話題不足だからね。学校では神薙の資格を持ってるのは俺だけだから質問攻めにあって面倒くさかった」
「だろうな」
ここは龍神のための町。そして、龍神に守られた町。
平穏が約束され、外の世界と隔絶されたこの町で、大騒ぎするほど大きな事件は滅多にない。
「それよりさ、なんかしゃべった?」
千歳の視線が皐月に向けられる。
皐月は自分の話題になると、再び顔を俯かせた。
「今、飯食べろって言ってたところだ」
千歳の視線がテーブルの食事に向くが、興味はなさそう。
「ふーん。で、どうなの?」
千歳が皐月を見る眼差しがやや厳しいのは、ミトを襲ったからだろう。
蒼真としてはふたりが仲良くしているのは歓迎だが、波琉が焼きもちを焼くほどの関係になるのは勘弁願いたいところだ。
波琉のミトへの執着を知る蒼真は、心から願った。
蒼真は俯いた皐月と視線が合うようにしゃがみ、これまで幾人もの神薙が何度となくしてきた問いかけをする。
「あの日の前後、なにがあったか覚えてるか?」
皐月は少しの沈黙の後、首を横に振った。
「なにも覚えてないわ。久遠様が帰ってしまわれて、学校に行ったら周りの視線がすべて変わっていた。周りが全員敵になっていて……」
千歳が小さく「自業自得だろ」とつぶやいたため、皐月が言葉を詰まらせる。
話の腰を折るなというように蒼真がにらんだため、千歳は不機嫌そうに視線をそらす。
「それで?」
蒼真は続きを促すと、再び皐月が口を開いた。
「周りから向けられる視線が嫌になって学校を飛び出して、それから……。それからは……覚えていないわ。気がついたらこの部屋にいたから」
「誰かに会ったとかねえのか?」
「分からない。なにも覚えてない」
一貫して覚えていないと告げる皐月に、蒼真も千歳もお手上げだ。
困ったようにため息をついた蒼真が立ち上がる。
「……私は今後どうなるの?」
皐月には覚えていないという間にあったことを知らせていた。
行方不明となり、姿を現したかと思えば学校で暴れ、ミトやありすを襲ったことなどを。
今の皐月は龍神の後ろ盾がない状態だ。
そんな皐月が龍神の伴侶であるミトやありすを襲ったのだから、どうなるか分からないほど無知ではなかった。
確実に龍神を怒らせたと理解している。
「紫紺様次第だが、今のところお前をどうこうするつもりはないようだ。お前はどうしたい?」
蒼真は問いかける。
「学校へ戻るか?」
皐月はなにかをこらえるように唇をしめてから吐き捨てる。
「こんな落ちぶれた私のどこに居場所があるって言うの」
その言葉にはあきらめの感情しか浮かんでいなかった。
「これだけの騒ぎを起こして、今まで通り暮らすなんて無理よ。少なくとも、紫紺様の勘気に触れてしまっただろうし、私を味方する人間なんていないわ」
沈んだ顔をする皐月。
蒼真はかける言葉を失う。
なぜなら皐月の言葉が事実だからだ。
下手な慰めなど意味はないだろう。
けれど、なにか言わずにはいられない。
「ひと段落ついたらこの本部からは場所を移ってもらうが、お前は花印を持ってる。少なくともこの町にいる間はその生活を保証されているから、その点は安心しろ。学校に行きたくないならそれでもかまわない」
皐月からの返事はなかった。
「また来る。飯食えよ」
そう言って皐月に背を向ける蒼真は、部屋を出た。
その後に千歳も続く。
そして、少し部屋から離れた辺りで千歳が問いかけた。
「紫紺様はあいつをどうするつもりなの?」
「さあな。ただ隔離しろと言われただけで、今のところそれ以上の指示は受けていない。」
蒼真も困っているのだ。
このような問題など、蒼真の知る限り起こった記憶がないから。
ただ、波琉の指示に従うしかない。
「……堕ち神だっけ? あの我儘女その二を操っていた奴って」
「お前その呼び方は駄目だろ。気持ちは分かるが」
蒼真は皐月を『我儘女その二』と呼んだことをあきれ顔でたしなめる。
「そっちはどうでもいいよ。それより堕ち神のこと」
「ああ、堕ち神、な。紫紺様によると天帝より天界を追放された元龍神だそうだ。堕ち神ってのは天界を追放されるとそう長くは存在を保ってはいられないらしい」
「その堕ち神はどうして我儘女その二を操ってたわけ?」
「知らねえ」
蒼真の返事は至極簡単なものだ。
それに対して不満いっぱいの千歳は、神薙の資格を持ってはいても、いまだ龍神に仕えたことはないので、情報不足だった。
「紫紺様から聞いてないの?」
「聞いても詳しくは教えてくださらねぇんだよ。一応紫紺様の命令で、現在龍花の町に滞在されている龍神様方に堕ち神が現れたと伝えたが、どの龍神様も神薙が聞いても教えてはくれない。人間が知る必要のないことなんだとさ。だから俺も堕ち神についてはなんも知らないお前と一緒だ」
「ほんとに?」
千歳は疑いの眼差しで蒼真を見る。
「嘘ついてどうすんだ。こっちはあまりにも情報不足で頭悩ましてるってのによ。そもそもなんだよ、堕ち神って! 元龍神とか人間に相手できんのか!?」
蒼真は八つ当たりするように語気が荒くなっている。
苛立ちを飲み込むように咥えていたタバコのお菓子をボリボリと噛み砕いて食べた。
その様子に千歳がドン引きしている。
「とりあえず、皐月のことはこれまで通り話をそらしとけよ。紫紺様の許しがない限り人間は下手に動けないからな」
「分かった」
千歳はしぶしぶといった様子で頷いた。