龍神と許嫁の赤い花印三~追放された一族~


 それから数日後、宴に出席する日となり、ミトは母からもらった顔パックをしていた。
 その様子を波琉は興味深そうに見ている。
「ミト、それはなんの意味があるの?」
「お肌がプルプルになるんだって。お母さんが、他の龍神の方とお会いする大事な日なんだから、お手入れをちゃんとしときなさいってくれたの」
 今まで家計ギリギリの生活をしてきたミト一家にとっては、顔パックなど贅沢品である。
 しかし、村での薄給だった扱いから、この町に越してきて仕事に見合った正規の給料をもらうようになり、家計にもゆとりができた。
 それは花印の家族が持つカードの優遇の力もあるだろう。
 ミトは顔に貼っていたパックを取ると、頬を触る。
「おお~」
 志乃の言う通りいつもよりモチモチプルプルしている気がする。
 ミトが感動しながらさわっていると、横から波琉が手を伸ばしてきた。
 その手を振り払うことなく受け入れる。
 やわやわと触れる波琉は、首をかしげた。
「うーん?」
「プルプルしてない?」
「まあ、してる気もするけど、そんな薄い紙ごときでミトの魅力は変わらないよ」
 これは喜んでいいのだろうか。
 波琉のことなので悪意があるわけではないのは確かだが、せっかくお手入れをしたのだから褒めてほしい気持ちもある。
 女心とは複雑なのだ。
 肌のお手入れを終わらすと、待っていましたとばかりに蒼真があらかじめ呼んだお手伝いの人たちに連れられて部屋を移動し、着物の着付けと髪を結い上げられる。
 無駄のない流れるような動きでテキパキとミトの支度がされていく。
 最後にメイクまでしてもらい、完成した姿を鏡で見て、ミトは感動した。
 衣装とメイクでここまで変わるのかと。
 ミトは急いで波琉の部屋へ向かうと、波琉も準備を終えていた。
 しかし、波琉は普段とあまり変わらない服装だ。
 着飾らなくても美しい人というのは、普段通りで十分輝いている。
 そんな美しい波琉の隣に立つのかと思うと、少し気後れしてきたが、波琉はミトを見て相好を崩す。
「綺麗だよ、ミト」
「ありがとう」
 どう見ても波琉の方が綺麗なのだが、大好きな人に褒められて嬉しくないはずがない。
 ミトははにかんだ。
 波琉はミトをぎゅっと抱きしめ。
「あー、こんなかわいいミトを他の男に見せたくないなぁ。やっぱり行くのやめようか」
 などと言い出した。
 これに困るのは宴を楽しみにしていたミトである。
「駄目だよ。皆困っちゃうし」
 龍神が集まる宴である。
 その準備をするのはもちろん龍神ではなく、龍神に仕える神薙であった。
 龍花の町にいてもほぼ単独で好きなように過ごしている龍神たちがそろうことなど滅多になく。
 というか、年寄りの尚之でも初めてらしく、それはもう神薙の間では大騒ぎになったそうだ。
 龍神の王ふたりもそろう宴を貧相なものにするわけにはいかないと、神薙の人たちは頭を悩ませ、最大限の気遣いをしながら宴の準備をしたと聞く。
 蒼真はもちろん、普段龍神には仕えていない千歳までもが駆り出されたらしく、疲れた様子で学校に来ていた。
 それを見ていたら、最初に宴を言い出したのは誰だと犯人探しをしたくなってくる。
 龍花の町において龍神はもてなされる側なので、軽い気持ちで無理難題を口にするから厄介だと、千歳がげんなりとしながら愚痴っていた。
 そんな千歳の姿を見ていると、蒼真が嫌そうにしていた意味が分かるというもの。
 そんな神薙たちが必死の思いで作り上げた宴を、直前になって行かないというのはあまりにかわいそうすぎる。
「神薙の人たちが頑張って準備したんだから」
「そうですよ、紫紺様。今さら行かないなんてなったら、神薙のジジババたちがショックのあまり泣きだしますよ」
 宴の準備に追われていたためか、やや疲れが見える蒼真がツッコム。
「それはそれで面倒くさいんでちゃんと出席してください」
 すると、波琉はため息をついた。
「行くなんて言わなきゃよかったかな」
 とは言い後悔しつつも、ミトが行くとなればついてきてくれるのが波琉である。
 ミトにはこれでもかというほど甘いのだ。
 蒼真がパンパンと手を叩く。
「ほらほら、時間になりましたから行きますよ、紫紺様」
「だって。行こう、波琉」
 ミトが手を引けば、波琉は仕方なさそうにしながらも歩き出す。
 車に乗り込んで会場となる場所へ向かう。
 本当はミトの両親も一緒に連れていきたかったのだが、龍神が集まる場所へなど、粗相をして気分を害さないか緊張するので行きたくないと言われてしまった。
 まあ、確かにその気持ちは分かるので、両親は留守番となった。
 しかし、興味はあるのか、帰ってきたらどんな様子だったか教えてくれと言われた。
「ねえ、波琉。今龍花の町にいる龍神様って何人いるの?」
「さあ?」
 波琉に聞いたのが間違いだったとすぐに思う。
 代わりに問うように蒼真に視線を向ければ、すぐに答えてくれる。
「現在町に降りてこられている龍神は、紫紺様、先日来られた金赤様と環様を含めて七人だ」
「少ないんですね」
 波琉、煌理、美羽の相手である環、そしてありすの相手である龍神以外には三人しかいない。
 ミトは指を折り曲げて数える。
「だったら、煌理様と吉田さんに断られた環様を除くと、龍神に選ばれた伴侶は私を含めて五人ということですか?」
「いや、花印関係なく町に遊びに来てるだけの方もいる。お前、桐生ありす、環様を拒否った吉田美羽の他はひとり。今は五十代の男性の伴侶の方だ。それ以外のふたりの龍神は休暇で町に来ている」
「それ、かなり偏ってません?」
 六十代の男性以外は全員学生ではないか。
「ああ。まったくだ。だから学校の教師どもは毎日胃が痛そうだな」
 くくくっと笑う蒼真はなんとも悪い顔をしている。
 そんな顔で歩いていたらきっと職質されるに違いない。
「普段の神薙の苦労が理解できるだろうさ」
 そのストレスのせいで校長の頭が寂しくなってきたのではなかろうか。
 ハリセンで叩くのを強要されるミトしては迷惑この上ない。
「なにか理由があったりするの?」
 その質問は蒼真では分からないだろうと、波琉に向けてする。
 しかし、波琉は首をかしげるだけ。
 すると、それも蒼真が答えてくれた。
「理由はどうか知らないが、花印の伴侶が偏る世代があるのは過去にもたまにあったみたいだ。なぜかは聞くなよ。紫紺様でも答えられないのに俺が教えられるわけねえからな」
「波琉、ほんとに知らないの?」
「天帝の気まぐれじゃないかな。たぶん」
 特に興味がないのか、かなり適当に答える波琉に、ミトは苦笑する。
「蒼真さん。私の他にも龍神様と参加する伴侶の方はいるんですか?」
「金赤様の伴侶の千代子さまぐらいだな。男性の伴侶の方は最近体調が芳しくないから無理だ。おそらく近いうちに天界に登られるだろうな」
「天界……」
 天界へ登る。
 それはつまり人間としての寿命を迎えるということを意味する。
 自分もいつか……。
 しかし、あまりピンと来ないのは、ミトが自分の『死』をイメージできないからだ。
 歳を取ればそのうち変わってくるのかもしれないが、十六歳である若いミトにはまだ難しい。
「桐生さんは?」
 ずっと学校に来ていないありすはどうなのか。
 あれからなぜ学校に来なくなったのか分からない。
 皐月に襲われたのがよほどショックだったのだろうか。
「あー、そいつは来るんじゃないか? 紫紺様と金赤様のための宴だから、他の龍神方は全員参加するようだし、体調が悪いでもない限りは参加するだろ」
「そうですか」
 とはいえ、ありすが参加すると分かったところでなにが変わるわけでもない。
 休んでる理由は少し気になるところだが、それ以外で特にありすにかける言葉もなく、それは彼女も同じだろう。
 それよりは千代子と話をしたい。
 天界でのこととか、聞かたい話題は尽きそうにない。
 車に乗ってさほど遠くない場所に宴の会場は用意されていた。
 波琉の屋敷のような和風の豪邸。
 車はそのまま玄関の前に横づけされ、車を下りる。
 先に車を下りた波琉がさりげなく手を貸してくれる。
 着物は華やかで美しいのだが、少々動きづらいのが難点だ。
「ありがとう、波琉」
 波琉は優しく微笑んでくれる。
 とても貴い神なのに、偉ぶることもなく優しい波琉。
 他の龍神はどんな者たちなのだろうか、とても気になる。
「行こうか」
「うん」
 先頭を歩く蒼真の案内で屋敷の中へ入っていく。
 波琉の屋敷と比べてもとても広いのが分かる。
「蒼真さん。ここは普段なにをする場所なんですか?」
「こちらは、龍神様が酒宴など、お集まりになる時使うために作られた屋敷でございます」
「……なんで敬語なんですか?」
 いつもの蒼真はミトに絶対敬語なんて使わないのに。
 ミトはうろんげに蒼真を見る。
「他の龍神方がいるのに、紫紺様伴侶相手にいつも通りでいられるわけないだろ」
 蒼真は声を潜めてこそっと話す。
 なるほどと納得するが、やはり違和感がある。
「なんか気持ち悪いです」
「今は我慢しとけ」
 やはり口の悪い蒼真の方が、ミトはなにやら安心する。
 だが、蒼真の言う通り、他の龍神がいる中で、蒼真が龍神の頂点にいる波琉とその伴侶であるミトに気安くしていたら蒼真が責められそうだ。
 変な感じはするが、宴の間ばかりは我慢するしかない。
 きっとミトより蒼真の方が誰より違和感があるのだろうし。
 気を取り直して蒼真の後について歩くと、広間に到着した。
 畳が敷かれた広い座敷に、卓がいくつもあり、上座には四つの卓が横一列に並んでいる。
 上座のうちふたつの席にはすでに煌理と千代子が隣同士で座っている。
 金赤の王である煌理がその場にいるなら、煌理の隣ふたつの席は波琉とミトのものだと察せられた。
 どうやら他の龍神はそろっているらしく席は埋まっており、最後がミトと波琉だったようだ。
「やっと来たか、波琉。遅いぞ」
「もう飲んでるの?」
 手に透明な液体の入った盃を持った煌理が手を上げる。
 千代子が酒瓶を持っているので、きっと中身はお酒だろう。
 波琉はややあきれた様子。
 席に着くべく上座に向かって歩く波琉が龍神たちの前を歩いていく。
 それに従い頭を下げる龍神たちの姿に、やはり波琉は王なのだと感じさせられた。
 人間が尊ぶ龍神すら頭を下げる存在。
 それが波琉。
 普通ならミトと出会うはずもない雲の上の存在なのだ。
 なんだか不思議な気持ちだなとミトは思いながら、波琉の隣に座った。
 上座に並べられた四つの席の真ん中ふたつに波琉と煌理が座り、両端にミトと千代子が座る。
 そして、下座に他の神々が座っている。
 その中にはありすの姿もあった。
 以前に学校に乗り込んできた龍神の隣に静かに座っている。
 特にどこか体調が悪そうには見えないので、やはり皐月の事件が理由で学校に来ていないのだろうか。
 失礼にならない程度にそれぞれの龍神たちを観察していると、波琉の盃に煌理が酒を注いだ。
「ほら、波琉。お前の伴侶にも注いでやれ」
 酒を波琉に押しつける煌理に、ミトは慌てる。
「わ、私は未成年なのでお酒は……っ」
「なんだ、それは残念だ」
 ミトには代わりに蒼真がオレンジジュースを持ってきてくれ、ほっとする。
「では、乾杯だ。波琉に無事伴侶ができたことを祝って」
 煌理が盃を掲げると、同じように龍神たちが一斉に盃を持ち上げた。
「乾杯!」
 というかけ声と同時に、龍神たちの宴が始まった。
 それを見計らったように、美味しそうな料理が運ばれてくる。
 龍神たちはどちらかというとお酒を楽しんでおり、どんどん酒瓶が空になっていいく。
 そのペースたるや、神薙たちが顔色を変えるほどだ。
「やべ。じじい、酒足りるか?」
「早急に補充を頼んでくる」
 控えていた蒼真と尚之が、ひそひそと話している声が聞こえてきた内容からは緊迫感があり、尚之が慌てて座敷を出ていった。
 部屋の中にはお酒の匂いが充満し始め、匂いだけで酔いそうだ。
 誰よりも多く飲んでいる煌理は、なんとも楽しそうに千代子にお酌をしてもらっている。
 どの龍神の様子をうかがっても、素面のようにまだまだ飲みそうだ。
 ミトは隣に座る波琉に視線を向ける。
 煌理のように豪快に飲むわけではなく、静かにお酒の味を味わうかのような飲み方をしている。
 だが、波琉もかなり飲んでいるのをミトは見ていたので知っている。
「波琉は酔わないの?」
「うん。別にこれぐらいの量では酔わないかな。強いお酒ではないし、水と変わらないよ」
「水……」
 それを聞いた蒼真が、言葉を失っているではないか。
「波琉ってお酒好きなの? 家じゃ飲んでるの見たことないのに」
 ミト一家と食事は取るが、お酒を飲んでいるのを見るのは初めてだ。
「まあ、昌宏も志乃も飲まないしね」
「それもそっか」
 ミトの両親はお酒を飲まない。
 飲めないわけではないが、別に飲まなくても困らないという感じだろうか。
 もしかしたら無理をさせてしまっていたのではないかと、ミトは心配になってきた。
「家でも飲みたかった飲んでいいよ?」
「んー、別にどっちでもいいから大丈夫だよ。お酒が特別好きってわけでもないし。今日は周りが飲んでるからそれに合わせてるってだけだから」
「それならいいんだけど……。飲みたくなったら言ってね?」
「うん。ありがとう、ミト」
 ふわりと微笑んだ波琉の目にはミトへのあふれんばかりの愛おしさが感じられる。
 それを見ていた煌理はニッと口角を上げた。
「あの波琉がずいぶんと感情豊かになったものだ。なあ、千代子?」
「ええ。本当に」
 千代子もまた微笑ましそうにミトと波琉を見ている。
「うるさいよ、煌理」
 波琉はミトに向けていた表情から一転して、不満そうに煌理をにらむが、煌理にはまったく効いていない。
「事実だろう。天界ではいったい誰がお前の心を射止めるかと男女問わず争っているというのに。お前と来たらどんな美人の色仕掛けでもけんもほろろに断っていたじゃないか。それが溺愛と言っても過言ではないなんて、早く天界の者たちに見せてやりたいな。きっとあまりの違いに腰を抜かすぞ」
 煌理はずいぶん楽しげである。
「煌理……」
 恨めしげな目を向ける波琉だが、今ミトは聞き捨てならないことを聞いた。
「美人の色仕掛け……」
 ミトは顔色を変えてつぶやく。
 ただでさえ綺麗な龍神の中の美人といったら、ミトでは絶対かないっこない。
「波琉。流されてないよね?」
 不安そうに見つめるミトの眼差しに、波琉も慌て出す。
「してない、してないっ。僕にはミトだけだよ! 煌理! 変なこと言うからミトが不安がったじゃないか」
 波琉はミトを抱きしめ煌理に抗議するが、その様子すら煌理は笑いの種にしかならない。
「はははっ。ほらみろ、私の知っている波琉とは大違いだ。皆もそう思うだろ?」
 煌理が他の龍神たちに問えば、龍神たちも微笑みを浮かべて頷いていた。
 波琉以外はなんとも和やかな空気に満ちている。

「それはそうと、環。お前もせっかく花印が浮かんだというのに、相手にはフラれたそうだな?」
 波琉をからかうことをやめた煌理は、矛先を変える。
 次の標的になった環は、本来なら美羽の相手となっていた龍神だ。
 焦げ茶色の髪と瞳をした青年である。
 煌理に属する龍神らしいが、快活そうな煌理とは違い、真面目そうな雰囲気をしている。
 その手の甲には、確かに美羽と同じ花印が浮かんでいた。
 煌理から話を振られた環だが、美羽からフラれたと言われても特に落ち込んだ様子はない。
「ええ。まあ、私も興味本位でしたからね。金赤様が龍花の町に降りられると聞いたので一緒についてきただけですし。またいずれ花印が浮かぶこともあるでしょう」
「次はよい縁があるといいな。私のように!」
 そう言って煌理は千代子の肩を抱いた。
 朗らかな笑みを浮かべる千代子の様子を見ると、百年経ってもなおラブラブのようだ。
 環は煌理の惚気にあきれたように笑う。
「はいはい。ようございましたね。金赤様の惚気話はお腹いっぱいです。もう少し量を減らしていただけると助かるのですけど」
「本当に、ウザくて仕方ないよね。瑞貴もいつも惚気けてばかりだからいい勝負だよ」
 波琉が同意する言葉を発した瞬間、どっとその場に笑いが起きた。
 波琉はなぜ笑われているのか分からないようで、きょとんとしている。
 同じくミトも理解できていない。
「ふふふ。波琉様も十分素質がございますよ」
 そう、千代子が笑った。
「ミトさんもこれほどお変わりになられた波琉様に大変な思いをするかもしれないけれど、頑張ってくださいね。これまでの無関心の反動で、溺愛の仕方に際限がない気がしますもの」
「波琉はそんなに変わったんですか?」
 当然だが、ミトは天界にいた頃の波琉を知らない。
 だからどう変わったのか分からないのだ。
「ええ、私の知る限りですが、それはもう別人のようにお変になりましたよ。波琉様は、誰に対しても興味を持たれず、人にも物にも執着を見せたことがない方でした」
 そんな千代子の言葉を、酒をあおりながら煌理が同意する。
「そうだな。あまりにも感情が死んでいて、見ているこっちが心配になるほどだった。それがひとりの女に執着しているんだから、天帝のご采配は確かだったということだろう」
 ふたりとも過去形で話しているのは、今の波琉はそうではないからなのか。
「ミトさんのおかげですね」
「私……?」
「ええ。あなたがいたから波琉様は変わられたのだわ」
 ミトが波琉に視線を向けると、波琉は否定できずに困ったというように眉尻を下げながら笑っている。
「私がいたから……」
 ミトは噛みしめるようにつぶやいた。
 以前にも波琉から言われたのを思い出す。
 ミトが波琉の見える世界を変えたと。
 それが分かっているようでいて分かっていなかったのかもしれない。
 第三者から見ても明らかなほど波琉は変わったらしい。
 その影響を与えたのが自分だと言われ、ミトは歓喜する。
 波琉の絶対な存在でありたい。
 なぜならミトにとっても波琉は絶対の存在だから。
 ミト自身の勇気と力を与えてくれる人に、自分もちゃんと返せているのだと思えるのはとても嬉しい。
 ミトは波琉を見つめて、はにかむように笑った。
 波琉もまた微笑む。
 そこには言葉では伝えきれないたくさんの思いがあった。
 周囲の龍神たちはそんなふたりを温かい眼差しで見守った。

 その後お酒はどんどん進む。
 むしろ時間が経つにつれペースが上がっているように思うのだが気のせいだろうか。
 龍神たちはどれだけザルなのか、神薙たちは忙しなく動き回っている。
 ただでさえ龍神という強者を相手に気を使っているというのに、かわいそうになってきた。
 お酒を飲んでいるからか、誰も彼も機嫌がよさそう。
「環はいつ帰るんだ?」
「ご縁がなかったので、早めに帰ろうと思います」
「もう少し町でゆっくりしていてもいいんだぞ? 相手の気が変わるかもしれないしな」
「相手の子にはすでにお付き合いのある男性がいるらしいですよ。それを理由に断られたのに、やっぱり私がいいなんて言われても嬉しくありませんから」
 などと、煌理と環が話している横で、波琉はミトを愛でている。
「ミト、これ食べてごらん。はい、あーん」
「自分で食べられるよ」
 恥ずかしがるミトに構わず、波琉は箸で掴んだ料理をミトの口に差し出す。
 有無を言わせぬ波琉の微笑みに負け、ミトは口を開けた。
 そこからはもうなし崩し的に波琉の給餌が始まる。
 あれもこれもとミトに食べさせ、龍神たちにその仲のよさを披露した。
 ただでさえ、着慣れない着物の帯でお腹の当たりを圧迫されているのである。
 すぐにお腹が苦しくなってきたミトは、波琉に待ったをかける。
「波琉。もう無理~」
 もはや足を崩してお腹を圧迫しないように後ろに体を倒す。
 撫でたお腹はぱんぱんだ。
 もう食べられそうにない。
 その様子に波琉は笑った。
「あはは。ミトは少食だね」
「そんなことないよ」
 ミトが少食ではないのは、普段一緒に食事をしている波琉がよく分かっているだろうに。
 しかし、ふと周りの龍神たちを見ていると、お酒とともに食事もかなりの量を消費している。
 空になった皿を神薙たちが入れ代わり立ち代わり新しい料理が入った皿と交換していっている。
「波琉。龍神様って大食漢? もうかなり食べてるよね」
 それこそミトよりずっと多い量を。
「うーん。まだまだ序盤じゃないかな。天界では三日三晩宴が続くなんてこともざらにあるし」
「さ、さすがに今回は今日中に終わるよね?」
「さあ、どうだろ。でも、特に煌理はよく食べるしよく飲むからねぇ」
「でも波琉はいつも普通の量を食べてない?」
「ミトたちに合わせてるだけだよ。龍神はその気になれば際限なく食べられるから」
 衝撃の事実だ。
「もしかして、波琉って毎日食事の量足りてない?」
「そんなことないよ。そもそも龍神は人間と違って食事しなくても生きていられるからね。満足したらそこで終わりって感じ。僕はいつもの量で十分満足しているよ」
「それならよかった。……けど、三日三晩かぁ」
 見渡してみても龍神たちが手を止める様子はない。
 誰も酔いつぶれる兆候すらないのだから、最悪、本当に三日三晩続きかねない。
 今、料理場はどうなっているのだろうか。
 ここにいるのは十人ほどだというのに、料理場は戦場と化しているのではないだろうか。
「さすがに三日三晩はしんどいかも……」
 それはミトだけでなく神薙たちもだろう。
 すると、ミトと波琉の話を聞いていた蒼真がそっと近づいてくる。
「紫紺様。さすがに三日三晩は俺たちも付き合えないんで、ほどよいとこで終わらせるようにしてください。俺たち人間では龍神方に物申すことなんてできませんから」
「分かったよ。僕も早く屋敷に帰りたいしね」
「お願いしますよ。じゃないとジジババたちじゃなくても倒れる人間続出ですから」
「そうなる前に止めるよ」
 ひそひそと声を潜めた会話を終わらせると、蒼真もまた忙しなく働き出した。
 まだまだ騒ぎ足りないという龍神たちにげんなりとしているだろうに、顔には出さないあたり、蒼真もプロフェッショナルを貫いている。
 ミトはゆっくりと立ち上がった。
「ミト、どうしたの?」
「ちょっとね。すぐ戻ってくるから」
 それだけ言えば波琉も察してくれたようで、ひらひらと手を振る。
 ミトは座敷を出てトイレを探す。
 ついでに苦しくなったお腹を減らすために屋敷の中を散策する。
 やはり見た目通りかなり広い作りのようで、いくつも部屋があった。
 さらに歩くと庭の見える場所までやって来た。
 建物に合った日本庭園が広がっており、灯篭が灯っている。
 ここに来た時はまだ明るかったのに、いつの間にやら夜になっていた。
 その間飲み食いし続けている龍神たちにあきれと驚きを感じる。
 あの場にはありすもいたが、彼女も顔をひきつらせていたのを見るに、ミトと同じように思っていたのではないだろうか。
 千代子は普通の量だったので、特に天界へ行ったからといって龍神のようになるわけではなさそうだ。
 千代子とじっくり話しをしたかったのだが、煌理が片時も千代子を離さないのでなかなか時間が見つけられない。
 まあ、それはミトにも言える。
 波琉が始終構っているので、離れる隙がないのだ。
 別に嫌というわけではないのだが、次々に料理を食べさせようとするのはやめてほしい。
 ミトは外に面した廊下で立ち止まり、大きく深呼吸する。
 座敷は酒の匂いが立ち込めていたので、新鮮な空気を体が欲していた。
「はー、空気が美味しい……」
 あのまま酒をあおる龍神たちに囲まれていたら、酔っていたかもしれない。
「ふう……。ちょっと落ち着いたかも」
 ふと庭に目を向けると、大きな木のそばに人が立っているのに気がついた。
 闇に溶けるような癖のある髪をした男性。
 その整った容姿と金色に光る目はどう見ても人間ではあらず、ミトは驚いた。
「龍神?」
 しかし、現在龍花の町にいる龍神は七人であり、その全員が今は座敷にいるはず。
 いつの間にか 座敷から出てきたのかとも思ったが、あの場にいたどの龍神でもない。
 龍神と思われる者は、憎々しげににらみつけてくる。
 そのあまりの殺気に、ミトはたじろいだ。
 背筋がぞくりとし、思わず肩を抱く。
 なぜそんな目で見てくるのだろうか。
 恐怖心とともに不思議に思うミトに声がかけられた。
「ミト」
 びくりと体を震わせたミトが声のする方へ目を向けると、神薙の装束を着た千歳が立っていた。
「千歳君? なにしてるの?」
 びっくりするミトに千歳が近づいてくる。
「俺も神薙だからね。応援要員。でも、下っ端だから直接龍神の対応はせずに裏方を任されてたわけ」
 千歳はやれやれというように肩をすくめた。
「そうなんだ……」
「それよりそこでなにしてたの?」
「あ……。さっきそこに龍神の方が……」
 ミトは先ほど人がいた場所を振り返ると、そこには誰もいなかった。
「誰もいないけど?」
「あれ?」
 確かにいたのだ。いくら暗がりだったとしても、灯篭の灯りもあるので見間違えたりしない。
「ねえ、千歳君。龍神様は座敷にいる七人以外にいたりするの?」
「いや。そんな話聞いてないよ。もし来てたら俺に話が伝わってないはずないからね。未成年だけど神薙だし、嫌でも情報は共有されるから」
「でも……」
 そんなはずがないのに。
 もう一度ミトは庭に目を凝らしてみたが、やはり先ほどの人の姿はどこにも見つけられない。
「千歳君は誰も見なかった?」
「まったく。ミトの気のせいじゃないの?」
「そう、なのかな……?」
 気のせいなのだろうか。
 けれど、男性のミトを見る目が脳裏から離れない。
 あんなに恨みのこもった眼差しを受けたのは初めてだ。
「それよりこんなとこでなにしてるの? 龍神方のいる部屋からずいぶん離れてるけど?」
「あ、トイレに行こうと思って」
「全然場所違うじゃん」
「ついでにお散歩」
 千歳は「ふーん」と、感情の見えない表情をしながらミトの姿をじっと見る。
「なに?」
「いや、いつも制服のミトしか見てないから、着物姿が物珍しいだけ。結構似合ってるじゃん。かわいいよ」
「えへへ。ありがとう」
 波琉に褒められるのは当然嬉しいが、千歳に褒められるのも嬉しく感じる。
 はにかむように笑うミトに、千歳も柔らかな顔をする。
 その時。
「ミト」
 ミトを呼ぶ声とともに波琉がいつの間にか来ていた。
「あ、波琉」
「遅いからどうしたのかなって」
「うん、散歩してた」
 ついつい興味に引かれるまま屋敷内を徘徊さてしまった。
 まだ目的のトイレにも行っていないたいうのに。
「なにかあったかと心配しちゃったよ」
「ごめんなさい」
 素直に謝るミトの頭を撫でる波琉は、千歳へと視線を向ける。
「それで、君はミトのお世話係の千歳君だっけ?」
 にこやかな笑みを浮かべながら千歳に問いかける。
 千歳は顔をひきつらせていた。
「は、はい」
「ミトとふたりでなにしてたの?」
「それは……」
「千歳君もお手伝いに来てたみたいで、ちょうど会ったの。私の着物がかわいいって褒められた」
 言葉を詰まらせる千歳に代わり、ミトが嬉しそうに報告するが、なぜか千歳の顔がさらに強ばる。
「ふーん……」
 波琉は笑みを貼りつけたまま話を聞いているが、その目はどこか鋭さを持っていた。
 気づいていないのはミトのみ。
「い、いや、特に深い意味はないです!」
 常にない焦りを見せる千歳に、ミトは首をかしげる。
「千歳君どうかした?」
「なんでもない。ほんとになんでもないです!」
 もはやどっちに向かって話しているのか分からない千歳は、ジリジリと後ずさる。
「俺は手伝いがありますのでここで失礼します!」
 勢いよく頭を下げた千歳は、ミトがなにか言葉を発する前に行ってしまった。
「あ……。千歳君どうしたんだろ? なんだか様子がおかしかったけど」
「きっと手伝いで忙しいんだよ。それより……」
 波琉はミトを突然抱きしめる。
「波琉!?」
「ミトは本当に放っておけないなぁ。いっそ閉じ込めちゃおうか」
 波琉らしくない言葉と、内容に反した明るい声色にミトはクスクスと笑う。
「なんで? 私なんかした?」
「ミトがどう思ってるか知らないけど、さっきの世話係の子とあんまり仲良くしてほしくないなぁ」
「千歳君?」
 なぜと問おうとして、以前の波琉の言葉と美羽の存在が頭をよぎる。
 花印を持つ者の中には神薙や世話係と恋仲になるものがいるということを。
「千歳君との仲を疑ってるの?」
「疑ってるっていうか焼きもちかな」
「そんな必要ないのに。私には波琉だけだもん」
 焼きもちを焼かれるのすら心外だというように、ミトは不満そうな顔をする。
「僕もミトだけだよ」
 こつんと波琉の方からおでことおでこをくっつける。
 キスもできそうなほどの近さにミトは頬を染める。
 胸がドキドキして波琉にも伝わらないか心配するほどだ。
 こんな気持ちになるのは波琉だけ。
 他の誰にも同じように感じることなんてないのだ。
 波琉は顔を離し、ミトのおでこにキスをする。
 まだ唇にするのは恥ずかしい奥手なミトに歩調を合わせてくれている、優しい波琉。
 だからこそ波琉を不安にさせてしまっているのだろうかとミトは悩む。
 自分がもっと積極的になったら波琉も安心するだろうかと考えながら波琉の顔をじっと見つめて、やはりまだ無理そうだと目をそらす。
 すると、波琉に咎められる。
「駄目だよ、ミト。僕から目を離しちゃ」
「波琉……」
「ずっと僕だけを見て。他に目を向けたら駄目だからね。そんなことになったら……」
「なったら?」
 口を閉じて沈黙する波琉に、なにを考えているのかとミトも注視すると……。
「千歳君の脳天に雷落としちゃおうか」
「それ聞いたら千歳君がお世話係やめちゃうから、絶対本人には言わないでね」
 まさか以前に冗談で言った言葉と同じことを波琉が言い出すとは。
「んー、それは千歳君次第かな。ミトに邪な感情を抱くならズドーンと、ね?」
 波琉の言葉は時々冗談なのか本気なのか分からない時がある。
 とりあえずはこの場に千歳がいなくてよかったと思うミトだった。



五章

 龍神たちが集まっての宴は、波琉の鶴の一声で解散となった。
 ただし、誰よりも飲んで上機嫌だった煌理が最後まで嫌だと駄々をこねていたが、千代子からの「もう、疲れてしまいましたわ」という言葉であっさりと発言を取り消していた。
 どうやら夫婦の力関係は千代子に軍配が上がるらしい。
 微笑みながら煌理を手のひらの上で転がしている幻覚が見えた気がした。
 そんな千代子の助け舟もあって、無事に終了された後に残されたのは、疲れ果てた神薙たちであった。
 波琉とミトは帰るのが最後だったので、他の龍神が帰った後、蒼真は遠慮なくいつも通りの調子に戻っていた。
「龍神まじやべぇ。どんだけ飲み食いすんだよ」
 などと愚痴をこぼしていた。
 体力がありそうな蒼真ですら疲れた顔をしていたので、尚之の疲れたるや相当なものだろう。
 ぐったりとした尚之は、どこからともなく取り出したハリセンを恭しく波琉に渡す。
「紫紺様。どうか……どうか、御身の力をお貸しくだされ……」
 波琉はやれやれという様子だったが、仕方なさそうに思いっきり尚之の頭をハリセンで叩いていた。
 スパーンという小気味よい音が響くと、どこからともなく地を這う亡者のように他の神薙もやって来て、波琉の前に列をなした。
「紫紺様どうか私めにも……」
「私もぜひ」
「私にも一発くださいませ……」
 顔をひきつらせる波琉は、いろいろとあきらめた表情で、スパーン、スパーンと流れ作業のように次々神薙の頭を叩いていった。
 波琉に叩かれた神薙たちは、思い思いに座り込んだ。
「あー、やはり紫紺様の一発は違いますなぁ」
 などと尚之がゆるんだ表情で肩を回していると、他の神薙もくつろぎながらハリセンの威力に感激している。
「おぉ、これが紫紺様のハリセンの力!」
「これはもはや神器ですな」
「これを毎日受けている尚之が羨ましいすぎる」
 まだ波琉が残っているというのに、神薙たちはくつろぎモードに突入していた。
 これにはミトも苦笑するしかない。
 他の龍神の前では緊張感があったのに、波琉の前ではなんとも空気が緩い。
 それは波琉の性格や雰囲気もあるのだろう。
 ミトも気持ちは分かる。
 波琉は優しくおおらかなので、滅多に怒ることがないと分かっているからこそなのだろうが、もう少し緊張感を持ってもいいと思う。
 まあ、それは置いておくとして、気になるのが波琉とハリセンである。
「そんなに効果あるのかな?」
 じーっとミトがハリセンを見ていると、波琉は投げ捨てるようにポイッと尚之にハリセンを返した。
「ミトには絶対使わないよ」
 わざわざ釘を刺さなくともいいのに、波琉は『絶対』という言葉を強調する。
 ミトはほんの少し残念と思った。
 校長などは波琉には頼めないからとミトに強要するぐらいなのだ。
 ミトでもそれなりに効果があるらしいので、波琉のハリセンを受けたなら分かりやすく効果を実感できると思ったのに。
 波琉の様子を見ると、ミトには使ってくれそうにない。
 自分で叩いても効果はあるだろうか、なんてことを思いつつ、回復してきた神薙が後片付けを始めたので、ミトと波琉は屋敷に帰ることにした。
 案の定、蒼真がジジババと言う歳のいった神薙は波琉のハリセンを受けても疲れ切っているようで、蒼真や千歳のような若い神薙が中心に動いている。
 これ以上ここにいては邪魔になるだろうと、足早に後にした。
 屋敷に帰る途中、波琉に気になったことを問うた。
「ねえ、波琉。黒髪に金色の目の龍神様っていたりしないよね?」
「龍神?」
「そう。さっきいた屋敷の庭でね、そういう人を見たの。綺麗な顔立ちの人だったし、たぶん龍神様だと思ったんだけど千歳君は知らないって。たんに千歳君が知らないだけだったりするのかなと思ったから」
 先ほど蒼真か尚之に聞こうとして忘れていた。
 ミトに問われた波琉は眉根を寄せる。
「そいつになにかされたの?」
「ううん。話もしなかった。でもなんかすごくにらんできて怖い人だったから気になっちゃって。知らないならいいの。やっぱり私の気のせいかもだし」
「…………」
 波琉はなにも言わなかった。
 だからやはり自分の気のせいなのだとミトは自分を納得させた。

 翌日、学校へ行くと、疲れきった顔をした千歳がミトの登校を待っていた。
「千歳君。ひどい顔してるよ」
 クマまでできているではないか。
 たった一日で何歳も老けた気がする。とても若い青年がする顔ではなかった。
「昨日の今日だから当然だよ。あんなハードな仕事した後に片付けまでしたんだからさ。ジジババ神薙は口を出すだけで動いてくれないし。必然と若い下っ端が一番働かされるんだよ」
「疲れてるなら休んだ方がよかったんじゃない?」
「そうもいかないよ。俺はミトの世話係なんだから」
 仕事熱心なのは尊敬するが、フラフラとしていて見ている方が気になって仕方ない。
「本当に大丈夫?」
「平気。授業中に寝るから」
「先生に怒られるよ」
「もう神薙になってる俺に、神薙科の授業とかほぼ意味ないからいいの」
 そう言われてしまうと、確かにと納得させられる。
 神薙科とは神薙になる人を育成教育するためのコースだ。
 もう神薙の試験を合格している千歳には、復習のようなものなのだろう。
 まあ、それでも授業は受けていた方がいいように思うのだが、今の疲れきった千歳を見ると一日ぐらい許されてもいい気がする。
 特別科の教室へ到着すると、千歳は自分の教室へと向かっていった。
 ちゃんとたどり着けるのか心配である。
 むしろミトが千歳を教室まで送るべきだったのではないかと思うが、千歳は見た目こそ金髪にピアスをしていてやんちゃそうに見えるが、性格は基本真面目。
 なので、ミトがついて行くと言っても断られただろう。
「うーん。千歳君大丈夫かな?」
 心配しつつ教室の中へ入ると、雫が寄ってきた。
 最初こそ気さくに話しかけてくれたひとつ年上の雫だが、今ではまったく関わりがない。
 皐月からの嫌がらせが始まった時に、完全に関係は断ち切られていた。
 なので、今になって雫が近づいてきたのには驚いた。
 虐められるとは思っていないが、少々警戒してしまうのは仕方ない。
「ねえ、龍神様たちの宴があったって本当?」
「……どうしてそれ知ってるの?」
「神薙科の子が言ってたから」
「なるほど」
 神薙科の中には、蒼真のように代々神薙を輩出している家柄がある。
 昨日の宴には多くの神薙が関わっていたので、親から話を聞いた子もいるのだろう。
「それがどうかしたの?」
「ありすさんも参加してたって聞いて……」
 気まずそうに話す雫は、ありすの派閥に入っていた。
「うん。彼女も来てたよ」
「その……。様子はどうだった? 元気にしてた?」
 ありすは皐月が暴れた事件以降、学校に来ていないので、雫は気になってミトに声をかけてきたに違いない。
「元気だったと思う。普通そうに見えたよ」
 まあ、お酒の匂いが充満する部屋の中にずっといたので、そういう意味では気分はよろしくなかったかもしれないが、元気そうに見えた。
「そう。よかった……」
 ほっとした顔をする雫は、ミトから視線をそらす。
「それだけ聞きたかったの。ありがとう」
「うん」
 雫は他の女子生徒のところへ向かい、なにやら話し込んでいる。
 今の話を他の生徒に教えているのかもしれない。
 まあ、ミトには関係ない話だ。
 それからホームルームを行い、午前中の授業を終えると、千歳が教室に迎えに来た。
 朝とは違いすっきりとした顔をしているので、授業中にゆっくり休めたのだろう。
「千歳君、回復したね」
「うん。めちゃくちゃ寝たからね」
「先生に怒られなかった?」
「神薙科の教師も神薙だからね。昨日の宴にも参加してる教師もいるから見逃してくたみたい」
 それはミトも初耳だった。
「神薙科の先生は神薙なんだね」
「当たり前。神薙じゃないのに神薙のことを教えられないでしょ」
「それもそっか」
 神薙の試験は難しいと聞くので、知らない者が教えるのは難しいと、言われてから気づく。
 千歳と並んで歩きながら階段を降りるミト。
 すると、突然背中を誰かに押された。
 そのあまりの押しの強さに、ミトは踏ん張ることができず、階段に身を投げ出した。
 落ちる……!
 分かっていながらも体が動かないミトはぎゅっと目をつぶった。
 体に受ける痛みを覚悟したが、次の瞬間、強く腕を引っ張られる。
「ミト!」
 千歳の叫ぶ声が響く。
 落ちるはずだった体は、数段滑っただけで止まる。
 それは千歳がとっさにミトの腕を引っ張ったおかげだった。
 心臓がバクバクと激しく鼓動するのを感じながら、ミトは今なにが起こったのか整理がつかない。
 そんな呆然としたミトに千歳が声をかける。
「ミト! 大丈夫!?」
「あ……。千歳、くん……」
 ミトは掴まれた腕を見て、千歳が助けてくれたことを悟る。
「あ、ありがとう……」
「そんなのはいいから、怪我は?」
 焦りが含まれた千歳の声に、ミトの頭がようやく回り始める。
「大丈夫。たぶん……」
 正直びっくりしすぎて体の痛みを感じる余裕がないが、見たところ怪我はしていなかった。
 この騒ぎに、周囲の生徒もザワついている。
「どうしたの、急に? 足を滑らせた?」
 千歳の問いにミトは顔を強ばらせる。
「押されたの」
「押された? 誰に!?」
「分かんない。けど、背中を押されたの。もしかしたらぶつかったのかもしれないけど……」
 ミトはまだショックが抜けきらないのか、声がわずかに震えていた。
 それを聞いた千歳は階段を見上げてそこに誰もいないのを確認してから、周囲に鋭い眼差しを向ける。
「誰か、ミトが落ちる時に後ろにいた人見てないの!?」
 周囲を見渡すが、誰もが困惑した表情できょろきょろしている。
 すると、階段下で友人と談笑していた男子生徒が声を発する。
「俺、階段の方向見てたけど、その子の後ろには誰もいなかったぞ」
「えっ……。いない?」
 ミトは唖然とする。
「それ本当? ちゃんと見てた?」
 千歳が男子生徒を激しい剣幕で問い詰めると、男子生徒は気圧される。
「あ、いや、俺もこっちで話してたし、絶対かって言われると自信がないけど……」
 男子生徒の声が尻すぼみになっていく。
 すると、千歳がちっと舌打ちした。
 それが自分に向けられたものと勘違いしたのか、男子生徒が顔色を悪くし、友人たちと足早にその場を去っていく。
「ごめんね、千歳君。助けてくれてありがとう」
 千歳が差し出してくれた手を取り、ミトは立ち上がる。
「いいよ、そんなの。すぐに保健室へ行こう」
「別にどこも怪我してないから大丈夫だよ」
 保健室なんて大げさなとミトは固辞するが、問答無用とばかりに千歳に手を引かれて強制的に保健室に連れていかれることに。
 保健室の先生に階段が落ちたことを伝えると大層驚かれ、病院に行くかと言われてしまったミトだが、さすがにそれは全力で拒否した。
 先生の方もミトが紫紺の王である波琉の相手だと知っていたので、かなり心配している。
 そんな先生をなだめて、なんとかあきらめせた。
 代わりに体の確認をすると、スカートで隠れていた膝上の辺りに擦り傷ができているのを発見する。
 それまでなんともなかったが、怪我をしていると分かるとなんだか痛みを感じ始めてきた。
 とはいえ、病院に行くほどではないので、消毒と絆創膏で処置してもらうだけに留めた。
 保健室の外で待っていた千歳は、擦り傷ができていたことを知ると、「やっぱり怪我してるじゃん」と、少し怒られた。
「病院行く?」
「大丈夫だって。擦り傷ぐらいで病院なんて」
「…………」
 千歳は不服そうだ。
 これは話を変えた方がよさそうなので、わざとらしく話題を変更する。
「それにしても結局誰だったのかな? 私を押した人」
 すると、先ほどよりさらに眉間に皺を寄せる千歳。
「下手してたら大怪我じゃ済まなかったかもしれないのに、名乗り出ないなんてふざけてんのかな」
 これはかなり怒っているなと、被害者であるはずのミトは、どこか他人事のような感想を抱いた。


 そんなことがあった昼休みが終わると、千歳は大丈夫だというミトを無理やり引っ張って玄関まで連れてきた。
「はい、鞄。今日は帰りな」
「えー」
「迎えはちゃんと呼んでおいたから」
「ちょっと怪我しただけなのに」
 不満を訴えるミトを千歳は完全に無視している。
 迎えに来たいつも乗る車の中には、普段はいない蒼真の姿が。
「あれ、蒼真さん?」
 昨日の宴の件もあって忙しいと聞いていたので、ミトは不思議がる。
「どうしているんですか?」
「いいから乗れ」
 ミトは困惑したように千歳を振り返るが、千歳は帰らせる気満々だ。
 蒼真からも早く乗れという無言の圧をかけられ、今日ばかりは仕方なく受け入れることにした。
「はい」
 なにやら機嫌が悪そうな蒼真に促されて乗り込むと、蒼真が千歳をにらむ。
「千歳、学校だからって気抜いてんじゃねぇぞ」
「すみませんでした」
 蒼真に向かって深く頭を下げる千歳にミトはオロオロする。
 そして、千歳を残したまま車が発車する。
 しかし、車が走る道がいつもとは違うことにミトはそうそうに気がついた。
「蒼真さん、どこか行くんですか?」
「病院だ」
「えっ、なんで?」
「アホか。お前を調べてもらうためだ。今日階段から落ちたんだろ」
 なぜそれを知っているのかと思ったが、迎えを呼んだ千歳が伝えたに決まっている。
 余計なことをと思わなくもないが、千歳もミトを心配しての行動だろうから文句も言えない。
「別になんともありませんよ?」
「その言葉を鵜呑みにして、はいそうですかと終わらせられるわけないだろうが!」
 くわっと目をむく蒼真にミトはたじろぐ。
「でも──」
「お前になにかあったら紫紺様が心配する。そこを考えろ」
「それはそうですけど……」
 確かに波琉は必要以上に心配するだろう。
 ミトが大したことないと言ったとしても。
「万が一急変してみろ。怒り爆発した紫紺様の力で、龍花の町は嵐で水没するかもしれないだ。細心の注意を払っても足りるなんてことはない!」
「それは困りますね……」
 実際は困るどころではない。
 龍花の町の命運がミトにかかっていると言っても過言ではないのだ。
「擦り傷だけと聞いているが、念のため病院に行って全身くまなく調べてもらうぞ」
「波琉は知ってるんですか?」
「今の曇天を見て言ってんのか?」
 蒼真は窓の外を親指で指差す。
 言われてみたら確かに空は暗い雲に覆われており、今にも雷が鳴りそうなほど悪い。
「紫紺様には千歳から連絡があってすぐに報告した。まあ、なんていうか、はっきり言ってめちゃくちゃ怒ってる」
 蒼真は怯えたように顔色を悪くしているので、それを見ただけで波琉の様子が目に浮かぶようだ。
 ミトも口元が引きつった。
「擦り傷だけってちゃんと伝えました?」
「もちろん伝えたに決まってるだろ。心配はいらないとな。けど、それであの方が納得すると思ってんのか? お前に害を与えるものには温厚って言葉をどこかに放り投げる方だぞ」
「ほんとに擦り傷だけなんですけどぉ」
 ミトは情けない声を出す。
「あきらめて検査しとけ。町の平穏のためだ」
「はあ……」
 ミトは深いため息をついた。
 病院に着くや、そのまま検査着に着替えさせられた。
 そして、レントゲンやらなにやら検査をされ、内科医やら外科医やら多すぎる医者に診察されてから、ようやく問題なしのお墨付きをもらい開放された。
「疲れた……」
 病院のVIP専用に作られた待合室にて、椅子でぐったりと座るミトの向かいでは、蒼真も疲れた顔をして立っている。
 VIP専用とあって、周囲には高級そうな美術品が飾られている。
 なんとも豪華な待合室だが、今のミトに美術品を鑑賞して楽しむ余裕はない。
「疲れたのは俺の方だ。やっと昨日の宴の後始末が終わって休めるかと思ったら、階段から落ちたなんて情報が飛び込んでくるんだからな」
「ご心配おかけしました」
 ミトは一応とばかりに頭を下げる。
「でもこれできっと波琉の機嫌も直りますよね?」
「だといいんだけどなぁ」
「他にも気になることが?」
「お前落ちた時どうしてた? 突き落とされたんだろ?」
 その問題があったかと、ミトは頭を抱えたくなった。
「はい。でも見てた人によると誰も私の背後にはいなかったって」
「お前の気のせいってことは?」
「確かに押されたんです。背中をどんと。結構な力だったので間違えるはずないです」
 沈黙がしばし続く。
「……まあ、それはおいおい調べるとして、とりあえずは無事な姿を紫紺様に見せに帰るとするか」
「はい。そうしましょう!」
 やっと帰れると、ミトが飛ぶように勢いよく立ち上がったその時。
 ドシャン!と大きな音を立てて、つい今しがたまでミトが座っていた場所に石像が倒れていた。
 時間が止まったように硬直するミトと蒼真。
 そして、すぐにふたりの顔色が青ざめる。
「ひっ!」
 ミトは慌てて椅子から距離を取った。
 石像はミトが座っていた椅子の横に飾られていた美術品だ。
 石でできているため見るからに重く、椅子が石像の重さで潰れている。
 もしミトがまだ座っていたら……。
 考えるだけでも怖い。
「な、なんで……」
「おい! 怪我はないか!?」
 今日二度目となる問いかけに、ミトはこくこくと頷く。
「ないです」
 ほっとした顔した蒼真は、石像を確認する。
「なんでこんなものが急に倒れてくるんだよ」
 ちょっとやそっと押したくらいではびくともしなさそうなものだったのに、まるで高いところから落としたように崩れている。
「そ、蒼真さん……」
 ミトは怯えた眼差しで蒼真に目を向ける。
 蒼真は真剣な顔をしてミトの手を引いた。
「急いで帰るぞ」
「は、はい……」
 なにか得体の知れないそら恐ろしさを感じる。
 今日突然怒ったふたつの危険はただの偶然なのか、それとも……。

 屋敷へと帰ってきたミトは、波琉の部屋へ一目散に走る。
 その後を蒼真が歩いてついてきていたが、急ぐミトを叱るようなことはしない。
 ミトはうちにある不安を払拭するべく、愛しい人を目指す。
「波琉!」
 波琉は立ちながら外の景色を眺めていたようで、ミトが部屋に飛び込んでくると、振り返りミトに静かな眼差しを向ける。
 いつもなら微笑みながら迎えてくれるのに、今日は違った。
「波琉?」
 いつもと様子の違う波琉に、ミトの不安がさらに膨らむ。
 そんなミトを波琉は優しく抱きしめた。
「階段から落ちたって聞いたよ。怪我をしたんだって?」
「そうだけど、ただの擦り傷だから大丈夫。千歳君が咄嗟に助けてくれたから」
「そう。なら、千歳君にはお礼を言っておかないと駄目だね」
 そこで初めて笑みを見せた波琉だが、その笑顔にはどこか緊張感があった。
「紫紺様」
 部屋に蒼真が入ってきて、波琉の視線もミトから蒼真に移る。
「少しよろしいでしょうか」
「いいよ」
「ミト、少し外に出てろ」
「えっ、でも……」
 ミトはためらいを見せたが、波琉に頭を撫でられ、しぶしぶ部屋から出る。
 時間にしたらそれほど長くはない。
 思ったよりも早く蒼真は出てきて、「もういいぞ」とミトに声をかけて行ってしまった。
 ミトは再び部屋に入ると波琉に近づく。
 先ほどと違い座っている波琉の隣に腰を下ろそうとしたが、手を引かれ波琉の膝の上に乗った。
「今日は大変だったみたいだね」
「蒼真さんから聞いたの?」
「うん。ある程度ね。ミトが無事で本当によかったよ」
「うん……」
 ひとつ間違えば怪我では済まなかったのだから。
 もし千歳が助けてくれなかったら。
 立ち上がるのがもう少し遅かったら。
 ふたつの偶然がミトを助けた。
 今になって無事であることを実感し安堵した。
 そして急にある思いが浮かんでくる。
「ねえ、波琉。もし私が今死んじゃったら、天界へは行けないの?」
 前に煌理だったか波琉だったかが言っていた花の契り。
 それをしなくては天界へは行けないと。
 これまではそんなに深く考えていなかったが、今日命の危険を感じたことで、急に不安になってきた。
「そうだね。今のままじゃミトは天界へ行けない。花の契りをしない限りはね」
「それは今しちゃ駄目なもの?」
「ミトはしたいの?」
「…………」
 ミトは沈黙し、顔を俯かせながらこくりと頷く。
「だって、それをしないままもし私が死んじゃったら波琉とは一緒にいられないんでしょう?」
「そうだね」
「だったらっ!」
 波琉はそれ以上の言葉を遮るようにミトの唇に人差し指を押し当てる。
「ミトが望むならいつだって僕の準備はできているよ。でもね、ミトに覚悟があるか分からないから」
 ミトは首をかしげる。
 この町に来て波琉と会えた時点で覚悟なんてとっくにできているのだ。
 ミトにとっては愚問だった。
 けれど、まだミトに話させないように指を当てたまま波琉は続ける。
「ミトは両親と別れる覚悟はある?」
 意味が分からないミトはきょとんとする。
「ミトが僕とともに天界へ行くっていうことはね、輪廻の輪から外れるということなんだよ」
 なおさらわけが分からない。
 やっと波琉が唇から指を離した。
「どういう意味?」
「人間は死ぬと輪廻の輪に戻り、また別のなにかになってこの世界に生まれ落ちる。けれど、花の契りはその輪廻の輪からミトの魂を外す契約だ。そうすると本来なら人間が行くはずの場所にミトは行けなくなる。両親や友人たちとは違う理の中で生きることになるんだ。それはこれまで魂に刻まれた人との縁を断ち切るものでもある」
「少し難しい」
「そうだね。簡単に言うと、今のミトには両親との間に親子のつながりができている。それはまた生まれ変わった時にその縁で結ばれ出会うこともあるだろう。けれど、花の契りをしたら両親とのつながりをなくしてしまう。よほどのことがない限り両親と出会う可能性を失うものだ。それが縁を切るということだよ」
 もう両親とは会えない……。
 それはミトにとってかなり衝撃を受ける話だった。
 敵ばかりの村で、ミトが生きてこれたのは間違いなく両親がいたからだ。
 そんな両親との縁を切るなんて。
 ミトの目に迷いが写った。
 それを察した波琉はよしよしとミトの頭を撫でる。
 まるで子供をあやすように。
「まだ話すつもりじゃなかった。ミトにとって両親がどれだけ大事な存在か分かっていたからね。でもね、ごめん。僕はミトを天界へ連れていくよ」
 ミトは波琉と視線を合わせる。
 波琉はとても真剣で、吸い込まれそうなほど透明な目をしていた。
「僕にはもうミトのいない世界なんて考えられない。ミトに覚悟がないからなんて言っておきながらひどいと思うかもしれないけど、たとえどんなになじられてもミトを手放す選択肢は僕にはないんだ。でも、いつまでも待つよ。ミトが覚悟を決めるのを」
 優しい波琉。
 そして、残酷な波琉。
 ミトの心を分かっているようでいて分かっていない。
「波琉。私に花の契りをして」
 波琉の腕をぎゅっとつかんで、ミトは波琉の頬にそっと唇を寄せた。
 初めてミトからされたキスに、波琉はひどくびっくりしたように目を大きくする。
「確かにお父さんとお母さん。それに蒼真さんとか千歳君とか尚之さんとか、きっとこれからも数えだしたらキリがなくなるほど大切な人ができるかもしれないけど、私は波琉と生きたい」
 迷いのない眼差しが波琉を射抜く。
「そりゃ悲しくないわけじゃないけど、私は波琉と一緒にいる。その覚悟だけはとっくにできる」
 ミトの言葉に波琉は息を飲んだ。
「だからお願い。波琉とこれからも一緒に生きるために花の契りをして」
 沈黙がしばらく続き、ミトはだんだん不安になってきた。
 今の言葉を聞いて波琉はなんと思っただろうか。
 簡単に両親や友人知人との縁を切る決断をしてしまうミトに愛想を尽かさないだろうかと心配だ。
 すると、くくくっと波琉が小さく笑い始めた。
「波琉?」
「いや、案外ミトの方が潔いなって。もしかしたら覚悟が必要だったのは僕の方だったのかもしれない。ミトが、僕より他の人間を選んでしまはないかって不安だったのかも」
 波琉はミトと目を合わせるとにっこりと微笑んだ。
 そして、奪い去るようにミトの唇にキスをする。
 唇同士でしたのはこれが初めて。
 突然のことにミトはなにが起こったか分からない顔をしていたが、すぐに顔を赤くする。
「は、波琉っ!」
「これまで遠慮してたって気づいたから、今後は自重という言葉を捨てることにするよ」
「駄目駄目駄目! 急いで拾ってきて!」
「やーだ」
 なんとも楽しげにクスクスと笑う波琉は、ミトの隙をついて再度唇を狙った。
 二度もの攻撃にミトはもういっぱいいっぱいという表情で、三度目は許さないというように自分の唇を両手で隠した。
 そんな姿も愛おしそうに波琉は見つめる。
「かわいいね、ミトは」
「波琉、なんだか意地が悪い」
「そんなことないよ。ミトを愛でているだけ」
 そう言うとぎゅっとミトを抱きしめた。
「じゃあ、ミトの覚悟が変わらないうちに花の契りをしちゃおうか」
 はっとするミトは口から両手を離す。
「どうするの?」
 花の契りと何度も口にしてはいるけれど、どうやって契約するのかミトはまったく知らない。
「特に難しいことはないよ」
 波琉は左の手の平をミトに見せる。
「花印がある方の手を合わせて」
「うん」
 言われるままに左手を波琉の左手と合わせる。
「今ここに花の契りを行わん」
 そう口にしてから、波琉がミトの額にそっとキスをした。
 波琉の触れた額が温かさを超えて熱さすら感じると、左手のアザまでもが熱くなってきた。
 その熱はまるでミトの中に吸収されていくように次第に落ち着いていった。
 熱が冷めると、波琉が手を離す。
「これで終わり?」
「うん。終わり」
「思ってたより簡単なんだ」
 契約とかいうので、契約書とか名前を書いたりとか手続きが必要なのかと思っていたが、あっけないほどあっさり終わってしまった。
「これでミトは永遠に僕と一緒だよ」
「うん」
 永遠とはなんて重い言葉だろうか。
 けれど、ミトは後悔なんてしていなかった。
 両親に相談なく決めてしまったのは後ろめたいが、きっと志乃ならば快く受け入れてくれるだろう。
 ただ、父親である昌宏が問題だったが、さらは志乃に任せるほかない。
 きっとかなり怒りながら泣くのだろうなと思うと、しばらく黙っていた方がいいような気がしてきた。
「あっと、もうひとつ忘れてた」
「なに?」
「ちょっとじっとしててね」
 そう言うと、波琉はミトの頭に手を乗せた。
 すると、その手から強い神気を感じ、ミトの全身を包むように膜を張った。
 ほのかに体が光っていたが、それはすぐに消えてなくなる。
「なにしたの?」
「今日のようなことがミトにあっても、多少なら守ってくれるようにおまじないしただけだよ」
「へぇ」
 おまじない。
 それがどれほどの効果をもたらすか分からないまま、ミトは感心したように声を発した。






 翌日、波琉に見送られながら学校へと向かう。
「おまじないをしておいたから大丈夫だとは思うけど、気をつけてね」
「うん」
 結局ミトを階段から落とした人物は見つけられなかったと、昨日の夜に千歳が連絡してきた。
 石像の件もひっかかっていたが、ただの偶然だと思うようにして不安を振り払う。
 車はいつものルートで学校への道を走っていた。
 学校までは別に歩いて行けないこともないが、花印を持つ者は基本的に単独で行動しない。
 必ず車で移動し、外に出る時には人が付き添う。
 学校では付き添いなど世話係以外いないが、学校のセキュリティはかなり高く、問題ないそうだ。
 だからこそ、ミトが階段から落ちた件は重要視されており、警備の見直しがされることになったとミトは蒼真から教えてもらった。
 紫紺の王の伴侶が階段から落ちたという事件は、ミトが思っている以上に大事らしく、学校側は顔を青ざめさせたらしい。
 神薙本部からも警告が出されたようで、校長の毛根が心配になってくる。
 一度や二度ハリセンで叩いたぐらいでは間に合わないかもしれない。
 ミトは流れる景色をなんの気なしに眺めていた。
 すると、赤信号であるはずの横の方から車が突っ込んでくるのが見えた。
「きゃあ!」
 運転手が車を避けようととっさにハンドルを切るが間に合わず、ミトの座る後部座席に直撃した。
 車は何度か回転し、どっちが上で下かも分からない状態になりながら、車はひっくり返った状態でようやく止まった。
「ミト様大丈夫ですか?」
 運転手が後ろを振り返りミトに声をかける。
 どうやら頭を怪我してしまったようで、血が出ている。
 幸いにもミトはなんともなかった。
「はい。なんとか……」
 運転手が這い出し、ミトもシートベルトを外して出ようとしたが、シートベルトが外れない。
 あれっと思った直後、漏れだしたガソリンに火がついた。
「ミト様!」
「嘘、嘘っ」
 焦り出すミト。
 必死でシートベルトを外そうとするのに、ミトは捕らわれたようにその場から逃げられない。
 火の熱さがミトを襲ってくる。
 もがけばもがくほど、余計に焦って冷静な判断ができない。
「ミト様!」
「やだ! 助けて!」
 運転手もミトを助け出そうと必死になってくれているが、火がその行く手を阻んでいる。
 このままでは爆発して運転手も巻き込まれてしまう。
 けれど、そんなことにきがまわらないほどミトは恐怖に襲われていた。
「いやっ! 波琉!」
 こんな時、頭に浮かぶのは波琉しかいない。
 けれど、ここにいない波琉が助けられるはずもなく、死を覚悟したその時、ミトの体が淡く光る。
「えっ……」
 驚きのあまり恐怖心を忘れたミトの周囲を光が渦巻き、その光は広がって車を包み込む。
 すると、近づくことすら危険だった炎が一瞬で消え去ったのだ。
 なにが起こったかすぐには分からなかったが、あの慣れ親しんだ強い気配。波琉の神気にミトは涙が出そうになった。
 そして、波琉が言っていた『おまじない』が頭をよぎる。
「波琉……」
 波琉が守ってくれたのだと確信する。
 燃える心配がなくなったミトは、再度シートベルトを外すべく動かすと、今度は先ほどまでのはなんだったのかと思うほどあっさりと外れた。
 そして、運転手の手を借りながら車の外に出る。
「ミト様、大丈夫ですか?」
「はい。私は全然なんともないです」
 自分よりも、頭から血を流す運転手の方が心配である。
 車はかなり損壊しており、よく無事だったなと思わせるほどで、特にミトが座っていた後部座席が一番ひどかった。 
 花の契りのおかげで、寿命が尽きる前に死んでしまっても問題なくなったとはいえ、死にたいわけではまったくない。
 波琉のおまじないの力を実感して、ミトはほっと息をつくとともに、自分の身になにかが起こっているのを感じる。
 なにせ、横から追突してきた車には誰も乗っていなかったのだ。
 そんなことあるのだろうか。
 警察がすぐに訪れて調べているが、ミトにはただの事故とは思えない。
 階段からの落下。倒れてきた石像。そして無人の車の追突。
 偶然にしてはおかしすぎる。
 そう思っていたから、波琉もミトにおまじないと言ってミトを守る力を与えてくれたのではないだろうか。
 波琉はなにか知っている?
 今、ミトの周りで起きている不思議な出来事の原因を。
「波琉は話してくれるかな?」
 波琉はミトに過保護なところがある。
 心配させまいと話してくれない可能性も高かった。
 けれど被害にあっているのはミトなのに、仲間はずれにされるのは気分がよくない。
 帰ったら問い詰めようと思ったが、まずは現状をなんとかするのが先だ。
 さすがに車がこんな状態で学校には行けないだろう。
 見事なほどにボロボロだ。
 その上、先ほどの炎上で、ミトの鞄が燃えてしまった。
 中に入っていた教科書はノートも使い物になりそうにない。
「はあ……」
 ため息をつくミト。
 先ほどあんなに取り乱していたのに、今は逆に冷静であった。
「なんで私ばっかり」
 不運ではとうてい片付けられない。

 少しすると救急車がやって来て、頭を負傷した運転手とともにミトも乗り込む。
 そして二日連続で精密検査をする羽目になってしまった。
 検査を終えて待合室へ行くと、警察と思われる人と蒼真が話し込んでいた。
 ミトに気づくと、警察は一礼してから離れていき、蒼真がミトに近づいてくる。
「散々だったな、ミト」
「ほんとです。運転手の方は大丈夫ですか?」
「ああ。場所が場所だから念のため今日一日入院することになったが、本人はいたって元気だ。心配しなくていい」
「そうですか」
 それを聞いてミトもほっとした。
 けらど、すぐに真剣な表情へと変わる。
「ぶつかってきた車、人が乗ってなかったですよね?」
 見間違えた可能性も考えて蒼真に問うが、蒼真は肯定した。
「ああ。車には誰も乗ってなかった」
 蒼真も険しい顔をしている。
「原因は分かったんですか?」
 人が乗っていない車が猛スピードで突っ込んできたのだ。
 車には持ち主だっていただろうに。
「今は調査中だ。お前は気にするな」
「気にしますよ! 昨日からいったい何度死にかけたと思ってるんですかっ」
 思わず声を荒げてしまうミトだが、それも当然というもの。
「隠さず話してください」
 問い詰めるミトの視線を受けた蒼真は、髪をくしゃくしゃと掻き、どうしようか悩んでいる様子。
「まあ、なあ。お前の気持ちも分からんではないが、ほんとに理由が分かってないんだよ」
「嘘」
 ミトはじとーっとした目で蒼真を見つめる。
「嘘じゃねぇよ。学校で階段から落ちたにしても、学校ないにはいくつもの監視カメラがあるんだ。それを確認したが、ミトが落ちる場面は映っていたが、その後ろには誰もいなかった」
「えっ……」
 学校内に監視カメラがあったことにもびっくりだが、ミトが落ちた場面が証拠として映っていたことにも驚く。
「ほんとに誰も?」
「ああ」
「でも押されたか当たったかしたのは絶対です! 嘘なんて言ってません!」
「俺も嘘をついたとは思ってない。だからこそ厄介なんだよ」
 蒼真は興奮するミトを落ち着かせるように頭にぽんと手を置いた。
「この町でなにか起こってる。それもお前の周りでな。紫紺様はそれを理解された上でお前を守ろうとしている」
「あ……」
 車が炎に包まれた時、ミトを守った光。
 波琉の神気。
 まるで自分がそばにいるから大丈夫だと言われているかのような安心感があった。
「紫紺様は堕ち神が関係しているんじゃないかと考えているようだ」
「堕ち神って、波琉が言ってた、展開を追放された龍神」
 百年前に星奈の一族から生まれた花印を持った女性の相手。
 キヨと玖楼。
 キヨは煌理を愛し、玖楼はキヨを愛していた。
 それゆえに起こった事件によりキヨは煌理に殺され、玖楼はたくさんの生き物を殺した罰で堕ち神となった。
 百年前の因縁が今のミトに影響を及ぼしている。
 もしミトを狙っているのが堕ち神なのだとしたら、相手は龍神だ。
 力のないミトに立ち向かえるとは思えない。
「紫紺様によると堕ち神はこの龍花の町のどこかにいるらしい。紫紺様の命を受けた龍神たちが目下捜索中だ。そいつを見つけないことには、ミトの周りで起きた事故と関連づけることができない」
「龍神様ならすぐに見つけられるんじゃないんですか? すごい力を持ってるのに」
「龍神たちも頑張って探しているらしいが、龍神とてそんな万能じゃないんだそうだ。なんの制約も制限もなく、好き勝手に人間界で力を使えるわけじゃないんだとさ。まあ、そうだよな。本来天界にいるはずの龍神が人間界に来ているわけだし、好き勝手力を使われたら町ぐらい簡単に滅ぶ」
「そうなんですか……」
 ミトはしゅんとする。
 龍神の力があればすぐに解決するかもしれないと思っていたのに、そう上手くは運べないらしい。
「とりあえずいったん屋敷に帰るぞ。どうせ学校なんて行っても授業に身が入らないだろ」
「はい。そうですね」
 ミトははっきりとしない今の現状にモヤモヤとした感情を抑えながら、蒼真の後についていく。
 蒼真はやけに周囲を警戒しながら歩いているのが分かり、自然とミトにも緊張感が走る。
 何事もなく病院を出て、玄関前に停められた車に乗り込もうと歩いていた時、ミシミシとなにやら音が聞こえた。
 きょろきょろと辺りを見回すミトを不振そうに蒼真が振り返る。
「どうした?」
「なんか変な音しません?」
「変な音?」
 その時ふと蒼真が視線を上に向けた途端、その顔に焦りをにじませる。
「ミト!」
「え?」
 きょとんとするミトを蒼真が引き寄せ、抱きしめながら前に飛ぶと、地面に転がるようにして倒れたミトの耳に大きな音が響いた。
 状況が理解できないミトが体を起こせば、瓦礫の残骸が散らばっていた。
 この瓦礫がどこから来たのかと上を見上げると、どうやら建物の外壁が剥がれたらしい痕跡が壁に残っていた。
 幸いにも周囲にはミトと蒼真以外に人はおらず、被害を受けた人はいないようだが、この騒ぎに周囲から人が集まってきている。
 ザワザワとする周囲の喧騒も頭に入ってこないほど、ミトは顔を青ざめさせて蒼真にしがみついている。
「まじか……」
 顔を強ばらせる蒼真は、思わずといった感じでつぶやいた。
「下手したら死んでんぞ」
 その言葉にびくりと体を震わせるミトに気づき、蒼真ははっとする。
「悪い。怖がらせたか」
「いえ、大丈夫です……」
 言葉とは裏腹にとても大丈夫そうには見えないミトだったが、四度目ともなると嫌でも理解させられる。
「私、狙われてるんでしょうか?」
「…………」
 ミトの問に蒼真は沈黙をもって返したが、それが答えのように感じた。



 屋敷に帰ってきたミトは、いつものように波琉の部屋へ。
 しかし、そこに波琉の姿がない。
「波琉? いないの?」
 声をかけても返事はない。
 その代わりに、クロとチコが姿を見せた。
『ミトおかえり~』
『ここ数日帰ってくるのが早いわね』
『仕方ないわよ。あんな危ない目にあったんだし』
『それじゃあ、まさか今日も危ない目にあったってこと?』
 つぶらな二対の目がミトをうかがう。
「うん。なんだかいろいろありすぎて頭がパンクしそう」
『犯人は分かったの?』
『私たちが成敗してあげるわ』
『そうそう。他の仲間も呼びましょう』
 クロは爪を見せながら「にゃあ」と鳴き。
 チコは楽しげに「チュンチュン」と鳴いた。
 その姿にそれまであった緊張感がほぐれていく。
 どうやら思っている以上に気を張っていたのを自覚し、自然とミトの顔にも笑みが浮かんだ。
「クロもチコもありがとう。だけど犯人が誰か分からないの」
『そうなの?』
 クロが首をかしげる。
「堕ち神が関係してるんじゃないかって。龍神様たちが探してるらしいんだけど、見つからないみたい」
『ミトを狙ってるのはそいつなの?』
「私もよくは知らないの。波琉から聞けないかなって思ったけど……」
 ミトは自分たち以外誰もいない部屋を見渡す。
「波琉、どこいっちゃったんだろ?」
 波琉が出かけることなんて滅多にないというのに。
 普段いる場所に姿が見えないだけでこんなにも不安になるのかと、ミトは落ち込む。
 そんなミトを気遣ってなのか、チコがミトの肩に止まる。
『だったら私たちも協力するわよ』
「えっ?」
『私たちのミトに手を出したのが誰なのか、はっきりさせてやるわ!』
 チコはなにやらやる気満々で窓から外に飛んでいった。
「えっ、チコ!?」
 まさに止める間もない。
『あらら、行っちゃったわね』
 窓に前足を乗せながら、クロはチコを見送る。
 ミトも離れていくチコの姿を目で追っていると、次第にチコの周りに鳥が集まりだし、ミトはぎょっとする。
 チコがここに来た時は同じスズメの仲間たちと一緒だったが、今の集団の中にはハトやカラスまで含まれているではないか。
 あれは大丈夫なのだろうか。
 きっと龍花の町の人々はなにが起こったか分からずに恐怖しそうだ。
『私も近所の猫たちに協力してもらってくるわ』
 クロまで動き出し、ミトは感謝より心配が先にくる。
「クロ。協力してくれるのは嬉しいけど、無理はしないで。堕ち神っていうのがどういう力を持ってるのか分からないから、もしクロやチコになにかあったら後悔してもしきれない」
 友人という言葉では収まりきらないほど、クロやチコはミトにとって大事な存在なのだ。
『分かってるわ。私たちは人間と違って勘はいいから、危険だと思ったらすぐにげるから大丈夫よ』
「ならいいけど……」
 クロはしっかりしているので頼りになるが、不安にならないわけではない。
『そうそう。シロには黙っててね。あの子は野生の勘ってものをどこかに落としてきてるから』
「あはは……。分かった」
 ミトは、お馬鹿かわいいシロの鈍臭さを思い出して苦笑いする。
 シロに黙っていた方がいいというのは、ミトも同感である。
 シロでは捜索するのを忘れて町で迷子になりそうだ。
 なにせ、シロには蝶に興味を引かれるまま町に出て帰られなくなったという前科がある。
 大人しく留守番してもらうのが一番だ。
『いってくるわね』
「いってらっしゃい」
 クロがいなくなると、途端に部屋が広く感じる。
 たったひとり取り残されたような寂しさがミトを襲った。
 普段波琉がいる場所に座り込んでひたすら待ち続ける。
 どれだけ経っただろうか。外はもう暗くなっている。
 途中で志乃が食事の時間を知らせに来たが、波琉を待っていると断った。
 ミトが事故に遭ったことを、仕事から帰ってきてから知った両親は、心配そうにしつつも多くを聞かないでいてくれた。
 蒼真からなにかしらの説明を受けていたのかもしれない。
 この町に来ても心配をかけさせているのをミトは申し訳なく思ったが、今は波琉のことで頭がいっぱいだったので、大した反応を見せられなかった。
「波琉。早く帰ってきて……」
 身を小さくしてただただ待つ。
 そうしていると、カタンと小さな音を立てて、窓から波琉が入ってきた。
「あれ? ミト、まだ寝てなかったの?」
「波琉!」
 ミトは立ち上がり、波琉に抱きついた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと町の散策かな」
「堕ち神を探してたの?」
 ミトが確信に触れると、波琉は苦笑する。
「蒼真が言ったんだね」
 波琉は不安そうな顔をするミトを抱き上げ、いつもの定位置に座る。
 スリスリとミトの頬を優しく撫でる波琉の手は優しく、ミトの方からも頬を寄せた。
「こんなにも不安にさせるなら口止めしておいた方がよかったかな」
「それは嫌。私だけ仲間外れにされるのは。不安なのは中途半端な情報しか知らされないからでもあるもの。ちゃんと教えて」
「以前に堕ち神のことは大した話じゃないって言っていたから、ミトに多くを語らなくても大丈夫だと思ったんだよ。でも何度も危険な目な遭ったら怖くなるよね。ごめんね、僕の配慮不足だった」
「波琉が悪いわけじゃない。でも私だけ知らないままなのは嫌なの」
 我儘なのかもしれないが、自分の知らないところで得体の知れないなにかが起こっているのはそれはそれで怖いのだ。
「龍神たちだけで対処しようと思ってたんだけどね、なかなか痕跡が掴めなくて苦慮してるんだ」
「龍神の力にも制限があるから?」
「それも蒼真から?」
 ミトはこくんと頷いた。
「ミトの言う通り、天界と違って遠慮なしに力を使ったりはできないんだ。そんなことを許したら、人間界は大変な混乱に見舞われる可能性があるからね」
「うん」
 龍神の力が危険なのはミトにも分かる。
「だからなかなか捕まえられなくて困ったよ」
 そう言う波琉の声はあまり困っていそうにない。
「他の龍神の力も借りてるんだけどねぇ。天界から追放されて力は弱ってるはずなのに、これだけ力を残してるなんて、それだけ強い執念を抱いているってことなのかな。ミトのためにも早く見つけないとね」
 にこりと微笑む波琉に、ミトは思い出した。
「そうだ、波琉、ありがとう」
「なにが?」
「今日車で事故したの。火に焼かれそうになったけど、体が光ってそれが火を消しちゃったの。あれって波琉のおかげでしょう?」
「おまじないが効いてよかったよ」
 やはりあの力は波琉のおまじないの効果だったようだ。
「ありがとう!」
 ミトは満面の笑みで波琉に、感謝した。
「お礼はいらないよ。ミトを守るのは僕の役目なんだから」
 そう言ってミトの頬に触れる波琉は、反対の頬にキスを落とした。
 やはり慣れないミトは恥ずかしそうに両手で顔を覆ったのだった。




 それから三日経ったが、チコからもクロからも、そして波琉からも堕ち神が見つかったという情報はもたらされない。
 この三日間大事を取って学校を休んでいたミトだったが、事故による影響も見られなかったので学校へ行くのを許された。
 堕ち神が見つからないこんな時にと思いはしたが、龍神ですら見つけられない相手をミトが探せるはずもない。
 それ以外にも問題はある。
 外に出る度に危険な目にあったため、屋敷から出る怖さがあった。
 しかし、それは屋敷の中にいても変わらないかもと波琉が言い出した。
 日中、波琉は堕ち神を探すために屋敷を留守にしており、波琉のいない屋敷はむしろ人手が少ないので危ないかもしれないとのこと。
 だったら学校に行かぬ理由はない。
 それにミトには波琉のおまじないがあると強気な気持ちを持てた。
 事故に遭っても、炎に包まれても無事だっとのである。
 ちょっとやそっとではミトをどうにかできないだろう。……たぶん。
 ということで、数日ぶりに学校へ登校すると、玄関で千歳が待ってくれていた。
「千歳君、おはよう」
 なんだかずいぶんと久しぶりのような気がしてならない。
「おはよ。もう大丈夫なの?」
「うん。……たぶん?」
「その間がめちゃくちゃ気になるけど、聞かないでおく」
 ミトにも大丈夫なのか分からないのだから仕方ない。
 本当は波琉のそばにいるのが一番安全だと分かっているが、波琉にも波琉のやることがあるので我儘は言えない。
「私が休んでる間になにか変わったことあった?」
 教室へ向かいながら談笑する。
「いや、ない……こともない?」
「どっちなの?」
 ミトは苦笑する。
「校長が毎日俺のところに来てミトの様子聞いてきてた。そろそろハリセンの効果が欲しいんだってさ」
「校長先生……」
 これにはミトも頭を抱えたくなった。
 どれだけミトのハリセンの力を必要としているのやら。
 だがまあ、確かに学校がある日はほぼ毎日校長室に行き、ハリセンでぶっ叩いていたので、校長もハリセンの効果が切れるのを恐れたのかもしれない。
 ちなみに尚之も昨日は叩いてもらえなかったからか、今朝早くとりあえず挨拶代わりにハリセンを渡して叩いてもらっていた。
 堕ち神が見つからない苛立たしさからか、いつもより叩く力が強かった気がするが、むしろ効果がありそうと尚之はたいそう喜んでいたのを見た。
 校長も似たようなものだなと、ミトはげんなりしつつ、波琉の気持ちがよく分かった。
「校長は放置で。他は?」
「そうだな、吉田美羽と世話係が別れたらしいって話だよ」
「えっ!」
 ミトは目を大きくして驚く。
 なにせ龍神からの求めを拒否してまで得た関係だというのに、そんなあっさり破局するなんて誰が思うだろうか。
「なんで?」
「結局場の空気に盛り上がってただけじゃない?」
「どういうこと?」
「これまでクラスメイトから虐げられていたヒロインと彼女を守るヒーロー。その前に立ち塞がった龍神という恋の障害。そんな少女漫画のようなストーリーに自分を当てはめてテンションが上がってただけで、龍神という障害がなくなったら一気に気持ちが冷めたってところかな」
「えー……」
 それはなんともお粗末な寸劇である。
「龍神じゃなく世話係を選んだことに非難する奴もいたけど、普通科の生徒とか中心に、龍神にも負けない真実の愛を貫いたって応援する奴が圧倒的な多かったからさ。結構批判が集まってたりするんだよねー」
「そうなんだ」
「恋愛なんて我に返ったら終わりだよ」
「なんか千歳君悟りを開いた仙人みたい」
 チャラそうな見た目なのに彼女がいないのは知っているのに、なんともドライだ。
 彼女が欲しいとか憧れはないのだろうか。
 そんなことを考えていると、後ろから声がかけられる。
「千歳くぅ~ん」
 聞いた覚えある猫なで声に、千歳は嫌そうに顔をしかめた。
 ミトがそろりと振り返ると、今日もメイクばっちりな吉田愛梨が手を振って駆けてくるのが見えた。
「あいつほんとウザイ。ミトが休みの間ずっとつきまといやがる。一回しめるかな」
 千歳が蒼真のような怖いことつぶやき出した。
「それはちょっとまずいと思う。ほら、相手は女の子だし」
「あんなの女という名のモンスターだよ」
 やさぐれたように話す千歳。ミトが休みの間になにがあったのやら。
「お、は、よ」
 語尾にハートがつくような話し方で千歳の腕に抱きこうとしたが、さっと千歳がかわしたので、愛梨はたたらを踏む。
「千歳君たら恥ずかしいの?」
 頬を染める愛梨だが、今の千歳の顔のどこをどう見て恥ずかしがっていると思うのか疑問である。
 千歳は長居は無用とばかりにミトの手を引いて早足になった。
 どこまでついてくるのかと様子を見ていたら、特別科まで後を追ってくる。
 ミトを送り届けた後に千歳がひとりになるのを狙っているに違いない。
「大変だね」
 ミトにはどうにもできないので、苦笑いしかない。
 特別科の教室に着く。
 見慣れたはずの教室内はなにやらいつもより静かだ。
 ここでもなにかあったのかと首をかしげるミトのところに、先ほど話題に上がった美羽が走ってきた。
 けれど、正確にはミトではなく、一緒にいる千歳のところにだった。
 美羽は千歳の前に立つや、一気にまくし立てる。
「成宮君、お願いします! 環様に会わせて! 神薙であるあなたなら話をつなぐことができるでしょう? お願いよ!」
 なにを言い出すのかとミトだけでなく千歳も、教室内にいた生徒も驚いている。
 美羽には、千歳の隣にいる自分の妹にも気づいていなさそうだ。
 お願いされた千歳は一瞬だけびっくりした顔をした後、凍えるように冷たい眼差しを向けた。
「無理」
 千歳の回答は至極簡単なものだったが、美羽は納得していない。
「どうして!?」
「いや、そもそも会ってどうするの?」
「私が馬鹿だったの。やっぱり花印を持ってる私には環様の伴侶になるのが当然の流れだったわ。私は選ばれたんだもの?だから、今から環様と……」
「恋仲になるって?」
 千歳が美羽の言葉を遮るように、口を開いた。
 その目には軽蔑という感情が浮かんでいる。
「なに言ってるの、あんた。そんな都合がいい話聞き受けるわけないじゃん。今さらやっぱり龍神がよかったなんてさ、龍神を馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、なんのつもり? あんたには愛しの世話係がいたんじゃなかったの?」
 千歳はかなり怒っているようだが、されはミトも同じだったので止める気はない。
 こっちと上手くいかなかったからといって、龍神に乗り換えるなんて、相手が龍神でなかったとしても失礼な話だ。
「陸斗とのことはちょっと間違えたの。本気じゃなくて……。環様の方がずっといいって気がついただけで」
 彼女は今なにを言っているのか分かっているのだろうか。
 損得で相手を選ぼうとしているのが透けて見え、ミトは不快でならない。
 それは千歳もだろう。
「残念だけど、環様はとっくに天界に帰ったよ」
「えっ」
 驚きのあまり声が出ない美羽と違い、思わず声を上げてしまったミトは、千歳に問う。
「環様って帰ったの?」
「うん。昨日だったかな。今は金赤様が町にいらっしゃるから、早めに帰ることにしたみたい。なんせ、花印を持つ相手からは恋人がいるからって断られたからね」
 そう告げながら美羽をにらむ千歳はかなり迫力があった。
「そんな……」
 愕然とする美羽をかわいそうとは思わない。
 正直自業自得なのだろう。
 その時、大きな笑い声がした。
 声の主は美羽の妹である愛梨だ。
 その笑い声は美羽を嘲笑っている。
「あははっ! 馬鹿みたい。自分から手放しておきながら、今になってすがろうとするなんて、お笑い草だわ。ほんとに馬鹿」
 お腹を抱えて笑う愛梨を、美羽はにらむが、あまり怖そうに見えないので、愛梨にも効いていないだろう。
「笑わないでよ。そもそも普通科のあなたがどうしてここにいるの?」
「私がどこにいようとあんたに関係ないでしょ」
「姉に対してそんな言い方……」
「姉だなんて思ってないもの。これまであんたのせいでどれだけ私が我慢させられたと思ってるのよ。花印を持ってるってだけで、すべてがあんたを中心にまわった家族。それがどれだけ苦しかったあんたは気づこうとすらしなかったでしょうね」
 どうやらこの姉妹にもいろいろと問題があるらしい。
「ほんと滑稽ね。龍神に去られた花印に価値なんてないわよ」
 愛梨は歪んだ笑みを浮かべながら「お疲れ様。価値のなくなった花印様」と、言い捨てて去っていった。

 それからはもうクラス内の空気は最悪である。
 シクシクと泣く美羽を誰ひとり慰めようとはしない。
 数日前まで人の輪が絶えなかったというのに、特別科の生徒もあからさまである。
 この町では、龍神に選ばれるかがすべてを決める。
 自分から龍神の手を振り払った美羽に、今後龍神が迎えに来ることはない。
 そうしたらどうなるか。
 それはミトも皐月の時に経験済みだ。
 もともとそれまでクラス内の立場が弱かった美羽は、一気に前の状況に戻ってしまった。
 いや、前よりさらに悪いかもしれない。
 千歳から聞いていた、これまで美羽と陸斗の恋を応援していた者たちまで、美羽の敵となった。
 あまりにも早すぎる破局と、美羽が環に乗り換えようとしたことも噂として回り、身持ちの軽さから悪女の汚名を受けてしまった。
 しかし、それでも一応花印を持っていることに変わりはなく、手を出されるような事態にはなっていないのが幸いだ。
 もし皐月の時のようにひどい場合はミトも口を出そうと思っていたが、どうやらそこまでではないようだったので傍観者に徹した。
 美羽には前に手を貸して怒られたことがあるので、また怒らせる結果になりはしないかと、助けに入るのもはばかれた。
 千歳に話すと「それでいい」となんとも冷たい対応。
 どうやら美羽の優柔不断さは、千歳には受け入れがたかったよう。
 千歳からは助ける必要はないと言われたが、様子を見つつ、助けに入ろうと心に決める。

 そん日の放課後。
 いったん屋敷に帰ったミトだったが、忘れ物をしていたのに気がつき、再度学校へと向かった。
 明日の授業にも必要な宿題だったので、面倒だが仕方ない。
 付き合わせる運転手に申し訳なくなりながら学校へ向かえば、まだちらほらと生徒が残っている。
 さすがに教室には誰もいないかと思ったが、教室には美羽がいた。
「あ……」
 美羽もミトに気がつき、なんとも言えぬ気まずい空気が流れた。
 ここはすぐに撤退するのが良策だと、机の中をあさる。
 美羽はどうやらノートを書き込んでいるようだ。
 また誰かに押しつけられたのかもしれない。
 声をかけようか一瞬迷ったが、また怒らせるだけかもと思い口を閉じた。
 すると、突然立ち上がった美羽の方から声をかけてきた。
「ねえ。どうして助けてくれなかったの?」
「は?」
 ミトは責めるような美羽の言葉の意味が分からず、素っ頓狂な声を出した。
「朝のこと。私が環様に会いたいって言ってたのに、どうして成宮君に取りなしてくれなかったの?」
「えーっと……」
 そんなことを言われてもミトとて困る。
 そもそも環は天界へ帰ってしまったのだし、ミトがなんとかできるはずがない。
 そんなものは説明せずとも分かるだろうに、美羽は困惑したミトに構わず話を続ける。
「環様を断って陸斗を選んだことを、両親も責めてくるのよ。そんなの私の自由でしょう? それなのに陸斗もなんだか様子がおかしくなって、これまで私に優しかったのに、急に強い態度を取ったり説教したりしてくるの」
「それは……」
 当たり前なのではないかとミトは思う。
 世話係はあくまで世話係。
 立場で言えば花印を持った者の方がどうしても立場が上になってしまう。
 けれど、恋人になるなら立場は対等なはずだ。
 喧嘩もすれば、文句だって出てくる。
 恋人なら当然の関係ではないか。
 美羽の感覚はどこかズレている。
 いや、この町ではミトの方がズレているのか。
 特別に扱われるのが常の花印を持った者は、下に扱われることが滅多にない。
 美羽はクラスで立場が弱かったが、世話係である陸斗に対しては自分の方が上という傲慢があったのではないだろうかと、話を聞いていると感じてくる。
「ねえ。星奈さんの相手は紫紺の王様なんでそょう? だったらあなたから環様に連絡をして。そうしたらまた環様が町に来てくれるでしょう?」
「なに言ってるの? そんなことできるわけないでしょう」
「できるわよ! あなたの相手は紫紺の王なんだから」
 下から見上げるようににらむ美羽は、妬ましげに告げる。
「あなたはいいわよね。紫紺の王なんて、勝ち組じゃない。私だって王が相手だったら迷わず龍神を選んだのに」
 その言葉にミトはカッとする。
 こればかりは聞き流せない。
「私はそんな理由で波琉を選んだんじゃないわ! 波琉だから私は彼を選んび、選んでくれたの。そのための覚悟だってちゃんとできてる。簡単に変わってしまう気持ちしか持たず、覚悟もないあなたに文句を言われる筋合いはないわ」
 美羽は自分のことしか考えていない。
「環様がたたえ戻ってきたとしても、あなたを選ぶが分からないのに、自分の都合ばっかり。そんな人の言うことなんて聞きたくない!」
「それぐらいしてくれてもいいでしょう? そうじゃないと、私はいつまでも特別科で立場が弱いままなのに」
 ミトにこれだけ言い返せるなら十分逆らう力は持っているはずだ。
 なのに自分で自分を弱いと決めつけている。
 それに、今の状況すら彼女が選んだ選択の結果だ。
 自分で後始末をつけるべきだとミトは思う。
「なんと言われようと波琉には頼まない」
 そんなことに波琉の力を借りようとは思えなかった。
 毅然とした態度で断ると、突然美羽が掴みかかってきた。
「なんで!? それぐらい協力してくれてもいいてもいいでしょう」
「離して……」
 見た目に反して力が強い。
 揉み合いになるミトは抵抗するが、美羽も必死な様子で掴んでくるから逃れられない。
 教室内には他に誰もいないので、助ける者もいない状況だ。
 すると、ミトの体が淡く光りだす。
 これは事故の時にも起こった現象だったのでミトは驚かなかったが、美羽は違う。
「なに、これ!」
 光はミトを掴んだ手を通して美羽に移り、眩いほどの光を発した。
「きゃあ!」
 必死で光を振り払おうとする美羽だが、次の瞬間、急に力をなくしたようにがくりと倒れた。
 ミトは慌てて確認するが、どうやら意識を失っただけの様子。
 けれど、波琉の力がどんな影響を及ぼしたのか分からないので、すぐに助けを呼ぶ必要がある。
 教師なら職員室にいるだろうと部屋を出ようとした時、教室に千歳が入ってきた。
「えっ、千歳君? どうして?」
 目を丸くするミトだが、千歳もまた同じような顔をしている。
「ミト? ミトこそなにしてるの? 俺は叫び声が聞こえたから様子見に来ただけだけど……って、誰か倒れてる?」
「あー、うん。さっき彼女に掴みかかれちゃって、波琉おまじないが反応して彼女が急に倒れちゃったの」
「そうなんだ」
「人を呼んだ方がいいと思うんだけど、どう説明しよう?」
 ミトが困ったように眉尻を下げる。
「紫紺の王の守りにやられたって言えばいいよ」
「うん」
 その時、ミトのスマホが鳴った。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
 どうやら電話がかかってきたようで、画面を見るとミトの顔が強ばった。
 そして、ゆっくりとスマホを耳に当てると……。
 スマホの向こうから聞こえてきた声にミトは驚愕し、目の前にいる千歳に声をかける。
「ねえ、千歳君?」
「なに?」
「あなた……誰?」
 震える声で問うミトのスマホの画面には、『千歳君』の文字。
 そして電話の向こうからミトを呼ぶ千歳の声が聞こえてきていた。
 目の前にいる千歳の姿をした誰かは、ニィと嗤った。
「百年前の恨みは忘れはしない」
 身の危険を感じ、弾かれたように逃げようとするミトだったが、急に意識が遠くなり、その場にゆっくりと倒れる。
「今の女で王の加護を使い切ってくれて助かったよ」
 遠くなる意識の向こうで、そんな声が聞こえたのを最後に、暗転した。


 気がつくとミトは花畑の中心にいた。
 そこは現実世界で波琉と会って以降見なかった、夢の世界と同じ場所だ。
 しかし、違うのはそこに波琉がいないということ。
 ミトはこの花畑のどこかに波琉がいるのではないかと探し回るが、どこにも波琉の姿は見つけられなかった。
 途方に暮れるミトに冷たい感覚が襲う。
「ひゃ!」
 足下を見れば水がちょろちょろとどこかは向かって流れていた。
 散々夢を見てきたが、このように水が流れていたことはなかった。
 ここは夢の世界ではないのかと疑問に思うミトは、水が流れる方向へ歩いていく。
 最初は少なかった水量が次第に多くなり、川へとなっていく。
「この先になにがあるのかな?」
 期待と恐れの混じった感情は、興味の方に傾いた。
 意を決して向かったミトが見たのは湖。
「すごく綺麗……」
 水は透き通り、湖面がキラキラと輝いている。
 水面を覗き込むと、大きな建物が映り込んでいた。
 しかし、実際に建物は建っていない。
 首をかしげるミトが水の中に手を入れると、大きな水圧で引きずり込まれた。
 ゴボゴボと口から泡があふれ出す。
 もがくミトは息が続かず、次第に意識が遠のく。
『波琉……』
 こんな時でも思い浮かべるのは波琉の姿なのだなとミトはどこか冷静に考えていた。
『夢の中で溺れるなんて波琉が聞いたらなんて言うだろう……』

 意識を飛ばしたミトが目を開けると、ミトは波琉の腕の中にいた。
「は、る……」
「ミト」
 俯いていた顔を上げた波琉は静かに涙を流していた。
 ミトはそっと波琉の頬を撫でる。
「なんで、泣いてるの……?」
 ぼうとした意識のまま問うミトが視線を移動させると、他にも見知らぬ人たちがいる。
 見知らぬ人に見知らぬ部屋。
 窓の外に見える空は虹色に輝いており、たくさんの龍が飛んでいる。
 少しづつ鮮明になっていく意識の中で波琉が苦しそうにささやいた。
「ミト、君は死んだんだよ」
 そう言われ、ミトは大きく目を見開いた。



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