そんなことがあった昼休みが終わると、千歳は大丈夫だというミトを無理やり引っ張って玄関まで連れてきた。
「はい、鞄。今日は帰りな」
「えー」
「迎えはちゃんと呼んでおいたから」
「ちょっと怪我しただけなのに」
 不満を訴えるミトを千歳は完全に無視している。
 迎えに来たいつも乗る車の中には、普段はいない蒼真の姿が。
「あれ、蒼真さん?」
 昨日の宴の件もあって忙しいと聞いていたので、ミトは不思議がる。
「どうしているんですか?」
「いいから乗れ」
 ミトは困惑したように千歳を振り返るが、千歳は帰らせる気満々だ。
 蒼真からも早く乗れという無言の圧をかけられ、今日ばかりは仕方なく受け入れることにした。
「はい」
 なにやら機嫌が悪そうな蒼真に促されて乗り込むと、蒼真が千歳をにらむ。
「千歳、学校だからって気抜いてんじゃねぇぞ」
「すみませんでした」
 蒼真に向かって深く頭を下げる千歳にミトはオロオロする。
 そして、千歳を残したまま車が発車する。
 しかし、車が走る道がいつもとは違うことにミトはそうそうに気がついた。
「蒼真さん、どこか行くんですか?」
「病院だ」
「えっ、なんで?」
「アホか。お前を調べてもらうためだ。今日階段から落ちたんだろ」
 なぜそれを知っているのかと思ったが、迎えを呼んだ千歳が伝えたに決まっている。
 余計なことをと思わなくもないが、千歳もミトを心配しての行動だろうから文句も言えない。
「別になんともありませんよ?」
「その言葉を鵜呑みにして、はいそうですかと終わらせられるわけないだろうが!」
 くわっと目をむく蒼真にミトはたじろぐ。
「でも──」
「お前になにかあったら紫紺様が心配する。そこを考えろ」
「それはそうですけど……」
 確かに波琉は必要以上に心配するだろう。
 ミトが大したことないと言ったとしても。
「万が一急変してみろ。怒り爆発した紫紺様の力で、龍花の町は嵐で水没するかもしれないだ。細心の注意を払っても足りるなんてことはない!」
「それは困りますね……」
 実際は困るどころではない。
 龍花の町の命運がミトにかかっていると言っても過言ではないのだ。
「擦り傷だけと聞いているが、念のため病院に行って全身くまなく調べてもらうぞ」
「波琉は知ってるんですか?」
「今の曇天を見て言ってんのか?」
 蒼真は窓の外を親指で指差す。
 言われてみたら確かに空は暗い雲に覆われており、今にも雷が鳴りそうなほど悪い。
「紫紺様には千歳から連絡があってすぐに報告した。まあ、なんていうか、はっきり言ってめちゃくちゃ怒ってる」
 蒼真は怯えたように顔色を悪くしているので、それを見ただけで波琉の様子が目に浮かぶようだ。
 ミトも口元が引きつった。
「擦り傷だけってちゃんと伝えました?」
「もちろん伝えたに決まってるだろ。心配はいらないとな。けど、それであの方が納得すると思ってんのか? お前に害を与えるものには温厚って言葉をどこかに放り投げる方だぞ」
「ほんとに擦り傷だけなんですけどぉ」
 ミトは情けない声を出す。
「あきらめて検査しとけ。町の平穏のためだ」
「はあ……」
 ミトは深いため息をついた。
 病院に着くや、そのまま検査着に着替えさせられた。
 そして、レントゲンやらなにやら検査をされ、内科医やら外科医やら多すぎる医者に診察されてから、ようやく問題なしのお墨付きをもらい開放された。
「疲れた……」
 病院のVIP専用に作られた待合室にて、椅子でぐったりと座るミトの向かいでは、蒼真も疲れた顔をして立っている。
 VIP専用とあって、周囲には高級そうな美術品が飾られている。
 なんとも豪華な待合室だが、今のミトに美術品を鑑賞して楽しむ余裕はない。
「疲れたのは俺の方だ。やっと昨日の宴の後始末が終わって休めるかと思ったら、階段から落ちたなんて情報が飛び込んでくるんだからな」
「ご心配おかけしました」
 ミトは一応とばかりに頭を下げる。
「でもこれできっと波琉の機嫌も直りますよね?」
「だといいんだけどなぁ」
「他にも気になることが?」
「お前落ちた時どうしてた? 突き落とされたんだろ?」
 その問題があったかと、ミトは頭を抱えたくなった。
「はい。でも見てた人によると誰も私の背後にはいなかったって」
「お前の気のせいってことは?」
「確かに押されたんです。背中をどんと。結構な力だったので間違えるはずないです」
 沈黙がしばし続く。
「……まあ、それはおいおい調べるとして、とりあえずは無事な姿を紫紺様に見せに帰るとするか」
「はい。そうしましょう!」
 やっと帰れると、ミトが飛ぶように勢いよく立ち上がったその時。
 ドシャン!と大きな音を立てて、つい今しがたまでミトが座っていた場所に石像が倒れていた。
 時間が止まったように硬直するミトと蒼真。
 そして、すぐにふたりの顔色が青ざめる。
「ひっ!」
 ミトは慌てて椅子から距離を取った。
 石像はミトが座っていた椅子の横に飾られていた美術品だ。
 石でできているため見るからに重く、椅子が石像の重さで潰れている。
 もしミトがまだ座っていたら……。
 考えるだけでも怖い。
「な、なんで……」
「おい! 怪我はないか!?」
 今日二度目となる問いかけに、ミトはこくこくと頷く。
「ないです」
 ほっとした顔した蒼真は、石像を確認する。
「なんでこんなものが急に倒れてくるんだよ」
 ちょっとやそっと押したくらいではびくともしなさそうなものだったのに、まるで高いところから落としたように崩れている。
「そ、蒼真さん……」
 ミトは怯えた眼差しで蒼真に目を向ける。
 蒼真は真剣な顔をしてミトの手を引いた。
「急いで帰るぞ」
「は、はい……」
 なにか得体の知れないそら恐ろしさを感じる。
 今日突然怒ったふたつの危険はただの偶然なのか、それとも……。

 屋敷へと帰ってきたミトは、波琉の部屋へ一目散に走る。
 その後を蒼真が歩いてついてきていたが、急ぐミトを叱るようなことはしない。
 ミトはうちにある不安を払拭するべく、愛しい人を目指す。
「波琉!」
 波琉は立ちながら外の景色を眺めていたようで、ミトが部屋に飛び込んでくると、振り返りミトに静かな眼差しを向ける。
 いつもなら微笑みながら迎えてくれるのに、今日は違った。
「波琉?」
 いつもと様子の違う波琉に、ミトの不安がさらに膨らむ。
 そんなミトを波琉は優しく抱きしめた。
「階段から落ちたって聞いたよ。怪我をしたんだって?」
「そうだけど、ただの擦り傷だから大丈夫。千歳君が咄嗟に助けてくれたから」
「そう。なら、千歳君にはお礼を言っておかないと駄目だね」
 そこで初めて笑みを見せた波琉だが、その笑顔にはどこか緊張感があった。
「紫紺様」
 部屋に蒼真が入ってきて、波琉の視線もミトから蒼真に移る。
「少しよろしいでしょうか」
「いいよ」
「ミト、少し外に出てろ」
「えっ、でも……」
 ミトはためらいを見せたが、波琉に頭を撫でられ、しぶしぶ部屋から出る。
 時間にしたらそれほど長くはない。
 思ったよりも早く蒼真は出てきて、「もういいぞ」とミトに声をかけて行ってしまった。
 ミトは再び部屋に入ると波琉に近づく。
 先ほどと違い座っている波琉の隣に腰を下ろそうとしたが、手を引かれ波琉の膝の上に乗った。
「今日は大変だったみたいだね」
「蒼真さんから聞いたの?」
「うん。ある程度ね。ミトが無事で本当によかったよ」
「うん……」
 ひとつ間違えば怪我では済まなかったのだから。
 もし千歳が助けてくれなかったら。
 立ち上がるのがもう少し遅かったら。
 ふたつの偶然がミトを助けた。
 今になって無事であることを実感し安堵した。
 そして急にある思いが浮かんでくる。
「ねえ、波琉。もし私が今死んじゃったら、天界へは行けないの?」
 前に煌理だったか波琉だったかが言っていた花の契り。
 それをしなくては天界へは行けないと。
 これまではそんなに深く考えていなかったが、今日命の危険を感じたことで、急に不安になってきた。
「そうだね。今のままじゃミトは天界へ行けない。花の契りをしない限りはね」
「それは今しちゃ駄目なもの?」
「ミトはしたいの?」
「…………」
 ミトは沈黙し、顔を俯かせながらこくりと頷く。
「だって、それをしないままもし私が死んじゃったら波琉とは一緒にいられないんでしょう?」
「そうだね」
「だったらっ!」
 波琉はそれ以上の言葉を遮るようにミトの唇に人差し指を押し当てる。
「ミトが望むならいつだって僕の準備はできているよ。でもね、ミトに覚悟があるか分からないから」
 ミトは首をかしげる。
 この町に来て波琉と会えた時点で覚悟なんてとっくにできているのだ。
 ミトにとっては愚問だった。
 けれど、まだミトに話させないように指を当てたまま波琉は続ける。
「ミトは両親と別れる覚悟はある?」
 意味が分からないミトはきょとんとする。
「ミトが僕とともに天界へ行くっていうことはね、輪廻の輪から外れるということなんだよ」
 なおさらわけが分からない。
 やっと波琉が唇から指を離した。
「どういう意味?」
「人間は死ぬと輪廻の輪に戻り、また別のなにかになってこの世界に生まれ落ちる。けれど、花の契りはその輪廻の輪からミトの魂を外す契約だ。そうすると本来なら人間が行くはずの場所にミトは行けなくなる。両親や友人たちとは違う理の中で生きることになるんだ。それはこれまで魂に刻まれた人との縁を断ち切るものでもある」
「少し難しい」
「そうだね。簡単に言うと、今のミトには両親との間に親子のつながりができている。それはまた生まれ変わった時にその縁で結ばれ出会うこともあるだろう。けれど、花の契りをしたら両親とのつながりをなくしてしまう。よほどのことがない限り両親と出会う可能性を失うものだ。それが縁を切るということだよ」
 もう両親とは会えない……。
 それはミトにとってかなり衝撃を受ける話だった。
 敵ばかりの村で、ミトが生きてこれたのは間違いなく両親がいたからだ。
 そんな両親との縁を切るなんて。
 ミトの目に迷いが写った。
 それを察した波琉はよしよしとミトの頭を撫でる。
 まるで子供をあやすように。
「まだ話すつもりじゃなかった。ミトにとって両親がどれだけ大事な存在か分かっていたからね。でもね、ごめん。僕はミトを天界へ連れていくよ」
 ミトは波琉と視線を合わせる。
 波琉はとても真剣で、吸い込まれそうなほど透明な目をしていた。
「僕にはもうミトのいない世界なんて考えられない。ミトに覚悟がないからなんて言っておきながらひどいと思うかもしれないけど、たとえどんなになじられてもミトを手放す選択肢は僕にはないんだ。でも、いつまでも待つよ。ミトが覚悟を決めるのを」
 優しい波琉。
 そして、残酷な波琉。
 ミトの心を分かっているようでいて分かっていない。
「波琉。私に花の契りをして」
 波琉の腕をぎゅっとつかんで、ミトは波琉の頬にそっと唇を寄せた。
 初めてミトからされたキスに、波琉はひどくびっくりしたように目を大きくする。
「確かにお父さんとお母さん。それに蒼真さんとか千歳君とか尚之さんとか、きっとこれからも数えだしたらキリがなくなるほど大切な人ができるかもしれないけど、私は波琉と生きたい」
 迷いのない眼差しが波琉を射抜く。
「そりゃ悲しくないわけじゃないけど、私は波琉と一緒にいる。その覚悟だけはとっくにできる」
 ミトの言葉に波琉は息を飲んだ。
「だからお願い。波琉とこれからも一緒に生きるために花の契りをして」
 沈黙がしばらく続き、ミトはだんだん不安になってきた。
 今の言葉を聞いて波琉はなんと思っただろうか。
 簡単に両親や友人知人との縁を切る決断をしてしまうミトに愛想を尽かさないだろうかと心配だ。
 すると、くくくっと波琉が小さく笑い始めた。
「波琉?」
「いや、案外ミトの方が潔いなって。もしかしたら覚悟が必要だったのは僕の方だったのかもしれない。ミトが、僕より他の人間を選んでしまはないかって不安だったのかも」
 波琉はミトと目を合わせるとにっこりと微笑んだ。
 そして、奪い去るようにミトの唇にキスをする。
 唇同士でしたのはこれが初めて。
 突然のことにミトはなにが起こったか分からない顔をしていたが、すぐに顔を赤くする。
「は、波琉っ!」
「これまで遠慮してたって気づいたから、今後は自重という言葉を捨てることにするよ」
「駄目駄目駄目! 急いで拾ってきて!」
「やーだ」
 なんとも楽しげにクスクスと笑う波琉は、ミトの隙をついて再度唇を狙った。
 二度もの攻撃にミトはもういっぱいいっぱいという表情で、三度目は許さないというように自分の唇を両手で隠した。
 そんな姿も愛おしそうに波琉は見つめる。
「かわいいね、ミトは」
「波琉、なんだか意地が悪い」
「そんなことないよ。ミトを愛でているだけ」
 そう言うとぎゅっとミトを抱きしめた。
「じゃあ、ミトの覚悟が変わらないうちに花の契りをしちゃおうか」
 はっとするミトは口から両手を離す。
「どうするの?」
 花の契りと何度も口にしてはいるけれど、どうやって契約するのかミトはまったく知らない。
「特に難しいことはないよ」
 波琉は左の手の平をミトに見せる。
「花印がある方の手を合わせて」
「うん」
 言われるままに左手を波琉の左手と合わせる。
「今ここに花の契りを行わん」
 そう口にしてから、波琉がミトの額にそっとキスをした。
 波琉の触れた額が温かさを超えて熱さすら感じると、左手のアザまでもが熱くなってきた。
 その熱はまるでミトの中に吸収されていくように次第に落ち着いていった。
 熱が冷めると、波琉が手を離す。
「これで終わり?」
「うん。終わり」
「思ってたより簡単なんだ」
 契約とかいうので、契約書とか名前を書いたりとか手続きが必要なのかと思っていたが、あっけないほどあっさり終わってしまった。
「これでミトは永遠に僕と一緒だよ」
「うん」
 永遠とはなんて重い言葉だろうか。
 けれど、ミトは後悔なんてしていなかった。
 両親に相談なく決めてしまったのは後ろめたいが、きっと志乃ならば快く受け入れてくれるだろう。
 ただ、父親である昌宏が問題だったが、さらは志乃に任せるほかない。
 きっとかなり怒りながら泣くのだろうなと思うと、しばらく黙っていた方がいいような気がしてきた。
「あっと、もうひとつ忘れてた」
「なに?」
「ちょっとじっとしててね」
 そう言うと、波琉はミトの頭に手を乗せた。
 すると、その手から強い神気を感じ、ミトの全身を包むように膜を張った。
 ほのかに体が光っていたが、それはすぐに消えてなくなる。
「なにしたの?」
「今日のようなことがミトにあっても、多少なら守ってくれるようにおまじないしただけだよ」
「へぇ」
 おまじない。
 それがどれほどの効果をもたらすか分からないまま、ミトは感心したように声を発した。