宇宙の大爆発を起こしてくれた君へ

 どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しいーこんな自分のことが大嫌いだ。
 でも敢えて、そんな自分の話をしてみようか。

 小学校入学前に、自分で一冊の絵本を創った。完成したのは、稚拙な文章と支離滅裂なストーリー。何が描いてあるのかイマイチ分からない絵。ノート一冊分の絵本は意味の分からないものになってしまったが、それでも自分が一つの物語を創ったことに大きな達成感と喜びを感じた。その頃から私は、将来の夢を聞かれたとき、自信満々に「小説家」と答えるようになった。
 それから、頭にふと物語が浮かぶことが何度もあった。そのたびに私は、登場人物の絵を描いて物語のあらすじをメモし、数え切れないほどの物語を生み出した。
 小学校高学年になる頃には、原稿用紙数枚程度の短編小説を執筆するようになっていた。物語が次々に生まれていく。すっかり私は小説家気取りになっていた。しかし、夢とはそう上手くいかないものだ。

 ぐしゃぐしゃ。紙が潰れる音。夢が潰される音。胸が圧迫されて、息が吸いづらい。気づけば、夢に向かって順調に歩いていたかのような私は、所々破れた、足跡だらけの原稿用紙を呆然と眺めていた。

「お前が小説家になんかなれるわけないだろ」

「え、あれ本気で言ってたの?」

「大丈夫よ。もう少し大きくなったら現実が見えるようになるからね」

「面白い方ですね。大丈夫ですか?」

 誰も私の夢を本気にしてくれない。笑われたり、大げさに驚かれたり、謎に心配されたりするだけだ。しかし私は、そのことに関してどこか納得していた。
 成長して「将来の夢」の「将来」に近づく過程で何となく分かってきた。何となく、というのは、そもそも小説家にはどうしたらなれるのかがはっきり分かっていないという意味だ。私の夢は特殊で、周りには同志も先輩もいない。頼れる学校の先生に聞いても、曖昧な答えが返ってくるだけだ。私はいつも一人で懊悩した。
 方法が分からないという事実が、さらに夢と私を遠ざけた。夢の現実味のなさに、私自身も小説家になることを諦めかけていた。気づけば、以前のように頭に物語が浮かぶことはなくなっていた。
 物理的距離はどんどん近づいてくるのに、心理的距離は遠ざかっていく一方。その反比例に、焦燥感を覚えていた。
 
 そんな私の状況が変わったのは、中学生になってまもない頃だった。
 
 授業中、後ろの席から鉛筆の音が煩く聞こえた。随分勉強熱心な人だと思って後ろを振り返ってみると、そこには必死に板書をしている人なんていなかった。代わりに、スケッチブックのざらざらな紙の上に戦闘服を身に纏った美少女を必死に生み出している彼がいた。慣れない物体が目に入ってきた。ぐしゃぐしゃになった原稿用紙と周りからの嘲笑の声が思い出される。この人は平気なのか。こんな、皆が一斉に黒板を向いている時に。たった一人で、スケッチブックに鉛筆を走らせるのが怖くないのか。今にも武器を持って動き出しそうな、立体感のある構図。服の隅々まで細かく描かれている。その服がどんな風に美少女に着られているのか、容易に分かる描き方だった。なんだかひどく懐かしかった。私もかつてはこんな風に、何のためらいもなく自由に、自分の世界を表現していたのに。
 ぽん、と肩に手を置かれる。肩をびくつかせ、恐る恐る振り返るとそこには冷たい目線を突きつけてくる先生がいた。仕方なく、再び黒板を向いて板書の続きをする。夢から覚めても、私は現実に戻りきれなかった。
私は堪らなくなって、放課後の他の人がいない教室で彼に声をかけた。私が授業中に思ったことを尋ねると、彼は変な顔をした。
「だって、もう誰にも止められないじゃないか。宇宙の大爆発が起こってしまったんだから」
 宇宙の、大爆発。予測し得なかった単語の登場に、私は言葉を失った。
 どういうこと?私が、問いを投げかける前に、彼は自ら言葉を紡ぐ。
「僕だって昔は、普通の人間のように生きて、普通の人間のように日々を過ごしていた。でもある日僕は、一人の人間の星が爆発を起こしているのを見てしまった。飛び散る絵の具、筆を操るしなやかな手。彼女が生み出す星の住人達の狂気に満ちた瞳。心臓をえぐられたような気がした。彼女の星の爆発による衝撃波によって、僕の星は生まれた。それを見てから、普通になんて過ごせなくなった。僕は、僕が今までいかにつまらない日々を過ごしていたかに気づいてしまったからね。だから僕は、こうして生きている。今の僕には、先生の授業の声なんて聞こえないんだ。周りの声も、皆聞こえない。聞こえるのは、僕の星の住人が生まれる音だけさ」
 一通り自分の話をした彼は、満足そうに、幸せそうに、窓の外の遠くを見ていた。余分なものを一切映さないような、真っ黒な瞳だった。周りの声が聞こえないのなら、私の声も聞こえないのか。しかし彼は、次の瞬間私の瞳の中に入ろうとしているかのように私に顔を近づけてきた。
「君は、君の星が怖いのかい?」
 怖い? 私の星が?
 その単語が出てきたとき、私の思考回路は一瞬だけ固まった。私は、私の星に怯えていたわけじゃない。あの日初めて書いた絵本。数え切れないほどのあらすじ。ちょっとませた短編小説。私の星は、本来何の変哲も無かった普通の日常を変えてくれた。私だけの世界だった。私だけが、その輝きを知っている。そう、私だけが……。
「私は、星が怖いんじゃない。その星の輝きが見えない周りの人達と、星の輝きを利用して何か特別な存在になろうとする自分が怖かった。拒絶の気持ちから、星の輝きを見失ってしまった」
 脳内で、原稿用紙が潰れる音が反芻する。星の輝きなんて、最初から私も見えなければ良かったのに。
 何となく、窓の外に視線を反らす。もうとっくに日は落ちて、宵の口だった。星は、三つ程輝いていた。
「大丈夫、僕が一緒に衝突してあげる」
 彼の優しい声が、撫でるように、それでいて力強く今まで封じてきた創作心にぶつかった。

 その夜、私は本棚に長い間眠らせていたプロットノートを開き、その上にシャーペンを走らせた。
 その日を境に、私と彼は合作を始めた。彼が生み出した星の住人達を、私が小説の中で動かす。そこで生まれた物語を、彼が絵として表現する。そうするとまた私は、次のアイディアが思い浮かぶ。そうやって私達の星は融合し、文字通り衝突をすることで新たな物語を展開していった。彼の星と融合することで、私は周りの声なんて聞こえなくなった。休み時間に彼と向き合って創作をしているときも、皆が帰った、夜に近づく茜色の教室で黙々と作業をするときも。彼と一緒に帰りながら創作の話をするときも。彼と二人きりの宇宙空間は心地よかった。何も気にせずに自分の星に入り浸ることができた。
 動物と人間の要素が混じった身体を持つ生物。片目を覆ったミステリアスな旅人。狂気的に、でも悲しそうに笑う魔王。彼はいわゆる異世界系のキャラクターのイラストを描くことを得意としていた。そんなキャラクター達を見て、私は物語を産まずにはいられない。彼女はどうして半分犬なのか。旅人の片目はどんな状態になっているのか。魔王は何故悲しそうなのか。気づいたらキャラへの問いの答えは繋がりを持ち、一つの物語へと発展していった。
 放課後、彼が先生に呼ばれて席を立っている間、私は一度だけ、彼のスケッチブックを勝手に開いたことがあった。適当なページを開くと、本を大事そうに抱えている、綺麗な瞳をした少女が佇んでいた。自信なさげに目線を下に向けているが、それでも分かるまっすぐな表情。怯えながら、それでもどこかを目指して戦っている。そんな少女だった。どういうわけか、いつものキャラクターとは違う何かを感じた。
 足音が近づいてきたので、咄嗟にスケッチブックを閉じて元の位置に戻した。戻ってきた彼は、どこか浮かない顔をしていた。
 アイディアが思いつかなくなったときは、個人チャットでロールプレイングをすることもあった。彼は、私がメッセージを送るとすぐに既読をつける。するとたちまち、私たちだけの物語の世界が始まる。登場人物は、彼が描いたキャラクター達。それぞれ誰かになりきって会話をしたり、どこかに冒険にでも出かけたりすると、私の創作意欲は上がった。急に私がチャットを中断しても、彼は怒らなかった。
「ねぇ、自分のキャラは創らないの?」
 私はいつものようにキャラクターを描いている彼に、一度だけ尋ねたことがあった。一秒くらいの間が開いた後、彼は急に席を立った。心臓が止まるかと思った。
「もしかして、見た……?」
 何のことか分からなかった。私が首をかしげると、彼は脱力したようにまた、急に座った。
「えっと、自分のキャラ、ね。描いてみようかな、考えたことはなかったけど」
 いつもの彼とは違う、つっかえるところの多い喋り方だった。
「じゃあ、ついでに私のキャラも描いてよ!」
 軽い気持ちと好奇心で頼んだら、彼は何故か胸を撫で下ろした。
 創作を続けてくうちに、彼の印象は少しずつ変化していった。表情をあまり変えずに宇宙の話しかしなかった彼が、焦ったり安堵したり、人間っぽい表情を見せるようになった。周りの声が聞こえないと言っていた彼は、私の創る物語に見入ってくれた。彼だけが、私の物語の理解者だった。
 
 文章担当とイラスト担当。その関係性は、他の何にも例えられない特別なものだった。私に彼がいるから、彼に私がいるから、一つの物語が生まれていく。どちらかがいなければ、生まれない物語がある。その事実が、私の胸をいっぱいにさせた。私には、彼がいなくちゃ駄目なんだ。当初はそう思うだけだったのに、いつしか彼には私がいなくちゃ駄目だという認識に変わっていた。
 その認識が覆されたのは、二人で創作活動を始めてから一年半くらいが経った頃だった。何の変哲も無い、いつもの二人の創作時間だった。二人で落ち葉を踏み鳴らしながら、あれやこれやと今創っている物語に関する議論をしていた。そこまでは平和だった。
 分岐点の寂れた公園にたどり着いた。いつも私たちはここに来ると、名残惜しく立ち止まって暫く話を続ける。しかし、今日の彼はいつもと違った。足を止めたはいいが、そのまま話まで止めてしまったのだ。先ほどまでいつもと同じだと思っていた彼の顔を見る。彼の顔は紫色に染まっていた。恥ずかしげな赤と恐ろしげな青。二色が偏り無く重なった、美しい紫。紫から除いた茶色がかった瞳が、まっすぐ私を見つめる。このシチュエーションを、私は知っていた。ついに来た、とも思った。彼が口を開ける。息を吸い込む。言葉を紡がれるのをじっと待つ。間がじれったい。早く。早く教えて。

「僕、好きな人ができたんだ」

 違和感があった。期待していた言葉と同じ意味か否か、判別がつかなかった。もしかしたら、と思った。どうしても、期待は消せなかった。
「どんな人なの?私で良ければ相談に乗るよ?」
 私は彼に白い笑顔を向けた。声が震えた。それは質問というよりは切望に近い返答だった。
 しかし、次の瞬間、はっきり分かった。
「前に言った宇宙の大爆発を起こしてくれた人。告白したいけど、それがきっかけでもう会えなくなったら、嫌だなって」
 違った。完全に違った。負けた。終わった。嫌だ。嫌なのはこっちだ。自己嫌悪と受け入れがたい現実に、私は滝のように涙と鼻水を流して胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。完全に自分を過信しすぎた。彼にとって私は特別な存在だと、私がいなきゃ駄目なんだと、勝手に信じていた。目の前に彼がいなければ、間違えなく私は泣き崩れただろう。苦しい。胸が苦しい。私じゃなかった。私じゃなかったんだ。
 そこからはもう、何を聞いて何を言ったのか覚えていない。ただ、彼と別れて、家に走って帰って、玄関にへたり込んでそのまま動けなかったことだけは鮮明に覚えている。震えが止まらなかった。寒くて寒くて仕方が無かった。私がいくら頑張ったって、大爆発を起こした人に勝てるわけがなかった。私は彼の、何者でも無かったのだ。ただの、文章を書く人間に過ぎなかった。

 初めて、彼を支えたくないと思った。

 次の日教室に入ると、彼は薔薇色になっていた。吐き気がした。話しかけたくないと思ってしまったのは、初めてかもしれない。しかし私の席に辿り着くには彼の席を通り過ぎなければ不自然だ。自分の気持ちを悟られたくなかったので、いつもと同じように彼の席を通り過ぎる。
「おはよう!」
 案の定、話しかけられた。満面の笑みだった。二人の創作の時間でさえも、こんな満面の笑みを見せてくれたことはなかったのに。いつもどこかに暗い影を持ち合わせていたのに。彼の希望に満ちた瞳に眼が眩む。目の腫れがバレないか心配になった。
「話したいことがあるんだ!」
 知ってる。聞きたくない。できることなら耳を塞ぎたい。しかし、そんなことは許されなかった。彼に私の想いを悟られたくなかった。私が、今以上の関係を彼に求めていることを知られたくなかった。
「え、何?」
 そんな私の気持ちを知らない彼は、何のためらいもなく言葉を紡ぐ。

「僕、昨日言ってた子と両想いだったよ」

「そうなんだ。良かったね」
 良くない。全然良くない。
「うん。応援してくれて、ありがとう」
 してない。応援なんて、してない。
「ごめん、今日提出の課題まだ終わってないから、また後で話聞かせて」
 今日提出の課題なんて、ない。
「そっか。頑張って」
「ありがと」
 思い人と心が通った嬉しさに頭をやられた彼は、私の嘘に気づいてはくれなかった。

 それからの日々は地獄だった。あんなに楽しかった二人の創作時間が、彼の惚気話に浸食される。日に日に、惚気話の割合が増えていく。いつしか二人の貴重な時間は、無惨に変貌していった。
 しかし皮肉なことに、それはれっきとした創作時間だった。彼の話を聞くと、胸の痛みと同時に湧き上がってくるものがある。じわじわと、じわじわと。嫉妬心とは違う何かが、私の創作意欲を上昇させた。気づいたら、シャーペンを持っていた。書きたい。何としてでも、この気持ちを物語として綴りたい。どうせなら、私と小説にまつわる全てを書き記そう。この体験を、単なる悲劇で終わらせたくない。
 最近私の筆の進みが早い原因を、どうせ彼は知らない。

 ずっとご機嫌だった彼がぼんやりするようになったのは、霜が降りるような季節になった頃だった。彼の瞳はブラックホールみたいだった。以前の彼に戻った気がした。私がまだ、彼にとって自分は特別な存在だと勘違いしていた頃の彼に。私は、これまでどおり彼と創作活動を続けた。わざとらしいほどに楽しんだ。彼の変化に、いじけたようにそっぽ向きながら。ぽつりぽつりと、教室の中の彼の場所に穴が開いている日が増えた。その理由を、先生が生徒に伝えることはなかった。
 そして遂に、その日は来た。その日、彼は三日ぶりに席を埋めた。私の心臓は跳ねた。彼は席だけでなく、私の心をも埋めに来てくれたのかとさえも思った。しかし、それはまた勘違いだったのだ。

「僕、存在してていいのかな」

 かすかな期待を抱いた私の心臓を射貫くには、十分すぎる矢。放課後、誰もいなくなった教室で放たれたものだった。
 心臓が、浮いた。ジェットコースターに乗っているときのような、ふわっとした恐怖。見開いた瞳が震えた。聞きたくない言葉だった。
 私の意思を知らずに、彼は続ける。
「本当は、ずっと思ってた。宇宙の大爆発を見たときも、君と衝突して新たな作品を生み出したときも、ずっとずっと、この宇宙に存在していていいのか分からなかった。僕は駄目な奴なんだ。僕の星なんて、本当は最初から存在してないのかもしれない」
 やめて。お願いだから、これ以上何も言わないで。私は心の中で必死に懇願した。
 だって、彼の星が存在していなかったら、衝突した私の星はどうなるんだ。二人で創った作品は。二人きりの創作時間は。議論を交わした帰り道は。全部、私の一人遊びだったのか?また振り出しに戻ってしまう。彼と出会った後の全ての事象が、成り立たなくなってしまう。確かに、彼の星は存在していた。そしてそれは、私の星よりずっと輝いていた。私はいつも、彼の星の大爆発を見て、感化されていた。
「彼女、これから旅立つらしいんだ。自分の描きたい世界を描けるところに。だから、もう暫くは会えないんだって。それを聴いたとき、僕は心が震えた。僕には、そんなことできないから。僕はこの狭い宇宙に引きこもって、ひたすら鉛筆を動かすことしかできない。僕は、ここから出るのが怖いんだ。僕が無能な人間だって、自分で理解するのが恐ろしいんだ。彼女は、何も怖がらずに胸を張って旅に出られるのに。こんな僕が彼女と両想いになるなんて、可笑しい。こんなの、きっと夢に決まってる。夢から覚めて絶望するくらいなら、自分からこんな宇宙出てってやる」
 彼の口調が荒くなっていく。自暴自棄。スランプ。そんな時期もある。後から冷静に考えてみればそんな慰め文句も思いつくが、やはりあの彼にはどんな言葉も届かない気がする。私の口から出る言葉は、きっと彼には聞こえない。

「僕、もう創作はやめようと思ってるんだ」

 一番、彼の口から聞きたくない言葉だった。耳が痛い。胸が苦しい。彼に心臓を握りしめられているような気分だった。気持ち悪い。吐き気がする。口から何か出てきそうだ。激しくなる動悸。加速する呼吸。誰かに助けを求めて、思わず空気を吸いすぎた私は、彼の前でその場に崩れ落ちた。もう、戻れない。もう、彼の顔が見られない。それでもいい。もう、我慢できない。誰も私を止められない。
 鞄から乱雑に散らばったのは今日配られた数学のプリント。そのまっさらな裏とシンプルなシャーペン。真っ黒な芯と真っ白な紙がぶつかり合って、私の想いが浮かび上がる。つらつらと、長々と。真っ白な紙がどす黒く染まっていく。黒く黴びた心の内が、胸から腕を伝って紙の上に具現化されていく。芯が終わる。シャーペンを捨てて、ボールペンに持ち変える。さらに濃い黒が白を埋める。全てが黒になる。白かった黒を掴む。感情の強さで紙から音が鳴る。ぐしゃり。懐かしい音。夢が潰される音。黒い部分は全部吐き出したつもりなのに、まだ胸が痛い。まっすぐに進む。出会った頃から随分と変わってしまった、だけどあの頃と同じ、真っ黒な瞳の彼に向かって。彼の胸に黒を押しつける。ぐしゃり。また、あの音が聞こえた。ガラガラ。ドアを閉める音。ダンダン。階段を駆け下りる音。さようならの音。

 何が起こっても、何が変わっても、いつも通りに太陽が沈み、月が出て、月が消え、また太陽が現れる。そして、いつも通りに制服を着た子供達が校舎に吸い込まれていく。「昨日のテレビ見た?」 とか、「一限から数学はダルい」とか、平凡な会話を交わしながら。彼らが決められた席に着く。私はその時間、何度もドアの方を振り返った。ガラガラと音が鳴る度に、振り返った。あの、ブラックホールのような無限に広がる瞳の黒が見たくて。しかし、無情にも聞き慣れた鐘が鳴る。私を諦めさせるには、十分な音だった。先生は、彼について何も言わなかった。ただ、憑き物が取れたような表情をしていた。誰もが、いつものことだと思っただろう。事象は、誰しもの日常に溶け込んでいた。ただ、私だけは、その事象を知らなかった。私にとって、それは初めての体験だった。

 それ以降、彼が学校に来ることはなかった。

 いなくなった彼の机も、掃除の時は誰かしらが運ばなければならない。私は、罪悪感とわずかに残った邪な感情から率先して彼の机を運んだ。ある日、私は机を必要以上に傾けすぎてしまった。ひらひらと、紙のようなものが落ちてきた。拾ってみると、それは彼が愛用していたスケッチブックの切れ端だった。裏返すと、何かのイラストの破片だと分かった。何となく、見覚えがある気がした。破片を目に近づけてみる。蘇る脳の片隅の記憶に、私は思わず目を見開いた。
 目が、合った。確かにそれは、目だった。綺麗な瞳。自信なさげな目線。でもまっすぐな表情。あの日見た、本を大事そうに抱えている彼女だった。この少女は誰だろう。彼女だけ、他のキャラクターと違った。どうしてそう思った? 何がそう思わせた? もう一度少女を凝視する。私なりの結論は、片目だけになった少女を五分くらい見つめ、掃除当番の友人に声をかけられ、掃除を再開し、鐘が鳴って家に帰り、家族にどうでもいい質問をされながら夕飯を食べ、お風呂に入って一息ついたとき、やっと出た。つっかえるところの多い彼の喋り方。安堵の表情。あの時、確かに頼んだ。イラスト担当に、依頼した。本を抱えた少女は、もしかしたら。
 私は、机に出しっぱなしの教材の下の方に埋まっていたプロットノートを引き出した。上に乗っていた教材が崩れる。それを片付けられるほど私は悠長にしていられなかった。一刻も早く、このキャラクターを生かしたかった。星の住人にしたかった。彼が最後に私に与えてくれた贈り物。忘れないうちに、一つも取りこぼさないように、物語として残しておきたかった。イラストの破片から、なんとか全体像を思い出す。確か、髪はふわふわしたロングヘアだった。全体的に柔らかい印象だった。自信なさげで、でも見つめる方向は一定で。彼女は何となく分かっているみたいだった。自分の進みたい方向が。進むべき方向が。誰かが刺激を加えれば、彼女はすぐに動き出すだろう。私にとって、それが彼だった。自分の好きを全うした彼だった。ペンが止まらない。あの時のように、自分の思いが紙の上に吐き出されていく。だけどあの時とは違う。胸が圧迫されない。胃酸の味がしない。ただ、ひたすらに、素直に、楽しいと思った。心が震える。星がはじけて散って、紙の上に降り注いだ。伏し目がちだった彼女が、出会うべくして出会った彼に刺激を与えられる物語。宇宙の大爆発を、目の当たりにする物語。彼女はどうして彼に出会った? 彼女は彼をどう思った? 彼はどうして彼女に刺激を与えた? そして何よりも。

 彼はどうして、彼女(わたし)の前から姿を消した?

 彼女は疑問を持った。彼はもう、大爆発を起こしてくれないのか。一緒に衝突してはくれないのか。最後に会ったときに彼に押しつけた黒。彼女は彼の表情を確認する勇気が無かった。視線を下に向けていた。あれを見て、彼は何を思っただろうか。創作をやめるといった彼は。彼女の思いは、伝わったのだろうか。そのままの意味で、誤解なく伝わっただろうか。その内容を踏まえて、彼は私に会ってくれないのだろうか。これが、私と彼の最後の合作なのだろうか。手に文字の黒が移る。ノートのページが埋まる。彼の残した「彼女」から生まれた、彼が起こした宇宙の大爆発で生まれた、それは綺麗な星空で。

「だって、もう誰にも止められないじゃないか。宇宙の大爆発が起こってしまったんだから」

 彼の印象的な言葉が蘇る。彼は、確かにそう言っていた。宇宙の大爆発は、もう誰にも止められない。私にも、勿論、彼にも。
 彼はきっと、創作をやめることなんてできない。きっとまた何かのきっかけがあって、再びスケッチブックに鉛筆を走らせる日が来るだろう。だって、私がそうだったんだから。今度は、私がそのきっかけになりたい。彼の目の前で、宇宙の大爆発を起こしたい。かつて君が衝突してくれたおかげで再び書けるようになった私は、こんなに成長したんだって。だから君ももう一度描いてよって。また一緒に創作をしようって。そう、伝えたい。
 私はイラストの破片をプロットノートに挟んだ。少なくとも彼に会うまでは、私は一人でも物語を創り続ける。

 それから私は、彼と放課後教室に残って創作することも、帰り道に創作について議論することも、アイディアが浮かばないときにロールプレイをすることもなく創作を続けている。いつからか私は、彼がいなくとも自分一人で創作ができるようになっていた。何もかもが、私を止められない。彼がいないという事実さえも。私には何も聞こえない。夢が潰される呪いのような音は、あの時以降聞こえていない。
 私は今、ペンネームを使わずに、本名で小説をサイトに投稿している。読者に本名で呼ばれて賞賛の声をいただくと、まさに自分が讃えられていると感じられるから誇らしい。ほとんどの人は、まさか私が本名を名乗っているとは思わないだろう。ただ、本名だと知っていながら小説を読んでくれている人もいる。友達とか、部活の先輩とか、後輩とか。その中に、彼も含まれていると願って、私は今日も自分のままで前を向いて執筆している。
 彼が残した、イラストの破片の少女。彼女はもはや自信なさげな視線など持ち合わせていない。彼女は、いや、私はもう怖がらないから。
 
 終盤は大体書けた。あとは、エピローグを書いて全体の構成を見直して、イマイチな表現を書き直し、誤字脱字が無いことを確認したらそれでこの物語は完成だ。私はのびをした。長時間パソコンで文字を打っていたために固まった身体が伸びていく感覚が心地よい。いったん休憩を入れるか。私は思い切り息を吸い込んだ。そして、吸い込んだ息を一気に吐き出す。
 少しだけ息がしやすくなった気がした。