【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「お父様、私はこのグレアン家の……なによりお父様のためを思って言っているのです」
「う……う……しかしだな、アンナ……」

 アンナがグレアン家に入ってより半年。宮廷内でグレアン伯爵が倒れ、屋敷へ運び込まれていた。
 この半年で伯爵は別人のように変わり果てた。頬は痩せこけ、目には常に怯えの光をたたえ、もともと白髪の多かった髪は完全な真っ白になっている。
 すべてアンナとマルムゼによるものだった。初日以来不定期に彼の寝室を訪れ、エリーナの死の記憶を見せる。
 それは伯爵の心の隅に残っていた罪悪感を刺激し、耐え難い苦痛と恐怖を与えることとなった。
 今夜見るかもしれない毒殺の夢に怯え、寝ることすら怖がるようになり、伯爵はみるみるうちに衰弱していった。

「なぜウィダス大臣に襲いかかったりなどしたのですか?」
「……」

 伯爵は答えない。ただ虚な視線を空中に泳がせているだけだ。
 宮廷からの使いは、ただ「養父が急病で倒れた」としか伝えてこなかった。すぐにマルムゼを宮廷に忍び込ませ事態を探らせる。すると思いがけぬ事件が起きていたことがわかった。
 ただの急病ではない、伯爵は乱心の末に戦争大臣ウィダス卿を襲撃したのだ。

「あ……わ……わた……」

 伯爵はしきりに唇を動かしていたが、声が震え言葉にならない。
 しかし何を言ってももう無駄だ。今日の事件で、この男は完全に終わった。
 
 今夜、伯爵は皇帝アルディス3世が開く晩餐会に出席する予定だった。
 貴族社会で孤立しているグレアン伯家が、宮廷の催しに呼ばれる機会は極めて少ない。
 不定期に見る悪夢のせいで消耗していた伯爵だが、この日を逃せば次はいつ機会が巡ってくるかわからないため、不調を押して出席しようとした。
 宮廷には毎夜夢に見る顔、つまりかつての近衛隊長ウィダスもいた。近衛兵ではなくなったとはいえ、皇帝の腹心の一人だ。

 そして会場となる宮殿の大広間で二人は鉢合わせてしまった。
 もしかしたらウィダスは老人のように真っ白な髪の男が誰かすぐにわからなかったかもしれない。しかし伯爵の方はよく知っている、夜になるたびに自分を、そしてフィルヴィーユ夫人を殺そうとする恐ろしい男が目の前に現れたのだ。
 伯爵はテーブルに並べられたナイフを掴んみ、奇声を発しながらウィダスに襲いかかったという。

 だが、痩せこけた中年男が、たかが食事用ナイフ一本で軍人に敵うはずがない。
 伯爵はウィダス自身の手で取り押さえられ、そのまま衛兵に拘束されてしまったという。
 
「あのような事件を起こしてしまった以上、陛下からも何らかの処分が下されるはず。それよりも前に……」
「わ、わた……私は……」
「お父様落ち着いて下さい。ゆっくり、ゆっくりでいいですから」

 見せかけだけの思いやりの言葉を、アンナは養父にかける。
 いくらか平静を取り戻し、伯爵はゆっくりと自分の言い分を話し始めた。

「私は……本当に……ウィダス大臣に敵意など……抱いていなかった! 自分でもなぜ……なぜ……」
「わかってます。わかってますわ、優しいお父様!」

 義父の手を取り、アンナは目を潤ませる。こういう演技は、宮廷では必須のスキルだったから寵姫時代に覚えた。

「行き場のない私を拾い、本当の娘のように育ててくれました。アンナはお父様がどれだけ善良な人かを知っています」
「アンナ……」
「ですが、それでも今回の汚名をすすぐ事は難しいでしょう」
「うう……」
「あとは私に任せ、引退なさって下さい。どこか静かなところでゆっくり余生をお過ごしになればいいのです」
「い、引退……? 私が、か?」
「お悔しい、ですか?」

 それは悔しいだろう。祖父の代の一族が散財したり詐欺にあったりしたせいで、貴族としての恩恵をほとんど受けることができなかった。
 帝国有数の名門に生まれたはずなのに、時代が時代なら宰相の道だってあったはずなのに。
 それでもなんとか、家名を上げてやろうと足掻いたのに、こんな幕切れとなってしまうのか。そんな思いだろう。

「ええ。悔しいでしょうね。わかります。私を養子にしたのだってクロイス家と繋がりを持ちたいから、でしたものね?」
「アンナ……?」
「でもね、お父様。悔しかったのはあなただけではありません」

 アンナは養父の手を握りながら、エリーナとしての人生が終わった瞬間の苦痛を思い出す。昼間にこの力を使うのは初めてだ。

「うぐあっ!」

 グレアン伯は悲鳴と共に大きく目を見開いた。しかしその視界にこの部屋の様子もアンナの顔も映っていないだろう。
 今この男が見ているのは、あの日の高等法院の貴人牢だ。

「な、なぜ今、この夢が……?」
「夢? 違いますわお父様、今あなたが見ているのは現実。実際に起きたことです」
「アンナ、お前何を……?」
「あなたに陥れられた者たちも皆、無念だったのです」
「そうだ……そういえば最初にこの夢を見たのは、お前がこの家に来た日……い、いったいどういう?」
「民のための政治を志していた者たち。彼らはお父様のせいで破滅しました」
「お、お前は一体何を言って……?」

 ガチガチと歯を震わせながら養女を見ようとする。けどその姿は、別の人間のもののように感じられる。

「はあっはあっ……」

 その間にも毒入りワインが体の内側を灼くあの感覚が、伯爵を襲っている。

「アンナ……? いや、お前はアンナなのか?」
「あなたの矮小な欲望のために、貴族派に蹂躙されたフィルヴィーユ派の官僚も」
「……お前は……誰だ?」
「そして、今あなたが見ている悪夢を味わったフィルヴィーユ公爵夫人も……いいえ」

 アンナは、いやエリーナは訂正する。

()()悔しかったのですよ、グレアン伯爵。こうして復讐のために生き返ってしまうくらいに」

 2年前、この孤立した貴族に話しかけていた頃と同じ声音でエリーナは声をかけた。即座に絶叫が響く。
 
「うわあああああ! 」

 もはや彼にアンナの姿は見えていなかった。今伯爵の手を握っているのは、民のために貴族はと対決し伯爵の裏切りで破滅した悲劇の寵姫その人だった。
 
「フィ……フィル……フィル……お許し下さい、おゆるしください……」

 顔を伏せ、全身を震わせながら哀れな裏切り者は懇願する。

「あの時は仕方なかったのです! この家の……グレアン家のために……ああするしか……ああするしかあぁぁ……」
 
 そして伯爵はそのまま気を失い、柔らかい布団の中にその体を沈めていった。
 終わった。もはやこの男が再起することはないだろう。アンナは笑いを堪えながら立ち上がると、できるだけ悲劇的な声で叫んだ。

「誰か医者を! お父様が……! お父様が!!」
 
 グレアン伯爵が引退を表明し、その財産と伯爵の称号を養女アンナに委譲する書類にサインをしたのは、その2日後のことだった。
 アンナが家督を継ぎ、正式にグレアン伯爵家の当主となったのが10月。そこから年が明けるまでの2ヶ月は、激務続きだった。
 帝国政府へ提出する山のような相続関係の手続き、グレアン家の財政状況の把握、わずかに残されていた領地の視察。

「明け方まで書類と睨めっこなんて、いつ以来かしら」

 息をつく間もないほどの多忙。たが、アンナにとってはそれが心地よい。
 アンナはフィルヴィーユ派の盟主だった頃は珍しくもないことだった。当時恋仲だった皇帝アルディス3世の寝室で、眠る彼の腕の中から抜け出し、半裸のまま羽ペンを取ることすらあった。

 そんな元恋人である皇帝アルディスと、その腹心ウィダスへの対応も重要な仕事だった。前当主がしでかしたことの謝罪は、新当主アンナがやらなければならない。
 本来なら直に会って謝罪すべきだったが、二人が前線視察にため帝都を留守にしたため、書簡と使者を通してのやりとりのみとなった。アンナは正式な謝罪は新年祝賀会で行うことを申し入れ、皇帝と大臣もそれを承諾した。

 そして年が明け、今日がその祝賀会の日だ。

「マルムゼ、いかがでしょう?」

 アンナは、執務の合間を縫って仕立て屋に作らせたドレスに袖を通した。
 皇帝と戦争大臣への謝罪が一番の理由とはいえ、これがアンナの宮廷デビューの日となる。装いに気を抜くことはできなかった。
 新年の華やかな雰囲気に合わせ、深紅のタフタ織を取り寄せた。それに銀糸で、グレアン家の紋章にもつかわれているオリーブの紋様をあしらい、それをドレスにした。
 さらにグレアン家が財政難の折にも手放さなかったという、百合をかたどったダイヤモンドのブローチを胸につける。帝国のシンボルをモチーフとしたそれは、遠い昔に皇帝より下賜された逸品だそうだ。これを身につけることで、帝室への敬意と謝意の表れとなるだろう。

「とてもよく似合っておいでです。伯爵閣下」
「ありがとうマルムゼ」

 マルムゼは、正式にグレアン伯爵アンナの家臣となっていた。
 近衛兵として皇帝の身辺を探らせてもよかったのだが、マルムゼの異能は手元にあった方がなにかと役立つ気がする。
 それにマルムゼ自身が、なかなかアンナのそばを離れようとしなかった。アンナの護衛こそが自分の最も重要な使命と言い張り、アンナが特別に命令しない限り近衛隊の詰所に戻ろうともしないのだ。

「閣下のお側こそが、私の身の置き所です!」

 そう言って憚らないため、除隊させグレアン家に迎え入れたのだ。

「ところでマルムゼ、その伯爵閣下という呼び方はやっぱり堅苦しいわ。非公式の場では、これまで通り名前で読んでも構いませんよ」
「え? いやしかし、それは……?」
「どうしたの?」
「お忘れですか? 貴方様を名前で呼ぶのは気が引ける、以前そう申し上げたはずですが?」
「……」

 そういえばそうだ。
 リアン大公に面会するため、ベルーサ宮へ行くときにそんな話をした。戸惑っている青年の顔を見て、おかしさがこみ上げてきた。

「マルムゼ、命令です。今後、二人きりのときは閣下呼びを禁じます。私のことは名前で呼びなさい」
「は? いや、しかし閣下!」
「アンナ!」
「はっ! アンナ……様」
「ぷっ……くくく……」

 こらえきれず吹き出す。いつの間にかアンナはこの得体の知れない青年をすっかり気に入っていた。
 その正体や、彼の背後にいる「主人」なる者のことなど不審な点は確かにある。だが、腹心としては極めて有能だ。
 どんな命令でも遂行してくれるし、アンナの考えや目標をしっかり理解もしている。
 何より、こうやっていじめたときの反応が面白い。普段は怜悧な印象すらある黒髪の美青年なのだが、アンナが意地の悪い命令をだすと子犬のような顔で困り果てる。その落差が、妙にアンナの心を楽しませた。

「本当、私はいい腹心を持ったわ」
「は、はぁ、それは恐縮です……」

 釈然としない様子でマルムゼは応えた。

「あとはその服だけね」
 
 黒と銀の軍服だけはそのままだった。近衛兵は除隊しても生涯この服を着ることを、一種の名誉として認められている。
 とはいえこの姿は、彼がいつまでも私ではなく皇帝に仕えているようで面白くない。

「今後は私に付き添って公式の場にも出てもらうことになるわ。あなたにも、ふさわしい装いを仕立ててあげましょう」
「は、はい。光栄です」

 このようにマルムゼと他愛のない話に興じていると、使用人がドアをノックしてきた。

「当主様、マルフィア大公殿下がお見えになられました」
「皇弟殿下が? ありがとう、すぐに参ります」

 当主とはいえアンナは女性だ。パーティーの場には男性のエスコートが必要となる。その相手はリアン大公に依頼していた。

「……」
「相変わらず、リアン大公の名前が出てくると顔が曇りますね」

 アンナはマルムゼの不服そうな表情に気がつき、いたずらっぽく告げる。

「……なんの事でしょうか?」
「私のエスコートを彼がするのは不満?」
「不満などあろうはずもありません、あの方しかいないと私も思っています」

 そう言いつつも、マルムゼの眉は不愉快そうにねじれている。彼は大公のことを、未だ警戒しているようなのだ。

「もちろん手放しで信頼できる相手とは思っていませんよ。何度も申している通り、私は利用しているだけです。彼の宮廷社会への反感や、混乱を喜ぶ気質をね」
「それも承知しています! ですが私は、あの方ほどにあなたを知らない」
「どういうこと?」
「あなたと皇弟殿下は、古くからの親友だったのでしょう? 私が危惧しているのはそこです」
「ああ、エリーナとはね。けど大公殿下は今の私の正体を知らない。大丈夫、私たちの計画を気取られることはありませんよ」
「……もういいです」

 何故かマルムゼは落胆し、そのまま会話を打ち切ってしまった。

 * * *

「祝賀会前の景気付けに、スパークリングワインでもいかがかな、グレアン夫人?」

 ヴィスタネージュ大宮殿へと向かう馬車の中で、リアン大公はボトルを持って呼びかけてきた。アンナはジロリと険しげな目つきで彼を見返す。

「おっと失敬。グレアン伯爵、でしたな。どうも女性に爵位をつけて呼ぶのは慣れていなくてね」
「慣れていただきます。帝国法でも、女子の家督相続は認められているはずです」

 戦乱が長引き、貴族の男子が減った時代の名残だが、この法律が今のアンナの立場を用意してくれた。

「確かに。今やほとんどの家の当主が男だがな。皇帝が寵姫にプレゼントとして伯爵号を与えるようなことも、かつてはあったらしい……」

 アンナも寵姫時代、爵位を得てはどうかという話が持ち上がったことがある。
 フィルヴィーユ公爵夫人とは、寵姫に対する名誉称号で、フィルヴィーユ公爵の妻という意味ではない。そもそもフィルヴィーユ家は50年ほど前に断絶していたのだ。

 それをエリーナ自身を当主として復活させようという動きがあった。
 当時のエリーナは、それを固辞した。正式な爵位があれば、政界での影響力は増すが、敵も増えるからだ。
 それに爵位がなくとも、皇帝の庇護と愛情さえあれば、彼らに負けることはないと当時は信じていた。
 けれど今は事情が違う。せっかく手に入れた「グレアン伯爵」という称号をアンナは最大限に利用するつもりだ。

「それにしても一体どうやったのだ? 俺が伯爵家に君を連れて行った時には、こんな事になるとは思わなかった」

 リアンは、そう言いながらスパークリングワインをグラスに注ぐ。アンナは泡がきらめく薄い金色の液体が入ったグラスを受け取った。

「君が貴族社会や帝国そのものに何かを起こしたいのは知ってる。が、俺はあのままクロイス公爵家に嫁ぐものと思っていた」
「その方法も考えましたが、婚礼までに少なくとも一年。公爵家内で発言権を得るのに数年から十数年は必要でしょう? グレアン家を押さえた方が早いと思いましたの」

 敢えてあけすけに答えた。この皇弟もまた貴族社会に馴染めない者の一人だ。
 秩序を乱す者の存在を喜ぶ。あわよくばその乱れた秩序の隙をついて自分が帝位に、ぐらいのことは考えているかもしれない。

「だがまさか前当主が引退されるとはな。それも半年だ。半年で急速に衰え、そしてあのような不祥事を……彼に何をした?」
「私はなんのことか……ただ、しきりに何かに怯えている様子でした」
「怯えている?」
「そう。まるで、過去に自分が起こした何かに対して」
「何か、ねえ……。それで、彼は今どうしている?」
「グレアン家が保有している山荘にいます」
「その山荘は鉄格子付きかね?」
「まさか。でも……あの方自身、二度と俗世に戻るつもりはないでしょうね」

 アンナの養父はもはや死人も同然だった。あの山荘でエリーナの幻影に怯えながら惨めな余生を送るしかない。
 フィルヴィーユ派を裏切り、民のための政治を頓挫させ、私に「血塗られた寵姫」などという汚名を着せたのだ。当然の報い、とアンナは思っていた。

「だがな、グレアン伯」

 皇弟は、今度はアンナを爵位で呼んだ。

「他の貴族どもは、俺ほどに君を好意的な目で見ないぞ。落ちぶれたとはいえ、グレアンは名門。それを得体の知れない小娘が半年で乗っ取ったのだからな」
「それは、最初から覚悟の上です」
「俺が守ってやろうか?」
「まぁ。その見返りは?」
「君の美しさを俺に独占させてくれればいい。皇帝の弟という立場上、君にばかり肩入れするわけにはいかないが、恋人ともなれば話は別だ」

 隙あらば口説こうとする。こういう気質は相変わらずだなと思った。
 エリーナとして親友づきあいしていた頃も、兄の寵姫に平気で求愛の台詞を投げかけてきたものだ。
 それにオペラ観劇にいった翌日には主演女優と男女の仲になっていた、なんてことも幾度となくある。

「お気持ちは嬉しいですが。まだ当主として新米ですので、色恋にうつつを抜かす暇なんてありませんわ」
「新米でなくなったらいいのかい?」
「その時はその時の気持ちで決めるでしょうね」
「はっはっは、なら俺はいくらでも君に挑戦するよ?」
「もちろん殿下のご自由に。私は誰かに心を独占されるつもりはないですが、誰かの心を強制するつもりもありませんので」
「そういう言葉がすらすらと出てくるとは、君は本当に面白いな。ますます俺のものにしたくなってきた」
「差し当たり、私の手を取ることでご満足ください。宮殿が近づいてきましたよ」

 帝室の狩猟場にもなっているヴィスタネージュの森の向こうに、煌々とした灯りが見えてきた。
 夕闇の空を照らしているのは、宮殿内に備えられた錬金術による常夜灯だ。
 帝国の中枢部にして皇帝の居城、世界最大級の建造物であるヴィスタネージュ大宮殿の威容がすぐそこまで迫ってきていた。
「皇宮へ来たことは?」

 リアンに手を引かれ、赤いカーペットが敷かれた石畳を正面玄関へと向かって歩く。
 
「一般公開の時に一度だけ、こうしたパーティーでは初めてですわ殿下」

 もちろん嘘だ。来たことも何も、かつてはこの宮殿に部屋をもらい、そこで暮らしていたのだ。
 大庭園の中に別邸だって持っていた。とはいえリアンが今エスコートしている女性は、寵姫フィルヴィーユ伯爵夫人ではなく、グレアン伯家新当主アンナだ。帝室が年に数回行う宮殿の一般公開で訪れた、そのくらいの「設定」にしておくのが良いだろう。

「なら今度、大庭園も案内しよう。俺のエスコートなら皇族しか入れぬ東苑や、狩場となっている北苑にも入れるぞ」
「まぁ。楽しみにしておきますわ」
「マルフィア大公殿下! 新年あけましておめでとうございます」

 貴族の一人が、リアンに近づき新年の挨拶をしてきた。

「ああ子爵殿、おめでとう。今年も君にはカードで大勝ちさせてもらうよ」
「なんの、私も負けませんぞ! ところで、そちらのご婦人は?」
「ああ、今日の主役さ。この度、養父殿の門地を継ぎ、グレアン伯となられたアンナ嬢だ」

 紹介され、アンナは子爵に一礼する。

「アンナ・ディ・グレアンと申します。以後、お見知り置きを」
「ほう、あなたが! 噂は聞いておりますぞ。皆あなたに興味津々だ」
「それは光栄ですわ」

 興味津々、ね。
 嘘ではないだろう。確かに今夜で最も注目されているのは、アンナの宮廷デビューに違いない。けど、それはグレアン家の新当主とお近づきになりたい、などという殊勝なものではない。
 たった半年で当主の座を乗っ取った成り上がり女の顔を一目見てやろう、といったところか。あるいは、アラを探して笑ってやろう、どうにかして恥をかかせてやろう、そんな事を考えている輩もいるかもしれない。

「大広間へ早く行った方がいいですぞ。先ほど戦争大臣がお見えになられましたからな」
「まぁ、本当ですか。ありがとうございます」
「では行くとしようか」

 子爵に挨拶すると、アンナとリアンは祝賀会のメイン会場となる大広間へ足を向けた。
 周囲の視線が自分に集中しているのがわかる。誰もがアンナを見ながらヒソヒソと何かを話している。

「子爵の言う通り、注目の的だな」

 リアンが意地悪く言う。

「悪意でも、無関心よりかはいくらかまし。私はそう思ってます。関心があるのなら、それを好転させる事ができますから」
「同感だ。私も身に覚えがあるし、恩人も同じことを言っていた」

 恩人とはすなわちエリーナのことだろう。
 エリーナが初めて宮廷に上ったときも、今日と同じように悪意の視線を四方八方から浴びせかけられたものだ。平民の、それもさほど金もない職人の娘が寵姫になったのだから当然だ。
 けど皇帝の寵愛と自身の才覚を武器にじっくり、そして確実に味方を増やしていった。
 そして最終的にはフィルヴィーユ派と呼ばれる官僚集団の盟主となったのだ。アンナとしての人生でも同じことを、いやそれ以上のことをやってのける自信がある。

「いたぞ、あれが戦争大臣だ」

 大広間に入ると、すぐにリアンが言った。アンナもその人だかりに真っ先に目がいった。
 近衛隊長として皇帝を支え、2年前の政変で戦争大臣に就任した軍人は、他の貴族たちより頭ひとつ長身で、目立ちやすい。

「ウィダス卿」

 リアンが声をかける。ウィダスを取り囲んでいた人の輪が割れ、王弟と戦争大臣が相対する。

「これは大公殿下。我が帝国に栄えある新年が訪れた事、お喜び申し上げます」
「うむ、重畳である。これからも軍事のトップとして兄上を助けてほしい」
「ははっ」

 ウィダスはうやうやしく一礼した。

「ところで、貴公に用がある者を連れてきたのだが」

 そう言って一歩さがり、アンナにウィダスの正面にくるよう促す。それに従ったアンナは、一部の隙もなく礼儀にのとった仕草で戦争大臣へ一礼した。

「お初にお目にかかります、ウィダス閣下。この度グレアン伯となりました、アンナと申します」
「これはこれは」
「養父のした事、返す返すも謝罪申し上げます。帝国の武を司る大臣閣下にあのような振る舞い、到底許されるものでないと心得ております」
「いや、過ぎた事です。私も気にしてはいない、どうぞお顔をお上ください」
「はい」

 アンナは言われた通り顔をあげ、ウィダスの顔を見る。2年半ぶりの対面だ。
 もっともアンナはホムンクルスの肉体に魂を馴染ませるため、2年近く眠りについていた。体感としては、この顔を最後に見てから半年足らずの時しか経っていない。

 ウィダス! 私を殺した男!

 毒の苦しみの中、最後に見たこの男の顔を生涯忘れることはないだろう。
 思わずこの男に掴みかかり、首を絞めてやりたいという衝動に駆られたが、それを押さえつける。養父と全く同じ罪を犯し、復讐の機会を永遠に失うなど、笑い話にもならない。

「お父上のことは水に流すわけにはいきませんが、新たなご当主とは新たな親交を結びたいと思います」
「なんと……!この上なくありがたいお言葉です、大臣閣下……!」

 アンナは感激のあまり目に涙を浮かべる。……という演技をした。魑魅魍魎がひしめく貴族社会で10年近く寵姫をやってきたのだ、必要な時に必要な涙を流すことなど、なんでもない。

「お約束します。わがグレアン家は、ウィダス閣下のためならどのようなお力添えもいたします」
「名門グレアンからそのようなお言葉をいただけるとは嬉しい限りです」

 口ではそう言っているが、落ちぶれきったグレアンに何を期待できるものか、とその目は語っている。
 そうだ。今はそれでいい。せいぜい侮っていてくれ。その方が私も動きやすいのだから。

「ああ、ところで」

 ふと思い出したようにウィダスが尋ねる。

「私の古巣である近衛隊の隊士が、グレアン家でお世話になってると伺いました。息災ですか?」
「マルムゼですね? 彼にはよく尽くしてもらっています」

 アンナはにこやかに応じたが、内心で冷や汗をかく。お前の手の内は握っているぞ、とでも言いたげだ。
 確かにエリーナ殺害の時に、共として連れていたのだ。今でも近衛隊に大きな影響力を持つこの男が、マルムゼの再就職先を知っていたとしてもなんら不思議ではない。

「今日は連れてきていないのですかな? 昔の部下に会えるかもと思っていたのですが……」
「あいにく、本日は別の仕事を与えておりますので。そうだ、ぜひ今度我が家へ遊びにいらしてくださいまし。彼も喜ぶかと」

 アンナは考える。この男とマルムゼが繋がっている可能性はないか?
 いや、それなら私のグレアン家乗っ取りにマルムゼが協力するはずもないし、そもそも瀕死の私にエリクサーを飲ませたりなどしなかったはずだ。
 この男がマルムゼの話を持ち出したのは、暗に自分の影響力をひけらかしたいだけだろう。

「皇帝陛下、ご入来!」

 衛兵が高らかに、この国の主人の来訪を告げた。大広間の人々の歓談の声が一気に鎮まる。
 大広間の奥にある巨大な観音開きの扉が開け放たれた。皇帝一家専用の出入り口だ。

「皇帝陛下万歳!」
「我らが"百合の帝国"に栄光あれ!」

 貴族たちの喝采が、大広間のあらゆるところから上がり、寸前の静寂が嘘のように、拍手と叫び声が空間を満たしたこ。

「あれが我が兄、アルディス3世陛下だ」

 顔を近づけて、リアンが耳打ちする。

 純白の生地に金刺繍の軍服。胸にはいくつもの勲章をつけ、白熊の毛皮と緋色のベルベットで作られたマントを羽織る。獅子の立て髪を彷彿させる、やや暗めの赤毛。宮廷中の女性が恋焦がれたと言われる、端正な顔立ち。
 アルディス3世の姿を見て、アンナの胸の奥にあらゆる感情が湧き起こった。
 世界有数の大国の君主にして英雄リュディスの正統なる末裔。そしてアンナにとってはかつての恋人であり、自身を死へと追いやった張本人だ。

「隣の女性は?」

 アンナは、胸の奥にざわつきを覚えた。アルディスの横を歩くブロンドの女性。なぜあの女がそこにいる?

「ルコット・ディ・クロイス。クロイス公のご令嬢さ。今は兄上の最愛の人、寵姫となった」
「あの方が……陛下の寵姫……」

 クロイス公の娘とはパーティーや茶会などで何度か顔を合わせたことがある。
 エリーナに敵意をむき出しにし、事あるごとに対抗心を向けてきた少女だ。その態度に辟易し、父クロイス公と敵対していたこともあって、出来る限り顔を合わさないようにしていた。彼女やその取り巻きたちが発信源と思われる根も葉もないゴシップに頭を悩まされたことも、一度や二度ではない。
 まさか、彼女が私の後釜とはね。アンナは軽い目眩を覚える。

「つまらない女さ。取り巻きとのパーティーとゴシップだけが生きがい。芸術や哲学などは自信を飾り立てるアクセサリー程度にしか思っていない。それに、ほら見たまえ」

 皇帝の後ろには、初老の太った男がついていた。皇帝専用の入り口にも関わらず、その入り口を使っているのは現在の帝国宰相。かつてエリーナの政敵だったクロイス公爵その人だ。

「あの通りさ。学がないくせに政治に口出しするのが大好きで、お父君と一緒に帝国の支配者気取り。前寵姫のフィルヴィーユ侯爵夫人がまともな方だった分、余計に酷さが際立つ。そりゃ、べルーサ宮の革命分子だって騒ぎ立てるわけさ」

 リアンは苦々しい口調で、愚痴をこぼす。そういうことか。宰相と寵姫。親娘ふたりで帝国の政治を私物化している。
 アルディスは私を切り捨てて、こんな二人を選んだと言うことか。エリーナの心の奥に、どす黒い炎が立ち上った。

「グレアン伯爵は来ているか?」

 皇帝の第一声はそれだった。新年祝賀の挨拶よりも先に雑事を済ませてしまおうと言う事らしい。

「兄上、我が帝国に新たな年が訪れた事、お慶び申し上げます!」

 つい今しがたの苦い顔を消し去り、リアンは兄の前に歩み出た。皇帝は、小さく頷いて弟の挨拶に応える。

「こちらに控えましたるが、グレアン伯爵家の新当主、アンナ殿にございますれば」

 芝居がかったセリフでアンナを紹介する。アンナは膝を屈し、深々と頭を下げ自分自身の仇であるアルディスに拝謁した。

「お初にお目にかかります、皇帝陛下。アンナ・ディ・グレアンと申します」
「そなたが、か。顔を見たい。面をあげよ」
「はい」

 アンナはゆっくりと上体を起こして、皇帝の顔を仰ぎ見る。
 間近でこの顔を見るのはいつ以来か。2年前、獅子の国との国境地帯へ、皇帝自ら出征したのが最後だった。

 ああ、安心した。

 アンナは心の中で安堵の息を漏らした。密かに恐れていたのだ。当時何よりも愛しく感じていたその顔を見た時、己の復讐心が揺らぎはしないかと。

 けどそんなことはなかった。かつて誰よりも素敵なものに映ったその顔を見ても、冷たく凍てついたアンナの心は微塵も揺らぎはしなかった。
 この男は私の最愛の男性などではない、私を殺した殺人者だ。報復の対象なのだ。よかった、この思いは変わらない……!

「前当主の不祥事にも関わらず、我が家を潰さず相続をお許しいただけたこと。御礼申し上げます。そして改めて我が父が陛下のご信頼を裏切ったこと、お詫び申し上げます」
「ウィダスにはもう謝ったか?」
「はい」
「ならばよい。当事者同士で話が片付いたのだら、余から改めて申すことはない」

 おお……と、周囲から感嘆の声が湧き上がる。陛下のお心のなんと広いことか。そんな声が沸き起こる。
 茶番も甚だしい。だがアンナが復讐を成し遂げるためにも、必要な茶番だ。

「すべての貴族は、このヴィスタネージュに参内する義務がある。貴公も相続の手続きが終わったのであれば、今年より宮廷の祭事や儀式に参列するが良い」
「ありがたき幸せにございます」

 これでアンナは、皇帝アルディス3世の臣下として正式に認められたことになる。この大宮殿に通うことが許されたのだ。
 アンナは皇帝と、その後ろに控える二人の人物、宰相クロイス公と寵姫ルコットを見据えた。
 私を陥れ、民のための改革を潰したすべてのものに復讐を。そして、その最大の標的はこの3人ということになるだろう。

「さて、余の私用は済んだ。我が帝国の新たな年を盛大に祝おうではないか」

 皇帝が高らかに言い放つと、万雷の拍手が巻き起こる。

 こうして帝国に新たな年が訪れる。それは、ある復讐鬼による凄絶な策謀が、一段階進んだことも意味していた。
 新年の祝賀会は深夜まで及び、グレアン邸へ戻る時刻には、すでに東の空が白み始めていた。馬車から降りると、マルムゼが出迎える。

「宮廷デビュー、お疲れ様でした」
「あら、あなたの方が早かったのね」
「はい。未明の衛兵交代に紛れて戻ってまいりましたので」

 昨夜、ウィダスに説明した通りマルムゼには仕事を与えていた。アンナは彼を私室に通す。

「お休みになられなくてよろしいのですか?」
「久しぶりの宮廷で、気が昂ってます。少し話をした方が寝付きが良さそうなの」

 コルセットで固められたドレスを脱ぎ、くつろぎやすい部屋着に着替えると、お気に入りのソファへ体をうずめる。

「ウィダスがあなたのことを話していたわ。まるで、あなたに対する影響力がまだあるかのように」
「迷惑ですな。今、私が忠誠を誓うのはアンナ様、あなた様です」
「ありがとう。この8ヶ月、あなたは私に尽くしてくれている。感謝しています」

 アンナが言うと、マルムゼの口角がほんのわずかに持ち上がった。些細な変化だが、それだけでもマルムゼの喜びを察することができた。

「けど、あなたはエリーナ暗殺の現場を知っている人間。ウィダスはあなたを警戒しているのではなくて?」

 フィルヴィーユ公爵夫人暗殺は、皇帝にとって自身の身を危うくするスキャンダルになりかねない。
 ウィダスは、なぜマルムゼを犯行現場に連れて行ったのか?

「ご心配には及びません。ウィダスには、あの日私を連れていたという認識はないでしょうから」

 まるでアンナの心の中を読んだように、マルムゼは疑問の回答を用意してくれた。

「それは、例の認識迷彩の異能?」
「いかにも。あの日、彼は信頼のおける部下たちをともなっていましたが、彼の認識ではその中に私はおりません」
「つくづく、便利な力ね」
「使える場所は限られますがね」

 彼の術は一人一人に個別にかける必要がある。
 だから不特定多数の人間がいるような場所では、用いる事が難しい。しかし出会う人間が限られる状況では、真価を発揮する。

「で、その力を駆使した今回の任務はどうだったかしら?」
「成果は上々です。こちらをご覧ください」

 マルムゼは携えていた筒状の入れ物の中から一枚の紙を取り出し、テーブルに広げた。
 ヴィスタネージュ大宮殿の見取り図。事前にマルムゼに与えていたものだ。

「教えていただいた隠し通路のうち、主だったものは今でも使用可能です。宮殿外への脱出路に、衛兵たちの隠し詰所、皇帝の間と寵姫の部屋を結ぶ直通路、ほとんどが今も変わりありません」

 ヴィスタネージュ大宮殿には無数の隠し通路がある。寵姫時代にアンナはそれを調べ尽くし、頭の中に入れていた。
 それが今でも使えるかを確認するというのが、今回マルムゼに与えていた任務だった。
 ほとんどの皇族と貴族が大広間に集まる祝賀会の最中なら、その他のエリアは人の目が少なくなる。マルムゼが動くには絶好のチャンスだったわけだ。

「ただ、錬金工房へ通じるという地下道のみはその痕跡すら残されていませんでした」
「やっぱり、そこは駄目か……」

 錬金工房は帝都の職人街にあったものの他に、王宮の東苑にも所在している。
 ここは皇族のプライベートな空間のため、その他の貴族たちが訪れるためには秘密の地下道を通る必要があった。
 錬金術を支配階級が独占するための措置だったが、その地下道も埋められたとなると、やはり帝国は錬金工房そのものを手放したということなのだろうか?

「わかりました。とりあえず錬金工房の件は置いておきましょう」

 その他の通路を握れただけでも、成果は大きい。
 隠し通路は皇族や寵姫の部屋、大臣たちの控室などに必ずひとつは用意されている。うまく使えば、宮廷のあらゆる情報を得ることが可能となる。それらが復讐に役立つことは疑いない。

「マルムゼ。今日私は、皇帝から参内の許可を得ました。これからは宮殿に行くことが多くなるでしょう。その時は必ず声にあなたを連れて行きます」
「そして、隙を見て隠し通路に忍びこめ、と?」
「あなたの力を使えば、衛兵を欺いて通路に忍び込むことは容易でしょう。問題はタイミングだけど……」

 マルムゼの能力は、大人数がいる場所と同じくらい、誰もいない空間でも使用が難しい。
 人がいるべきではない場所にいる。この認識を欺くには、相手にさらに深い術をかけなくてはいけない。そればかりか全くの不可能な場合もある。
 例えば、隠し通路を使って皇帝の私室に忍び込んだとしても、そこに皇帝本人がいればおしまいだ。皇帝にとっては、何人あろうと侵入者でしかないため、認識を書き変えることができない。

「皇族の一日のスケジュールさえ把握できれば鉢合わせの危険性は減ります。私の寵姫時代の記憶をもとに……」
「そのことなのですが、アンナ様」

 マルムゼがアンナの言葉を遮った。

「スケジュールの把握については私が知っていることもお役に立つかと」
「……どう言うこと?」
「ご存知の通り、私はホムンクルスです。どの錬金術師も魂の創造には成功していない以上、誰かの魂を受け継いでいるはずなのですが、その者の記憶を私は持っていません」
「そうだったの?」

 確かに、マルムゼは過去のことを全く話さない。アンナがエリーナ時代の記憶を持っているよう、この青年も以前の肉体の記憶を所有していると思っていたが、違うのか?
 
「で、それと隠し通路になんの関係が?」
「私にはわかるのです。皇族が一日にどのようなスケジュールで行動するか。起床や着替え、食事、執務、遊興……それらが行われる時刻と場所、さらに同席するものの顔をはっきりと自覚しています」
「と言うことはあなたは元皇族、あるいは彼らに近いところにいた、ということ?」
「わかりません。我が主人が、ホムンクルスに肉体になんらかの形で刻み込んだ記憶とも考えられます」

 マルムゼが、アンナの復讐を手伝うために命を吹き込まれた存在だとすれば、その仮説も成り立つ。

「いずれにせよ、私は王宮内の隠し通路がいつ使われ、その先の部屋がいつ無人になるのがいつなのか、つぶさに把握しております。これをアンナ様の記憶と照らし合わせれば……」
「何時にどの部屋が無人となり、どの通路に入ればいいか割り出せる」
「ええ」

 二人が持っている記憶は、二年以上昔のものだ。けど、宮廷とは本来保守的な場所だ。数百年続けられた皇族たちの日課がここで急激に変わることは考えづらい。
 二人が協力して割り出した宮廷のスケジュールは、かなり正確なものとなるだろう。
 
 * * *

 目論見は見事成功した。アンナとマルムゼの記憶を頼りに見つけ出した空白の時間。そこに、二人にとって最高の獲物が潜んでいたのだ。

「まさかこんなに早く、結果を出せるとはね」

 それは、新年祝賀会の翌週のことだった。貴族社会の慣例にならい、週に一度の皇帝謁見のためアンナはヴィスタネージュ宮殿に参内した。
 アンナの護衛としてついてきたマルムゼは異能を使って衛兵の目をかわし、隠し通路へ入った。そして寵姫ルコットの私室でそれを聞き出したのだ。

「皇妃様を廃妃に追い込めとは。いくらなんでも穏やかじゃないわ」

 皇妃様。つまり、皇帝アルディス3世の妻マリアン=ルーヌのことだ。同盟国である"鷲の帝国"の王女で、アルディス帝とは典型的な政略結婚だった。
 国と国の結びつきを担保するための、いわば人質だ。夫婦間の愛情なども芽生えてはいないだろう。
 それは彼の愛が、エリーナやルコットのような寵姫たちに向けられていることからも明らかだ。

「ルコットはあくまで戯れとして言っているようでしたが、聞いた方はそうは思わなかったでしょうね」
「あの女の考えそうなことよ。もし都合が悪くなった場合は、軽い冗談だった、で済ませればいい」

 間に受けた取り巻きが悪いのであって、自分や父上は関係ない。それがルコットのやり方だ。
 エリーナもかつてくだらない嫌がらせを受けた時、証拠を掴んでルコットを追求したことがある。その時も同じ手を使われ、首謀者である彼女の責任を問いただすことはできなかった。

「今年の目標として、皇妃にとりかえしのつかない恥をかかせる。そして精神的に痛ぶって、皇妃の責務を担うことができなくなるまで追い込む。そんな事を話していました」
「くっだらない……」

 アンナはため息を付いた。確かに皇妃と寵姫は、同じ男性を取り合うライバル関係と言えるかもしれない。
 しかし、立場も役割もまるで違うし、どちらも皇帝にとって必要な存在だ。
 当時のエリーナはそう思っていたし、だからこそ皇妃への必要以上の干渉は避けていた。
 まして嫌がらせをして廃妃に追い込むなど……どうも私の後釜の女は、相当幼い感性の持ち主らしい。

「で、それを間に受けた愚かな取り巻きというのは?」
「グリージュス公爵夫人。夫は帝都のインフラ整備の事業主で、クロイス公との結びつきも強い方です」
「ああ、あの女か。エリーナの審問会のときも夫婦揃って傍聴席にいたわね」

 あの日もルコットの隣の席に座っていた。
 黒髪でつり目気味の女。宮中でエリーナの顔を見るたびに、ひそひそとなにやら扇で口元を隠しながら、悪口を言っていた。
 平民上がりの娼婦だの、下賎な血だの、おおよそそんな事だったと思う。

「帝都インフラの事業主……ということは、職人街の再開発や劇場建設にも関わっている?」
「調べてみますが、ほぼ間違いなく関わっているでしょう」
「よし、決めました」

 アンナはパチンと手を叩いた。

「帝国の柱となる皇妃陛下に対する不逞な企みは、帝国貴族として看過できません」

 わざと芝居がかったセリフを吐く。もちろん、そんな事は微塵も考えていない。

「ここは皇妃様をお助けし、帝国に正義を取り戻しましょう」

 帝国に正義を取り戻す。あの審問の日に、貴族たちもこの言葉を吐いてエリーナを糾弾していた事を思い出した。

「はっ! ……して、それは具体的にはどういう事で?」

 マルムゼが意地悪く聞き返す。この青年も、アンナの腹黒さを理解してきたではないか。

「次はグリージュス夫妻を潰す。もちろんそういう事ですよ、マルムゼ」
「すー……、はぁー……」

 珍しくアンナは緊張していた。ヴィスタネージュ宮殿の一角。迷路温室と呼ばれる施設だ。
 大宮殿にいくつかある温室のひとつで、生け垣で作られた迷路庭園の中央部に位置する。
 曲がりくねった通路といくつかの分岐を越えた先に、珍しい植物を育てる温室が現れる。そんなちょっとした宝探しの気分が味わえる趣向の場所で、この大陸では珍しい南方の花々を楽しむことができるのだ。
 寵姫時代からのエリーナのお気に入りの場所だが、迷路という性格のためか訪れる者が少ない。その人物と会うには格好の場所だった。
 とはいえ、約束しているわけではない。マルムゼが異能を使って連れてくることになっている。

「こちらです、陛下」
「ありがとう。あら温室……ですか、ここは?」

 生垣の向こうからマルムゼと、もう一人女性の声が聞こえてきた。アンナは一旦、反対口から温室を出て気配を隠す。

「ええ。皇妃陛下、ここでお待ち下さい」

 マルムゼは女性を、温室の中央に据えられた椅子に座らせる。この女性こそが、皇妃マリアン=ルーヌだ。

「すぐに供の者を呼んでまいります」
「ええと……マルムゼ、とおっしゃいましたね?」
「はい。何か?」
「あなたは、我が夫とどのようなご関係で?」
「いえ、私はかつて近衛隊にいましたが、皇帝陛下とは特別なご関係などは……」
「そうなのですか? いえ、どことなく同じ気配を感じましたので……失礼しました」

 どういうことだろう。聞き耳を立てていたエリーナは首をひねる。皇帝に似た気配をマルムゼに感じた?
 いや、あり得る話だ。先日、マルムゼの正体が皇族の関係者でないかという疑問が生じた。もしそれが事実だったとしたら、皇妃がそれを察知してもおかしくはない。
 何しろ彼女は、普通と違う感覚をお持ちなのだ。

 マルムゼがアンナのいる方へと歩いてきた、目配せをしながら彼と入れ替わり、皇妃の方へと歩んでいく。

「どなたですか?」

 その気配に気づいた皇妃が顔を上げる。
 ああ、相変わらず美しい人だな。アンナは思った。
 皇妃マリアン=ルーヌの天使のような美貌は、"鷲の帝国"の皇女だった時代から評判だった。皇妃となってそろそろ8年が経つはずだが、少しも衰えがない。

「侍女、ではありませんね。初めてお会いする方。どなたでしょう?」

 そう問いかける皇妃の両目は閉じられている。そうなのだ、この人は視力を失っている。
 皇妃となって間も無く、盲目となってしまったのだ。異国へ嫁いだ心労による眼病とも、"鷲の国"との友好を望まぬ一部貴族による毒殺未遂とも言われている。
 いずれにせよ、外交問題になりかねない問題のため、このことは宮廷でも公然の秘密だ。公式の場に皇妃が姿を現すことも極力避けられていた。

「失礼いたしました。グレアン伯アンナと申します」

 アンナは丁重に、盲目の皇妃に挨拶する。

「グレアン伯? あなたが!?」

 名前は知っているようだった。まぁ、半年で名門を乗っ取った女当主の名前など、良い形で伝わってはいないだろうが。

「失礼、私はマリアン=ルーヌ。この国の皇妃です」
「存じております。本来ならば謁見の間でご挨拶してからでなければ、お話などできぬ身。何卒、ご無礼をお許しください」
「ふふっ、構いませんよ。実は私も困っていた所なのです」
「ただいま我が臣下であるマルムゼより伺いました。お供の方々とはぐれてしまったと」
「ええ。私が小鳥のさえずりに耳を傾けることに夢中になってしまって……気づいたときには一人に……」

 本来あり得ない話だ。目の見えぬ皇妃を放ってどこかへ行ってしまう侍女など、減俸や解雇で済まされる話ではない。
 もちろんマルムゼの力だった。マルムゼが侍女たちと皇妃の認識を巧みにずらして、離れ離れにさせてしまったのだ。今頃侍女たちは顔を真っ青にして主人の姿を探しているだろう。
 つくづく恐ろしい力だな、と側近の異能に戦慄する。スパイどころか要人誘拐すら、あの青年は簡単にやってのけるのだ。

「マルムゼがお付きの方々を連れて戻ってくるでしょうから、ここでお待ちください」
「ええ、ありがとう。ところで……」

 皇妃がアンナの顔を見る。いや、視力が失われているのだから実際に見られているわけではない。だが彼女は、彼女なりの感覚でアンナを「見て」いるようだった。まるでアンナという存在を把握しようとするかのように。

「失礼ですが、どこかで会ったことがありますでしょうか?」
「いえ。陛下とは今日が初対面にございます」
「そうですよね、ごめんなさい。先ほどのマルムゼ殿といい、なにか他の方にはない不思議なものを感じてしまいまして……」

 盲目の者は、目が見えない分、他の感覚……例えば耳や鼻、肌から受ける刺激に敏感になる。
 そんな話を聞いたことがある。確か錬金工房でもその分野の研究をしていた人もいたはずだ。
 マリアン=ルーヌ皇妃も視力以外の感覚で、私やマルムゼに違和感を覚えているのだろう。アンナの姿が見えない。
 それゆえにアンナの内側に潜む、フィルヴィーユ伯爵夫人の……かつての恋敵の存在を感じとっているのかもしれない。

「ごめんなさい。私ったら初対面の方に本当に変なことを……」
「失礼ですが……陛下は目を患っておられるので?」

 初めて知った、という体でアンナは尋ねた。公然の秘密とはいえ、宮廷に参内して間もないアンナがこの事を知っているのは不自然だろう。

「はい。子供の頃は見えていたのですが、こちらに嫁いで来た頃に」
「そうでしたか……!」
「この時間の散歩も実は治療のひとつなんです。医師からは、外界の刺激に触れるのが一番効果があると」

 とはいえ、それから8年になるのだ。おそらくその治療法には限界があり、散歩だけで皇妃の視力が戻ることはないだろう。

「鳥のさえずりや風のざわめきを聞いたり、花の香りを嗅いだりしていると気が落ち着きます。けど、どうしても子供の頃駆け回っていた故郷の庭園を思い出してしまい……あの鮮やかな花々が懐かしくなってしまいますね」

 そう言って皇妃は苦笑した。

「それにしても、こんな温室があるなんて知りませんでした。珍しい香りがするけど、どんなお花が育てられているのでしょう?」
「ご覧になりますか?」
「え……?」

 戸惑いに、皇妃の眉知りが下がった。
 
「それは……見られるのなら是非とも見てみたいですが……」
「私にはきっとそれができると思います」
「視力を戻す方法を知っているのですか!?」
「いえ、医学的に治すことは出来ません。けど、ひとときだけ光を取り戻すお手伝いでしたら」
「どういうこと?」
「実際にやってみせた方が早いかもしれません。手をお出しください?」
「手?」

 マリアン=ルーヌ皇妃は恐る恐る、右手を差し出す。
 はるか東方の世界より伝えられた白磁の壺のように、透き通った白くきめ細やかな素肌だった。

「ご無礼仕ります」

 アンナはその手に触れる。すると、この手が陶器人形などではく温かい血の通った人間の手であることがわかる。

「心を落ち着けて……」

 そう伝えてから、アンナはホムンクルスの肉体にながれる魔力の血に意識を集中させた。
 "感覚共有"の異能。養父を破滅させたあの力を、アンナは解放する。

「え、嘘……?」

 マリアン=ルーヌは息を飲み込んだ。アンナは今、己の眼で見ている世界を、盲目の皇妃に分け与えていた。
 彼女の脳裏には、生垣に囲まれた静かな空間に咲き乱れる花々の姿がはっきりと映し出されているだろう。

「これって……」
「今、陛下の前に広がる景色そのものです」
「そんな、どうやって? もしかしてこれって魔法……?」

 "鷲の帝国"の皇族出身であるマリアン=ルーヌにも、魔法時代の英雄の血が流れている。
 だが、"百合の帝国"の王侯貴族たちがそうであるように、その力は途絶えて久しい。

「私にもその正体はわかりません。ただ、私には昔からこういう力があるのです」
「……思い出しました、貴重な花を集めた庭園は”鷲の帝国"の宮殿にもございました! あの赤い花、覚えてます! ……こんな、こんな夢みたいです……!」

 皇妃の閉じられた両目から涙が溢れ出していた。しきりに首をまわし、自分の周りに広がる鮮やかな世界を確認しようとする。
 アンナはその動きに合わせ視線を動かし、皇妃が望む景色を彼女の心へと投影していった。

「――いか、陛下!!」

 至福の時間を終わらせたのは生垣の出口から現れた女性の集団だった。皇妃つきの侍女たちが血相を変えて、主人の元へ戻ってきたのだ。

「探しました皇妃陛下! はぐれてしまったこと大変申し訳ありません」

 一同は温室に侵入すると一斉にひざまづいた。その後ろには、彼女たちを連れてきたマルムゼが立っている。

「本来なら死に値する罪なれど、私以外の侍女たちには何卒寛大なご処置を」

 そう懇願するのは、一堂の中で最も年長と思われる女性だった。宮廷女官長ペティア伯爵夫人。
 エリーナ時代にアンナもよく顔を合わせた、ヴィスタネージュ大宮殿で働くすべての女性たちの長だ。実質的に皇妃の侍従長も彼女が務めている。

「かまいませんよペティア夫人。おかげでとても素敵なお友達と出会えました」
「お友達、とは?」

 ペティア夫人は顔をあげる。そして、驚愕に目を丸くした。

「あなたは、グレアン伯爵夫人!」
「夫人、ではありません。私自身が伯爵です、女官長殿」

 アンナは淡々とした声音で訂正した。

「それと陛下。お友達などと、恐れ大きこと。私は陛下の一臣下にすぎません」
「いいえ。私はあなたともっとお話がしたいです。それと、先ほどのお力も……。ぜひまたお散歩にご一緒させていただけませんか?」
「それは……陛下がお望みであれば」
「ありがとう!」

 皇妃は喜びの声をあげる。少女のような、明るく軽やかな声だった。

 その後、侍女たちに手を取られ、皇妃は生垣の迷路の外へと出ていった。そんな中、宮廷女官長のみが残り、険しい目でアンナを見据える。

「随分と陛下に気に入られたようですね」
「恐縮です」
「まさか、あなたがこんな所まで陛下を連れ込んだのですか?」
「滅相もない。私がここでここで休まれていた時に、たまたま皇妃陛下が訪れたのです」
「こんな迷路の奥に、あの方が一人で来たと言うのですか? そんな馬鹿な!」

 ペティア夫人は激昂する。

「このような手で皇妃様に取り入るとは、なんと恥知らずな……」
「陛下が私を気に入っていただけたのは光栄の極みですが、そのような物言いは不愉快ですね」
「なんですって?」
「そもそも、陛下をお一人にしてしまったのはどなたです? 私は陛下が心細くならないようお側にいて差し上げたのみ。自らの過失を棚にあげて私をそのように糾弾するなど、非常に心外です」
「くっ……」
 
 女官長は、苦々しげにアンナを睨みつける。この瞬間、ペティア夫人はアンナを敵と認識したようだ。
 まぁ別に構いはしない。遅かれ早かれ対立するのはわかっていた相手だ。
 彼女が最も重視するのは宮廷内の秩序であり、従ってクロイス派にも他の貴族の派閥にも属してない。
 言わば完全中立の存在だ。だからアンナの復讐のリストにも載っていない。しかし中立だからこそ、彼女はいずれ必ずアンナに立ちはだかる。味方にはできない。
 復讐の過程で、アンナは必ず宮廷の秩序を破壊することになるのだから。

「まぁ、いいでしょう。ですが、今後はお慎みください」
「それは皇妃陛下の御心次第ですね」

 そう言い残し、アンナは迷路庭園を後にした。
 かくしてアンナは、皇妃の散歩友達として遇されることとなった。
 新グレアン伯となったアンナは、皇帝への謁見や、他貴族との人脈づくりのため、数日に一度は宮殿に参内している。そして、その度に庭園を訪れていた。

「伯爵、近ごろ皇妃と仲良くしていると聞いたが?」

 その話はアルディス皇帝の耳にも入ったらしく、ある謁見の時にそう尋ねられた。

「はい。恐れおおくも庭の散歩に付き添わせていただいています」
「それは大儀である。彼女はあの目のせいか、人を避けがちでな。これからも仲良くしていただきたい」
「かしこまりました」

 心の中では苦笑を禁じ得なかった。かつてのアルディスは、マリアン=ルーヌとエリーナを極力会わせようとしなかった。
 皇妃と寵姫なのだから当然だ。エリーナは公式の場でしか彼女と会話したことはない。
 それが今では、私と皇妃が会っているのを喜ぶのだから皮肉な話だ。もちろんアルディスもマリアン=ルーヌも、アンナの正体を知る由もないのだが……。

「こちらですわ、伯爵!」

 謁見が終わり、庭園に降りると皇妃が待っていた。
 目が見えないにも関わらず、近づいただけでアンナが現れたことに気付いたようだ。つくづく、非凡な感覚をお持ちの方だ。

「仰られた通り、馬車を用意させました」
「ありがとうございます。いつも同じお散歩コースではお飽きになってしまうかと思いまして」
「楽しみです! ヴィスタネージュの庭園は広大と聞きます。私がこれまで歩いていたのは本殿の周りばかりでしたから……」
「陛下の御身を思ってのことです。ご理解ください」

 宮廷女官長ペティア夫人が面白くなさそうに言う。
 これまで散歩に随行するのは自分の特権だったのに、それを得体の知れぬ女に奪われてしまったのだから、無理もない。

「グレアン夫人、どうしてもおふたりで行くと言うのですか?」

 ペティア夫人は、頑なにアンナのことを伯爵ではなく、伯爵夫人として扱おうとしていた。
 女性に爵位など無用、あくまで殿方の付き添いとして振る舞うのが、宮廷の秩序というものだ。そう言いたげに。アンナも夫人と呼ばれるたびに訂正していたが、やがて馬鹿馬鹿しくなり、聞き流すようになっていた。
 
「ご心配なく。陛下のスケジュールを乱すつもりはございません。3時の読書会までには戻ります」
「そういう意味ではございません! もし陛下の御身に何があったらいかがなさるおつもりです」
「ならば、近衛兵の一大隊でもお呼びすればよろしい。遠巻きに私を監視なさり、もし陛下に危害を加えるとお認めになれば、どうぞ私を狙撃なさい」
「ななな……」

 ペティア夫人の顔が青くなる。

「ペティア夫人! 私です。私が伯爵と二人きりになりたいとわがままを言ったの! 彼女を責めないでください」
「陛下……」

 皇妃が懇願すると、女官長は何も言えなくなってしまった。

「それでは失礼。先ほども申した通り読書会までには戻りますので」

 アンナは皇妃の手をとり、二人乗りの馬車に乗り込んだ。

 * * *

 ヴィスタネージュ大宮殿の庭園は4つの区画に分かれている。
 本殿に最も近いのが、噴水と花壇が幾何学的に配置された西苑。
 球戯場や競馬場など、遊興のための施設が点在する南苑。ここには帝都方面からの直通の門もあり、貴族たちの社交の場となっている。
 皇族や寵姫の私的な空間である東苑。開放的な南苑とは対照的に、こちらはごく限られた者しか立ち入りを許されない。
 そして狩場として広大な森がそのまま残されている北苑だ。面積はこの区画が最も広い。

 それぞれの区画だけでもで、諸外国の宮殿がすっぽりおさまってしまう程の広さを持つ。
 本殿や付属施設も含めた宮殿全体の総面積は、帝都のそれに匹敵すると言われている。これがヴィスタネージュ大宮殿の全容だ。

 この広大な宮殿内の移動は、徒歩だけでは無理だ。だから本殿から離れた区画へ向かうには、今回のように馬車を使う必要がある。

「東苑? あそこは皇族でなければ入れないのでは?」

 行き先を聞いた皇妃は、少し驚いたような口ぶりでアンナに尋ねた。
 
「であるからこそ、皇妃様にわがままを申し上げました。お許しを」
「いえ。それは良いのですが、どうしてあそこの内部をご存知で?」
「以前、養父が申しておりました。先帝陛下に付き添って一度だけ東苑に入ったと、そこに良い場所があるそうなのです」

 もちろん嘘だ。あの男が東苑への立ち入りを許されるほど、先帝から信頼されていたとは思えない。
 東苑の内部を知っているのは、他ならぬエリーナ自身がそこに別邸を持っていたからだ。

 各区画の間には運河で区切られている。石造の橋を越えたら、ここからが帝室の私的な世界だ。

「ここで停めてください」
 
 アンナは御者に指示を出すと、馬車が停まる。
 御者はアンナの腹心マルムゼだ。彼が認識迷彩を用いて、皇妃付き御者に紛れ込んでいたのだ。

「さぁ陛下、お手を」

 馬車から降りる皇妃の手を握る。二人は手を繋いだまま、歩き出す。
 この辺りでいいだろう。ある程度進んだところで、アンナは"感覚共有"の異能を発動した。

「まぁ……」

 そこは、やや大きめの池のほとりだった。
 花壇と噴水で人口的に整備された西苑とは違い、自然の景観を再現するように植木が配置されている。足元に広がるのは石畳ではなく、野生に近い花畑だ。
 皇妃と散歩を共にするようになってから、そろそろ3ヶ月。春の兆しが訪れ始めた東苑の花畑には、色とりどりの花が咲き乱れている。

「花の香りが強いと思っていましたが、まさかこんなに綺麗な場所だったなんて」

 アンナの手に繋がれたまま、辺りを見回す。体をかがめて、足元の花を観察したかと思えば、大きく伸びをして全身で風を受ける。

「お気に召しましたか」
「ええ、とっても! 素敵なところを教えてくれてありがとう!」
「ここなら誰に気兼ねする事なく、お話を伺うことができます」
「え?」
「お悩みなのでしょう? お茶会の件で」

 マリアン=ルーヌ皇妃の表情がこわばった。

「ご存じ、でしたの?」

 アンナは黙って頷く。

「よろしければ私にお話しください。私とふたりきりになりたいというのは、この相談をするためでございましょう?」

 * * *

 話は3週間ほど前にさかのぼる。

「寵姫にべったりだったグリージュス公爵夫人が、皇妃様に近づいているようです」
「ということは」
「ええ、始まったみたいですね」

 宮廷内の噂話を影から聞き続けていたマルムゼがそう報告してきた。
 どういう風の吹き回しか、寵姫様のご友人が皇妃様のお茶会の手伝いをしているらしい。

「けど、これまで皇妃様がそういった行事を主催することはなかったわ。それがどうして急に……?」

 そのあたりは、週に一度の散歩仲間であるアンナも聞いていない。

「それこそが、ルコットの企みのようです。グリージュス公爵夫人が、皇妃たる者の務めとして強引に求めたのだとか」
「なるほどね」

 "百合の帝国"の歴代皇妃には、社交的な女性が数多くいた。
 彼女たちは、好んでお茶会や舞踏会を主催し、そこに参加する貴族たちからの忠誠を得ていた。
 これらの催しは政治的にも重要な意味を持つこともあり、皇妃の地位を向上させるものになったという。

「マリアン=ルーヌ皇妃はあの目のために、社交界に出ることはありませんでした。しかしそれでは皇妃としての権威が損なわれてしまう、グリージュス夫人はそんな風に彼女を脅したのでしょうね」

 そして影では皇妃の足を引っ張り、慣れない主催で大失敗するよう誘導しているのだろう。虫酸が走るやり口だ。

 * * *

 東苑の花畑で、皇妃は自分の悩み事をアンナに打ち明け始めた。

「先日、帝室御用達の菓子職人から連絡があったのです。当日の納品が難しくなったって」
「納品が難しい? 確かお茶会は来週でしたよね」
「小麦の高騰で在庫が切れてしまったというのです。私そんな事全く知らなくて」

 おかしい。そんな話は聞いたことが無い。昨年の帝国のどの地域でも特に不作などはなかった。
 "獅子の王国"との戦争も、今は落ち着いており軍需物資の増産などもない。小麦の値が上がる理由がない。
 いや、そもそも帝室御用達の職人が、原価高だからと言って皇妃の注文をキャンセルするというのがありえない。
 多少の在庫薄ならなんとしてでも解決し、注文通りの菓子を作る。そして帝室には正当な金額を請求する。
 そういう事ができる職人だからこそ帝室はお墨付きを与えているのではないか。

「手に入らないのなら、お菓子が用意できないのは仕方ないですが……今から別の職人を探すのも難しく……」
「確か、グリージュス夫人がお手伝いされていたのですよね? あの方はなんと?」
「諦めてお茶会を中止するしかない、と。でも私、すでに招待状も出してまっているのです。あの方に言われて、各国の大使夫人にも……今更中止になどできません」

 諸外国の大使夫人をもてなすことに失敗すれば、外交問題にもなりかねない。
 グリージュス夫人は、きっとここまで懇切丁寧に皇妃を助けてきたのだろう。
 慣れない彼女に丁寧にアドバイスをし、雑務を引き受け、成功したときのことを想像させて喜ばせる……。
 そして後に引けないところまでいった所ではしごを外し、笑いものにするのだ。お茶会すら満足に開けない皇妃だと。

「分かりました。このアンナ・ディ・グレアン、微力ながらお手伝いさせていただきます」

 アンナは頭を下げる。

「大丈夫。小麦の高騰など大した問題ではございません。必ずや皇妃様のお茶会を成功させてご覧に入れましょう」
「本当ですか?」
「ええ。私は何があっても皇妃様のお味方です」
「あ、あ……ありがとうございます」

 皇妃は心底からの安堵の表情を浮かべた。
「わかりました。皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)のみが高騰しているようです」
「のみが?」

 グレアン伯爵邸の執務室で、アンナはマルムゼの報告を受けた。
 皇妃の相談があった翌日、マルムゼに帝都の市場に行かせた。菓子職人の言う小麦の高騰の実態を調査するためにだ。
 その結果は、ある程度予想していたものだが、同時にあきれた内容だった。

「商人の話によると、帝都だけでなく国内のあらゆる都市から皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)が姿を消したとのこと」

 皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)とは、帝国が定めた小麦等級の中でも最上級のものだ。特別に認可された農家で作られ、選びぬかれた製粉工場で精製されたもののみがこの称号を名乗ることが許される。
 当然、価格も高く平民の口には入らない。上流階級で食されるパンや菓子にのみ使われており、特に皇族が食するものは、皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)を使わなくてはならないというのが、暗黙のルールだ。
 もちろん皇妃主催のお茶会で供される菓子も、この最高級小麦を使わなくてはならない。

「帝国中の在庫を買い占めるとなると、それなりの財力と権力が必要よ。そんなことができるのは……」
「リアン大公とクロイス公爵くらいでしょうね」
「リアン殿下は、最近甘党の女性と交際していたりするかしら?」
「は? いや、確か今お付き合いされているのは酒豪で有名な某男爵未亡人だったはずです」
「なら彼は違う」
「……どう言う意味です?」
「もしお相手が甘いもの好きだったら、その方の気を引くためにケーキで作った宮殿を建てる可能性がありますから」
「な、なるほど……」

 もちろん冗談だが、あの皇弟殿下ならそういうアイデアを思いつき、小麦を買い占めるところまでならやりかねない。

「となればやっぱりクロイス公ね。皇妃を貶めて娘の発言力を高めるためなら、帝国中の小麦の買い占めくらい平気でやるでしょう」
「帝室御用達職人の所にも行きましたが、どの店も先週あたりから大口の注文が相次いで、店に備蓄している粉も無くなっているようでした」
「そういえば、侯爵の孫娘の婚約決定2年目の祝賀だの、伯爵の前妻の結婚記念日だの、珍しい祝い事が続いていたわね」

 いくらパーティー好きの大貴族たちとはいえ、そんな理由をつけてまでやることは普通ない。お茶会ひとつ潰すために、そんな無駄なパーティーまでやるのだとしたら、開いた口が塞がらない。

「連中はわかっているのかしら?」

 アンナはため息をつく。

皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)は庶民の口には入らないけど、決して無関係ではない。最上級小麦の値段が上がれば、必ず下に皺寄せがくる」

 ファリーヌ・アンペルールを使っていた料理店や職人は、下の等級を代用せざるを得ない。そうなれば今度はその等級の値が上がる。すると次はさらに下の等級の番だ。
 今はまだ表面化していないが、買い占めた最上級小麦の何倍もの量の小麦価格に影響すしていくだろう。

「そうでなくても、その日食べるパンに困る人々が帝都に溢れかえってる。そんな中、くだらない権力闘争のために食べもしない小麦を買い占めるなんて……本当に度し難い!」

 アンナはしばらく考えた後、マルムゼに命じた。

「買い占められた小麦の行方を追跡できる?」
「帝都と周辺都市の分だけなら、どうにかなるかと。ただ、来週のお茶会に間に合うかは……」
「構いません。お茶会については全て私の方でなんとかする。あなたは小麦を追ってちょうだい。可能なら現物が保管されている倉庫を。もし廃棄されていたなら、その場所を掴んで」
「承知しました」

 * * *
 
 かくして、皇妃主催のお茶会の当日となった。その日は、雲ひとつない快晴で、暖かな陽射しがヴィスタネージュの大庭園を明るく照らしていた。

「本当に良い天気になりました。皇妃様、天はあなたにお味方してますわ」
「グレアン伯、その……本当に大丈夫なのでしょうか?」
「ええ。私に任せてください」
「けど、当日に会場を変更するだなんて。それもこんなところで」
「先日、皇妃様もお気に入りになられた場所です。きっと皆様もお喜びになるでしょう」
「ですが……」

 もともとグリージュス夫人は、本殿内の談話室を会場にしていたが、アンナはそれを変更させた。
 しかも発表したのは今朝のことだ。妨害を避けるためにギリギリまで待った。ほとんどの招待客は宮殿に参内して、初めて会場が変わったことを知らされるだろう。
 新会場は東苑の花畑。先週、皇妃から相談を受けたまさにその場所だった。

 馬車の蹄の音が近づいてきた。早くも会場変更を知った一人目が訪れたようだ。西苑から運河を渡り、この花畑へ。

「皇妃陛下、一体どう言うことですか!」

 馬車の扉が開け放たれ、勢いよく黒髪の貴婦人が飛び出してきた。彼女こそが、グリージュス公爵夫人だ。

「あれほど私は申し上げたはずです。お菓子がない以上、お茶会は中止する他ないと! なのに決行するどころか、こんな所に場所を移すなんて……!」
「あの、それは……」

 その剣幕に皇妃は押され気味になったので、間に割って入るようにアンナが立つ。

「緊急のことゆえ、私の一存で決めさせていただきました」
「どなたかしら……?」
「初めまして。グレアン伯爵アンナと申します」
「グレアン? あなたが……! そう言えば伺ったことがあります。陛下に取り入ってお散歩相手に選ばれたとか?」
「はい、おかげさまでこのように素晴らしい会場を見つけることができました」
「よくもいけしゃあしゃあと……」

 グリージュス夫人はアンナを睨みつける。その刺すような視線に少しも怯まず、アンナは尋ねた。

「ところで夫人、その格好はなんです?」
「は?」
「本殿で聞きませんでしたか? 本日のドレスコードを」
「ドレスコードですって?」

 グリージュス夫人の格好は、ウエストをコルセットでしっかりとしぼったドレス。その色合いは淡いものを選び、胸元はフリルで飾って露出を抑えている。宮廷内での昼の装いとしては非の打ち所がないものだった。
 それに対してアンナとマリアン=ルーヌ皇妃は、ゆったりとしたシルエットの部屋着に近いドレスを着ている。

「今回はコルセットをお外しになるよう、全参加者に伝えています。もし持ち合わせがなければ、皇妃様の古着をお貸ししています。どうぞ、一度お戻りになってお召し替えください」
「冗談ではありません! 宮廷でそのような腑抜けた格好など。私はこれで結構です」
「そうですか」

 アンナは内心でほくそ笑む。グリージュス夫人はお茶会の決行そのものを問題にしていたのだが、アンナの誘導で、服装の話に議論がすり替わったのだ。
 なし崩し的に、お茶会は開かれることに反対する者はいなくなり、彼女も同席することとなった。