【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「だいぶ煙が出てきたな」

 ウィダスが言う。

「俺は魔法で肉体を強化できるが、あいにくホムンクルスではないのでね。そろそろ限界のようだ」

 マルムゼは満身創痍だった。利き腕を封じられてから、一方的に斬られ、殴られ、蹴られ……反撃どころか身体を動かすこともままならぬほど痛めつけられていたのだ。

「もう少しお前をいたぶり続けたかったが仕方ない。下にいるフィルヴィーユ夫人も始末しなければならないのでね」
「エ……リー……ナ」

 マルムゼは最愛の人のかつての名を口にする。

「最後だから言うが、俺はお前が大嫌いだったよ。お前が友情を口にするたびに反吐が出る思いだった」

 ウィダスの語調には、極めて純度の高い憎悪が含まれていた。

「呪わしい簒奪者の子孫のくせに、民を本気で案じるようなそぶりを見せやがって、何様だお前? 女が出来れば、多少は骨抜きになるかと思えば……2人で国政改革なんぞ始めやがった」

 ウィダスは、その高純度の憎しみをつま先に込めて、マルムゼの腹を蹴り上げた。

「ごはぁっ!」

 赤黒い血がマルムゼの口から溢れる。

「そんなもんは我が血族の知性が続いていればそもそも必要なかったのだ!貴様ら簒奪者と、それに加担した貴族どもがこの国を駄目にしたんだ!!」

 そして憎悪の男は、血まみれになったサーベルをマルムゼの首元に突きつけた。

「これは5年前のやり直し……だから同じセリフで締めくくってやるよ」

 切先を掲げ大きく振りかぶる。

「陛下、おさらば」

 ウィダスはマルムゼの首を目掛け勢いよくサーベルを振り下ろす。

「マルムゼ!!」

 サーベルがマルムゼの頭を断ち割ろうとするその寸前だった。
 声。
 そして不定形の何かがウィダスの身体を弾き飛ばした。

「ぐうっ!?」

 ウィダスは奥の壁に叩きつけられ、サーベルを取り落とす。

 なんだ今のは?
 直前まで死を覚悟していたマルムゼは顔を持ち上げた。
 ウィダスの身体が吹き飛ぶと同時に、マルムゼの顔にも何か冷たいものがかかっていた。炎と煙にさらされ続けた皮膚は、その何かを心地よく感じる。
 これは……水?

「シュルイーズ博士、あなたの作ったコレ相当の威力ではないか!」

 女性の声。マルムゼと同じ顔を持つ、"鷲の帝国"のホムンクルス、ゼーゲンだ。

「でしょう! 魔力を直接使用した試作放水銃! 水勢の調節ができず、家屋を吹き飛ばしてしまうため、消化用には使い物になりませんが…宮殿で爆発という報告を聞いて、持ってきた甲斐がありました!」

 ゼーゲンと一緒にいるのは錬金術師のシュルイーズ博士。どうしてこの2人がここに?

「マルムゼ! 大丈夫!?」

 その2人の陰から誰かが飛び出し、走り寄ってきた。

「なっ」
「お気をつけください、顧問殿!」

 いや、誰かなんて考えるまでもない。この声は……。

「エリーナ……」

 出てきたのは彼女の昔の名前だった。
 ちがう、今の彼女の名前はそうではない。
 わかっているはずなのに、過去の自分が、口を動かした。

「……はい。エリーナはここにおります、陛下!」

 そして彼女もまた、黒髪の腹心とは異なる呼称で彼を呼んだ。

「わた……しは……ゴフッ」

 喉を動かした拍子に、口からまた血が溢れだす。肺をやられているのかもしれない。

「喋らないで! どうか喋らないでください」

 アンナは言う。

「ちょうどいい。探す手間が省けたというもの」

 放水銃に弾き飛ばされたウィダスが、ゆっくりと起き上がった。
 墓穴から這い出す幽鬼のようだと、マルムゼは思った。

「はは……嘘だろ。この放水銃、試験では木造家屋を吹き飛ばしたんだぞ……。生身の人間がこの距離で食らえば、普通起き上がれないだろ……」

 シュルイーズが驚愕の視線を向ける。

「簡単だ博士、この男が普通ではないという事です」

 ゼーゲンは、担いでいたタンクと放水銃を下ろし、左手で持ち続けていた槍を構えた。

「ふ、その距離から俺に届くか?」
「……」

 ゼーゲンやシュルイーズは、ウィダスから10歩ほどの距離にいる。そして、アンナとマルムゼは……4歩といったところか。

「考えなしに飛び込んでくるなどと、らしくないミスをしたな顧問……いや、フィルヴィーユ夫人」

 ウィダスはサーベルを拾い上げる。

「いずれにせよ焼きが回った。男のために自ら命を捨てにくるなど、お前らしくない愚行だ」
「仕方ありません。この人は約束してくれたのですから」
「なに?」
「もう片時も、側を離れないと。窮地の私を救ってくれた時、私を抱きしめてそう言ったのです」

 マルムゼは、あの偽帝にアンナが襲われた時のことを思い返した。
 今ならはっきりわかる、あの時の想い。それは、マルムゼとしての第二の人生のみで培われたものではなかった。
 それよりもずっと前から、自分はこの女性を愛していた。そして、彼女より先に逝ってしまったことをずっと後悔してたのだ。

「だから、私も同じことをしたまで。私たちは絶対に離れることはない!」
「それがなんだ!? 一緒にいればそれだけで望みは叶うとでも? ならばその想いの力で、この刃を止めて見せよ!」
「言われずとも!」

 アンナは倒れたままのマルムゼの前で両腕を広げた。その意味をマルムゼは理解する。
 アンナが全身全霊で刃を受け止め、ウィダスの動きを封じるつもりだ。そして、その刹那にゼーゲンが槍を繰り出せば、形勢は変わる。
 マルムゼは生き残る可能性も出てくる。
 マルムゼは、だ……。

「させるか!」

 考えるよりも先に身体が動いた。
 全ての力を奪われ、腕どころか指すら満足に動かせなかったはずのマルムゼの肉体が、限界を超越する。
 愛する者を守る、それだけのために。

「何!?」

 虚を突かれたのはウィダスだった。彼は一太刀で、アンナの身体を両断し、そのままゼーゲンを迎撃するつもりだった。
 そのため、アンナの後ろで立ち上がるマルムゼへの対応が、一瞬だけ遅れた。

「道連れだ」

 マルムゼはその長身をウィダスにぶつける。そのまま血まみれの両腕を彼の肩に回し、抱きつくようにしてのしかかった。

「なっやめっ!?」

 マルムゼとウィダスはもつれるようにして、吹き抜け回廊の手すりにぶつかり、それをへし折った。

「うおおおおおおお!!」

 そして、2人の身体はそのまま、炎の燃え盛る1階へと落下していった。
 午後 3:20 ボールロワ元帥率いる2万3000の軍勢により、ヴィスタネージュ大宮殿の本殿、西苑、南苑、および各省庁の制圧が完了。一部でクロイス家の私兵による抵抗があったが、全て鎮圧された。
 その報告を聞いた女帝マリアン=ルーヌは、征竜騎士団ダ・フォーリス隊に護衛されながら、本殿へと移動した。

「陛下、事前の準備が不十分であったため、ここまで事態が混乱したことをお許しください」

 グラン・テラスに現れた女帝の前で、元帥はひざまずいた。

「よい。クロイスの暴走は、あなた方にも予想外のことだったはずです。これほどの騒ぎとなり、宮殿内の複数箇所で火災が発生した以上、責を問わぬ訳にはいきませんが、最小限に処分に収めることをお約束します」
「ご温情、まことにありがたく存じます……」
「ところで……ダ・フォーリス大尉はまだ見つからないのかしら?」
「は? 大尉は、陛下とご一緒であると聞いていますが?」
「グリージュス夫人を探すために村里を出て行ったきり、戻りません。近衛隊全部隊の東苑と北苑への立ち入りを許可します。なんとしても探してください」
「ははっ!」

 女帝はそれだけ言うと、同行していた貴族たちとともに白百合の間へと向かった。

「はて……」

 ボールロワ元帥は眉をひそめる。その中にいるはずと思っていた顧問の姿が見えない。しかし、そのことに女帝はなんの言及もしなかった。

 * * *
 午後 3:55 東苑・親愛帝アルディス1世の別宅(パビリオン)の火災はようやく鎮火した。
 シュルイーズ博士が持ち込んだ、新式放水銃は超高圧で水塊をぶつけて炎を消すものだが、1発撃つごとに水を補充する必要がある。すべての火を消し止めるために、ゼーゲンは裏手の小川と邸内を10回ほど往復する必要があった。

 彼女が日を消し止める間、アンナは横たわるマルムぜの前でうずくまっていた。燃え盛る邸内からアンナとシュルイーズを連れ出したあと、ゼーゲンがまず最初にやったのはマルムゼの救出だ。
 彼は1階の大理石の床の上で突っ伏していた。熱によってヒビが入り崩壊していた彫刻群のすぐ横だったそうだ。
 アンナとマルムゼからやや距離をおいて場所には2つの骸が横たえられている。ウィダスとグリージュズ公爵。マルムゼとともに落下したウィダスは彫刻群の瓦礫の上に全身を強く打ち付けて、その時点で事切れていたという。そしてグリージュス公クラーラはそのウィダスによって殺されていた。

「すべての火を消し終わりました。建物自体は修復すれば元に戻せるでしょうが、美術品は全滅です」

 放水銃を抱えたゼーゲンが戻ってきた。

「ゼーゲン殿……マルムゼはまだ生きているのよね?」
「はい。私の"領域明察"の異能は、私を中心とした一定範囲内の人間や異能の存在を察知することができます。この能力がまだ、マルムゼ殿のホムンクルスの気配を察知しています」
「なら……どうして彼は目覚めないの!? 呼吸も、心臓も止まっている……どうしてそれで生きていると言えるの!?」
「それは……」
 
 ゼーゲンは言葉に詰まる。その顔を見てアンナは自己県をに陥る。

(私はとことん駄目だ。自分の不甲斐なさを棚に上げて、人に当たり散らすなんて……)

 こんな姿をもしマルムゼが……いや、アルディスが見たらさぞ幻滅するだろう。

「それはもしかしたら、身体が強化されたホムンクルスならではの現象かもしれません」

 シュルイーズが金色に輝く金属塊をいくつも抱えながらやってきた。

「シュルイーズ博士……?」
「いやあ、案の定でした。この金属塊には自然界に存在するより遥かに強い魔力が込められていました。これが人間の五感に作用し、外部からこの別邸に近づけないようになっていました。ゼーゲン殿の異能がなければ、我々もここに来られたかどうか……」
「博士、今おっしゃったのはどういう事ですか?」
「え? ああ、この金属塊の仕組みで……」
「そうでなく! ホムンクルスの現象というのは!?」

 シュルイーズがズレた回答をするのを遮るように、アンナは問い直した。

「ああ、そっちですか。あくまで私の仮説ですが、回復能力の強化が、マルムゼ殿を仮死状態にしているのかと」
「どういう事です?」
「ゼーゲン殿、以前あなたが任務で負傷されたとき、その治癒の様子をバルフナー博士が観察したことがありましたね?」

 シュルイーズはアンナの問いに答えずに、ゼーゲンに向き直って尋ねた。

「ありましたね。腕に深い裂傷を負いました」
「あの時のバルフナー博士のレポートを読んだのですが、回復が始まる寸前、あなたの右腕は血流が止まり生命活動の形跡が全く見られなかったそうですね」
「ええ。博士はまるで死体の腕のようだと言っておいででした」
「もしかしたら、ホムンクルスの細胞は回復する前に一度死ぬのかもしれません」
「じゃあ……マルムゼもこのあと回復が始まってもとに戻ると……?」

 希望を感じる解釈に、自然とアンナの口元が緩む。が、シュルイーズは無情に首を横に振った。

「今申し上げた通り、これはあくまで私の仮説です。それにマルムぜ殿は、全身を痛めつけられていた。もしこの後、本当にが始まるにせよ、肉体すべてが仮死状態になっている状態では、魂にどのような影響があるかもわかりません。肉体と魂は不可分。もし肉体の回復が始まっても、その前に魂がもたなければマルムゼ殿は生ける屍となってしまうでしょう……」
「そんな……」

 アンナの顔が再び絶望に染まる。

「ですが、希望がひとつだけあります」
「え……?」
「エリクサーです」
「エリ……!」

 それは、エリーナが死の間際に飲まされた、サン・ジェルマン伯爵が作り出した液体だ。体内に入ったそれはエリーナの魂を肉体から絡め取り、分離させることに成功した。そして、彼女の魂はアンナのホムンクルスの肉体へと移植されたのである。

「エリクサーでマルムぜ殿の魂を一時的に抜き出すことができれば、肉体の死が及ぼす影響を防ぐことができます」

 なるほど。ホムンクルスが作られる過程を考えれば、確かにその可能性はある、けど……。

「肝心のエリクサーの製法を知っているのはサン・ジェルマン伯だけです。我々に作り出すことは……」
「だから探し出すのです、エリクサーのレシピか、あるいはサン・ジェルマン伯爵本人を!!」
「博士……」

 どこまでも自己本位で、常に飄々としていた若き錬金術師の瞳が、熱気をはらんだ輝きを伴って、アンナを見つめていた。これほど真っ直ぐで強い眼差しを、この男から向けられるのは初めてだった。

「不肖シュルイーズ。バルフナー博士とともに……いえ、錬金工房の総力をあげて、マルムゼ殿をお救いします! 顧問殿はどうか、ご自分のなさるべき戦いにご専念くださいませ」
「私の……戦い……」
 午後8:30 この時刻になってようやくアンナは、女帝からの呼び出しを受けた。事の顛末を報告するためである。

「ご無事で何よりです、陛下」

 謁見の間には、女帝とアンナの2人しかいなかった。

「アンナ、これはあなたの望んだ結果ですか?」

 言葉に詰まる。長い一日が終わり、クロイス派はついに壊滅した。今回の政変の主目的をアンナは叶えたことになる。
 クロイス公爵本人も死亡したという報告が入ってきている。ウィダスも死に、他の大貴族たちも屈服した今、ついにアンナ個人の復讐も完遂したと言えるだろう。

 しかし……失ったものも多い。南苑の崩壊は深刻で、クロイス家の邸宅だけでなく隣接する4棟の居館が全焼。飛び火などの被害を被った貴族は30家を越えるようだ。
 さらに、運河の橋などの各種施設の破壊、アルディス親愛帝のコレクションの焼失など、宮廷が受けた物的な被害は少なくない。
 しかしそれよりも重たいのは人的被害だ。南苑では100人を超す死傷者が出ており、今も行方不明者の捜索は続いている。
 グリージュス公クラーラも死んだ。アンナや女帝に潜在的な敵意を持っていたとはいえ、宮廷運営に欠かせない存在であった。
 そして、アンナの最愛の人マルムゼと、女帝が愛を誓ったばかりの相手ダ・フォーリスも……。

「どうしたの? これがあなたの望んだ結果かと、聞いてるのです」

 何も答えないアンナに、女帝は今一度尋ねた。

「……完璧にとは言えませぬが、帝国の今後を考えますれば、目標は達成したと言えるでしょう」

 アンナの立場ではそう言うしかなかった。

「アンナ、私は昨年の政変の際、あなたとクロイスが手を取りあうことを望みました」
「……はい」
「もちろんクロイスのやってきた事が正しいとは言えません。ですが、無用な混乱と流血を起こさぬためには、彼らの主張をある程度認めざるを得ない、そう判断したのです」
「それは、間違っていなかったと思います」
「なのにあなたは今日、自ら混乱を引き起こし、血を流した」
「……」

 弁解の余地は無い。
 アンナからすれば必要な事だった。未曾有の天災の影響は今後数年続くだろう。その地獄から民を救うためには、何がなんでもクロイス派を排除する必要があった。それも速やかに。手をこまねいていれば、リアン大公が政局に介入してくる可能性も出てきたのだ。
 しかし今なお南苑では、夕闇の中で兵士たちが救助活動に勤しんでいる。それを思えば、必要な犠牲だったとうそぶく事は、アンナにはできない。

「……」
「ボールロワ元帥には減俸を言い渡しました。あなたも相応の処分を覚悟なさい」
「仰せのままに……陛下」

 アンナは玉座に座る女帝に跪き、頭を下げた。その姿に向かって女帝は続ける。

「まさか辞めようなんて思ってないわよね? 」
「それは……」
「辞職だけはさせません。あなたへの処分は減俸と領地の一部返上。引き続き、私の顧問として働いていただきます」

 女帝の声が振るえだす。

「アンナ……私が知る限り、あなたは今この世で最も有能な政治家よ。そのあなたが望んだのなら、今日の事は必要だったのでしょう……」

 そこまで言った後、女帝は溜めていたものをぶちまける様に、大声をだした。

「だったら何故、いつもみたいに完璧にこなさなかったの!? こんな結果、あなたらしくない! あなたなら……アンナ・ディ・グレアンなら大きな犠牲も出さず、望む結果だけを得られたはずよ!?」
「申し訳……ございません」

 これまでが運が良かったのだ。アンナはそう思った。クロイスが爆薬を隠す可能性なんて、いくらでも想像する余地があったはずだ。ウィダスが影で繋がっていたのも、戦争大臣時代の癒着を考えれば難しくない。
 そこまで思考が至らなかったのは、アンナの限界なのかもしれない。
 
「だめね……」

 涙声で女帝は続ける。

「あなたを呼ぶのにこんなに時間がかかったのも、冷静さを取り戻すためだったのに……ごめんなさい」
「いえ……。ダ・フォーリス大尉のことは申し訳なく思っております」

 大尉は東苑の何処かで行方知れずになっている。恐らくは何処かでクロイスやウィダスの一党に襲われたのだろう。

「彼とグリージュスを失ったことで、百合の間はあなたの敵となったわ。引き続き政務はあなたに任せるつもりだけど……私には彼女たちからあなたをかばうことは難しいの。それに……いえ、何でもない」

 女にはその言葉の続きが想像できた。女帝自身、アンナをいつまで恨めずにいるか自信がないのだろう。それほどまでに、あの仮面の軍人が大きな存在になっていたのだ。
 アンナはマリアン=ルーヌが即位してからのこの1年を思い返す。この人と共にする時間は、それまでと比べ激減していた。お互いに多忙であったとは言えただ1人の親友とまで言ってくれたこの人を孤独にしてしまった。
 かの仮面の軍人は、アンナが抜けた隙間を埋める存在だったのだろう。

「……あなたもマルムゼを失くしたのよね。しばらく暇を与えます。ゆっくり休みなさい」
「いえ、陛下。今休めば変を起こした意味がなくなります。明日より新体制を発足させ、1人でも多くの民を救うために励むつもりです」
「……そう」

 マルムゼのことはシュルイーズたちに任せるしかない。アンナにはアンナしかできない戦いをするのだ。復讐は完遂した。が、相変わらずこのヴィスタネージュはアンナの戦場であり続けるだろう。

「ならばもう下がりなさい。明日のためにも休むのです」
「……かしこまりました」

 アンナは女帝に一礼すると、謁見の間を辞した。
 無人の大廊下に次の灯りが差し込む。絨毯には、クロイス公の狼藉の犠牲となった貴族の血痕が残っていた。また壁には、クロイスの私兵集団が開けた穴が空いており、隠し通路の暗闇がその奥に見える。
 彼らは本殿の裏手からこの通路を使って侵入し、そしてクロイス公を脱出させたのだろう。
 この通路は、マルムゼもアンナの謀略のために使用した事が幾度かあった。
 そしてアルディスもまた、この通路を使いエリーナと共にお忍びで宮廷から抜け出した事があった。

「マルムゼ……いえ、アルディス」

 真っ暗な穴の前でアンナはつぶやく。

「必ずまた会いましょう。私はそれまで、あなたに恥じる事がないよう走り続けます……!」

 錬金工房に運び込まれ、生命維持の措置を施されている最愛の人に対して、心の中で約束した。

 * * *
「ぶあっ!!」

 暗闇の中で男は目を覚ました。

「おはようございます、兄上」

 女の声がした。頭上では風に揺られた枝がガサガサと音を立てている。冷感を伴う夜の空気。おはようという言葉が似つかわしくない時刻のようだ。

「俺はどれくらい寝ていた?」
「10時間ほどでしょうか。すでに日付は変わっております」
「その時間で済んだということは、これは俺の身体だな」
「はい。万一のためにエリクサーを用意してましたが、魂をホムンクルスに移す必要はなかったです」
「そのホムンクルスの身体は?」
「兄上と同じ服を着せて黄金帝の別邸に。彼らはあれをウィダス子爵の遺体として回収したようです」
「そうか、よくやった」

 万一の際に自身の体のスペアとするよう、この宮殿の数カ所に、魂を入れていないホムンクルスの肉体を隠している。それらは全て、魔法を用いてウィダス子爵の姿に偽装していた。今回はそれが役立った。

「この肉体は持ち堪えてくれたか。ありがたい」

 女の手から淡い光が発せられ、それが男の胸部を照らし出している。
 あの高さから瓦礫の上に落下した、その時の打撲や骨折と、炎にさらされ続けたことによる火傷は、彼女の治癒の異能でほぼ完治していた。

「複数の魔法を使えるという兄上の優位性は保たれたままです。ホムンクルスが使える異能はひとつだけ。魂を移し替えれば、計画を変更せざるを得なかったでしょう」

 "認識変換"、"認識迷彩"、"感覚共有"、"領域明察"……。これらホムンクルスたちが持つ異能はこの男、リュディス7世が使う魔法をベースとしている。
 男は"認識変換"を使い、自らを顔に傷を持つ男ダ・フォーリス大尉に、妹を零落した名家の女ポルトレイエ夫人に仕立てあげた。
 そして"感覚共有"を気づかれない程度に用いながら、少しずつ女帝やグリージュス公爵の心に入り込み、彼女たちを籠絡する事に成功した。
 今日の政変では、"認識迷彩"を利用して軍を離脱。前もって仕込んでおいたクロイス私兵による狂言襲撃を鎮圧し、さらには"領域明察"で撃ち漏らしたグリージュス公の口封じに成功した。

 そこまでは完璧に事が進んでいたが、調子に乗りすぎた。目の上のこぶである顧問アンナとマルムゼも始末しようとしたが、一瞬の隙をつかれて奴らを討ち漏らしてしまったのだ。

「まさかあの2人が、あいつらだったなんてな……くくくっ……」

 この国の正統な後継者を名乗る男は笑う。
 簒奪者の子孫とその寵姫。4年前に確かに始末したはずだった。なのに奴らは生きていた。なぜか?

「やはり、サン・ジェルマンは俺たちを欺いている」

 我が正統な帝室に尽くしてくれた錬金術師。だが、30年ほど前から我々の意に反する行動が目立ち始めた。特にあの2人を生かしたことは大罪だ。
 もっとも、それも無理からぬことなのかもしれない。なにしろエリーナ・ディ・フィルヴィーユはあの男の……。

「兄上。確かに計画に支障は生じましたが、それ故に楽しみもできました」
「ほう?」
「あの女。顧問アンナは私と同じなのでしょう? プロトホムンクルス同士の殺し合い。これほど血が騒ぐ事がありましょうか」

 顧問アンナと同じ顔をした妹。認識変換を用いて、その素顔は隠しているが、被術者以外のものが見れば、双子のように見えるだろう。

「意外だな。お前が、そんな好戦的なことを言うとは」
「これまでの戦いは、兄上に多くを任せすぎたと反省しているのです。一筋縄ではいかなかぬ相手。ともに立ち向かう必要があるのではありませんか?」
「ああ、かもしれないな」
「今の私たちならばやれます。本気であの女と殺し合い、そして必ず勝利しましょう」

 暗闇に目が慣れてきた。揺れる枝と、星空の境界が明確になる。木の葉の影からのぞくわずかな隙間は、蓋を半開きにした宝石箱を思わせた。その宝の山の中に、ひときわ明るい星が輝く。

 それは、"百合の帝国"の帝室では、戦いに勝利する者の天上に輝くとされる、瑞兆の星だった。
 歴代皇帝の中には、この星が輝く夜に出陣し、勝利を収めた者が何人かいる。

 不測の事態はあれど、我々の未来は変わらない。真の帝の血を引く我々は必ず勝利するだろう。

 男はそう確信していた。

第III部 復讐完遂編 -完-
「クロイス事変の勝者は誰か?」

 この時期、貴族たちのサロンから、下町の酒場まで、身分の上下関係なく白熱した話題であろう。

「敗者はクロイス公爵家。これは間違いない」

 この話題に興じる人々で、ここに疑問を持つ者はいない。

 皇宮で前代未聞の騒乱を引き起こしたあげく、当主は娘であるルコット前寵姫によって処断されることとなった。公爵家は、嫡男であるレナルドが継ぐこととなったが、良くも悪くも政治的手腕に優れていた父とは違い凡庸な人物で、貴族の盟主という立場は完全に崩れ去ったと言っていい。

「新当主は、領地の3分の1を帝室に返上することになったそうだ」
「それだけじゃない。公爵家が運営していた事業の多くで、経営権を譲渡するそうです」
「実はホテル・プラスターも競売に出されていましてね。実は今日の相談とは、この件なんです」

 そんな会話が今、帝都やヴィスターネージュ近郊の貴族の邸宅で交わされている。

 * * *
 では、この騒乱のきっかけとなった顧問アンナが勝者なのか?

「いや、そうではあるまい」

 そんな声が聞こえるのは、国務省の下級官吏たちが集まるレストランだ。爵位を持たない準貴族や、平民出身者の多い彼らは、心情的には顧問びいきなのだが、この件に関する評価はやや辛辣だ。

「確かに顧問殿は、旧体制の打破に成功した。我らも多少は仕事をやりやすくなるだろう」
「出世の可能性もあるぞ。大貴族が占有していたポストがこれからどんどん空くだろうしな!」
「ああ。だが、今回のことで顧問殿ご自身が利を得たかというと……」
「そうではないか。陛下のご不興を買い、不仲というお噂もある」
「陛下は、クロイス公から召し上げた領地を近臣に分配したというが、顧問殿への配分はなかったそうだ」
「では、勝者となると、やはりあの方々……」

 * * *
 さらに別の場所。某男爵の邸宅では。

「やったぞ! ベルラーイ伯爵夫人が、わが娘を茶会に招きたいと言ってくれた!」
「あなた、本当ですの!? ベルラーイ夫人といえば、今をときめく真珠の間の常連ではないですか!」
「ああ。茶会でお気に召していただければ、真珠の間に入ることも叶うかもしれぬ。そうなれば、娘は陛下のご友人ということに……!」
「さっそく、明日から礼儀作法の家庭教師を増やしましょう! 粗相があれば大変ですから!」
「ああ、これで我が家も新時代の勝ち組になるぞ!」

 * * *
 帝都から遠く。旧クロイス公爵領・ベールーズ。
 先日、帝室に献上されたばかりのこの荘園である。この地を治める城館に、帝都から1人の使者が訪れていた。

「なんと。ではこの城と荘園はダ・フォーリス大尉に与えられると?」

 ベールーズ代官であるヴリソンは、使者の言葉に目を丸くした。

「ですが、ダ・フォーリス大尉は死亡されたのでは? 少なくともここに入ってきた情報では、そのように……」
「それは事変を伝える第一報でありましょう。大尉は命からがら窮地を脱し、3日後に陛下に拝謁されました。そして、此度の事変の最大の功労者として、この地をはじめ6箇所の荘園を賜ることになったのです!」
「6箇所!? その規模の荘園を持つのは伯爵クラスの大貴族では……」
「いかにも。最大面積のこの地の名を取り、ベールーズ伯爵の称号も内定しております」
「ここの伯爵位を?」

 ヴリソンは戸惑う。

「しかし、大尉は外国人のはず。いくら功労者といえ、それほどの褒賞が与えられるとは……」
「……ここだけの話ですぞ」

 使者は少し声をひそめた。

「おそらくダ・フォーリス大尉はさらに出世されると思います」
「と、いいますと?」
「ヴィスタネージュではもはや公然の秘密となっているのですが、彼は陛下の恋人となられました」
「恋人!?」
「今後、あのお方が功績を上げられればさらなる褒賞が。そればかりか、陛下の配偶者となられる可能性すらある」
「つまり……大尉がこの帝国の共同統治者ということに?」
「あくまで、可能性の話です。しかし、もしそうなればお世継ぎが生まれれば、国父となられる可能性やもしれません」
「……」

 ヴリソン代官は沈黙した。女帝も、ダ・フォーリス大尉も外国人である。その間に子が生まれれば、貴族たちは黙っていない。
 ヴリソンの頭の中に天秤が現れる。一方の皿には女帝とダ・フォーリス大尉の名が、そしてもう一方には旧主であるクロイス公爵家の名が載せられた。次期皇帝を約束されているドリーヴ太公は、クロイス公爵家のお方だ。今回の大尉の入封を機に、代官職を辞してクロイス家に戻ると言う選択もある。
 しかし、今やクロイス家に来るべき混乱を制するだけの力があるとも思えない……。

「……実は我が家は男爵位を持っていましてな。代々、このベーリーズを治めてきました。クロイス家が入る前より、この城館から見える麦畑と大小4つの村を守り続けてきたのです」

 ヴリソンは口を開く。そう、ベーリース代官家はもともとベーリーズ男爵という爵位もちの貴族だったのだ。6代前の先祖が、政争に敗れクロイス家の麾下に入ってから、表立って男爵を名乗ることを控えてきた。
 よくある没落貴族の姿。領地に代官として残ることができた分、まだマシと言ったところか。

「存じております。故に、爵位をダ・フォーリス大尉へ譲渡いただく必要がある。私が来た目的は、実はそこなのです」
「でしょうな」

 クロイス家に臣従しつつも誇りを失わなかったのは、この爵位があったからこそだ。爵位をたかが外国人軍人に手渡すなど、家門の誇りを捨てるようなものなのだ。交渉は難航する。使者はそう思っているだろう。

「……相応の費用はいただきます」
「なんと。それでは……?」
「先ほども申し上げたとおり、我が家にはこの荘園を守る責務があります。爵位ではそれをなすことができないことは、クロイス家麾下として過ごしてきたこの百数十年でよく知っておりますので」

 そう言ってベーリーズ代官ヴリソンは頭を下げた。今年の大凶作は数年に渡り影響を与えることはほぼ確実だ。となれば中央の混乱は、このベーリーズにとっても忌むべきものになる。ならばせめて勝ち馬に乗らなくては。

「我が家は、此度の事変の勝者であるダ・フォーリス大尉に全てを賭けることとします」

 * * *