「逃げないんだ」
 椅子に座り続ける結城と姫野に、足を止めて有栖は言った。距離としては、あと数メートル。数歩進めば、結城に手が届く。
「逃げても追いつかれるし」
「そうね」
 有栖が一歩近づく。
「それに恋人を見捨てられない」
「そりゃ、素敵な考えだ」
 また一歩、更に一歩。
「俺も潮時だ。無茶苦茶しすぎた罰だな」
「解ってるじゃん」
 一歩、そして、一歩――近づいたときだった。
 結城はズボンの腰に差し込んでいたスタンガンを引き抜き、スイッチを入れた。

 戦うなんて論外――鮫島を圧倒した相手に自分が勝てるわけがない。

 相手もそう考えているはず。だから、虚を突ける、と結城は考えた。スタンガンは先端に青白い光を放ちながら、有栖へと――届かない。
 結城のスタンガンは有栖の革靴のかかとで防がれた。
「な、何で……」
「身代わりまで用意して逃げてきた奴が、ここにきて潔くなる――信じるわけないでしょ」
 そう言って、有栖は器用に防御に使った足を動かし、そのまま結城の手首を地面と挟むように踏みつけた。
「ぐぁ!」
 体重をかけたことにより、結城は膝を着き、思わずスタンガンから手を離す。そして、その痛みから逃れようと手を引くが有栖は離さない。
「ま、待てよ。解った、解った。俺が悪かった。た、助けてくれ」
「…………」
 命乞いをする結城を有栖は冷めた目で静観していた。
「助けてくれたら、ほら、俺の親父は政治家で偉いんだ。重役だし、ほら、何でも欲しいものをくれてやる。金でも、何でもだ」
 それを聞いて、有栖は踏んでいた足をどけて結城を解放する。安堵した表情を見せた結城は、その表情にうすら笑いを貼り付けた。
「そうだ、賢い選択だ。ここで俺を捕まえても何も得られない。任せろ。俺が親父に頼んで、何でも用意して――」
「一つ……」
 結城の言葉を有栖が遮る。
「へ?」
「一つ、教えとく」
「は、は?」
「いざってときに、頼れるものが自分の力で得たものじゃないなら、馬鹿みたいに大きな声で喋るな――人間が小さく見える」
 そう言い終えると、有栖は右拳を結城の顔面に向けて振り抜いた。
 二転、三転、と結城は転がり、地面に伏せたまま起き上がらない。
「残念ね、話の通じない相手で」
 もう聞こえないことが解っていながら、有栖はそう呟いた。