登場するキャラとその設定は画像を参照願います。

その日、彼は――いや、その日も彼は一歩を踏み出せなかった。ここ数日間、おなじことを繰り返している。時間に余裕がないことも解っているけど、繰り返すしかなかった。
何度も、何度も、その角を曲がったら自首をしようと思っていた。その気持ちに嘘はない。だけど、近づくにつれて覚悟が揺れる。大好きな人達の顔が浮かぶ。そして、足が止まる。
彼はまたその日も振り返り、逃げるように来た道を戻る。
「あっ――」
そんな彼の目の前を一匹の黒猫が横切った。
「何を書いて欲しいの、これ」
ノートパソコンに表示された始末書を前に、有栖 陽菜(ありす ひな)はそう言って舌打ちを一回した。彼女にそう言わせたのは始末書の一つの項目である『発生した要因について』だった。約三十分ほど、ここに記載する内容を書くために画面とにらめっこしていた。
「有栖……なんや、ぶっさいくな顔してんなぁ」
有栖は横から近づいて来る声に反応した。同じ課の先輩である一色 誠(いっしき まこと)が笑いながらそこに立っている。
黒の短髪に無精ひげを生やした冴えない四十代前半の中年男性で特徴を挙げるとすれば右目の泣きぼくろ、といった容貌の彼だが親しみやすく人当たりの良い性格から上司からはイチ、後輩からはイチさんと呼ばれている。
「イチさん……暇なんですか?」
「暇ちゃうわ、昼休憩や」
もうそんな時間か、と思って有栖はパソコンに表示される時間を見た。十二時半、と表示され確かに昼時だ。彼女の働くオフィスは人の出入りが激しいし、書類関係を作成する以外はここにいることがないので、広々としている室内でデスクに座っている人は疎らだ。同じ課の人間に関しては全員出払っていた。
「有栖は昼飯行かんのか?」
「行きつけのとこがもう少ししたら空くんで、自分はそれから行きます」
「そっか。んで、何を悩んでるんや?」
「この項目です」
「あー、なるほどな」
「話しても無駄だったので、と書いても良いですか?」
「けったいな報告書作んな、差し戻されるだけやぞ。まったく、けったいなんは服装だけにしとけ」
一色はそう言って、有栖を見て笑う。その一方で彼女は不機嫌そうに彼を睨んだ。
「悪い、悪い。怒るな、怒るな」
一色はそう言って軽い口調で有栖に謝った。だが、彼の言ったことはあながち間違いではない。
有栖の容姿は強気な性格が表れたような顔だが、間違いなく美人の部類に入る。だけど、そう思わせないようなくせ毛と剛毛の髪を後方で乱雑に結び、化粧も薄すぎるぐらいに薄い。もっとそこらへんを頑張れば化けるのに、と同僚から失礼なことを言われるぐらいに素材が良い。ちなみに二十四歳と若い。
だが、今回、一色に指摘されたのは彼女の特徴でもあるその服装だ。彼女はシャツにネクタイ、スラックス。上に羽織るのは『この組織の』制服のジャケット、と男性のような服装だった。働くときには必ず。
「ほら、アドバイスしたるから機嫌なおせって」
「いいです。さっき言ったこと書きますから」
「差し戻されるし、説教されるで」
「イチさんにそう書けって言われましたって言います」
「勘弁してくれや。なんでもかんでも素直に書けばいいもんやないで」
「素直に書かなくていい資料って意味ないでしょ」
「こういうのは嘘でも相手が望む答え書いとけって社会の常識や。どうせ、欲しいのは形式上の反省した態度やし」
「嫌な常識ですね」
「せやね。でも、それだけでそれを作成する無駄な時間から解放されると思えば割に合うやろ」
「……はい」
「そうそう、納得せんで良いから俺の言うとおりに書いとけ。いくで――」
有栖は自分の感情には蓋をして、一色の言った言葉をタイピングして白いフォーマットを黒く埋め尽くすことに集中した。
「――ありがとうございました」
「おう、不服そうでなによりや」
一色は有栖の表情を見て、笑いながらそう言った。彼女は納得しないで完成したドキュメントを上書き保存し、閉じる。
「それを提出したら晴れて謹慎のスタートや。まぁ、自宅で謹慎とかやなくて現場に出られんだけやけど。見回りとか事務仕事とか頑張りや」
「罰ゲームをして更に罰ゲームって感じですね」
「自己責任やろ」
「自分は間違ったことはしてません」
有栖の勤め先は治安維持を目的とする――『ユースティティア』という組織だ。略称で市民からはユース、と呼ばれている。警察と対立する立場ではあるが、治安を乱し、悪を確保、制裁する、という点では似てはいる。今回、彼女が始末書を書く必要になったのは、とある事件――暴走族が好き勝手に道路を暴走する情報を事前に取得。組織はそれを未然に防ぐことが目的だった。
結果は成功。だけど、組織の予想外の経緯での成功だった。有栖は説得を試みる担当だったが、説得をしたところ暴走族の一部は最初は嘲笑。引き続き、説得。嘲笑から苛立ちへ。まだ、説得。暴走族は激怒し有栖に殴りかかった。これが彼女にとっての限界だった。
ものの十数分で有栖は暴走族を格闘で制圧。今回は説得による未然の防止が目的だったので結果は成功でも、有栖は命令違反ということで始末書と謹慎処分を受けることになった。
「間違ったことやないけど、正しくもないやろ。違反は違反や。上長も有栖の行動に一定の理解はしとるけど、それでも何かしらの処分をせんことには示しがつかんからな」
「面倒くさいですね」
「面倒くさいのが社会ってもんや」
「わざわざ説教する為に戻って来たんですか?」
一色が現在進行形で案件に従事していることを有栖は知っていた。本来なら現場や情報収集で外にいるのが当然で、昼食もそのまま外で食べて、わざわざオフィスに戻ってくる必要もない。
「いや、有栖の冷やかしや」
「帰ってください」
「冗談や」
「自分、冗談は通じないんで」
「余裕ないなぁ。まぁ、冗談はここまでにして……有栖にお願いがあるんや」
「お願い?」
「どうせ暇やろ? ちょっと話、聞いてや」
時刻は十四時。有栖はオフィスを出て、昼食を摂る為に一つの店に向かっていた。大体の店のランチタイムはこの時間になると終わってしまうが、彼女はあえてこの時間帯にその店に向かっていた。
理由は簡単だ――優遇してくれるからだ。彼女はそういった特別扱いをあまり好まないが、その店の好意に甘えている。代金はちゃんと払っているし、コーヒーも一杯多めに頼んだり、と自分なりにその好意に応えているつもりだ。
その店とそんな関係になったのも何かの縁だし、何よりもその優遇が有栖にとっては非常に魅力的なものだったりするからだ。
「……甘えてるだけなんだけどね」
そう呟いて、有栖はその店の前で立ち止まる。
白い外壁に外光が差し込むように備え付けられた窓、無垢の木の看板とドアがオシャレな四角い建物のカフェ。ランチタイムは十四時までで一度閉まり、十八時以降はバーに切り替わって営業している。少し変わった業務形態だが、ここのマスターいわくバーの方が稼ぎが良く、カフェ・ランチはちょっとした小銭稼ぎだ、と有栖は聞いたことがある。
そして、今の時間帯はランチタイムは終了し、店のドアにはクローズの表示が掛けられている。そのドアのノブに有栖は手を掛けると、
「すいません」
そう言って、何の抵抗もなく開くドアに少しだけ隙間を作って顔だけ出して、声を掛ける。
「あぁ、有栖さん。いらっしゃいませ」
彼女と目が合った、カウンターに立っているこの店のマスター――高本 彦(たかもと げん)がグラスを磨きながら笑顔で迎え入れてくれた。
「今日もランチ頂いても良いですか?」
「もちろん、どうぞ」
二人はそんな会話を交わすと有栖はカウンター席に座る。
店内はカウンター席が五つに、テーブル席が四人掛けが三つと二人掛けが二つ。大きすぎず、小さすぎない落ち着いた雰囲気の良いお店だ。ただ、この店が人気なのはマスターの高本だったりする。
「相変わらず男前ですね」
「はい、よく言われます」
有栖のお世辞に高本は笑顔で返す。それを受けて有栖は苦笑いを返した。
彼女は一応はお世辞という建前のつもりだが、事実、高本は美青年だ。中性的な顔立ちであり、年齢は不詳だけど、おそらく二十代後半と若く見える。水色と白が混ざったような美しい髪はアシンメトリーで片方は目と耳が出るぐらいの短さで、もう片方は目を隠すように少し長い。
更に性格も優しく、人当たりも良く、コミュニケーション能力も高い、とくれば男女問わず人気がありモテる。それがこの店の人気の一つだったりする。
「今日のランチは何ですか?」
「ハンバーグプレートです。サラダとスープも付いてます」
「じゃあ、それにコーヒーもプラスで」
「食後でいいですか?」
「はい、それでよろしくお願いします」
注文を終えると高本は準備を始める。
有栖としてはこの店のコーヒーも食事もかなりレベルが高いと思っている。だから、高本の顔が評価の大部分を占めていることが勿体ないと感じていた。
もちろん、有栖も一人の女性だ。高本が美青年だとは思う。性格も良いと思う。だけど――何故か彼女は、高本が常に誰にも優しく、笑顔を見せているのに目が笑っていないように思えるのだ。その違和感……どこか得体の知れなさが――あるような気がする。
――まぁ、悪い人ではないと思うけどね。
有栖はこの店と高本のことを気に入っている。彼がどんな人物であれ、自分が業務上で相手にすることがなければ、それだけで充分だった。
「美味しい」
「それは良かった」
有栖は出されたハンバーグを箸で一口サイズに切ると頬張り、率直な感想を述べた。肉厚のハンバーグから溢れ出る肉汁と特性と言っていたデミグラスソースが混ぜ合わさって自然な流れでセットのごはんを口に運んでしまい、止まらない。
スープはオニオンスープ。サラダはコールスロー。シンプルだけど充分だった。
有栖が受けている優遇、というのは高本の店でランチタイム終了後、バーに切り替わる準備時間の空いているときにランチを食べさせてもらえることだ。
この辺りの店はランチタイムはどこも混んでいるので、この優遇は彼女にとっては非常に助かるものであった。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした。コーヒー準備しますね」
「どうも。いや、この特別扱いは何か申し訳ない気持ちになるんだけど……この店のランチとコーヒーの魅力には抗えないわ」
「いいんですよ、有栖さんは恩人ですから」
高本のその言葉は何回も聞いたが、その度に少しだけ罪悪感が軽くなるのを有栖は感じていた。
優遇を受けられるのは、高本の言ったとおり有栖が恩人だからだ。それは本当に偶然で、彼女が業務上この辺りを捜査している際、彼がトラブルに巻き込まれているのを解決。その流れで今の関係に至る。
「お仕事はお忙しいんですか?」
「うーん、絶賛謹慎中」
「それはそれは絶好調ですね」
このような軽口を交わし合えるぐらいには二人は親しくなっていた。高本がネルドリップでコーヒーを淹れながら微笑む。落ち着く香りが有栖まで届く。
「しばらくは事務仕事の予定」
「それも大事な仕事ですよ」
「解ってはいるけど、身体を動かす方が自分には向いてるんだよね」
「俺も有栖さんのイメージはそっちですね、どうぞ」
高本がコーヒーを差し出し、有栖は受け取り一口啜る。優しい口当たりに、すっきりとした後味が食後には丁度良い。
「あ、でも、一つ面倒なことを引き受けたんだった」
「面倒なことですか?」
「うん、猫探し」