蝶々の大群に包まれたアルモナが姿を現したのは、うっそうとした森の中だった。
 彼女は真夜中の森で目を開くと波の音に耳を傾けた。それに引き寄せられるように歩を進めると、その先には草原が広がり、そして更に先には崖がある。
 深い森の中に波音が聞こえる理由はその下に暗い海が存在するからだ。

 彼女は森を抜け、草原と森を分かつようにそびえた大木の下に腰を降ろした。
 くすんだ瞳の明継(あきつぐ)を膝枕して、護衛代わりに同行させていた元晴(もとはる)清光(きよみつ)を傍に座らせる。
 元晴の虹彩が黄金から深紅に戻ると、一瞬、明継の瞳に光が宿った。しかしアルモナの体から漂う甘い香りを吸い込むと再び瞳を閉じた。

「やっとあなたに会える」

 明継が深い眠りに落ちたことを確認したアルモナが呟いた。
 光を灯した手のひらが明継の胸にそっと触れると、光が徐々に熱を帯び始める。

「ううう……」

 明継の顔が歪んだ。

「苦しいのね。だけどもういいのよ。彼の器である人生は終わり。楽にしてあげますからね」

 アルモナの表情は柔らかく、それは子を想う母のような眼差しにも似ていた。

「人間が勝手にしたことですもの。もう苦しむ必要はないわ」

 アルモナの放つ光は明継の胸を浸食するように大きくなっていく。胸に埋まるように光が沈むと明継のうめき声が大きくなり、体が強張った。
 もう少しで引きはがせる。
 アルモナの瞳にはその期待が色濃く表れた。
 明継の胸から黒く尖った結晶が徐々に露出しはじめる。アルモナは光を強めたが、結晶はそれを拒むように黒い霧を纏わせて再び胸の中へ潜った。

 彼女は呆気にとられて動きを止めたが、また手のひらに光を灯した。
 しかし何度同じ行為を繰り返しても、その結晶が彼女の前に現れることは無かった。

「どうして……」

 アルモナは嫉妬にも似た黒い感情がじわじわと湧き出るのを胸に感じていた。
 徐々に顔が強張って、怒りをぶつけるように吐き出す。

「あなたがこの子を選ぶなら、私が全てを飲み込むだけよ!」

 アルモナは白い光を全身に纏うと明継を抱きしめて体の中に導いた。
 明継の胸から湧き出る黒い霧が拒むようにアルモナとの間に境界線を引くが、強い光に霧が飛散し始めると一気に明継の体を飲み込んだ。
 アルモナは取り込んだ力の大きさに、大粒の汗を浮かべて唸った。それでも口元には薄っすらと笑みがこぼれている。

「やっと一つになれた。もう逃がさない」

 強い吐き気に耐えながら体を丸めて横たわる。遠のきそうな意識を必死に捕まえて、自分の体を抱きしめた。

「逃がさない。嫌よ……もう一人は嫌!」

 唸るように呟いていたアルモナの声はいつしか意味を持たないうめき声に変わり、最後には叫び声となって闇夜に轟いた。
 心臓部に閉じ込められた黒い結晶は彼女の体を一気に浸食し、指先まで染め上げる。
 美しい濡羽色だった瞳が黄金に塗り替わって光を放つと、彼女はゆっくりと立ち上がった。






 徐々に大きくなったアルモナの力は緋咲(ひさき)嗣己(しき)が真っ先に感知した。二人は春瑠(はる)大紀(だいき)を呼び出し、クグイと穏平(やすひら)を同行させて霞月(かげつ)の門をくぐった。
 アルモナの叫び声が森を揺らす頃、緋咲の感知が正確な位置を割り出した。

『近いか?』

『ええ。この森を抜けた先にいるはず。……でも、前とは力の質も、量も違う』

 緋咲は感じていた違和感を嗣己に伝えた。

『明継が女の化け物と融合したんだろう』

 緋咲が眉間にしわを寄せる。

『アルモナ……』

 その呟きから漂うのは、躊躇い、不安、恐怖、数えきれないほどの感情だった。
 嗣己は彼女の揺らぐ心を察して静かに言う。

『覚悟を決めておけ』



 緋咲たちがたどり着いた先には漆黒の霧を纏わせた化け物がいた。
 全身を黒く染めて獣のように威嚇する様は人間としての思考を失っているように思えた。

「これが彼女……?」

「取り込んだ力に飲み込まれている。お前もそうだった」

 緋咲の呟きに嗣己が答えた。
 そしてアルモナの前で首を項垂れて立ち尽くしている清光と元晴を見るや否や、大紀に指示を飛ばした。

「まずは清光と元晴を回収する」

「はい!」

 大紀が踏み出すと、アルモナの金瞳が輝く。清光と元晴はそれに応えるように大紀へ体を向けた。
 大紀は元晴が抜いた刃先の軌道を見ながら体を捌き、すぐさま手首をつかんで旋回した。
 相手がバランスを崩したところで両手で捻り上げれば元晴の体が宙に浮く。強かに体を打ち付けたところで小刀を奪い、うつぶせにして動きを封じた。
 元晴の意識消失を確認すると流れるように立ち上がり、今度は清光が出現させた影の中へ飛び込む。大紀が影の間をすり抜けるだけでその力は失われ、黒い霧となって散っていく。
 清光の目前まで迫ると大きく飛び上がり、背後に音もなく着地した。相手が振り向く前に襟を引き寄せて抱き込むように締め上げれば、簡単に意識が飛ぶ。
 大紀は横たわった2人を回収すると、後方で待機する春瑠の元まで運び込んだ。

 アルモナの周囲では樺色の羽が闇夜に舞い、縞模様の幼虫が地を這っていた。
 彼女が頭上から手を振りかざすとそれを合図に虫たちが一斉に襲い掛かる。
 クグイが瞳に青い炎を揺らめかせ、一瞬で大量の人影を立ち上げた。刀や大鎌のシルエットが虫目掛けて振りぬかれればそれらは真っ二つになって体液を散らす。
 クグイが道を切り開くとすぐさま嗣己が駆け抜けアルモナに接近した。
 彼女はそれを拒むように手を伸ばして何百もの漆黒の蝶々を放ち、大きな怪物のようなシルエットを作り出した。

 突進してくる大群目掛け、嗣己が印を結ぶ。手から炎を吐き出して一斉に燃やすと大量の蝶々が灰のように舞いあがり、アルモナの視界を塞いだ。
 その隙に印を結んでいた穏平が地面に手を置いた。
 大地が揺れ、アルモナの足元から棘のような鋭い岩が吹き出した。飛びのいた彼女を穏平が視線で追えば、それに応えるように岩が地形を変えていく。

「緋咲!」

 穏平の叫びに応じた緋咲が突き出した岩に飛び乗り、アルモナの居場所まで岩を辿って駆け抜ける。
 彼女に追いつくと高く飛び上がり、瞳に紫の炎を宿した。

「捕まえた!」

 振り上げた腕を一直線にアルモナに向けて打ち込んだ。
 緋咲の拳は爆音と共に大地を震わせ、その中心に大きなクレーターを生みだした。

 しかし、緋咲の口から漏れたのは舌打ちだ。

 アルモナは体を黒い霧に変えて攻撃を躱した。緋咲の背後で元の姿に戻り、手のひらから長剣を生み出す。
 同じタイミングで緋咲も腰に刺した小刀を抜き、振り向きざまに切り付けた。それを受け流したアルモナが長剣を振るう。
 二人は幾度か火花を散らした後、つばぜり合いに持ち込み至近距離で瞳を交わした。

「しつこい女は嫌われるわよ?」

 口の端を吊り上げて緋咲が言うと、言葉を交わせないはずのアルモナの口元が一瞬笑ったように見えた。
 気を取られた緋咲の隙をついてアルモナが長剣を勝ち上げ、体勢が崩れたところで腹に蹴りを入れる。衝撃で緋咲の体が後ろへ傾くと、アルモナが手のひらを差し出して鋭く硬化させた黒い霧を放った。
 思わず目を瞑って守りに入る緋咲の脇から、体を当てるように現れたのは嗣己だ。
 抱きかかえられるように地面に落ちると嗣己の腕を赤い血液が伝う。

「いちいち動揺するな。お前はアイツを取り戻す鍵だ。それまでは死なせん」

 顔を歪める緋咲に嗣己が言い放つ。

「……ちょっとまってよ。じゃあ明継が戻ったら私は用無しってこと!?」

「そうだ」

 嗣己が意地悪く笑うと、緋咲の表情に柔らかさが戻った。


「霧の能力も問題だが、明継の回復能力も厄介だな」

 一旦引いた嗣己と緋咲に穏平が声をかける。
 その間にも、アルモナの体の傷は修復されていた。
 嗣己はしばらくアルモナを見つめてからぽつりと言った。

「……剥がすか」

 穏平は嗣己の表情を見て、その落ち着きように頷いた。

「クグイの準備が終わったら体に入れ」

「任せとけ」

 嗣己の言葉に穏平が答え、大紀を傍に呼ぶ。

「何をする気?」

 二人の会話を聞きつけたクグイが表情を曇らせて問う。
 嗣己は懐から取り出した薬品を見せて笑った。
 瓶の中で揺れる黒い液体はクグイが嗣己に渡すために調合したものだ。
 この薬品は過去に春瑠が緋咲に渡した起爆剤と同じ成分でできている。明継と同じ性質の力を持つ嗣己は、他の能力者に比べればこの薬品も幾分か馴染みやすい。だが、今回のものは緋咲からとったデータを元にクグイが改良を加え、極限まで精製したものだ。規格外の肉体をもつ明継が腹の中で抱えてきた化け物の力に限りなく近い成分に、嗣己の体が耐えられるとは言い切れなかった。

 起爆剤と言えば聞こえはいいが、その実は効果と引き換えに使用者の体を破壊する薬品だ。クグイはそれを完成させながらも、嗣己に渡すことはなかった。

「どうしてそれを持ってる!?」

「俺のために調合したんだろう? お望み通り、俺が時間を稼ぐ」

 嗣己の声色に、クグイは一度開きかけた口を閉じた。
 幼少期からずっと嗣己の傍にいたクグイは、彼の性格を誰よりも知っている。
 何を言われようと自分で決めたことは絶対に曲げない。
 それが嗣己だ。
 クグイはそんな嗣己に散々振り回され続けてきたが、それを嫌だと思ったことは一度もなかった。

 この瞬間までは。

 諦めに近い感情を抱きながら、クグイが本音を吐露する。

「僕は……嗣己を失いたくない」

 か細い声が嗣己の耳に微かに届いた。

「これからもきみに振り回され続けたい。ずっと僕の……隣にいてほしい」

 それでも嗣己はクグイを振り返らなかった。
 揺れる月白色の瞳を見てしまえば、自分の覚悟が揺らぎかねないと知っていたからだ。
 嗣己が瓶の中身を体に流し込む。

 それを見届けたクグイは焦りや喪失感、果ては苛立ちまでをも感じながら目をつぶった。
 明継など、力など、霞月など、もうどうでも良かった。

 嗣己を必ず取り戻さなければ。

 クグイは目を開けると躊躇いを捨てるように春瑠を呼び、結界を張らせた。
 クグイの周囲が桃色のオーラでぐるりと覆われると、覚悟を決めて印を結びはじめた。
 嗣己(しき)が肩で息をする。
 穏平(やすひら)の隣で待機していた大紀(だいき)が、その力の大きさに体を震わせた。無意識に穏平の服の裾を握りしめた大紀に、穏平は何も言わずに一歩下がらせてかばうように腕を伸ばした。

「ううう……!」

 鋭い痛みに前屈させていた嗣己の背が勢いよく反り返ると、胸から浸食を始めた黒い霧は一瞬で全身を漆黒に染め上げた。
 嗣己が叫びともとれる咆哮を上げた瞬間、アルモナは警戒するように長剣を構える。同時に突き出した手のひらから硬化させた黒い霧を放つが、嗣己は空間移動を使用してアルモナの目前に現れた。
 咄嗟に防御の姿勢をとったアルモナと嗣己の力がぶつかり合い、衝撃が円形に広がる。
 その戦いを見つめていた者全ての体を揺さぶった。


 春瑠(はる)の結界が揺らめくと、クグイの顔に苛立ちが浮かぶ。

「春瑠、集中しろ! キミの結界はこの程度で崩れるものじゃない」

「はい……!」


 その間も黒い霧を纏った2人は何度かの攻防を重ね、衝撃に弾かれたアルモナが先に体勢を崩した。よろめく彼女の背後に現れた嗣己がアルモナの腹を手で貫くが、その体が崩れ落ちることはなかった。
 腹から突き出た嗣己の腕を両手で掴んだアルモナが頭を振り上げ、顔面に頭突きを食らわせる。隙をついて腕を引き抜き距離を取ると、あっという間にその傷口を霧が塞いだ。

「とんでもねぇ戦い方だな」

 穏平が固唾を飲み込むと緋咲(ひさき)の眉間にも皺が寄る。

「クソ! 早く、早く、早く……!」

 苛立ちを吐き出すように口の中で呟き続ける緋咲はアルモナの体を目で追い続けた。
 黒い霧を纏う漆黒の姿は外見こそアルモナだが、その中には明継(あきつぐ)の体と精神が閉じ込められている。彼女の体が砕かれるたびに緋咲は焦りを感じていた。
 握った短剣が手の中で強く締め付けられていく。


「おわ、りか?」

 アルモナが後ずさるのを見て呟いた嗣己は、引け腰の彼女に一瞬で迫り、その首を片手で掴み上げた。暴れるアルモナを物ともせずに、嗣己の体はぶれることなく彼女の顔をじっと見つめる。
 アルモナの抵抗が弱まり始めると、彼女の胸から黒い結晶が姿を現した。
 嗣己の黄金の瞳がその結晶を前にして宝石のように煌めく。

「ほう……? 良いものを……持っている、な」

 目を細め、ゆっくりと手を伸ばす。
 緋咲が胸のざわつきを感じて咄嗟に口を開いた。

「嗣己! アンタ、明継を殺す気!?」

 青筋を立てた緋咲が叫ぶと、嗣己がゆっくりと首を回して緋咲を見つめた。

「ア、キツグ……?」

「バカでかい力取り込んで脳みそまでイってんの!? アンタの大好きな明継でしょうが!」

「アキ、ツグ……」

 呟いた途端、嗣己の手から力が抜ける。
 解放されたアルモナの胸に、結晶が再び吸収された。
 彼女は何度か咳き込みながらも立ち上がり、浅い呼吸で嗣己を睨みつけた。

「うああああっ!」

 叫びと共にアルモナの体から黒い霧が放たれた。それはまるで散弾銃のように嗣己の体に無数の穴を開ける。
 膝をついて血を吐く嗣己に、顔を歪めた穏平が吠えた。

「クグイ、まだか!」

「キミはいつもうるさいなぁ!」

 穏平が振り返れば、瞳に青い炎を宿したクグイが立っていた。

「失敗したら殺す! 早く行け!」

「よし来た!」

 穏平は引きつった笑みで嗣己に向かって突進した。
 再び意識を乗っ取られ始めた嗣己が本能のままに腕を振り上げる。

 すると穏平は地面に吸い込まれるようにその場から消えた。
 嗣己の腕が空を切り、居場所を探って首を回す。
 次に変化が起きたのは嗣己の足元だった。
 地面に亀裂が入るとそれを砕いて穏平の手が飛び出し、足を掴み、振りほどく暇も与えず穏平の”融合”が始まった。
 嗣己の黒髪を白髪へと染め始める。

「ううううう!」

 体の中で蠢くものを追い出そうと、嗣己は体をかきむしり、唸り声を上げる。しかしその髪の色が完全に白く染まるまでにそれほど時間はかからなかった。

「だい、き!」

 嗣己の口を使って穏平が呼ぶとそれを合図に大紀が身を当てて、転げた先で馬乗りになった。
 融合を果たした穏平はアルモナから嗣己を引きはがしたことにひとまず安堵したが、彼の役目はここで終わりではない。抵抗する嗣己を抑え、大紀の能力が発揮できるようにサポートしなければならない。

 穏平の融合という能力は、物体を合わせたり切り離したりできる。その応用として今回のように自らがターゲットの体に入り込んで一体化し、その意識を乗っ取るという手法も取れる。
 しかし今回の場合、嗣己の意識は体を渦巻く闇の力に取り込まれつつあるため、穏平が抑え込むのはどちらかと言えばその闇本体となる。
 だが、研究初期に力を付与された世代の穏平は明継に封印された化け物をベースとしていないため、その力に耐性もなければ馴染みもない。そんな彼にとって、その強大な力を完全に制圧するというのには無理があった。

 嗣己の髪色は黒から白へ、白から黒へとその制圧具合が一目でわかるほどに揺れ動いた。
 その戦いを最前列で眺める大紀は不安げに顔を歪める。瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜まり、月明かりに反射した。

 嗣己の冷たい瞳が大紀を覗き込む。
 彼の口元が不敵な笑みを作ると、その恐怖心を取り込んだ。
 髪が一瞬で黒へと染まる。
 大紀はその瞬間、穏平と言う後ろ盾を無くしたのだと本能で感じて背筋を凍らせた。
 いつもならどんな能力も一瞬で無効化する大紀だが、嗣己の中で渦巻く漆黒の闇を吸い取るのには時間を要した。それもそのはず、黒い霧は浄化されるどころか大紀が触れている皮膚からゆっくりと浸食を始めているのだ。

「先生……先生がいないと……」

 大紀の心が揺れ動けば動くほど能力は弱まり、黒い霧の浸食は早まった。異常な量ともいえる力が大紀の体に流れ込む。
 高い身体能力をもつ大紀と言えども、その体はまだ発達途中の子供のものにすぎない。
 その強大な力は大紀の体に大きな負担を強いた。

「あ……ぅ……」

 ねじ込まれるような激しい痛みに大紀の目から涙が零れた。体の防衛本能が嗣己の胸から腕を離そうと身を引いて縮こまる。
 その様子を見つめていた嗣己が、真っ赤に染まる口を耳まで裂いて嘲笑った。

「面白い力を持っているじゃないか」

 ゆっくりと体を起こした嗣己が大紀の体に手を伸ばす。

「お前を取り込めば、どんな力が手に入るんだろうな?」

 大紀は自分の身に迫る恐怖に震え、零れてくる大粒の涙を止められなかった。
 嗣己の細く長い指が体に迫る間、大紀は目をつぶって感情を吐き出した。

「もう嫌だ! 僕にはできない! 僕には何もない! 僕なんか……!」

「大紀」

 低く落ち着いたその声は、大紀の言葉を遮るように力強く響いた。
 我に返って目を開いた大紀の頭に触れたのは優しく、包み込むような温かさのある手だ。

「お前は……できる。強く、念じろ」

 その言葉は間違いなく嗣己の口から放たれている。
 しかし大紀はその表情に穏平を見た。
 やわらかな髪を撫でた嗣己の手が、震える腕を優しく掴んで引き寄せる。

「や……すひら先生?」

 そのまま嗣己に抱きしめられた大紀は恐怖よりもその温かさに安らぎを感じていた。
 悪魔のように見えていた嗣己の唇が、今度は優しく弧を描く。

「俺はいつだってお前の傍にいる」

「先生……」

 穏平に抱きしめられて泣きじゃくったあの日の感情が胸に迫ると、大紀の脳裏に春瑠、清光、元晴と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡った。
 大紀の瞳に赤い炎が揺らめく。

 涙を振り切った大紀の腕に、今までに無いほど白く強い光が輝いた。

「うわああああああああっ!」

 その叫びに呼応するように、光が全身に行き渡る。それは嗣己の体までをも包み込み、浸食を進めていた黒い霧は逃げるように散った。
 クグイが印を結びきると結界の中に青い光が充満した。
 アルモナへの道筋が開くのを確認した春瑠(はる)が結界を解き、クグイがアルモナに視線を向けるとその光が地面を這って彼女の足元を捕らえた。見えない糸に縛り上げられるようにアルモナの腕が頭上で固定されると、彼女は唸りながら抵抗を見せた。

緋咲(ひさき)くん! 心臓を貫け!」

 クグイの叫びに短剣を構えた緋咲が突き進む。
 その走りに迷いはない。
 閃光のごとく走り抜けた緋咲は躊躇する事なくアルモナの胸に短剣を突き刺した。

「ああ! あ……!」

 アルモナが出す拒絶の声が緋咲の耳に届いた。
 体にまとわりついていた黒い霧が引いていく。緋咲が短剣を押し込むと、アルモナは身震いして金切り声を上げた。
 地を揺るがすほどの声は衝撃波を生み、緋咲の体をびりびりと振動させた。

 ここから早く逃げなくては。

 身を引いた緋咲の腰に、アルモナの体から伸びた黒い触手が巻きついた。

「お前も道連れだ!」

 言語を取り戻したアルモナの声は憎悪を折り重ねたように低く、雑音を含んでくぐもっていた。




 クグイと春瑠の目の前で、緋咲の体が崖の向こうへ消える。

「緋咲さん!!」

 咄嗟に走り出し飛び込もうとする春瑠をクグイが捕まえ、その先に視線を送る。

 波音と深い暗闇。

 あるのはそれだけだった。









 緋咲はアルモナに短剣を突き立てた時、彼女の本当の顔を見た気がした。
 ただ愛するものを探し求める、儚く、どこか寂しげな女の顔だった。

 暗闇の海に落ちた緋咲は隠し持っていたクナイを取り出してアルモナの触手を切り裂いた。一度水面から顔を出し、大きく息を吸うとすぐさま海の中へ戻る。
 気を失ったアルモナの体からは黒い霧が少しずつ剥がれおち、漆黒の帯を造りながら海の底へと落ちていく。
 アルモナを追って水中を進んだ緋咲がようやく手を掴み取る。
 濡羽色の瞳が薄っすらと開いた。その瞳に力などはなく、ただぼんやりと緋咲を見つめている。

『嫌な女……』

 突然脳内に響いたアルモナの声に緋咲が目を見開いた。
 見つめ返すと、彼女は想いをぶつけるように声を送る。

『彼は私の全てなの。彼がいない世界なんて、価値がない』

 緋咲は無意識のうちに憐憫の眼差しをつくった。
 アルモナはその意味を知りながらも続ける。

霞月(かげつ)に全部持っていかれるの。いつもそう。彼も、同胞も、住処も』

 アルモナの瞳に緋咲が映る。彼女の嘆きが他人事には思えなかった。
 自分に言い聞かせるように、アルモナに言葉を渡す。

『私もあなたも、大切なものを護るために戦った 』

『そうよ。だから私は霞月とあなたの大切な物を奪う。私と切り離したって、彼は元に戻らない』

 アルモナの言葉は緋咲を呪う。しかし目の前の緋咲の瞳は力強く輝いた。

『たとえ明継(あきつぐ)が戻らなくても、私は彼と生き続ける』

 アルモナは緋咲を真っ直ぐに見た。それからすぐに微笑みを作る。
 それは自嘲にも、嘲笑いにもとれた。

『……アンタみたいな女、大嫌いよ』

 アルモナはそう言い残して胸の短剣を自ら深く差し込んだ。体が丸まり、黒い霧が溢れ、それは徐々に漆黒の泡となってアルモナの体と短剣を包み込んだ。
 彼女の手を握っていた緋咲が思わず手を離し、泡の行方を追っていると、柔らかなものが頬に触れた気がした。
 視線を戻せば暗闇を裂くように明継の体が現れた。

『明継!』

 緋咲が咄嗟に明継の体を抱きしめ名前を呼ぶ。
 明継の瞳が開くと緋咲は唇を重ねて呼吸を渡し、安堵の表情を作る。緊張が解けると同時に全身から力が抜けて、気を失った。

 薄れゆく意識の中で、泡となって消えていくアルモナを見た気がした。
 明継(あきつぐ)が意識を取り戻した時、緋咲(ひさき)はその目の前をゆっくりと落ちて行った。
 状況を飲み込む前に体が自然とその手を掴み、水の中であることに遅れて気が付く。慌てて浮上しようと上を目指して泳いだが、解放されたばかりの明継の体で人を抱えて泳ぐのは無理があった。
 明継の眉間に皺が寄る。

 緋咲だけでも助けたい。

 明継がそう強く願ったとき、海の底から異常な水圧を感じて咄嗟に目を瞑った。

『世話を焼くのもこれで最後だ』

 脳内に響く声を聞きながら、ゆっくりと目を開く。

 次に明継が目を開いたとき、そこには草原が広がっていた。
 わけもわからず朝日のまぶしさに目を細めていると、駆け寄ってくる少女の姿が目に入った。

「あき……緋咲さん!?」

 悲鳴のような声を上げた少女は春瑠(はる)だった。
 明継の腕に抱かれた顔面蒼白の緋咲を奪い取ると、涙声で緋咲の名前を呼び続ける。
 そんな春瑠を見つめる明継に、大きな影がかかった。
 その影の主を見上げた明継の瞳に映ったのは

穏平(やすひら)……」

 春瑠の声を聞いて駆けつけた穏平は、呆然と座り込んだ明継を見て問いかけた。

「お前……どうやってここに来たんだ?」

 アルモナに吸収された明継の肉体と、緋咲は崖下の海に飲み込まれた。たとえ海から浮上できたとしても、この切り立った崖を人ひとり抱えた状態で戻ることなどできるはずがなかった。

「わかんない。勝手にここに……嗣己(しき)の空間移動みたいに……一瞬で」

「……そうか。お前の力は嗣己に近いものがあるからな」

「じゃあ俺の力でここに来たのか?」

「いや……お前の力は海に落ちる前に引きはがした。自分でも感じないだろ?」

「え?」

 明継は意識を集中し、体の中にめぐる力を探る。
 あの黒くざわざわとしたものは感じなかった。

「他に何か感じたか?」

「ここに来る寸前、声を聞いた。誰かわからないけど、たまに俺に話しかけてきた」

「そうか……」

 穏平が思考を巡らせて固まる。
 明継は返事を待つことに焦れて口を開いた。

「嗣己は? 嗣己に聞けば何か分かるのか?」

 その名前に表情を曇らせた穏平が視線を後ろに向けた。
 視線の先には、横たわったまま微動だにしない嗣己がいる。

「嗣己は……」

 おもむろに立ち上がった明継を穏平が制止した。

「今のクグイにお前は毒だ。殺されかねんぞ」

「な、なんで?」

 嗣己に張り付いて治療を行っているクグイに目を向けるが、彼は頑なに視線を返さなかった。

「アイツは今、気が立ってる。まぁ、クグイがついていれば嗣己は大丈夫だ」

「そう……か」

 明継の視線が彷徨う。


 自分の知らないところで何が起こったのか?

 自分だけがなぜ何も知らずに、海の中で目を覚ましたのか?


 胸がざわつく。

「あのさ……」

 明継はその場に腰を下ろすと穏平を見つめた。

「何があったんだ?」

「……そうだな。そうだよな。お前、記憶は一切ないのか?」

 明継が不安げに頷いた。








 緋咲が目を覚ましたのは、自分の家の中だった。
 見慣れた天井、見慣れた家具。
 その中で唯一違和感のあるものと言えば、緋咲が寝ている布団の横で首をうなだれた明継だ。その手には緋咲の手がしっかりと握られている。
 緋咲が薄らと笑みを浮かべた。

「明継」

 それはひどくか細い声だったが、微睡の中にいた明継の意識を引き戻すには十分だった。

「緋咲!?」

「無事で良かった」

「こっちのセリフだよ」

 弱りきった緋咲の口から出た言葉に、明継が眉尻を下げて笑った。

 ゆっくりと体を起こした緋咲が記憶を呼び戻そうと、頭に手を当てる。

「私、海の中で……」

「そう、そうだよ。気が付いたら真っ暗で、水ン中で、しかも同時にお前が……でもあの後皆のところに急に飛んで、クグイと春瑠が治療してさ、穏平はもう大丈夫だって、でもここに、心配で、いや、でも俺、そんなさ、俺、何言ってる?」

 状況を説明しようとしたはずなのにいつの間にか混乱を起こしている明継の様子に、緋咲は思わず笑ってしまった。

「ごめん。焦ったらわけわかんなくなっちゃって」

 彼女の反応に気まずそうに顔を歪めた明継に、緋咲が微笑む。

「あんなに色々あったのに、明継はいつも通りなのね。笑っちゃう」

 明継もつられて笑った。
 その笑顔に安心しつつ、緋咲が問う。

「記憶はあるの?」

「あー……俺、記憶が全然なくてさ。穏平に全部聞いたんだ」

「そう……」

 緋咲の脳裏にアルモナの言葉が浮かんだ。

 ――私と切り離したって、彼は元に戻らない

「体に何か変化はある?」

 緋咲は表情を曇らせて明継の顔を覗き込んだ。
 迫るような声に身を引いた明継が、考える素振りを見せてから答えた。

「記憶の欠落もその時だけだし、手足も問題なく動く。力は無くなったみたいだけど、回復能力は残ってるって春瑠からきいた……」

 思考を巡らす明継に、緋咲が抱きついた。

「わ!?」

「ごめん。明継が動けてて、喋れて、ちゃんと生きてるって思ったら、なんかもう良くなってきちゃった」

 胸に顔をうずめる緋咲の声は微かに震えている。
 明継は穏平に聞いた話を思い出し、緋咲がどれほどのプレッシャーや不安の中で戦ってきたのかを想像して表情を曇らせた。

「心配かけてごめん。俺が緋咲を護るって言ってたくせに、いつも助けられてるな」

 そう言って明継が抱きしめ返すと、緋咲が小さく笑った。

「いいのよ。円樹村では私が助けられていたんだもの。これからは私が明継を助けてあげる」

「えぇ? そんなの情けないよ」

 困惑した声色の明継に、緋咲が顔を上げて微笑んだ。

「いいじゃない。その代わり、私を一生傍に置いて」

「え……それって……」

 明継の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。緋咲もそれにつられて頬を染めた。
 二人はお互いの頬を見て笑いあうと、唇を――


「緋咲さん! 意識が戻ったって!!」

 その瞬間、緋咲の家の扉を勢いよく開けて春瑠が飛び込んできた。
 明継と緋咲は慌てふためきながら体を離し、繕うように笑いかけた。

「は、春瑠。私はもう大丈夫。心配かけてすまなかったわね」

「……」

 春瑠のもの言いたげな視線が二人に突き刺さる。

「なんか、変なこと話してませんでした? 一生傍に、とか」

「お前、そこまで聞いて入って来たのか!?」

「もちろんですよ! 私の緋咲さんを盗らないでください!」

 うろたえた明継に春瑠が迫る。

「ちょ、ちょっと春瑠……」

 どうしたものかと緋咲が名前を呼ぶと、

「春瑠、今くらいは二人きりにしてあげようよぉ」

 と、ばつが悪そうにしている大紀が、あけ放たれた扉から控えめに覗き込んできた。

「やだ! 私は緋咲さんを助けた命の恩人なの!」

「そうかもしんないけど……」

 大紀とのやり取りを見ていた緋咲が思い出したように声を上げた。

「少しだけ覚えてる。声をかけてくれてたのは春瑠だったんだ。あの時はありがとう」

「え~? 緋咲さんにそんな風に言われたら嬉しくなっちゃうな~♡」

 眉を吊り上げていた春瑠が、一瞬で表情を緩ませた。

「今度何かでお返しするわ。楽しみにしてて」

「はい♡」

 春瑠がようやく機嫌を直して大紀に向き直った。

「二人はどうだった?」

 春瑠の質問に明継が身を乗り出す。あの日から姿を見せない清光(きよみつ)元晴(もとはる)の事だろうと察したからだ。

「体は大丈夫なんだけど、清光が思いつめてるみたいで」

「そう……」

 大紀の回答に春瑠が表情を暗くする。
 明継と緋咲は顔を見合わせた。
 寂池村(じゃくちむら)での惨劇を目の当たりにした明継と緋咲は、二人の事をいつも気にかけていた。今回の件でまた気に病んでいるのではないかと心配していたが、それが的中してしまったらしい。

 そんな二人を目の当たりにして、大紀は胸を張ってにっこりと笑った。

「大丈夫だよ。二人の事は僕に任せて」

 明継と緋咲の視線が大紀に集まる。
 二人は目をまん丸にして、感心したように言う。

「大紀……変わったな」

「うん。すごく頼もしくなった」

「そうかな?」

 大紀が照れくさそうに笑った。
 春瑠もその様子に笑みを浮かべる。

「大紀は私の心を救ってくれた人だもん。清光も、必ず元気になるよ」

 大紀と春瑠が顔を見合わせて頷いた。

 明継は、そんな二人の姿を穏やかに見つめた。
 明継や緋咲を含め、ここに集められた六人は様々な境遇の中で育ってきている。
 ”能力者”であることを条件に霞月(かげつ)に集められた人間たちが、今ではそれぞれの立ち位置や居場所を見つけて懸命にお互いを支え合っている。血の繋がりこそ無いが、心の繋がりは強く、それは”家族”という形にも近いものがあった。
 それゆえに明継は、春瑠と大紀が清光の心を癒してまた騒がしくじゃれ合うあの日が戻るのだろうと、確信していた。

 明継を見つめる緋咲の口元が綻ぶ。
 それに気が付いた明継が目を合わせると、どちらともなく手を繋いだ。

「私たちがこの子たちを護らなくちゃね」

「そうだな」

 緋咲の言葉に、明継が力強く頷いた。
 明継(あきつぐ)の体力が戻った頃、穏平(やすひら)から能力測定の日時が言い渡された。そして同時に聞かされたのは、その担当に嗣己(しき)がつくということだ。

 当日、指定された場所へ足を運ぶ明継は何度もため息を吐いた。
 到着後も落ち着きなく体を揺らし、思考を巡らせては表情をコロコロと変える。
 なにせ最後に見た嗣己は、横たわったままピクリとも動かなかったあの姿だ。しかもそれが明継を救うための代償だったと聞かされていれば、気に病まない方が無理というものだ。

 悶々とした状態で待つ明継の後ろに、音もなく人影が現れる。
 彼は明継が自分の存在に気がついていないのを知ると、ゆっくりと腰を曲げて耳元に唇を近づけた。

「明継」

 突然、吐息混じりの低音が耳元にかかった明継は背筋を震わせ膝から崩れ落ちた。
 後ろを振り向けば、嗣己が笑いを堪えて震えている。

「お前!! 病み上がりの時くらい普通に出てこい!」

 顔を真っ赤にして耳を抑える明継に、嗣己が声を出して笑った。その無邪気な笑顔に明継が目を惹かれていると、視線に気づいた嗣己が途端に表情を強張らせた。

「どこか悪いのか?」

 いつになく感情的な嗣己に、言葉を失った明継が全力で首を横に振る。

「それならよかった」

 細めた金瞳が輝いた。






「嗣己の体は大丈夫なのか?」

 目的地へ歩き始めた嗣己を追いかけながら明継が問いかける。
 事前に聞かされていた情報が情報なだけに、明継の視線は幽霊でも見るかのようだ。

「とっくの昔に回復していたんだが、クグイが離してくれなかった」

「……そうだったのか。このまま帰ってこなかったらどうしようかと思った」

 屋敷には、嗣己だけでなくクグイも姿を現さなかった。穏平からしばらくクグイに会うなと言われていたものの、明継はそれを好都合と思えるほど薄情ではない。

「それは不要な心配をかけたな。俺が無茶をしたせいで過保護になっていただけだ。アイツも今は落ち着いている」

「……ごめん」

 蚊の鳴くような小さな声に、嗣己が足を止める。

「お前がしおらしいと調子が狂うな」

「そんなこと言ったって」

 嗣己は振り向き、明継の顔を見た。

「俺の意思でやった事だ。お前がいちいち気にするな」

「そこまで図太くなれないよ。大怪我だったんだろ? 本当に大丈夫なのかよ」

「大丈夫だ」

「こんな短期間で回復できないだろ」

「問題ないと言っている」

「お前はいつも何も教えてくれない!」

「どうしたら納得するんだ!」

 徐々にヒートアップした二人の視線が交わう。
 引くつもりのない明継の視線に、大きなため息をついた嗣己が突然服の裾をまくり上げた。
 明継はその行為に動揺したが、すぐに表情を曇らせて短く声を上げた。

「うわ」

 嗣己の白い肌に、弾丸のようなものが貫通した傷跡がいくつも残っている。

「ハチの巣じゃん! こ、こわ……」

「作り話だとでも思っていたのか?」

「だってそれで生きてるって言われたら信じらんないよ」

「ある程度は例の力で回復していたそうだ。クグイの治療で中は完全に治ったし、残っているのはこの傷跡くらいだ」

「痛々しすぎる……」

「もう痛くもかゆくもない。これも恐らく綺麗に消える。クグイが躍起になっていた」

「これを? どうやって?」

「そんな事は知らん。数日間、体中に何かを塗りたくられていた。それじゃないか?」

「ふーん……」

 明継がもの言いたげな視線を向けながら口を尖らせる。

「なんだその顔」

「え?」

「は?」







 そうして二人が辿り着いたのは、霞月(かげつ)の屋敷から随分と離れた林の中だった。

「なんでこんなひと気の無いところなんだ?」

「お前は中身を失ったら死ぬはずだったんだ。念には念だ。何でもいいからさっさと始めろ」

 手で払い除ける仕草をした嗣己に、不服そうに明継が背を向ける。

「属性は木でいい。まずは芽吹かせる程度から徐々に段階をあげろ。いいな?」

「はいはい」

 明継が印を結ぶ。
 頭の中でイメージするのは小さな草の芽吹きだ。

 いや、もう少し逞しく伸びる木が良いかもしれない。

 そう思った明継はイメージを膨らませて地面に優しく手のひらを置き、力を送り込む。

 ズン!

 と、大きな音がして、明継は嫌な予感がした。

「嗣己、これ……」

 慌てて振り返るが、嗣己は忽然と姿を消している。

「え、どこ――」

 行った?

 と、言葉を終えるより先に、明継の足元の地面が裂けた。
 その裂け目は一気に広がり木の根が勢い良く飛び出したかとおもえば、大木が急速に伸び上がった。

「わ、わ! ちょっ」

 大地を引き裂いて生まれた大木は数十本。それらは明継を弾き飛ばしてぐんぐん伸びていく。
 無防備な状態で投げ飛ばされた明継が受身も取れずに地面に叩きつけられ、苦悶の声が上がると、木々の成長はピタリと止まった。





「死んだか?」

 明継の顔にかかっていた木漏れ日を、美しい顔が覆い隠す。
 その表情に感情は無いが、金瞳だけはギラギラと輝いていた。

「死んでねーよ」

 霞みがかった視界を振り切るように頭を振った明継が勢いよく飛び上がる。

「分かってたんなら俺も一緒に連れて行ってくれよ!」

「お前は俺をハチの巣にしたうえ串刺しにもするつもりか?」

「う゛……」

 言葉に詰まる明継を見て、嗣己が笑う。

「腹の中に飼っていた化け物を抑えるために、お前の力は使われていたようだ」

「コントロールが悪いって話じゃなくて?」

「違う。それが必要なくなって発動できる力の量が増えたんだ。その分感覚がずれる」

「俺自身が力を持ってるってこと?」

「そうだ。お前と化け物の力の境は誰にも分からん。だから試験的に印を結ばせた」

「それ最初に言っておいてくれない?」

「徐々に力を上げろと言っただろう」

「そうだけどさぁ」

 ごねる明継に嗣己が眉をしかめた。

「さてはお前、言う通りにしなかったな?」

 明継が微かに体を跳ねさせ、小声で答えた。

「う……ちょっと盛った」

「なぜ」

 一気に不機嫌になる嗣己の声色に目を逸らしながら、気まずそうに口を開く。

「嗣己は俺の力に興味があったんだろ? それがなくなったって言われたら俺だって、ちょっとはいいところを見せておかないと……嗣己に飽きられるかも……なんて……思うじゃないか」

「……」

 目を瞬かせた嗣己の視線が明継に刺さる。
 その沈黙は異様に長く、明継は気まずそうに目を伏せた。


「可愛いこと言うんだな」


 嗣己がポツリと呟いた。

「い、一応俺はお前の教え子なんだしさ。そう言う気持ちも持つよ」

 気恥ずかしさから慌てて言葉を紡いだ明継に、嗣己は穏やかな視線を送った。

「正直、俺はお前の中身にそれほど執着していない。万が一お前が力を失っていたとしても、俺はお前を可愛がり続けていただろう」

「な、なんで? 霞月は中身が必要だっただけだろ? 嗣己は俺のどこが良いの?」

 自分から聞いておきながら、バカみたいな質問だと明継は後悔したが、嗣己は気にするそぶりも見せず口を開いた。

「そうだな……お前がまだ四、五歳頃の事だ」

 そこまで言うと、今度は長い沈黙が始まった。

「え、終わり?」

 痺れを切らした明継が聞くと、

「いや。長くなりそうで面倒になった。気が向いたら話してやる」

 と、考えるのをやめた様子で言い放つ。

「それ一生話さないやつじゃん!」

「別に良いだろう? お前を可愛がることには変わりないんだ」

 首をかしげる嗣己に、明継は複雑な表情で返した。
 能力測定から数日後、明継(あきつぐ)は仕事に復帰した。
 まずは書類整理に追われ、徐々に軽い訓練が始まり、しばらくして任務復帰となった。
 療養期間を与えられていた緋咲(ひさき)もそれに合わせて復帰し、同時期に任務の再開を言い渡された。



 その日、霞月(かげつ)の門に集まった明継と緋咲は久々の任務にちょっとした緊張感を持って挑んだ。
 嗣己(しき)から告げられた任務内容を聞くまでは。

「また化け物退治!? この任務、いつ終わるんだよ!」

「さあな。霞月は大量に化け物を造り、放置してきた。どんな化け物がどこでなにをして、燻ぶっているのか把握もできていない」

「それだけ杜撰な管理がされていたってわけね」

 緋咲の物言いに、嗣己が不服そうに口を開く。

「クレームなら里のジジイどもに言ってくれ。あいつらは俺たち能力者の生みの親だと言ってふんぞり返っているが、満足にペットの管理もできない老いぼれどもだ」

「最近よく聞くけど、そいつらって今も組織にいるのか?」

 明継が口を挟むと嗣己が首を振る。

「お前の一件からうるさくなった。年齢的に一線は退いているが無駄に権力だけは持っている」

「なんか面倒くさそうだな」

「何を考えているか分からんジジイどもだ。お前らも気を付けておけ」

 嗣己はそう言うと体を門に向け、出発の姿勢を見せた。
 明継の顔が途端に緩む。

「どうしたの?」

 それに気がついた緋咲が聞けば、

春瑠(はる)たちが笑ってる姿を見ると、俺たちの能力や任務も悪いもんじゃないかもって思えてさ。これからどんな出会いがあるんだろうって、ちょっと期待してる自分がいる」

 と、にやけて答える。
 そんな明継に緋咲も穏やかな笑みで返す。

「そうね。私もそう思うわ」

 顔を見合わせる2人の表情は、円樹村(えんじゅむら)にいた頃と同じ穏やかさだ。

「表情が戻ったな」

 それを横目で見ていた嗣己がポツリと呟いた。
 2人が不思議そうに首を傾げれば、

「霞月では無理を強いたからな。ようやく円樹村の時のような表情が見られて安心した」

 と言いながら、嗣己がふわりと微笑む。
 明継と緋咲はぽかんと開けた口を閉じるのも忘れて嗣己を見つめた。

「なんだ」

「いや。今、すっごい良い顔してたから」

「優しいお兄さんみたいだった」

 明継と緋咲が口々に言うと、嗣己が顔を背けた。

「……そんな事は無い」

 珍しい素振りを見せた嗣己に二人は迫り、にんまりと笑う。

「いっつもツンツンしてるなーと思ってたけど、本当は俺たちの事を気にしてくれてたのか?」

「明継の一件といい、実は私たちのこと大切に思ってくれてる?」

「あ! もしかしてこの間の話と関係ある!?」

「ねぇねぇ〜」

「し〜き〜〜」

「「教えてよ~~」」

 質問責めをしてくる二人から、嗣己が逃げるように歩き始めた。
 にやける二人の顔を見て、嗣己の顔が歪む。

「今日の目的地は距離がある。空間移動で楽させてやろうと思ったがやっぱりやめだ」

「え!?」

 途端に、明継と緋咲の顔が青ざめた。

「考え直してよ!?」

「現地集合、現地解散。もう決めた。覚悟しろ」

 嗣己の口の端が意地悪く吊り上がる。

「そんなこと言わずに!」

「だぁめ」

「「お願いします、嗣己様〜!!」」

 明継と緋咲の叫びがこだまする。
 嗣己は笑みを浮かべたまま口の中で呟いた。

「おかえり」

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