明継(あきつぐ)が意識を取り戻した時、緋咲(ひさき)はその目の前をゆっくりと落ちて行った。
 状況を飲み込む前に体が自然とその手を掴み、水の中であることに遅れて気が付く。慌てて浮上しようと上を目指して泳いだが、解放されたばかりの明継の体で人を抱えて泳ぐのは無理があった。
 明継の眉間に皺が寄る。

 緋咲だけでも助けたい。

 明継がそう強く願ったとき、海の底から異常な水圧を感じて咄嗟に目を瞑った。

『世話を焼くのもこれで最後だ』

 脳内に響く声を聞きながら、ゆっくりと目を開く。

 次に明継が目を開いたとき、そこには草原が広がっていた。
 わけもわからず朝日のまぶしさに目を細めていると、駆け寄ってくる少女の姿が目に入った。

「あき……緋咲さん!?」

 悲鳴のような声を上げた少女は春瑠(はる)だった。
 明継の腕に抱かれた顔面蒼白の緋咲を奪い取ると、涙声で緋咲の名前を呼び続ける。
 そんな春瑠を見つめる明継に、大きな影がかかった。
 その影の主を見上げた明継の瞳に映ったのは

穏平(やすひら)……」

 春瑠の声を聞いて駆けつけた穏平は、呆然と座り込んだ明継を見て問いかけた。

「お前……どうやってここに来たんだ?」

 アルモナに吸収された明継の肉体と、緋咲は崖下の海に飲み込まれた。たとえ海から浮上できたとしても、この切り立った崖を人ひとり抱えた状態で戻ることなどできるはずがなかった。

「わかんない。勝手にここに……嗣己(しき)の空間移動みたいに……一瞬で」

「……そうか。お前の力は嗣己に近いものがあるからな」

「じゃあ俺の力でここに来たのか?」

「いや……お前の力は海に落ちる前に引きはがした。自分でも感じないだろ?」

「え?」

 明継は意識を集中し、体の中にめぐる力を探る。
 あの黒くざわざわとしたものは感じなかった。

「他に何か感じたか?」

「ここに来る寸前、声を聞いた。誰かわからないけど、たまに俺に話しかけてきた」

「そうか……」

 穏平が思考を巡らせて固まる。
 明継は返事を待つことに焦れて口を開いた。

「嗣己は? 嗣己に聞けば何か分かるのか?」

 その名前に表情を曇らせた穏平が視線を後ろに向けた。
 視線の先には、横たわったまま微動だにしない嗣己がいる。

「嗣己は……」

 おもむろに立ち上がった明継を穏平が制止した。

「今のクグイにお前は毒だ。殺されかねんぞ」

「な、なんで?」

 嗣己に張り付いて治療を行っているクグイに目を向けるが、彼は頑なに視線を返さなかった。

「アイツは今、気が立ってる。まぁ、クグイがついていれば嗣己は大丈夫だ」

「そう……か」

 明継の視線が彷徨う。


 自分の知らないところで何が起こったのか?

 自分だけがなぜ何も知らずに、海の中で目を覚ましたのか?


 胸がざわつく。

「あのさ……」

 明継はその場に腰を下ろすと穏平を見つめた。

「何があったんだ?」

「……そうだな。そうだよな。お前、記憶は一切ないのか?」

 明継が不安げに頷いた。








 緋咲が目を覚ましたのは、自分の家の中だった。
 見慣れた天井、見慣れた家具。
 その中で唯一違和感のあるものと言えば、緋咲が寝ている布団の横で首をうなだれた明継だ。その手には緋咲の手がしっかりと握られている。
 緋咲が薄らと笑みを浮かべた。

「明継」

 それはひどくか細い声だったが、微睡の中にいた明継の意識を引き戻すには十分だった。

「緋咲!?」

「無事で良かった」

「こっちのセリフだよ」

 弱りきった緋咲の口から出た言葉に、明継が眉尻を下げて笑った。

 ゆっくりと体を起こした緋咲が記憶を呼び戻そうと、頭に手を当てる。

「私、海の中で……」

「そう、そうだよ。気が付いたら真っ暗で、水ン中で、しかも同時にお前が……でもあの後皆のところに急に飛んで、クグイと春瑠が治療してさ、穏平はもう大丈夫だって、でもここに、心配で、いや、でも俺、そんなさ、俺、何言ってる?」

 状況を説明しようとしたはずなのにいつの間にか混乱を起こしている明継の様子に、緋咲は思わず笑ってしまった。

「ごめん。焦ったらわけわかんなくなっちゃって」

 彼女の反応に気まずそうに顔を歪めた明継に、緋咲が微笑む。

「あんなに色々あったのに、明継はいつも通りなのね。笑っちゃう」

 明継もつられて笑った。
 その笑顔に安心しつつ、緋咲が問う。

「記憶はあるの?」

「あー……俺、記憶が全然なくてさ。穏平に全部聞いたんだ」

「そう……」

 緋咲の脳裏にアルモナの言葉が浮かんだ。

 ――私と切り離したって、彼は元に戻らない

「体に何か変化はある?」

 緋咲は表情を曇らせて明継の顔を覗き込んだ。
 迫るような声に身を引いた明継が、考える素振りを見せてから答えた。

「記憶の欠落もその時だけだし、手足も問題なく動く。力は無くなったみたいだけど、回復能力は残ってるって春瑠からきいた……」

 思考を巡らす明継に、緋咲が抱きついた。

「わ!?」

「ごめん。明継が動けてて、喋れて、ちゃんと生きてるって思ったら、なんかもう良くなってきちゃった」

 胸に顔をうずめる緋咲の声は微かに震えている。
 明継は穏平に聞いた話を思い出し、緋咲がどれほどのプレッシャーや不安の中で戦ってきたのかを想像して表情を曇らせた。

「心配かけてごめん。俺が緋咲を護るって言ってたくせに、いつも助けられてるな」

 そう言って明継が抱きしめ返すと、緋咲が小さく笑った。

「いいのよ。円樹村では私が助けられていたんだもの。これからは私が明継を助けてあげる」

「えぇ? そんなの情けないよ」

 困惑した声色の明継に、緋咲が顔を上げて微笑んだ。

「いいじゃない。その代わり、私を一生傍に置いて」

「え……それって……」

 明継の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。緋咲もそれにつられて頬を染めた。
 二人はお互いの頬を見て笑いあうと、唇を――


「緋咲さん! 意識が戻ったって!!」

 その瞬間、緋咲の家の扉を勢いよく開けて春瑠が飛び込んできた。
 明継と緋咲は慌てふためきながら体を離し、繕うように笑いかけた。

「は、春瑠。私はもう大丈夫。心配かけてすまなかったわね」

「……」

 春瑠のもの言いたげな視線が二人に突き刺さる。

「なんか、変なこと話してませんでした? 一生傍に、とか」

「お前、そこまで聞いて入って来たのか!?」

「もちろんですよ! 私の緋咲さんを盗らないでください!」

 うろたえた明継に春瑠が迫る。

「ちょ、ちょっと春瑠……」

 どうしたものかと緋咲が名前を呼ぶと、

「春瑠、今くらいは二人きりにしてあげようよぉ」

 と、ばつが悪そうにしている大紀が、あけ放たれた扉から控えめに覗き込んできた。

「やだ! 私は緋咲さんを助けた命の恩人なの!」

「そうかもしんないけど……」

 大紀とのやり取りを見ていた緋咲が思い出したように声を上げた。

「少しだけ覚えてる。声をかけてくれてたのは春瑠だったんだ。あの時はありがとう」

「え~? 緋咲さんにそんな風に言われたら嬉しくなっちゃうな~♡」

 眉を吊り上げていた春瑠が、一瞬で表情を緩ませた。

「今度何かでお返しするわ。楽しみにしてて」

「はい♡」

 春瑠がようやく機嫌を直して大紀に向き直った。

「二人はどうだった?」

 春瑠の質問に明継が身を乗り出す。あの日から姿を見せない清光(きよみつ)元晴(もとはる)の事だろうと察したからだ。

「体は大丈夫なんだけど、清光が思いつめてるみたいで」

「そう……」

 大紀の回答に春瑠が表情を暗くする。
 明継と緋咲は顔を見合わせた。
 寂池村(じゃくちむら)での惨劇を目の当たりにした明継と緋咲は、二人の事をいつも気にかけていた。今回の件でまた気に病んでいるのではないかと心配していたが、それが的中してしまったらしい。

 そんな二人を目の当たりにして、大紀は胸を張ってにっこりと笑った。

「大丈夫だよ。二人の事は僕に任せて」

 明継と緋咲の視線が大紀に集まる。
 二人は目をまん丸にして、感心したように言う。

「大紀……変わったな」

「うん。すごく頼もしくなった」

「そうかな?」

 大紀が照れくさそうに笑った。
 春瑠もその様子に笑みを浮かべる。

「大紀は私の心を救ってくれた人だもん。清光も、必ず元気になるよ」

 大紀と春瑠が顔を見合わせて頷いた。

 明継は、そんな二人の姿を穏やかに見つめた。
 明継や緋咲を含め、ここに集められた六人は様々な境遇の中で育ってきている。
 ”能力者”であることを条件に霞月(かげつ)に集められた人間たちが、今ではそれぞれの立ち位置や居場所を見つけて懸命にお互いを支え合っている。血の繋がりこそ無いが、心の繋がりは強く、それは”家族”という形にも近いものがあった。
 それゆえに明継は、春瑠と大紀が清光の心を癒してまた騒がしくじゃれ合うあの日が戻るのだろうと、確信していた。

 明継を見つめる緋咲の口元が綻ぶ。
 それに気が付いた明継が目を合わせると、どちらともなく手を繋いだ。

「私たちがこの子たちを護らなくちゃね」

「そうだな」

 緋咲の言葉に、明継が力強く頷いた。