一郎くんは、スピーチコンテストの後一週間学校を休み、その翌日、何事もなかったかのように学校へ登校してきた。そればかりか、“球技大会に出る”と言って皆を驚かせた。
この学校の球技大会は、三月に行われる。
スピーチコンテストから二週間ほどしか間がないこともあり、ほとんど練習ゼロ・ぶっつけ本番で行うスポーツ熱血ガチバトルだ。
内容は、男女三種目ずつの競技。ドッヂボールとバスケは男女で共通、その他に、男子はサッカー、女子はバレーボールが追加される。基本的に、誰がどの競技に何回出るかは各クラスの自由。届出を出すことなしに本番もどんどん選手を交換して柔軟に対応して良い。ただ、それぞれの三種目のうち、全員が必ず一つの競技にレギュラーメンバーで登録する必要がある(=一度は出る必要がある)という絶対のルールがあるだけだ。
つまり、一つだけ出れば、後はずっと怠けていて良い。観客に徹することができる。運動競技が苦手な人は、それで大分ほっとするだろう。
…しかし、一郎くんは別だ。一度の参加も、彼の精神には大きすぎる負担をかけることになる。彼のことを一年間見てきた皆は、体育委員主導の話し合いの中、彼をその“絶対のルール“の外へ連れ出してもいいと言った。つまり、補欠のみ……すなわち、出場しなくても良い枠だけ……に登録しようかと提案したのだ。しかし————
「…迷惑をかけると思う。でも、僕は出てみたい。」
これが、一郎くんの答えだった。
それならば。クラスメイトは一も二もなく頷いた。もともと絶対のルールなのだ。ただでさえてんてこ舞いの体育委員も、さらなる面倒から解放されて喜んだようだった。
サッカーとバスケは苛烈な接触戦の危険が高い。一郎くんが参加するなら、ドッヂボールのみ。
—————ボールが殺人鬼に見えたこと、あるかい。
あるわけがない。彼の心を知ることができる人はこの場にいないだろう。私たちは絶対に、共感できない。ちょっと想像してみることはできても、本質的な理解には到達しない。だから、みんな何も言わないし、言えない。それでも、一郎くんの覚悟を感じとることはできる。そして、一郎くんの決断の結末を、最後まで見守るのだ。私たちには、それができる。
………そう、信じたい。
選手決めが終わって、掃除が始まった。一気に教室が喧騒に包まれた瞬間のことだった。私が黒板を拭いていると、当番の日ではないため帰宅しようとしていた一郎くんに、二人の男子生徒が近づいた。
田中碧くん。
伊坂翔太くん。
「おーい、伊藤!」
「……今ちょっといい?」
硬式テニス部のエース、異名:スマッシュマン田中。
サッカー部のスターゴールキーパー、異名:サイレンサー付き自爆流れ星の伊坂。
え?と私は首を傾げた。彼らの共通点といえば、二人とも運動神経抜群で、今回の球技大会ではクラスメイトから神様のように祭り上げられること間違いなしだ……ということ。ただ、性格的にあまり馬が合わないというか、ムードメーカーの田中くんと寡黙な一匹狼の伊坂くんでは、一緒につるんでいる姿が見られることはほとんどない。ところが彼らは何を思ったのか、帰宅間際の一郎くんを、一緒になって呼び止めたのだ。
「……ん?」
一郎くんはくるりと振り向き、やはりというか、首を傾げた。すっと目が細められる。山を降りても変わらない、彼の蛇のような冷徹な空気を感じたのか、伊坂くんがうっと息を止めるのがわかった。しかしさすがはクラス一番の陽気なキャラクター、田中くんは全く動じず、堂々と一歩前に踏み出した。そして流れるような自然さと真剣さで、「なあ、球技大会のことなんだけど。」と切り出す。
「ああ、うん。」
なるほど合点がいった、という調子で一郎くんが頷く。確かに、少なくともこの二人が一緒に連れ立っている理由ぐらいの想定はつく。
田中くんは一瞬目を泳がせて、そして観念したように深く息を吸った。
「ドッヂボール、俺らがそばについてるから。」
「………え……。」
まさかこんなよく有りがちな台詞が飛んでくるとは思わなかった。そんな表情を浮かべる一郎くんの視線から逃げるように、田中くんはぐしゃぐしゃと頭をかいた。
しばしの沈黙の後、一郎くんが目を伏せて、ゆっくりと唇を開く。
「……僕は鈍いから、二人のそばをキープ出来るとは思えないよ…」
「第一に、伊藤の方に行く前に俺たちが全部キャッチしてやるよ。」
「……え……。」
堂々たる田中くんが、遮るように言う。
一郎くんは少し目を見開いた表情で固まった。当惑したような、と言ったほうが正しいかもしれない。
少し恥ずかしそうに、田中くんがニカッと笑う。それに乗じるように、今まで黙っていた伊坂くんも口を開く。独特のユーモア(?)のセンスを持つ彼は、微笑みながらのんびりしたトーンでボソリと言った。
「……それに僕はサッカーボールに虐められ慣れてるから、いざとなったら盾にもなるし。」
「あぁ、そうそう!俺もテニスボールに眼鏡割られたことあるぐらいだし、ま、俺たちも出来るだけチーム全員カバーして守るつもりだからさ。それで少しは緊張ほぐせたら良いかなって。」
二人と言葉をやりとりした後も、一郎くんは、春の海のように凪いだ静かな表情を崩さない。しかし、その凍りついたガラス玉のような冷たい目が、少し、細められたようだった。
「…ありがとう。二人とも。」
「まあ、俺はこーゆー時しか活躍できねえからな。」
「……僕も人の役に立てると思うと嬉しいから、おあいこだよ。」
もうすぐ春。クラスも解散が近い三月の、最初の一週のことだった。
♢
——————アリーナに備え付けられた、埃っぽい体育倉庫において。
「球技大会で、ダンス?!」
「そうそう。短くて面白いのを一曲、踊ってみるのはどうかなって。」
「踊るって、どのタイミングで?!」
「うーん。開会式か、閉会式。……閉会式はみんな疲れてるだろうから、開会式が良いのかなぁ。」
「むむむ。新入生歓迎会の準備と通常の球技大会の準備とその他プライベートの諸々と並行して、ダンスをプラス………ぐぎっ!過労死の文字がっ!」
「あ、あの!無理だったら大丈夫だよ!別に大したことないただの提案だから!」
「いいやそうはいかない!」
「そ、そうですか。」
球技大会。
ボール競技が嫌いな人には、ただの苦行で終わってしまうかもしれない行事。せめてそこにちょっとした清涼剤を提供できないだろうかと、私は考えた。
誰でも見て楽しめる踊り。ただ何も考えずに笑ってしまうような、エンターテイメントを目的としたダンス。別にダンスとしてのクオリティを目指すわけではないので、メンバーをダンス部で固める必要すらない。
それを、私は新部長さんに提案してみたのだ。
栗山焔。別のクラスに、栗山涼という名前の双子の男子がいるらしいともっぱらの噂。ちょっと変わった人だが、“勉強以外ならば“何にでもエネルギーを注ぐ、まるで永遠に燃え尽きない花火弾のような人だ。ダンス部の部長になったのも、その地位に自ら手を挙げて立候補した唯一の部員だったからだ。
彼女と私は、キャスター立脚式の大きな鏡をガラガラ引き摺り出して、大きく一息ついた。
狭い体育倉庫から鏡を傷つけないように注意しながら移動させるのは、結構神経を使うので大変なのだ。
栗山さんはうーんと伸びをすると、顎に手を当てて考えるようなそぶりを見せた。
「……むぅー。あんまし長い曲じゃなくて良いなら、なんとかなるかなぁー。」
「うん、うん。私の方も、ちょっとした余興程度って考えてるし…そんなに豪華で本格的なのにするとかえって興味ない人が冷めちゃうと思うし……」
「ふーむふむ。じゃ、今日の部活で提案してみるよ。どちらにせよ、私の一存で決まるようなもんじゃないしね。」
「ありがとう!」
「あ、あと一応踊りたい曲の候補くらいは見繕っといた方がいいかな。別にそれが採用されるわけじゃないかもしれないけど、イメージ掴むのは大切だし、提案した本人が何も考えなしってのも無責任な感じするから。」
「そ、そうだね。」
「そんじゃ私、ラジカセ借りてくるよ!適当に良い感じで時間潰しといて!」
「え?は、はい!」
栗山さんが嵐のように去っていったあと、私はどこかぼーっとした気分だった。柄にもなく、“新しいことを提案”などということをしてしまった。心臓がポカポカしているような、頭の中をノイズ虫が行進していったような。
あんまり、好きな気分ではない。緊張した時によく陥る、高揚と動揺が混ぜこぜになったような状態だ。
(………それでも。)
私はフーッと息を吐いた。
—————私は、宇宙そのもの。
私、という極小の点。暗黒のこの世界に漂う、ただの塵屑。それが、膜を無くして溶け出した瞬間、無限に拡大してゆく。限りなく大きな存在になった時、私に怖いものはない。好きなことを、好きなだけやればいい。周囲を流れるちょっとしたエネルギーの気まぐれが、この私自身の世界に及ぼす波紋の大きさなど、たかが知れているのだから。
—————海は、海を泳ぐ魚によって傷つけられることはないのよ。
この後に集まった部活のメンバーたちも交えた協議で、ミニダンスの発表が好意的に受け入れられたこと。そして翌日にその話を体育委員会に持ちかけたところ、彼らと協力して踊ることが正式決定されたこと。とある幼児向け人気アニメの主題歌を踊ることが決定し、最終的にそれを踊ることに決まった合計六人のうち、私がリーダーに任じられたこと。
それらの全てがどこか遠い国の出来事のようで、ふわふわと掴みどころのないものだった。ただ、これは実際に起きていることで、夢ではないのだという実感だけは常にあった。世界の片隅が、変化を求めて動いている。それも、ただ動いているのではない。この私が、動かしているのだ。
酔い始めていたのだ。
いつから?
わからない。
けれども、夢に、酔っていた。
—————なぎ、ちゃん?
あの瞬間。何かががらがらと音を立てて崩れた。
そうだ。昔々、まだ私の魂が真っ白だった頃。
一郎くんと一緒に、何度も遊んだ。砂場で、ブランコで、ジャングルジムで。
その時に、話したような気がする。一郎くんの家は、“藤神寺”というお寺なのだと。藤のお花の笠を被った、綺麗な花嫁さんみたいな山なのだと。
私が彼に惹かれていたのは、懐かしかったからなのだろうか。幼い頃の無垢な心を、思い出させてくれたからなのだろうか。何度も助けてくれた彼に恩返しをしたいと願うのは、当然のことではないのだろうか。
……わからない。いつだって私は、わからない。わからないものをわかろうと手を伸ばし、一歩一歩砂の海を進んでゆく。それで、何かが変わるだろうか。変わる。景色が変わる。そしてまた、別のわからないことが、目の前に立ち塞がる。
私が見ているのは夢?この世界って何?宇宙みたいに広がって、最強になったみたいに錯覚して、私はやっぱりちっぽけな小魚にすぎないんじゃあないだろうか。
「——————あっ!」
視界がブレる。これは何?私の足が、階段を踏み外して、宙に浮いて、灰色の地面が、どんどん近くに……
「ちょっと!今誰か落ちた!」
「え?階段の事故か?!」
ガクン、とものすごい衝撃と共に、私は右脚から地面に落ちた。ダンス部が終わった後、学校の敷地から通学路に出る近道のために毎日使っている石段。少し幅が狭くて急なので、暗い時は遠回りだとしてもわざわざ迂回していく人も多い道だった。
私は信じられないような面持ちで目をカッと見開いた。
この私が。運動神経と落ち着きには自信があったこの私が、階段から足を踏み外した。
グシャリとボロ雑巾のように倒れた私の鼻先には、コンクリートがあった。砂色の舗装地面。冷たい石の塊。それが、ふいにじわりと滲んだ。何の前触れもなく、想像を絶する痛みが襲いかかる。ぶつけた脚全体が稲妻に打たれたように痛みを発して、私は体をくの字に曲げて必死に呻き声を堪えた。
「……ねえ!早く保健室の先生呼んできて!」
「まだ学校にいるかな?」
「さっき見かけたからまだいるはず!足やっちゃったみたいだから、担架もお願いして!」
「了解!」
痛みで頭が真っ白になる。
何も考えられない。
私がこんな怪我をしたことは未だかつてない。
不注意が払った代償は、大きすぎるものだった。
「—————骨折ですね。とはいえ、正しく言えば大きなヒビという感じです。ヒビの形も綺麗ですし、比較的対処しやすいところに入ってくれました。大人しくしていれば大体一ヶ月で完治します。入院する必要もありませんし、とても運がよかったですね。」
たまたま居合わせた生徒が養護教諭を呼び。養護教諭が両親に連絡してからタクシーを呼び。
担ぎ込まれた病院で私を診たおじいさんの医者は、調べた結果を色々総合して、そう結論付けた。
「……あの、軽い運動はいつ頃から許可されますか?」
「えー、具体的に何をするつもりなのでしょうか。」
「………ダンス、とか。」
「内容にもよりますね。基本的にはひとまず一週間絶対安静で、そこからは経過を見て判断します。しかし足以外の部分はむしろどんどん動かして血流を良くしてもらいたいので、座った状態での踊りや手拍子などで参加できそうならぜひ頑張ってください。」
医者のおじいさんは優しく穏やかに微笑む。
私はただ呆然と、その仏のような白衣のお化けを————当時の私にとっては他に形容のしようがなかったのだ—————穴が開くほど見つめるしかなかった。