1、2、3、4、5、6、7、8。
カウントに合わせ、五人のサンタクロースが軽やかなステップを踏みながら前に躍り出る。八匹のトナカイたちは一旦下がって、真っ白な雪をイメージして三人一組で回転しながら伸びやかな振り付けを。
ただ一人だけが踊る花形は、プレゼントの中身をイメージしたピエロ人形の格好。幼い頃からバレエを習っていたダンス部のスターが、堂々と圧巻の舞いを披露。
最後に紙吹雪を散らして………
「「「「メリークリスマス!!」」」
ポーズ。
決まった。
肩で息をするダンス部のメンバーは、みんな真っ赤に頬を蒸気させて笑っている。私も通販で買ったサンタ帽子————しっかりピンで固定したはずなのに完璧にずり落ちている————を手で直しながら、カメラを構えた観客のクラスメイトにピースサインを送った。
牧田恵里ちゃんが一生懸命に手を振っているのはいつも通り。
どんな行事にも首を突っ込む田中碧くん、水原優香さん。たまにふらりと現れる阿部麻子さん。それから伊坂翔太くんも、『ダンス部主催:クリスマス特別ライブ!!』を観にきてくれたようだ。
なんだかんだ忙しい人の多いこの学校では、アリーナで放課後に開催する自由参加ライブへわざわざ来てくれる人はかなり少ない。意外な観客の同級生率に驚きながらも、私は嬉しかった。
あまり活発とは言えないダンス部。
そこまで好きだとも言えない部活動。
身を入れて頑張っていたかと問われればそうでもないし、高校生活で一番胸に残るような思い出や友人も、ここではあまり出来なかった。
それでも毎週二回一時間ずつ、コツコツと活動を続けてきた。六月には梅雨の定期ダンス会の上演、十月の文化祭の時は大量の曲を踊り、メンバーの誰もが振り付けを覚えるために、自宅で何度もビデオを見ながら練習した。
その、集大成。
二年生で最後まで頑張って続けていた先輩たちも、大半が今日ここで抜けてしまう。
「……よし。じゃあ、みんな体育館の真ん中に集まろう!」
そう、この部長さんがダンス部を引っ張るのも、これで最後だ。
夢芽先輩。いつも頭の天辺でお団子を作っている、勝ち気でお洒落で笑顔が眩しい天性のリーダー。
彼女も今日で引退し、部活は一年生たちが主導していくことになる。
……と、突然二年生の先輩たちがてんでんばらばらの方向へと駆け出して、アリーナの外へと走り出した。突然の先輩たちの失踪。戸惑ってキョロキョロ辺りを見回し始めた私たちに向かって、一人だけ残った夢芽先輩が、マイクを拾って電源を入れると、えへんと咳払いをした。
「えー、今日でクリスマスライブも無事に乗り切りまして、私たちも引退です。……いやぁ、ほんっとに寂しいです!っていうか、多分寂しすぎて部活また顔出しに来ちゃうと思います!」
キラキラモールで飾られたマイクを握る先輩。私たちはだんだんと状況を理解し始めて、真剣な表情で先輩の顔を見つめ出した。…これは、別れだ。先輩たちが用意した、別れの舞台だ。
少しずつ掠れてゆく先輩の声。とうとう夢芽先輩の言葉にぐすん、と鼻声が混ざって、みんなが苦笑いを浮かべた。先輩も泣きながら笑っている。
「でもなんと言っても、うちのダンス部のモットーは笑顔です!部長なのに泣いてごめんなさい!これから精一杯笑わせるので許して下さい!二年生が最後にみんなに贈るのは、オリジナルダンス:『ずっとずっとありがとう』!!」
先輩の宣言と同時に、大音量でアリーナに音楽がかかる。同時に、どこかへ行ってしまっていた先輩たちが舞台上へ躍り出てきた。
サプライズダンスだ。
一年生から隠れて、一から十までこっそり準備し、練習場所も時間も限られる中頑張って練習していたのだろう。キレのある先輩たちの踊りは本当にカッコよくて、眩しかった。夢芽先輩みたいに泣いている先輩もいて、こちらまで貰い泣きしてしまう。
煌めいている。
照明だけではない。
弾け飛ぶような笑顔と、流れる水のようにスラスラと溢れ出てくる言葉。
———多分寂しすぎて部活また顔出しに来ちゃうと思います!
心からの言葉だった。躊躇いもなく、臆面もなく、堂々と言ってのける。キラッキラに輝く、先輩。
来年、同じことをする時に。後輩に別れを告げる言葉の中で。私にあれが、言えるだろうか。いや、きっとあんな風には語れないだろう。
別にそれでいいし、私が夢芽先輩みたいになる必要もない。
落ち着いた表情で。少しだけ冗談を交えて喋って。キッパリとダンス部との関係を絶って受験勉強に集中する切り替えを確立する。もしかすればちょっとだけ、涙が出るかもしれない。
前に立って喋ることさえ出来れば問題ないのだ。それだけでみんなしんみりと感動できる。今お別れをしようとしている他の二年生の先輩たちも、同じだろう。きっとこのダンスの後に集まって、一人一言、後輩へのメッセージを喋る時間になるはずだ。その時には、恥ずかしがり屋の先輩も、お茶目な先輩も、何だかんだそれぞれ良い雰囲気を作って語れるはず。
(………そう、それくらいならみんなできる。)
私が心の中で呟くと同時に、どこからか疑問の声が湧き上がった。
—————本当に?
—————誰かの前に立って喋ることすら出来ない人だって、いるんじゃないの?
その声は、私自身の声だった。間違いなく、見て見ぬふりをしようとしていた思考へと、その声は私を誘導する。
(……こんな時まで、私は。)
先輩のお別れダンス会の最中だというのに。全く、私は。私は自分自身に呆れ返りながらも、認めざるを得なかった。出会ってからおよそ九ヶ月。四六時中私の頭を支配するようになってきた、一人の男子生徒のことを。
伊藤、一郎。
入学式の日に、私の隣に座っていた男子。藤笠寺の住職の後継息子。ものすごくおかしな人。
(…ねえ、一郎くん。私はやっぱり、わからないよ。)
彼は一体何者なのか。私が彼に抱いている気持ちは何なのか。私の周りは、わからないことだらけだ。
この前、姉に向かって“私は恋をしているかもしれない”と口にした時。何かが致命的にずれていると感じた。私の感じている気持ちは、そんなに甘酸っぱくキラキラしたものではない。ただ、病気になった時に梅干し入りお粥を啜ると安心し、気分が落ち込んだ時に森の中で鳥の声を聞くとすうっと心が浄化される……そんな風に、空いた傷口を癒してくれる存在として、認識しているのではないか。そんな気がした。
(一郎くんは、どうして浄化するのがあんなに上手なのだろう。)
話すたびに、不思議だった。
森と話しているような、心の洗濯屋に真っ白に洗ってもらっているような。
個人と個人の対話がものすごく上手な、それなのに人前で喋るのが苦手な変な人。
入学してからすぐの頃、英語の授業でグループごとのプレゼンテーション発表があった。一郎くんは一言二言喋って、それでお終い。後は残りのメンバーがほとんどの語りを担当。…もったいない、と思った。あんなに穏やかな声を持っていて、英語も上手なのに、なぜ不自然に思えるほどほんの少ししか喋らないのだろう、と。
…しかし、すぐにわかった。
彼は喋らなかったのではなく、喋れなかったのだ。しかも、あれでも頑張っている方だった。
私たちの所属したクラスでは、誕生日を迎えた人を放課後に祝う風習が出来上がっていた。ハッピーバースデーの歌を歌い、祝われた当人は教壇に立って一言二言お礼の言葉を言う。たったそれだけの小さな行事だが、クラスの結束力を強める力はバカにならない。
誕生日は回っていき、ついに最近、一郎くんの番がきた。
教壇へと登った彼は、傍目にもはっきりわかるほどに青くなっていた。何かを言おうとして、失敗。唇を何度か震わせた彼は、結局ただスッと頭を下げて、転げるように教壇を降りた。
入学初日。
彼はきちんと自己紹介を行なっていた。
名前と、よろしくお願いしますの挨拶だけだったように思うが、前に出て喋ることは、問題なかったように見えた。
英語のプレゼンテーション。
少しだけだったが、それでもきちんと自分の出番は全うしていた。
しかし、現実に、それが出来なくなっている。
授業で指名されても、一郎くんが喋ることはない。一度国語の授業の丸読みの時間、教師に『お前はやる気がないのか』と雷を落とされた後、その教師の授業の間だけ保健室へ逃げるようになってしまった。最近、どんどん顔色が悪くなっているように思える。
寺へ行っても、中々会えなくなっている。藤笠山の自然の中でさえ、目を逃げるように逸らされることまであった。
一郎くんは誰よりも落ち着いているように見えて、実はそうではないのではないか。危うい薄氷を踏みながら、ピシリと走る亀裂に怯えながら生きているのではないか。
私は不安だった。彼の助けに、なりたかった。
姉と話してみてから、私はまた色々考えた。考えすぎて、夜が明けそうになり焦ったこともある。確かに彼のことは気になる。けれども一生一緒にいたいとか、独り占めしたいとか、そのような気持ちは湧かない。私が人生のパートナーに選ぶのは、きっと彼ではない。だけどそれでも、関係を断ちたくない。
天地自然の流れから自分を見下ろして、私は自分というものの不思議さを実感した。
私の中には、様々な矛盾がある。
冷めているようで、燃えているよう。
会いたいようで、会いたくない。
知っているようで、知らない。
望んでいるようで、捨ててしまいたい。
ぐるりぐるりと渦巻く夜の吹雪。今頃、山には雪が積もっているだろう。クリスマスのイブには、幾人の恋人が笑って泣くのだろう。
————考えるのに、疲れたな。
もうごちゃごちゃ考えるのは、しばらくお休みにしよう。
私はただゆっくりと、アリーナの大きな窓の外を見上げた。
……見上げた空に、パラパラと、粉雪が降っている。
♢
雪を被った山は、美しかった。
寺の屋根にも銀色に煌めくふわふわ帽子が鎮座している。
私はざくりざくりと雪を踏んで、山路を歩いた。驚いたことに、藤の花はまだ咲いていた。麓をぐるりと囲むように、年中薄紫色の花弁を揺らしている。肝心の『藤神寺』の周囲では枯れた藤棚しかないというのに。
寺にお参りして、好きな場所に腰を下ろして、空を見上げる。
一人ぼっちの参詣にも大分慣れた。手を叩いたりお辞儀したり、当初は緊張でガチガチになっていたけれど、もっと自然に手を合わせられるようになった。今ならわかる気がする。初めて一郎くんと出会った時、彼が枯れた藤棚にお辞儀をした理由が。
この山では、何もかもが精霊なのだ。寺も。鐘つき堂も。竹藪も。池も。動物も。人間も。箒も。木の実も。花も。何もかも。
自然に畏怖の念が湧いてきて、頭が下がる。そっと手を合わせたくなる。
はぁっと息を吐くと、白い呼気が立ち上った。一瞬、霞が命を得て、そして消える。
ふと、私は思った。もしも霞たちに心があったら、“死にたくない”と思うだろうか。あの一瞬ばかりの人生では満足できないと、啼くだろうか。
…おそらく、そうはならない。
形こそ変われど、天地自然のエネルギーの一部として、霞の命は消えることがない。緩やかに、しかし次々と変化しながら、ぐるぐる大地を巡る。霞は雲になり、雨になり、海になり、また雲になり、あるいは動物の血液となり、呼気となって吐きだされもする。
……宇宙に境界線など存在しない。私たちは宇宙そのものだと言った、姉の言葉を、思い出す。
確かに、その通りだ。
私個人がどんなに恥をかいても。注目されても。悲しがったって。苦しがったって。人との違いを主張しようが、同じところを強調しようが。私たちは、宇宙の一部としてそこにあり続ける。
そう思うと、すっと心が軽くなった。
仏教の教えだ。
きっとあれを話してくれた時に姉の姿が一郎くんに見えたのは、気のせいではなかった。あれは、釈迦だった。私にとっての釈迦は、一郎くんだった。
「………会いたいな。」
呟いた。しかし、一人ぼっちだった。
しばらく待ってみて、それでも誰も来なかった。ただ、時々風に枝が揺れ、真っ白い粉雪が私のビニール傘の上にしんしんと降り積もってゆくのみだった。
私は少しだけ不安になった。この寺を訪れた時、誰にも会わないということがなかったのだ。どこにいても、何をしていても、必ず一郎くんや仁朗さんが出てきた。
……その際、かなりの高確率で、木の上や藤棚の上や屋根の上など、おかしなところから登場するのだが。
会いたい、と願った時などは、風の神様が味方しているのでは?と思うぐらいに早く参上してくるのが恒例だった。
……誰も、来ない。
おかしい。
いや、おかしいと思っている私が、おかしいのかもしれない。家族経営のお寺で、息子は山を自由に放浪し、母は台所に篭り切り、おまけに父の住職さんがしょっちゅう山の外へ遠出しているようなところだ。一度くらい誰にも会えない日があっても当然のことだろう。
私が諦めて、石の上に寝転がろうとした時、向こうの方でチラリと白い影が動いたのが見えた。
「………あれ?」
白い影は、ブナの木の上にある。そばには銀色の脚立が立たせてあるが、木登りした人物はすでにそんなものに足も届かないほど遥か上にいるようだ。ふわふわのうさぎのような、小柄な体。白い着物に、白い割烹着。あれはきっと………
「…………お雲さん?」
屋敷から出たお雲さんを見たのは、これで二度目だ。一度は花火大会の夜。二度目が、今日。
「なんで?」
しかも、やはりというか木登りをしている。この家族、本当にどうかしているのではないだろうか。
私は少し躊躇ったが、人恋しさも相まって、近づいてみることにした。ただし油断は禁物だ。もしかすると、精霊が化けているのかもしれない。
“化粧の下は暗黒の闇で、眼が獣”。
これが悪霊を見分ける最大の注意点だ。そうでない場合も、よく事情を知らないものに突き当たったと思ったら、できるだけ不干渉を貫くのがよいらしい。下手に手を出して面倒事に巻き込まれては叶わないと、私もこの一年で学んだのだ。
ブナの木の下にたどり着くと、私はグッと顎を上げて木の天辺を見上げた。…やっぱり、お雲さん。多分本物だ。まだ私には気づいていない。
このまま去るか迷って、そしてやはり声をかけることに決めた。面倒ごとを見つけたら、とにかく飛び込んでみる。もはや慣れきってしまった、私の流儀だ。
大きく息を吸い、腹に気合いをためる。
「こんにちは!ご無沙汰してます!」
叫ぶように上へ向かって呼びかけると、お雲さんが驚いたようにこちらを見下ろした。心底びっくりしたようで、細く凍りついた枝に捕まっていたお雲さんが、遥か上でつるりと足を滑らせたのが見えた。
さっと、私は青ざめた。
やってしまった。お雲さんが、落ちる。
——————人が、死ぬ。
私が駆け出すのと、ブナの枝に降り積もっていた銀の雪の塊が、バサバサッと飛び立つのとが同時だった。
銀色の砂粒の群れが、お雲さんの体全体を包み込む。煌めく巨大な蚊柱のような塊が、ゆっくりと、天から降ってくる。落ちてくる人をキャッチしようと腕を差し出し、足を肩幅に広げて踏ん張った格好から動け無くなった私を完全に無視してふゆふゆ漂い……その銀色の繭は、雪の布団の上にお雲さんを横たえた。
「………ぁ。」
私は一瞬安堵でへなへなと崩れ落ちそうになり、慌てて足に力を入れてお雲さんの方へ走り出した。お雲さんは、いつにも増して血の気のない顔色をしていた。しかし、駆け寄ってきた私の顔を見て、全くいつも通りに優しく微笑んだ。
「…なぎさんでございましたか。」
彼女は落ち着き払って正座へ座り直しながら、こんなことを言った。
「寒いですねぇ。雪虫の餅入りお汁粉を拵えましょう。小豆は苦手ではございませんか?」
「そ、その。さっきはすみませんでした!」
「おや。」
お雲さんはいつも通りだが、私はこのままでいるわけにはいかない。兎にも角にも、さっき驚かせて命を危機にさらしたお詫びをしなければならない。そう、私はせめてもの思いで雪の上で土下座を敢行した。…だが、お雲さんはどこか困惑したような表情を浮かべた。
「…もしや。あなたが声をかけた所為で私が落ちそうになったと、お思いですか?」
「えっと…逆に、違うんですか?」
「ええ、違います。」
あっさりと言われて、私の方が混乱した。あれを落ちると言わないのなら、他にどう説明すればいいのだろうか。
「私は夫のように身軽ではありませぬ。木に登る際は、脚立を。そして、塩を使います。」
「塩?」
「ええ。塩でございます。」
私が首を傾げていると、お雲さんが、雪の上を差し示した。へこんで雪がぐしゃっとなっている。お雲さんが落ちたところだ。私が固唾を呑んで見つめる前で、お雲さんが静かに唇を尖らせ、口笛を吹き出した。するとどうだろう。驚いたことに、雪の一部がキラキラ光りながら空中に浮き上がったのだ。
「…す、すごい…。」
雪、ではない。あれは塩だ。
太陽の光を浴びて銀色にキラキラ煌めきながら、塩の塊はブナの木の足元に転がっていた籠の方へふゆふゆ移動してゆくと、ファサッザザァーッとその中へ落ちるように注がれた。
「どうでしょう?」
「塩が……口笛で動く……ええ?!」
「私は台所で暮らす人間でございます。塩とは何十年来の魂の友でありますゆえ、この程度のことならば造作はございませぬ。」
少しばかり誇らしげに胸を張るお雲さん。きっと、本当に塩とは友達なのだろう。そうでなければ、塩に体を預けることが出来るわけがない。少しばかり空恐ろしく思いながら、私は「なるほど…」と呟いた。
「あのぅ、お雲さんはなぜここに?」
「雪虫を狩りにでございます。」
「……雪虫ってなんですか?」
「雪に紛れて木に降り積もる、特別な粉のことでございます。あれをスープの中の具材に入れますと……すなわち今回のようにお汁粉を作るのであればお餅に入れますと………それが、熱い汁の中で踊ります。」
「踊る?」
「百聞は一見にしかず。直にご覧になるのがよろしいでしょう。」
お雲さんに連れられて、お屋敷へと上がる。一郎くんは家に帰っていないようで、一番手前の部屋は空っぽだった。何度も寺を訪ねるうちに、一番手前の畳部屋だけでなく、洋風のテーブルが据えつけられた板敷の部屋や楽器部屋などへも通してもらうようになっていたが、私はここが一番好きだった。なんと言っても、縁側と繋がっているのがいい。
私はお雲さんが台所へすうっと姿を消したあと、そろそろと立ち上がって襖をずらし、廊下へと出てガラリと戸を開けた。
ひんやりと凍えるような冷たい空気が入ってくる。空気が水色に染まっているようだった。スケートで遊ぶのに十分なくらいカチカチに凍りついた、冬の海の色。しんしんと粉雪が降り続けていて、春には色とりどりだった庭の植物たちも、黒と白のツートンカラーだった。
手袋を脱ぎ、寒さで真っ赤になってしまった手の指を首の中に入れて温める。霜焼けの酷さで言えば姉よりはマシだが、私もかなり弱い。毎年もこもこの靴下やスリッパで防備しても足先がパンパンに膨れて痒くなる。この上手指まで侵食されてはたまらない。
ちなみに霜焼けの酷かった姉の話によると、彼女は幼い頃、手の指が破裂して包帯を巻き、それがくっついて剥がれなくなることの繰り返しでうんざりするほどだったらしい。…恐ろしい話だ。
今も手や足の健康を考えれば、今すぐに戸を閉めて暖房の効く部屋に戻った方がいい。縁側から眺める冬の山野の景色など、白黒で面白くもなんともないのだから。頭ではそれをわかっていながら、私は目の前の景色から目を離せずにぼんやりとしていた。
—————冷たい。
北風が私の頬を切るように吹きすぎてゆき、ざあっと遥か向こうの大樹の枝を揺すったと思ったら、雪をどさりと振り落とす。ザザァ。ザザーァ。サラサラ。トサッ。ダイヤモンドで出来た砂粒のように、透明にキラキラ光りながら落ちてゆく。
雪山。
水の結晶に包まれた、恐ろしく静かな場所。
なぜか、心地よい。
母親のおくるみに包まれて、揺り籠の真ん中で眠る赤ん坊になったような、不可思議な気分に満たされる。
いつまででも、見ていたいと願った。
哀しかった。
私という存在が、宇宙に対してどんなにちっぽけなものだろう。そして同時に、どんなに大きく広がっていってしまうのだろう。刹那だろうと、永遠だろうと。命というものは、どうしようもなく儚い。真っ当な現実だけでは耐えられないから、私はきっとこの山に来る。灰色の毎日に揺さぶりをかけて、見えていなかっただけでずっとそこにあった、たくさんの鮮やかな色に気づくために。
「————お汁粉、ご用意致しましたよ。」
はっと振り向くと、そこには湯気を立てるお盆を携えたお雲さんがいた。相変わらず白ずくめで顔色は青く、幽霊だと言われて十分納得してしまう容姿。しかしもう、私は怖がることはなかった。お雲さんは優しいお母さんだ。一郎くんが弟を亡くした日、彼女は息子を亡くした。きっと私などには推し量れないほどの辛い思いを味わったはずだ。母親にとって、子供がどんなに大きな存在であることか。
…しかし彼女は立ち直った。こうして立派に台所に立ち、家族やその友人や、あるいは精霊に贈るたくさんの料理を作っている。
お汁粉は、赤い漆塗りのお椀に入っていた。ちょうど二杯。お茶も二杯。
「ありがとうございます。」
私はにこやかに微笑んだ。お雲さんは、毎回必ず自分の分を勘定に入れる。そして、客も家族も自分も関係なく、完璧な等分で器によそう。こちらも余計な気遣いをせずに済むのでとても有難い。
お雲さんはちゃぶ台の上の一輪挿しをちょっと脇にどかし、ことんとお椀を二つ置いた。ゆらゆらと白い湯気が立ち昇っていて、熱々の出来立てであることがわかる。私が覗き込むと、椀の中で何かがむごむごと魚のように動いているのがわかった。
……これが、雪虫をお餅に入れた効果だろうか。
「うわぁ…。」
「紫色の小豆の海における、白い餅の遊泳でございます。粋でしょう?」
ぴょこん。時々、餅の塊が顔を出す。本当に生きているような、そんな不規則で滑稽な動き方だった。
「面白いです。」
私が言うと、お雲さんは嬉しそうに微笑んだ。その赤い瞳の奥に、小さな哀しみの情感を湛えて。
「……夫も。一郎も。次郎も。あなたのように目を輝かせてくれました。」
「次郎くん……あの、去年お亡くなりになった男の子ですか?」
その話は、あの花火の日に一郎くんから聞いている。
お雲さんは、お茶を一口啜ると静かに頷いた。
「ええ。あの子はヒグマのように強く、蛮勇に溢れた子でございました。…それこそ病気で死ぬことなど信じがたいほどに丈夫であったのです。」
「…………。」
「小児がん、でございました。現在の医療では生き抜く子が多いと聞いたのでございますが、それにも例外というものがありましょう。きっとあの子は、幼くして精霊界に召される運命であったのでしょうね。」
「…精霊界、ですか。」と私が呟くと、お雲さんは頷いた。
「山でございます。森でございます。風の夢に、花の香に、川のせせらぎに、あの子は今も息づいているのです。」
すうっと目を細めて、遠くを見るお雲さん。その頬はいつにも増して透き通り、血の通っていない雪人形のようだった。浮世離れした相貌は、今に始まったものではない。しかし、私には彼女がとんでもない崖っぷちをふらふら彷徨いているような、酷く危うい存在に思えた。
どうにかして引き戻さなければならない。けれでも、同時にそれに触れてはいけないと思うような、強い畏怖の念も湧き上がってくる。雪。氷。その極小の粒が集まって出来上がるという……雲。きっと、触れればとても冷たいに違いない。
私は、深く息を吸って、ゆっくりと口を開いた。
「あったかい。美味しいですね。」
「え……えぇ。そうでしょう。…これは伊藤家の秘伝のレシピでございますゆえ。」
お雲さんが、少しだけ自信に溢れたいつもの表情を取り戻して微笑む。私はお雲さんのその台詞を聞いて、なるほど!と笑った。少しわざとらしいかもしれない、というくらいに明るい声で私は喋る。
「すごくおいしいです!お餅が泳ぐだけじゃなくて、甘さもちょうど良くて、小豆の香が、ふわぁって鼻に飛び込んできます。これは羨ましいです!毎年食べたいです!」
「……ふふふ。森の力でございますよ。」
「森ですかぁ。私もいつかあやかりたいです。」
「自然の懐は広うございます。意識せずとも、みな生まれ落ちた時から招かれているのですよ。」
「なるほど。言われてみれば、確かに、そんな気がしてきました。」
私たちは、ふうふう吹いて冷ましながら、熱々のお汁粉を食べた。雪虫の入ったお餅は、口の中に入ってもモゴモゴ動き続け、私は未知の感覚に目を白黒させた。
しばらくして雪も止み、私たちもおやつを終える。そろそろ帰ろうかと立ち上がる。
玄関の前で、別れのお辞儀に頭を下げた時、お雲さんが私に向かってなんとも言えない目で微笑みかけた。
「………あなたは、良い子でございますね。」
「え?」
「いえ。私はもう数十年若ければ、一番の友人として付き合いたかったと…そう、ふと思ったのですよ。」
私は嬉しいような、こそばゆいそうな、むずむずとした感覚に囚われた。お雲さんの表情は柔らかかったが、真剣そのものだった。私はなんとか「ありがとうございます…」とだけ言って、口篭った。
お雲さんの年齢は四十半ばを超えているだろう。二人の子を産み、そのうち一人を亡くし、人生の酢いも甘いも噛み分けてきた初老の母。それでも私には、彼女がまだまだ若い学生の心を抱えたまま、必死に生きているように………つまり、彼女の魂は全く老いていないピュアな存在に思えるのだった。
「…私も、伊藤ではなかった頃もお雲さんに会ってみたかったです。手料理ただで食べさせてくれたでしょうから。」
「ふふふ。高校の時分、私の料理の腕前はまだまだ……いえ、はっきり言いますれば、壊滅的でございましたよ?」
「えぇっ?」
この数十秒間。
私たちは、少しだけ親しくなった。
そして私はもう一度頭を下げて別れの挨拶を言うと、閉じたビニール傘を片手に雪の山路へと足を踏み出した。
—————あぁ、寒いな。
コートを掻き合わせて手にハァッと息を吹きかけると、白く煙る。
美しく静かな銀世界。薄暗くなってなお、煌めくシャンデリアのように装飾された樹々の枝、黒々と胴体を魅せる大木の太さ。
—————あぁ、泣きたいな。
涙が滲む。幸せで、嬉しくて、楽しくて、……それでも、哀しくて。
なんで、美しいものを見ると泣きたくなるのだろう。
きっと、幸せというものがものすごくいっぱいここにあって、それでもこの世のどこかに、不幸が降り積もっているのを知っているから。
どこか、私の見えないところ。
…それがいったい何なのか、どこにいるのか。何もかもが、わからない。後から後から、どんどん真っ白に雪が降ってきて、全てを覆い隠すのだ。
いったい、私が熱い涙を流して、凍ったものを溶かしてしまえば、その正体がわかるだろうか。
きっと、わからない。
わかるはずの、ないものかもしれない。
……それでも。
——————今日はクリスマス。サンタクロースが、プレゼントを贈ってくれる夜。
今はひとまず、何もかもを忘れたい。