薄暗い部屋に、涼しい秋風が吹いていた。
私は静かな表情で、メモの数字をなぞるようにタップしてゆく。コールサインを押す刹那、少しだけ手が震えた。
通信音の後、しばらくしてガチャリ、と受話器が取られる。私は唇を舐め、電話の中に語りかけた。

「…海野銀子さんを、お願いします。」
「えっと、どちら様でございますか?」
「妹のなぎです。実家からの電話だと言って、プログラム担当の海野銀子さんを呼んでください。……あの、お忙しいところだったら、また後でいいんですが。」
「わかりました。確認をとりますので、少々お待ちください。」

電話に出た若い女性の声が遠のき、きらきら星の音楽が流れ出す。しばらく待っていると、ガチャリ、と音が鳴って誰かが電話をとったことがわかった。

「なぎちゃん?」

雑音が混ざった中に聞こえる姉の声は、ずっと変わらない…鈴の音を転がすような美しい声だった。これなら、プログラマーじゃなくて声優にでもなれたのではないかと思うこともある。
私はふっと少しだけ力を抜いて、姉の声に答えた。

「あの、全然急用とかじゃないから、忙しかったら後にするんだけど。今大丈夫?」
「全然大丈夫。むしろ頭煮詰まって目がチカチカして仕事の締切も二つくらい間際で大変だったとこだから、ちょっと休憩する言い訳ができて助かったんだよ〜ありがとう天使様!」
「えっと…それって本当に大丈夫なの銀ちゃん?」
「もちろん!っていうか、一昨日スマホを水没させて連絡手段が途切れてるの、もともと私のせいだしね。で、どうしたの?珍しいじゃん、電話なんて。」
「そ、その。実は……」

私からかけてきたというのに、歯切れが悪い。言い淀む私に、姉が電話の向こう側でん?と首を傾げる気配が伝わってきた。
私はふう、と深呼吸をして、自室のドアを確認する。大丈夫、閉まっている。ドアの板材は十分分厚い。…声が漏れる心配、なし。

私はできるだけ声を抑えて、電話の向こう側の姉に、白状した。

「————私、恋をしてるかもしれない。」

ぶっ!と。
姉が噴いた音が聞こえてきた。きっとコーヒーだ。姉は砂糖なしミルクなしのストレートブラックコーヒーが大好物なのだ。
今も右手に受話器、左手にマグカップでのんびり机に寄りかかっていた姉の姿をありありと思い浮かべることができる。しばしして、姉の声が戻ってきた。なんだか微かに震えているように思えるのは気のせいだろうか?

「……ご、ごめんごめん。私ものすごく動揺しちゃって。そ、それでどうするの?わ、私としてはなぎちゃんが健康で安全で幸せでいられるならその他は特に何も言わないつもりだけど、そ、そそれでもある程度の知識は色々と本を読んで仕入れないと危ないこともあるからららら……!」
「ちょ、ちょっと落ち着こうよ銀ちゃん。寝不足でおかしくなっちゃってるんじゃない?ほら、息吸って、息吐いて。それぞれ十秒ずつかけて。」
「う、うん!」

向こうで“快眠のための簡単呼吸法“を実践している姉の声を聞きながら、私はため息をついた。一人暮らしを始めた姉とはあまり喋っていなかった。それでも、ずっと変わらない…いや、天然ぶりが加速しているように思われる姉の声を聞いて安心したのも、確かだった。

「ふぅ………もう大丈夫です。お騒がせしました。きちんと落ち着きました銀子です。」
「そっか。よかった。」
「あのぉ…電話したってことは、私と話したかったってことだよね?…って、いやそれは当たり前か、ど、どうしよう。」

戸惑っている。姉も、突然の妹からの電話にどうしたらようか困って、本気で動揺している。

——————海野のお姉さんが強くあれたのは、海野がいたからだ。

八月のあの夜。
一郎くんの言葉を聞いてから、色々と考えた。
姉も人間だ、欠点があり、思い悩む一人の少女だ。…という認識はずっと前から持っていたが、今回のこれはどこか違うような気がしたのだ。

姉と、妹。
年齢がずいぶんと離れている私たち。様々な偶然が相まって拗れた毛糸玉のようにややこしくなってしまった。
他人から見れば、大して重要でもなんでもないことだろう。
しかし、当人たちにとってみれば、その日一日を生き抜くための、大事な大事な悩みの種なのだ。
……そして、いくら考えても答えの出ない問題でもある。

私は、深く息を吸って、姉に語りかけた。

「…私、色々とどうすればいいかわからないの。昔銀ちゃんが色々教えてくれたけど、それだけじゃ足りない。ねえ、やっぱり頼りになるのは銀ちゃんだけ。お父さんとお母さんには相談できない。私、今週の日曜日に会いにいくからさ。……ねえ、もし予定ないなら、話を聞いてくれる?」
「うん。もちろんいいよ。」

あっさりと承諾した姉。まるで、トマトを洗っておいてね、いいよ、とでもいうような自然極まりないやりとり。彼女の態度は、やはり大人だと、私は思った。色々な思いはあるけれど、世界で一番尊敬できる、憧れの大人。
私もいつかこうやって誰かに縋り付かれた時、100%の純度で「もちろん」の言葉が出てくる人間になりたい。

「…じゃあ、また日曜日に。」
「うん。待ってるね。」


プツン、と電話が切れる。
ふぅー、と大きなため息を吐いて、私はベッドに体を投げ出した。

薄暗い夕方の部屋。
もうすぐ晩御飯に呼ばれるだろう時間帯だが、しばらく眠りたかった。
ベッドの上、枕より上側にごちゃごちゃ持ち込んだ本やら人形やら小物やらを、目を閉じたままで探る。ふと、丸い粒のようなものが手に触れた感触で、私は目を開けた。

「……ん?」

手に握る。私が掬い上げたのは、薄い黄緑色の、美しい宝珠だった。ビー玉として、遊べるかもしれない。少し平べったいけれど、綺麗な球だった。

(…あれ。)

私は眉を寄せた。私は、これをどこで手に入れたんだろう?なぜ、私のベッドの上にこんなものがあるのだろう。

————座敷童の、枝豆。

ぎょ、っとして飛び起きる。

(………っ?!)

目の前にあるのは、あの夏の花火の後に収穫し、……持ち帰り損ねた枝豆。
そう、あの時は確かに山の中で失くしてしまったはずだったのだ。

花火で遊んでいた私は、突然目の前が真っ赤に染まって意識を失った。その後一郎くんが説明してくれたところによると、火蜥蜴のくしゃみが目の中に入って気絶したらしい。彼は、私の眉毛の上で影がチラリと動いて、紅色の煙が噴霧されたのを見たとのこと。火を食った個体がくしゃみをすると、唾液と食った炎が混ざって化学反応を起こし、幻覚剤のような効果を発するのだ。

吸い込んだ量がかなり多かったので起きた後もちょっとくらくらっときたが、立ったり歩いたりは出来た。家に帰るだけならさして問題はなかったと言える。
ただ、ポケットに入れていた枝豆がどこかへいってしまったことは悲しかった。初物だったと言うのに、くらりとふらついた瞬間にポケットから転がり落ち、夜の森の草むらへ消えてしまったのだ。

……もう、諦めていたのに。

あれから、幾日経っただろうか。からっからに水分が抜けて、すべすべツルツルに磨き上げられたダイヤモンドのように硬い石が、私の手の中にあった。

—————翡翠は、日に乾かしても翡翠でございますよ。

お雲さんの微笑みとともに、お日様の匂いが香ってくるようだった。もしかするとこの豆は、命のエネルギーに溢れた山の樹木の天辺で日向ぼっこをして暮らしていたのかもしれない。そして、十分に力を蓄えたのち、持ち主である私のもとにやってきた。
以前見た美しさは損なわれていない。それどころか、輝きが増しているようにすら思えるのだった。

私はちょっと考えて、この豆を、首から下げていた”夜の護符“の灯火の玉の中へ収納した。それはコロンと転がって、硝子体に包まれた魚の目玉のように、綺麗に収まった。

「……これは一生のお守りにしよう。」

静かに呟く。
『鰯の頭も信心から』ということわざがある。
これは詰まらないものを信仰する人を揶揄する意味合いが強い。けれども、心の中に“鰯の頭“を持っている人は、幸せ者だと思う。誰かの心を慰めるもの。温めるもの。言葉で説明出来ないけれど、確かな力を持っているもの。

私は静かな勇気が湧いてくるのを感じていた。







姉との待ち合わせ場所は、噴水のある公園だった。
ベンチに座って、白く泡だった水を噴き上げる灰色の象の鼻先をぼんやり眺める。カーディガンを着てきて正解だった。少し肌寒い。空は秋晴れだ。
姉は約束の時間から十五分ほど遅刻して、「ごめんごめん!間違えて特急に乗っちゃって!」と息せききって走ってきた。

あまりにもあっさりとした、そして慌ただしい再会だった。

「待った?待ったよね?ごめん。」
ぺこぺこ頭を下げる姉は、白いチュニックにベージュのチノパンを履いていた。やっぱり彼女には、清純な格好が一番似合う。薄くお化粧もしているらしい。すっかり社会人で、ちょっとだけドキッとした。

「いや、噴水眺めて暇つぶししてたし、全然大丈夫だよ。」
手を振って答えながら、私は内心少し首を傾げた。
なんだか、やはり記憶の姉と、目の前の姉が全然違う。大人っぽくなった、と言えばそれまでなのだけれど、何かこう、致命的にずれているというか……

「…ここ座っていいよ銀ちゃん。鳥のふんとかも付いてなくて綺麗だし。」
「うん。そうだね。ありがとう。」

姉が恥ずかしそうに笑って、私の隣に腰を下ろす。そんな姉の腰まで伸びた長髪が、さらりと風に揺れた。
————ん。腰まで伸びた長髪?
私はぽかんと口を開けた。恐る恐る、できるだけ冷静さを失わないように、深呼吸する。

「……えーと、銀ちゃん。髪長くない?」

私の信じられないような問いかけに、姉は嬉しそうに笑った。

「うん。長いよ。」
「ショートボブとベリーショートと坊主しか試そうとしなかった銀ちゃんが…?!長髪?!嘘でしょ?!」
「ちょっと!坊主だけは未遂だよ!誤解を招く発言はしないで下さい!」
「でもやろうとしてた!家族みんなでバリカン隠して全力で阻止しなかったら絶対実行してた!」
「失礼な!」
「事実だよ!」

その後もどうでもいい言葉の応酬が続き、私たちは息を切らしながら一旦黙り込む。
よし、まずは落ち着こう。そして状況を整理しよう。私はふぅーと息を吐いて、静かに目を閉じた。
まず第一に、姉は髪の毛を伸ばしている。…あんまり姉らしくは見えないが、似合ってはいる。
第二に、姉は大人っぽくなっている。…社会人だから、まあ当たり前だ。
第三に、姉からは仄かにいい香りが漂ってくる。…ローズだろうか、それともラベンダー?化粧水の匂いかもしれない。あるいは、シャンプー。

考えを巡らし始めて数秒後、私はとある結論に至って、はっと顔を上げた。

「もしかして銀ちゃんも…好きな人がいるの?」
「おや、なぎちゃんは鋭いね。」
「そっか。じゃあ……」
「でも、一ヶ月前のことだね。今はいないんだ。残念ながら。もう別れちゃった。」
「………え。」
「彼は絶対子供は作りたくないって。でも、私は赤ちゃんが欲しいから結婚したい、っていうくらいの気持ちだったから。さすがにこの人と添い遂げるのは無理だと思って、御免なさいと伝えたの。」

姉の表情は晴れ晴れとしているようだったが、その微笑みにすっと陰がさしたのを私は見逃さなかった。

「いい人だった?」
「うん。すごく。」
「そっか。」

姉の横顔を見上げながら、私は一瞬、何のためにここへ来たのか忘れそうになっていた。……これは、姉のための恋愛相談だったっけか。
戸惑いながらも、私の口からついてくる言葉は澱まなかった。

「……銀ちゃん。私この前、お寺でいい話を聞いたんだ。」
「どんな?」
「“家庭はこんがらがった糸です。こんがらがっているからいいんです。ほどけばバラバラになっちゃいます。”」
「…………。」

私は、猿のように朗らかに笑う狼人間の言葉を思い出していた。彼も、『この言葉は僕のじゃなくて、受け売りだけどね。』と断りを入れていた。私にとっては、彼の口から発せられた言葉だからこそ響く、という意味では“彼の言葉”と言ってしまっていいのではないかと思えたのだが。まあ、それはそれ。これはこれ。

「思えば、私たちだってそうだよね。こんなにお互い仲が良くて、助け合って、思い遣って。銀ちゃんのこと、私は本気で世界一大好きだよって思ってる。こんな理想的な姉妹はいないだろうっていうくらい、幸せで愛しい関係だよ。これ以上を望んだらばちが当たる。それなのに、なんでこんなにこんぐらがっているんだろう。」
「…………。」
「多分ね、そういうものなんだよ。絡み合ってるからいいんだよ。私はそれを必死に解こうとしながら生きてきたけど、でももっと力を抜いて良かったのかもしれない。」

姉も私も、それぞれの運命と闘いながら生きてきた。
誰の人生も、驚くほどにこんがらがっている。
自分の心がうねって絡まり、他者と関わって絡まり、壁にぶち当たっては絡まる。

「誰かと結婚するなら、死ぬまでこんがらがり続けていられる糸を探せばいい。だってそれが家族だから。どーしても無理だな、絡まってるの我慢できないなって思ったらそれまで。……で、銀ちゃんは今回自分で選んで決めた。後悔するかもしれないけど、そんな悩み苦しみの壁すらを乗り越えて糸を断ち切った。誇りに思っていいよ。本当に尊敬するし、強いと思う。私にはできないと思う。私はいつだって、自分より大きな人に頼って生きてきたから。」

ふいに目に浮かんだ涙に驚いた。
玉のような雫がなんの前触れもなくぷっと湧き上がって、視界が滲む。止められない。私は自分で、なぜ泣いているのかもわからずに泣いていた。

……なんだか、前にも何度もこんなことがあったような。

私は、困惑したように喋るのをやめた。
姉が見つめている視線を感じる。
ぐんぐんと、胸の奥から突き上げてくる噴水のように、感情が溢れ出して止まらない。胸の中に、潮水を噴く象が棲んでいる。その鼻が上を向いて、コンクリートに開いた小さなひび割れから、水が漏れている。

どこにある。
泣いているのは誰だ。
わからない。
何もかも、わからない。

「……ねえ、銀ちゃん。」
「なあに?やっと自分の悩みを相談する気になったの?」
「…うん。」
「いいよ。全部聞いてあげるから。」

姉の優しい声が耳を打つ。私はひゅっと息を吸った。

「私は。やっぱり自分じゃ決められないよ。」

ぽつんと。
唇から漏れ出したのは、そんな呟きだった。


「決められないの?」

静かに、鈴のような声で姉が問う。私は歯を食い縛って俯いた。

「わかんない。何もわかんない。私、気づいたらお寺のあの子のことを考えてる。でも、あれは夢なのかもしれない。山に入って、森の空気を吸って。湿った雨の匂いを嗅ぐと、もう目の前に河童や狐の亡霊や座敷童や、いろんな精霊がいるように感じるの。あそこは空気が綺麗で、一番落ち着く場所。案内してくれる彼は、墨染の僧侶服で迎えてくれる。」
「…………。」
「それでも、私は怖い。あの子は多分、普通じゃない。絶対ASDか統合失調症だよ。本当に男の子かすらわからない。いつも幻と現実の境界線をふらふら彷徨ってるみたいで、勉強も運動もあんまりできないし、ただ優しくて、山の中限定で頼りになる、森の蛇神様みたいな人。あの子のお父さんもお母さんもいい人だけど、やっぱり変。関わりを絶った方がいいのか、このままで良いのか、むしろ逆にもう一歩踏み込んでみる勇気をもった方が良いのか。私自身の気持ちも何もかも、ぐるぐる堂々巡りで何にもわかんない。」

啜り泣きが、止まらない。
背中に、姉の手が触れた。静かに、さすりだす。
しばらくの沈黙。そして、姉がゆっくりと口を開いた。

「どうしろこうしろって、具体的なアドバイスは出来ないよ。それでもいい?」
「わかってる。」

姉は私の返事を聞くと、ゆっくりと天を仰いだ。そして、呟く。

「……世の中、狭くなったよね。」
「…………。」
「なぎちゃんは今、“自分”がどうしたいかで悩んでる。誰かと違う、特別な自分。最善の幸せな人生を歩むために、全部個人で道を選んでゆく、自分。でもそれって、結構大変じゃない?」

姉の穏やかな声が、思いやりという綿で私を包む。

——————懐かしい。

思い出の中の姉も、こうやって私を諭してくれた。ある時は哲学的な名言を交えて。ある時は笑ってしまうような歴史の奇怪な事件を題材に。姉は確かに数学の天才だ。しかし彼女の生きている世界は、数学や理論だけの範囲ではなく、もっと豊かなものだ。暇さえあれば読書をして、自分一人だけの世界に没頭して生きていたような人なのだから。その場から一歩も動かずに世界の果てまで旅をする、私とは正反対の少女だったのだから。

「でも大昔を思い出すと、全然違った。初めはみんな、“大地”のために生きていた。豊穣を願い、祈り、供物を捧げて天地自然の慈愛を請う。神様や妖怪だって、たくさんいた。もっとずっと時代が進んでくると、私たちは第二次世界大戦、“お国”のために命を散らして戦った。戦争が終わって経済成長が活発化すれば、“会社”のためにサラリーマンが死に物狂いで働いた。…それで、今は最終局面、“自分”という個人が全てを決めなければならない時代。これ以上縮みようがないほどに小さくなった世界。」
「………。」
「でもね。たまには、自分の魂が天地自然の一部だと思ってみると楽かもしれない。全てを任せ切って、ただただ呼吸するの。」

私の目の前で、姉の姿が変化を始めた。
真っ白なレース入りのチュニックとベージュのチノパンは、真夜中の色を映すビロードの如く闇の深い漆黒の僧侶服に。色白の肌がさらにすうっと色彩を失い、青白い人形のように。長い髪の毛は引っ込んで、背は縮み、微笑みが途絶えて無表情に。ただ、目ばかりが大きく見開かれて、真っ直ぐにこちらを見つめている。

伊藤一郎の姿の姉が、いつものように。まるであの森の中で川のせせらぎを眺めている最中のような自然さで、私に語りかける。

「…ほうらご覧、夜だよ。」

涙を拭って周囲を見渡すと、夜だった。そして、田舎だった。いつのまにか、さっきまでいたはずの真っ昼間の公園は跡形もなく消えていた。
紺碧の空。どこまでも広がる稲畑。金色の稲穂が、刈り入れ期を待ち侘びてゆらゆら揺れている。地平の果てまで覆い尽くした夜の闇に、うっすら田園地帯が水色に染まって見えた。

「これは…東北のおばあちゃんたちの家?」
「そうそう。いつか二人だけで訪ねて行った、秋の超忙しい時期の田んぼ。」
「……幻を操るなんて…。銀ちゃんにもこんなことできたんだ。」
「ん?こんなの、誰にだってできることじゃない?」
「え、そうなの……?」

………こんな不思議なことは、あの山寺の人間か、精霊しか起こせないと思っていた。
涙も引っ込むほど驚いて私が絶句していると、姉が穏やかに包み込むように微笑んだ。

「私たちは、地球全部…いや、宇宙なんだよ。ゆっくり目を閉じて、深く呼吸して…。エネルギーの塊が、ゆらゆら揺れている。」
「……どこに?」
「ゆっくり。ゆっくり。慌てない。エネルギーはそうね、森羅万象を象る、うーん、海水のようなものよ。ぐーるぐーる海の水が流れてゆく中を、ちっぽけな私たちが泳いでる。ほーら、闇の中に、青白い流れがぼぉっと光り、明滅し、うねりながら、揺蕩うているのが見えてくるよ……あ、別に“目“を開けろっていう意味じゃないからね。“心の眼“……“第三の眼“を開きなさい。大丈夫、これは誰でも生まれた時から持ってるものだから。」

ゆっくり。ゆっくり。呼吸の奥深く。奥深くへ沈んでゆく。
姉の言葉通り、大地へと呼吸を通してゆくように、静かに静かに、長く細く、染み渡らせるよう息を吐く。

「……あ。」

—————“私“は、白く柔らかな小魚だった。

気付けば、海が広がっている。
その真ん中に小魚が一匹だけで、冷たい海水に揉まれている。
敵はいない。
安全な場所だ。
まるで絵画のように美しい紺碧の闇。
ゆうらゆうらと、勝手気ままに泳いでいる。
一体どこに、行こうとしているのだろう。

「あなたの姿は、見えた?」

姉の声が、天と地から湧いてきた。
ごろごろと響く海鳴りのように、低く重々しい。その重厚さが、心地良かった。
私が頷くと、姉の声はなおも轟くように問いかける。

「それじゃあ、今からこの“あなたというお魚さん”を消してしまいます。いいかな?」
「………うん。」
「その魚の皮をよく見て。そんなものは、すべて幻よ。みんなは勝手に見えない手を創り出し、その手で海水をそっと囲って、“これは私” “これはあなた” などと言ってるだけ。だから静かに、その手を離してご覧なさい。勇気を出して、解放してあげるの。」
「…………。」
「小さな魚が、水に溶ける。皮なんて、鱗なんて、もともとどこにもないものだったのよ。さあ、そっと息を吐いて。吸って。……今よ。」

姉の暖かい手が、私の手を包み込む。私はぎゅっと握り返した。
まるで呪文のように、姉の声が辺り一帯へ二重三重にも響き渡る。

「私は、全て。全ては、私。……宇宙に境界線など存在しない。私たちは宇宙そのもの、地球をめぐる風であり、燃ゆる太陽の炎であり、暗黒のブラックホールであり、銀の金平糖を撒き散らしたように美しい天の川銀河である。この世を、全てを包み込み、受け入れる大いなる存在。そう、—————


——————私たちは海野よ。」


はらりと、紅葉の葉が一枚、私の前に舞い落ちる。
もう、秋も盛りの十月なのだった。
白い魚の影がチラチラと、公園の木々の間を縫って泳いでゆき、陽の光に差された瞬間、白く輝いて………散って消えた。