赤い夜だった。
本当はそんなことはありえないのだけれど、とにかく記憶の中の夜空は赤かった。
星も、月も、雲も。

「ダンゴムシは、お団子なんだよ。」

赤いベリー漬けになったような夜の公園で、私たちは砂場に座り込んでいた。突然のことだったと思う。イチローくんが、大の虫嫌いな私に向かって、突然手のひらに乗せたダンゴムシを差し出したのだ。ギョッとのけぞった私に、イチローくんはおかしそうに笑った。

「ねえ。なぎちゃんは、ただの、丸めたお団子が怖いの?」

差し出されたダンゴムシは、小さな丸い数珠玉のようだった。黒いつぶつぶ。命の塊。ゆっくりと赤く波打つ公園の中で、一匹のダンゴムシだけが、くっきりと黒かった。
保育園が一緒で、よく遊んでいた男の子、イチローくんは、痩せた青白い腕をぐっと伸ばし、ダンゴムシをもっと私に近づけた。

「よく見てごらんよ。おいしそうなきび団子だから。」
「きび団子って、桃太郎が腰につけてるやつ?」
「うん。でもこっちはもっと上等で、たくさんきな粉砂糖がまぶしてあるから、手に乗っけるとちょっともぞもぞするかもしれないよ。」

なるほど。そんな気がしてきた。
いや、まさかダンゴムシを団子だと納得したわけではなかったのだが、そんなに怖がることはないように思えたのだ。私は自分でもびっくりするほど安心して手を伸ばした。イチローくんが、ダンゴムシを一匹つまみ取り、私の手に乗っけてみせた。

「どう?」
「…とっても、おいしそうなお団子だね。ただ、真っ黒くろ助けみたいな変な色だけど。」
「きっと、黒胡麻団子だからだよ。」
「私、胡麻は嫌いだもん。」
「僕は好きだよ。」
「…うそだもん。やっぱり私も胡麻、好きだもん。」

ダンゴムシをコロコロ転がしながら、私たちはくすくす笑った。素手で虫に触れているのにもかかわらず、私は信じられないくらいに冷静だった。しばらく経ってダンゴムシがパカッと開いてモジャモジャの足が動き出し、突然くすぐったさに襲われた時も、ギャアーッと叫んで砂場に放り出しりはしなかった。ちょっと、ゾワッとした。しかし、それだけだった。

「…今日は赤いね。」

イチローくんが、唐突に言って笑った。私は意味がわからなくて、すぐさま聞き返した。

「何が?」
「なんだと思う?」

ニコリ。イチローくんの笑顔は、白かった。のっぺりしていて、まるで陰影がない。まるで赤い絵の具を洗剤で洗い流してしまったようだった。

「イチローくんの、血の色?」
「違うよ。」
「じゃあ、向こうのブランコの座るところの色?」
「ううん。」
「うーん。あっ、わかった!今夜の公園の色でしょう!真っ赤っかだもん。」
「残念。正解は、『僕たちの色』でした!」

保育園児なのに、随分とおかしな会話をしたものだと思う。
私はイチローくんが、ただ面白がって変な作り話をしているのだということを知っていた。それでいて、楽しいから乗っていたのだ。私たちは、それでよかった。
…それなのに。
不思議だ。思い返すと、思い出の中の景色はいつも変だった。イチローくんがこうだと言ったことは、全て本当のことだった。
『親分が黒と言ったら白いものでも黒』。やくざの世界にはこんな言葉があるらしいが、小学校へ上がった時分、まさにそんな出来事があった。

ある朝のこと。学校に登校しようとしたら、真っ黒なカラスが道路でゴミ袋を突いているところに遭遇した。黒いアスファストに、墨を流し込んだような濡羽がぬらぬら光っている。オレンジの皮やカップラーメンの袋などが散乱して、恐ろしく散らかった道路を、ツンツン、と我が物顔で歩き回るカラス。恐ろしくて恐ろしくて、ぞぞっと鳥肌が立った。真っ青になって動けなくなってしまった私に、後ろから声がかかった。

「どうしたの、なぎちゃん?」

振り向くと、イチローくんだった。黒いランドセルに、黄色い帽子。まったく普段通りのイチローくんは、道路のカラスを見て、全てを納得したようだった。落ち着き払った表情で、頷く。

「あれは、白鳥さんだよ。大丈夫だから、驚かせないようにちょっと離れたところを通っていけばいいよ。」

まるで魔法のようだった。その瞬間、そのカラスは白い鳥になった。あまりに自然だったので不思議に思う暇もなく、私はそういうものだと思って、ただただホッとした。白い羽の美しいカラスなんて変?そう。その通り。だけど、現実にそこにいるじゃあないか。

「僕は先に行くから、怖かったら付いてきてね。」

イチローくんが、私を追い越して、前に立った。私はイチローくんの背中のランドセルを見て、今度はさすがにアレッと驚いた。カラスだけでなく、黒かったはずの彼のランドセルまでが真っ白だったのだ。あっと気づいた時には、世界中が真っ白だった。辺りを見回せば、全てがケーキのクリームのような純白に染まっていた。雪を被った樅の木のように、桜の花びらも白く舞っていた。アスファルトは白く眩しく輝いていて、この世のものとは思えないようだ。
白い朝も…悪くないかもしれない。


……………いや、そんなわけがあるのだろうか?こんなのって、おかしくないだろうか?

—————赤い。白い。青い。黄色い。黒い。

いつだって、変わってしまうのは周りだけだった。私はいつだってただの私で、目が二つ、口が一つ、鼻が一つ。手の指は五本ずつで、眉毛は太くて繋がっている。髪の毛はまっすぐな黒髪で、肌は小麦色。目が大きくてまつ毛が長いので、目の綺麗なお嬢さんねと、声をかけられることが多い容姿。
…けれでもそれが、なんだというのだろう。人間は、人間なのだ。
さあっと染まってしまった絵画のような景色に埋もれてみると、自分が突然ものすごく不格好になったように感じた。手足は蜘蛛みたいに長いし、脳みそは無駄に重いし、体を構成する血肉は毎日生き物を殺して得た食べ物から出来ている。どこか場違いで、ズレている存在。絵の具の染み込んだスケッチブックの中に、泥のシミが一点、混ざっているかのような。

—————赤い。血。白い。目玉。髪の毛。黒い。黄色い。筋肉。

不恰好な私。おかしな景色。バランスの弾けてガタンと傾いた世界で、隙間が空く。
今まで見えなかったものが、見えるようになる。
そこにあったのは、暗闇。
漏れ出たものは、いったい何なのだろう。

くるくるっと呆気なく色を変える景色の中、いつもどこかで、誰かが泣いている声がある……そんな気がすることがあった。心臓から血を流しながら、苦しい、辛い、助けて、と泣いている。こんなにも呼んでいるのに、どうして誰も来てくれないの。私はここにいるのよ。土の中よ。水の中よ。火の中よ。と。
声のない叫びを聞くたびに、私は胸が締め付けられた。
泣いているのは雀かしら?熊かしら?私と同じ人間?…動物なのか、魚なのか、虫なのか、はたまた想像上の生き物なのか。それすらもわからない誰かが、泣いている。これを助けてあげられるのは、私しかいないとわかっているのに。景色の色の中で、唯一変わらない人間である私にしか、見つけてあげることが出来ないのに。
それなのに。わかっているのに。
見つけられない。助けられない。どこにいるのか、何をしてあげればいいのか、わからない。
どうしようもなく、私は役立たず。

イチローくんがいない時、色が変わることはなかった。必ずこの現象は、彼と一緒の時に起こった。そうしてその夜、一人ベッドに横になると、あの恨みの泣き声が木霊のように聞こえてくる。あまりの激しさに、忘れかけていた昨晩の胸の疼きが倍になって爆発する。

……全部、全部。夢なのかもしれない。
眠れない夜があっても、翌朝には乾いた枕。
私の心は大抵穏やかな凪のようだし、おっとりした性格も幸いして面倒ごとに巻き込まれることも少ない。
だから、私が荒れるのは夢の中だけ……そうに違いないと思う。そうであって欲しいとも、思う。

一年生の春が終わる、三月のこと。
私は小学校を転校して、イチローくんの魔法を忘れた。








梅の花が、散る。
紅い花びらが節くれだった黒い枝に点々と連なっていて、静かに雨がしとしと降っている。水色に煙るようなぼんやりした田舎道を、私はゆっくりと歩いていた。

父の出張先の家から通える範囲で、最も偏差値の高い高校へ入学した。もともと勉強は得意な方だったので、三年生で部活を終えてから半年あまり努力すれば、難なく受かってしまった。
特に英語が好きだった。どんなに忙しい日でも毎晩ラジオを聴いて、単語帳を一ページずつ進める。そういうコツコツが得意で、逆に数学のような直感的な教科は苦手。数学大好き人間の姉とは真逆だ。

ふと顔を上げると、懐かしいバスの停留所があった。保育園に通っていた頃、毎日これに乗っていたのだ。ひどい乗り物酔いのおかげで良い思い出がほとんどないが、それでも、思わずふっと唇が綻んだ。
もうあんなに酔うことはない。それが嬉しくもあり、寂しくもある。兎にも角にも、今はこれから通う高校へバスで行く練習をしなければならない。

「学校まで八駅……バスの中で英単語帳眺めたいし、ちょうどいい距離かな。」

独り言を呟いて木のベンチに腰掛け、暇つぶしにバスの停留所の名前一覧を眺めてみる。すると、記憶に引っかかるものを見つけた。ん?と顔を近づける。

『————藤神寺』

どこだっけ?と首を傾げる。私はお寺マニアでもないし、中学校の修学旅行は京都だったので、このあたりのお寺について調べたことはないはず。それでもどうしても、聞いたことがあるような気がする。思わず携帯を取り出して調べてしまったが、あまりにもど田舎なのか、位置情報くらいしか出てこない。
居ても立ってもいられなくて、私はうーんと頭を抱えて悶絶した。
……思い出しそうで、思い出せない。

だめだ。と思った。
こうなるともう、私はとことん突き詰めずにはいられない。
中途半端で投げ出す、というのが気持ち悪くて、四六時中思い悩むことになる。
だからこそ、私は辞書を肌身離さず持っている珍奇な人間として浮いてしまったりするのだけれど。

「—————よし。行ってみよう。」

私は、最も単純な解決方法を実行することに決めた。







バスを降りると、薄紫色の景色が広がっていた。
ほうっと息をついた。他では梅の花開く晩冬だというのに、見事な藤の狂い咲きである。
折り畳んでいたビニール傘を広げると、早くも落ちてきた水滴に濡れてあっという間に水色に曇る。

ドキドキしながら道案内に従って進み、山の麓に辿り着いた。
ふと足元を見ると、キラリと光る虫の翅のようなものが。ん?と思って立ち止まり拾い上げてみると、大きめの雫型のスパンコールのようだった。
玉蟲…いや、黄金虫か。それとももっと別の虫の翅か。光の加減によっては虹色に異彩を放つそれに、抗いがたい魅力を感じる。どうにも捨てる気になれない。幼い時分に蝉の抜け殻を溜め込んだかつての心を思い出し、私は思わず苦笑いを浮かべながら、ジーンズのポケットにしまい込んだ。


のんびり行こう、と心に決めて、中へ足を踏み入れた。緩やかだが人気のない山路を、ゆっくり登って行く。暗くなるにつれ、涼しい風がさあっと吹き抜けるようになってきた。
どうやら藤の花で囲まれているのは山の麓のみだったようで、すぐにどこを見ても緑色の景色が広がるようになった。しっとり濡れた腐葉土を踏むたびに土の匂いが立ち上り、どこかで鳥の鳴き声がこだまする。
ふっと薄緑色の人影が見えたような気がして、私はあれっと木立の奥に目を凝らした。…しかし、気のせいだったようだ。背の高い蕗でも揺れたのかもしれない。

…ここが、好きだ。

ふうっとため息をついた。
私は、知らぬ間に凝り固まっていた顔の筋肉が、ゆっくりとほぐれてゆくのを感じていた。
森の香が、鼻から脳味噌へすっと吹きぬけて、ハッカ飴のような清涼剤の役目を果たす。

………死ぬ時は、こういう場所で朽ち果てたい。

唐突に、想いが突き上げた。
全身を貫いて、鯨の潮吹きのごとく天へほとばしる。驚くほどに鮮明な強い願いが、花火となって空へ打ち上がる。

月光のもとで、骨になりたい。
死体は熊に喰われて、山の全部をぐるぐる駆け巡る。
いつまでも。いつまでも。
ああ………この宇宙が、滅びる夜まで。







ようやく辿り着いた。
山奥深くに佇む『藤神寺』の門は、朽ちかけた黒い丸太ん棒二本に、木彫看板がかかっているシンプルなものだった。その奥に、小さな木造の本堂が見える。
そして、枯れ果てた藤棚と、まん丸の腰掛け石。
なかなか落ち着いていて、いいところなのではないだろうか。

「………。」

……僧侶服を纏った青年が、藤棚の上で昼寝などしていなければ。
いや、これは大丈夫なのだろうか。もしも小僧さんが隠れて油を売っているのなら…あとで和尚さんの雷が落ちる絵図がありありと浮かぶ。それ以前にこの雨の中で傘もささずに昼寝とは、風邪を引かないのだろうか。

「…………。」

………見なかったことにしよう。
この山に入ってからというもの、私の心は妙にすっきりさっぱりと澄み切っている。このまま些細なことは気にせず、クールに受け流し、流れる川の水のように落ち着いた平常心で、この場を切り抜けようではないか。
よし、問題ない。まず第一に私は目線を下げて、まっすぐに前を向く。第二に、そのまま絶対に上を見ないように注意しながら藤棚の下を通り抜ければ—————

———ギシリ。

ギョッと上を見上げると、小僧さんがまさにうーんと伸びをしている瞬間だった。

「(し、しまった!)」

ちょっと決断が遅かった。
頭が真っ白になる。私が目を見開いて固まっている間に、小僧さんはふああ、と欠伸を一つして目を開く。
優しい狐の青年を思わせる、綺麗な切れ長の目だった。墨染の僧侶服を纏い、びっしょり濡れたくしゃくしゃの髪の毛には見事な寝癖がピンと跳ねている。眠たげに目を擦りながらモゾモゾ体を起こした彼は、ふとこちらを見下ろして————

「…ん。どうかしたのかい?」
「い、いえ。」

真顔で聞かれても、どう答えればいいのかわからない。まさか「あなたが不審者に見えて困っていました」とか「できるだけ面倒ごとに関わらずにここを通過させてくれれば満足です」などと言えるわけもない。
表情が引き攣っていないか極限まで注意して、私はできるだけ穏やかな微笑みを浮かべた。

「なんでもありません。」

キッパリと言い切ると、青年はふーん、と呟き、まるで緑の空気に溶けてゆきそうに静かな息をシューッと吐き出した。蛇みたいな音だ、と私は思った。それも、きっと銀の日本刀のように鋭利で美しい、そんな蛇。
すうっと穏やかな無表情のまま、彼はゆっくりと口を開いた。

「…おみくじを引きたかったら、池を回って鐘つき堂のすぐ隣の赤い箱だよ。」
「あ、ありがとうございます。」
「……ん?もしかして違うのかな。大吉ばっかり出てくるおみくじが目当てで来た人じゃなくて、普通にお参りに来た人?……ああ、いや、それも違う…と。」

なんでわかるんだろう。
私は内心冷や汗をかきながら、できるだけまともに青年の目を見ないように努めた。もしや、これが霊験あらたか山奥の小僧さんパワー?……まさか。私がわかりやすすぎるのかもしれない。兎にも角にも、うっかり油断でもしていると、心の奥深くの大事な部分まで入り込まれて、大変なことになりそうだ…そんな予感が警鐘を鳴らしていた。きっと私は今、青年の独特のペースに、呑まれそうになっている。
…ここらが潮時だろう。
帰ろう、と私は密かに決意した。このまま長居して、ズブズブと怪しい宗教の沼にでもハマってしまったら大変だと、本気でそう思った。

「すみません。私は———」
「わかった。きみは河童に会いにきたんだろう?」
「————そろそろ失礼しようと思いま………って、はい?河童?!」

しまった。
そう思った時には遅かった。
青くなって口を押さえるも、青年は我関せず。あれ、それも違ったのか、と独り不思議そうに首を捻っている。

「…おかしいな。雨が降っているから、てっきりそうだと思ったのに。」

青年はひとしきり悩んだ後、ギシギシ藤棚を撓ませながら端まで移動し、ハシゴを伝って降りてきた。とん、と軽い着地の音を鳴らして、土の上に降り立つ。こちらを見つめる彼は意外にも背高で、存在感があった。
蛇に射竦められた蛙のように緊張していた私は、青年が私のことを放っておいて、まず藤棚に向かってお辞儀をしたのに戸惑った。目を閉じ、冥福を祈るように静かに両の手のひらを合わせている。
……もしかすると、昼寝のベッドになってくれたお礼のつもりかもしれない。または、この藤は花をつけるどころか完全に枯れてしまっているので、本当に花の死に対して祈りを捧げていたのかもしれない。

どちらにせよ、ほんの少しの間のこと。
静かな時間はすぐに終わり、こちらへ向き直った青年は、ぱんぱんと僧侶服の皺を伸ばして、何事もなかったかのように私の方を振り向いた。

「“お湯池“の方に行ったら、多分河童に会える。ちょうどいい頃合いだから僕は行ってみるけど、きみはどうする?」
「ど、どうするって……?」
「精霊と話をしてみたいかどうか。別に嫌だったら帰っていい。」

私は、しばし迷った。
非科学的極まりない言葉の数々に、未知を前にした時の本能的な恐怖が私を支配した。
これは怪しい宗教の勧誘?それともただの変わり者の戯言?もしや河童や精霊というのは何かの比喩や別名であり、別に何も怪しいことは言っていない?
様々な思いが駆け巡る中で、私の心に浮かんできたのは、十歳年上の姉の顔だった。彼女は落ち着き払った表情で、静かに目を細めてみせた。
いわゆる“カルト“と呼ばれる怪しい宗教の特徴は、姉に何度も念を押されたのでいつでも思い出せる。姉曰く、『金・暴力・孤立・現人神・世界の終わり』の五大原則があるらしい。
1、信者にお金を出させようとするか。
2、暴力を許容するか。
3、信者を家族や友達と話せないような環境に置いているか。
4、リーダーただ一人を神のように崇め称えるか。
5、世界の終わりを強調して不安を煽るか。

この原則に引っかかると、これは怪しい宗教と見た方がいいらしい。普通は、中に入っている信徒は洗脳されているために気づかないらしい。つまり、正気を保っているうちに抜け出なければならない。
私は一番から五番まで、何度も繰り返して考えてみた。今のところ……そう、今のところは、目の前の青年の言動は何番にも当てはまらないように感じる。

『嫌だったら帰っていい』などの逃げ道を残すことは、カルトにおいて普通ない。
私はいざとなれば緊急電話をかければいいと自分に言い聞かせ、ポケットの中の携帯をさりげなく握りしめる。
大丈夫。疑問を解決するだけだ。藤神寺の情報を得たいなら、どうせ中に入るしかない。昔の偉人も言っていた。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と。

「……じゃあ、行ってみます。」
「わかった。」
「………。」

…とうとう、言ってしまった。
私は呆けたように、その場に立ち尽くした。瞬間。ぶわぁっと湿った風が雨の森を駆け抜けて、呼応するようにざわざわ…と、木々の葉擦れが響き渡った。薄緑色の影が、ぱっと視界の奥でチラついたような気がした。
どうにも気になって青年の方を振り向くと、彼ははっと溢れそうなほど大きく目を見開いていた。

「…河童の、喧嘩申し込みだ。」
「え?」
「だから、河童のお呼び出し。つまり、相撲だ。きみ、もしやどこかで鱗を拾ったんじゃないか?」

真剣な表情をして、青年は私を射抜くように見つめる。え?と困惑した私は、そういえば…と、ポケットからさっき拾ったばかりの薄い虫の翅(だと思っていたもの)を取り出した。
青年は、早くこっちへよこせ、とばかりにこちらへ手を差し出す。私は妙に離し難いそれを握りしめたまま、オロオロと目を泳がせた。

「…河童の鱗は、遊び相手を集めるための手紙のようなものだ。彼らは臆病だから直接会いに行かず、これと見初めた相手の足元へ自分の鱗を落としてゆく。もしも拾ったならば、交友関係を受け入れた証だ。…ここへ来るたびに相撲で遊びたいなら別だが、人間が拾ってロクなことはない。早く手放せ。」
「で、でも……間違って拾っちゃった場合はどうするの?」
「僕が貰い受ける。鱗が他人へ渡れば、そこに籠められた特別な意味が消えるから。」

キッパリと言い切られて、私は仕方なく、手の上の宝物を青年に渡した。…心なしか、彼の手に渡った途端、その薄緑色のカケラの輝きが、色褪せてしまったような気がした。
何かがふっと抜けて、森の空気に立ち昇ってゆく。青年が安堵したように吐息をついた。

「…相撲をせずに、河童と交流できる方法はあるよ。」

私があまりに残念そうな表情をしていたからだろうか。青年は、私に向かって優しく声をかけた。

「…河童と交流?」
「そう。“お湯池“にきゅうりをお供えしていこう。もともと、そうするつもりだった。」

言いながら、青年があまりにも自然な仕草で懐からきゅうりを取り出したので、私は驚くよりもおかしくなってしまった。本当に用意周到だ。
煌めく水色の粒々が、ビニールの傘をさざめき笑いながら転がり落ちる。

「…河童は、伝説の生き物じゃないんですか。」
「現実にだっているに決まってるよ。僕はたまに見かける。」
「この山の中で?」
「無論。」

青年は、とめどなく雨粒の降ってくる曇り空を見上げながら、静かに言葉を返した。

「麓まで行くと、もういないけれどね。臆病な生き物だから、自身を隠す影が減ると不安になるようなんだ。…ものすごく強いのに、不思議だよ。」
「………なるほど。」

まあ、蛮勇な精霊の方が珍しい存在だけれどね、と呟く青年。
私はその後彼と一緒に寺の敷地へと入り、池にぽっかりと浮かぶ石の上にきゅうりをお供えした。言われるままにそばのお堂へ身を隠し、息を潜めて待ち続ける。
しばらくすると、小さな薄緑色の影が現れた。
あっと思わず身を乗り出した。
ざあざあ雨の降る中で、亀と蛙と鯨が一緒くたになったような不思議な影が、ペタペタと辺りを見回しながら近づいてくる。ざぶん、と池に飛び込んだ澄んだ音が聞こえた、と思ったら、もう石の上のきゅうりが消えていた。
慌てて目を擦ったが、もうどこにも影は見えない。

……きっと、あるべき場所へ帰ったんだな。

不思議に、すっと実感が胸に落っこちてきた。
気付けば、隣で青年が手を合わせて祈りを捧げていた。
私は一つ深呼吸をすると、彼と同じように両手を合わせ、静かに目を閉じた。