そうであれば、ずっと涼月のそばにいられたのか。
 こんなふうに、まるであやかしのように夜行などせず、彼の腕に抱かれたまま、幸せな夢を見て……。

 でも、普通の娘だったら彼は結婚してくれなかったのかもしれない。
 彼はなぜ、自分と結婚したのだろう。
 やはり、酒呑童子を倒すためなのか……。

「このまま高遠家にいるつもりなのか?」
「それは」
 言葉を濁した。
「あの男は、君を足がかりに鬼を封じ込めるつもりだ」
 ズキッと心に刃が刺さる。
「でもそれは、悪い鬼が――」
 彼は鬼にもいろいろいると言っていた。
 人間のように。
 酒呑童子はいい鬼かもしれない。よくはなくても少なくとも悪行は重ねていないと信じたい。
 通り魔や惨殺事件という信じられないような凶悪事件が起きると、新聞や世間は鬼やあやかしの仕業だと決めつけるが、
 結果的にはごく普通の人間が犯人の場合が多い。
「君は考えないか? 人の残酷さを。鬼とどう違う?」
「同じだと思います。残酷な人だっている」
 人は皆、人間の仕業だと信じたくないのだ。
 鬼が人に乗り移ったとか、あやかしに取り憑かれたと思えば、同じ人としていくらか気が楽になるから。
「ただ私、一度も鬼に会ったことがないんです。鬼の眷属だという人も鬼束さんが初めてで」
「そうか。あやかしは? さっき柳姫は見えたか?」
「見えました。桜の枝を持っていましたね。――紙が、付け文でしょうか」
 言い伝えは聞いていたが実際に見たのは初めてだ。
 柳姫は男の首を持っていると言われていたが、彼女が手にしていたのは桜だった。
「ああ、そうだよ。彼女は男に騙されてあの川に身を投げた。桜の枝に男からの恋文が括られている」
 そんな話をしているうちに車は街を外れ、鬱蒼と木が生い茂る森に近づいていく。
「あの森の中に酒呑童子はいる」
 伽夜は大きく息を吸う。
 いよいよだ。
 幼き頃、ととさまと呼んだツノのある男性が、酒呑童子かどうか――。
 森の麓で、鬼束は車を止めた。
 車のエンジンを止め、ライトが消えると、
 あたりは静寂に包まれる。
「ひとまず、ここで降りよう。あとは呼びかけて待つしかない」
 伽夜は頷き、車を降りる。
 同じく車を降りた鬼束は森に向かって声を張り上げた。

「酒呑童子は、いらっしゃるか!」

 その隣で風呂敷包みを抱きかかえた伽夜は、『ととさま、会いに来ました』と、強く願う。
 また雲が動き、月が隠れた。
 刹那、ふと体が浮いた感覚がした。
「伽夜さん、伽夜さん!」
 見えない力で、伽夜の体が宙を飛び、
 鬼束の声が一言ずつ小さくなる。
 不思議なことに伽夜は車から出ていて、慌てたように車を降りてきた鬼束を見下ろしていた。
 あっと思う間もなく、瞬きをする間に移動し、気づいたときには部屋の中にいた。
 洋館の造りの、天井が高く荘厳な部屋だ。
 伽夜はふかふかの椅子に座っている。
 そして――。

「大きくなったな、伽夜」

 記憶の中の父が、目の前の大きな一人掛けの大きな黒い椅子に座っている。
 傍らの丸いテーブルには、大きな瓢箪がひとつ。
 長い脚を組み、片方のひじ掛けに肘をあてている。
 人間となんら変わらないように見えるが、よく見ればツノがあり、手の爪は黒くて長い。
 髪は黒いが燃えているように毛先が上に向かって波打っている。鼻は高く目は赤黒い不思議な色だ。着物と洋装を合わせたような不思議な恰好だが、胸を打つほどとても素敵だ。
「ととさま? あなた様は私の父ですか?」
 言ったものの、聞くまでもなく伽夜はひと目で確信した。
 目もとが伽夜にそっくりだ。
「ああ、そうだ」
 思わず駆け寄ると、そのまま抱きしめられた。
 懐かしい甘い香りに包まれた。瓢箪の酒の匂いによく似ている。
「額の花が隠れたところをみると、陰陽師の嫁になったか」
「そうです、高遠涼月とおっしゃる方です」
「鬼の嫁になっていれば、花はより赤くなるはずだからな」
 選んだのが高遠でも鬼束でも、ふたつとも正解だったのか?
 聞きたいことがたくさんある。
「ととさま、私の結婚は高遠家の遺言だと言われたのですが、ご存知でしたか?」
「高遠とはそういう約束だった。人として幸せになるために陰陽師と一緒の方がいいとな。それが無理なら鬼の嫁にと言っておいた」
 とはいえ鬼は人に恐れられている。
「一緒に来た男は鬼の眷属のはずだが?」
「ええ、そうです。ととさまに会いたくてお願いしたんです。あの方は、おじいさまに私を守るよう言われたとか」
 体を離した酒呑童子は「ああ、頼んでおいた」と言って、伽夜をじっと見る。
 よく見れば燃えるような赤い目だった。
「小夜子によく似ているな」
 伽夜の髪を撫でながら、酒呑童子は微笑み、何度もうなづく。
 そして、伽夜が持ってきた風呂敷包みを引き寄せ開けた。
「懐かしいな。この衣は小夜子が糸から作った……」
「かかさまが、この衣を?」
 その優しい表情は父そのものだった。
「ああ、そうだ。九尾の狐が残した糸を使ってな。――小夜子はお前によく似た美しい娘だった」
 父は懐かしそうに、遠い目をする。

「あれは心の臓が弱かった。実家に戻るよう言ったが小夜子が嫌がった」
「かかさまは、心臓が弱って?」
 頷いた父は「心の臓の病だけはどうすることもできなかった」と、深い溜め息を落とす。
「どうして私の記憶を消したのですか? 私はその頃を覚えていないのです」
 記憶を封印した理由は母にそうして欲しいと頼まれたと言う。
「小夜子でないとわからないが、おそらく、子どものお前が生きやすいようにしたんだろう」
 生きやすいように……。
(鬼の子だって知られないように?)
 あやかしの中でも鬼は、ずっと恐れられている。
 五十年前の騒動の元凶、不知火侯爵が鬼の末裔だったのが尾を引いているのだ。

「思い出したいか?」
「はい」
「 我 (われ)の知る記憶なら呼び覚ませる」
 酒呑童子が伽夜に息を吹きかけると、頭の中になにかが満ちていくような感覚になる。
 母と父とここで笑いながら夕食を共にした。
 鬼は陽の光を嫌うために、三人で弁当を持ち出掛けるのはいつも、月が細い夜で、星が綺麗だった。
 あたたかい温もりに包まれた幸せな日々。
 伽夜の頬には涙が伝う。
「ととさま、伽夜もここにいていいですか?」
「お前の母はそれを望んでおらぬ」
 ずっとここにいたいと思った。
 酒呑童子の娘だとわかった以上、高遠家に戻っては迷惑がかかる。

「なにがあった? 幸せではないのか?」
 伽夜の頬を流れる涙を拭い、酒呑童子が眉をひそめる。
「なにも。とても幸せです。ただ、私も鬼ならば人の世界にいてはいけないのかと」
 高遠家にいては迷惑をかけるだけの存在になってしまう。
 でも、本当の気持ちは言えない。父である酒呑童子の存在を否定するような気がして。

「ダメ? かかさまもそうしたでしょ?」
 母は人の社会よりも、父を選んだ。
「お前は我の娘ではあるが、人間だ。会いたければ、いつでもまた会いに来ればいい」
「でも」
 父は立ち上がった。
 背が高い。涼月よりも更に頭ひとつは高く、肩幅も広い。無造作に着崩した黒い衣から、筋肉が盛り上がる胸板が見える。
 その逞しい姿はまさに鬼の首長を思わせた。

「お前がそれでよくても、もう遅いようだ」
 そう言うと、壁際の棚から細い棒のようなものを取り「結婚祝いだ」と、伽夜に差し出した。
 見たところ扇子に見える。
 親骨は金属のようだがとても軽い。持ち手から上の方にたくさんの宝石がついていた。
 開けば薔薇の絵が描いてある美しい扇子である。
「ありがとう……、ととさま」
「お前以外のものは重たくて持てない。その扇子を高く掲げ、強く強く願えば、俺が必ず駆けつける」
 そのほか、なにものかに襲われたときの使い方などいくつか説明すると「さあ行くぞ」と伽夜の手を引いた。
「え?」
「このままでは、やつらのどちらかが死んでしまう」
 なんのことかと思う間もなかった。
 伽夜は気を失った。