1
 このノートの中には、後悔が眠っている。
 自宅アパートの屋上で長い髪を風になびかせながら、私はふーっと長いため息を吐いた。
 周りに高い建物がないので、低い青空に薄く長い雲が伸びているのがよく見える。十月に入り、徐々に日差しが和らいできていた。長かった残暑もようやく終わりそうだ。
 さっきまで、外は引っ越し作業で賑やかだった。どうやら、二階の空き部屋に新しい住人がやって来たらしい。築三十年の三階建てアパートは外も中も古びて色あせていて、だけど家賃が相場よりずっと安いから、空き部屋が出てもすぐに埋まる。
 穏やかな秋の日曜日。だけどこの季節になると、私はあることを思い出してしまう。花柄の可愛いノートを胸にぎゅっと抱き、私は小さな声で謝罪した。
「ごめんなさい……お母さん」
 と、近くから足音が聞こえた。屋上へ続く階段を昇る音。私はハッとして振り返る。こんな何もない屋上へ来る物好きは私くらいで、今まで誰にも会ったことがなかったのに……。
 屋上の入り口にある柵をそっと開ける姿を見て、私は思わずノートを取り落としそうになった。
「えっ?」
 休日の静かな午後に不似合いの、大きな声を出してしまう。目の前の人物も、目を見開いて私を見つめていた。
藤原(ふじわら)さん?」
 不思議そうに名前を呼ばれ、私はようやく我に返ると、こくんと頷いた。
「うん……こんなところで会うなんて、びっくりしたよ。桜沢(さくらざわ)君」
 そこにいたのは、クラスメイトの桜沢玲二(れいじ)君だった。すらっとした長身に、サラサラの黒髪。メタルフレームの眼鏡を掛けていてクールな印象だけど、実際は誰にでも優しくて、おまけに成績優秀の優等生だ。同い年ながら、クラスでは頼れるお兄さんって感じで皆に慕われている。今年初めて同じクラスになったけど、そこまで交流のない私にも親切だ。
「屋上に藤原さんがいるってことは……このアパートに住んでいるの?」
 いつも通りの穏やかな声で問われ、私も素直に頷いた。
「そうだよ。桜沢君は、どうしてここにいるの?」
 すると、桜沢君は気まずそうに黙り込んだ。いつも堂々としている彼にしては、こういう態度は珍しい。私が首を傾げていると、
「玲二ー! 早く荷解きを手伝いなさい!」
 階下から女性の明るい声が桜沢君を呼んだ。彼はぱっと顔を上げると、
「今行くから!」
 声のした方へ返事をしてから、目を伏せて私に向き直った。
「……そういうこと。俺も、今日からここに住むんだ。よろしく」
「え……」
 戸惑う私をよそに、桜沢君は踵を返すとさっさと屋上を出て行ってしまった。ちょっとの間を置いて、ようやく私は、さっき引っ越してきた人たちが桜沢君一家であることに気付いた。


 2DKの自宅に戻り、キッチンで一人夕食を作りながら、私はついさっきあったことを思い出していた。
「桜沢君が、このおんぼろアパートに……? 信じられない……」
 信じられないも何も、私は本人の口からその事実を聞いている。でも、彼の様子は、そのことを誰にも知られたくなかったように見えた。それはそうだろう。桜沢君は、学校でも有名なセレブなのだから。
 彼のお父さんは、有名な大手商社に勤めている。桜沢君はお父さんの駐在先のイギリスで生まれて、三歳の時に日本に帰ってきた。
 もちろん、桜沢君は自分が裕福な生まれであることをひけらかしたりはしない。だけど、ブレザーの中に着ているブランド物のニットや、艶々のローファー、輸入物の文房具なんかを見れば、彼の生活レベルの高さが見て取れた。
 確か今の住居は、湾岸地域のタワーマンションだったはず。そんな桜沢君が、老朽化の激しいうちのアパートに引っ越してきただなんて、本当にあり得ない話だけど……。
 そんなことを考えていると、外廊下を誰かが歩いてくる音がした。ほどなくしてドアの鍵が開き、スーツ姿の父が姿を現した。
「お父さん、おかえり」
「ただいま。悪かったね、穂乃香。休日なのに家事を任せきりにして」
 申し訳なさそうな顔をする父に、私は笑って首を横に振った。父の会社は普段は土日休みなのだが、今日はイベントの手伝いで休日出勤だったのだ。
「お仕事なら仕方ないよ。お米は……あと二十分で炊ける。お腹空いてるんだったら、冷凍ご飯温めるけど」
「いや、炊けてからで大丈夫だよ。そういえば、さっきそこで、新しく引っ越してきた人と挨拶したよ」
「えっ!」
 思わず大声を出してしまった私を見て、父は怪訝そうな顔をした。
「どうしたんだい? そんなに驚いて」
「ううん、何でもない。それで、どんな人だったの?」
篠塚(しのづか)さんといって、華やかな見た目の女の人だったよ。息子さんと二人暮らしだそうだ。ああ、息子さんは、穂乃香と同じ高校二年生だと言っていたな」
「篠塚さん……」
 名字が違う。だけど、きっとその女の人は、桜沢君のお母さんなのだろう。二人暮らしということは、お父さんとは……。
 私はそこで考えるのをやめた。自分の生活を勘ぐられるつらさは、よく知っている。このことは、お父さんにも、クラスの皆にも秘密にしておこう。そう思った。
「お父さん。それ、新しいお花?」
 父が手にしていた透明の手提げ袋には、コスモスを中心としたミニブーケが入っていた。
「そうだよ。実穂乃(みほの)さんの好きなコスモスの季節がやってきたからね」
 そう言って、父はダイニングの一角に置かれた小さな棚に向き直った。そこには、三年前に病気で他界した母の写真と位牌を置いてある。花が好きだった母のために、父はいつも季節のミニブーケを供えていた。
 写真立ての中で朗らかに笑う母を眺めながら、私は複雑な気持ちになっていた。

 母・藤原実穂乃は小説家だった。ペンネームは美園呉羽(みそのくれは)。十七歳でデビューした当時は中高生向けの青春小説を、結婚して私が生まれてからは大人の女性向けの恋愛小説を書いていた。
 とはいっても、そこまで売れていたわけではない。読書好きの人に美園呉羽について尋ねても、知らない場合がほとんどだろう。母は昔から病弱だったから、活動年数に比べて著書の数も少ない。
 それでも、母も父も私も、小説家・美園呉羽を誇りに思っていた。初期の作品に多かった、女子中高生がいじめなどの理不尽な状況にも負けずに戦う話には、私も随分と元気づけられたものだ。手紙をくれる熱心なファンもいて、母はそのファンレターを大事そうにファイルにしまっていた。
 そんな母に憧れていた私は、小五の頃から自分でも小説を書くようになった。母はいつも、私の書いた物語を楽しそうに読んでくれた。
「穂乃香、このお話も面白いわ。案内役のシロが、茶目っ気があって魅力的ね」
「そうでしょ? あのね、このワンちゃんはね、ミカちゃんが飼っているマルチーズをモデルにしているんだよ。この子、お腹が空くと『ごはん!』って喋るんだって!」
「まあ、それで、言葉を喋る犬の設定にしたのね。穂乃香は想像力が豊かで、本当に素晴らしいわ」
 笑顔で私をたくさんほめてくれる母。そんな優しい母に後押しされて、私も小説家を目指すようになったのに……。
 中二の秋、ちょうど今時期だ。私は病床の母にひどいことを言ってしまった。謝る機会を逸したまま母は他界し、私は今でも深い後悔の中にいる。


2
 翌朝。桜沢君のことを気に掛けながらも、いつも通りに身支度をした。十月から冬服期間になったものの、長袖のブレザーはまだちょっと暑い。茶色掛かった長い髪は、いつもハーフアップにしている。いくつか持っているバレッタの中から、今日は秋らしいベロアの赤いリボンのものに決めた。
 父は既に出勤している。ダイニングの母の写真に「行ってきます」と手を振ってから、私も部屋を出た。
 アパートの外階段を降りた私を、誰かが呼び止めた。
「藤原さん」
 振り返ると、二階の外廊下から桜沢君が顔を覗かせている。
「あ……おはよう、桜沢君」
 昨日のこともあって、どんな素振りをすれば良いのか分からない私に、桜沢君は穏やかに微笑んだ。
「おはよう。駅まで一緒に行ってもいいかな?」
「うん、いいけど……」
 おずおずと頷くと、桜沢君も階段を降りてきた。並んで歩き出すと、彼はこう切り出した。
「昨日はごめん。素っ気なくしちゃったなって、後から反省したんだ」
「ううん、気にしてないよ」
「……ありがとう。びっくりしただろ? お金持ちって噂の俺が、突然、普通のアパートに引っ越してきてさ」
「……えっと」
 確かに驚いたし、うちのアパートは「普通」レベルにも満たない、格安おんぼろアパートだ。だけどそのことを、率直に言うのも失礼な気がする。口ごもっていると、桜沢君は笑みを崩さずに言った。
「うちさ、両親が離婚したんだ。それで、俺と母さんでここに住むことにした。もう父さんを頼ることは出来ないからな。これからは、生活をかなり切り詰めることになりそうだ」
「そうなんだ……」
 桜沢君の事情は分かったけれど、やっぱり、何を言って良いのか分からない。曖昧な相槌を打つ私に、桜沢君は続けた。
「昨日、母さんが、藤原さんって男の人に挨拶をしたって言っていたから、もしかしたら、藤原さんのお父さんかなって思ったんだけど」
「うん、そうだよ。うちのお父さん。そっか、だから篠塚さんって名字なんだね」
「そう、母さんの旧姓。俺も本当は、桜沢じゃなくて篠塚なんだけど……俺さ、このことをクラスの皆には黙っておこうと思うんだ」
「えっ」
 意志を込めたようなしっかりとした声に、私は弾かれたように桜沢君の顔を見た。眼鏡の奥の瞳も、声同様に真っすぐ私を見返す。
「事情を知られたら、周りに気を使わせちゃうからな。名字も桜沢のままでいく。だから、これはお願いなんだけど……藤原さんも、両親の離婚のことと、俺たちがこのアパートに住んでいることを秘密にしてもらえないかな?」
「それは、構わないけど……」
 私と桜沢君はそんなに親しいわけでもないし、秘密にするのは容易いだろう。だけど、本当に良いのだろうか? ご両親の離婚の理由は知らないけれど、生活がこんなに変化して、桜沢君だって不安なはずだ。そんな時に、周りの人に心の内を話せたのなら、どんなにか楽になるだろうに。
 私の考えを見透かしたのか、桜沢君は安心させるような笑顔を向けてきた。
「俺なら大丈夫。離婚して母さんも大分元気になったし、俺は今の生活で良かったって思ってるから」
「それならいいけど……でも、せっかくご近所に住んでいるんだし、何か困ったことがあったら言ってね。実は私も、お母さんが死んじゃった時に、アパートの人たちに随分助けられたの」
「そうだったのか……うん、ありがとう」
 桜沢君は素直に頷くと、心配そうな顔で私を見た。
「藤原さんも大丈夫?」
「えっ?」
「昨日、アパートの屋上で会った時、泣きそうな顔をしていたから。何か嫌なことでもあった?」
 クラスで見せるような大人びた優しい眼差しに、私の心はじわりと温かくなった。だけど私の後悔は、お父さんにも親しい友達にも話していない一番の秘密だ。話すわけにはいかない。
「大したことじゃないよ。ありがとう、桜沢君」
 無理して笑ってみせる。私の嘘に桜沢君が気付いた様子はなかった。
「藤原さんこそ、俺で力になれるのなら、何でも言って。俺の秘密を守ってもらっている恩もあるし。あと、俺のことは玲二でいいよ。友達もそう呼んでる。それに俺はもう、桜沢じゃないからな」
 ぼそっと呟かれた最後の言葉に、彼の複雑な感情が透けて見えた。
「分かった……玲二君。私のことも穂乃香でいいよ」
「うん。これからよろしく、穂乃香」
 互いに微笑み合う。秘密を共有した私たちは、今までよりちょっとだけ仲良くなれた気がした。

 放課後。私は友達からの遊びの誘いを断って、図書室の自習スペースで勉強していた。頭を必死で働かせながら、数学の文章問題を解いていく。
 私の希望進路は、地元の国立大学の経済学部だ。父になるべく負担を掛けずに大学に行こうとすれば、どうしても学費の安い国公立大学を選ぶことになる。この大学は家から通える距離にあるし、経済学部は就職に強いと評判だ。何としてでも入りたい。
 それなのに、私の成績は伸び悩んでいた。受験までまだ時間はあるとはいえ、このままの偏差値だと合格は難しいだろう。特に、経済学部受験には必須の数学が大の苦手だ。なので、最近ではこうして勉強する時間を増やすようにしている。
 一時間ほど集中して問題集に取り組んでいたけれど、さすがに疲れてきた。ひと休みしようと、ブレザーのポケットからいちごミルク味の飴を取り出す。個装を開けて口に入れると、甘さが頭の中まで染み渡るのを感じた。
 ふうっと息を吐いてから、私は鞄から一冊のノートを取り出した。勉強用ではない。十四歳の時から使っている、表紙にピンクの小花柄が散りばめられた可愛いノートだ。
 このノートには、自分で考えた小説の構想や設定などのメモを書き留めている。どんな状況で、どんな人物が、どんな行動を起こすのか。小説家になるためには、そういった執筆前に考える段階も重要だと母が教えてくれた。
「そうして思いついたことを、このノートに書き留めておくのよ。きっと、穂乃香の小説の可能性を広げてくれるわ」
 そう言って、母はこのノートを私にプレゼントしてくれた。中二の夏休み頃の話だ。
「ありがとう、お母さん。でも、小説の構想だなんて、すごく難しそうだね。私はいつも、行き当たりばったりで書いているから……」
「無理やり考えようとしなくてもいいわ。上手い小説を書こう、なんて気負う必要もないわよ。これまで通り、楽しんで、自由に書くことを忘れないでね。穂乃香は今のままでも充分、素敵な物語を紡げるんだから」
 母は私の目をじっと見つめて言うと、ウインクを一つした。
 あれから三年ちょっとが経つ。私はノートを開くと、これまで書いてきたメモを眺めた。初めの方は、書きかけで終わっているページが多い。自分でも設定の作り方を本やネットで調べてみたのだけど、上手くいかなかったのだ。
 どうすればちゃんと書けるのか悩んでいた時、ふと、母の「楽しんで、自由に書くことを忘れない」というアドバイスを思い出した。それからは、形式にこだわらずに自由に書くようにしている。思い浮かんだシーンを片っ端から書き連ねたページや、登場人物のイラストや架空の地図が描かれているページもある。頭の中の物語を具体化してから執筆に入ると、今までより筆が乗った。私は一層、小説執筆にのめり込むようになったのだった。
 中二の秋口に母が持病を悪化させて入院してからは、生活が大変で書くペースはぐんと落ちた。けれど、母は病室で私の書く小説を読むのを楽しみにしていたので、執筆を止めることはしなかった。それなのに……。
 あるページで視線が止まる。私の心は三年前の十月、母がまだ存在している病室に飛んだ。私の書いた設定を楽しそうに読んで、アドバイスをくれた母。そんな母に私は、言葉のナイフを振りかざしてしまった。
「今のお母さんが書く小説なんて、コンビニで買える安いチョコレートみたいだよ」

「穂乃香、大丈夫?」
 ハッと意識を現在に戻す。私は高校の自習室で、誰かに声を掛けられていた。ぼんやりとした気持ちで、傍らに立つ人物を見上げる。
「……玲二君」
 いつの間にいたのか、玲二君が心配そうに私を見下ろしていた。
「図書委員の仕事で自習室の見回りに来たんだけど、穂乃香が具合悪そうに見えたから」
「あっ、うん、大丈夫。ちょっと疲れてぼーっとしちゃっただけ」
 苦笑して片手を振ると、玲二君もホッとしたように笑った。
「そうか。今は季節の変わり目だから、疲れやすいよな。無理して風邪でも引いたら大変だし、今日はもう帰ったら?」
「うん。そうする」
 優しい彼にこれ以上気を使わせたくなかったので、素直に頷いて帰り支度を始める。すると玲二君は、机の上の構想ノートに目を留めた。
「穂乃香って、小説を書いているのか?」
 頬がサッと熱くなる。慌ててノートを閉じると、玲二君は気まずそうな顔をした。
「あ、ごめん。許可もなしに見られたら嫌だよな……」
「ううん。私が小説を書いていること、友達にも言ってなかったから、何だか恥ずかしくて」
 そう言うと、玲二君は意外そうに私を見た。
「別に恥ずかしくないだろ。純粋にすごいと思うよ。俺、小説好きでよく読むけど、自分で書けるかっていったら、何も思い浮かばないし」
「さすがに、プロの小説家が書くような話は、私にも書けないよ」
「いやいや。自分なりに考えて形に出来るだけでもすごいって。今はどういう話を書いているの?」
 ニコニコと興味深そうに聞いてくる玲二君。彼に悪気が一切ないのは分かっているのに、
「あの、私、もう帰って休みたいから」
 つい、冷たい態度を取ってしまった。
「そうだよな。ごめん、疲れている時に色々聞いちゃって」
 申し訳なさそうな顔の玲二君を見て、しまったと思う。だけど私の口は、もう素直な言葉を話してはくれなかった。
「じゃ、行くね」
 短く挨拶した自分の声も尖っていて、だけどそれを訂正する心の余裕もない。
「ああ。またな、穂乃香」
 玲二君がいつも通りの微笑みを見せてくれたのが、せめてもの救いだった。


3
 十七歳でデビューした彼女の処女作は、女子高生が転校先でクラスメイトにいじめられ、それでも心折れることなく戦い抜く話だった。その後も、不遇な家庭や閉塞的な学校など、初期の美園呉羽の小説では、主人公はいつも何かしらの理不尽と戦っていた。
 少女向け小説のレーベルから出ていたそれらの作品を、私は十歳くらいから当たり前のように読んで育った。いずれの小説も最終的に問題は解決し、主人公は前を向いて理解者と共に力強く生きていく。
 私は幸運にも人間関係には恵まれて育ったけれど、それでも友達とすれ違ったり、クラスメイトとの間に誤解が生まれることはあった。そんな時、母の小説はいつも私を助けてくれた。自分から一歩踏み出す勇気を、美園呉羽の作品は与えてくれたのだった。
 そんな母の作風は、二十五歳で結婚して私が生まれてからガラリと変わった。大人の女性をターゲットにした恋愛小説を書くようになったのだ。具体的には、健気で可愛らしい女性が容姿も性格も完璧な男性に愛されるという、現代のおとぎ話のようなストーリーだ。以前の作品に漂っていた不穏さは鳴りを潜め、甘い雰囲気が物語を彩った。
 ……はっきり言うと、私は母の作風の変化を好まなかった。中学生になって、初めて母の書く恋愛小説を読んだ時、これまでの作品とのあまりの違いに驚いた。お約束の展開とハッピーエンドは、私には物足りなく感じてしまった。
「別の人が書いたお話みたい。どうしてこんなに変わっちゃったの?」
 率直に母に聞くと、「そうねぇ」とのんびりした声が返ってきた。
「昔は『書くこと』が、私の唯一の味方だったのよね」
「味方?」
「そうよ。私と一緒に戦ってくれる存在」
 母の言うことは、当時の私には難しかった。だけど、大事なことを語ってくれている気がしたから、私は真面目に耳を傾けた。
「私は小説を書いて、一人きりで自分の周りにある世界と戦っていたのよ。物語を紡ぐことで、自分が強くなれたような気がしたのよね。でもね、お父さんという頼もしい味方が現れてくれて、穂乃香という、自分が一番の味方になってあげたい存在も出来て……小説に対する考えが変わったわ。二人がくれた優しさを、作品にも加えたくなったの。そうやって、書きたい話が変わっていったのよね」
「ふうん……」
 母の言うことを、きちんと理解は出来ていなかったかもしれない。それでも母にとって、作風の変化が良いことだというのは分かった。私と父が、母にとって大切な存在だということも。そんな母を、私も大切にしたいと思ったはずなのに……。

 中二の十月。あの時、私の心は酷く不安定だった。母の入院が長引き、今後どうなるのか怖くて仕方がない。思ったよりも医療費が掛かり、父は働きづめ。近所の人たちの助けがあったとはいえ、家事と勉強の両立は目まぐるしく、遊ぶ時間なんてない。ましてや、家族団らんの時間なんて皆無だ。病床の母のために、せめて楽しい物語を書こうとするのだけど、常に気が急いているからか、今までにないくらい筆が進まない。
 それでも頑張って、小説の設定だけは作った。引っ込み思案の女子が、人気者の男子に好かれて人の輪に入っていく恋愛小説だ。ありきたりなストーリーかもしれないけれど、現実が暗いものだったから、せめて明るい話を、と思って作った。
 病院のベッドの上で、母はニコニコと設定が書かれたノートを読んだ。そしていつも通りの穏やかな口調で言ったのだ。
「素敵なお話ね。主人公の心の動きに心惹かれるわ。ぜひ、穂乃香の言葉で小説にしてほしいわね。お相手の男の子も爽やかでカッコいいけど……そうね、もう少し恋愛の要素を増やしてみてはどうかしら? 男の子の魅力と絡めた、ロマンチックなシーンをね」
 どうしてだろう。母の何気ないそのアドバイスで、私の頭にカッと血が昇ってしまったのだ。
「別にどう書いたっていいじゃない」
 私の鋭い声が、真っ白な病室を刺した。
「サイトに載せるだけで、別に公募に出すわけじゃないんだから、好きにさせてよ。それに、私はあんな甘々の恋愛小説は目指してないの。今のお母さんが書く小説なんて、コンビニで買える安いチョコレートみたいだよ」
 醜い言葉が、次から次へと私の口から飛び出す。私は完全に我を失っていた。
 今思えばあの怒りは、暗い現実に対する悲鳴のようなものだったのかもしれない。私は単に、誰かに八つ当たりしたかったのだ。つらくて苦しいと、訴えたかったのだ。だけど私は、一番八つ当たりしてはいけない相手に怒りの矛先を向けてしまった。
 母は憂いを帯びた表情で黙って私を見つめていた。そして、感情ごちゃ混ぜで何も言えなくなっている私に声を掛けた。
「そうね。あなたがどんなお話を書いたとしても、そこには穂乃香だけの光があるわ。私はなるべく多く、その光を見ていたいのよ」
 それはとても小さな声で、当時の私の心には入っていかなかった。

 それからの母はいつも通りのにこやかな様子で、私も何事もなかったかのように優しく接した。その時には、母に残された時間が少ないのを知らされていたから、殊更明るく振る舞うようにしていた。
 けれど、ほどなくして母が他界し、葬儀を全て終えて少し経った頃……ふと、自分は間違っていたのではないか、と思った。あの時に口から出した言葉を消すことは出来ない。だけど、優しい言葉を重ねて、母の心に刺してしまった棘を抜き取ることは出来たのではないか、と。
 だけどそれはもう叶わない。私は永遠に、母に謝罪する機会を失ってしまったのだ。
4
 翌朝。学校に行こうと部屋を出て、アパートの外階段を降りたら、前の道を駅へと向かう玲二君を見つけた。どうしよう。昨日、冷たくしちゃったから気まずいな。そんなことを考えていると、私の気配に気付いたのか、玲二君が振り返った。
「あ、おはよう、穂乃香」
「うん……おはよう、玲二君」
 玲二君は立ち止まって私を待っている。小走りで隣に並ぶと、彼は私の顔をじっと見た。
「どうしたの?」
「穂乃香、昨日具合悪そうだったから、大丈夫かなと思って」
 敵わないな、と思う。玲二君は感情的な私なんかより、ずっとずっと大人だ。
「大丈夫だよ。何だかここ最近、玲二君に心配されてばっかりだね」
「俺は、ずっと穂乃香を気にしてたよ」
「え?」
 予想外の言葉に、私は目を丸くした。
「穂乃香はクラスでも真面目でしっかり者で、いつも笑顔で……完璧に見えるけど、その分、弱音を吐くのが苦手なのかなって思ってた」
「えぇっ? そんなことないよ。というか、それってそのまま、玲二君のイメージなんだけど」
 真面目でしっかり者。いつも笑顔。完璧に見えて弱音を吐くのが苦手。全て玲二君の性格のように思える。
「きっと似てるんだよ、俺たち」
 玲二君はうんうんと頷くけれど、私は彼のように優れた人間じゃない。成績だって普通だし、いつも自分のことでいっぱいいっぱいだ。
 首を捻る私に、玲二君は「さてと」と切り出した。
「ここからが本題。穂乃香、今度の土曜に俺の部屋に遊びに来ない?」
「え、でも、荷解きとかで忙しいんじゃない?」
 玲二君が引っ越してきたのは、まだ二日前だ。色々とやることが残っているだろう。だけど玲二君は、苦笑して言った。
「大体終わっているから、問題ないよ。それよりもさ、母さんに穂乃香のことを話したら興味持たれちゃって。『同じアパートにお友達がいるなんて素敵な偶然ね、私もぜひお会いしたいわ』だってさ。そんなわけで、もし嫌じゃなかったら来てほしい」
 ノリの良いお母さんだ。どことなく、私の母に性格が似ている気がする。玲二君は友達と呼べるほど親しくはないと思うけど……まあこれは、ご近所づきあいの一環かな。
「うん、いいよ」
 私はすんなり了承した。相手は男子だけど、玲二君はそのことを意識せず話しやすい。イケメンなんだけど、みんなのお兄さんキャラだから恋愛対象にはならないみたいだ。そんな、ちょっぴり失礼かもしれないことを考えながら、私は玲二君と駅までの道を歩いた。

 当日は、わざわざ玲二君が私の部屋まで迎えにやって来た。部屋番号も知っているし、一分も掛からずに行ける距離だというのに。今日は父が休みで部屋にいて、玲二君を快く迎えた後は、連れ立って出かけていく私たちを微笑ましそうに眺めていた。何だか気恥ずかしい。
 私の部屋は三階、玲二君の部屋は二階にある。外階段を降りて、普段は行かない二階の外廊下を歩く。突き当たりのドアを玲二君が開けると、
「いらっしゃ~い、穂乃香ちゃん!」
 待ち構えていたらしき玲二君のお母さん・玲子(れいこ)さんが、上機嫌で私を出迎えた。父が言っていた通り、華やかな印象の綺麗な人だ。黒髪のウェーブヘアに、目鼻立ちがはっきりした顔つき。どうやら、玲二君はお母さん似らしい。細身の長身を幾何学模様のワンピースで包んでいて、いかにもセレブの奥様といった感じだ。このおんぼろアパートでは浮いてしまう服装だけど、この人にはよく似合っている。
「初めまして、藤原穂乃香です」
 ちょっぴり緊張しながらも、挨拶をして頭を下げる。すると玲子さんは、さらに目を細めて言った。
「可愛くて感じの良い子じゃないの。うちの玲二にはもったいないわ」
「えっ!」
 大きな誤解をしている様子の玲子さんに、自分の顔がさっと熱くなるのを感じた。
 玲二君は呆れた様子で玲子さんを諌める。
「母さん、初対面で穂乃香をびっくりさせないでくれ。穂乃香、母さんの言うことは九割がた冗談だから、気にしないで」
「九割じゃないわ。せいぜい、七割くらいよ」
「七割でも、かなり軽率な部類に入るからな」
 ポンポンと言葉を交わす二人を、狼狽えながら眺めた。玲二君はお母さんに対しても、クラスメイトと同じようにお兄さんっぽく接するんだな。
「さあさあ、上がってちょうだい。最近テレビで話題のアップルパイを買ってきたのよ」
 弾んだ声を掛けられて、ようやく私は「お邪魔します」と靴を脱いだ。

 玲二君が言っていた通り、家の中はほとんど片付いていた。物の少ない質素なダイニング。今までの思い出を全部、前の家に置いてきたような部屋だ。
 クラスメイトの男子の家だなんて、何を話したら良いのか分からないなと思っていたけれど、玲二君も玲子さんも話上手で明るくて、あっという間に楽しい時間が過ぎていった。
「そう、穂乃香ちゃんは読書が趣味なのね。私と玲二もそうなのよ」
 お代わりの紅茶をポットから注ぎながら、玲子さんが微笑む。
「私が高校生の時は、美園呉羽の小説にハマっていたわ」
「えっ!」
 玲子さんの口から美園呉羽の名前が出るとは思わず、私は大げさに驚いてしまった。
「あら、知ってる? 美園呉羽」
「はい、私も読んでいます」
「まあ、そうなの。長く愛されているのねぇ」
 考えてみれば、玲子さんと母は同年代だ。高校生の玲子さんが、十七歳でデビューした美園呉羽の小説を読んでいたとしても、何ら不思議はない。
「それなら、見せたいものがあるから、いらっしゃい」
 玲子さんは立ち上がると、奥の洋室に私を案内した。玲二君は「行っておいで」と、温かい目で私を見送っている。我が家だと洋室は私の部屋になっているけれど、篠塚家では玲子さんの部屋にしているようだ。六畳間の洋室に入ると、背の高い本棚が私を出迎えた。
「あっ!」
 私は声を上げた。そこには美園呉羽の小説がずらりと並んでいたのだ。初期の青春小説のみならず、作風が変わった後の恋愛小説もある。美園呉羽の全作品がそこにはあった。
「ほら、見て」
 玲子さんが本棚から一冊の小説を取り出すと、表紙を開いて私に見せる。
「これって……」
 そこには美園呉羽のサインが書かれていた。
「高三の時に、美園呉羽のサイン会に行ったことがあるの。ほら、ちゃんと『玲子さんへ』って宛名も書いてもらったのよ。いいでしょう? ファンレターを送って、返事をもらったこともあるわ」
 得意げな玲子さんを見て、私は何だか泣きそうになった。母に熱心なファンがいたのは知っている。でも、その一人が玲子さんだったなんて。
 玲子さんはサイン本の表紙をそっと閉じると、大事そうに胸に抱えた。
「私ね、高校生の時にいじめに遭っていたの。『ぶりっ子のナルシストで、ブスのくせに調子に乗ってる』って言われて、女の先輩や同級生に仲間はずれにされていたわ」
「え……そんな。それってきっと、嫉妬ですよ」
 綺麗で明るい人だから、同性からやっかまれていたのだろう。すると、玲子さんはフフッと笑った。
「穂乃香ちゃんは良い子ね。私も嫉妬だと思うわ。でもそのことに気付けたのは、高校を卒業してずっと後になってからよ。当時は、周りの評価がそのまま私の評価だったわ」
 それは、あるかもしれない。例え本人が美人だとしても、周りの大勢がブスって言ったらブスになる。集団って、そういうものだ。
「そんな時、美園呉羽の小説に救われたのよ。この作品に、こんな台詞があるわ。『私の行く道は、私が決めるの。例えどんな荒野を行こうとも、常に私が共にいるのだから、永遠に怖くはないわ』」
 私もこの台詞を知っていた。逆境を乗り越え、新たな環境に一人きりで挑む主人公が宣言した言葉だ。
「良い言葉ですよね」
「そうね。美園呉羽は大人になってから、恋愛小説ばかりを書くようになったんだけど、私はそれらの作品も好きだったわ」
「え、そうなんですか?」
「もちろんよ。幸せの道標になってくれたもの。結婚生活が上手くいかなかった時も、彼女の恋愛小説で癒されて、さっきの台詞に励まされて……私はずっと、美園呉羽の大ファンなのよ。彼女が亡くなったと知った時は、とても落ち込んだけど、こうして作品は残っている。美園呉羽の足跡を、私は忘れないわ」
 そう言って、玲子さんは柔らかく微笑んだ。

 帰宅した私は、断りを入れて父の部屋に入ると、押入れから母の物をしまってある段ボール箱を取り出した。美園呉羽宛のファンレターを保管してあるファイルを開き、一通ずつ差出人の名前をチェックしていく。
「あ」
 ほどなくして、目的の手紙が見つかった。ポップなキャラクターのレターセットと丸っこい字。さっき会った大人の玲子さんとは、イメージが結び付かないけれど……そこには確かに『篠塚玲子』と差出人の名前が書かれている。高校生の玲子さんが書いたファンレターだ。
「……」
 手紙の中身は読まなかった。そんな無粋な真似はしない。この手紙に書かれている内容は、母と玲子さんとの秘密だ。
 美園呉羽の小説には確かに、母だけが持つ光があった。その美しい光は、玲子さんの心に新たな光を灯したのだ。
 私の小説にも私だけの光があると、病院のベッドの上で母は言った。
 本当なのだろうか?
 本当なのだとしたら、私の光は一体どんな煌めきを放っているのだろうか?

 母がくれたノートを胸に抱きながら、アパートの屋上で夜風に当たっていると、誰かが階段を昇ってくる音が聞こえた。
「見つけた、穂乃香」
 玲二君が姿を現したけれど、彼が私を探す理由が見当たらない。
「玲二君? どうしたの?」
「母さんがアップルパイのお裾分けを渡すのを忘れていてさ。それはさっき、穂乃香の部屋に行ってお父さんに渡してきたんだけど、その時に『穂乃香は屋上にいるんじゃないかな』って聞いたから」
「そうだったんだ」
 小さい頃は、危ないからって父に屋上に行くのを止められていたけれど、今では何も言われない。むしろ、私が一人になりたいのを分かっていて、そっとしておいてくれているようだ。
「母さんと美園呉羽の話は出来た?」
「うん。玲子さんも美園呉羽が好きだったなんて、すごい偶然だね」
「ああ、それなら、これ」
 玲二君は私が手にしているノートを指差した。
「この前、図書室で穂乃香がこのノートを閉じた時に、裏表紙に美園呉羽のサインが見えたからな。母さんが持っているサイン本と同じサインだったから、すぐに気付けた」
 私はノートの裏表紙を見た。そこには、ノートをくれた時に母に書いてもらった、美園呉羽のサインがあった。
「なるほど、そっか、それで私が美園呉羽が好きだって分かったんだ。玲二君って、周りをよく見てるよね」
「まあ、これは周りというより、穂乃香だからかな」
「え?」
 それはどういう意味だろう? 私は目をしばたたかせて玲二君を見たけれど、彼はニコニコといつも通りに微笑むだけだった。
 玲二君も玲子さんも、私の母が美園呉羽だとは気付いていないようだ。きっと、言っても言わなくても、玲二君の私に対する態度は変わらないだろう。いつも優しくて、大人びていて……。温かな陽だまりのような彼。
 だからこそ、そんな玲二君に私のことを知ってもらいたくなった。
「ねえ、玲二君」
「ん?」
「あのね、実は、美園呉羽はね……」


5
 朝、スマホのアラーム音で目を覚ますと、私はすぐにあるサイトをチェックする。最近登録したばかりの、小説投稿サービスのサイトだ。
 私はこのサイトが運営している小説コンテストにエントリーしていた。大賞を取ればデビュー確定の大きなコンテストだ。日々コツコツと文章を書き連ね、キリの良いところでまとめてサイトにアップしている。この調子で書き進めていけば、〆切までには何とか間に合いそうだ。
 あの日。玲子さんに会って、玲二君に母が美園呉羽だと打ち明けた日から、小説を書きたい意欲が増している。このあり得ないような偶然を、玲二君も「驚いたけど、本当に素敵な巡り合わせだね」と言ってくれた。玲子さんにはまだそのことを伝えていない。平凡な私が美園呉羽の娘だと知ったら、がっかりさせちゃうんじゃないかって思う。でも、いつかきっと伝えたい。玲子さんは美園呉羽の一番のファンなのだから。
 今までサイトに小説を載せることはあっても、コンテストに応募したことはなかった。どうせ私には無理だと思っていたからだ。だけど、どうせ応募するだけタダなんだから、やるだけやってみよう、なんて気持ちになっている。
 書いている話は、高校卒業を前に恋や進路に揺れる女の子の話だ。未来への不安を持つ主人公は今の自分とリンクする部分もあって、どっぷりはまり込んで執筆している。
 ペンネームも新しく考えた。小説家への一歩を踏み出すのだから、ちゃんと考えようと思ったのだ。あれこれ悩んで決めたペンネームは美園仄香(みそのほのか)。母のペンネームから名字をもらって、あとは自分の名前の漢字をちょっと変えて付けた。
 来月は私の誕生日。十七歳。美園呉羽がデビューした歳と同じだ。私も母のように高校生デビュー……なんて、虫のいい話だろうか。
「あ、またコメントが来てる」
 連載中の小説にはちらほら「いいね!」や感想コメントがつくことがあって、空いた時間についついサイトをチェックしてしまう。書くモチベーションがぐっと上がる瞬間だ。
 中でも一番応援してくれるのが、銀縁メガネさんとReiさん。これは玲二君と玲子さんそれぞれのハンドルネームだ。二人ともわざわざアカウントを作って、私の作品にほぼ毎回コメントを残してくれている。ちなみに父は玲子さん経由で私のコンテスト参加を知り、「どうして父さんには教えてくれなかったんだい?」といじけていた。
 小説と勉強と家事と。いつもにも増して忙しい日々だったが、私はとても充実していた。

 その日の放課後。私はいつも一緒に行動している友達、沙織(さおり)彩美(あやみ)から遊びに誘われた。
「ごめん。今日はちょっと忙しくて……」
 コンテストの〆切が近いから、作品を早めに書き上げて推敲したい。そう思って断ると、彩美が不満そうに頬を膨らませた。
「穂乃香さあ、最近、付き合い悪くない? これでフラれるの何度目だろ」
「ご、ごめん」
「そうだよ。穂乃香、何か私たちに隠してることがあるんじゃない?」
 沙織に詰め寄られて、私は戸惑った。小説を書く趣味やコンテストのことは、二人には話していない。どちらも小説を読まないし、落選したら気まずくなるし。だけど、今までも勉強や執筆を理由に誘いを断ってきたので、このままでは良くない気がする。
 私が黙っていると、二人は目を見合わせてニヤニヤと笑った。
「なんてね。穂乃香、桜沢君と付き合っているんでしょ?」
「へっ?」
 予想外のことを言われて、私は変な声を出してしまった。
「え……何で、私と玲二君が付き合っているって思うの?」
「えーだって、いつの間にか名前で呼び合う仲になってるし」
「それは……」
「最近よく一緒にいるの見るし。一緒に登校したり、放課後、図書館で勉強してたりさー」
 確かに、同じアパート住まいなので、朝一緒に学校へ行く機会が増えた。最近では私が数学が苦手なのを知って、玲二君に教えてもらうこともある。でも付き合っているとか、そんな関係では一切ないのに……。
「いいじゃない、桜沢君。良い彼氏になりそうで」
「うんうん。お金持ちのお坊ちゃんだしねー」
 彩美のその言葉を聞いて、
「あの、彩美。そういうことじゃないよ」
 私は咄嗟に言い返してしまった。
「え? 何が?」
 不思議そうな顔をする彩美に、私は訴えた。
「玲二君は、お金持ちだから魅力的ってわけじゃないよ。真面目で優しくて、頼りがいがあって……家庭なんて関係なく、素敵だなって思うよ」
 それは紛れもなく私の本音だ。玲二君の家庭の事情を知っているから、言えることでもあった。
 けれど、言う場所を間違えてしまったようだ。
 突然、教室の入り口から男子たちのどよめきが聞こえた。
「おおー! だってよ、良かったな、玲二!」
 嫌な予感がして声のした方を見ると、玲二君が男子たちに囲まれて気まずそうに立っている。しまった。今言ったことを大勢に聞かれてしまった。しかも、男子たちも彩美や沙織も、私の発言を大いに誤解している様子だ。特に男子たちは、大声で玲二君を冷やかしている。
「いやーアツいね! お二人さん!」
「いいなー彼女! 俺も欲しいなー!」
 騒ぐ男子たちは手の付けられない状態だ。彩美と沙織も何も言えないようで、心配そうに私を見ている。何も出来ずに俯いていると、
「みんな、それは誤解だよ」
 玲二君がきっぱりと言った。いつも通りに落ち着いた、でも芯の強さが伝わる声だった。思わず冷やかしを止めた男子たちに、玲二君は続ける。
「実はさ、俺の両親、離婚したんだ」
 突然の発言に、男子たちも彩美と沙織も、私だって驚いて玲二君を見つめた。
「だから今は貧乏暮らし。もう全然、お金持ちのお坊ちゃんじゃないよ」
 玲二君が彩美に視線を投げる。彩美は困ったように唇を嚙み締めた。
「そのことを、偶然穂乃香に知られて、黙っていてもらっていたんだ。それだけだよ。だからこれ以上、穂乃香を嫌な気持ちにさせないで」
 場がしんと静まり返った。ちょっとの間を置いて、男子のうちの一人が調子を取り戻したように玲二君の肩を叩く。
「玲二さ、そういうこと、何で俺たちに黙ってるかな」
「ごめん。気を使わせるかと思って」
「お前なぁ。俺たちは玲二の友達なんだから、何でも話せって!」
 クラスは和やかなムードになり、私は安心してほうっと息を吐いた。

「なるほどね。そういうことがあったんだ」
 その後、私たち三人は沙織の部屋にいた。「詳しい話を聞かせなさい」と連行されて、二人に玲二君とのことを話したところだ。その流れで、成績が伸び悩んでいることや、小説のコンテストに挑戦していることも話した。
「桜沢君のことは秘密にせざるを得なかったとして、成績や小説のことは、私たちに話してくれても良かったんじゃないの?」
 口を尖らせた沙織に指摘され、私は「う、ごめん」と言葉を詰まらせた。
「本当、穂乃香と桜沢君って似た者同士だよね。どっちも大人びてるくせして、人に頼るのが下手なんだから」
 彩美のその言葉で、私はふと、玲二君に「きっと似てるんだよ、俺たち」と言われたことを思い出した。
「穂乃香はさ、正直な話、桜沢君のことをどう思っているの?」
「えっ?」
 突然沙織に問われて、私は目をぱちぱちと瞬かせた。玲二君との誤解は解けたはず。なのに、どうしてそんなことを聞くんだろう?
「付き合っていないにしても、二人の距離は縮まったわけでしょ? 気持ちの変化はあったのかなって」
「気持ちの変化……」
 実はさっきの教室での出来事で、私にある感情が芽生えていた。それを言ってみることにする。
「玲二君の印象は、さっき言った通りだよ。真面目で優しい人だなって。だけどあの時、玲二君が『秘密を穂乃香に守ってもらった。それだけだ』みたいなことを言ったでしょ?」
「うん」
「『それだけ』って言葉が、何ていうか、冷たい、とは違うけど、そう言ってほしくなかったなって思った。親しい関係になったはずなのに、それも全部なかったことにされたように感じたの。とても……寂しい気持ちになった」
 上手く言えないながらも、何とか自分の中の感情を説明すると、沙織と彩美は何故か真顔になって、顔を見合わせた。彩美が口を開く。
「ねえ沙織。友達としては、ここは温かく見守るべき? それとも、はっきりと自覚させるべき?」
「うーん。もどかしいけど、まずは見守ろうか。こういう気持ちは、自分自身で気付いた方がいいと思うから」
「だね。これからの桜沢君の行動に期待ってことで」
 うんうんと頷き合う二人を、私は訳が分からないままに見つめる。
「ねえ、一体何を話しているの?」
「何でもないよー」
「全く、この子は手がかかるんだから」
 二人によしよしと頭を撫でられて、私の頭の中に「?」マークが浮かぶ。
 だけど、三人の仲が元通りになって、本当に良かったと思った。


6
 それから一ヶ月が過ぎた。今日は土曜日。私の誕生日だ。
 先日、小説コンテストの一次選考があった。サイトで発表された通過作品を隈なくチェックしたけれど……そこに私の名前はなかった。
 結局私は、何も結果を残せないまま十七歳となってしまったのだった。
 十七歳。美園呉羽がデビューした歳。ああ、こんなにも手の届かないところに母がいるなんて。私は美園呉羽の作風を貶してしまったけれど、小説の実力は彼女の方がずっと上なのだ。当たり前のことなのに、私は心のどこかで「自分も母のように小説の才能があって、若くしてデビュー出来るんだ」なんて考えていたのだろう。ものすごく恥ずかしい。
 そんな私だけど、応援してくれた人たちからは、たくさんの心優しいメッセージが届いた。父や玲二君、玲子さん。沙織と彩美(見せなさいよとせがまれたので、仕方なく。二人とも小説は苦手のはずなのに、意外にもきちんと読み込んで長文の感想をくれた)。
 そして、サイト上で応援してくれた、顔も知らない人たち。「私も進路で悩んでいたので、読んで元気になりました」、「美園仄香さん、これからも応援してます!」なんて、思わず笑顔になるメッセージをもらった。
 玲二君に「俺はお世辞抜きで、穂乃香の作品が一番だと思ったけどな」と真面目な顔で言われた時は、顔を真っ赤にして慌ててしまったけれど。
 落選は本当に残念だったけれど、また挑戦しよう、挑戦してみせる、そんな気持ちにさせてくれた。
 玲二君とは初めちょっと気まずい感じだったけれど、彼が普段通りに接してくれたから、すぐに元の仲に戻った。玲二君は今では、篠塚姓を名乗っている。クラスの皆もすんなりと受け入れてくれた。だけど、玲二君の離婚をクラスの皆に知られたことについての話題は、お互い何となく避けている。いつか話す日が来るのだろうか。
「穂乃香、準備が出来たからおいで」
 ドアの向こうから父が私を呼んだ。今夜は自宅で父と誕生日を祝うことになっている。駅前のケーキ屋で買ったいちごのショートケーキと、スーパーのお惣菜。ささやかなお祝いだけど、私の心は浮き立った。
「誕生日おめでとう、穂乃香」
「ありがとう、お父さん」
 ジュースのグラスで乾杯してから、様々なお惣菜に目移りした。普段はこんなにたくさんお惣菜を買うことがないから、何だかワクワクしてくる。
「穂乃香、誕生日プレゼントだよ」
 そう言って父が渡してきた包みを受け取る。綺麗なリボンのかかった布の袋だ。
「ありがとう、何かな?」
 はやる気持ちを押さえて袋を開けると、そこには私が欲しがっていたワンピースが入っていた。温かみのある茶系のタータンチェックに白いレースの付いた、女の子らしくて可愛いワンピースだ。
「えっ! いいの? これ、お店で見つけてずっと欲しかったけど、高くて手が届かなくて……」
「もちろん。穂乃香がとても欲しがっていた話を聞いていたから、これが一番のプレゼントになると思ったんだ」
「……お父さん、本当にありがとう」
 私は感激で涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
「いえいえ。きっと穂乃香に似合うだろうね。これを着て、玲二君とデートに行ったらどうかな?」
「お父さん! それ誤解だから!」
 父も玲子さんも、私と玲二君の仲を勘ぐっている節がある。最近の私は、玲二君のことでからかわれるとひどく動揺するようになった。クラスで冷やかされた辺りからかな、たまに玲二君のことを意識しちゃうというか……。
「あと、これは実穂乃さんから」
 そう言って、父は私に一通の手紙を差し出した。
「何を言っているの、お父さん? お母さんからの手紙なんて……」
「三年前の実穂乃さんから、十七歳の穂乃香に宛てた手紙だよ。実穂乃さんの入院中に、こっそり預かっていたんだ」
「え……?」
「『穂乃香が十七歳になったら、この手紙を渡してほしい』って頼まれてね。すぐ渡したらいいじゃないかって言ったんだけど、『私はまだ生きているから、今の穂乃香には直接会ってたくさんの笑顔を渡すわ。でも、未来の穂乃香にも何か言葉を託したいのよ』って言われてね。十七歳は進路で悩む時期だから、助けになりたかったみたいだよ」
「……」
 私は信じられない気持ちで、父から封筒を受け取った。パステルピンクの封筒は、確かに母の趣味だ。封はきっちりと糊付けされたままで、父が母との約束を律儀に守ったことが窺えた。
「自分の部屋で読んでもいい?」
「もちろん」
 微笑む父に送り出され、私は自室に戻るとデスクからハサミを取り出した。どこか夢みたいなふわふわした感覚で、でも中の手紙を切らないように慎重に封を開ける。
 そして私は、中から一枚の便箋を取り出すと、そっと広げた。コスモス柄の便箋に、懐かしい母の文字が綴られている。

藤原穂乃香様
十七歳のお誕生日おめでとうございます。十七歳の穂乃香は、どんな女の子に成長しているのでしょうか。きっと、今と同じ優しい心を持った素敵なお姉さんになっているんだろうと思います。
十四歳の穂乃香には、両親に甘える時間を作ってあげられませんでした。穂乃香の不安な心に寄り添えなかったこと、とても申し訳なく思っています。そんな中でも穂乃香は、いつも優しく、決して弱音を吐かず、そしてたくさん、私に会いに来てくれましたね。そんな穂乃香を、私はいつも看護師さんや周りの人たちに自慢していましたよ。あなたは私の誇りです。
十七歳の穂乃香は、今も小説を書いているのでしょうか? 将来は大学で文学について学んで、小説家を目指したいと言っていましたが、その夢も変わらず持っていますか? 変わっていても、いなくても、私は穂乃香の進みたい道を応援していますよ。
でも、これは私の希望に過ぎませんが……穂乃香にはずっと小説を書いていてほしいと思っています。あなたの小説の中にある光は清廉で美しく、私の目にはいつも眩しく映りました。出来ることならずっと、その光を見ていたかったです。私のその願いは、あなたのお父さんと、この先必ず現れるでしょう、あなたの大切な人に託しますね。
穂乃香の幸せをずっと願っています。                           藤原実穂乃

 読んでいる間ずっと、私の瞳からは涙がぽろぽろと零れて止まらなかった。母の想いが、文面から、丁寧に綴られた文字から、じんわりと伝わってくる。
 ひとしきり泣いた後、私はそっと呟いた。
「ありがとう。お母さん、大好きだよ」

 翌日には、玲二君が我が家を訪ねてきた。来訪自体は、昨日メッセージアプリで連絡が来ていたから知っていたけれど……、
「誕生日おめでとう、穂乃香」
「わっ!」
 玄関を開けるなり、玲二君が花束を差し出してきたので、私はびっくりした。
「あ、ありがとう」
 お礼を言って受け取る。ガーベラやバラにカスミソウをあしらった、清楚で可愛い印象の花束だ。花をプレゼントされるなんて、生まれて初めてだ。いつも父が母のためにミニブーケを買う姿を見ていたので、実はこっそりと憧れていた。
「穂乃香のイメージにぴったりじゃないか。さすが玲二君」
 背後から、父がにこやかに声をかける。
「ありがとうございます。穂乃香、話があるんだけど……今、ちょっと出れる?」
「あ、うん」
 私は父に花束を預かってもらうと、玲二君と共に家を出た。
 アパートの屋上に昇る。空は濃い青で、ぽかぽかの秋の陽気が私たちの心をほぐした。
「昨日はお父さんとお祝い?」
「そうだよ。プレゼントに、欲しかったワンピースをもらったの」
「それは良かったね」
「うん。あとね……」
 私は玲二君に、母からもらった手紙の話をした。
「穂乃香の幸せをずっと祈ってるって、書いてあった。その言葉を見たら、今までのわだかまりが、すうって溶けて消えていった気がしたの」
 どこか清々しい気持ちで、笑顔を見せる。玲二君もほっとしたように頷いた。
「そうか。本当に良かったよ」
「うん。それでね、私、大学の志望学部を変えようと思って。本当は私、文学部で文学について学びたかったんだ。そして、いつか小説家になれたらって……」
 それは高一の時に、自分には出来っこないだろうという理由で諦めた進路だった。でも、母の手紙に後押しされて、今の私は自分のやりたい勉強をしよう、という気持ちになっている。
「経済学部と違って、二次試験は国語と英語だけなんだけど、センター試験を受けるから、数学は必須なんだよね。だから、今まで通り勉強は教えてほしいな」
「もちろんだよ。あのさ、穂乃香。俺の進路の話も聞いてくれる?」
「え、うん!」
 玲二君の進路について聞くのは初めてだ。興味津々で頷く。
「俺の将来の夢は、弁護士なんだ。両親の離婚の時に、母の担当の弁護士さんが親身になってくれて、とても頼もしかった。だから穂乃香と同じ大学の、法学部を受験する予定だよ」
「そうだったんだ」
「両親の離婚のこと、クラスの皆には秘密にしてたけどさ。考えてみたら、離婚のことを話さないと、俺の夢についても誰にも話せなくなるもんな。だから、あの時ちゃんと離婚のこと伝えられて、良かったと思ってる」
「玲二君……」
「俺は穂乃香が小説コンテストに挑戦する姿に、元気をもらったよ。俺も自分の夢を叶えるために、頑張るから」
 玲二君の意思の強そうな眼差しに、彼との間にあったわだかまりも溶けていくのを感じた。
「まずは、一緒の大学に行けることを目標にしよう」
 玲二君の言葉に、私はこくんと頷いた。
「私、必ず合格するよ。そして、小説もずっと書き続ける」
 そんな私を、玲二君はしっかりと見つめて告げた。
「俺はそんな穂乃香を見ていたい」
「……え?」
「穂乃香さえよければ、だけどね。これからは穂乃香の一番近くで、頑張る姿を応援したいって思う。一番大事にしたい人だから」
 眼鏡のフレームの奥で、玲二君の目元がうっすらと赤みを帯びている。そんな彼を見た私の中で、今まで正体が分からなかった想いがはっきりと形を作る。
「ありがとう。私も、玲二君には近くで見守っていてほしい。これからも、ずっと」
 穏やかな秋の風が、私と玲二君の間を通り過ぎる。
 明日への物語を、玲二君と一緒に紡いでいきたい。そう、強く思った。

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