朝食を終えた9時半ごろに家の電話が鳴った。この頃としては珍しい。めったに固定電話には連絡が入らない。
私が電話に出た。秋谷さんの奥さんの順子さんからだった。秋谷さんのことで夫に替わってほしいと頼まれた。
夫に替わった。彼は電話の意図を察したようで、秋谷さんと昨晩は一緒飲んでいたと答えていた。
順子さんもさすがだ。その証言の裏をとるために、私にも昨夜の夫について聞いてきた。それでご主人のアリバイの確認の電話だと分かった。
夫が合図したので、夫は遅く帰宅して秋谷さんと飲んできたと言っていたと伝えた。主人も私も秋谷家に波風を立てたくはない。
今回のアリバイ工作を手伝ったことで、彼らはこういうアリバイ工作をお互いに口裏を合わせてやりかねないという認識を新たにした。
私は電話をおいて彼をじっとみた。
「ありがとう。話を合わせてくれて。秋谷家の家庭円満のためだ」
「秋谷さんは順子さんに内緒で悪いことでもしているの?」
「順子さんは何て言っていた?」
「昨晩、娘さんが急に熱を出したので早く帰ってきてほしいと電話したそうなの。でも電話がつながらなくて困ったそうよ。それで遅く帰ってきたので、問いただしたら、あなたと居酒屋で飲んでいて、周りがうるさかったので気付かなかったと謝っていたそうよ。以前にもこういうことがあったので、心配になって、今回はご主人には内緒であなたに確かめてみたそうよ」
「秋谷君にも困ったものだな。あんなよい奥さんがいるのに」
「何かしているの?」
「僕と飲んでいたことにしたのは、僕が安全パイだと思っているからだろう。何かあるのかもしれないな」
「何かって?」
「ひょっとして風俗にでも行って遊んでいたのかな?」
「どうしてそう思うの?」
「以前、連れて行ってもらったことがあるから」
「以前っていつ?」
「君と結婚する前、ずいぶん昔のことだ」
「今はどうなの?」
「誘われたことはあるが、僕は行っていない。誓って結婚してからは行っていない。本当だ」
「まあ、私と会う前の時のことだから、しょうがないわね」
私はそれ以上追及することはしなかった。彼はそういうことをする人ではないと信じているし、信じるしかない。
それに彼は秋谷家にわざわざ波風を起こすことはしない友人思いの良い人だと思った。でもひょっとするとあれは暗黙の了解で、お互いに互助制度のようなものの可能性はある。
その証拠に私もアリバイ工作の片棒を担がされた。でも彼は私が秋谷家にわざわざ波風を起こすようなことは絶対にしないと信じてくれている。その信頼に従ったまでだった。
◆ ◆ ◆
あれから1か月ほどしてほとぼりが冷めたころ、主人が秋谷さんを飲みに誘った。今度は秋谷さんに自分と飲むことを順子さんに話しておくように言っておいたそうだ。
もちろん、私にもこの飲み会のことを話してくれた。飲む場所はもちろんアリバイ工作に使ったいつものうるさい居酒屋だという。
彼が家へ帰ってきたのは9時を少し過ぎていた。私はリビングでテレビのニュースを見ていた。恵理は自分の部屋で勉強をしている。
「どうだった。話ははずんだ?」
「秋谷君にも困ったものだ。やはり浮気していた。正直に話してくれた。順子さんには絶対に話さないと約束するなら教えてあげる」
「私もあなたの片棒を担いだのだから聞かせてもらえないかしら。秋谷さんの家庭に波風を立てようとは思っていないから」
「君の意見も聞いてみたいから、話そうか」
秋谷さんから聞いたことを話してくれた。既婚者合コンでKさんと知り合ったこと、アリバイ作りのあの日は前々日にKさんから夫が出張中とのことで誘いがあったこと、それから「お互いの家庭は壊したくなくて、ただ会って慰め癒し合うだけで、そして絶対に分からないようにしたい」と約束したこと、秋谷さんが「男って一人の女性だけと一生を共にしなければいけないのか?」と言っていたことなどを聞かせてくれた。
「それで二人は関係を続けるの?」
「僕は1回限りにしておいたらと言ってみたが、続けるつもりのようだった」
「順子さんに悪いとは思わないのかしら?」
「家庭は大切にしたいと秋谷君ははっきり言っていた。絶対に分からないようにしたい、分からなければなかったのと同じとまで言っていた」
「詭弁だわ。分からなくてもあったことに変わりはないもの」
「そうだね」
「秋谷さん夫妻の間柄は私たちとは違っているような気がするわ」
「秋谷夫妻は確か合コンで知り合った恋愛結婚で同い年だ。僕たちは職場結婚に近い。年の差は4歳ある」
「秋谷さんご夫妻とはお互いに自宅に招待したことがあるけど、私たちとはどこか少し違う、そう感じた。どこがどう違うとははっきり言えないけど」
「僕から見ると秋谷夫妻は同じような考えを持った同志に見える。それに秋谷君は僕より男女の関係をもっとドライに考えているように思う」
「私は順子さんにもそんな感じがした。二人にはべたべたしたところがなくて少し醒めていてサバサバした感じがしていました。私たちはもっとべたべたしていたと思う」
「べたべた? ラブラブの方が良くない?」
「そうラブラブ」
「秋谷さんは順子さんにないものをKさんに求めているのかしら? 私は順子さんもKさんも同じタイプの人のように感じるけど、どう思う?」
「Kさんと会ったことがないから分からないけど、同じタイプだと思うのか? でも話をして慰め癒し合うことができると言っていた。どこか順子さんとは違っているのだと思う」
「私には理解できないわ。そういえば以前、私もその既婚者合コンらしい集まりの誘いを受けたことがあるの」
「ええっ、本当か? それで」
「興味がないから断った。だって、私はあなたと話していれば十分だから、ほかの人とお話する必要がある? あなたとは何でも話せるし、何でも話してくれるから、男の人はあなた一人で十分です」
「そうか、僕ひとりで十分か、安心した」
「私が浮気するとでも思ったの?」
「いや、君は絶対にしないと思う」
「絶対はないかも」
「ええっ、そうなの?」
「冗談です。お風呂に入りますか? 私もまだなので一緒に入りましょうか、背中を流してあげます」
「どうしたの?」
「ちょっとサービスしておかないと秋谷さんのように浮気でもされると困るから」
「そんなことは絶対ないけど、秋谷君のためにちょっともうかったかな」
私は勉強部屋の恵理を見にいった。彼には先に入ってバスタブに浸かっていた。私は二人でお風呂に入るからと恵理に断ってきたと言って入った。彼はしばらく私と話していたのでもう酔いはほとんど醒めていた。
私はタオルに石鹸を付けて彼の背中を洗ってあげた。久しぶりに背中を流してあげたけど気持ち良さそうにしている。この後は彼が私を洗ってくれる。
今までタオルかスポンジに石鹸をつけて洗ってもらったことはあった。でも今日は手に直接石鹸を付けてその手を身体に擦りつけて洗ってくれた。
いつもと違った洗い方なので一瞬くすぐったいと身体をすくめたが、気持ちよかったので、素直になすがままにしたがった。
まずは背中からお尻へゆっくりと洗ってくれる。お尻の溝に指を這わしてゆっくり洗うと私は思わず腰を浮かせた。
今度は立たせてこちらを向かせる。そして両手で首から胸、乳房、乳首、お腹、おへそ、大事な割れ目をゆっくり洗ってくれる。私は気持ちがよいのと恥ずかしいのとで目をつむっている。
それでもかまわずに洗ってくれたが、私はあまりの快感で我慢できなくなって、そこへしゃがみ込んでしまった。その時、おしっこも漏らしてしまった。彼は気が付いたかしら? 恥ずかしい。
「大丈夫? もうやめようか?」
「ごめんなさい。気持ちよくて、気が遠くなっただけ、続けてください」
ゆっくり立ち上がったが、足元がおぼつかない。
「座ったままでいいから」
私は足を伸ばして洗い場に腰を下ろした。その両足を両手でゆっくりマッサージをするように洗ってくれる。足の指の間も丁寧に洗ってくれる。
「だめ、そこは」
「洗った方がいいよ」
私は思わず足を引っ込めた。彼はここまでと思ってシャワーで身体の石鹸を洗い流す。私は座ったまま動かない、いや動けなかった。
「バスタブに一緒に浸かろう」
私の腕を持って立たせてバスタブへと導いてくれた。私はゆっくり身体を沈めた。その後ろに彼が入った。お湯が溢れて大きな音がした。私が身体を預けるので両手を回してゆるく抱いてくれた。後ろから身体をゆっくり撫でてくれる。
「気持ちいい、ありがとう、うっとりしたわ、幸せってこういうことなのかしら、このまま眠ってしまいたい」
「ここで眠ったらだめだよ。それじゃもう上がって休もう」
私を促して立たせて浴室を出た。バスタオルで身体を拭いてくれる。いつもなら私も彼の身体を拭いてあげるのだが、今日はボッーとしてただ立っているだけだった。いままでこんなことはなかった。初めてだった。
彼はバスタオルをまとった私を抱きかかえながら寝室へ向かう。私を布団に座らせるとすぐにポカリのボトルを冷蔵庫から持ってきて、1本封を切って渡してくれた。私は一息で半分ほど飲んだ。
「おいしい、ありがとう。眠りたい」
そう言うと彼に寄りかかった。横にして寝かせてくれたが、その後のことは覚えていない。疲れていたのだと思う。すぐに眠ってしまった。
◆ ◆ ◆
明け方、私は目が覚めた。寝落ちしたのに気が付いて、彼に抱きついて愛してほしいとせがんだ。彼は私が抱きついてきたので目が覚めて、寝落ちした私が求めているのが分かったからか、すぐに応えてくれた。
私は半分目覚めていて半分眠ったままだったが、何度も昇り詰めていた。そのあと、私は彼の腕の中でまた静かに眠りに落ちていった。
◆ ◆ ◆
目が覚めたら、雨が降っていた。暗かったので目が覚めるのが遅かった。もう8時を過ぎていた。共働きだから土曜日は朝寝することになっている。恵理もそのことは分かっていて声をかけるまで起きて来ない。
私は後ろから抱きかかえられて横たわっていたが、もう目覚めていた。彼が目覚めたのに気づいて振り向いて唐突に聞いてみた。
「ねえ、風俗に行っているでしょう」
「いや、この前も言ったとおり、結婚してからは絶対に行っていないから」
「なんでそういうことをまたわざわざ確認するんだ?」
「最近、少し変わったから、愛し方が」
「いろいろ工夫しているんだ、廸のために」
「浮気はしていないわよね」
「君を悦ばせようと考えて工夫しているだけなのに、浮気をしているから愛し方が変わったというのか? 僕にとってあり得ないことだ。君と付き合いだしたときのこと覚えているだろう。恋愛には全く不向きだったことを」
「ごめんなさい。私を今も愛してくれていることはよく分かっています。昨晩のことや今朝のことも。とても幸せです」
彼は抱いている腕に力を入れて私のその言葉に応えた。
「あなたには浮気はできないと思っていますが、もししたとしても私には絶対に分からないようにするだろうと思います。そういう性格だとよく分かっています」
図星だった? 私の言葉が真を捉えていたのか、一瞬彼は言葉に詰まったように感じた。
「もし、幸運にも浮気できたら、そうすることにしよう」
「幸運ってなに? 浮気はする気があってするものでしょう。する気があるの? 分からなければ浮気をして良いといったわけでは決してありませんから、念のため」
「分かっている。絶対にそれはないから安心して」
もう、彼は言葉の遊びにしようと必死になっていた。
9月24日(金)12時に八重洲口で秋谷さんと待ちわせた。4回目の密会だった。スーツケースはすでにホテルのフロントに預けてきた。事前にどこへ行きたいか聞かれていたので、ショッピングと答えておいた。
それで六本木ヒルズとミッドタウンを案内してくれることになった。今回は一人で東京へショッピングといってあるから、何か素敵な衣料を買って帰りたかった。食事は六本木のしゃれたレストランを予約しておいてくれた。
レストランで食事をしたときに彼の気持ちを聞いてみた。
「貴方の気持ちを確かめておきたいの。私のことをどう思って会ってくれているの?」
「会いたい気持ちもあるし、会ってはいけなかったと後ろめたい気持ちもある。正直、迷っている。どうしても昔別れたことが悔やまれて、君のことが頭から離れなくなっているんだ。今の気持ちを一言で表すと、浮気という言葉がしっくりこないけど、浮気と本気の間だと思う」
「私も同じ気持ちです。あの別れた時に気持ちの整理がついていたはずなんだけど、密会を重ねると、昔のことを後悔したり、会いたい気持ちは募るし、いっそ今の夫と別れてしまおうかとも考えたこともあったの。でも夫と別れることはできない。会いたいと身体が求めているような気もして、どうしたらいいのか分からなくなっています」
「俺はこのまま二人の関係を大切にしたいと思っている。だからお互いにパートナーには絶対に分からないようにして会い続けるしかないと思っている」
「私も貴方と同じように二人の関係を大切にして、このまま会い続けたいと思っています」
やはり、彼も同じ気持ちを持ってくれていた。それを確かめられて安心した。ただ、このような関係をいつまで続けられるのか不安もあった。その日も、駅のホテルで彼と一夜を共にした。
◆ ◆ ◆
10月に入って、上野公園の国立西洋美術館のフランスの印象派の絵画展があることが分かった。私はフランスの印象派の絵画が大好きで画集を何冊も持っている。どうしても見に行きたくなって秋谷さんに都合を聞いた。
10月27日(水)、28日(木)29日(金)の午後なら対応ができるとの返事だった。それで勤務の予定を調べて、28日(木)の午後に訪ねることにした。
それからスケジュールがメールで送られてきた。12時にいつもの場所で待ちあわせをして、上野の西洋美術館で絵画展を見てから、東京国立博物館か上野動物園を見学して、新橋の和食の店で夕食を予約したと書いてあった。
前回会ったのが、9月24日(金)だった。直美さんからは会う回数が多すぎるから、間隔をもっと開けるように言われていたので、間隔があいていないのが気になったが、理由が絵画展だから問題ないと思っていた。家族にもそういって出かけてきた。
10月28日(金)夜勤明けから直接駅に向かい、新幹線に乗って東京駅についた。すぐに荷物をホテルに預けて、八重洲の改札口で彼を待った。私はこのとき私をずっと監視している人がいるのに気づかなかった。
東京駅からJRに乗って上野駅まで行った。西洋美術館ではゆっくり絵画を鑑賞できた。それから、上野動物園は歩き回るのに疲れると思ったので、東京国立博物館を見学することにした。ここもゆっくり見学する時間があった。
午後5時を過ぎたころに上野をたって新橋へ向かった。和食の店は新橋駅から徒歩5分くらいのところだった。そこのボックス席で食事をした。店を出たのは8時を過ぎていた。
二人ともお酒を飲んだので、新橋駅前からタクシーに乗って駅のホテルへ向かった。それから二人はホテルで一夜を過ごした。
◆ ◆ ◆
10月29日(土)昼の新幹線に乗って金沢へ帰ってきた。それから直接、夜勤に入った。そして10月30日(日)朝9時過ぎに夜勤明けで家に帰ってきた。いつもなら笑顔で迎えてくれる夫の誠《まこと》がいなかったので、息子の諭《さとし》にパパのことを尋ねた。
「パパは昨日の午後5時ごろに、パパも旅行に行ってくるからとスーツケースを持って出かけていった。しばらくもどってこられないかもしれないけど心配するなと言っていたけど、どこへ行ったのかな?」
「パパの様子はどうだった」
「何か考え事をしているような感じだったけど」
「パパが旅行に出かけたことをおじいちゃんやおばあちゃんは知っているの?」
「今朝、パパはどうしたのと聞かれたから、旅行に出かけたといってある」
私は不安を感じて、彼の部屋に行った。部屋はきちんと片付けられていて、机の上に私宛の手紙が残されていた。
『多恵様 多恵がここしばらくは東京へ買い物に行くと言って家を空けることが度々なので、心配になって、28日(金)に東京までずっと後を付いていった。そうしたら見知らぬ男性と親しく会っているのが分かった。二人がタクシーに乗って駅のホテルへ入るところまで確かめて、その日のうちに戻ってきました。
多恵には好きな人がいるようだから、自分なりにどうしたらよいのかを考えてみました。それで考えた末に自分はこの家を出ることにしました。多恵と結婚して諭が生まれて跡取りはできたから、自分は役目を果たした。あとは自分も自由に生きてみたいと思う。
多恵には幸せになってほしい。諭には旅行に行くといってあるので、そのうちに君の方から話してやってほしい。 10月29日 誠 』
そして、自分の分を記入した離婚届が同封されていた。
読み終えるとその場に崩れ落ちた。大変なことになった。私は一時の安易な感傷におぼれて見境がなくなって、かけがえのない大切な人を傷つけてしまった。取り返しのつかないことになってしまった。頭の中が真白になっていた。
どうしたら戻って来てくれるのだろう。言い訳が思いつかない。言い訳なんかできるはずがないことは分かっていた。すべて私の我儘のせいだった。
夫の誠とは見合い結婚だった。私は看護学科を卒業して公立病院に勤務して4年たっていた。看護師になってからは仕事を覚えるのに忙しくて、秋谷幸雄との別れの思いも次第に薄れていった。
25歳を過ぎたころから両親から見合いを勧められるようになった。婿養子を見据えて、相手は次男に限られていた。
両親とは幸雄とのことでしこりが残っていた。両親へのその反発もあって、それでどうしてもといわれてお見合いしても、何かしら理由をつけてお断りしていた。まあ、先方に惹かれるところがなかったこともあると思う。
3人目にお見合いしたのが、中森 誠だった。彼は同い年で地方公務員だった。高校は違っていたが大学は同じで文系を卒業していた。もちろん次男だった。
彼はお見合いの席で私を見て終始ニコニコしていた。席を替えて二人で話し始めると彼は私が病院で看護したことのある人だと分かった。確かにどこかで会ったことがあるような気がしていた。
「僕が昨年急性腸炎で入院した時にお世話になった看護師さんですね。僕はそのとき胸のネームプレートで上野という名前を憶えていました」
「そういえば、いらっしゃいましたね。急性腸炎で入院された方が。確か感染性ではなかったと思いますが、そうですか?」
「そうです。感染性はないと女医の先生から言われました」
「覚えています。5~6日で退院されましたね。入院したときはしょっちゅうトイレにいかれて大変そうでした。そのうち良くなるとお腹がすいたお腹がすいたばかり言っていましたね。本当に感染性でなくてよかったですね」
「最初はO157かノロウイルスかと心配でしたが、安心しました。内視鏡検査を受けましたが、がんの疑いもありませんでした。あれから暴飲暴食には気をつけています」
「それで、今回のお見合いの話があったときに、上野多恵さんの履歴書を見て思い出しました。これは運命の出会いに違いにないと思いました。僕はあのときあなたに一目ぼれをしていました。差し支えなければ、是非、僕と交際してみてください。お願いします」
私はそのとき運命の出会いとは思わなかったが、誠実そうな彼からそういわれて悪い気はしなかった。それでお付き合いを始めることになった。
お付き合いして分かった。やはり彼は私にはいつも誠実だった。また、私を大切にしてくれた。それで何回か会ううちにこの人とならと思えるようになった。
ただ、彼は女性に不慣れでぎこちなかった。だからお見合いをして私と巡り合ったのだと思った。でも彼は私が好きだから結婚してほしいと言ってくれた。それにそのためなら婿養子になっても良いとまで言ってくれた。
私の家に来て父親と会ったときに、私と結婚したいから婿養子になってもよいと話した。両親は彼の学歴と勤め先が気に入っていたが、婿養子になってもよいと言ってくれたことから、彼との結婚を勧めた。
それで私たちは4か月後に婚約して、9か月後に結婚した。新婚旅行は私の行きたいところでいいと言ってくれたので、沖縄へ4泊5日で出かけた。海外でもと言ってくれたが、二人で落ち着いて過ごせるから言葉の不自由もない国内旅行にしたかった。
結婚式と披露宴を終えて新婚初夜は駅前のホテルで迎えることになった。それまで誠は私を抱きしめてキスをしたことはあったが、それ以上はなかった。彼はそういうことにはまったく不慣れだったし、結婚までは私を大切にしてくれたのだと思う。
それに二人は自宅から通勤していたし、お互いの部屋を行き来することはなかなかできなかった。お互いの家へ挨拶に行き来したときに案内されて彼の部屋に入ったことが1回あったくらいだった。まして彼の部屋や私の部屋に二人で泊まることなどできるはずもなかった。
私はそれを期待していた訳ではなかった。それより結婚まで私を大切にしてくれていると嬉しかった。
彼はどことなくぎこちなくて女性経験がないのはすぐに分かった。とはいっても私も幸雄と1回だけ、それもほんの短い時間だったから、ほとんど彼と変わらなかったはずだった。でも気持ちのゆとりはどういうわけかあった。
彼はそれでも彼なりに私にできるだけ優しく接してくれた。でも肝心の時になって彼のものが役に立たなくなってしまった。緊張しすぎたせいかもしれない。それでも彼はなんとかしようと一生懸命だった。私は何も言わないで横になってすべてを任せていた。
それまでにどれくらいの時間がかかったのか分からない。ほんの短い時間だったかもしれないし、かなり時間がかったのかもしれない。
ようやく二人が一つになったと思ったとき、やはり痛みがあった。あの時と同じ痛みが走ったと同時に彼はいってしまった。あっけなかった。それでほっとした思いもあった。
「ありがとう。二人とも初めてだとうまくできないものだね。大丈夫?」
はにかみながら言った彼の言葉を覚えている。いい人なんだなと思った。私はゆっくり頷いて答えた。
それから彼は私を宝物のように大切に抱いて寝てくれた。この時初めてこの人と結婚して本当によかったと思った。
旅行先でも彼は毎晩私を愛してくれた。彼なりに一生懸命だったと思う。それに私も応えた。痛みは残っていたが徐々に慣れてきて彼の望みにもすこしずつ応えられるようになっていった。
新婚の最初のころは私の実家の近くの新築アパートを借りて二人で住んでいた。婚約してから両親は実家の敷地の中に二世帯住宅を建て始めていた。
アパートを借りて二人で住んでいた時が二人にとって一番良い時だったかもしれない。結婚したてのころは、夜勤の時以外はほとんど毎晩愛し合った。だんだんお互いに身体がなじんでいくことが嬉しかった。お互いに満たされていて、あの頃が一番幸せだったと思う。
だんだんにそれが当たり前になると愛し合うことへの興味も薄れて行った。二世帯住宅ができてそこへ移り住んだときに、避妊を止めた。すると私はすぐに諭を妊娠した。長男が生まれた時、両親の喜びようはなかった。私は親孝行ができてよかったと思った。誠も勤めを果たしたように誇らしげだったのを覚えている。
私は産休があけると病院勤務に戻った。諭は母に預けて面倒を見てもらった。非番の日は私が面倒を見た。夜勤でないときは、夜は私が面倒を見たが、私が疲れているだろうと誠も手伝ってくれた。私はそれが当たり前のことだと思っていた。
諭を妊娠している間も、諭が生まれてからも育児に手がかかったのと勤めがあったので、誠と離れて寝ることが多くなり、肌を触れ合うことも少なくなってしまった。私はもともとあまりHが好きではなかった。快感は得られているが、感じ方もほどほどだと思っていた。
両親は諭に入れ込んでいたので、育児や教育について父親の誠が口をはさむことも少なくなっていった。誠はもう自分はここでは必要がないと思い始めていたに違いない。ただ、彼には仕事があった。だから仕事に打ち込むようになっていったように思う。特段趣味もない彼には仕事しか逃げこむところがなかったに違いない。
私は私で誠と疎遠に感じるようになって、ますます最初のころに見つけた彼の良さを徐々に見失っていった。隙間風が吹くというのはこういうことなのかもしれない。
そこへ別れた秋谷幸雄が現れた。彼への果たせなかった思いが瞬く間に誠への思いを凌駕していってしまった。
彼は私が幸雄と会っていることが分かって、私の気持ちが自分から離れていることを知って絶望したに違いない。最後の心のよりどころさえ失ったと思ったに違いない。その時の彼の気持ちが痛いほどよく分かる。ごめんなさい。
誠が私のもとを去って、彼がいつまでも私のことを思ってくれているという思い込みと思い上がりがあったことに初めて気づいた。私が彼のことを思っていないのに、彼が私のことを思ってくれるはずがない。親しく交わった二人の間でもそれはいえる。親しかったからなおさらいえることだ。
彼は私を好きだから結婚したいと言ってくれた。そして私と結婚するために婿養子になってくれた。幸雄は私よりも自分の志を選んだが、誠は私を選んでくれた。私は一番大切な人を失ってしまった。もうおそい。
10月30日(日)午後になって、私もようやく落ち着いてきた。彼を探して話がしたいと思った。彼の行きそうなところは実家だと思ってすぐに電話した。兄の修さんが電話に出た。
「ご無沙汰いたしております。上野多恵です。主人がそちらへ行っていないでしょうか?」
「誠は昨日訪ねてきました。上野の家を出ることにしたとか言っていましたが、どうしたのですか? 何も話してくれないのですが」
「私の我儘が原因です。申し訳ありません。主人とお話させてもらえませんか?」
「誠はもうここにはいません。昨晩はここに泊まりましたが、今日の朝、出ていきました。アパートでも探すと言っていました」
「そうですか。ご心配をおかけいたしました。失礼します」
彼はまだ実家にいるかもしれないと思ったが、会いに行っても会えないと思った。会うにしても少し時間を置いた方が二人とも冷静になれると思った。
『去る者は追わず』というが、私はできれば追いかけたい。もう取り返しのつかないところまで行っているが、できるだけのことはしてみたい。
直美さんに相談してみよう。あの時は相談に乗ってくれて親身になってアドバイスもしてくれた。でもその折角のアドバイスを役に立てられなかった。彼女がいうとおりすべてについてもっと慎重であるべきだった。
直美さんはすぐに電話に出てくれた。急いで相談したいことがあると帰省の予定を聞いた。丁度11月5日(金)から2泊3日で帰省するというので、11月5日(金)に午後6時30分にこのまえの和食レストランで会うことになった。
◆ ◆ ◆
11月5日(金)午後6時からこのまえの和食レストランで直美さんを待っていた。時間ちょうどに直美さんは来てくれた。
「どうしたの、なにかあったの?」
「夫が家を出て行ってしまいました。どうしたらよいかと混乱してしまって」
「詳しく話して」
「10月28日(金)に彼と東京で会いました。二人で上野公園の国立西洋美術館の絵画展を見に行って、それから新橋の和食店で夕食を食べてから、二人でタクシーに乗って駅のホテルに戻りました。夫は私が東京へ何度も足を運んでいたので心配になって私をつけてきたようで、私たちがホテルに入るのを見届けると帰ったようです。それで29日(土)に私は金沢へ戻ってその足で夜勤について、30日(日)に帰宅したら、この手紙と離婚届を残して、彼は家出をしていました」
私は手紙を彼女に読んでもらった。彼女は何回か読み返していたようだった。
「ところで、秋谷さんとあなたの気持ちはどうなの? お互いのパートナーと分かれて再婚する気はあるの? もしそうならいっそ彼と再婚することも不可能ではないと思うけど」
「それはあなたから確かめておいた方がよいといわれていたので彼に聞いてみました。浮気と本気の間だといっていました。私も同じように思っていると話しました。私は夫と別れることはできないともいいました。それで今の関係を続けようということになりました。でもあなたの忠告に従わずに安易に会ってしまいました。今はもう手遅れですが」
「それであなたはどうしたいの?」
「できれば彼に帰って来てもらいたいと思っています。でも、どうしたらよいか分からなくて、あなたの考えを聞かせてもらえないかなと思って」
「分かったわ。もし私だったらどうするか? ・・・まず彼を探して取りあえず会って話をすることね。今までの秋谷さんとの経緯をありのままに話すこと、手紙を読むと、あなたに幸せになってほしいと書かれています。彼はあなたに未練があるように思います。それに家を出たのはほかにも理由がありそうね」
「ええ、私の両親の干渉が気になっていたみたい。両親に気をつかうのがいやになっていたのかもしれません」
「だったら、彼との修復の可能性はゼロではないと思う。とりあえず誠意を尽くして話し合うことね。それから話すときに一番大切なこと、以前秋谷さんと付き合っていたときも、今回会っていたときも男女の関係には一切なっていないと言うこと、絶対に関係を認めてはだめよ。何もなかった、ただ東京を案内してもらっただけだと言い張ること。私もアリバイ作りに使っていいから、分かった」
「でも主人は私たちがホテルに入るところまで見ています」
「でも部屋に入るのまで見届けていないのでしょう」
「おそらくそうだと思います」
「送ってもらっただけといえばいいのよ」
「それから、秋谷さんとはどうするの?」
「私の方からもう会わないとはっきり伝えます。主人に会っていることが分かってしまい、主人は家出したとも言います」
「彼とは別れるのね」
「はい、きっぱりと別れます」
そう言ったのは、必ず誠を私のもとに戻らせるという私の決心でもあった。直美さんは私を鼓舞してくれた。彼女に相談して本当によかった。
11月5日(金)から2泊3日で帰省した。進とはもちろん事前に日にちを擦り合わせておいた。今日は上野さんと夕食の予定だ。何か急な相談事があるみたいだった。
相談は意外な内容だった。会食中に進からメールが入った。
[1133到着]
すぐに返信した。
[友人と食事中]
9時を過ぎたころに部屋に戻ってきた。彼女の相談に乗って少し疲れを感じていた。人の相談に乗るということは、まず自分自身でそれを受け止めなければならない。まして私は自分のことのように考えて、自分だったらどうするかを真剣になって、どうすればよいか、思うところを話してあげた。
主人が「人の相談に乗るときには相当な覚悟を持っての望まなければならない」といっていた。今その意味がようやく分かった。
一息ついたところで、進に内線電話を入れる。進にも聞いてもらいたいし、癒してもらいたい。
「今、戻ってきました。1205号室です。お菓子がありますので、いらっしゃいませんか?」
「すぐに行きます」
しばらくすると進がやってきた。すぐに中に入れる。久しぶりなので、お互いに気持ちが治まるまで抱き合う。私はそれから今日の相談の中味を聞いてもらった。
「この前お話してあなたの意見を聞いた友人のことなんだけど」
名前は出さなかったが、食事して会っていたのは上野さんだったと思ったに違いない。
「確かこの前、相手の気持ちを確かめた方がよいとか話していたね。それでどうなったの?」
「あれから、相手の気持ちを確かめたそうよ。それで浮気と本気の間で、それは二人ともそう思っていると確認できたそうよ。それで分からないように会い続けることにして、月に1回は会っていたそうです」
「それなら、今日わざわざ君に相談する必要もないだろうに」
「ところがそれがご主人にばれてしまったみたいで、ご主人が家出をしたそうなの。それでどうしたらよいかとの相談だった」
「ええ、やはり発覚した? 最悪の結末だな。覚悟の上の浮気だったのだろう。いまさらどうしたら良いのかはないだろう」
「彼女も後悔して動揺していたわ」
「もっと詳しく話してくれる?」
私は彼女の夫との出会いから、お見合い結婚、それから相手との密会、不倫の発覚と夫の手紙と離婚届を置いての家出など、これまでの経緯を話した。おそらくは幾分かは秋谷さんから聞いて知っていたことだったと思う。
「彼女は自分のしたことの重大さが初めて分かった。失ってからご主人の大切さが分かった。それで帰ってきてもらいたいけど、どうしたら良いかという相談だった」
「それでどう相談に乗ってあげた?」
「二人で会ってよく話をしたらどうかって。そして正直に会っていた人は高校の同級生で結婚を反対されて別れた人だと話すこと、けれども彼とは何もない、ただ、懐かしくて会っていただけだと主張すること、昔も今も男女の関係があったことは絶対に認めてはいけないと言っておいたわ」
「『覆水盆に戻らず』でご主人の決心は変わらないと思うけどな」
「それでもそれが糸口になると思うの。絶対になかったと信じられるか、信じられないかは、彼が彼女をどの程度好きだったか、愛していたかにかかっていると思うの。だって手紙には彼女に幸せになってほしいと書かれていたから、彼女を憎んでいたならそういうことは書かないはずだから」
「糸口というのはそういう意味か? もし僕が彼女の夫だったとして、今まで彼女を深く愛していたのなら、その絶対になかったという言葉に救いを見出すことができるかもしれないな。可能性は低いがゼロではないかもしれない」
「そう思う?」
「それに元彼とは昔も何もなかったということは重要なことだと思う。『男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる』劇作家オスカー・ワイルドの言葉だ。聞いたことはないか? 僕も妻は自分が初めてだったのがとても嬉しかったことを覚えている。それでもっと好きになった」
「初めてなんて本当に分かるの? 初めての時のことを思い出して繰り返せばよいだけのことよ」
「そんなに簡単なことか? 君はどうだったの? 今のご主人が初めてだったんじゃないのか?」
「ご想像にまかせます」
「僕はそう思っているけど、ええっ、違うのか? そんなものなのか?」
「彼女をどのくらい好きかで判断は変わってくると思います。好きならそう信じたいでしょう」
「確かに、でも僕の場合は直観的にというか本能的に分かった・・・ような気がする。自信がなくなってきた。いや間違いなくそうだと思っているけど」
「そうね、彼女の場合もそのとき演技したことは普通に考えられるわ」
「それでご主人がその時そう思ったかどうか? ご主人の経験人数にも関係すると思うけど」
「ご主人は彼女が初めてだったみたい。彼女はそう言っていたわ」
「それなら、ご主人は彼女も初めてだったと思った可能性は高いかもしれないな。糸口はあるということかな」
「だから、そう忠告したのよ」
「うまく復縁できるといいけどな」
「二人のことは二人で解決するしかないから、できるだけ相談には乗ってあげたけど、私たちは決してあんなことになってはいけないと、つくづく思ったわ」
「怖気づいた?」
「いえ、私たちは分からないように万全を期しているから、大丈夫」
「ところで、今日の二人のこの後のことについてひとつ提案があるんだけど」
「言ってみて」
「さっき言っていただろう。『初めてなんて本当に分かるの? 初めての時のことを思い出して繰り返せばよいだけのことよ』って」
「ええ、そんなことは本人にしか分からないことだと思うわ」
「『初体験ごっこ』をしてみないか? 十年以上も前に戻って初めての時のことを繰り返してみてもらえないかな。僕もその時に戻って君を初めて愛してみたいから」
「すごく良いことだと思う。私たちの原点に戻れるような、置き忘れてきたものを取り戻すことができるような気がするわ」
「じゃあ、二人がホテルの部屋に着いた時から始めてみないか?」
◆ ◆ ◆
私は彼の胸に顔をうずめて眠っていた。少し前までしがみついて泣いていた。声は出さなかったが確かに泣いていた。涙が自然とこぼれてしまった。しがみついていた手からはもう力が抜けている。私は本当に初体験をしたような気持ちになっていた。
「初体験ごっこ」の始まりからここまでをもう一度思い返してみている。彼はあのころの自分に戻っていたはずだ。正確には今の彼があのころに戻っていたというべきだろう。あのころならきっとできなかったことを今はしてくれたのだから。
部屋に入るとすぐに後ろから私を抱き締めた。私はこうなることは分かっていたけど、身体を硬くした。じっとして動かないでいると、ゆっくり向きをかえさせた。私は目を閉じて少し上向き加減になってキスを待っていた。彼の唇がとても柔らかだった。
二人はベッドに腰かけた。その時初めて私は彼をしっかり見つめた。そして私の決心を知ってもらいたくて力一杯抱きついた。彼は再びキスをして私の着ているものをゆっくり脱がせていった。その間も私は身体を硬くしたままだった。
彼の唇と舌が耳や首をなぞっていった。乳首が口に含まれた時、声が漏れて身体がピクンとなった。その時から気持ちよくなって身体の力が少しずつ抜けていった。
二人がひとつになろうとしたとき、私はまた身体を硬くした。「力を抜いて」と耳元でささやく声が聞こえたが、力を入れたままだった。そのあとも身体から力を抜くことはできなかった。
だからなおさらうまくいかなかったのだろう。ずっと顔をしかめて耐えていたので、彼は私の手を握ってくれたのだろう。私はその手を強く握り返した。何を思ったのだろう。彼は途中で止めた。これ以上は無理だと思ったからだろうか?
進の身体が離れると、私はすぐにまた強く抱きついた。彼もしっかり抱き締め返してくれた。
夫の勉に初めて抱かれたときとは違っていた。同じと思える部分と違うと思う部分が入り混じっていた。ひとそれぞれなのは当たり前だ。
◆ ◆ ◆
私は今の夫が初めてではなかった。夫とのお見合いの話があった1年ほど前、私は航空会社の営業の人としばらく付き合っていたことがあった。私より5歳ほど年上の素敵な人だった。私はそのころ未経験でそのことにこだわっていた。経験してみたいとの望みはあったのだけど、進とは今までのままだったし、なかなかその機会がなかった。
そのうち二人で飲む機会があって、少し酔った私は彼と一夜を共にした。彼はそんなことにとても慣れていて、私をうまく導いてくれた。あの時、痛みもあったが、こんなことなんだと思った。それでつきものが落ちたように、そのこだわりから解き放された。
その後、彼は私から遠ざかるようになり、自然と別れてしまった。彼は私の身体が目的で近づいてきたのかもしれないと思ってしばらく落ち込んでいた。やはり好きな人とすべきだとその時思った。
◆ ◆ ◆
私は誰かの胸の中で目覚めた。それがようやく進の胸と分かるのにしばらく時間がかかった。目覚めた時、息苦しくて蠢いたような気がする。
進の匂いがする。夫の勉とはまた違った匂いだ。私はどちらの匂いも心地よくて好きだ。私が動いたので、進も目を覚ました。
私は顔を上げると目の前の彼を見つめた。彼は優しく微笑んでおでこに口づけをしてくれた。窓の外が薄明るくなっていた。午前6時だった。
「ありがとう。とても嬉しかった」
「こちらこそ、ありがとう」
「うまくできましたか? よく分からなくて」
「ああ、できたよ、でも最後まではいけなかった」
「僕は君は初めてだと思った。今もそのとおりの言葉だったから」
「そう思ってくれて嬉しいわ。あなたとだからうまくできたのだと思います。そういう思いというか、そういう願望があったからかしら。ほかの人だったらきっとこうはできなかったと思います」
「その時の二人の相手を思う気持ち次第ということか?」
それから私はまた彼に抱かれて眠ってしまった。その時勉は今どうしているだろうと思ったのはなぜだろう?
寒くなってきたと思ったらもう今年も師走に入ろうとしている。今年はいつまでも暑かった。ようやく涼しくなったと思ったら、急に寒くなってきた。過ごしやすい期間が短くなったような気がする。一日の寒暖の差も激しい。地球温暖化のせいに違いない。
仕事も私生活も忙しかったので1年が経つのが早かった。今日はそう思ったから、一日休暇をとって人間ドックに行ってきた。でも以外なことが分かった。
乳がんの疑いがあると言われた。それで精密検査を来週することになった。診断が確定するまで、家族には黙っていよう。
◆ ◆ ◆
精密検査にはほぼ一日かった。その結果、乳がんのステージ2と分かった。ほかに転移は見つからなかった。早期なので手術すれば完治するとも言われた。
でも、診断結果を聞いたときに頭の中が真っ白になって何も考えられなかった。それからのことはほとんど覚えていない。
気が付いたら、留美と一緒に部屋にいた。留美は一人で遊んでいる。ときどき私に心配そうに「ママ、どうしたの」声をかける。留美の顔をみると涙が止まらない。この娘はどうなってしまうだろう。
夫にすぐにでも話を聞いてもらいたい。もう8時を過ぎているがまだ帰ってこない。そういえば今日は会合があって、懇親会もあるので遅くなると言っていた。でも帰って来てもらいたい。
いつか吉田家に問合せの電話をかけて以来、彼は電話にはすぐに出るようになっていた。迷惑になるといけないので、とりあえず「すぐに帰って来てお願い」とメールを入れた。すぐに折り返し電話が入った。
「どうした、留美に何かあったのか?」
「私に乳がんがみつかったの。すぐに帰って来て、お願い」
「分かった。すぐに帰る」
◆ ◆ ◆
幸雄はすぐに帰って来てくれた。顔を見ると抱きついてワンワン泣いてしまった。
「私に万一のことがあったら留美はどうなるの?」
「大丈夫だ、心配するな。俺がいる」
「私、死んでしまうのかしら?」
「詳しく話してくれないか?」
私は診断結果を彼に話した。心配そうに聞いてくれた。
「大丈夫だ。今はもうがんは治る病気といわれるようになった。俺がついている。万が一のことがあっても、留美は俺が立派に育てる。心配するな。もう泣くのをやめて気持ちをしっかり持ってくれ。留美が余計な心配する」
不安な気持ちをすべて吐き出したら、落ち着いてきた。幸雄がいてくれて本当によかった。
◆ ◆ ◆
夕食を終えた6時30分ころ、幸雄が病院に寄ってくれた。手術は1週間前に無事終えていた。今は抗がん剤の点滴を受けている。身体が怠いがこれを乗り切れば、来週には退院できる。
手術の日は一日中私に付き添ってくれた。それから毎日必ず帰宅途中に病院に寄ってくれる。
「どうだ、調子は? 顔色はまずまずだ」
「身体のだるさがありますが、大丈夫です」
「留美は良い子にしている?」
「ご両親からは良い子にしていると連絡が入っている」
留美は先週末から私の両親が預かってくれている。彼の表情からすこし疲れ気味だと思った。あれから、私の心と身体に負担がかからないように、留美のめんどうをよく見てくれた。保育所の送り迎えや、食事の世話、入浴など、ほとんど一人で引き受けてくれた。
「順子のありがたみがよく分かったよ。今まで俺も家事を分担していたと思っていたが、君の分担はそんなもんじゃなかった。これからはずっとそばにいてもっと手伝うから」
そう言ってくれたのが嬉しかった。私は頑張り過ぎていたのかもしれない。私は良きパートナーを求めていたが、彼と出会ったとき、気が合う人がようやく見つかったという感じだった。ひょっとすると彼とも張り合っていたのかもしれない。
今までできるだけ彼の負担を少なくしたいと思ってきたが、もう少し手伝ってもらった方がよかったのかもしれない。入院中に彼とのこれまでことをずっと考えていた。
私は高校生のころ、孤独感にさいなまれたことがあった。そこから立ち直れたのは「人は孤独なもの、一人で生まれて、一人で死んでいく」という単純な考えに至ったからだった。誰も助けてはくれない! 誰にも助けを求められない! 一種の諦めかもしれなかった。
そう考えることで、人に頼るとかという思いが全くなくなった。甘えがなくなり、自立できたのではないかと思っている。また、強くなれたと思っている。それでひとりでこれまで頑張ってこられた。
幸雄と結婚したとき、同じ考えを持った同志を得たような気がした。それでも彼を頼ろうという気持ちは起きなかったし、それを戒めていた。
こんなことになって、一人ではいくら頑張ってもどうしようもないことがあることが分かった。そして、今は一人ではないこともはっきり分かった。
一番大切な留美がいるし、幸雄がいつもそばにいて私を見守っていてくれる。これからは幸雄と留美をもっと大切にしなければならないと思う。
とにかく誠と話をしないと始まらない。11月8日(月)夜勤明けの今日は朝から時間がとれて、明日9日(火)の夕方まで時間がある。
10時になって彼の職場の役所に電話をかけた。彼のことだから出勤しているのは間違いないが、確認の電話を入れた。出勤は確認できた。それで勤務時間が終わるころに彼の職場の出入り口の見えるところで待っていた。
7時過ぎになってようやく出てきた。気づかれないように距離をとって後をつけていった。裏道を5分ほど歩いたところにある食堂に入った。おそらく夕食を摂るのだろう。30分ほどして出てきた。それから、大通りを歩いて、橋を渡って、路地に入ってどんどん歩いていく。細い路地に入って20分ほど歩いたところにアパートがあった。
1階に2戸、2階に2戸のこじんまりしたアパートだった。玄関前は自動車も置けるようになっている。2階の左側の部屋に入るのを確認した。明かりが点いた。
私は深呼吸を一回して、そのドアをノックした。返事がないのでもう一度ノックした。ドアが開いた。覗き穴から見て誰だかを確かめたと思う。私と分かっても開けてくれた。まだ、少し望みはある。私はすぐに中へ入っていったが、彼はそれを止めようとはしなかった。
キッチンとバスルームと8畳くらいの部屋があった。まだ、電化製品も家具もそろっていなかった。部屋の隅に布団が一組置かれていた。寂しい部屋だった。
私が部屋に座ると彼も座った。私は両手をついてすぐに謝った。
「あなたに不愉快な思いをさせてごめんなさい。内緒で会っていたのはあなたに後ろめたい気持ちがあったからです。分からなければその方がよいと思っていました。
会っていた人は高校時代からの友人です。友人といっても一度はお互いに結婚しようと思っていました。彼は誠実な人で両親に私と結婚したいと話してくれました。両親の答は『地元に就職して婿養子になってくれれば結婚させる』というものでした。彼はその条件に即答できなかった。少し時間をくださいといいました。
しばらくして彼は『東京の一流会社で自分の力を試してみたい。だから地元での就職はしない』と決めました。そして私に一緒に東京に来ないかと言ってくれましたが、私は地元に残る決心をしました。それからのことはあなたが知っているとおりです。
この前の同窓会で再会して、お友達の中川直美さんと一緒に東京へ遊びに行ったのが最初です。それから一人でショッピングに行ったり、8月に東京でミニ同窓会もしました。その後、2回ほど二人で会いました。
あなたが私たちを見たのは絵画展を見に行ったときです。彼は自分もみたいからと休暇をとって付き合ってくれました。ホテルへ二人でいったのは私が夕食の時のお酒で少し酔ったから心配して付いてきてくれたからです。
彼は昔も今も誠実で私を大切に思ってくれていました。誤解のないようにこれだけは言っておかなければなりません。私と彼とは昔も今も男女の関係は一切ありません。これは誓って言えることです。彼は別れた経緯もあるので両親の愚痴も親身になってよく聞いてくれました。
こんなことになったのは、あのとき親の反対で言い成りになって結婚をあきらめたことが原因です。そしてそれを忘れることができなかった私が悪かったのです。
本当に隠れて会っていてごめんなさい。ここに離婚届を書いて持ってきました。あなたが残してくれた離婚届は破って捨てました。私はあなたと別れたくありません。私の分を記入してありますので、どうするかはお任せします」
「多恵の話は分かった。君を疑いたくはない、信じたい。でもこのごろ二人の間には隙間風のようなものが吹いていた気がする。それに家出したのはご両親に何事も相談しなくてはならないようで息苦しくなっていたこともある。いろいろ考えてみたいから、当分一人にしておいてくれないか? ご両親にもここにいることは内緒にしておいてほしい」
「あなたがそうしたいのならそうしてください。でもひとつだけお願いがあります。もう一度お付き合いを始められませんか。一からやり直したい、あなたと一から付き合ってみたい、それが二人の間にはなかったから。それで駄目なら諦めます。だから私を時々ここへ来させてください。休日に来させてください。お願いします」
彼はだめだとは言わなかった。それで認められたと解釈して、休日には押しかけて、掃除、洗濯、料理などをしてあげることにした。
はじめは掃除だけだったが、洗濯機を買ってからは洗濯もしてあげた。冷蔵庫を買ってからは、鍋や食器を買ってきて、料理も始めた。
最初は口を利いてもらえなかったが、そのうちに「諭は元気にしているか?」と聞いてくれた。両親のことも聞いてくれるようになった。そのうち合鍵をくれた。
食事は外食で済ませていたが、非番の日に料理を作って待っていると、食べてきたのに、私の作った料理を食べてくれた。そして「久しぶりに食べたけどおいしい」と言ってくれた。そのうちに非番の日を知らせておくと、食べずに帰って来て夕食を一緒に食べてくれるようになった。
12月の半ばを過ぎたころ、夕食の後片づけをして帰ろうとすると、猛烈な雨が降って来て、雷も鳴り出した。雨がひどいので様子をみていた。
「雨が冷たくてひどいから、泊まっていったら」
「お布団が1組しかありません」
「僕は毛布があればいいから」
私は掛布団をもって彼のところへいって二人にかけた。そして抱きついた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
私はウオンウオンと大声で泣いていた。彼は私を抱きしめてくれた。それから二人は愛し合った。ようやく元の二人に戻れた。
◆ ◆ ◆
私が布団からはみ出ないように彼はしっかり抱き締めてくれている。
「覚えていますか? 私たちがはじめて愛し合ったときのことを」
「ああ、よく覚えている。なかなかうまくできなくてあせった」
「あなたは私のために一生懸命だった。いい人なんだなと思った。それから、今してくれているように、私を宝物のように大切に抱いて寝てくれた」
彼もあの時のことを思い出していたのだろうか? 黙って髪をなでてくれた。
それから私は「恋愛ごっこ」をしたいと持ち掛けた。二人は見合い結婚でしかも彼がまじめだったので、普通の恋人同士のような恋愛中の付き合いはなかった。だからそれをしてみたいといった。
丁度彼がアパート住まいをしているから、休日の前の日はお泊りしたり、二人で旅行に行ったり、ドライブしてモーテルに泊まったり、夜にドライブして車の中でHをしたりもした。彼は始めは乗り気ではなかったが、色々と試みるうちに乗ってきて、ほかのことも考えてくれるようになった。それで以前にもまして二人の絆が強くなっていった。
◆ ◆ ◆
私はもうひとつ決心をしていた。上野の家を出て夫の姓の中森多恵になる決心だった。誠が家出してから両親が話しているのを聞いた。
「誠さんが出て行っても、跡取りの諭が生まれたし、多恵も一緒に住んでいるから、このあと老後も安心だな」
それを聞いて誠がかわいそうになった。家を出たいという気持ちもよく分かった。跡取りの諭が生まれてから、彼にはもう居場所がなかったのだ。申し訳ない気持ちと、両親は自分たちのことしか考えていなかったのが分かった。
それで誠に私は家を出ることを話した。そして誠と親子3人でどこか両親とは離れた別のところに住みたいと言った。
諭は成人したら上野家の跡取りになると言ってくれた。だから両親も家を出ることに反対はしなかった。それに家を出ても市内にいるのだから、老後はいくらでも見てあげられる。私は看護師でもある。
ただ、諭にしても、成人して就職や結婚を考えるときに自分でもう一度よく考えて判断すればよいことだ。それは諭の自由だ。私の過ちを繰り返してもらいたくない。諭がもう少し大人になったら話して聞かせようと思っている。
12月は忘年会やらクリスマスで慌ただしく過ぎていった。新年に入ってから実家へ帰るのは正月の帰省客が少なくなった1月15日以降を考えている。
進と日程の調整をしなければならなない。[次回の予定1月14日(金)15日(土)16日(日)]のメールを入れた。すぐに[了解]の返信が入った。二人は同じ目的で定期的に帰省しているので、新幹線やホテルが空いてくる時期を選んでいる。考えることは同じだ。
◆ ◆ ◆
1月14日(金)上野さんと会って食事をしていると、7時過ぎに進からメールが入った。
[1010到着]
席をはずして返信メールを入れた。
[友人と会食中]
上野さんの話を聞いて部屋に戻ってきたら、もう9時を過ぎていた。彼は上野さんと会っていると思っているだろう。聞いた話をすぐにでも聞いてもらいたい。1010室へ電話するが、なかなか電話に出ない。
「ごめん。うたた寝をしていた」
「これからお部屋に行きます」
ドアが開いた。私が機嫌よく入ってきたので、どうしたのかとじっと見ている。彼も話を聞きたいみたいだ。
「会食の相手はご主人に家出された友人か? 破綻した話を聞いてから2か月は経っているから、その後どうなった? 興味があるけど」
「あれからご主人に会って、無断で昔の同級生に会っていたことを謝ったそうよ。それからご主人と結婚する前に両親からその同級生との結婚に反対されたということも隠さずに話したと言っていました。それから私の忠告したとおり、昔も今もその同級生とはそういう関係には一切なかったと言ったそうよ。ただ、会って両親についての愚痴や悩みなどを聞いてもらっていただけだと」
「それでご主人は彼女の言うことを信じたのか?」
「ご主人は黙って聞いていたそうよ」
「半信半疑かな、それなら修復の脈があるかもしれないな」
「それとご主人が家を出たのは彼女の浮気を疑ったことだけではなかったみたい。婿養子として何ごとにつけて彼女の両親の意向を聞くのが嫌になったこともあると、それで長男も大きくなったので、良い機会だと思って家を出たそうよ。それなら彼女の両親も認めるだろうと」
「それなら彼女に対して未練が幾分残っていると思うけどな」
「彼女はこんなことになったのは、あのとき親の反対で言い成りになって結婚をあきらめたことが原因だと、そしてそれを忘れることができなかった自分が悪かったと、それでご主人に自分の分を記入した離婚届を渡したそうよ」
「ご主人が書いた離婚届はどうなった?」
「それは破り捨てたと言ったそうよ。私は離婚したくないからと」
「ということは、今度はご主人に離婚の判断をゆだねたということか?」
「それにご主人に始めからもう一度お付き合いを始められないかと頼んだとか?」
「どういう意味かな?」
「一からやり直したいということ、それで駄目なら諦めるという意味ね。あなたと一から付き合ってみたい、それが二人の間にはなかったからだとか言って」
「それでご主人は受け入れたのか?」
「その時は、いいとも、だめだとも言われなかったけど、明確に否定されなかったから、やってみようと思ったそうよ」
「どういうこと?」
「まあ、いわゆる押しかけ女房ね。週末に彼のアパートに出かけて掃除・洗濯・料理を始めた。始めは無視されたみたいだけど、それでもめげずにそれを繰り返していたら、それが功を奏したみたい。先週、急な雨に降られたら、泊まっていったらと言われたそうです」
「それで修復が完了した?」
「ご主人には彼女に未練があったみたいね」
「それに彼女の誠意が通じたんだね。信頼しないと信頼してもらえない。愛さないと愛してもらえない。そのとおりだね」
「それから彼女は実家を出る決心をしたそうよ。姓もご主人の姓に変えるそうです」
「すごい決心をしたね」
「ご長男が実家を継ぐことでご両親も承知したとか。万事、うまく納まったみたい。私のアドバイスを感謝されたわ。今回の相談は自分でもすごく勉強になった。男は初めてにこだわるのが分かったし、私だったらこんなにうまくできるかなって思って」
「君ならできるさ。まあその前に絶対に露見しないようにしないといけないけど」
「ええ、それから彼女が言っていたわ。『恋愛ごっこ』を仕掛けたと」
「どういうこと、二人は見合い結婚で恋愛期間がなかったから『恋愛ごっこ』をしかけたのか? どこかであったような話だな。ご主人にはそれがないけど、彼女には恋愛経験があったのだから簡単だったな、彼女のペースに引き込めた。なかなかやるね」
「もう彼を離したくないから、今でもそれにはこだわっていると言っていた」
「そういえば、僕たちにもそれはなかったな。だから今の関係があるともいえるけど。彼らのことは僕たち二人にも共通していることだ。この前は『初体験ごっこ』だったけど、すごく感激した。どう? 今日はその『恋愛ごっこ』をしてみない?」
「うふふ、おもしろそうね。ところでどうするの?」
「Hを始めたばかりの恋人同士に戻って新しい体位とか愛し方にチャレンジしてみるのはどう?」
「確かに長年連れ添ったカップルは愛し合うパターンがほぼ決まっていて、マンネリになっているかもしれません」
「それに新しいことをすると、どうしたの、どこで覚えたの、どこで仕入れたのと、気にされる。風俗とか浮気して覚えてきたのではと疑われかねない。だから気が引けて新しいことになかなかチャレンジができない」
「ありかも。私だって、どうしたのって聞くかもしれない」
「それにあなたって本当はこんなことをしたかったのだとか、こんな趣味があったんだ、今まで分からなかったとか、言われると恥ずかしい」
「確かにそれもありね。こんなことをしてほしいと、唐突にいうと、どうしたのと聞かれかねない。それにそんなにHが好きだったんだと思われるのも恥ずかしい」
「長く連れ添っているとかえってお互いに気を使って両すくみになっているのかもしれないね。それで新しいことにチャレンジできなくなって、ますますマンネリに落ちってしまうのかも」
「浮気や不倫ってそういうところから芽生えるのかもしれないわ。非日常の新しいことを求めて」
「僕たちはまだHを始めてから短いから恥ずかしがらないで何でも挑戦できる」
「それにお互いにもう遠慮は無用なほどには知り合っているからね。ちょぅどよいかも」
「それで、二人で四十八手の体位をすべて試してみて、どれがよいのか実際に調査研究するのはどうかな?」
「さすが理系だけのことはあるわ、考えることがシステマティックね。じゃあ、すぐに始めましょう」
◆ ◆ ◆
進はスマホで検索して適当なサイト『四十八手完全ガイド』を見つけた。分かりやすいイラストが描かれている。
二人でひとつひとつ試していく。まず、立ち鼎(たちかなえ)、マニュアルを見て形を整えて動いてみて快感を確かめる。二人ともこれが初めての体位であったので挑戦してみたが刺激的ではある一方不安定でバランスをとるのが難しいし疲れる。二人の評価は中くらいだった。
ひとつ確認してから、また次を試す。ただ、一つ試すのに5分以上はかかった。簡単なものからアクロバティックなものまであって、半分の24を試すのに2時間以上かかった。二人とも半分試したところで疲れてしまった。こんなに体力が必要とは思わなかった。
「もうだめだ。身体が持たない」
「腰がだるい」
「今日は半分までにして、残りは明日の晩にしよう」
「その方がよさそう。私たちはもうそんなに若くないことがよく分かりました。お休みなさい」
この共同研究はとっても楽しかった。でも、私は眠くて、眠くて、すぐに眠ったみたい。その後の記憶がない。
◆ ◆ ◆
次の晩は私の部屋で残り二十四手を試してみた。新しい発見があった。二人ともいままで試みたことがなくて、特に気にいったのが「松葉崩し」と「敷き小股」だった。
「松葉崩し」は彼とっては刺激的で私を自由にしている感じがして好きだと言っていた。私も深く結ばれているという感じがして好きだ。
また、「敷き小股」はうつ伏せに寝ているので、すごく楽な体位でしかも無理やりされて征服されているような感じがして興奮した。
二人は2日間かけてようやく四十八手を踏破した。お互い気にいった体位が見つけられて共同研究したかいがあった。でも二人とも疲労困憊した。ただ、二人で力を合わせてそれらを踏破したという充実感だけは残った。でももう一度すべてを試そうとは思わない。
分かったことは、立つか、座るか、上向きか、うつ伏せか、横からか、後ろからか、そのバリエーションだ。システマティックに研究すると見えてきた。昔も今も人類のすることは変らないし変えようがないと思う。
二人とも朝までしっかり熟睡できた。運動不足だったので身体中に筋肉痛が残りそうだが、楽しい思い出になった。
勉にはうまくねだってしてもらおう。それが帰ってからの楽しみだ。進は彼女にどういうふうに言って試してみるのだろう。それもが気にかかる。
2月の始めに3月の帰省の予定日を進と調整した。春分の日の祝日を含めて3月19日(土)20日(日)21日(月)とした。すぐにホテルの予約を入れた。
ところが2月3日(木)朝になって、ご近所の方から母が倒れて救急車で入院したと連絡が入った。すぐに特急に乗って、病院に駆け付けたが、死に目には会えなかった。あっけない母の死だった。
進には[急用が入ったので3月の予定をキャンセルします]とメールを入れた。すぐに[了解]の返信が入っていた。
それからはあっという間だった。通夜と葬儀、役所への手続きなどをしなければならなかった。今日3月19日(土)に四十九日の法要を行い、納骨を終えた。夫の勉と昨日からホテルに泊まっている。
二人は駅前のビルで夕食を終えてホテルへ戻って来た。キーを受け取ってエレベーターに乗ろうと歩いていくと、その前を男性が入っていった。すぐにその後に駆け込んだ。夫が慌ててついてきた。
Open ボタンを押して扉を開けておいてくれた人を見て、一瞬驚いた。ここへきていることは分かっていたつもりだったが忘れていた。進だった。
そのあとから夫も乗り込んできた。夫は「すみません」と彼に声をかけた。彼は頭を下げてそれに応えた。
「何階ですか?」
「12階をお願いします」
「疲れたね。ゆっくりしよう」
「はい、疲れましたね」
彼には私の夫だと分かったと思う。彼は11階でエレベーターを降りていった。
声をかけられなくてよかった。でも彼は声をかけてこないと思った。しばらく前にここで会っていた時も彼とエレベーターで一緒になったことがあった。ほかに同乗者がいなかったが、二人は言葉を交わさなかった。
エレベーターには防犯カメラがついている。これを警備会社が常時監視している。同乗者がいなくてもいつも見られているのに変わりはない。抱き合ったりすればすぐに目につく。
進はエレベーターに乗っているとき、エレベーターのミラーに映った主人の顔を見ていた。その時、夫はエレベーターの中でずっと私のことを見ていた。私が夫を見る目もいつもとは違っていると思ったのではないだろうか?
翌朝、地下の食堂でもエレベーターでもフロントでも彼を見かけなかった。結局3月20日(日)にチェックアウトするまで彼を全く見かけなかった。
◆ ◆ ◆
4月下旬の昼休みに進にメールを入れた。[前回は申し訳ありません。次回は5月13日(金)14日(土)15日(日)]。しばらくして[了解]の返信メールが入った。
◆ ◆ ◆
昨年は同窓会の前日に会った。あれからもう1年が経っていた。進とはもう6回くらいは逢瀬を重ねていた。
5月13日(金)の午後7時過ぎにチェックインして部屋にいるとメールが入った。
[1222到着]
すぐに部屋に電話を入れた。彼は電話にも注意して出ている。私がしゃべるまで何も言わない。
「私です。これから行きます」
ドアをノックするとすぐにドアが開いて中に入れてくれた。そして私を抱き締めてくれた。1月に会って以来の4か月ぶりの逢瀬だった。いつもより長く抱き合っていた気がする。
「部屋はとなりの1223号室です」
「どうりで早いと思った」
「3月はご免なさい。急にキャンセルして。母が亡くなったので」
「そうだったのか、今までになかったことだったからどうしたのかと心配していた」
「2月3日の朝、ご近所の方から母が倒れて、救急車で入院したと連絡が入りました。すぐに特急に乗り込んで、病院に駆け付けましたが、死に目には会えませんでした」
「ええっ、それは大変だったね」
「父が亡くなった時も大変でしたが、あの時は母が気丈に取り仕切っていました。今回は長女の私が中心になって仕切らならなければならなかったので疲れました。あのエレベーターで会った3月19日に納骨をしました。今は両親の遺品や家具家財の整理をしています。ようやく落ち着いてきたところです」
「何も知らなかった。申し訳ない」
「あなたには何も知らせない方がよいと思って」
「あの人がご主人? 見合い結婚をした?」
「そうです。あなたが予定を変えずに帰省しているかもしれないとは思っていましたが、まさかエレベーターで出くわすとは思いませんでした。正直、驚きました」
「声をかけなくて良かった」
「あの瞬間、あなたは声をかけないだろうとは思っていました」
「僕の目からはとても良い人と見えたけどそうだろう」
「そうですね。気になりますか?」
「気にならないと言ったら嘘になる」
「主人のことをもう少しお話しておきます。あのお見合いの相手が今の主人です。お見合い相手は高校の2年先輩であることは事前に知っていました。お見合いして初めて分かったことですが、彼は私が入学したときに一目ぼれした3年生だったんです。その当時、遠くから見て憧れていた名前も知らない素敵なかっこいい先輩でした。当然彼も私の顔も名前も知りませんでした」
「道理でどこかで会ったことがあると思ったわけだ。高校の先輩だったのか。僕もどこかできっと会っていたんだな」
「彼は関西の製薬会社に就職していて、親から見合い結婚を勧められて、後輩の私とお見合いをしたんです」
「それで彼が君を気に入ったのか?」
「ええ、憧れていた先輩に気に入られてとても嬉しくなって、ひょっとして運命のひとかもしれないなんて思って、いつのまにか婚約して結婚していました」
「そうだったのか」
「主人は見たとおり、かっこよくて、それで自信家なんです。だから自信をもって私に接してきました。私が断るわけがないという風に。でも悔しいけどそのとおりになりました。そつがなくて優しくて私には過ぎた人かもしれません」
「僕は負けるべくして負けたと言うわけか?」
「いいえ、あなたにはあなたの良さがありました。人への優しさ、自分への謙虚さ、そして、気配り。今でもそれは変っていません。だからあの時も迷いました。でも彼は私と結婚したいと言ってくれました。その違いかもしれません」
「そのとおりだ。僕にはその前へ進む勇気というか気持ちがなかった。その違いだね。今は少し違っているけど」
「そう、主人には恥ずかしくてしてほしいと言えないことをしてくれる」
「じゃあ、今夜は『レイプごっこ』をしてみないか?」
「『レイプごっこ』? おもしろそう。してみたい」
◆ ◆ ◆
「レイプごっこ」をしてみて分かった。必死で抵抗したけどとても体力が必要だった。実際にすると間違いなく犯罪行為だと思う。
彼も疲れたと見えて、ここまでと終えたところでは、いつもにもまして疲れた顔をしていた。今はぐっすり気持ちよさそうに寝息を立てて眠っている。
まず、始めに二人でルールを決めた。お互いに服を着た状態ではじめること、彼が襲い掛かって私が抵抗すること、殴ったり、蹴ったり、爪を立てたり、嚙みついたりしないこと、服や下着を破いたり、ボタンが取れたりしないように注意すること、大きな声や物音を立てないこと、そして身動きができないように押さえつけて思いを遂げるまで止めないこと、時間は無制限1本勝負。
二人が部屋に入ったところから始めた。まず、彼が私の後ろから抱きつく。私は「いや」といって部屋の中へ逃げる。彼が後を追いかけまわす。後ろから捕まえて抱きついて、ベッドに引き倒す。上着を脱がせにかかる。腕を前にして抵抗するが、脱がされてしまう。次にスカートに手をかけて後ろからファスナーを下げて脱がされた。
「やめて」とか「いや」とか「だめ」と小声でいうのでますます彼は興奮するみたい。ブラウスのボタンを丁寧に外していく。その間も腕はバタバタ動かすし、足も曲げて抵抗を続けている。腹ばい寝かせされてその上にまたがってパンストを破らないように脱がす。ようやく下着だけにされた。
脚をしっかり閉じて、身体を丸めて、必死で抵抗すると、何もできなくて手をこまねいていた。
そのうち部屋に備えつけの寝具の紐をとって私を後ろ手に縛った。腕の抵抗がなくなるだけでずいぶん楽になったみたい。足を絡めて、ようやく身体の下に私を組み敷くことができた。
「勝負ありだね」そういったが、私は身体の力を抜かなかった。まだ身体をひねって抵抗を続けた。それでなおさら彼も興奮して力が入る。
後ろ手に縛られた私は抵抗も空しく彼の思いのままになった。腹ばいに寝かせたり、立たせたり、跪かせたり、あらゆる体位で私を弄んだ。
そして何度も上り詰めて朦朧とする私の口の中で果てた。私はそれを飲み込んで受け止めた。「ごめんね」というので無言で頷いた。私は疲れ果てて深い眠りに落ちていった。
「レイプごっこ」をしたいといったのは、きっと進の心の中に夫への嫉妬があったのだと思う。夫と偶然会ったことと私から結婚までのいきさつを聞かされたことで、私を奪われたという何か鬱積した思いが現れたに違いない。終わった後、なぜか得も言われぬ嬉しそうな顔をしていた。
◆ ◆ ◆
翌日はとなりの私の部屋で愛し合った。私は昨日と同じようにしてほしいと頼んだので、もう一度「レイプごっこ」を再現してくれた。昨日に懲りたみたいで、今度要領よく、すぐに私の両手を後ろ手に縛って抵抗ができないようにした。それでゆとりをもって長い時間をかけて思う存分に気が遠くなるほど弄んだ。
大きな声を出しそうになったので、猿轡をされた。それがかえって刺激になって、何度も何度も昇り詰めた。また、もう1本のひもを股間にとおされてそれを引き絞られた。すごい刺激で思わず「ぎゃー」といって気を失った。そしてそのまま深い眠りに落ちていった。
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目が覚めた。まだ、11時だった。話を聞いてもらいたくて彼を揺り起こした。
「目が覚めて考えごとをしていたら目が冴えてしまってお話がしたくなった」
「なに? 考えごとって」
「レイプごっこで縛られて動けなくされて可愛がってもらったら、今までにないようなすごい快感があったの。どうしてかと考えていたら、女性には好きな人に無理やり奪われたいという自然な欲求があるとどこかに書いてあったことを思い出して。本当は好きな人に優しくしてもらいたいのにどうしてだろうと思って」
「僕が想像するに女性は逞しい強い男性の子供を産みたいという本能的な欲求があるからじゃないかな。男性なら誰でも女性を無理やりにという本能的な欲求があるのと同じじゃないか。 ただ、理性が抑えているけど」
「あのとき私は抵抗するのに夢中だったけど、すごく濡れているのに気がついて驚いたの」
「そんな時は本能的に強いオスを受け入れる準備をしているのかもしれないね」
「確かにいうとおりかもしれない。そのあとの快感がすごかったのを思うときっとそうなのね。理系は理論的に考えるのね。聞いてもらってよかった」
「理系といっても生物科学系だから。それで納得して寝られそう?」
「いえ、ますます目が冴えて眠れなくなりました。それでもう一度お願いします」
私が感じすぎて早めに快感で気を失って寝落ちしたので、彼にはまだ十分に余力が残っていたみたい。今度は優しく可愛がってくれた。
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朝、彼が目を覚まして自分の部屋に戻ろうとするので抱きついた。
「母が亡くなって、もう、こうしてここへ来られる口実がなくなりそうです。だからこの次が最後になるかもしれません」
「お母さんが亡くなったと聞いたときにそう思った。今度会えたらそれが本当に最後になるかもしれないね。その時を大切にしたい。もう後悔しないように、思いを残さないようにしたい」
「私もそう思っています」
私を力一杯抱きしめて、それから長いキスをして部屋を出ていった。