声を嫌う僕と、音のない世界に生きる君

物心がついた時から何度も見てきた夢がある。
その夢の中では僕がリビングに置かれたこたつに座ってキッチンで楽しそうにバレンタインのチョコレートを作る女性と少女の2人に声をかけるところから始まる。

何度も見てきたから第一声も覚えている。
僕は女性にこう話しかけるんだ。

「ねぇ、ママ。好きってどんな味がするの?」って。

そうしたら女性ではなく隣でチョコレートを溶かしていた少女が自信ありげにこちらを向いて僕の質問に答える。

「私知ってるよ!好きってね、甘い味がするの。このチョコレートみたいにすっごい甘い味」

「チョコレート……」

そして、僕はこたつの机の上に置かれたチョコレートを食べる。
どんな味か確かめたかったのだろう。

夢だから味は覚えていないけれど、僕は一口齧ったチョコレートをそのまま机の上に戻したからきっと好きな味ではなかったのだろう。

現実の僕も、甘い物は好きではないから夢にある程度現実の意識が介入しているみたいだ。

「ママもパパを好きになった時こんなに甘い味を感じたの?」

女性は手を口元に持っていって少し考える素振りをした後、穏やからな表情で微笑む。

「そうね。甘い味も感じたわ。でも、恋ってそれだけじゃないのよ。甘いだけじゃなくて、苦しい時には苦い味になるし、辛くて辛くて泣きたくなる時はきっと辛味も感じる。」

恋って複雑なのよ。きっとあなたたちも後10年も経てばわかるようになるわよ。

そう女性が言い終わるのを最後にいつも夢は終わってしまう。

これが僕がいつもみる、知らない誰かの日常を切り取った夢。
『私に、絵の描き方を教えて欲しいの!』

祝日の図書館。僕の前に座って私物であろうノートを読んでいた彼女、 柊冬香(ひいらぎとうか)は徐に顔をあげそんなことを言った。
いや、言ったと表現するのは少々語弊があったかもしれないと思い直す。
と、いうのもこの空間には一般的に“言う”と呼ばれる動作で発生するものがなかったからだ。

それは音である。


彼女は無言で、ノートに書かれていたその文字を僕に見せてきたのだ。
それを見た僕はカバンの中からスマートフォンを取り出して

『どうして?画家にでもなりたいの?』

と打ち込み彼女に画面を見せる。

彼女は否定するように首を横に振り、ノートにまた文字を書き始める。

どうやら、画家を志すつもりではなかったようだ。

ところでなぜ僕たちがこのような回りくどい会話をしているのかと言うとそれはここが図書館であり、会話をすることが憚られる場所であるからと言った理由ではない。

現に今、図書館には僕たち2人を除けば職員さんたち以外に他に人はいないので多少会話をしたところで迷惑にはならないだろう。

僕らが筆談という手段を使うのは、彼女には音を利用するコミュニケーション手段を用いることが困難であり、僕には手話というコミュニケーション手段がないためである。
もっと簡単な言い方をするのであれば、彼女は音のない世界に生きている。

すなわち、彼女と僕の間には文字を書くことでしか情報を伝達することができないのだ。


そんなお互いにコミュニケーション手段が異なる僕たちが、こうして集まった理由は目の前で文字を書いている彼女に呼び出されたからだ。
出かけるのがこの世の何よりも嫌いな僕は、当初は彼女の誘いを断ろうと思っていた。それなのに彼女と友人の強引さにつられてしまい、こうして大嫌いな外出をする羽目に……。

まぁたまたま彼女が指定してきたこの場所に人がいなかったこだけが唯一の救いであったわけだが。


当の本人は呼び出しておきながら、先ほどの発言(正確には文字なので発言はしていないのだが)をするまでノートを読みながら時々こちらをチラチラ見るという謎の行動を繰り返していた。

一体彼女は何を考えているのだろうか、なんてぼーっと考えながら彼女の方を見ていたら書き終わったようで彼女はまた顔を上げる。

『私ね、手話についての漫画を描きたいの。でも、絵がすごく下手で手話の表現を絵で描くことができなくて……。いとくん美術部に入っていて、絵がすごく上手って言ってたから絵の描き方を教えて欲しいの。』

確かに1週間前初めて彼女に会った時に一緒にいた友人がそう言って僕のことを過剰に褒めてくれていたような記憶がある。

なんて思いながら見た彼女のノートには女の子らしき絵が載っていてその横に彼女の字で笑顔やら横向きやらの解説が載っている。
確かに彼女は絵が不得意なようだ。

笑顔の女の子は正面を向いているが、輪郭はバケツのような縦長で下は平べったい形をしている。
横向きの絵はもっと酷い。先ほどのバケツが細くなり、後頭部は存在せずなぜか目が二つとも片側に寄りすぎている。
立体感がなさすぎて、確かにこれでは手話を表現することは困難だろう。

彼女の方に視線を向けると、彼女は恥ずかしそうに僕の方を見ていた。
なるほど、先ほどまで彼女が僕とノートを交互に見ていたのはこの絵を見せるか迷っていたからかと1人で納得しながらスマホを開く。

『どうして、わざわざ不得意な絵を描く事を選んでまで手話の漫画を描きたいの?』

『手話を少しでも多くの人に知って欲しい。私はその知るきっかけを作りたいの。だから漫画を描いてSNSとかで少しでも多くの人に見てもらいたい』


『それは小説とか、文字で表すのはダメなの?』

僕と彼女の無言の会話。矛盾しているようだがそれ以上に当てはまる言葉はない。
彼女は今度は大きく首を振って僕の発言を否定し、文字を書き進める。

『初めは小説も考えたんだけど、文字よりも絵の方が手話の表現もわかりやすいし皆んなも小説よりも漫画の方が読んでくれると思うの』

彼女の絵では、文字で表した方がまだ手話の表現もわかりやすいと思うが……なんて発言は一旦心の奥にしまっておこう。

別に絵を教える事自体は構わない。
ただ、正直僕が描く絵は漫画などに適した絵よりも風景画が多い。
彼女に教えられるほどの技量は僕にあるとは思えなかった。

でも……。
チラリと彼女の方を見る。

1週間前に一度しか会ってない人に頼むほど彼女にとって手話の漫画を描くことは実現したいことなのかもしれない。
それに、僕自身は手話に興味があって手話をコミュニケーション手段として使う彼女といることで手話を覚えられるのは僕にとってもメリットしかない。
たった一つ、彼女と会うために外出しなければならないというデメリットを除けばだが。


僕は、手話を覚えられるメリットと外出しなければならないデメリットを天秤にかけたのち“わかった”という意味を表す手話を用いた。

これは、1週間前手話教室で習ったいくつかの表現のうちの一つである。

僕の辿々しい手話でも伝わったようで彼女は表情を明るくさせた後“ありがとう”と手話で表現した。

『ただし、一つだけお願いがある。会う時は図書館とか人があまりいないところで会いたい。』

急いでスマホに打ち込み彼女に見せる。
彼女にも彼女の事情があるように、僕にも僕なりの事情があり他人の声が多く聞こえる空間を嫌っている。
これが僕が彼女に絵を教えるための条件である。

それを見た彼女は、先ほど僕がやったのと同じように“わかった”と手話で伝えてくれた。
どうやら理解してくれたようだ。

その後の流れは簡単で、まずは彼女の書いた漫画のストーリーがどのようなものかを知りたいので、次会うための約束を取り付けた。
本来は今日ストーリーを書いたノートも持ってくる予定だったようだが、絵を教えてもらう許可をもらうことに夢中で持ってくるのを忘れてしまったためだ。
 
次会う場所もこの図書館だ。
どうやらここは普段からあまり人が来ないようなのでとある事情で他人の声を嫌う僕にとってうってつけの場所であった。


「バイバイ」
お互いがそう手を振って、別れる。
気が重くなる人通りの多い帰り道だったが少しだけいつもより軽やかな気持ちで家路についた。
そもそも、彼女と僕が会ったのはほんの1週間前。
友人のとある一言がきっかけだった。

「なぁ、手話教室に行ってみない?」

放課後にわざわざ僕の前の席を陣取って、ヘッドフォンをしている僕に話しかけてきたのは幼馴染の 中束隼人(なかつかはやと)だった。
まぁ、ヘッドフォンをしているだけで実際に音は出ていないから普通に隼人の声は聞こえるのだが。
彼は僕のたった1人の友人であり、家族を除いて僕の秘密を知る唯一の存在である。だからこそ彼は僕のヘッドフォンから音が流れていないことも知っている。

「手話?隼人、手話に興味あったの?」

ヘッドフォンを外さずに答える。いつものことだ。
隼人はいつも穏やかな感情で僕に話しかけてくるがクラスメイト達ははそうでははない。
テスト期間ということもありテストへの憂鬱さ、バイトの愚痴さまざまな感情がこの教室には溢れている。
そんなクラスメイトたちの声は極力聞きたくないのだ。吐き気を催してしまうからね。

「昨日、ポストにチラシが入ってたんだ。それでちょっと興味が出てきて」

そう言って、隼人は『手話教室』と大きく書かれたチラシを僕の目の前に差し出してきた。

そこには手話教室の体験日時について書かれており、ちょうど今日の17時からも手話教室の体験ができるようであった。

「それに、いとも手話に興味あるって言ってただろ?今日もやってるみたいだし行ってみないか?」

確かにそうだ。手話は筆談と同じように僕が僕の事情を気にせずに用いられるコミュニケーション手段になるだろうと前から気になってはいた。
きっと、友人も僕の事情を知っているからこそこの話を持ってきてくれたのだろう。

でも……
僕は友人の顔をチラリと見る。

「隼人、前回の定期テストで数学赤点だったよね。今回も初日に数学あるけど勉強しなくて大丈夫なの?」

彼は今まで楽しそうに話していた表情を引き攣らせ視線を泳がせる。

そう。何を隠そう彼は数学が壊滅的にできない。英語や国語であれば学年トップの学力があるにも関わらず、数学に関しては最下位争いをするレベルである。
前回のテストでも28点という点数を叩き出しており、今回も赤点なら夏休みの補習は確定してしまう。

「い、1日くらいなら息抜きしてもなんとかなるだろ。せっかく部活もバイトも休みなんだし、いい機会だし!な?」

「まぁ、隼人がいいなら僕も興味あったし行こうか」

「さすが!そう言ってくれると思って、もう2人分予約しといたんだ」

してやったりというような顔で予約画面を僕に見せながら笑う隼人に思わず呆れた声が出る。

「僕がテスト勉強するからって言って断ったらどうするつもりだったのさ」

「そうなったら泣き落としか、最悪土下座してでも一緒に来てもらってたよ。いと、優しいから流石にそこまでしたらついてきてくれるだろ」

「泣き落としか土下座って、隼人には羞恥心ってものはないの?」

「だって、2人で予約してるのに俺1人だけで行くのは向こうの人にも悪いだろ?」

至極当たり前のことを言っていると言いたげな彼に呆れを通り越してしまい思わずため息が漏れ出る。

「そういうことを言いたいんじゃなくてさ、僕の予定を聞いてからっ」
 
「ほらほら、もう時間あんまりないんだから早く行くぞ!」

そう言って僕の分の荷物まで持ちウキウキとした表情で教室の扉に向かう。
いつものように、隼人のペースに乗せられてしまったことに少し悔しさを覚えながら僕も彼に続いて教室を出て、駐輪場へと向かう。

僕と隼人は学校まで自転車通学をしているのだが、地図を見た感じ手話教室は自宅と学校のちょうど中間地点といった場所にあり、行き帰りにいつも通るところであった。

「ここって、手話教室もやってたんだね」

少し広めの一軒家といった風貌のその建物は、算盤教室や、茶道教室といった様々な習い事をしているところだというイメージがあったが手話教室までしていたのは知らなかった。

「俺もチラシ見るまでは知らなかったけど、調べてみたら曜日ごとにそれぞれの習い事が順番にここを使ってるみたいだな」

まぁシェアハウスみたいなもんだな
なんて意味がわからないことを言いながら中に入っていく隼人に続いて僕も中へと進む。

中に入って靴を脱ぐと、50代くらいの女性が出迎えてくれた。

「すみません。体験を2人で予約していた中束です。」

隼人がスマホの予約画面を見せて説明する。


「中束様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

女性の後をついていくと、少し広めの部屋に通された。
手話教室とは言っているが塾のように手話を教えてもらうという感じではなく、個々人で手話を使ってお話をするという雰囲気だ。
その上、部屋には50〜70代くらいといった年代の方が多かった。たった1人彼女を除いては。

僕たちに気づいた彼女は、そばにいた70代くらいの女性に何か手話で話した後、僕らの方へとやってきた。

シュッとした輪郭に大きな目とその下の綺麗な形の涙袋。鼻筋が通った輪郭のはっきりした鼻。
一目で彼女が、いわゆる美人と呼ばれる顔をしていることがわかり思わず緊張してしまう。

しかし彼女の方はこちらの緊張に気づく素振りはなく話しかけてきた。
もちろん手話で。

僕と隼人は思わず顔を見合わせ困惑する。
全く手話を知らない僕たちにとって彼女が何を話しているのか理解できないのだ。

彼女もこちらの戸惑った素振りに気付いたようで首を傾ける。

『話しかけてくれてありがとう。でも僕たち今日初めてここに手話を習いにきたから、まだ手話がわからないんだ』

僕はスマートフォンを取り出してそう文字を打ち込んだのち彼女に見せる。

彼女はなるほどねと、大きめに頷いた後手帳を取り出して文字を書き込む。

『そうなんだね。なら、私が手話を教えてあげる!』

そう、可愛らしい文字で書かれていた。

「どうする?」

僕が隼人に問いかけるとほぼ同時に彼女に手を引かれる。
ほら早く!なんて言わんばかりに彼女は空いている席に僕たちを案内し、彼女自身も近くの椅子に座る。

多少強引なところは幼馴染にそっくりだなんて心の中で思いながら僕たちは案内された席に座った。

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