『私に、絵の描き方を教えて欲しいの!』

祝日の図書館。僕の前に座って私物であろうノートを読んでいた彼女、 柊冬香(ひいらぎとうか)は徐に顔をあげそんなことを言った。
いや、言ったと表現するのは少々語弊があったかもしれないと思い直す。
と、いうのもこの空間には一般的に“言う”と呼ばれる動作で発生するものがなかったからだ。

それは音である。


彼女は無言で、ノートに書かれていたその文字を僕に見せてきたのだ。
それを見た僕はカバンの中からスマートフォンを取り出して

『どうして?画家にでもなりたいの?』

と打ち込み彼女に画面を見せる。

彼女は否定するように首を横に振り、ノートにまた文字を書き始める。

どうやら、画家を志すつもりではなかったようだ。

ところでなぜ僕たちがこのような回りくどい会話をしているのかと言うとそれはここが図書館であり、会話をすることが憚られる場所であるからと言った理由ではない。

現に今、図書館には僕たち2人を除けば職員さんたち以外に他に人はいないので多少会話をしたところで迷惑にはならないだろう。

僕らが筆談という手段を使うのは、彼女には音を利用するコミュニケーション手段を用いることが困難であり、僕には手話というコミュニケーション手段がないためである。
もっと簡単な言い方をするのであれば、彼女は音のない世界に生きている。

すなわち、彼女と僕の間には文字を書くことでしか情報を伝達することができないのだ。


そんなお互いにコミュニケーション手段が異なる僕たちが、こうして集まった理由は目の前で文字を書いている彼女に呼び出されたからだ。
出かけるのがこの世の何よりも嫌いな僕は、当初は彼女の誘いを断ろうと思っていた。それなのに彼女と友人の強引さにつられてしまい、こうして大嫌いな外出をする羽目に……。

まぁたまたま彼女が指定してきたこの場所に人がいなかったこだけが唯一の救いであったわけだが。


当の本人は呼び出しておきながら、先ほどの発言(正確には文字なので発言はしていないのだが)をするまでノートを読みながら時々こちらをチラチラ見るという謎の行動を繰り返していた。

一体彼女は何を考えているのだろうか、なんてぼーっと考えながら彼女の方を見ていたら書き終わったようで彼女はまた顔を上げる。

『私ね、手話についての漫画を描きたいの。でも、絵がすごく下手で手話の表現を絵で描くことができなくて……。いとくん美術部に入っていて、絵がすごく上手って言ってたから絵の描き方を教えて欲しいの。』

確かに1週間前初めて彼女に会った時に一緒にいた友人がそう言って僕のことを過剰に褒めてくれていたような記憶がある。

なんて思いながら見た彼女のノートには女の子らしき絵が載っていてその横に彼女の字で笑顔やら横向きやらの解説が載っている。
確かに彼女は絵が不得意なようだ。

笑顔の女の子は正面を向いているが、輪郭はバケツのような縦長で下は平べったい形をしている。
横向きの絵はもっと酷い。先ほどのバケツが細くなり、後頭部は存在せずなぜか目が二つとも片側に寄りすぎている。
立体感がなさすぎて、確かにこれでは手話を表現することは困難だろう。

彼女の方に視線を向けると、彼女は恥ずかしそうに僕の方を見ていた。
なるほど、先ほどまで彼女が僕とノートを交互に見ていたのはこの絵を見せるか迷っていたからかと1人で納得しながらスマホを開く。

『どうして、わざわざ不得意な絵を描く事を選んでまで手話の漫画を描きたいの?』

『手話を少しでも多くの人に知って欲しい。私はその知るきっかけを作りたいの。だから漫画を描いてSNSとかで少しでも多くの人に見てもらいたい』


『それは小説とか、文字で表すのはダメなの?』

僕と彼女の無言の会話。矛盾しているようだがそれ以上に当てはまる言葉はない。
彼女は今度は大きく首を振って僕の発言を否定し、文字を書き進める。

『初めは小説も考えたんだけど、文字よりも絵の方が手話の表現もわかりやすいし皆んなも小説よりも漫画の方が読んでくれると思うの』

彼女の絵では、文字で表した方がまだ手話の表現もわかりやすいと思うが……なんて発言は一旦心の奥にしまっておこう。

別に絵を教える事自体は構わない。
ただ、正直僕が描く絵は漫画などに適した絵よりも風景画が多い。
彼女に教えられるほどの技量は僕にあるとは思えなかった。

でも……。
チラリと彼女の方を見る。

1週間前に一度しか会ってない人に頼むほど彼女にとって手話の漫画を描くことは実現したいことなのかもしれない。
それに、僕自身は手話に興味があって手話をコミュニケーション手段として使う彼女といることで手話を覚えられるのは僕にとってもメリットしかない。
たった一つ、彼女と会うために外出しなければならないというデメリットを除けばだが。


僕は、手話を覚えられるメリットと外出しなければならないデメリットを天秤にかけたのち“わかった”という意味を表す手話を用いた。

これは、1週間前手話教室で習ったいくつかの表現のうちの一つである。

僕の辿々しい手話でも伝わったようで彼女は表情を明るくさせた後“ありがとう”と手話で表現した。

『ただし、一つだけお願いがある。会う時は図書館とか人があまりいないところで会いたい。』

急いでスマホに打ち込み彼女に見せる。
彼女にも彼女の事情があるように、僕にも僕なりの事情があり他人の声が多く聞こえる空間を嫌っている。
これが僕が彼女に絵を教えるための条件である。

それを見た彼女は、先ほど僕がやったのと同じように“わかった”と手話で伝えてくれた。
どうやら理解してくれたようだ。

その後の流れは簡単で、まずは彼女の書いた漫画のストーリーがどのようなものかを知りたいので、次会うための約束を取り付けた。
本来は今日ストーリーを書いたノートも持ってくる予定だったようだが、絵を教えてもらう許可をもらうことに夢中で持ってくるのを忘れてしまったためだ。
 
次会う場所もこの図書館だ。
どうやらここは普段からあまり人が来ないようなのでとある事情で他人の声を嫌う僕にとってうってつけの場所であった。


「バイバイ」
お互いがそう手を振って、別れる。
気が重くなる人通りの多い帰り道だったが少しだけいつもより軽やかな気持ちで家路についた。