一章

「……ここ、どこ?」
 先程まで屋敷で寝ていたはずなのに、柚子が目を開けると、真っ暗な場所で立ち尽くしていた。
 空にはまん丸に光る満月が見えることから、今いる場所が外であることが分かる。
 やけに足下が冷たいなと思ったら、靴は履いておらず裸足だった。
 着ている服もパジャマのまま。寝ていたその時の格好でいる。
「え……、どういうこと?」
 夢かと思ったが、裸足の足の裏から伝わってくる土や小石の感触が、夢でないと教えてくれる。
 もし夢だとしたら、とんでもなくリアルだ。
「え? え……?」
 柚子はわけが分からず混乱するばかり。
「玲夜ー!」
 助けを求めるように最愛の人の名前を呼ぶが、姿どころか返事もない。
 ただひとり、柚子だけがぽつんと残されていた。
「誰もいない……」
 周囲を見渡しても真っ暗でよく見えず、灯りも人の気配もしない。
 寝ぼけて庭に出てきてしまったのかとも思ったが、屋敷の敷地内だったら暗くても分かりそうなものだ。
 それに、あれだけ叫んだのだから、玲夜でなくとも屋敷の誰かが飛んでくるだろうに、その様子もない。
 ここはいったいどこなのだろうか。
 心細さと恐怖心が柚子を襲う。
 誰でもいいからいないのか。
 立ち尽くす柚子は、ここで誰か来るのを待つべきか、移動すべきか迷った。
 場所も分からずむやみに動き回るのは危険ではないかと思うが、このままじっとしていても変わらないと、意を決して足を踏み出した。
 その時……。
「アオーン」
 聞き慣れた特徴のある鳴き声に、柚子ははっとする。
 周囲に目をこらすと、暗闇の中にぽつんと佇むまろの姿を見つける。
 黒猫だというのに、なぜかこの暗闇の中でもまろをしっかりと認識できた。
 まるでまろ自身が光を発しているかのように、闇に溶けることなく存在を主張している。
「まろ」
 見知った存在が現れ、わずかな安堵を浮かべる柚子は、まろに近づこうとするも、まろは柚子に背を向けて走り出してしまう。
「あっ!」
 柚子は慌ててまろを追いかける。
 靴を履いていないために、足の裏が少々痛んだが、気にしている場合ではなかった。
 まろはまるで柚子が追いかけてくるのを待つように、時々後ろを振り返り柚子が来ていることを確認しながら走っていく。
 その様子はまるで誘導されているかのよう。
 置いて行かれることはなさそうだと感じた柚子は、少し心の余裕が出てきた。
 そして気付く。
 この場に流れる清浄な空気に。
 これは何度か経験した覚えのある感覚だ。
 撫子の屋敷と、一龍斎の元屋敷で流れていた空気感。
 汚れた物が排除されたような神聖な雰囲気。
「もしかして、ここって一龍斎の元屋敷?」
 柚子が撫子の屋敷ではなく一龍斎の元屋敷と思ったのはただの勘だ。
 言葉では伝えることのできないふたつの屋敷に流れる空気の違いを、柚子はなんとなく分かるようになっていた。
 それは社に参るために、幾度となく一龍斎の元屋敷に来ていたからかもしれない。
 そうしていると、柚子も見覚えのある場所まできた。
 そこは社へと続く道のりだ。
 柚子のなかにあった不確かなものが確信へと変わる。
「やっぱりここ、お社のある場所……」
 見知らぬ場所でなかったと少し安心したものの、何故自分はここにいるのか疑問が浮かぶ。
 いくら寝ぼけて来てしまったとしても限度があるだろう。
 寝る時は玲夜が隣にいるし、屋敷を出るまでに誰かに気付かれて止められるはず。
 玲夜の屋敷からここまでそれなりの距離があるというのに、誰にも気づかれなかったというのか。
 道を示すようにザアッと草木が避け、社までの道が作られる。
「アオーン」
 まろは柚子を見上げ、その道を先導するように歩く。
 柚子がなかなか一歩を踏み出せずにいると、再び「アオーン」と鳴いてうながすまろに後押しされ、柚子は歩き出した。
 社があることを示す鳥居までたどり着くと、そこにはみるくがいた。
「にゃーん」
 柚子の足にスリスリと甘えるように体を擦りつけるみるく。
 足を止めてみるくの頭を撫でると、横から少し強めの声でまろが「アオーン」と鳴いた。
 叱られたようにびくっとするみるくは、慌ててまろのそばまで走った。
 そして、二匹は柚子を見つめてから、社の方へと視線を移す。
 つられて柚子も社の方を向けば、社が淡く光っているように見えた。
 目の錯覚かと思ったが、どうやら違う。
 驚くというより唖然とする柚子にその声は聞こえてきた。
『おいで……』
「えっ?」
『こちらへ……』
 社から聞こえてくる不思議な声に、柚子は囚われたように意識が外せず、誘われるようにふらふらと社へと足が向いた。
 社の前までたどり着くと、社は満月の光を浴びて神秘的に淡く光る。
 その姿は本家にあったサクが眠る桜を連想させた。
 今はもう普通の桜になってしまったけれど。
 そんなことを考えていると、柚子の目の前をピンク色の花びらがヒラヒラと横切ったのだ。
 はっとして見回せば、社の周囲にあった木々が一面の桜に覆い尽くされていた。
 風が吹くたびに桜の花びらが舞う。
 まるで柚子の訪れを歓迎するかのようにヒラヒラと。
「綺麗……」
 今の状況も忘れて桜に魅入っていると、再び社から声がした。
『ゆず……』
 驚くのも疲れてきた柚子が桜から社へ目を向けると、一層強く吹いた風により桜の花びらが舞い、社の前に集まっていく。
 まるで桜の化身と見まごうほどに集まった桜が人の形を取っていった。
 ふわりとその場に現れたのは、絹糸のような長い髪の美しい男性だ。
 月の光が彼の白い髪に当たり、キラキラと輝いている。
 それだけでも幻想的なのに、彼の容姿もまた、玲夜に負けないぐらい精巧で綺麗な顔をしていた。
 柚子はこれまでに玲夜を超える美しい人に出会ったことがなかったので、声もなく見つめてしまう。
『私の神子』
 男性は柚子を見ながらそう言うと、にこりと微笑んだ。
 その破壊力たるや、玲夜を見慣れた柚子ですら、思わず頬を染めてしまうほどだった。
 動かない柚子に向け、彼はもう一度言う。
『私の神子』
 我に返った柚子は、困惑したようにする。
「私の神子って、私のことですか?」
 問わずともこの場には柚子以外に人はいないのだが、『私の神子』などと他人に呼ばれる覚えはなかった。
 けれど、男性は……。
『そうだよ。私の神子』
 柔らかな表情で告げられる言葉に迷いは感じられない。
「私は神子じゃないです。確かに神子の素質はあるって龍が言うけれど、なにもできないので……」
『いいや。そなたは私の神子だよ』
 考えを変えない男性に、柚子はそもそも誰なのかと疑問をぶつける。
「あなたは誰ですか?」
『私は神。人とあやかしをつなぐ神だよ、私の神子』
「神、様……?」
 柚子は『私の神子』と呼ばれたことよりも驚き、目を大きくする。
『その昔、人とあやかしが崇めていた神が私だ。私の愛しいサクが神子として仕えてくれていたが、サクは一龍斎の欲により命を落としてしまった。サクがいなくなり休眠状態を取った私だが、柚子が足しげく通い参ってくれたことで目を覚ました』
「えっ、えぇ?」
 混乱状態に陥っている柚子は頭の整理が追いつかない。
 まろにみるくに龍といった霊獣という不可思議な存在を目の当たりにしている柚子は、多少の不可思議なことには免疫があると思っていたが、今回は度が過ぎている。
 ひととあやかしの神が目の前に現れるなんて、予想だにしていない。
「ほんとに神様……?」
 柚子はいまだ信じられない様子でまじまじと、自分を神だと言う男性を見る。
 信じ切れていない柚子の問いかけに対して、神は気分を害することもなく頷く。
『そうだ。眠りにつく中でも聞こえていたよ。柚子が来てくれた声を。だから私は柚子に会うためにこうして目覚めたんだ』
 神は破顔一笑して『ありがとう、柚子』と言った。
 お礼をされても柚子はただ言われるままに社へ参っただけで、なにかをしたつもりはない。
 お礼を言われても逆に困ってしまう。
「本当に神様って信じていいんですか?」
 まだ疑いの心が残る柚子はそう問うてしまう。
 いいかげん怒られるかもと思ったが、神はクスクスと楽しそうに笑い声をあげる。
 なにがそんなに笑うことがあるのだろうか。
『柚子は疑い深いな。まあ、信じやすいよりはマシか。サクは人の悪意には鈍感だった。だからこそ悲しい結末を送ってしまって……』
 その瞬間、空気が変わる。そして神の目つきも鋭くなった。
『一龍斎……。私の神子を不幸に貶めた一族。奴らだけはその血が絶えるまで許しはせぬ』
 怒った時の玲夜よりも強い威圧感に、柚子の顔が強張る。
 すると、窘めるにまろが鳴いた。
「アオーン」
 そうすれば、神は再び柔らかな表情に戻り、それと同時に圧迫感も消えたなくなった。
 ほっとする柚子に、神は『すまない』と謝る。
「いえ、大丈夫です」
 それにおかげで目の前の人物が普通の人でないことが分かった。
 神かどうかは置いておいて、柚子ですら感じる圧倒するような畏怖は、玲夜ですら感じたことのないものだ。
 神であると真実味が増したのは間違いない。
「撫子様がここにいたらどうなっていたかな」
 この本社を見つけるや、高価な着物に土がつくのもかまわずにその場に平伏したほどだ。
 本物の神が顕現したとなれば、取り乱すほど大喜びするかもしれない。
「あの、あなたが目覚めたってことは他の人にも話していいんですか? 教えたい人がいるんですが」
『孤雪家の当主だね』
「知ってるんですか?」
『休眠状態にあったとはいえ、外のことはこの子たちを通して知っている』
 神が身をかがめると、近くに寄っていたまろとみるくの頭を撫でる。
『霊獣であるこの子たちは、私の眷属でもある』
「眷属?」
『まあ、簡単に言うと、私のお使いをしてくれる子たちということだ』
「なるほど」
 だから柚子がここに参りに来ると、必ず姿を見せていたのか。
 神が目覚めるのを待っていたのかもしれない。
『この子たちのおかげで、外の状況はある程度把握している。一龍斎が落ちぶれたことも、これまで柚子の身の回りに起きた出来事も』
「そうなんですか」
『一龍斎へは鬼と狐が制裁を与えたと知って胸がすく思いだったよ。最近の人間の言葉ではこう言うのだったか? ざまあって』
「あ、はは……」
 まさか神からそんな言葉が出てくると思わなかった柚子は苦笑いをする。
『話を戻そうか。孤雪家の当主に私のことを話していいのかだったか。別にかまわない。孤雪家には分霊した社を与えていたし、ちゃんと管理されているようだ。私も当代の当主に会ってみたい』
「喜ばれると思います」
 それはもうきっと大変な騒ぎになりそうだ。
「質問なんですが、私がここにいるのは、あなたが私を連れてきたんですか?」
 そもそもの疑問だ。
 自分の足で来た覚えがないのだから、目の前の御仁に連れてこられたと思うのが自然である。
 神ならばそれぐらいしてしまえそうだ。
『ああ、そうだよ』
 と、なんの悪気もなさそうに笑う神に、柚子はがっくりする。
『まだ休眠前の力は取り戻せていないが、柚子をここに連れてくるぐらいは造作もなかった。目が覚めて早く柚子に会いたかったからね』
 ニコニコと本人は嬉しそうだが、柚子からしたら迷惑この上ない。
「あの、なぜ私なんですか?」
『言っただろう? 私の神子だと』
「でも、私は……」
 違うと言おうとするも、神が手のひらを前に出し柚子の言葉を止める。
『私が決めた。だから柚子は私の神子だ』
「えー……」
 なんたる傲岸不遜な行い。
 神だから仕方ないのだろうか。
『それに柚子には頼みがあるんだ』
「頼みですか?」
『柚子も少し関わっていることだ』
「なんでしょうか?」
 神から頼まれごとをされるような覚えは柚子にはないのだが。
『私が眠っている間に神器が悪用されているようなので、それを探し回収して持ってきてほしい』
「神器?」
 柚子はこてんと首をかしげる。
『その昔、私は当時強い力を持ったあやかし三つの家にそれぞれ贈り物をした。鬼の鬼龍院には私の愛しい神子を、妖狐の孤雪家には分霊した社を』
「あ、撫子さんから聞いた話です」
 けれど、最後の家の話はしてくれなかった。
『そして、最後の家、天狗の烏羽家にはあやかしの本能を消してしまう神器を与えた』
「あやかしの本能を消してしまうんですか?」
 柚子は意味が分からないというように、困惑した顔をする。
『そう。あやかしは本能で花嫁を見つける。けれど、烏羽家に与えた神器は、その本能をあやかしから奪い去ることができてしまうんだ』
「本能が消えたらどうなってしまうんですか?」
『あやかしは花嫁を花嫁と認識しなくなる。花嫁であることに変わりはないが、花嫁と思わなくなるんだ』
「そんな……」
 玲夜の花嫁である柚子にとってはとんでもない代物だ。
「どうしてそんなものを与えたんですか?」
 少々語気が強くなってしまうのは仕方ない。
 柚子にも大いに関係のあることなのだから。
 しかも、この神は先程悪用されていると言っていたのでなおさらだ。
『もともと、その神器はサクのために作ったものなんだ』
「サクさん? でも、以前に龍から聞いた話だと、サクさんは鬼の花嫁になって仲睦まじかったと聞きました。神器なんて必要なかったのでは?」
『そこがすこーしややこしくってね』
 神はやれやれというように微笑む。
『サクは神子。あやかしと人とをつなぐ私の神子だ。一龍斎の女は花嫁でなくともあやかしの伴侶になれると聞いた覚えがあるだろう?』
「あ、はい」
 以前に一龍斎直系のミコトが話していたことで、柚子も知っている。
『昔、一龍斎がまともだった頃、一龍斎は人間とあやかしの仲立ちをする立場にあった。なぜなら一龍斎の先祖は神と人の子。それゆえに一龍斎には神の血がわずかながら流れている。だからこそ神を降ろす力を持ち、一龍斎の女は花嫁でなくともあやかしの伴侶になれる。まあ、それも代を経るごとに薄まり、今では神子の素質を持つのは柚子だけだろう』
「なるほど」
『サクは、鬼の花嫁であると同時に、天狗の花嫁でもあったのだよ』
「えっ!?」
 これでもかというほど驚く柚子。
 ふたりのあやかしの花嫁になるなんて……。
「そんなことがあり得るんですか?」
『一龍斎の血筋で神子の力を持ったサクならあり得るんだ。困ったことに』
 昔を思い出しているのか、神はどこか遠くを見ながら話を続ける。
『サクは鬼と天狗の当主のふたりに花嫁として乞われ、サクは最終的に鬼の花嫁を選んだ。天狗の当主も、サクの決めたことならと手を引いたんだ。私はその健気な姿にほだされてしまって、彼には本能を消す神器を与えた。もしもサクが鬼の花嫁でいることが苦になったのなら、神器を使い、サクを助けだせと命じて』
「そんなことが……」
『その後、その神器が使われることはなかった。なにせ、サクは一龍斎に囚われ、連れ戻すことに成功しても、間もなく息を引き取ったから。天狗の当主はひどくサクの旦那を罵っていたよ。サクを守り切れなかったことを怒って。まあ、それは私も同じ気持ちだったが、サクを守れなかったのは私もだ。できたのはこの子たちを遣わすことだけ』
 そう言って、神はまろとみるくに視線を落とす。
 柚子の知らない当時の話に胸が苦しくなるような気持ちになる。
『それからだ。鬼と天狗の仲が悪くなってしまったのは。それは今も続いていると聞く』
「そうなんですか?」
『ああ。けれど、仕方のないことだ。それだけ天狗の当主は、サクの幸せをなにより願っていた証拠なんだから。サクを守れなかった鬼への怒りが勝り、鬼への恨みへと変わった』
「…………」
 鬼と天狗の仲が悪いことは、かくりよ学園に通っていた時に講義で習ったので知っていたが、その理由までは聞かされていなかった。
 もしかしたら玲夜ですら知らない話なのではないだろうか。
 サクが桜の木の下に眠っていたことも玲夜どころか千夜も知らなかったのだから。
『サクの旦那とてサクを失い悲しんだのだが、それを分かっていてなお、天狗の当主は割り切れなかったんだろう。あの悲劇はたくさんの者が傷を負う結果になってしまった』
 神からはやるせなさがうかがえる。
『もしサクが天狗を選んでいたら……いや、今さら意味はないか。“もしも”を考えても……』
 まろとみるくは落ち込んだように顔を俯かせており、自然と空気が重くなる。
 柚子は話を変えることにした。
「その神器を探してくれとはどういうことですか? その烏羽家の人が持っているんじゃないんですか?」
『神器は今、烏羽家にはない』
 そう、神は断言した。
 眠っていてなぜ分かるのか知らないが、まろとみるくからの情報だろうか。
「先程悪用されているっておっしゃいましたよね?」
『そう。少し前に柚子の知人をつけ狙っていたあやかしがいただろう?』
 すぐに思い浮かんだのは、学友でもある芽衣と、芽衣を花嫁だと言ってしつこくストーカーしていた風臣だ。
 花嫁だと固執し、散々嫌がらせをしてでも手に入れようとしていたのに、最後は呆気ないほどあっさりと身を引いた。
 芽衣が花嫁であるのを間違っていたと言ったらしいが、そんな間違いを起こすはずがないと玲夜が不思議がっていたものだ。
 再度、なぜそんな出来事を神が詳細に知っているのだろうかという疑問が浮かぶも、愚問だろうか。
 風臣のことを考えて、柚子ははっとする。
「あの人が突然花嫁だったのは間違いだって興味を失ったのは、その神器のせい……?」
 確信があるわけではなかったが、ひとり言のようにつぶやかれた言葉を、神は肯定する。
『その可能性が高いと私は思っている。そうでなければ、あやかしが花嫁を間違うなんて起こりえない。それは花嫁という存在を作り、人とあやかしをつないだ私が誰よりもよく分かっている』
「神器はどこにあるんですか?」
『それは分からない。分かっているのは、神器は今、烏羽のもとにはないということだけ』
 曖昧すぎる。
 それだけの情報で柚子に探せとは、なんという無茶ぶり。
 そもそも、悪用されたという考え方からして柚子と相違があるように感じる。
「悪用と言いますけど、私の友人はあやかしに花嫁と認識されて困っていました。興味を失ったのが神器が使われたおかげだとしたら、悪用とは言えないんじゃないですか? 少なくとも、友人は助かってます」
『それはあくまで花嫁であることを望まない、花嫁側から見た価値観でしかない。突然本能を奪われてしまったあやかしからしたら、悪用ではないか?』
「それは……まあ……」
 そういう言われ方をされると、柚子も否定できない。
『花嫁をこいねがうあやかしの本能は、私によって引き出されたもの。食欲や睡眠欲のように、生きる上でなくてはならないものとまでは言わない。だが、あったものを強制的に奪っては、あやかしにどんな影響を及ぼすか分からない』
「なおさら、どうしてそんなもの作ったんですか……」
 じとっとした視線を向けてしまう柚子を誰が咎められよう。
『先程も言ったように、サクのためだ。サクが鬼の当主に三行半を突きつけた時に、あやかしの本能による執着がサクの幸せの邪魔になったら困る』
 しれっと答える神。
 どうやら人とあやかしをつなぐ神と言っても、思いの比重はサクに軍配があがるらしい。
『まったく、サクのために作った道具を悪用するなんて面倒なことをしてくれたものだ』
 やれやれという様子の神だが、やれやれなのは後始末を押しつけられようとしている柚子の方である。
「神器が烏羽家にはないのは確かなんですか?」
『それは間違いない。私が探して来られればいいが、神は神だからこその制約がある。それに目覚めたばかりで動けない。だからどうか私の代わりに探してくれないか?』
 捨てられた子犬のような眼差しで見られれば、柚子は喉まで出かかった拒否の言葉も止まってしまう。
 明らかな面倒ごとに首を突っ込んだと知った時の玲夜の反応が怖いが、悩んだ末に柚子は頷く。
「分かりました。探し出せると断言できませんが、やれるだけのことはしてみます」
『ありがとう、柚子。私の愛しい神子』
 桜が舞う中微笑む神は神々しく、それでいて幻想的で、ずっと見ていたい気持ちになる。
 神はなんとも愛おしげに柚子を見るものだから、柚子は気恥ずかしくなる。
 神は幾度も『私の神子』だったり『愛しい』と口にするが、それは玲夜が柚子に向けているものとはどこか違う。
 たとえるなら、祖父が孫に向けるような種類の愛情といったらいいのだろうか。
 だからこそ柚子も警戒心を持たずにのんびりしていられた。
 けれど、なぜ神が柚子にそのような感情を向けてくるのか分からない。
 今日会ったのが初めてのはずなのに、心の中に湧く安心感はどうしてだろうか。
 とても懐かしく感じるのはなぜだろうか。
 聞きたいのに聞くのが怖い。
 言葉にできない感情を飲み込んで、柚子は神の眼差しを受け止めた。
 やはり何度見ても美しい人だなと思いながら、柚子はこれからどうしたらいいのかを考える。
「……とりあえず、屋敷に帰って玲夜に相談しないと。……信じてくれるかな?」
 うーむ、と柚子は難しい顔をする。
 神に連れられて指令を受けたなどと突然言い出したら、柚子なら寝ぼけていたのかと疑うだろう。
 なんと言えば玲夜は信じてくれるだろうか。
 玲夜に信じてもらうためには、神自身に会わせるのが一番かもしれない。
 そう思った柚子が神に視線を向けると、神の姿が桜の花びらとなって消えていこうとしていた。
「えっ、神様!?」
『時間のようだ。目覚めたばかりの私は、まだ長く顕現してはいられない。後のことは頼んだよ』
「アオーン」
「にゃう」
 任せろというようにまろとみるくが鳴く。
『柚子。私の神子。気をつけるんだよ』
 そう言い残して神は消えていった。
 それと同時に、まるで夢幻かのごとく、周囲にあった桜の木が青々と茂る緑色の木に戻った。
「……夢、じゃないよね」
 まるで狐につままれたような気分だが、手のひらに残った一枚の桜の花弁が、神の存在を教えてくれる。
「帰ろっか」
 まろとみるくに向かって問いかけると、肯定するように二匹は柚子の足に擦り寄った。
「というか、どうやって帰ろう……」
 神の存在すっかり忘れていたが、今の柚子は裸足にパジャマ姿のままだ。
 空を見ればいつの間にか満月は見えなくなり、夜が明けようとしていた。
「早く帰らないと、玲夜が心配する」
 いや、もう手遅れかもしれない。
「連れてきたなら送り返してくれればいいのに」
 思わずそんな恨み言を口にしてしまう柚子は、一度社を振り返ってから、一龍斎の屋敷を後にした。