五章
翌日、玲夜の体調が急変することもなく、無事に退院できた。
安堵する柚子の肩を玲夜は引き寄せる。
見上げれば、本能をなくしたとは思えないほど甘さを含んだ眼差しを向けてくる玲夜と目が合う。
最悪の覚悟もしたのに、玲夜はこうして自分の隣にいる。
花嫁だからじゃない。
自分という存在を心から愛してくれているのだと分かって、柚子は嬉しかった。
けれど、それと同時に恐れもあった。
「もう玲夜は私を花嫁って分からなくなったから、私はもっと頑張らなきゃだね」
眉を下げてどこか悲しげな表情を作る柚子は、不安でいっぱいだ。
自己肯定感が最悪だった昔よりは自信を持てるようになれたが、玲夜をつなぎ止めておけるほどの魅力が自分にあるとは到底思えない。
これまでは花嫁だから玲夜が離れていくことはないという安堵感があった。
けれど、神器によって取り除かれてしまった以上、柚子自身で勝負しなければならない。
果たして自分にそれができるのか。甚だ疑問だ。
「頑張る必要はない。俺には柚子が柚子であることが重要なんだ。ありのままの柚子がそばにいてくれさえすればそれでいい」
これほどに愛情深い人がいること。
そんな人に選んでもらえたこと。
そして、そばにいてくれることの奇跡。
柚子はそれらたくさんの幸運を噛みしめながら玲夜に抱きついた。
「最初は玲夜に別れを告げられる前に私から切り出そうって思ってた。けど、そんな簡単に手放したくない。だから玲夜いらないって言われるまで絶対そばにいる。それで、たとえいらないって言われても、みっともなく泣き叫んですがりつく」
これは決意表明だ。
なにがあっても貫いてみせる。
手の中にある大切なものを簡単に手放そうとしてしまっていた自分への決意。
もう簡単に捨てたりなんかしない。
強い眼差しで玲夜を見つめると、玲夜は柔らかく微笑んだ。
「柚子が俺に泣きすがる様は見てみたい気もするが、俺が柚子を必要しなくなることなんかない。たとえ本能がなくても、お前だけが俺の花嫁だ」
「うん」
玲夜の言葉を素直に受け入れられるようになったのはいつだったろうか。
最初はどんなに言葉を尽くされても不安で仕方なかったけれど、今は心の底から信じることができる。
玲夜はここにいる。
ずっとそばにいてくれる。
退院した玲夜と柚子を乗せた車は、屋敷に帰るのではなく鬼龍院本家へと向かった。
本家には玲夜を襲った穂香が保護されている。
今はあくまで保護。
けれど、鬼龍院次期当主である玲夜に危害を加えたとあっては、千夜も無視できない。
玲夜自身は傷ひとつなかったとしてもだ。
いや、穂香のせいであやかしの本能が消えてしまったのだから、害は与えられたと判断されるかもしれない。
玲夜は相変わらず柚子を溺愛しているが、それは結果論でしかなく、他のあやかしのように興味をなくして大事な花嫁を捨てることになったかもしれない。
それでいうと、穂香の罪は一族にとっては大きな不利益を与える大罪である。
「天道の一派にとっては残念な結果になったのだろうな」
なんとも極悪に笑う玲夜を、柚子も否定しない。
いまだ柚子を花嫁と認めていない、高道の祖父でもある天道を始めとした先代当主の側近たち。
彼らは玲夜が柚子に興味をなくすことこそを望んでいたはず。
むしろ天道たちにとっては穂香は渡りに船だった。
けれど、玲夜の予想以上の重たい愛情は本能を超えてしまった。
まあ、予想外なのは柚子も同じである。
というか、一番驚いているのが柚子かもしれない。
「そもそも神器の話は高道さんのお祖父さんにしているの?」
当初、神器の捜索は一部の者しか知らない話だった。
「今回は俺が倒れたからな。主要な側近には伝えられている。だが、神器という代物に対しては懐疑的なようだ」
神から与えられた神器など、普通は信用しないかと、柚子も納得する。
「天道が率先して、その神器は鬼龍院で管理すべきだと騒いでいたが、すでにあるべき場所に返したと父さんが黙らせた。神に返したと言っても信じないだろうからな」
社を与えられ神を信じ崇拝していた撫子と違い、鬼龍院はあまり神との距離が近いようには思えなかった。
初代花嫁のことも、一龍斎との因縁も、これまで当主にしか伝えられてこなかったようなので仕方ないのかもしれない。
今さら神がいると訴えても笑い飛ばされるだろう。
実際に見せたら黙るだろうか。
柚子はどうにか神を連れてこられないか考えてみたが、素直に現れてくれると思えなかった。
よくよく考えれば、神がそんな神器を作ってしまったから悪いのではないかと思うも、いやいや神は大事な自分の神子であるサクのために作ったのだ。
悪用する者が悪いのである。
「穂香様はどうなるの?」
「どうするか最終決定は当主である父さんの役目だ。だが、俺の意思が大きく反映されるだろう。あの女に対しても天道を始めとした先代の側近が口を挟んできたが、今の当主は父さんだとお祖母様が怒鳴りつけたおかげで静かになったらしい。本当にうるさいじじいどもだ」
玲夜は舌打ちせんばかりに眉をひそめた。
先代当主の側近は玖蘭が歯止めとなっているらしい。
嫌われていなかったとほっとする柚子が今思い浮かべるのは穂香のことだ。
最後に見た穂香は正気とは思えないほど目がギラギラとしていた。
幾多いるあやかしの中でなぜ玲夜を狙ったのだろうか。
そして風臣にも神器を使ったのは穂香なのか。
分からないことが山ほどある。
「穂香様はどうして玲夜を狙ったのかな? 穂香様のあの様子じゃあ、私をあやかしから助けるためってわけでもなさそうだし」
むしろ柚子を憎々しげに見ていた。
「母さんが事情を聞いているがだんまりらしい」
「穂香様と話をする時間はある?」
知りたかった。なぜなのか、その理由を。素直に話してくれるか分からないけれど。
「柚子が望めば時間を作るのは可能だろう。ただし、ひとりでは会わせられないぞ」
「うん。それは分かってる」
柚子に危害を与えないとも言い切れないのだから、そこは承知の上だ。
鬼龍院本家に到着する。
本家と言っても、本家は広大な土地があり、そこにいくつもの家族がそれぞれの家で生活している。
まるでひとつの村のような敷地の中に、特に大きな屋敷がある。
そこが当主である千夜とその伴侶である沙良の住む屋敷だ。
玲夜の屋敷ですら開いた口がふさがらない柚子は、本家の屋敷を見た時本当に驚いた。
ゆくゆく玲夜が当主を引き継げば、柚子もここに住むというのだからなおさらである。
今ある玲夜の屋敷はのちに子供ができたら譲るそうだ。
本家の屋敷の前で車を横付けすると、ふたりは車から降りる。
屋敷の中へ入ると、屋敷の使用人たちが安堵したように微笑みながら出迎えてくれる。
「ご当主様がお待ちです」
言われるままに案内された広い座敷に入れば、ドタドタと騒がしく足音を立てて、千夜が玲夜に飛びついた。
「玲夜く~ん。心配したんだよぉ」
厳かで風格のある屋敷とは相反して、軽い調子の千夜に気が抜ける。
「柚子ちゃんの前でへたこいて、人間のか弱い女の子にあっさり刺されちゃうなんて、それを聞いた時は耳を疑って反論しちゃったよ~。僕の玲夜君がそんな弱っちいわけない!ってぇ。そしたら本当だって言うもんだから、びっくり仰天だよ~」
千夜は玲夜の心配をしているのか、怒らせようとしているのかどちらだろう。
前者だった場合、とんでもなく地雷を踏みつけている。
それはもうグリグリと。
玲夜のこめかみに青筋が浮かんでいるのに気付いているのかいないのか。
「あの、お義父様、そのくらいで……」
でなければ玲夜の我慢が限界を突破する。
千夜に声をかけると、矛先は柚子へ。
「柚子ちゃんも大変だったねぇ。玲夜君がへぼいせいでたくさん心配したでしょう~」
「へぼい……」
柚子はなんとも複雑な顔をした。
確かにただの人間にやられるなんて普段の玲夜からは考えられないが、今回は神器が使われたというのを考慮してあげてほしい。
「これで玲夜君が柚子ちゃんと離婚なんて言い出してたら破門しているところだよ~。よかったねぇ、柚子ちゃん」
よかったのは、柚子なのか玲夜なのか判断に困る言葉だ。
「父さん。本題に入りましょう」
地を這うような低い声を出す玲夜は明らかに怒っている。
普通のあやかしなら卒倒するような覇気の前でも、千夜はひょうひょうとしている。
「そうだねぇ。あんまり長引かせたい話ではないし、さっさと終わらせちゃおうか」
座敷の上座に千夜が座ると、斜め横に玲夜が座り、その横に柚子が座る。
しばらくすると、穂香が左右から男性に腕を掴まれたまま入ってきた。
一緒に沙良が入ってきて、玲夜とは反対側の千夜の斜め隣に座る。
沙良は沈んだ顔でため息をついたが、柚子の視線に気付くとニコリと笑う。
「さて、それじゃあ、君の処遇をこれから決めようと思うんだけど、言いたいことはあるかな?」
話し合う内容と相反して明るい声の調子で問いかける千夜に、穂香は暗く生気のないうつろな目を向ける。
その目が千夜から玲夜へ、そして柚子へと向かうとニィと口角が上がった。
「ふふふふっ」
「なにがおかしいんだい?」
突然笑い出した穂香に、千夜は一瞬眉をひそめる。
「だっておかしいではありませんか。あれほど仲のよさを言いふらし自慢しておきながら、今や捨てられる寸前。いえ、もう捨てられた後かしら?」
柚子のことを言っているのは明白だった。
柚子が口を開こうとする前に、玲夜が柚子の肩を引き寄せ、穂香に見せびらかすように柚子の頬にキスをした。
突然のことにびっくりする柚子だが、なぜか穂香も驚いている。
「誰が誰を捨てると言った?」
玲夜の鋭い視線が穂香を射貫く。
「そんな、どうして……? 確かに刺したのに……」
「残念だったな。この通り俺と柚子は変わらず相思相愛だ」
「どうしてぇ!」
暴れ始めた穂香を、腕を掴んでいた男性が慌てて抑える。
あやかしにはかなわずすぐに大人しくなった。
「お前が使った道具はあくまであやかしの本能を消すだけだ。すでに抱いている感情をなくすわけではない。俺が今も柚子を腕に抱いているのは、花嫁だからではなく柚子自身を愛しているからだ。まあ、お前の旦那は違ったようだがな」
「そんな……」
一気に力をなくしてだらりとする穂香は呆然としている。
そんな柚子は問う。
「穂香様。どうして玲夜を狙ったんですか? たくさんいるあやかしの中でどうして」
穂香はすぐには反応しなかったが、しばらくして口を開く。柚子をギッとにらみつけて。
「あの道具を使ったら彼はあっさり離婚に応じたわ。あれだけ私に執着していたのに。愛していると言ったのに。花嫁じゃなかったらなんの価値もないというようによ!」
次第に大きくなっていく声は、痛みを伴うような悲鳴であった。
「……その程度でしかない花嫁なのに、嬉しそうにしているあなたが憎らしかった。所詮は花嫁だから大事にされているだけで、あなた自身が愛されているわけじゃない! それを思い知らせてやりたかった。それなのに。それなのに……」
くしゃりと顔を歪ませる穂香の声が小さくなっていく。
「本能をなくしても、なぜあなたは愛されているの? 私の隣には誰もいないのに、どうして……」
「穂香様……」
痛々しいその姿が見ていられない。
あやかしの花嫁となった彼女。
どのような経緯で伴侶となったかは知らないが、少なくとも柚子と会った時点では穂香は花嫁であることを拒否しているようだった。
そんな彼女は神器によって自由を手に入れたけれど、急に変わってしまった旦那に失望したのだろうか。
その悲しみを他人にぶつけたくなったのか。
柚子には想像することしかできない。
この中で一番穂香と面識がある沙良は、静かに目を伏せていた。
沙良の力を持ってしても、穂香を救うことはできない。
言葉を発せずにいる中で、今回の被害者である玲夜が口を開く。
「みずから花嫁であることを放棄しておきながらほざくな。だったらそのまま花嫁であったらいいだろう。自分の意思で逃げておきながら、やっぱり花嫁に未練があるような言いよう。そんな面倒は自分で見ろ」
「玲夜……」
さすがに言いすぎではないだろうかと穂香をうかがうと、驚いたように目を丸くしていた。
「お前は旦那から逃げることしか考えなかったんじゃないか? 話し合ったのか? 喧嘩したのか? 自分の意思を貫こうとしたのか!」
「……そんなの花嫁であると言われてできるはずがないわ」
「そうやって逃げ続けたから、旦那はお前自身を愛さなかったとは思わないのか? お前がもっと気持ちをぶつけていたら、また違った関係が築けていたんじゃないか?」
「あ……」
「少なくとも、柚子は花嫁だからと言われても俺に反論する。当然喧嘩もするが、それによって絆も深まることだってある」
穂香は呆然としたように柚子を見た。
「お前はやり方を間違えたんだ」
「あ……あ……」
穂香の目からホロホロと涙がこぼれ落ちる。
畳に顔を伏せ静かに泣く穂香に千夜が問うた。
「君が持っていた神器はどこで手に入れたんだい?」
これまで沙良が質問しても口を開かなかったらしい穂香だったが、話してくれるだろうか。
話してくれることを願いながら少し待つと、ポツリポツリと話し始めた。
「あれは少し前、久しぶりに旦那様と出かけた帰りに会った方にいただいたのです。乗っていた車が軽い事故に遭って、私はその騒ぎに乗じて旦那様と離れて公園におりました。そこへ慌てた様子の男性がいらして、私にそれを」
「どうして君に渡したんだい? 知ってる人?」
「いいえ。存じあげない方でした。しかし、どこか玲夜様に似ているように感じました」
「玲夜君に?」
穂香は小さく「はい」と答える。
「容姿からしてあやかしだとすぐに分かりました。絶対かと聞かれたら困りますが、常日頃からあやかしを見ている私はそうだろうと……」
穂香があやかしだと感じたのなら間違いないのだろう。
柚子も、たくさんのあやかしと関わることで、なんとなくあやかしか人間か見分けがつくようになった。
感覚的なものなので、どこがどう違うのかと聞かれたら答えられないが、まず間違わない。
「その方は私に旦那様と仲はいいのかとお聞きになり、私は首を横に振りました。すると、私に透明な玉を見せ、それを小刀に変化させてみせたのです。いかようにも姿を変えるそれを私に渡し、これであやかしを刺せばあやかしの本能がなくなる。あやかしから解放されると告げ、去っていかれました」
「君はそれを素直に信じたの?」
「いえ、半信半疑でした。だから旦那様とのパーティーで見かけた、花嫁を手に入れようと必死になっているあやかしに目をつけて、彼に使用して様子を見ることにしたのです」
「鎌崎か」
穂香はこくりと頷く。
「その後のパーティーで、旦那様と玲夜様がその方が花嫁を間違えたという話をしているのを聞いて、本能をなくすという男性の言葉は本当なのだと分かり、旦那様に使うことにしたのです。その後のことはご存知かと思います」
話し終えた穂香は傷心したように肩を落としていた。
先程までの勢いはない。
「どうしますか?」
玲夜が千夜に問いかける。
「さて、どうしようかなぁ」
ニコニコとした笑みを絶やさぬ千夜の感情を察することはできない。
怒っているのか、あきれているのか、はたまた憐れに思っているのか。
「神器を渡した男ってのが気になるなぁ」
玲夜に似ていたという男。
そして、烏羽家にあるはずの神器を持っていたところからして疑問だ。
「他にその男の特徴とか思い出さない?」
穂香はわずかな沈黙の後、首を横に振った。
「いいえ。ただ、玲夜様に似ていたということしか。その方よりも本能をなくす玉の方に注意が向いていたので」
「ま、そんな便利道具が目の前にあったら仕方ないよねぇ」
ヘラヘラと笑う千夜はこの事態をどう思っているのやら。
表には見せずとも、彼の裏はどうか分からない。
「今その男のことを考えてもしょうがないから、君の処遇を決めようか」
穂香は抵抗も反論もせず、観念したように顔を俯かせた。
「玲夜君、希望はある?」
「父さんに任せます」
「柚子ちゃんは?」
自分にも聞いてくれると思わなかった柚子は一瞬言葉を詰まらせつつ、答える。
「今回の被害者は玲夜なので、玲夜に従います」
「オッケー」
どこまでも軽いテンションの千夜から、穂香への処遇が告げられる。
穂香は大きく目を見開いた。
翌日、玲夜の体調が急変することもなく、無事に退院できた。
安堵する柚子の肩を玲夜は引き寄せる。
見上げれば、本能をなくしたとは思えないほど甘さを含んだ眼差しを向けてくる玲夜と目が合う。
最悪の覚悟もしたのに、玲夜はこうして自分の隣にいる。
花嫁だからじゃない。
自分という存在を心から愛してくれているのだと分かって、柚子は嬉しかった。
けれど、それと同時に恐れもあった。
「もう玲夜は私を花嫁って分からなくなったから、私はもっと頑張らなきゃだね」
眉を下げてどこか悲しげな表情を作る柚子は、不安でいっぱいだ。
自己肯定感が最悪だった昔よりは自信を持てるようになれたが、玲夜をつなぎ止めておけるほどの魅力が自分にあるとは到底思えない。
これまでは花嫁だから玲夜が離れていくことはないという安堵感があった。
けれど、神器によって取り除かれてしまった以上、柚子自身で勝負しなければならない。
果たして自分にそれができるのか。甚だ疑問だ。
「頑張る必要はない。俺には柚子が柚子であることが重要なんだ。ありのままの柚子がそばにいてくれさえすればそれでいい」
これほどに愛情深い人がいること。
そんな人に選んでもらえたこと。
そして、そばにいてくれることの奇跡。
柚子はそれらたくさんの幸運を噛みしめながら玲夜に抱きついた。
「最初は玲夜に別れを告げられる前に私から切り出そうって思ってた。けど、そんな簡単に手放したくない。だから玲夜いらないって言われるまで絶対そばにいる。それで、たとえいらないって言われても、みっともなく泣き叫んですがりつく」
これは決意表明だ。
なにがあっても貫いてみせる。
手の中にある大切なものを簡単に手放そうとしてしまっていた自分への決意。
もう簡単に捨てたりなんかしない。
強い眼差しで玲夜を見つめると、玲夜は柔らかく微笑んだ。
「柚子が俺に泣きすがる様は見てみたい気もするが、俺が柚子を必要しなくなることなんかない。たとえ本能がなくても、お前だけが俺の花嫁だ」
「うん」
玲夜の言葉を素直に受け入れられるようになったのはいつだったろうか。
最初はどんなに言葉を尽くされても不安で仕方なかったけれど、今は心の底から信じることができる。
玲夜はここにいる。
ずっとそばにいてくれる。
退院した玲夜と柚子を乗せた車は、屋敷に帰るのではなく鬼龍院本家へと向かった。
本家には玲夜を襲った穂香が保護されている。
今はあくまで保護。
けれど、鬼龍院次期当主である玲夜に危害を加えたとあっては、千夜も無視できない。
玲夜自身は傷ひとつなかったとしてもだ。
いや、穂香のせいであやかしの本能が消えてしまったのだから、害は与えられたと判断されるかもしれない。
玲夜は相変わらず柚子を溺愛しているが、それは結果論でしかなく、他のあやかしのように興味をなくして大事な花嫁を捨てることになったかもしれない。
それでいうと、穂香の罪は一族にとっては大きな不利益を与える大罪である。
「天道の一派にとっては残念な結果になったのだろうな」
なんとも極悪に笑う玲夜を、柚子も否定しない。
いまだ柚子を花嫁と認めていない、高道の祖父でもある天道を始めとした先代当主の側近たち。
彼らは玲夜が柚子に興味をなくすことこそを望んでいたはず。
むしろ天道たちにとっては穂香は渡りに船だった。
けれど、玲夜の予想以上の重たい愛情は本能を超えてしまった。
まあ、予想外なのは柚子も同じである。
というか、一番驚いているのが柚子かもしれない。
「そもそも神器の話は高道さんのお祖父さんにしているの?」
当初、神器の捜索は一部の者しか知らない話だった。
「今回は俺が倒れたからな。主要な側近には伝えられている。だが、神器という代物に対しては懐疑的なようだ」
神から与えられた神器など、普通は信用しないかと、柚子も納得する。
「天道が率先して、その神器は鬼龍院で管理すべきだと騒いでいたが、すでにあるべき場所に返したと父さんが黙らせた。神に返したと言っても信じないだろうからな」
社を与えられ神を信じ崇拝していた撫子と違い、鬼龍院はあまり神との距離が近いようには思えなかった。
初代花嫁のことも、一龍斎との因縁も、これまで当主にしか伝えられてこなかったようなので仕方ないのかもしれない。
今さら神がいると訴えても笑い飛ばされるだろう。
実際に見せたら黙るだろうか。
柚子はどうにか神を連れてこられないか考えてみたが、素直に現れてくれると思えなかった。
よくよく考えれば、神がそんな神器を作ってしまったから悪いのではないかと思うも、いやいや神は大事な自分の神子であるサクのために作ったのだ。
悪用する者が悪いのである。
「穂香様はどうなるの?」
「どうするか最終決定は当主である父さんの役目だ。だが、俺の意思が大きく反映されるだろう。あの女に対しても天道を始めとした先代の側近が口を挟んできたが、今の当主は父さんだとお祖母様が怒鳴りつけたおかげで静かになったらしい。本当にうるさいじじいどもだ」
玲夜は舌打ちせんばかりに眉をひそめた。
先代当主の側近は玖蘭が歯止めとなっているらしい。
嫌われていなかったとほっとする柚子が今思い浮かべるのは穂香のことだ。
最後に見た穂香は正気とは思えないほど目がギラギラとしていた。
幾多いるあやかしの中でなぜ玲夜を狙ったのだろうか。
そして風臣にも神器を使ったのは穂香なのか。
分からないことが山ほどある。
「穂香様はどうして玲夜を狙ったのかな? 穂香様のあの様子じゃあ、私をあやかしから助けるためってわけでもなさそうだし」
むしろ柚子を憎々しげに見ていた。
「母さんが事情を聞いているがだんまりらしい」
「穂香様と話をする時間はある?」
知りたかった。なぜなのか、その理由を。素直に話してくれるか分からないけれど。
「柚子が望めば時間を作るのは可能だろう。ただし、ひとりでは会わせられないぞ」
「うん。それは分かってる」
柚子に危害を与えないとも言い切れないのだから、そこは承知の上だ。
鬼龍院本家に到着する。
本家と言っても、本家は広大な土地があり、そこにいくつもの家族がそれぞれの家で生活している。
まるでひとつの村のような敷地の中に、特に大きな屋敷がある。
そこが当主である千夜とその伴侶である沙良の住む屋敷だ。
玲夜の屋敷ですら開いた口がふさがらない柚子は、本家の屋敷を見た時本当に驚いた。
ゆくゆく玲夜が当主を引き継げば、柚子もここに住むというのだからなおさらである。
今ある玲夜の屋敷はのちに子供ができたら譲るそうだ。
本家の屋敷の前で車を横付けすると、ふたりは車から降りる。
屋敷の中へ入ると、屋敷の使用人たちが安堵したように微笑みながら出迎えてくれる。
「ご当主様がお待ちです」
言われるままに案内された広い座敷に入れば、ドタドタと騒がしく足音を立てて、千夜が玲夜に飛びついた。
「玲夜く~ん。心配したんだよぉ」
厳かで風格のある屋敷とは相反して、軽い調子の千夜に気が抜ける。
「柚子ちゃんの前でへたこいて、人間のか弱い女の子にあっさり刺されちゃうなんて、それを聞いた時は耳を疑って反論しちゃったよ~。僕の玲夜君がそんな弱っちいわけない!ってぇ。そしたら本当だって言うもんだから、びっくり仰天だよ~」
千夜は玲夜の心配をしているのか、怒らせようとしているのかどちらだろう。
前者だった場合、とんでもなく地雷を踏みつけている。
それはもうグリグリと。
玲夜のこめかみに青筋が浮かんでいるのに気付いているのかいないのか。
「あの、お義父様、そのくらいで……」
でなければ玲夜の我慢が限界を突破する。
千夜に声をかけると、矛先は柚子へ。
「柚子ちゃんも大変だったねぇ。玲夜君がへぼいせいでたくさん心配したでしょう~」
「へぼい……」
柚子はなんとも複雑な顔をした。
確かにただの人間にやられるなんて普段の玲夜からは考えられないが、今回は神器が使われたというのを考慮してあげてほしい。
「これで玲夜君が柚子ちゃんと離婚なんて言い出してたら破門しているところだよ~。よかったねぇ、柚子ちゃん」
よかったのは、柚子なのか玲夜なのか判断に困る言葉だ。
「父さん。本題に入りましょう」
地を這うような低い声を出す玲夜は明らかに怒っている。
普通のあやかしなら卒倒するような覇気の前でも、千夜はひょうひょうとしている。
「そうだねぇ。あんまり長引かせたい話ではないし、さっさと終わらせちゃおうか」
座敷の上座に千夜が座ると、斜め横に玲夜が座り、その横に柚子が座る。
しばらくすると、穂香が左右から男性に腕を掴まれたまま入ってきた。
一緒に沙良が入ってきて、玲夜とは反対側の千夜の斜め隣に座る。
沙良は沈んだ顔でため息をついたが、柚子の視線に気付くとニコリと笑う。
「さて、それじゃあ、君の処遇をこれから決めようと思うんだけど、言いたいことはあるかな?」
話し合う内容と相反して明るい声の調子で問いかける千夜に、穂香は暗く生気のないうつろな目を向ける。
その目が千夜から玲夜へ、そして柚子へと向かうとニィと口角が上がった。
「ふふふふっ」
「なにがおかしいんだい?」
突然笑い出した穂香に、千夜は一瞬眉をひそめる。
「だっておかしいではありませんか。あれほど仲のよさを言いふらし自慢しておきながら、今や捨てられる寸前。いえ、もう捨てられた後かしら?」
柚子のことを言っているのは明白だった。
柚子が口を開こうとする前に、玲夜が柚子の肩を引き寄せ、穂香に見せびらかすように柚子の頬にキスをした。
突然のことにびっくりする柚子だが、なぜか穂香も驚いている。
「誰が誰を捨てると言った?」
玲夜の鋭い視線が穂香を射貫く。
「そんな、どうして……? 確かに刺したのに……」
「残念だったな。この通り俺と柚子は変わらず相思相愛だ」
「どうしてぇ!」
暴れ始めた穂香を、腕を掴んでいた男性が慌てて抑える。
あやかしにはかなわずすぐに大人しくなった。
「お前が使った道具はあくまであやかしの本能を消すだけだ。すでに抱いている感情をなくすわけではない。俺が今も柚子を腕に抱いているのは、花嫁だからではなく柚子自身を愛しているからだ。まあ、お前の旦那は違ったようだがな」
「そんな……」
一気に力をなくしてだらりとする穂香は呆然としている。
そんな柚子は問う。
「穂香様。どうして玲夜を狙ったんですか? たくさんいるあやかしの中でどうして」
穂香はすぐには反応しなかったが、しばらくして口を開く。柚子をギッとにらみつけて。
「あの道具を使ったら彼はあっさり離婚に応じたわ。あれだけ私に執着していたのに。愛していると言ったのに。花嫁じゃなかったらなんの価値もないというようによ!」
次第に大きくなっていく声は、痛みを伴うような悲鳴であった。
「……その程度でしかない花嫁なのに、嬉しそうにしているあなたが憎らしかった。所詮は花嫁だから大事にされているだけで、あなた自身が愛されているわけじゃない! それを思い知らせてやりたかった。それなのに。それなのに……」
くしゃりと顔を歪ませる穂香の声が小さくなっていく。
「本能をなくしても、なぜあなたは愛されているの? 私の隣には誰もいないのに、どうして……」
「穂香様……」
痛々しいその姿が見ていられない。
あやかしの花嫁となった彼女。
どのような経緯で伴侶となったかは知らないが、少なくとも柚子と会った時点では穂香は花嫁であることを拒否しているようだった。
そんな彼女は神器によって自由を手に入れたけれど、急に変わってしまった旦那に失望したのだろうか。
その悲しみを他人にぶつけたくなったのか。
柚子には想像することしかできない。
この中で一番穂香と面識がある沙良は、静かに目を伏せていた。
沙良の力を持ってしても、穂香を救うことはできない。
言葉を発せずにいる中で、今回の被害者である玲夜が口を開く。
「みずから花嫁であることを放棄しておきながらほざくな。だったらそのまま花嫁であったらいいだろう。自分の意思で逃げておきながら、やっぱり花嫁に未練があるような言いよう。そんな面倒は自分で見ろ」
「玲夜……」
さすがに言いすぎではないだろうかと穂香をうかがうと、驚いたように目を丸くしていた。
「お前は旦那から逃げることしか考えなかったんじゃないか? 話し合ったのか? 喧嘩したのか? 自分の意思を貫こうとしたのか!」
「……そんなの花嫁であると言われてできるはずがないわ」
「そうやって逃げ続けたから、旦那はお前自身を愛さなかったとは思わないのか? お前がもっと気持ちをぶつけていたら、また違った関係が築けていたんじゃないか?」
「あ……」
「少なくとも、柚子は花嫁だからと言われても俺に反論する。当然喧嘩もするが、それによって絆も深まることだってある」
穂香は呆然としたように柚子を見た。
「お前はやり方を間違えたんだ」
「あ……あ……」
穂香の目からホロホロと涙がこぼれ落ちる。
畳に顔を伏せ静かに泣く穂香に千夜が問うた。
「君が持っていた神器はどこで手に入れたんだい?」
これまで沙良が質問しても口を開かなかったらしい穂香だったが、話してくれるだろうか。
話してくれることを願いながら少し待つと、ポツリポツリと話し始めた。
「あれは少し前、久しぶりに旦那様と出かけた帰りに会った方にいただいたのです。乗っていた車が軽い事故に遭って、私はその騒ぎに乗じて旦那様と離れて公園におりました。そこへ慌てた様子の男性がいらして、私にそれを」
「どうして君に渡したんだい? 知ってる人?」
「いいえ。存じあげない方でした。しかし、どこか玲夜様に似ているように感じました」
「玲夜君に?」
穂香は小さく「はい」と答える。
「容姿からしてあやかしだとすぐに分かりました。絶対かと聞かれたら困りますが、常日頃からあやかしを見ている私はそうだろうと……」
穂香があやかしだと感じたのなら間違いないのだろう。
柚子も、たくさんのあやかしと関わることで、なんとなくあやかしか人間か見分けがつくようになった。
感覚的なものなので、どこがどう違うのかと聞かれたら答えられないが、まず間違わない。
「その方は私に旦那様と仲はいいのかとお聞きになり、私は首を横に振りました。すると、私に透明な玉を見せ、それを小刀に変化させてみせたのです。いかようにも姿を変えるそれを私に渡し、これであやかしを刺せばあやかしの本能がなくなる。あやかしから解放されると告げ、去っていかれました」
「君はそれを素直に信じたの?」
「いえ、半信半疑でした。だから旦那様とのパーティーで見かけた、花嫁を手に入れようと必死になっているあやかしに目をつけて、彼に使用して様子を見ることにしたのです」
「鎌崎か」
穂香はこくりと頷く。
「その後のパーティーで、旦那様と玲夜様がその方が花嫁を間違えたという話をしているのを聞いて、本能をなくすという男性の言葉は本当なのだと分かり、旦那様に使うことにしたのです。その後のことはご存知かと思います」
話し終えた穂香は傷心したように肩を落としていた。
先程までの勢いはない。
「どうしますか?」
玲夜が千夜に問いかける。
「さて、どうしようかなぁ」
ニコニコとした笑みを絶やさぬ千夜の感情を察することはできない。
怒っているのか、あきれているのか、はたまた憐れに思っているのか。
「神器を渡した男ってのが気になるなぁ」
玲夜に似ていたという男。
そして、烏羽家にあるはずの神器を持っていたところからして疑問だ。
「他にその男の特徴とか思い出さない?」
穂香はわずかな沈黙の後、首を横に振った。
「いいえ。ただ、玲夜様に似ていたということしか。その方よりも本能をなくす玉の方に注意が向いていたので」
「ま、そんな便利道具が目の前にあったら仕方ないよねぇ」
ヘラヘラと笑う千夜はこの事態をどう思っているのやら。
表には見せずとも、彼の裏はどうか分からない。
「今その男のことを考えてもしょうがないから、君の処遇を決めようか」
穂香は抵抗も反論もせず、観念したように顔を俯かせた。
「玲夜君、希望はある?」
「父さんに任せます」
「柚子ちゃんは?」
自分にも聞いてくれると思わなかった柚子は一瞬言葉を詰まらせつつ、答える。
「今回の被害者は玲夜なので、玲夜に従います」
「オッケー」
どこまでも軽いテンションの千夜から、穂香への処遇が告げられる。
穂香は大きく目を見開いた。