幼い頃は大人になったら好きな人と結婚するのだと当たり前のように思っていた。それが当然のことであると信じて疑うことをしなかった。
お父様とお母様は下級貴族の夜会がキッカケで出会い恋をした。俗にいう恋愛結婚というやつだった。それは私のお父様とお母様に限ってのことではない。他の親戚もみんなそうなのだ。
出会う場所こそ違うものの、お互い愛し合い、そして生涯を共にすることを願って結婚した。
だったら私もって思うのがごく自然のことであろう。
例え私の家が代々国から『貴族』という役職を賜っていようが関係のないことだと思っていた。
私が生まれ育った、サンドレア領はお世辞にも少しとは言えないほどに王都から遠く離れた場所に位置している。王都へ行くためにはどんなに条件が良い日であっても馬車を走らせて三日以上はかかるし、雨なんか降った日には馬が泥に足を取られて進めないから倍はかかる。そんな少々不便な土地なのだ。
けれどいいところだってもちろんある。
サンドレア領は緑が豊かで夏にはたくさんの作物が実るのが自慢なのだ。
周りには六つの山があり、秋にはたくさんの木の実や山菜が収穫できる、というのも他の領地に誇れるものである。
広さは実に王都の面積の六倍以上はあるものの、人口密度は低く、ご近所づきあいは盛んに行われ、貴族や平民なんて地位の境はほとんどなく心の温かい住民たちに囲まれて育った。
お父様やお母様が頬を赤らめて話す『恋』なんてまだ一度もしたことはなかったけれど、それでも私は幸せに暮らしていた。
そんなある年にサンドレア領では、日照りが続いた。
人の皮膚すら焼いてしまうほどの日差しは身体中の皮膚を覆い隠さなければ皮膚がはがれてしまうほど。山の間を流れる川は例年と比べてグンと水位は低くなり、畑には何度水をかけようがすぐに蒸発してしまった。
結果として秋になっても多くの作物は実をつけることはないままだった。実になれたものですら形は小さく、とてもではないが売りには出せなかった。
主な収入源が野菜、それも夏に育つ野菜だった領地のこの年の収入は半分以下。それでも住民同士支えあって何とかその年を越すことができた。
けれどその翌年は前年とは真逆のことが起きた。
大雨が続いたせいで植物が根腐れを起こしまったのだ。それに近くの川の一つが氾濫してしまい、その川の近くに住んでいた住民の畑の野菜は全て流され、家の一部も壊れてしまった。
その翌年はハリケーンが来て、被害を受けなかった家などないほどに大きな被害を受けた。もちろん私の家、サンドレア家の屋敷も例外ではなかった。家の半分は飛ばされて無くなり、父の書斎にあった本は全て水びだしになった。
日照りに大雨――私たちの領地は大きな被害を受け、ついには他の領地から借金をするまでになってしまった。そしてハリケーンでの被害によってその額は瞬く間に下級貴族、サンドレア家では返せないほどに膨大な額になった。
そこでそれを肩代わりしてくれていた、カリバーン家はお父様に言った。
借金の形に娘をよこせ――と。
お父様は娘を売るようなことはできないと強く拒否したが、もともと収入は多くない領地。そんな大金を返す当てなどどこにもなかった。それを私一人を差し出せばなかったことにしてくれるのであれば安いものだろう。
私は家族と使用人達の反対を押し切り、カリバーン家に引き取られることになった。
ひどい扱いを受けることなんて覚悟していた。正直、馬車に乗っている時は生肉にされるために出荷されていく牡牛のような気分だった。それでも家族や領地の住民が苦しまなくて済むのであれば、私にとっては苦にはならない――そう、覚悟していたはずなのに。
なのに、なぜ私は今こんなところにいるのだろうか?
私の頭上では絵の中の天使様が微笑みを浮かべていて、壁には宝石のようなものが埋め込まれている。それらは様々な角度から照らされる光に反射して輝きを増していた。
私が王都に来たのはたったの二回だけ。
近所のおじさんに頼み込んで、大きな競りに連れてもらった時が一回。
そしてもう一回はお父様すら行くのを嫌がった、半ば強制参加の社交界である。
二度目の王都訪問となった社交場に足を運んだのは私が16になったばかりの頃で、初めて一家揃って夜会に出席した日でもあった。図らずとも私のデビュタントは王都で行われた上級貴族の主催する夜会となったのであった。
けれど私はもちろん、一家全員が上級貴族に囲まれた夜会などにそう何度も出席しているわけもなく、皆一様に表情筋が凝り固まっていた。そして帰宅後は疲労で全員が一日中机に突っ伏していた。そんなだったせいでその夜会の詳細な記憶はない。ただ無礼を働かないようにとだけ頭に強く残っていた。ただそれだけだ。
おそらくは一家のほぼ全員が壁側に寄って過ごしていたことだろう。
あまりの緊張のせいで着ていたドレスってこんなだったっけ?と数日後に自室にかけてあったドレスを見て首をかしげるほどだった。
いくら下級貴族とはいえ二十年近く生きていればその後も数回ほど王都への招集もとい王都での社交界にお呼ばれすることもあったが、それを何かにつけて断り続けた。
やれ体調が優れないだの、飼っていたネコが死んでしまっただの……。
よくそんなチャチな言い訳が毎度通るなと感心してしまうほどだが意外とどうにでもなるものだ。
例外があるとすればたった一度だけ。それは愛猫グスタフが寿命を全うしこの世を去った時のことだ。それを言い訳に夜会を欠席させてもらった、猫公爵と名高い公爵家のご婦人からからわざわざお悔やみの花束が送られてきたくらいなものだった。
グスタスは私が生まれるよりもずっと前からサンドリア家におり、彼が突然屋敷にやってきてからゆうに25年以上の年月が経っているらしい。つまり最低でも25歳まで生きたご長寿な猫さんである。だから彼の死でサンドリア家の誰もが悲しみにくれるなんてことはなかった。
そんなグスタフが死に場所に選んだのは住み慣れたサンドリア屋敷ではなく、彼の好きだった川魚の捕れる川の近くだった。
私が産まれるよりも先にこの屋敷にやってきたグスタフは初めからそれはそれは丸々と肥えていたらしい。そんな彼の身体は最期にふさわしいほどにパンパンに膨れ上がっていた。グスタフの目の前には食べきれなかった魚がぐったりと横たわっていたが、グスタフの顔はとても満足そうだった。
大方死を悟ったグスタフが死ぬならいっそ満腹になって死にたいと願い、実行に移した結果だろう
そんな一生をここぞとばかりに楽しんだグスタフに弔いなんて野暮なことはしない。むしろ家族総出で長寿の祝いをした。そして庭先に猫にしては立派にしたお墓を作って、グスタフの好きだった川魚をお供えしておいたくらいだった。どこか猫離れしていた猫だったから空の上で喜んでいるだろうな……と思いつつ送られて来た弔いの花は魚と並べて供えておいた。
――とそんな一例はともかく、王都の近くに家を持つ貴族の地位は高く、そんな社交界に頻繁に呼ばれるわけでもないので、一部例外があれどそのほとんどが嘘丸出しな理由でも断ることは出来た。
仲のいい友人にはこんな嘘、バレていただろうけど、彼女たちは何も言わないでそっとして置いてくれた。
これで他のお茶会や夜会にも断りを入れていれば怪しまれることはあるが、王都以外、下級貴族同士の社交界などは一度も欠席することはなかった。
むしろ積極的に参加した。
集まるのは皆、顔見知りばかりで友人も多い。なかには私のように農作業を手伝っている子もいて、頻繁に手紙でやり取りをすることもあったほどだ。
そんな、王都をここぞとばかりに避けていた私は今、王都にいる。
人生で三度目となる王都訪問は大規模な競りでもなく、ましてや野獣のような視線飛び交う夜会でもなく、王都で有数の服飾店として知られる、王家御用達の店だった。
そんな明らかに私とは不釣り合いの店に手をひかれた私は無意識に店とは反対側に引っ張ったほどだった。
私は断じてこんなキラキラとした店に来るような人間じゃない。
同じキラキラなら出来のいい作物を太陽に照らした時もしくは川でキンキンに冷やした時に見られる、雫が滴り落ちてくるキラキラがいい。
あの食欲をそそるような、今にもかぶりつきたくなるようなキラキラ――それが私に似合うもので、こんな光だとか宝石だとかそんなもので作られたキラキラは私じゃなくて、もっと社交界にいるような、飢えた野獣さながらの目つきをしたご令嬢のほうが似合う。
指にはめては光にかざして眺めてみたり、首元に飾ってみたり、はたまた頭に乗せてみたり――と彼女たちならこれらを上手く生かす方法を知っているのだろう。
目の前の女性が持つレースなんかはつけられるよりも作り手のほうが向いていると、女性の手元をじいっと見つめてしまう。
きっと編めないことはない。
難しそうではあるけれど、手先は不器用な方ではないので練習次第でなんとでもなるだろう。
「モリア様、もう少しで終わりますので」
「はあ……」
レースを眺めることによって意識を逸らしているうちにドレスを作るための採寸は仕上げ段階へと入っていく。
どうやら私はカリバーン家へと引き取られていくらしい。
元々今回の取引はサンドレア家とカリバーン家の間で行われていることは知っていた。その上でここに運ばれてくる馬車の中で同席した、おそらくカリバーン家の執事であろう、銀のフレームのよく似合う妙年の男性が追加情報ともいえる『引き取られる先』もとい『滞在先』を教えてくれた。
途中途中ハンカチを目に当てたり、涙声になっていたりで詳しくは聞こえなかったものの、家名だけはハッキリと聞こえた。
それでも……今から向かう家がカリバーン家だなんて信じられない。
カリバーン家といえば、公爵の位を国王様から賜っている上級貴族である。当主様は国王様の右腕として宰相の職に就いており、ご長男のラウス様はいずれその役職を継ぐべく今はサポートをしている。いわゆるエリート中のエリートだ。
そこに仕える使用人達も皆、教養深く、武芸に長けているのだと耳に挟んだ事がある。
そんな家がなぜわざわざ借金の形に下級貴族の娘なんかを要求するのだろうか。もしかしてカリバーン家を通してどこかに売られるなり何なりするのだろう、と予測をつけていたのだがどうやらそうではないらしい。私の滞在先はどうやらカリバーン家で間違いはないらしいのだ。
これがせめて四十過ぎのぶくぶくに太ったどこぞのおじさんで、借金のカタでもなければ妻を娶れないような男であれば理由は簡単に想像できるというのに……カリバーンである。会ったことがないため真偽の程は分からないが、何でも美男美女揃いらしいと専らの噂である。だからこそ自分は何のために連れてこられたのか全く見当もつかないのだ。
そもそもこの採寸だって、半ば強制的に採寸室に入れられ、そのあと数人の女性に囲まれたから仕方なく受け入れているだけで、何のためにされているのかもわからない。
自慢ではないが、私の日課は領民と一緒に農作業することだった。日が昇りきる前に起きて、朝食をとり、そしてその日の作業に取り掛かる。広大な土地を誇るサンドレア領の畑だが分担すればさほど時間はかからない。農作業が終わるのは大抵、昼を少し回った後になる。昼食をとった後は工芸品作りに取り掛かる。農作物ほどではないがこれも立派な収入源になるからだ。
雨の降った日にはおばさまたちの家に行ってはお茶をごちそうしてもらったり、おじさまたちには細かい模様の入った籠などの、まだ一人では完成させられない、難易度の高い工芸品の作り方を教えてもらったりしていた。
それは貴族のすることではないと昔、貴族の友人に言われたことがある。それでも日課なのだからやめられずに今まで続けてきた。けれどそれらが貴族として普通ではないことくらい重々承知している。それでも私はそういう人間で、家族や領民の皆さんはそんな私を止めようとはしなかったからだ。
だからもし畑を耕す役目とか工芸品を作る役目とかだったら役に立てそうな気がしなくもない。だがもしそうならこんな煌びやかな店でわざわざ採寸して作った服じゃなくて、量産型の動きやすさ重視の服がいい。
任されるかもわからない作業に頭をこねくり回していると一人の女性から「終わりました」と声をかけられる。
「ありがとうございます」
何のために採寸していたのかは不明であるが、一応お礼の言葉を返すと複数人いた女性達は三歩ほど後ろへと下がった。
こうして私は二時間にも及ぶ採寸を終え、やっと解放された。
「終わりましたか?」
「あの、お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください。あなたを待っている時間は有意義なものでしたので」
私が採寸をしてもらっている間、ずっとカーテンの向こう側で待っていてくれたらしい、カリバーン家のご長男、ラウス様が顔を出した。
城勤めで忙しいであろうに時間を割いてしまって申し訳ない。
こんなに優しい彼が今後の雇い主になると思うと初めから好調な滑り出しだといえよう。
カリバーン家の中でもラウス様に引き取られるとわかっていれば、『結婚』なんて恥ずかしいこと一瞬であれ考えなかった。ラウス様といえば今、社交界の最良物件として令嬢の中で噂の的となっている。それも田舎暮らしの下級貴族達の間でも噂になるほどに、だ。上級貴族なんてこれから関わることもないだろうと軽く聞き流していたが実際会ってみると、整った顔に紳士的な態度、その上爵位まで立派となればご令嬢が夢中にならない訳がないと納得してしまった。
そんなラウス様に並び、美男と噂されているが、その一方で社交界の問題児として名を馳せるダイナス様という方がいる。彼は確か公爵家の次男であるのだが、ラウス様とは正反対で、何でも社交界にデビューする女性に端から声をかけて、気に入った子がいれば連れて帰ってしまうらしい。
噂では社交界に出たことのある女性は爵位関係なく皆、声をかけられると聞いたのだが、私は一回も声をかけていただいたことがない。きっと彼の目にはお父様とお母様の秀でた箇所を根こそぎ持って行ったお姉様ならともかく、残りカスだけを取ってこの世に生まれ落ちた地味な私なんて入る隙もないのだろう。
そんな私がよりにもよってラウス様と結婚なんておこがましいにもほどがある。
だがもし、いや万が一にもありえないが、ラウス様ならきっと結婚したら好意なんてものはなくとも、一応娶ったのだからという義務感から優しく接してくださるのだろう。それはそれで想像してしまうことすら申し訳ない気がする。フルフルと頭を振ってそんな考えは外へと放り出してしまうことにした。
「ああ、結婚くらいはしたかったな……」
借金の片にと自分からここに来ることを選択したというのに最後の足掻きのような言葉が出る。口に出したところでどうにもならないのだけど、私だって一応婚期ど真ん中の女の子で、幸せな家庭というものに少しながら憧れは抱いているのだ。
そう広くはない馬車で隣に座る、顔形の整ったラウス様を眺める。
ただ前を見据えるその姿はやはり美しい。
こんな近距離で見ることなどもうこれを逃したらないだろうからと存分に網膜に焼き付けることにした。
「……どうかしましたか?」
「あ、ラウス様。お初にお目にかかります。私、モリア=サンドリアと申します」
あんまりにも見つめていたせいで不快に感じたのか、綺麗に整った顔を崩して私の方に顔を向ける。すると今度は私の方が居心地が悪くなり、視線を逸らしてまくし立てるように自己紹介をした。
「あ、ああ、モリア。私はラウス。ラウス=カリバーンだ。これからどうぞよろしく」
「ラウス様のお役に立てますよう頑張りますのでどうぞよろしくお願いいたします」
「頑張るって……そんな……」
今後の意気込みを話すとラウス様の顔はほのかに赤らんだ。まるで求婚された少女のようだ。同じ貴族という枠組み内にいるとは言え、やはり身分の高い人の行動はよくわからない。
「それで、私はカリバーン家で何をすればいいのでしょう? 一通り家事などはこなせますが……」
「家事? それは使用人の仕事だから君がすることはない」
「では私は何を……」
「君はただ俺の隣にいてくれればそれで……」
次第に小さくなる声に比例してどんどんラウス様の顔は熱を帯びて夕日のように赤く染まる。
「あの……大丈夫、ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ、心配はいらない」
「そうですか?」
「ああ!」
力強く発したラウス様の声で会話は途切れ、再び馬車には静寂が訪れる。
私の役目は警護、ということでいいのだろうか。
農作業や工芸品づくりと平民に交じって行ってきたが、さすがに腕っぷしには自信がないのだが……。今はそれを伝えられるような雰囲気でもない。
手持ち無沙汰で外を眺めようにも窓にはカーテンがかかっていて何も見えない。町の乗り合い馬車とは勝手が違って窮屈に感じる。だが極たまに町で見かける家紋入りの馬車のほとんどがやはり目隠しがかかっていた。身分が高い人の乗る馬車だとこんなものなのかもしれない。もう二度と乗ることのないのだからこの窮屈ささえも楽しんでおくべきかと気をそらす他ない。
それからしばらく走り続けていた馬車は少しずつ速度を落としていき、そしてピタリと止まった。
ラウス様側の扉は使用人によって開かれ、そしてゆっくりと地上へ降りていく。彼に続いて外へ出ようとするとラウス様の手が差し出される。
いつもは使用人かお父様が差し伸べてくれるから、他の男性に、それもこれから私の雇い主となるであろうラウス様の手を取るのは気がひける。
「手を……」
けれどたくさんの使用人が見ている前で恥をかかせるわけにもいかず、夜会で見かけたラウス様狙いのご令嬢たちに心の中でこっそりと詫びてから手を乗せた。
普段ならヒールが苦手だと知っている使用人やお父様の手に遠慮なく体重をかけてしまっていた。けれど今日はそんな不躾なことできるはずもなく、むしろ手を中途半端に乗せているぶんバランスが取りにくく、グラつく足に全神経を向けた。
「モリア? 大丈夫か?」
わずか三段ほどしかない段差を降り、地面に足がつくと一気に落ち着く。額にはうっすらと汗がにじんでいた。そんな私の顔を心配そうにラウス様は覗き込む。極度の緊張状態にあった私の顔はきっと心配に値するものだったのだろう。
「ええ、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そうか? 無理はしないでくれ」
「ええ、大丈夫です」
「そうか……」
理由は明らかではあるが、そんな情けないことをこれからの雇い主に言えるわけもない。微笑んで心配ないことを表すとラウス様は屋敷の方へと顔を向けた。手は未だに私の手と繋がっている。口では心配ないことを理解してくれたようではあったが、私の言葉を事実として受け取ってはくれていないようだ。
心配性なのか、はたまた私への信頼がないのか……。どちらにせよこれ以上気を使わせるわけにもいかない。
「おかえりなさいませ。ラウス様、モリア様」
「ハーヴェイ、今帰った」
ラウス様は出迎えに来ていた使用人に言葉をかける。ハーヴェイと声をかけられた男は私を店まで連れて行った男だった。彼の手には先ほどのようにハンカチは握られてはいない。だが相変わらず背筋はピシッとまっすぐに空に向かって伸びている。
周りを見回すと彼を先頭に並んでいる。どうやら彼がカリバーン家の使用人の中で一番偉いらしい。
「私、モリア=サンドリアと申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」
緊張しながらも名前を告げ、深々と頭を下げる。
彼らはこれから共に働く仲間だ。私では到底彼らの技量には及ばないがそれでも借金のため、必死で働かなくてはいけないのだ。それにはまず、第一印象が重要だ。
馬車の中で会った彼の、私に対する第一印象が良かったのかは分からないが、他の使用人に悪印象を与えてはいけない。
「モリア様、お顔をあげてください」
ハーヴェイと呼ばれた使用人は顔が見えずともひどく焦っているのが容易にわかった。彼をこれ以上困らせるわけにもいかずゆっくりと顔を上げる。すると彼はホッとしたように胸をなでおろしていた。
きっと一応とはいえ貴族の娘だから気を使っているのだろう。だが私は客人ではないのだから、そんな扱いを受ける権利などはない。
「モリア様などとんでもない。どうかモリアとお呼びください」
そう懇願するとハーヴェイの顔は次第に血が抜けたように白くなっていった。
「モリア。君の部屋に案内するよ」
私とハーヴェイのやり取りをしばらく見ていたラウス様であったが、これ以上私たちのやり取りを見ているのにも飽きたのか、再び私の手を取って屋敷の方へと歩みだした。
目の前にそびえ立つのは、同じ『貴族』という役職を持っていようが、階級の違いを見せつけられるほどに豪華なお屋敷だ。サンドリア家の古ぼけた屋敷とは比べ物にならない。近づいても屋敷の壁に泥が付着していたり、塗装が剥げているなんてこともない。
ラウス様のために開かれた扉を通過していくと、やはり内装も立派であった。進むたびに高価そうな絵であったり、ツボであったりが飾られている。ツボの横を通る度に割ってしまわないかと冷や冷やする。
「モリア、ここが君の部屋だ」
ラウス様の手によって直々に開かれたドアの先にあったのは天蓋付きのベッドや傷一つないクローゼット。元付けの家具は多くはないものの、一つ一つ丹精込めて作られたのだろうと簡単に予想できる品物ばかりだ。
これが使用人の、しかもよりにもよって借金を背負ってやってきた、役に立つかもわからない下級貴族の娘に与えられる部屋なんてやはりお金持ちはスケールが違うのだと感心する。
先ほど採寸し、注文していたドレスもラウス様ほど上級の貴族ともなると使用人にもそれくらいのものを与えているのかもしれない。万年お金のやりくりに気を配るサンドリア家では到底理解できないことではあるが……。
「では早速で悪いのだが、その、食事にしないか?」
「え……」
私がこの屋敷に到着してから一時間も経過していない。部屋の配置はもちろんのこと、キッチンの場所は教えられていないし、制服すら支給されていない。こんな状況で食事の準備なんて……。
「あ、いやモリアがまだ食事という気分ではないならもう少し後でも構わないのだが……」
「いえ、そんなことは……」
いや、だが借金返済のためにこの場所に来た以上、『やらない』『できない』という選択肢はない。今からでも屋敷のどこかにいる使用人を探して、せめて食堂の場所を教えてもらうしかないのだろう。
ドアに手を伸ばして足を踏み出そうとするとドアノブに伸ばしたはずの手はラウス様の手によって包み込まれた。
「では行こうか。みんな待っている」
なぜラウス様は私の手を握るのだろう?
この年になってさすがに迷子になったりはしない。
「あの、ラウス様……」
「どうかしたのか?」
「手、なのですが……その……」
「え、あ、その……すまない……」
私が指摘するとラウス様は弾くように手を引いて顔を真っ赤に染めた。もしかしたらカリバーン家は、上級の貴族は使用人にも紳士的に接するのかもしれない。私の屋敷では使用人はどちらかといえば『家族』の枠組みに近いけれど……。そう思うとわざわざ指摘してしまったことを恥ずかしく思った。俯きながら、ラウス様の足元を追いかけるようにして進んでいく。するとつむじにはラウス様の視線が当たる。それに気づいてハッと顔を上げる。
せっかくラウス様が先導してくださっているのに、私はなぜこんなにも呑気に歩いているんだ!
この屋敷の人に迷惑をかけないよう、しっかりと部屋の配置を覚えなくては!
右手にある、花瓶には見覚えがあるので少なくともこの場所までの道順は問題ない。まだ挽回できるくらいでよかった。ラウス様に失敗を気づかれないように胸をなでおろす。
「モリアは……」
「はい、なんでしょう、ラウス様」
「花瓶に興味があるのか?」
どうやら熱心に目印を確認していた様子がラウス様の目には花瓶に興味のあるように見えていたらしい。
「いえ」
短く否定の言葉を返すとラウス様は私に訝しげな顔を向けた。
もしかしたら何か勘違いをさせてしまったかもしれない。これでは万が一この屋敷内で盗難でもあったら確実に初めに疑われるのは私になってしまう。
「いえ、その、目印に……と思いまして」
慌てて付け足すとその顔は柔らかいものへと変わる。
「ああ、そうか。わからなくなったらいつでも遠慮しないで聞けばいい。この屋敷のものは皆優しいものばかりだから」
「そうさせていただきます……」
これ以上疑われるような真似をして追い出されたり、すぐにでも借金全額返金するように言われでもしたら困る。
何かを狙っていないことを表すためにも、キョロキョロとせずにまっすぐにラウス様の背中だけを見つめることにした。
すると安心したのか、ラウス様はそれからダイニングルームにつくまで一度も振り返ることはなかった。
部屋へと入り、立ち止まる私の手をラウス様が手放すことはなかった。それどころか「席に案内する」と微笑みかけてくれるのだ。
カリバーン家は使用人と一緒にご飯を食べるのか。
サンドリア家は収穫祭や結婚式などの祝いごとがある日は使用人も全員で同じ食卓を囲むものだ。今日はそうではないようだが、新しい使用人ができたことは祝い事に相当すると言われればそうであるともいえる。
思いがけず実家との共通点を見つけたことで親近感のようなものを覚えた。そして案内されるがままに引かれた椅子に腰かける。
すでに用意されていたグラスには半分よりも少し少ないほどのワインが注がれ、この場に座るのも今日限りなのだと実感させられる。
目の前に広がる大量の食事も。
六つある椅子のうちの唯一の空席につかせてもらうのも。
私以外の、ラウス様を含めた五人はいずれも高価そうな服を着ている。実家にあるうちの一番高い服を着てきたつもりではあるが、やはり隣に並べば違和感を醸し出している。
「ようこそカリバーン家へ。私たちはあなたを歓迎するわ」
彼らは明るく迎え入れてくれているが、美味しいはずの料理は緊張で味がしない。昔行った王都の舞踏会のようだ。いつ終わるのか、そればかりが気になってしまって仕方がない。時折、彼らは私を気遣って話を投げてくれたのだが、緊張のせいで何を聞かれたのかも何を答えたのかも覚えていない。
――そして気が付けば真っ白なシーツの上に寝転がっていた。
「さすがにその……初日から無理をさせるわけにはいかないから」
なぜか私の隣で、背を向けながら弁明をするラウス様の声が次第に遠くなっていく。
薄れる記憶の中で『明日こそは制服を貰おう』と決意して眠りにつくのであった。
カーテンの隙間から東雲色の光がほのかに差し込むころ、私の目はパッチリと開いた。
寝る場所が変わろうとも昔からの習慣は中々変わらないらしい。世の中には枕が変わると眠れない……なんて人もいる中で、昨日初めて会ったばかりの人の家でよくもまぁあんなに熟睡できたものだと我ながら呆れる。
とりあえずは布団から出ようと真っ白の掛布団に手をかけ退けると何やら黒い布のようなものが視界に入った。
掛布団もシーツも白なのに……。
ふと視線を隣へ移すとそこには私以外の人物がいた。
ラウス様だ。
瞼を閉じて、寝息をスースーと立てていようが間違えようはない。
一応夢じゃないかと疑って自分の頬を思い切りつねったり、目をギュッと閉じては開いて確認してまた閉じて、を三回ほど繰り返したがやはり変わらずラウス様はそこにいる。
どうやら昨日の薄れゆく記憶の中での出来事は夢でも、寝ぼけていたせいでもなかったらしい。
カリバーン家に来てからというもの、サンドリア家との違いがあり過ぎて軽くカルチャーショックを受けていたのだが、まさか使用人と同じベッドで寝る習慣があるとは思いもしなかった。
護身のためか何かなのだろうか?
そういえば馬車の中でラウス様から隣にいてくれと言われていた。小説の中ではよく身分の高い人が寝室の扉の外で使用人や騎士を待機させておくシーンとかはあるけど、同じベッドで警護させるなんて聞いたことがない。だがあくまで私の読んできた小説は創られた話がほとんどだった。
直接的にお前の役目は護衛であると言われてはいないものの、もし護衛の役を任されていたのだとしたら初日から早々と眠りについた私は使用人失格の烙印を押されてもおかしくはない。詳しい業務内容が説明されなかったから、なんて子どもみたいな言い訳はまかり通らないであろう。
この失態を何とかカバーするためには、それ以上にカリバーン家のために役に立つ他ないのだろう。
早速布団から出ると私は一張羅のドレスではなく、見覚えのないネグリジェを着ていた。寝ていたのだからドレスであってもおかしいが、いつの間に着替えたのかすら記憶にない。
緊張してしまうとその前後の記憶が吹っ飛ぶのは昔からの私の悪い癖だ。昨日の出来事を思い出そうとしても鮮明な記憶はダイニングルームに行ったところで途切れている。その後はぼやけていたり、プツっと途中で切れていたりしている。
何か変なことしてなければいいんだけど……。
部屋を見回し、昨日着ていた服をとりあえず探したがそれらしき物は見当たらない。替えの服もない。むしろクローゼットすらない。だが服は見つからない代わりにあることに気がついた。
ここは私に与えられた部屋ではないということだ。
ラウス様が隣に寝ていたことからこの部屋はラウス様の寝室ということで間違いはないだろう。
それにしても寝室にクローゼットがないだなんて……不便ね。着替えはどうするのだろう?首を捻って考えてもその答えも服も出て来ない。
ネグリジェで他人の家をウロつくなんてみっともないけど代わりの服もないし……仕方がない、とりあえず部屋に帰ろう。
帰る――というのが果たして正しいものなのかはわからないが、一応私の部屋と言ってくれていたから帰る、でもいいのだろう。
なるべく他の誰かの目に触れないよう、コソ泥みたいにヒソヒソと屋敷内を歩いて私の部屋を探す。だがどこも同じ色と形のドアばかりでどれが私に与えられた部屋なのか見当もつかない。間違って他の人の部屋でも開けてしまったら大変なことだし……。
昨日、目印にしようと思って見ていた花瓶や絵画はどこへ行っても同じものにしか見えない。
せめて私に芸術品を見る目があればその違いもわかるのだろうが、農作物の種の見極めこそ出来ても芸術というものにはとんと疎い。
これでは部屋へ辿り着くまでの目印どころかさっきの部屋に帰ろうと思ってもそこに辿り着くことができるかすらも怪しいものがある。
せめて昨日使った階段か何か、特徴的なものが見つかればと辺りをキョロキョロと見回していると「モリア様、どうかなさいましたか?」と一人の使用人に見つかってしまった。
ネグリジェ姿でこんな朝早くから屋敷内をキョロキョロしながらウロついていたら怪しいに決まっている。私自身もよく分かっているだから、他の人から見ればもっとである。だから見つかりたくなかったのに……。だが見つかってしまっては仕方がない。
「あの……部屋に戻りたいのですが、その……道がわからなくて……」
「左様でございますか。ではご案内いたします」
「ありがとうございます!」
はぁ、良かった。と思ったのもつかの間――。
「ところでモリア様。何かご用があったのではありませんか?」
やはり怪しかったらしい。
だがここで『何もありません』と言ったら怪しさは二倍、いや三倍にも跳ね上がることだろう。
「あ、その……」
何か、何か理由になりそうなものは……。
考えている途中も「はい、何なりとお申し付けください」と三日月の形をした笑みを浮かべて答えを急かしてくる。
「ええっと……」
何か、なんでもいいから……何でもいいから考えるんだ、私!
心の中でこんな時に全く役に立たない自身の頭に檄を飛ばしているとたった一つだけ、この状況を切り抜ける理由になりそうなものが浮かび上がってきた。
服だ。服を探していたと言えばいい。
それにこの状況、制服をいただく絶好のチャンスではないか!
昨日のドレスなら後で探せばいい。あれは一張羅で、何より動きづらい。これから仕事をする上で明らかに不便なのだからそう急いで探すこともない。
そうと決まれば後は「制服をいただけますか!」と頭を下げるだけだった。
「制服……ですか?」
訳がわからないと言ったように聞き返す使用人の女性にもう一度「制服です」と言えば、輪をかけてわからなくなったように首をコテンと可愛らしく傾げた。
「制服、制服……ですか。私たちにはこの服がありますけれど、モリア様に制服は……その……」
ここまで言ったら『ない』と言われたようなものだ。肩と同時に気分も頭も垂れ下がる。
仕立て屋でドレスを買おうとすると大体の場合、既製品の中に私の身体にピタリと合うものはない。既製品に少し装飾品を付けてもらったりするだけのお姉様たちとは違い、オーダーメイドのものを注文するか、ツーサイズほど上のサイズのドレスを買って裾や袖を直してもらう手間とお金が余計にかかる私は『モリアの栄養は全部胸にいったのかしらね……』とよくお姉様たちから苦笑いをされるほどだ。そんな私は普段着も大きめのサイズを買わないと入らない。背は小さいのに大きな服を着なければならない私は側から見ればさぞかしアンバランスに映ることだろう。『完璧である』と社交界、それも下級貴族が集まる夜会ですら噂されるカリバーン家の使用人ともあろうものがそんなことを許す訳がないのだろう。
不便に思うこともあれ『ないよりはあった方が断然いい』と断言するお兄様たちの言葉を信じて暮らしてきた。
確かに顔つきが地味な私にとって特徴はないより一つでも多くあった方がいいのだが、今となってはその唯一ともいえる外見的特徴はない方が便利だ。着ることのできる制服がないなんて使用人としてやっていく自信がどんどんなくなっていく。
少しでもなくならないものかと服の上から両手を胸にあてて押しつぶすと、目の前の使用人は慌てたように「制服はありませんが、ラウス様がモリア様のためにお買いになったドレスならございますので!」と元気付けてくれた。
「本当ですか!」
まさか昨日の今日でわざわざ普段着を仕立ててくれているとは思わなかった。さすがは上級貴族様だ。いつだってその行動は私の想像の遙か上を行く。
これで制服は手に入らずとも、家から新たな服が送られてくるまでの間、唯一所有している服で過ごし続けることは回避されたのだ。
それにいざとなったらその用意された服の上からエプロンか何かを着ければ見た目が悪くとも裏方なら何とかやり過ごせるかもしれない。
暗くなりつつあったこれからの生活に一筋の光が差し込んできたようだ。
それから使用人は私を部屋まで送ると「ドレスをお持ちいたしますので少々お待ちください」と去っていった。