12月1日、今日は未希がここへ来て丁度2年目だ。帰りが遅れて9時になっていた。玄関のドアを開けると、いつものように未希が出迎えてくれる。今日はいつもと少し違っている。

「おかえりなさい」

「ごめん、遅くなった。未希は夕ご飯食べたか?」

メールで帰りが遅くなるから先に食べてくれとは伝えていた。

「まだ。待っていた」

「そうか、ありがとう、一緒に食べようか」

テーブルに着くと、未希が夕食を給仕してくれる。今日の献立は白身魚のムニエルだった。

「今日は何の日か覚えている?」

「ああ、未希がここへ来た日だ、丁度2年前」

「あれから、2年もお世話になっています。早いものです」

「高校の1年間も早かったが、調理師学校の1年間も早そうだね、もうあと4か月で卒業だ」

「おじさん、私のことをどう思っているんですか?」

「どう思うって?」

「はっきり聞いておきたいんです。好きかどうかを?」

「好きにきまっているじゃないか。だから一緒に暮らしているし、未希を抱き締めて眠っている」

「じゃあ、調理師学校を卒業して自立したら、お嫁さんにしてくれますか?」

突然のことで驚いて応えられなかった。ここのところ、未希とのことをずっと考えていたが、自分自身、結論が出ていなかった。

「未希はまだ19歳だ。結婚を考えるのはまだ早いのではないか?」

「でも、すぐに20歳になります。はっきりしておかないと、先のことが考えられないんです」

「未希は俺が好きか?」

「好きです」

「俺はここへ未希が来た時に、未希にとてもひどいことをしたと思っている。それでも好きか?」

「おじさんは私との約束を守っただけで、私もおじさんとの約束を守っただけ」

「未希に使ったお金を身体で返せと言った。それでも好きか?」

「おじさんは私にお金を貸してくれて、それを身体で返しただけ」

「じゃあ、好きは余分のことだと思うけど」

「おじさんも私に約束以上のことをしてくれた。学校に復学させて、勉強を教えてくれて、調理師学校への進学もさせてくれた」

「それは、未希にここに長くいてほしいと思ったからだ。そのことと好きとは別のことではないのか?」

「じゃあ、卒業してもここにおいてください」

「しばらく考えさせてほしい。今、俺は未希が抱けない。治るかどうかも分からない。このまま、ここに居させておいて、未希を幸せにしてやる自信がない。未希は抱き締められて眠るだけでいいのか?」

「それでもいいから、ずっとここに居させてください」

「未希の気持ちは分かった。考えてみよう」

未希を幸せにしてやりたい。いつまでも可愛い未希を手元に置いて抱きしめて眠りたい。でも俺はこのままでは未希を幸せにできない。

俺は未希と別れることを考え始めていた。気持ちの整理がつくまでしばらくかかるかもしれない。それまでは未希との残り少ない生活を大事にするだけと思うようになっている。
2月になって未希の就職先が決まった。未希はコックとしての腕を試してみたかったのだと思う。中堅ホテルチェーンのホテルのコックとして採用された。独身寮があるという。未希は俺にどうするか相談した。

「就職が決まったけど、独身寮があって希望すれば入れるのですが、どうすればいいか迷っています」

「未希はどうしたいんだ」

「いつまでもおじさんのお世話になっているのも申し訳ないし、でも今までのお金を返し終えていないと思うし」

「俺は、未希はこのまま俺と一緒にいるより自立した方が良いと思っている。お金は身体でもう十分に返してもらった。気にすることはない」

「それなら、独身寮に入ります」

「そうした方が未希のためだ。自立して好きなように生活してみるのがいい」

未希は嬉しそうだった。俺は、本当は未希を手放したくなかった。いつまでもこの手の中に置いておきたかった。

でも今の俺の身体の状態では未希を幸せにできない。今まで未希にしてきたことの 罰《ばち》があたったと思っている。俺に未希を幸せにする資格などないと諦めもついてきている。未希の幸せのためには、ここから離れて自立させた方が良いと思っている。

未希の引越しの前の晩、未希の20歳の誕生日と就職のお祝いを兼ねていつものレストランで食事をした。これが最後の晩餐になった。俺は未希と何を話していたかよく覚えていない。

食事の後、いつものように二人で手を繋いで歩いて来た。公園のところ来ると桜が咲いていた。未希が夜桜を見たいと言うので、池の周りの遊歩道を1周した。1周で帰ろうとするともう1周したいと言う。

人がいないところで未希がしがみついて来て、キスをねだった。抱き締めてキスをする。別れが近づいていることはお互いに分かっている。

そして、アパートに戻ってきて、最後の別れを惜しんだ。初めて未希がアパートに来た時のように、二人でお風呂に入って、身体を洗い合って、ベッドに行って抱き合った。

俺は手と口で未希を可愛がった。未希はもうそれだけで何度も何度も昇りつめた。未希も口で試みてくれたがやはりだめだった。未希も諦めがついただろう。未希がぐったりするまで可愛がって腕に抱き締めて眠った。これで俺はすべて吹っ切れた。

朝、未希が俺に抱きついたので目が覚めた。未希は「ありがとう」と言った。俺も「ありがとう」と言った。未希がここへ来た時と同じに、俺が朝食を作って二人で食べた。10時に引越し屋が来て荷物を搬出していった。

それから、未希はアパートを出て行った。別れ際、俺は「困ったことがあったら何でも相談にのる。いつまでも俺は未希の保護者だ」と言った。

未希は嬉しそうに「ありがとう」と微笑んで去って行った。俺にはその後姿が嬉しそうでもあり寂しそうにも見えた。未希との2年4か月の同居生活が終わった。

***
これで、冬の雨の日にであった家出JKと性悪のサラリーマンとの凄まじいラブストーリー「冬の雨に濡れて」第1部 家出・同居編 はおしまいです。二人にとっては、めでたくもあり、めでたくもなしの自立の旅立ち・別離でありました。第2部 再会・自立編 をお楽しみに! 
未練がましいが、俺は出来ることなら未希を手放したくはなかった。未希を愛していたからそうしたなんて言いたくはない。でも未希の幸せを考えてそうした。俺は未希を幸せにしてやれないと思ったからだ。だから、それ以後は未希と会わない覚悟をしていた。

未希から会いたいと連絡があっても、その都度、仕事で都合がつかないと断っていた。何回かそれを繰り返すと、未希も諦めたのか、俺の気持ちを察したのか、連絡をしてこなくなった。寂しさもあったが、これで未希を忘れられると思った。

未希が俺の元を去ってから1年が過ぎたころ、結婚式の招待状が届いた。未希は21歳になっていたが、こんなに早く結婚するとは思ってもみなかった。俺の元を去って寂しかったのかとも思った。そして、もう未希は俺の手の届かないところへ行ってしまったと諦めがついた。

式には出る気がしなかったので欠席のはがきを返送した。その代わりにきっと貯金も多くないから何かの足しになるだろうと結婚祝を10万円送った。未希から洋菓子の詰め合わせと共に返礼の手紙が届いた。「お祝いをありがとう」とだけ書いてあった。

未希の結婚を知ってから、何かが吹っ切れた。これで俺の手から完全に離れて遠いところへ行ったと思ったら、気が楽になった。圧し掛かっていたものが取り除かれたような気がした。

ここのところ、以前のように月2回位は格安の風俗店に通うようになっている。生気がよみがえってきたと言うか、元のようにできるようになった。ただ、今の暮らしは未希と出会う昔に戻っただけだ。

仕事も無難にこなしている。室長から、来た時よりも角が取れて随分丸くなったと言われた。それもあってか、4月に次長に昇進させてくれた。前の次長の山村さんが急に異動になったからだ。ここへ来た時には何も分からなかった俺を丁寧に指導してくれた良い人だった。

大体、このお客様相談室のメンバーは一癖あると言うか、個性の強い人が多い。見かけも怖そうな人ばかりだ。山村さんは始め一見やくざのようで、凄まれると怖い感じがしたが、話をするととても優しくて気の小さい人と分かった。

俺も癖があって人当たりは良い方ではなかったが、この仕事で揉まれて丸くなってきた。同期の友人とも付き合うようになって、同期会の幹事を頼まれている。

アパートに帰るのは以前より早くなって、8時前に着くことが多い。次長の俺が早く帰らないと部下が帰れない。残業手当も多く必要になるので予算を取ってこなければならない。予算を取ってくるのも次長の仕事だ。

俺の経験から残業は仕事が半分、上を見て残っているのが半分だから、残業は半分に減らせると思っていた。室長が帰ると仕事がなければ俺もすぐに帰ることにしている。そうすると部下も帰りやすい。残業経費が半分になった。それでも業務に差し障りはなかった。

相変わらず、ウィークデイの夕食はコンビニの弁当で済ませることが多い。未希が調理師専門学校に通っていたころは、毎日夕食を作ってくれていたので、帰るのが楽しみだった。

弁当をレンジでチンして、缶ビールを飲みながら食べる。未希がクリスマスプレゼントにくれた青い模様の入ったグラスを今はもう使わずに食器棚にしまったままにしてある。

俺ももう35歳になろうとしている。同期の多くが身を固めている。今は付き合う相手もなく一人暮らしているが、この先も一人と思うと確かに寂しい思いはある。

それでも一人暮らしは気が楽だ。土日はゆっくりしよう。風呂に入って一日が終わる。
秋も深まってきた。路地の木々がもうすっかり葉を落としている。今日は販売店からのクレーム対応に表参道まで来た。打合せは店を閉めてからの時間だったので、こんなに遅くなってしまった。一緒に来た部下は帰った。

もう10時を過ぎている。でもこのまま帰る気にならない。帰ってもアパートの部屋には誰もいない。細い路地にスナックの看板、入ってみる気になった。

以前ならスナックなんかには入らない。金の無駄使いだと思っていた。この4月に次長に昇進したので、給料も上がって、お金に余裕が出てきたせいもあるが、最近はこんな店があるとぶらりと入ってみている。ちょっと一杯飲んで小一時間で帰るくらいなら料金は知れている。

中に入ると客がいない。

「いらしゃいませ」

この店のママとおぼしき女性が声をかける。

「お客さんがいなくて暇そうだね」

「少し前にグループのお客さんが帰られたところです。初めていらっしゃいましたよね」

「そう、この前を通りかったから、ちょっと寄ってみたくなった」

「そういう方が多いんですよ。ここの場所のせいでしょうか?」

「そうかもしれないな。懐かしい雰囲気の店だね、表も」

「先代は随分昔から開いていたみたいです。私は半年前にここを引き継ぎました。ママの凛《りん》です」

名刺をくれた。寺尾《てらお》凛《りん》と書いてある。俺も名刺を渡した。ママは嬉しそうに受け取った。

「私は山内といいます。ママ、何か食べるもの作ってくれる。さっき仕事を終えたばかりでお腹が空いているので。それと水割りを作って下さい」

「山内さん、メニューから選んでください」

「オムライスをお願いします」

ママは水割りを作ってくれてからオムライスを作りにかかる。俺は水割りを飲んでそれを見ている。オムライスはすぐに出来た。

「誰かいい人とでも別れたんですか? お寂しそうですから」

「えっ、分かるの?」

「お顔に書いてありますよ。長い間、客商売していますから分かります」

「顔に書いてあるか? 俺も修業が足りないね」

「そんなことありません。誰にでも悲しい思い出はありますから」

「好きな娘がいたんだが、俺には幸せにしてやれる自信がなかったので別れた。この4月に結婚した。もう俺の手の届かないところへ行ってしまった」

「別れたことを後悔しているんですか?」

「いや、彼女のためにはそれで良かったと思っている」

「お好きだったんですね」

「好きだった。身体だけの関係だったけど、うまくいかなくなって、別れる決心をした。でも一緒にいて抱き締めているだけでいつも心は癒されていた」

「身体だけの関係でも身体のつながりができると自然と心も癒されるんです。そして身体のつながりができると情が移るものですよ」

「情が移るか?」

「男女の仲ってそういうものでしょう。好きになって、抱いて抱かれて、また好きになる。そして絆が段々強くなっていく。情が移るってそういうことだと思います」

「俺は彼女を愛していたんじゃないかとこのごろ思っている」

「私には愛するということがどういうことなのか今もよく分かっていません」

「そうか、経験豊富なママでも分からないか? 俺は別れてはじめて分かったような気がする。好きと愛するとは違う。うまく説明できないけど」

「彼女は山内さんのことをどう思っていたのですか?」

「好いてくれていたと思う。お嫁さんにしてほしいと言われたことがあった」

「じゃあ、どうして」

「幸せにしてやる自信が持てなかった。それに俺自身もこのままでは不幸になるのではないかと怖かったからだ」

「彼女も山内さんを好きだったんじゃないでしょうか? しかたなく別れた。なんとなく分かります」

「そうかな」

「私は抱いてくれた人が私をどう思ってくれているか分かります。それにその人の性格も」

「どうして分かるの?」

「終わった後にどうしてくれるかで大体分かります」

「なるほど、そうかもしれないね」

「悲しい思い出もそのうちに時間が癒してくれます」

「聞いてもらってありがとう。帰ります。また寄せてもらいます」

店を出ると雨が降り出した。急いで大通りまで出て駅へ歩いて行く。大通りの向こう側を女性が歩いている。未希に似ていると思った。

そういば、未希の勤めているホテルはこの辺りにあったことを思い出した。寂しそうに駅へ歩いていた。

確かめるために声をかけようかとも思ったがやめた。未希であったとしても、もう遠い存在だ。時間が癒してくれるか? 昔と同じように誰もいないアパートに帰る。
年末が近づいて来た。明日からは12月、もう師走だ。クリスマスやら年末セールやらで、世の中は急にあわただしくなってくる。11月の終わりはずっと雨が降っている。秋から冬に移る冷たい雨、山茶花梅雨だ。

駅からアパートが近いのでなんとかしのげているが、会社から地下鉄の駅の入口まではかなり離れているので濡れてしまった。ズボンと靴がずぶ濡れだ。

アパートに着くとすぐに服と靴を脱いで乾かす。靴に新聞紙を丸めて入れておく。今日は帰りが遅くなった。もう9時少し前になっている。そういえば、家出して来た未希と出会ったのも丁度4年前のこんないやな雨の晩だった。

ドアをノックする音がする。聞き違いかな? やはり誰かがドアをノックしている。玄関へ行って「何かようですか? どなたですか?」と言うが、返事がない。

部屋に戻りかけようとするとまたノックの音がする。すぐにドアを開けた。雨に濡れた若い女性が立っていた。すぐに誰だか分かった。

「未希か?」

薄明りの中で頷いた。1年8か月ぶりの未希だった。

「入ってもいいですか?」

「もちろんだ。どうした今頃、何かあったのか?」

未希はうなだれて入ってきた。手には小さなバッグと折り畳み傘を持っている。ソファーに座らせると憔悴しているのがすぐに分かった。

雨に濡れて寒そうなのですぐにお湯を沸かす。コーヒーを入れてカップを手に持たせる。カップの手が震えている。別れた時よりも随分女らしくなっている。

「どうしたんだ、今頃、急に訪ねてきて、何かあったのか? 聞かせてくれるか?・・・・言わないと分からない。今でも俺は未希の保護者だから」

立て続けに話しかける。

「ごめんなさい。ここにおいてください」

未希はただ泣くばかりだった。理由を言わない。

「まあ、いいか、夫婦喧嘩でもした娘が実家に帰ってきたと思えば。寒そうだから風呂を準備する。入って温まりなさい」

俺はバスタブにお湯を入れた。未希はもう泣き止んでいたが、うなだれている。バスタブがお湯で満杯になるまでの間、どうしてやったものかと考えている。でも理由が分からないと対応のしようがない。

風呂の準備ができたので、未希に入浴を促す。未希は俺の目の前で服を脱ぎ始めた。とっさのことなので唖然として見ていた。

忘れていた未希の裸がそこにあった。腕と脚に青あざがある。あの時と同じだ。未希は無言でそれを見せたかったかもしれない。そのまま浴室に入って行った。

そうだ! 着替えとバスタオル。あの時と同じで、未希の着るものなんてこの男所帯にあるはずもない。この前と同じようにトレーナーの上下とシャツとパンツを出して持って行く。

「未希、着替えをここに置いておくから。いつかと同じトレーナーと下着だ。これしかない」

しばらくして、未希はトレーナー姿で俺が座っているソファーのところへ来た。

「相変わらずダブダブだな」

そう言うと、未希は初めて少し笑った。寂しそうな笑顔だった。

「あの時もこれを貸してくれましたね。ダブダブで大きかったけど暖かかった」

「どうした? 身体に青あざなんか作って」

「彼に暴力を振われました」

「いつもか?」

「最近、ひどくなりました」

「それで家出して来たのか?」

未希は頷いた。未希の左手の薬指に指輪の痕が残っていた。これからどうしてやったものかと考えていると、未希が抱きついて来た。

「抱いて下さい。好きなようにして下さい。あの時と同じように。そして私をここにおいてください」

抱きついてきた未希を俺は力いっぱい抱き締めた。未希の身体はあれから少しも変わっていない。未希の匂いがする。懐かしい未希の匂いがする。

このまま俺のものにしたいと思ったが、思い留まった。未希から身体を離す。

「未希、それはできない。未希は今、結婚している。俺が今、未希を抱けば、未希は不倫をしたことになる。未希にそういうことをさせたくないし、俺もしたくない」

「あの時は私を思い通りにしたのに」

「あの時、未希は、見ただけで結婚していないのが分かったし、18歳だと言った。確かに俺は未希に人には言えないようなひどいことをした。今はそれを悔やんでいる。だからなおさらできないんだ」

「分かった。おじさんは私を大事にしてくれた。今も大事にしてくれる。ありがとう」

「今日はここに泊めてあげる。俺のベッドで寝るといい、俺はこのソファーで寝るから。明日は金曜日だが、俺は会社を休む。朝からゆっくり話を聞こう。今日はこれで休んだ方が良い」

俺も突然のことで気が動転していた。しばらく考える時間が欲しい。未希は奥の部屋に行った。しばらくしてから覗くともう眠っていた。俺は風呂に入ってからソファーで寝た。

目が冴えてほとんど眠れなかった。未希を抱き締めた感覚が腕やら胸から抜けなかった。

未希がほしいと思った。未希を抱きたいと思った。あそこも固くなって、未希を抱けるほどに甦っていることに気づいた。嬉しかった。

絶対に未希を取り戻して、今度こそ俺のものにする。どんなことをしても。そう決心した。
6時に奥の部屋で見覚ましが鳴った。セットを外すことを忘れていた。未希が目を覚ましている。まだ暗いが、今日は朝から晴れている。

「おはよう、しばらくそのままにしていて、朝食を作るから」

「私がします」

「いいから、休んでいるといい」

あの時のように、俺は朝食を準備する。昨夜の決心から気合が入っている。今日と土日を含めて3日間は未希が生活のできるように手助けをすることに決めている。
すぐに出来上がったので、未希を呼んだ。

「いつも同じ朝食で悪いね」

「懐かしい食器ですね」

未希はおいしそうに食べていた。

「未希は戻って彼とやり直す気はないのか?」

「もう何回かはやり直そうとしましたが、同じことでした。もうやり直せません。別れます」

「そうか、しかたないか」

未希は大事な時に果敢に決心する。ここへきて俺の言いなりになる時も、高校へ復学する時も、専門学校に行く時も、ここを出て自立する時も、要所、要所では自分で判断して決心して来た。俺はそれを見ていた。未希の決心は揺らがないだろう。

「それでこれからどうする。家出したのなら、衣食住を確保しなければならないけど」

「銀行のキャッシュカードは持っているから、お金は引き出せる。健康保険証もある。携帯もある」

「預金はいくらぐらいある?」

「私の口座に100万円ぐらい、彼が勝手に引き出していなければだけど」

「離婚するとなると、俺のところで同居していてはいけない。どこかを借りた方が良い。あとでオーナーに部屋が空いていないか聞いてあげる。未希が住むと言えば割引してくれるかもしれない」

朝食を食べ終わると未希が後片付けをしてくれる。俺はあのころを思い出してそれを黙ってじっと見ている。随分昔だったようにも、つい昨日のことだったようにも思えた。

それから二人でオーナーのところへ部屋が空いていないか聞きに行った。

オーナーは未希と久しぶりに会ってとても喜んだ。そして部屋の相談をすると事故物件があるので良かったら入ってみないかと言ってくれた。

半年前に3階の4号室の住人が、亡くなってから1週間後に発見されて、事故物件になったとのことだった。

ずっと借り手が見つからないので家賃は半額の4万円でいいと言う。未希はすぐに借りることに決めた。

キャッシュコーナーから現金を引き出す。すでに20万円が使われていたとのことだった。残金をすべて引き出そうとするが、カードでは1日50万円しか引き出せない。

それでも当分の間、生活するには十分ある。未希は貯金が大切なのが今、分かったと言っていた。

今後のこともあるので、俺は医者で青あざの診断書を取っておくことを勧めた。そして、近くの整形外科の医院に診察してもらいに行った。

写真も撮って診断書を書いてもらった。これはこの後の離婚訴訟などで重要な証拠になる。

それから、ユニクロに着替えを買いに行った。戻って未希は着替えをした。そして、俺の部屋からバケツと雑巾と掃除機を持って行って、借りた部屋を二人で掃除した。

ルームクリーナーが入って前の住人の痕跡はなにもなかったが、随分とほこりが溜まっていた。部屋が近いと何かと便利だ。

部屋がきれいになると、今度は家電量販店へ行って、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器、テレビを買った。

それから、総合スーパーへ行って布団を1組注文した。また、ベランダのガラス戸にカーテンを買った。

安売りの家具専門店へ行って、食器棚、整理ダンス、テーブルと椅子、座卓、ソファーを購入した。

未希は俺の部屋にあるものと同じものをそろえたがった。そして調理器具をひととおり買いそろえていた。食器はすべて二組買っていた。

日曜の3時ごろまでには家財道具がある程度揃った。布団も届いたのでこれで自分の部屋で寝られる。1週間以内には注文したものがすべてそろうだろう。

俺の部屋に二人で戻ってきて、コーヒーを飲んで一休みする。少し疲れた。

「ありがとう。これで、一人で生活できるようになりました」

「よかった。これで本当に自立だね。費用も全部自分で払えたから」

「これからもよろしくお願いします」

「俺はいつまでも未希の保護者だからサポートすると約束しよう。これから食事に行こう。自立のお祝いというのもなんだが、父親から自立した時に行った例のレストランで」

「嬉しいです」

未希は嬉しいと言ったが、俺も嬉しかった。未希が俺の手の中に戻ってきた。大事にしないとまた失ってしまう。今度はそういう間違いをしたくないと思っている。

今ここで以前のように未希を押し倒して自分のものにすることはできる。未希も俺に身を任せるだろう。でももうそんなことはしたくない。時間をかけて、二人の結びつきをもう一度少しずつ強くしていきたい。未希もそうしたいはずだ。
6時にレストランの予約を入れた。それまで時間があるので未希は自分の部屋を整理すると戻って行った。

6時少し前に未希の部屋に寄って一緒に出掛けた。電車で二駅だ。レストランは最後に来た時と全く変わっていなかった。そして最後に座った同じ席に案内された。

料理が運ばれてくる。

未希はもう21歳になっているのでワインを注文して乾杯した。本当は乾杯なんてこんな状況ではできないはずだが、二人とも乾杯したかった。それほど二人は再会が嬉しかったのだと思う。

「自立はいいけど、これからどうする?」

「すぐに離婚します」

「離婚届はどうする。彼は納得して署名してくれるのか?」

「分かりません」

「以前もこういうことがあって、別れると言うともうしないと言ってくれましたが、変わりませんでした」

「もう諦めた?」

「決めましたから」

「次の週末にでも俺が行って話をつけて来てやろうか?」

「また、彼と会うと同じ事を繰り返すので、できればお願いします」

「未希の荷物も引き取らなければならないしね」

「家具などはどうでもいいですが、持って来たいものはあります」

「少し考えさせてくれ。仕事上、弁護士さんとも付き合いがあるから、それとなく、離婚手続きについて聞いてみてあげる。しばらくは未希から彼に連絡を取らない方が良い」

「携帯に留守電やメールが入っていますが、無視しています。いずれ携帯も変えようと思っています」

「仕事はどうする?」

「今のホテルは辞めようと思います。もう、事務には辞めると言ってあります。彼が同じホテルに勤めていますので、もう行きません」

「どうして彼と結婚したのか、それとなぜこういうことになったのか、良ければ聞かせてくれないか?」

未希は話してくれた。未希と夫の山本真一は勤め先のホテルで知り合った。彼は未希の7年先輩でグループのチーフだったので、入ったばかりの未希を指導してくれた。

彼は素直な未希が気に入ったみたいで、熱心に料理を教えてくれたと言う。未希は当然ながら彼を信頼し尊敬するようになっていった。

そのうちに個人的な付き合いが始まり、年末には身体の関係にまで進んで結婚することになったと言う。

未希は独身寮から彼が借りたアパートに引っ越した。結婚して二人の生活が始まったが、ホテルの仕事はシフト制で早番遅番があり、すれ違いの多い生活が続き、お互いに疲れて来て不満を持つようになっていったようだ。

彼は元々ギャンブル好きで遊び人あったし、未希のいないことで酒を飲むことも多くなっていったようだ。未希が疲れて帰って、家事ができないと切れて暴力を振ったという。

未希もはじめは自分が悪いと思っていたが、度重なるとそれに耐えられなくなり、家出を何回かしたようだった。

そのたびに彼が探して謝って連れ戻していた。それを聞いて、きっと彼にはまだ未希に未練があると思った。

「未希の話は分かった。俺は結婚したことはないが、夫婦って互いの短所を認めて補い助け合って生きていかなければならないと思っている。彼だけが悪い訳ではないと思う。未希も至らない点があったのだと思う」

未希は頷いていた。

「私はおじさんとしか生活したことがなかったから、どうしてよいか分からなかった。おじさんは優しくて、私が学校やアルバイトで疲れて家事ができなくても代わりにしてくれたし、何も言わなかった」

「未希が可愛かったから、大事にしたんだ。寝る時以外はね」

「私は男の人は皆そうだと思っていたから、彼が怒るのがなぜだか分からなかった」

「こうなったのは俺にも責任があるということか? だが、こうなったからにはもう元に戻してはやれない。残念だけど別れるしかないだろう」

「私はもう無理だと思っていますから、別れる手伝いをしてください」

「未希、仕事はどうするんだ?」

「明日から仕事を探します。ハローワークへ行って」

「そうか、いい仕事が見つかるといいな。お金は大丈夫か?」

「1か月くらいは大丈夫だと思います」

「そうか、困ったら相談してくれ。お金を貸してあげるから。今度は身体で返せ! なんて言わないから、きちんと借用書を書いてもらって、必ず返してもらうよ」

「ありがとう、困ったらそうさせてください」

二人で楽しく食べるつもりだったが、深刻な話に終始した。今の未希の状況が気になって仕方がなかったからだ。未希も自分だけで悩んでいないで話を聞いてもらってほっとしただろう。

食事を終えて、二人で手を繋いで歩いてアパートまで帰ってきた。

未希を自分のものにしてしまいたい思いが募るが、今はそれをしてはいけないことは良く分かっている。

未希を3階の部屋まで送ってから自分の部屋に戻った。
未希が戻ってきた次の週の水曜日、いつものように8時前にアパートに着いた。3階の未希の部屋には明かりが点いていた。

毎日、アパートの外から明かりが点いているか確認して、点いているとほっとした。

お湯を沸かして、缶ビールを飲みながら弁当を食べているとドアをノックする音がする。

未希かなと思ってドアを開けた。知らない若い男が立っていた。

「山内さんでしょうか? 未希が来ていませんか?」

「どなたですか?」

「未希の夫の山本真一です」

「未希はここにはいませんが」

「未希に会わせて下さい」

「先週末にここへ訪ねてきましたが、もうここにはいません。未希から話を聞いています。どうぞ入って下さい」

テーブルに座ってもらって、コーヒーを入れる。彼は部屋の中に未希がいないことが分かって落ち着いてきた。

「未希はどこにいるんですか? 会わせてください」

「未希はあなたにはもう会わない、会いたくないと言っていました。別れたいとも言っていました」

「もう一度会わせて下さい」

「未希は以前にもこういうことが度々あって、もう一緒に暮らすことは無理だと言っていました。あなたは未希に暴力を振うでしょう。あざがありました」

「僕は未希を今も愛しています。未希もそのはずです」

「未希に聞いてみますが、答えは同じだと思います。私ももう一度やり直したらと勧めましたがだめでした」

「山内さんと未希はどういう関係ですか?」

「未希から聞いていると思いますが、未希の保護者でした。未希が高校生のころ、父親からDVを受けて家出しているところを保護していました。父親はそれからしばらくして事故で亡くなりましたので、高校を卒業して、調理師の学校を出るまで、ここで一緒に暮らしていました」

「未希とは身体の関係はあったのですか?」

「未希とは年が離れているので親子のような関係でした。抱き締めてやったことはありますが、それ以上は何もありません。未希は何か言っていましたか?」

「あなたと撮った写真を持っていて見せてくれました。高校卒業の時の写真です。とても大切にしていました。それに未希は初めてではありませんでした」

「未希が家出をしていたところを保護したので、それ以前のことは分かりません。それに私の元を去ってからのことも。未希にそのことについて聞きましたか?」

「聞いていませんが、あなたとのことを疑いました」

「それはあなたの誤解だ。それも喧嘩の原因ですか?」

「それもあるかもしれません」

「山本さん、どうしてここが分かりましたか?」

「未希の行方を友人に聞いて回りましたが、分かりませんでした。もしやと思い、結婚式の案内状の宛先を調べてここに来てみました」

「未希にやり直す気があるか、もう一度聞いてあげましょう。山本さんの住所と携帯の番号を教えてくれませんか?」

彼は住所と携帯の番号を残して帰って行った。未希がいないことが分かったのでもうここへは来ないだろう。同居していなくてよかった。

俺は彼を好青年だと思った。イケメンで優しそうだった。ただ、気の弱そうなところが見えた。未希が彼を好きになったのが分からなくもない。すぐに未希の携帯に電話する。

「山本真一が俺の部屋を訪ねてきた。今、帰ったところだ。アパートの周りにいないか確かめて、9時30分ごろに未希の部屋に行くけど、いいか?」

「はい、待っています」

すぐに食事を済ませて、9時30分になったので、一応アパートの周りを見て回った。誰もいなかった。

3階の未希の部屋をノックする。未希がすぐに中へ入れてくれた。部屋に入ると未希の匂いがする。テーブルに座るとコーヒーを入れてくれる。

「彼は何と言っていましたか?」

「もう一度やり直したいと言っていた。もう一度未希に聞いてみるとは言っておいた」

「そうですか」

「本当に別れたいんだね」

「もう決めました」

「分かった。それなら週末に都合を聞いて、彼に会って来よう。離婚届に署名を貰ってきて上げよう」

「お願いできますか?」

「必ず署名をしてもらってくる」

「ところで勤め先は見つかった?」

「候補が2,3か所見つかったので、面接に行っているところです。決まったら教えます」

「離婚届の用紙を区役所の出張所からもらってきて、未希の分だけ必要事項を記入しておいてほしい。俺はそれを持って彼に会いに行く」

「分かりました。準備します」

未希の決心は固かった。
金曜日の昼休みに山本真一に連絡を入れた。電話に出られないとのアナウンスがあったので、留守電に電話をくれるように入れておいた。

5時過ぎに連絡が入った。仕事で手が離せなかったとのことで、訪問の都合を聞いた。日曜日は遅番なので午前中ならアパートにいるとのことだった。聞いておいた住所を10時に訪ねる約束をした。

建ったばかりのような賃貸アパートだった。ドアをノックするとすぐにドアを開けて中に入れてくれた。俺のアパートとは違って、最新の間取りのきれいな新婚夫婦の部屋だった。

「未希に会って、もう一度やり直す気はないかと聞いてみました」

「どうでしたか?」

「やはり、別れると言って聞かなかった。離婚届を預かってきました。これに署名をして下さい」

「未希に会わせてほしい。もう一度会いたい」

「未希はもう会いたくないと言っています」

「この前も会って話したら、分かってくれた。だから合わせてほしい」

「それもあるので、未希はもう会わないと言っています。あなたは暴力を振うでしょう」

「もう乱暴はしないと誓う」

「もう会わせる訳にはいきません。私は今でも未希の保護者で父親代わりです」

「ではなぜ父親代わりなら結婚式に来なかった?」

「手放したくなかったから、他の男にとられるのを見たくなかったからです。父親の心境です」

「いや、未希とは身体の関係があったからだろう。今も未希を取り戻したいと思っているのだろう」

「誤解です。そんなことは二人の離婚とは関係ないでしょう。離婚届に署名しないなら、未希は離婚訴訟をするとまで言っています。そうすればお互いに費用もかかるし時間もかかります」

「もう一度会わせてほしい。署名するにしても会って話し合ってからにしたい」

「山本さんは未希の預金を無断で引き出して使ったでしょう。未希がこれも別れたい理由だと言っていました」

「20万円ほど借りだけだ。すぐに返す」

「未希は、お金はもういいと言っています。慰謝料もいらないと言っています。未希は暴力の痕の診断書を取っていました。もし裁判所の調停が入ったら、離婚は認められるでしょう」

「分かった。未希がそこまで思いつめているのなら、別れる」

山本真一は署名することを承諾してくれた。

「私も親代わりに未希の面倒を見ていましたが、未希を甘え貸し過ぎました。それは申し訳ないと思っています。未希にも言っておきました。こうなったのはお前も悪いと。両方の思いやりが足りなかったのだと。未希は泣いていました。そしてあなたに謝ってほしいと言っていました。私からもあなたにお詫びします」

「こうなったのは自分のせいだと思っています。未希に謝っておいてください」

「分かりました。今後はもう未希には会わないでいただきたい。いいですね。もしストーカーのようなことをしたら、警察に連絡します。そうすればあなたの仕事にも差し支えます」

「分かっています。もう会うことはありません」

「それから、未希が持ち物を引き取りたいと言っています。あなたが仕事をしているときに、そっと来て持って帰りたいと言っています。衣類と小物だけで家具や家電はあなたの生活があるから不要と言っています。その気持ちを分かってやって下さい」

「分かりました」

彼は署名捺印した。未希を取り戻すために、俺は交渉に全力で当たった。彼は俺と未希の関係を最後まで疑っていた。

自然に考えればそうだろう。何もなかったはずがない。俺は未希にやりたい放題をしてきた。でも未希は結婚相手には何も話していなかった。

忌まわしい思い出だから話せなかった、隠しておきたかったのだろうか? もし、彼と本当に心を通わせていたなら話したかもしれない。それほどまでには心が通じ合っていなかったのかもしれない。

俺も嘘をつきとおした。これ以外に方法はなかった。認めていれば難しい展開になっていたに違いない。嘘もつき通せば本当になる? でも事実は消せない。

未希に署名を貰ったことを電話で伝えた。未希は自分の部屋で待っていると言った。

「彼に署名してもらってきた。これを提出するか破ってしまうかは未希次第だ」

「月曜日に提出してきます。ありがとうございました」

「彼がいない時に、未希が荷物を取りに行くと断ってきた。俺が彼にシフトを確認して、いない時に取りに行こう。離婚届を提出したらすぐの方がいい。俺も一緒に行ってやるから心配しないでいい。彼にはもう未希に会わないでくれと言っておいた。もしストーカー行為をしたら警察に届けると脅しておいたから大丈夫だろう」

それから、今まで気になっていたことを未希に聞いてみた。

「未希、なぜ彼に俺たちの本当の関係を話さなかったんだ?」

「おじさんが他の人に話してはだめといったから」

「心を許した結婚相手にも話さなかったのか?」

「おじさんとの二人だけの大事な思い出だから」

「あんな忌まわしいことが大事な思い出か?」

「私は忌まわしいとは思っていません。おじさんは約束どおり私を守ってくれた。それが嬉しかった。最初はいやだったけど慣れてきて段々良くなった。だから」

「だから?」

「おじさんが忘れられなくて」

「そうだとしたら、俺は未希に謝らないといけない。そんな風に俺がしたのだから。離婚の原因を作ったのは俺かもしれない。済まなかった。許してほしい」

「いいんです。謝らなくても。これからも一緒にいてくれれば」

「俺は一緒にいて、これからも未希を守る。約束する」

未希は抱きついてきた。俺も抱き締めた。これで俺の手の中に戻ってきた。

「未希を抱いてやりたいけど、やはり今は抱けない。彼の手前もある。離婚届を出してからにしたい。今はこれからの二人のことを考えてみたい。いいね」

未希は頷いて、俺から離れた。俺はすぐに部屋に戻ってきた。未希は今の俺の気持ちを分かってくれていると思う。