パパと恋人のはざまでー義理の姪が誘惑している?

4月の朝は毎日明るくなるのが早まるのが分かる。まだ5時半まで時間が随分ある。一度目が覚めると、まだまだ時間があるのにもう眠れなくなってしまう。でも、うとうとするこの時間がとても心地良い。

久恵ちゃんがここへ来た始めのころはお互いに戸惑うことが多かったけど、何とか同居生活に慣れてきた。一緒に暮らし始めてもう3週間余りになる。

それに先週末は楽しかった。一人では行く気にもならないような東京のにぎやかななところへ案内して、それもうら若き女性と二人きりだ。春の日差しの中で本当に彼女がとても眩しく見えた。こんなことが現実に起こっていることが信じられなかった。

父親代わりに面倒をみると言って暮らし始めたのは良いけど、僕はこの先どうしたらいいんだろう? 手の中にいる可愛い彼女とどう向き合っていけばいいのだろう? 気持ちをこのまま抑えられるだろうか? 

もう枕元の電波時計が5時を指している。久恵ちゃんが自分の部屋のドアを開けるかすかな音が聞こえる。僕を起こさないようにとの心配りが分かる。

すぐに洗面所で身繕いをして、部屋に戻ってお化粧をして、それから朝食の準備をしてくれる。かすかな物音でそれが分かる。

だめだ、だめだ、こんなことでは。その様子を想像している自分がいる。そのうちにキッチンから朝食を準備する音がかすかに聞こえてくる。

5時半になると僕は起床して身繕いをして出勤の支度をしてから食事を始める。トースト、牛乳、チーズ、果物の簡単な朝食だ。これを久恵ちゃんが二人分用意してくれる。

「おはよう」

「おはようございます」

「パパの今日の予定は?」

「今日は記者クラブとの交流会で遅くなります。2次会まで付き合う予定だから帰りは午前様になるかもしれません。夕食はパスでお願いします」

「了解です」

「久恵ちゃんの予定は?」

「学校の友達と帰りにショッピングに行く予定です。7時前には帰ってきています」

「お小遣いはあるの。足りなければ遠慮はいらないからね。前借りもOKだよ」

「ありがとう、大丈夫です。十分あるから」

「東京にはまだ慣れていないから、気を付けてね」

「大丈夫、パパこそ気を付けてね」

僕は川田(かわだ)康輔(こうすけ)、38歳独身。大手食品会社に勤めている。役職は課長代理だ。収入もそこそこある。

7時前に出勤して、8時前には六本木の本社に到着する。最寄駅は池上線の雪谷大塚だけど、運動のために東横線の自由が丘まで約25分かけて歩いている。

朝の早い出勤はラッシュを避けるためと、会社での朝の挨拶が億劫なためだ。7月に入ると早朝でも暑くなって歩くのがいやになるが、今はまだ気温が低い。これまでの二人の生活をあれこれ思い出しながら歩くこの時間が楽しい。

なぜ「パパ」かと言うと、話は4か月ほど前まで遡る。去年の12月9日に故郷の兄夫婦が突然の自動車事故で他界した。

もらい事故で、居眠り運転の車が車線をはみ出して、対向車線を走っていた兄の車に正面衝突した。助手席の義姉は即死して兄は1日後に亡くなった。幸い娘の久恵ちゃんは友人と別行動をしていて無事だった。

午後一番の会議の最中に電話が入り、あわてて新幹線に飛び乗って、3時間以上かけて雨の金沢に到着した。

病院に駆けつけると、兄にはまだ意識があり僕の手を握って「久恵の力になってやってくれ、必ず」と頼まれた。

その時、久恵ちゃんにも「いいか、康輔おじさんを頼れ、いいね」と言い残した。言いたいことを伝えて安心したのか、すぐに眠った。それが最後の言葉になった。

久恵ちゃんは憔悴していて、ただ泣きじゃくるだけだった。それを見るとかけてやる励ましの言葉もなかった。ただ、僕が面倒をみてやろうとその時心に決めていた。

お通夜からお葬式の段取りと日程は母と相談して決めた。久恵ちゃんに聞いたが、連絡が必要な義姉の親戚は知らないとのことだった。喪主は久恵ちゃんが務めた。

お葬式を済ませると僕はいったん東京へ戻った。久恵ちゃんのそばにしばらくはいてやりたかったが、当面は母がなんとか面倒を見るというので、担当している会議の予定もあったのでいったんは東京へ戻ることにした。

それからは週末毎に帰省して、兄の死亡に当たってのいろいろな手続きをしなければならなかった。久恵ちゃんはと言うと家に引き籠っているだけだった。帰省のたびに会いに行ったが、慰めの言葉の掛けようもないほど憔悴しきっていた。

僕より5歳年上の兄は父の家電サービス会社を継いで細々と経営していたが、その死により経営が破たんした。銀行からの融資残額が4,000万円近くあり、兄の自宅と実家を売却して、これに充てて会社を整理した。

また、事故の保険金もあったので、仕事で世話になった弁護士さんに頼んで、なんとか借金が残らないように収拾できて、久恵ちゃんにも当面の生活資金が手元に残った。

兄夫婦は実家の母の面倒も見てくれていたが、これもできなくなり、母には高齢者専用住宅に入居してもらうことにした。

母は気丈で、父の会社の始末は自分がつけると兄の名義になっていた実家の売却を承諾した。母には幾ばくかの預金と父の遺族年金があり、今後の生活については特段の問題はなかった。

久恵ちゃんとは7年前、兄の結婚式の時に初めて会った。その時は中学1年生で、目がクリクリしたはっきりとものを言う活発な女の子だった。

兄は再婚だった。恋愛結婚した前の奥さんは、母と折り合いが悪く、結婚して1年足らずで家を出て行った。

義姉はシングルマザーで少し陰のある美しい女性で優しい人だった。兄の会社でパートとして働いていたのが縁で結婚することになった。

兄は実家で母と同居していたが、以前のこともあり、結婚を機に近くに小さな中古住宅を購入して、家族3人の生活を始めた。

久恵ちゃんとは、その後は年に1回くらい、帰省した時に会う機会があったが、会ったのはせいぜい3、4回だったと思う。会えば、お年玉やお小遣いを渡していた。

事故直後は、目を真っ赤にして憔悴しきっていた。お葬式を済ませてからもしばらくは家に閉じこもっていたが、年が明けたころには現実を受け入れて落ち着きを取り戻していた。芯はしっかりしている娘だと思った。

久恵ちゃんも20歳になっていて、改めて近くで見ると初々しくて可愛いし、年頃の娘さんらしくなっていた。学生時代に思ったが、女子は20歳くらいから急に綺麗になって女性らしくなってくる。

兄貴と二人だけの男の兄弟で育って、姉妹がいなかったので、久恵ちゃんがとても眩しく見えた。歳が離れているのに彼女にじっと見つめられると何故かこちらがドキドキした。

2月のはじめ、会社や住宅の整理に目途がついたころ、久恵ちゃんに兄の会社の負債状況と自宅の売却や財産の状況を説明した。そして今後の彼女の身の振り方について相談した。

「3月に短大(短期大学部)卒業だよね。就職は決まっているの?」

「公務員試験受けたけど不合格だった。銀行の新規採用に応募したけど不採用で、就職活動中です。3月までに良い就職先が決まらなければ、パパの会社のお手伝いをすることになっていたけど、こういうことになって」

「住む家がなくなるけど、どうする? 就職先も見つかっていないし、東京のおじさんのところへ来ないか? 丁度ひと部屋空いているから大丈夫だ。おじさんは兄貴から久恵ちゃんのことを頼まれているから、父親代わりになって力になりたいと思っている」

「ありがとう。心配してくれて」

「短大の専攻は?」

「コミュニティー文化学科です。私、お勉強にはあまり向いてなくて、パパには高校までで良いと言ったけど、これからは女の子でも大学まで出ておいた方がよいと言われて。それでは迷惑がかかると断ったけど、お嫁に行く時も今では短大くらいは出ていないと相手の両親が気に掛けると説得されて、短期大学部に入ったの」

「久恵ちゃんは何がやりたいの?」

「やりたいことがよく分からないんです」

「何が好きなの?」

「強いて言えば、お料理かな。ママに教えてもらっていたけど好きです。ママはお料理が上手で、パパが美味しい美味しいと食べていました。それを見ていたから、私も料理が好きになり上手になりたいと思うようになりました」

「料理か…」

「これからは女の子も自立できなくてはいけないと思う。兄貴も久恵ちゃんが自立できるようにしたかったのだと思う。東京へ来ても今からでは大きな会社への就職は難しいけど、派遣社員になれば何か仕事はあると思う」

「それでもいいけど」

「だけど自立するには、何か手に職をつけるとか、資格を持っていないとだめだ。おじさんの提案だけど、好きな料理の勉強をするのはどうかな?」

「料理の勉強って?」

「東京へ来たら、調理師の学校へ行ったらいい。1年位で調理師免許がとれると思う。給料は底々だと思うけど、就職口は沢山あると思う。好きなことを仕事にするのが一番良い。好きなら頑張れるし上手くなる。才能があれば一流にもなれるし、お金は後からついてくる」

「おじちゃんはどうだったの? 今の仕事は好きなの?」

「ううーん、いろいろあって今の仕事をしているけど、やっているうちにやりがいがあると思うようになって好きになった。仕事ってそんなものかもしれないね」

「調理師学校か、料理を基礎から勉強したいから行ってみたいです。東京へいきます。お願いします」

思い切りのよい娘だ。

「学費はおじさんが出そう」

「そんな迷惑かけられません。住まわせてもらうだけで十分です」

「兄貴との約束を果たすだけだから、気にしないで。おじさんにまかせて」

「それじゃあ、おじさんの愛人になって、そのお手当ということでは?」

「ええ! 驚かすなよ」

「へへ冗談」

「そんなこと二度と口にしないように」

「ごめんなさい」

結構、茶目っ気があるのか、ドキッとすることを平気で言う。少しは気が晴れてきたのならいいのだが。

「だったら、家事をやってもらうということでどうかな? 掃除、洗濯、料理など家事一切をお願いする。学費と生活費とお小遣いはおじさんが負担する」

「家事をすることでいいのなら、そう難しくないし、気が楽なので、それでお願いします。おじちゃんの家計は大丈夫?」

「おじさんはこの歳だから妻子を養えるぐらいの給料は貰っている。久恵ちゃんを扶養家族にするから、税金も安くなるだろうし、健康保険も大丈夫だから」

「親身になってくれて、何から何までありがとうございます。よろしくお願いします」

「一緒に暮らすことになるけど安心していていいから。おじさんは、昔、研究所にいるとき、『乾燥剤』と言われていたくらいだから」

「乾燥剤?」

「書いてあるだろう。人畜無害、でも食べられません!」

「そんなことないです。とても素敵です」

まあ面白みがないからそう言われていたんだろう。確かにあのころは真面目一方で研究に没頭していた。

それからも兄貴の家と実家の整理や母の引越しのために何回か帰省した。幸い久恵ちゃんは3月末までは兄貴の家に住むことができて、後片付けをしながら、無事短大を卒業した。
3月下旬の土曜日の朝、久恵ちゃんの荷物を引越し屋に託して、昼前には新幹線に乗って二人は東京へ出発した。

久恵ちゃんの引っ越しの手伝いと迎えのために、僕は前日の金曜日の夜遅く帰って来ていた。もう実家は譲渡されていたので、高齢者住宅の母の部屋に泊めてもらった。狭いが久しぶりに親子ふたりで語り合って過ごすことができた。

母は「私のことは心配しなくて大丈夫だから久恵ちゃんの面倒をよく見てやってほしい」と言っていた。性格の良い久恵ちゃんは祖母となった母にもずいぶん可愛がられていた。母も義理とはいえようやく孫ができたので嬉しかったのだろう。

窓際に座った久恵ちゃんは出発してしばらくは車外の景色を寂しそうに見ていた。横顔がすぐ隣にある。僕はずっとその横顔を横目で見ている。

故郷から遠ざかるにつれてようやくあきらめがついたのか、僕の方を見たので、思わず目をそらす。

「新幹線からの景色はよくないみたい。楽しみにしていたんだけど」

「そうだね、防音壁があるし、トンネルも多いね。在来線よりも海側から離れたところを走っているので海もほとんど見えなくなった」

「東京での生活は不安だけどよろしくお願いします」

久恵ちゃんは頭を下げて改めて僕に挨拶した。

「おじさんも初めて上京するときは不安だった。その経験もあるから気持ちはよく分かる。心配しなくていいから、できるだけサポートするから大丈夫。安心して」

それから駅で買ってきたお弁当を食べて、二人はひと眠りすることにした。新幹線ができてから乗り換えがなくなったので安心して眠れる。

久恵ちゃんが肩に持たれてきた。突然こんなことをしてくるとは想定していなかった。ちょっと緊張する。久恵ちゃんはもうそうすることが当たり前のようにもたれてきている。

彼女がそんなことを少しも気にしていないのが分かると僕は落ち着いてきた。女の子から肩に持たれかかられるのは少し恥ずかしいが悪くはない。

電車の中では時々見かけていて、疎ましくもうらやましくも思っていた。まさか自分の身にこうして起こるとは思わなかった。

こんなに女っぽくなっていたんだ。この髪の匂い、柔らかい腕の感触、肩と腕に神経が集中する。ううーん、なんかムラムラしてくる。

安心してと言ったけど、これから一緒に住むのがちょっと心配になってきた。兄貴に代わって父親代わりとしてしっかり面倒を見て約束を果たさなければならないと考えていたら眠ってしまった。

◆ ◆ ◆
「着いたよ!」

久恵ちゃんに揺り起こされて目が覚めた。何か夢を見ていたけどすぐに忘れてどんな夢か思い出せない。良い夢だった気がする。

東京駅には午後2時52分定刻に到着した。まず山の手線に乗り換えて、五反田駅で池上線に乗り換える。マンションまで1時間弱の時間がかかる。

東京駅はとても広い。金沢駅の何倍もある。歩いていると人とぶつかりそうになる。土曜日のこの時間だけど、人の多いこと。久恵ちゃんは僕を見失うと迷子になると思ってか、スーツケースを引きずりながら、必死で後について来る。

ようやく山手線のホームにたどり着いた。長いホームを後ろの方へ久恵ちゃんがついてくるのを確かめながらどんどん歩いて行く。

「どこまで行くんですか?」

「ホームの一番後ろへ。次の五反田での乗り換えに一番近いから。ほら電車が来るから気を付けて」

電車がホームへ勢いよく入って来た。僕は電車を気にしないでどんどん歩いて行く。電車が止まった。それでも歩き続ける。随分後ろに来たから、ここらで乗るとしようか。

「乗るよ」

「はい」

「一番後ろまで行きたかったけど、ここまで」

久恵ちゃんが息を切らしている。後ろの車両は席が空いていた。空いている席に久恵ちゃんと2人並んで座る。すぐに電車が動き出す。

久恵ちゃんには初めての高層ビルが続く東京の街だ。頻繁に電車がすれ違う。目まぐるしく移り変わる景色に目を奪われて黙って見ている。

「次で降りるよ」

「はい」

五反田駅に到着した。ここで池上線に乗り換える。エスカレーターでホームへ移動する。ホームはがらっとしていて人が少ない。ここではホームの一番前まで歩いて行く。

「ここが降りる時に一番便利だから」

「ホームでは乗る位置が決まっているの?」

「時間の短縮のためさ。さっきの山の手線のホームは長いから端から端まで歩くと3分くらいは優にかかる。反対の位置で乗車して、乗り換えの場所まで歩いていると、次の電車が入ってきてしまうくらい時間がかかる」

「へー、乗り換えにも頭を使うね」

「4月はじめに新入社員や新入生が通勤通学を始めると駅が混雑する。降り替え口や出口の位置が分かっていないから、離れている場所に下車してホーム内を移動する。それですごく混雑する。ただ、1週間もすると次第に混雑がなくなる。乗る場所が決まってくるからだと思う」

「人が多すぎるわ」

「地方は働く場所がないから、都市部に集まる。都市への一極集中の弊害だ。田舎は閑散としているのにね」

電車が入ってきた。降りる人はこの時間は少ないようだ。それも前の方から降りるから、乗るのが容易だ。一番前の車両の一番前に二人腰かける。

「『池上線』という歌があるけど知っている?」

「知らない」

「おじさんもここに住んで初めて知ったけど、いい歌だよ。今度教えてあげる」

池上線には縁がある。就職して上京した時の独身寮が洗足池駅から徒歩で10分ほどのところにあった。今のマンションをその近くに3年前に買ったのも土地勘があったからだ。その洗足池駅から2駅目の雪谷大塚駅で下車した。

ずっと入っていた会社の独身寮が廃止になった。無駄遣いをしないのでお金が貯まっていた。それで老後を考えて見つけた物件だ。会社が低利で購入資金を貸してくれたのと、母が援助してくれた。ローンはあるが僅かで負担になるほどの額ではないし、完済の目途もついている。

もう結婚しそうもないから1LDKでもよかったが、ちょうど売り出していたゆとりのある2LDKが気に入って購入した。これが今回、久恵ちゃんを引き取れた理由でもある。ひと部屋ゆとりがあった。

ここは大通りから少し入ったところなので、車の騒音はあまり気にならない。大通り沿いだから夜も車の往来が激しく、久恵ちゃんが大通りの歩道を夜遅く一人で帰っても心配がない。駅から10分もかからずに正面入り口に到着した。

「すごくきれいなマンションですね。思っていたよりも素敵です」

「気に入ってもらえてよかった」

マンション玄関はオートロック、監視カメラもついていて、24時間警備会社が監視しているので、セキュリティも万全だ。久恵ちゃんが一人で部屋にいても安心していられる。

鍵の入った財布をパネルの突起にかざして、奥のドアを開けると久恵ちゃんが驚いてそれを見ている。エレベーターで3階へ昇る。

入口のドアを開けて中に入る。久恵ちゃんが緊張しているのが分かる。短い廊下を抜けて奥へ向かうとリビングダイニングになる。

3人掛けのソファー、座卓、リクライニングチェアー、壁側の大型テレビだけ、がらんとしている。時計を見ると、もう4時少し前だった。

「いらっしゃい。ここが我が家です。このとおり殺風景だけど、独身の男所帯だから勘弁して」

「素敵なところですね。よろしくお願いします」

リビングに荷物を置いてすぐに部屋を案内する。

「お部屋だけど、久恵ちゃんの部屋はカギのかかるこの部屋だ」

「おじさんは向かいのこの部屋だ」

「大きい方の部屋を私に、ですか? 小さな方の部屋で十分ですけど」

「小さめの部屋の方が何でも手が届いて便利だし、落ち着いて眠れると分かったから僕はここでいいんだ。もう引っ越しも済ませたから、大きい方を遠慮しないで使ってほしい。クローゼットが大きいので洋服もたくさん入ると思う」

「私、家具や洋服は少ないんです。小さいときにママと二人、小さなお部屋に住んでいたから荷物も多くありません。パパが買った家も大きくはなかったけど4畳半の勉強部屋がもらえて、とても嬉しかった。こんなテレビに出てくるようなマンションのお部屋に住むのが夢でした。ありがとうございます。とっても嬉しいです」

「久恵ちゃん、神様は人生を皆平等にしてくれていると思う。小さな部屋に住んでいた人には後から大きな部屋に住まわせてくれる。おじさんも子供の時には、風の吹きこむ小さな部屋に兄貴と二人でいたんだ。人生悪い時もあれば良い時もある。両親を同時に亡くしたけどまた良いこともある。今を大切に過ごせばいいんだよ」

「はい、お陰様で良いことがありそうな気がしてきました」

「それから、ここがトイレ。反対側が洗面所で中に洗濯機置き場。その奥がお風呂。スイッチを入れるだけでお湯が入って、満杯になるとお湯が止まって知らせてくれるからとっても便利だ」

「素敵なお風呂ですね。私はお風呂が大好きでいくらでも入っていられるの」

「それはよかった。ゆっくり入って」

「お茶をいれます。ガスコンロがありませんが?」

「ガスではなく電磁調理器IH。このマンションはオール電化されている」

「へー、でも電気代、高くない?」

「それほどでもない。なんせ、昼間はいないから。独り身でずぼらにはもってこい。その上安全だから」

久恵ちゃんが早速IHでお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。可愛い娘にお茶をいれてもらうのはいい。部屋も明るくなった気がする。
「明朝、荷物が入るから管理人さんに伝えておこう。それから久恵ちゃんの紹介もしておこう。それからこれが部屋の鍵だから持っていて、玄関で使い方を教えてあげる」

ここへ着いた時は管理人さんが不在だった。5時にはいなくなるので、今度はいるだろうと二人で階段を下りて、玄関脇の管理人室へ挨拶に行った。

年配のとっても親切な管理人さんだ。会社を定年退職してここが第2の職場だと言う。草花が好きみたいでいつも手入れをしてくれているから、マンションの花壇は花が途切れたことがない。

「管理人さん、新しい家族を紹介します」

「私、妻の久恵です。よろしくお願いします」

管理人さんがキョトンとしている。

「ええ! いやその……」

言いかけてやめた。まあいいかと思ったのか、嘘でも嬉しかったのか、自分でも分からない。それから、慌てて明日荷物が搬入される時間を伝えて帰ってきた。

「なぜ、妻といったの。義理の姪じゃないか。管理人さんは驚いていたぞ」

「でも、おじちゃんも訂正しなかったでしょ。なぜ?」

「うーん」

「名前が川田康輔と川田久恵だから、妻の方が自然でしょ。義理の姪でもよかったけど、義理の姪と独身男性が一緒に住むのはおかしいし、娘ならなおさらおかしいでしょう。突然、独り身の男に顔の似てない娘ができたら。やっぱり妻が一番自然だと思ったから」

ドキッとすることを平然と言ってのけるところが久恵ちゃんの性格か? 知らなかった。歳の離れた義理の叔父さんとしては本心が図りかねる。あまりこちらを刺激するようなことは言わないでほしい。それでなくてもドギマギしているのに。

「どうかな、歳の差からかなり無理があると思うけどね」

冷静を装ってやんわり否定してみる。

「それから、呼ぶときだけど、おじちゃんは寅さんみたいでやめたいの。パパと呼んでいい?」

「パパ?」

「呼びやすいから。だって父親代わりなんでしょ。そう言いました!」

「まあ、そうは言ったけど、パパか」

パパというと同じ地方出身の同期の友人を思い出す。研究所の行事に東京出身の美人の奥さんが来ていて「パパ」と呼ぶので、思わず顔を見て吹きだしそうになった。ええッ、パパ?

とてもパパという洗練された顔付きではなかった。それからはどこかで「パパ」と呼んでいる声を聞くと思わず呼ばれたパパの顔を見てしまう。

「ねえ、二人だけのときは、パパでいいでしょう?」

「他人の前では絶対にだめだ。顔も似てないから親子というより愛人関係と思われてしまうよ」

「気にするほどのことではないと思うけど」

「まあ、二人だけの時なら良しとしようか」

本当は名前で呼んでもらった方がいいと思うけど、それも何か不自然だ。まあ、パパと呼ばれると親しみも感じられるし、確かにおじちゃんよりよっぽどいい。それで良いことにした。

「疲れてない? ひと休みしたら、まず駅の回りを案内しよう。東京の私鉄沿線の典型的な駅前商店街があって、レストランもあるし、スーパーもある。夕食を食べて買い物をしてこよう」

「いいところだなあ。私、東京に住んでみたかったので嬉しい」

「東京に住むって大変だよ」

「おじさんも上京してきた時は慣れるのに髄分時間がかかった。今は地方にもほとんどのものあるけど、東京にしかないものが結構ある。来週末には東京を案内してあげよう」

「慣れるのに時間がかかるかもしれないけど、おじちゃん、いえ、パパがいるから安心しています」

「月曜日は休暇を取ってあるから学校へ行ってみよう。専攻はフランス料理にしたけど、よかったのかな? フランス料理は料理の王道だから、物事やるなら王道をいくべし」

「仰せのとおりに! 習ったら家で試してみるね」

「ああ楽しみだ」

◆◆ ◆
外へ出るともう薄暗くなっていた。駅までは裏口を出て裏道を歩いて行った。久恵ちゃんが手を繋いでくる。小さな柔らかな手だ。

女の子と手を繋ぐのは初めてだったように思う。手を繋いだ親子といった感じには見えるかもしれない。残念ながら恋人同士にはみえないだろう。

この裏道は車も自転車もほとんど通らないので落ち着いて歩ける。大通りの歩道は自転車が通るのでぶつかりそうになることがある。でも帰りは安全のため必ず大通りの歩道を歩くように言っておいた。

商店街をざっと歩いて様子を教えてから駅前のファミレスで夕食を食べた。それからスーパーで朝食用の牛乳やパンやフルーツ、それに冷凍食品などを買って帰ってきた。

◆◆ ◆
帰宅後、早めのお風呂の準備をした。浴槽の栓を閉じてスイッチを入れるだけだ。それから、久恵ちゃんの部屋にシーツを換えた僕の布団や枕を運んだ。

明日の午前中には久恵ちゃんの荷物が到着する。1日だけ僕の布団を使ってもらうことにした。そのことについて久恵ちゃんは何も言わなかった。僕はリビングのソファーで寝ることにしている。

すぐにお風呂の準備ができた。久恵ちゃんの部屋をノックする。

「お風呂の準備ができたから、先に入って」

「私はパパの後でいいから先に入って下さい」

「僕の後じゃ汚れていて悪いから先に入って」

「かまいませんから先に入って下さい」

どうしてもそう言うから、先に入ることにした。僕が覗くかもしれないと思って警戒した? そんな訳はないはずだ。こちらの考え過ぎだ。遠慮しているだけだろう。

昨晩は母の部屋に泊まったので、お風呂に入れなかった。ここのお風呂は足が伸ばせて入れるから気に入っている。久恵ちゃんも気に入ってくれるだろう。次に久恵ちゃんが入るから、早く上がろう。

身体を拭いて新しい下着とパジャマを着るとすっきりした。すぐに久恵ちゃんに声をかける。

「どうぞ、上がったよ」

久恵ちゃんがパジャマやら着替えを抱えて部屋から出てきた。

「浴室には鍵が付いているから中からかけておいてね」

「パパを信頼していますから鍵はかけません」

「いや、かけといて、間違って開けるかもしれないから」

「ええ、そんなにパパは自分自身が信用できないんですか?」

「念のため、そうすれば安心して入っていられるだろう」

「そこまで言うのならそうしますが、でも万が一、私がお風呂で気を失ったりしたら入ってこられませんけど大丈夫かしら」

「大丈夫、もしそんなことがあったら開けられるようになっている」

「ええ!」

「こっちへ来て、ノブの下にネジの頭のようなものがあるだろう」

「ありますが」

「鍵がかかっていても10円玉で回せば鍵が開くようになっている。おそらく子供が誤って内から鍵をかけても開けられるようになっているのだと思う。久恵ちゃんの部屋の内鍵も同じだけど」

「それなら、鍵をかける意味がないじゃないですか」

「うっかり開けるのを防げる」

「誰かが入っているのにドアをうっかり開けることはないと思いますが」

「そうだね。分かった。考えすぎだったかな。好きなようにして」

不毛の議論だった。なんで鍵にこんなにこだわってしまったのだろう。彼女が言うように自分自身に自信のない現れかもしれない。

久恵ちゃんが入ってから随分時間が経っている。もう小一時間になる。気になって廊下から声をかける。

「お風呂長いけど、大丈夫?」

「大丈夫です。すぐに上がります」

久恵ちゃんは可愛い小さな花柄のパジャマを着て出てきた。僕はソファーに座ってそれを見ている。湯上りの女の子は上気していて可愛い。

「よかった。返事がなかったら、鍵を開けて中を覗くところだった」

「覗くきっかけを作って上げられなくてごめんなさい。今度は返事しないで鍵を開けて入ってくるのを待ってみようかしら」

「ええ、でも返事がないとそうするよ」

「へへ、どんな顔をして覗くのか楽しみ」

また、僕をからかって喜んでいる。

「冗談はこれくらいにして早く寝よう。今日は疲れた」

「私も少し疲れました。おやすみなさい」

僕の過剰反応もあるけど、久恵ちゃんの挑発的な言動にも困ったものだ。こちらがドキドキするのをまるで楽しんでいるみたいだ。

あの年頃の娘は僕のようなおじさんをからかうのが楽しくてしょうがないみたいだ。まあ、こちらも刺激があって楽しいけどね。

どう言う訳か、会社では扶養家族の「姪」と届けて、マンションの管理人さんへは「妻」と紹介して、家の中では父親代わりの「パパ」になった。明日からの年頃の可愛い娘との同居生活はどうなるか、楽しみでもある。

同居生活1日目が無事に終わった。おやすみ!
次の日、同居生活の2日目の早朝からもう事件は起こった。

6時に目が覚めた。今日は日曜日で休みだからもう少し眠っていたかった。ソファーで寝ていたので、いつもと違って、寝足りたという感じがしない。できれば早く自分の部屋で自分の布団でゆっくり眠りたい。

久恵ちゃんはまだ眠っているみたいだ。静かで物音ひとつしない。音をたてないようにトイレに行く。トイレの照明のスイッチがONになっていた。消し忘れだと思って気にしなかった。音のしないようにドアをそっと開く。

誰かが中に座っている。うつむいていた顔が上がる。あっ! 久恵ちゃんが座っている! 驚いて唖然とした顔、目が合った、しっかり目が合った。お互いに固まる!

その固まっていた時間がどれほどの間だったか分からない。きっとほんの一瞬だと思うけど、ずいぶん長い時間のように思えた。「あっ」という声が聞こえた。久恵ちゃんの声だと思う。「キャー」とは言われなくて良かった。

「ごめん!」

そういうと、すぐにドアを閉めた。

「ごめん。気が付かなかった。ごめんね。寝ているものとばかり思っていたから」

中から返事がない。内鍵をかける音がした。

「ごめん。本当にごめん。勘弁して。これからは絶対にないから」

返事がない。自分のしでかしたことの重大さに次第に気づいていく。久恵ちゃんが怒ってここを出て行ったらどうしよう。気持ちが沈んでくる。ここは謝り続けるしかもう方法はない。

でも謝ろうにも返事がないし、何せトイレから出てこない。困った。機嫌が直るようにと祈るような気持ちでいる。

あれから小一時間経っている。このまま出てこないかもしれない。どうしようと思っていると水を流す音がする。内鍵を開ける音がしてドアが開いた。パジャマ姿の久恵ちゃんが出てきた。

「ごめんなさい。驚かしてしまって、鍵をかけていませんでした」

「こちらこそごめん、入っているとは思わなかった。照明がONになっていたけど消し忘れと思って気にしなかった」

「朝、目が覚めて、すぐにトイレに入りました。パパはまだ寝ていたので音がしないように静かに入りました。だから気が付かなかったのは当たり前です」

「気分を害した? 随分出てきてくれないので心配した。ごめん。本当にごめん」

「出てこなかったのは気分を害したからではありません。あのー、便秘気味で時間がかかりました。それを中から言い出せなくて。だから気分を害したのではありません。気にしなくてもいいです」

「本当に?」

「本当です」

「よかった。返事をしてくれないし、出てきてくれないので、このままここを出て行ってしまうのではと心配した」

「ご心配をおかけしました。そんなことは絶対にありません。ここにおいて下さい」

「もちろん」

「私はこれまで緊張すると便秘気味になるんです。昨日は緊張していたんだと思います」

「久恵ちゃんを緊張させた僕の配慮が足りなかった。もっと気楽にいてもらえるようにするから、気の付いたことなら何でも言ってくれていいから、遠慮しないでいいから」

「それなら、トイレに入るときは必ずノックするようにしましょう。それと内鍵もかけるようにしましょう。私もそうします」

「分かった。そうしよう」

「崇夫パパも同じようなことがあったの。パパとママが結婚して一緒に住むようになった中学1年の時、今日と同じだった。パパは私と目が合って一瞬固まっていました。それからは必ずトイレに入るときはノックしていました。私とママが横にいる時でも」

「兄貴らしいな。これからは必ずそうするよ」

もうこんなことはこりごりだ。一時はどうなることかと心配したけど、何とか無事に収まった。でも、そのあと僕がトイレに入ろうとするとドアの前に立って入場を阻止された。

「しばらく待って下さい」

「どうして、出ちゃうよ」

「我慢して下さい」

どうしても入れてくれない。全部出ていないのかな? いや、においを気にしているのかもしれない。そうなるとますます興味がわいてくる。どんなにおいなんだろう? 考えること自体これは変態だ。

入れてくれないとますますおしっこがしたくなる。入りたいがドアに寄り掛かってその前を動かない。しょうがないのであきらめてソファーに戻った。

15分ほど経過したころ、ドアの前にいた久恵ちゃんがまたトイレに入った。においの確認のため? 水を流す音がして出てきた。「お騒がせしました」と言って部屋に戻っていった。やれやれ、漏らすところだった。

第1日目の初っ端からうら若き女子と同居する大変さが身に染みた。でもトイレにちょこんと座っている姿が可愛かった。驚いて固まっていたけどしっかり見ていた。あの姿が目に焼き付いている。

◆ ◆ ◆
午前10時に久恵ちゃんの荷物が2トントラックで届いた。ダンボールが20個程と小さなテーブル、プラスチックの衣装箱が4個、机、椅子、本棚、小型テレビ、布団だけだ。搬出の時に少ないと思っていたけど、部屋に運び込んでもやはり少ない。

久恵ちゃんが少し疲れている様子なので「手伝おうか」と聞くと「お願いします」の返事があった。

ああいやだ、年頃の娘の持ち物に興味があった。自分ののぞき見趣味に嫌悪を感じつつ、何気なく開封を手伝う。服は若いのにシンプルで地味なものばかりだった。

「服はママと共用にしていたの。体形がほとんど同じで、靴のサイズも同じだった。お金に余裕がないのが身についていたのね。でも便利だった。だから、これがママの遺品です。着ているとママに守られているような気がします」

「来週の休日、久恵ちゃんの服を買いに行こう。僕も買いたいから」

「はい」

久恵ちゃんが大事そうに、上半分が鮮やかな赤色の小さいグラスを本棚に飾っていた。

「とってもきれいなグラスだね」

「パパが『Little Lady』という名前をつけていたもので、私のイメージにそっくりだからと言って、渡してくれたものなの。アメリカ製の古いものだとかで、光が当たると緑がかってとても綺麗なの

「この小さな赤いグラスを見ていると、兄貴が久恵ちゃんを愛しく大切に思っていたのか分かるよ」

「それから、このグラスを使ってください。パパの遺品です。パパがウイスキーを入れて飲んでいたものだけど、これも光が当たるととても綺麗です」

「ありがとう大切にするよ」

それから食器や調理器具もあった。それを久恵ちゃんはキッチンの棚にしまった。

久恵ちゃんはそれからずっと一人で部屋の片づけをしていた。お昼になったけど、朝食用に買ってあったパンなどで昼食を簡単に済ませるとまた部屋に入って片付けをしていた。僕は冷凍食品をチンして食べた。

3時過ぎになってようやく部屋から出てきたと思ったら、リビングのソファーに腰かけて休んでいた。ちょっと目を放していたらそのまま眠ってしまっていた。

昨日から緊張していたし、今朝もひと悶着あったし、荷物の片付けで疲れているんだろう。そっとしておいてやろう。

部屋から毛布を持ってきてそっとかけてやる。寝顔は憂いもなく安らかだ。これだけは安心した。ここへ連れてきてやってよかった。地元に残っていれば悲しい事故をいつも思い出していることになるだろう。

そばに座ってその寝顔を見ている。いつまで見ていてもあきない可愛い寝顔だ。腕の中に抱いて寝たらどんなだろう。

僕もいつのまにか眠っていた。気配で目を開けたら久恵ちゃんが覗き込んでいて、目が合った。

「眠っていた?」

「私も眠っていました。目が覚めたらそばでパパが寝ているから、寝顔を見ていました。よい夢でも見ていたの? にやにやしていたけど」

「夢? 見ていたかもしれないけど覚えていない。そんなにニヤニヤしていた?」

「そう、その証拠によだれを垂らしている。ほら跡があるけど」

慌てて手をやると確かによだれが垂れていた。照れくさい。まずい姿を見られた思い、すぐに話題を変える。

「もう5時を過ぎているから夕食を食べに行こう。近くにおいしいカレー屋さんがあるから行ってみる?」

「カレーは大好きだから行ってみたい。それと調理器具や食器がそろったので、明日から食事を作り始めます。それで材料を仕入れてきたいです」

「それなら帰りにスーパーへ寄って食材を仕入れてこよう。でも無理をしなくてもいいからね、慣れてからでいいからね」

久恵ちゃんは明日から食事を作ってくれるという。そうは言ったものの楽しみだ。

食事を終えたあとスーパーで二人では持ちきれないほどの食材を買ってきた。久恵ちゃんはそれらを冷蔵庫と冷凍庫にきちんと片付けた。

お風呂に入る前に僕の布団と枕を久恵ちゃんの部屋から僕の部屋に運んだ。僕は久恵ちゃんがお風呂から上がるのを水割りを飲んでテレビを見ながら待っている。まだ2回目だからお風呂の使い方が分からない時に教えるためだ。

やっぱり長風呂だった。お風呂から出てきたのを確認すると自分の部屋に入った。これで自分の布団でゆっくり寝られる。

でも自分の布団ではないみたい。何か違う。匂いだ! 一晩これで寝ただけなのに久恵ちゃんのいい匂いが充満している。一晩ソファーで寝て寝足りなかったが、これで十分元が取れた。布団を抱くとぐっすり眠れる。おやすみ!

◆◆ ◆
休暇を取った月曜日は蒲田にある調理師学校を二人で訪ねた。久恵ちゃんが面接を受けておかなければならなかったからだ。入学手続きはすでに僕が済ませていて入学金や授業料の払い込みも済ませてあった。これで4月から通学ができる。

時間があったので蒲田の街を二人で見て歩いた。久恵ちゃんは街の大きさに驚いていた。久恵ちゃんの負担がないように、夕食はお弁当を買ってきて食べた。

明日火曜日から僕は出勤する。久恵ちゃんは3月中はマンションで家事の練習をすることになっている。お弁当を食べてから明日からの一日のスケジュールを相談した。
5時半に物音で目が覚めた。久恵ちゃんが起きて朝食の準備をしてくれている。起きる時間だ。洗面所へ行って歯を磨いて、髭をそって、顔を洗う。電気カミソリは使わない。爽快感が違う。

部屋に戻ってスーツに着替える。6時にリビングダイニングへ出ていく。スケジュールどおり。

「おはよう」の挨拶を交わして、朝食を摂る。

「朝食の献立、それでよかったですか?」と聞かれた。

僕が頷くと、久恵ちゃんも食べ始める。すぐに食べ終わった。

「ごちそうさま。準備ありがとう。僕が朝食の準備をしてもいいけど」

「いえ、私の仕事ですから」

「まるでお嫁さんをもらったみたいだ」

「そう思っていてください。やりがいがありますから」

久恵ちゃんは後片付けを始めている。意外な返事だった。

「今日から昼間は一人になるけど、大丈夫?」

「大丈夫です」

「来訪者が来たらモニターで十分に確かめてから、開錠してね。セールスは来ないと思うけど、必要ありませんと言って、相手にならないこと。そうすると帰っていくから。それと部屋を空けるときは玄関のカギを必ずかけること。いいね」

「大丈夫です」

大事なことだから2度言っておくと言って、2度も同じことを言ってしまった。

6時半過ぎには「いってらっしゃい」の声を聞きながら、マンションを出る。

会社には8時前には到着する。昨日は休暇を取ったので、机の上に回覧の書類がたまっている。それに目を通していると、始業時間の9時になる。

「姪子さんとの生活はどうですか? 随分嬉しそうですね」

「そうでもないね、いろいろ気を遣うことが多くて」

「川田さん、目じりがたれていますよ」

「もう、からかわないでくれ」

兄貴が事故で亡くなったことは葬儀のために休んだから皆知っている。義理の姪を引き取って同居することは会社にも報告しておいた。扶養家族にする必要があったからだ。

周りは40近い独身男が若い娘と同居を始めることに興味深々なのだろう。仕方ないとあきらめよう。

◆ ◆ ◆
今日は定時になったら早めに引き上げることにした。まわりは姪が気になると思っているようだけど、その方が好都合で帰りやすい。そのとおりなのだから、そういうことにしておこう。

帰りは自由が丘から[今自由が丘]のメールを入れる。帰りは疲れているから歩かないで電車で帰ることにしている。およそ25分でマンションに着く。歩いて帰る時間とほぼ同じ時間がかかる。今日は7時前に着いた。

帰宅時のドアの鍵はそれぞれが自分で開けることに決めていた。玄関ドアの開く音で久恵ちゃんが跳んでくる。

「おかえりなさい」

可愛い久恵ちゃんが迎えてくれる。それに夕食のいい匂いがする。きっと新婚さんってこんな感じなのだろうと思ってしまう。

もうそんなことはないだろうと諦めかけていた。こんな新婚さんの気分を味わえるなんて、今が一番いい時かもしれない。

すぐに自分の部屋でスーツを着替えて食卓に着く。

「初めての夕食はクリームシチュウにしてみました」

「美味しそうだ」

「食べてみてください。味はどうですか?」

きっと新婚のお嫁さんもこうして味を聞くんだろうな。一口食べてみる。

「美味しい」

「よかった。美味しいと言ってもらえて。たくさんありますからお替りしてください」

美味しいシチュウだった。お替りを2回もした。久恵ちゃんはとても喜んでいた。本当に美味しかったんだ。

一緒に後片付けをしたら楽しいだろうと後片付けの手伝いを申し出たけど即断られた。しかたなくソファーで後片付けを見ている。

「コーヒーをいれるけど、久恵ちゃんもどう?」

「いただきます」

「コーヒーの後片付けは僕がするから」

「お願いします」

後片付けが終わるタイミングでコーヒーメーカーで二人分作る。久恵ちゃんが隣に座って一緒に飲んでくれる。

こういう暮らしを幸せな生活というのだろう。東京へ連れてきて本当に良かった。生活に張りが出てきた。若い娘と居ると若返るというのは本当だ。身体に活力がみなぎってくる。

◆ ◆ ◆
僕はお風呂を上がってソファーでテレビのニュースを見ながら一息ついている。水割りが飲みたくなって1杯作った。冷たくて旨い。こうしてソファーに寝転がってゆっくりニュースを見るのも久しぶりだ。

久恵ちゃんはお風呂に入っている。今日も結構長風呂だ。

新婚さんだったらこれから一緒の布団で寝るんだろうな。それが違うところだ。日曜日にソファーでうたた寝をしていた久恵ちゃんの寝顔を思いだした。あんな寝顔でそばに寝ていたらきっと我慢できなくなって・・・。

「もう寝ましょうか?」

眠っていたのかもしれない。久恵ちゃんの声にびっくりした。タイミングが良すぎる。驚いてしばらく返事ができなかった。

パジャマ姿の久恵ちゃんが水の入ったグラスを持ってキッチンのところに立っていた。僕が眠っていたので声をかけたようだ。

「久しぶりに出勤したので疲れた。そうしよう」

ソファーから起き上がって自分の部屋に入った。このままでは眠れそうもない。今夜は久しぶりにHビデオでも見て寝るとするか!
次の土曜日は東京の案内方々、二人で渋谷まで買い物に出かけた。久恵ちゃんには身の回りの小物や洋服、それに化粧品などを買ってあげることにした。

スクランブル交差点ではあまりの人多さに驚いていた。若い娘向けのショップが多くあるビルに入る。

さすがにここは僕にとっては場違いに思える。娘と父親のショッピングは今時ないと思うし、顔も似ていないので、二人連れだって歩くとどうみても援助交際にしか見えないと思う。

久恵ちゃんが店を見て回るのを少し距離を取って歩いている。店に入っても店の外で待っている。

気に入ったのが見つかったので見てくれと呼びに来た。あれほど呼んではダメと言っておいたのに、僕を「パパ」と呼んだ。それで店員さんからじっと見られた。きっと援助交際のスポンサーと見られたに違いない。

それは白い長袖の薄手のワンピースだった。これからの季節には丁度いい。実際に着てみた方がよいので、店員さんに断って試着させてもらうことになった。しばらくして久恵ちゃんが着替えて出てきた。

とてもよく似合っていたのでOKのサインを出す。久恵ちゃんは小柄だけど色白で白がとてもよく似合う。ただ、足元が気になった。

「靴が合っていないね。せっかくのワンピースが映えない。靴も買ったらどうかな」

「私は靴には無頓着でこのほかにも歩きやすいので気に入っているのが5足ありますから、帰ったら合わせてみます。大丈夫です」

「そういわないで、靴は何足あってもいいから」

そう説得して靴も買うことにした。久恵ちゃんはヒールが高めの白いシューズを選んだ。

久恵ちゃんは小柄だから僕と並ぶと僕の肩までしかない。これを履くと幾分背が高いように感じる。せっかくだから足慣らしのためにもそのまま履いて帰ることにした。

それから、僕のためにシャツを一緒に見てくれた。僕は昔から目立つのが嫌いで、着るものも地味な色やデザインのものがほとんどだった。久恵ちゃんから見ると実際よりも老けて見えるのがいやだったみたい。

「私と一緒に歩くときはもっと若い人が着ているようなものを着てくれないと恥ずかしい」と言って、僕からすると随分派手な色使いのシャツを選んでくれた。当ててみるとそんなに悪くない。

それからズボンも合わせて選んでくれたが、確かに似合っている気がする。それに随分若く見える。確かに久恵ちゃんと一緒に歩くときは若作りしたい気持ちはある。言われるままに買うことにした。

それから、久恵ちゃんに化粧品を数点買ってあげた。売り場の女性に適当なものを選んでもらった。久恵ちゃんは説明を熱心に聞いていた。

久恵ちゃんは薄化粧で、よく見ると化粧しているのが分かる程度だ。若い子は肌がきれいだから薄化粧がいい。母親がそうだったから自然と薄化粧になったとか。母親の娘への影響は大きいようだ。

買い物がひととおり済むと、会社の同じ部の女性に聞いておいた表参道のヘアサロンへ案内した。

久恵ちゃんの髪は肩まである。いつもはそれをポニーテイルにして後ろで束ねている。出かけるときはそれをほどいて肩まで垂らしている。来た時に髪はどうしているのか聞いたら、自分で適当にカットしていると言っていた。

「好きな髪形にしてもらうといいよ」

「思い切ってショートにしてみたいです。学校へ行ったら髪が長いと調理するときに何かと不都合だと思っています」

「そうだね、それがいい。ショートの久恵ちゃんも見てみたい」

離れたところのソファーでカットされているのを見ている。慣れた手つきでどんどんカットが進む。見る見るうちに髪型が整っていく。

久恵ちゃんは小顔で目鼻立ちがはっきりしているのでショートが似合うと思ったが、そのとおり、可愛くて活発に見える。さすがに表参道のヘアサロンはセンスがいい。

「少しは綺麗になった?」

「とってもチャーミングだ」

本当はどきっとするほど綺麗になったので見とれた。こんなに可愛いものが手の中にあることに改めて気が付いた。とても嬉しい。父親の気持ち? いや恋人の気持ちだと思う。

◆ ◆ ◆
「こんなに買ってもらってありがとう」と帰りの電車の中で久恵ちゃんから新ためてお礼を言われた。

「久恵ちゃんは『プリティ・ウーマン』という映画見たことある?」

「テレビで見たわ」

「コールガールが若きやり手の実業家の富豪と知り合い、妻になるというシンデレラストーリー。大ヒットしたけど、あの映画は男の目線で作った男のロマンを描いたもの。素質のある女性を自分好みの理想の女性に育てるという。女性に人気があったけど、男性が見ても共感できる。ジュリア・ロバーツが素晴らしい変身を見せていた。映画に出てくるホテルの支配人が今のおじさんだ。おじさんも久恵ちゃんをもっと素敵な女性に育てたい、素敵な男性が見つかるように」

「ありがとう、期待に沿えるか分からないけど」

久恵ちゃんの答えはすこしそっけなかった。

沿線はもう桜が満開に近く咲いている。

「桜がきれいだね」

「お花見がしたい」

「じゃあ、明日、近くの洗足池公園へお花見に行こう。あそこは桜の名所だ」

「朝の天気予報では明日は朝から雨と言っていたと思うけど」

すぐにスマホで天気予報を調べると確かに明日は朝から雨模様となっていた。

「明日、雨が降ると桜が散ってしまうね。来週まではもたないし」

「諦めます」

「それなら今晩、夜桜見物にいかないか?」

「夜桜見物?」

「あそこは夜桜見物もできる。昔、近くの独身寮にいた時に行ったことがあるから」

「夜桜見物に行きましょう」

マンションに戻ると一休み。久恵ちゃんは買ってきたものを部屋で片付けていた。それから駅前で買ってきたお弁当を二人で食べた。

久恵ちゃんは手っ取り早くお味噌汁を作ってくれた。このお味噌汁がとてもうまい。出汁から作ったという。お替りをした。腹ごしらえは完了した。
6時を過ぎると暗くなってきた。春になったとはいえ、夜は冷えるから少し厚着をして出かける。

マンションを出て大通りを公園の方に歩いて行くことにした。電車で行ってもいいが、ここからは歩ける距離だし、時間もそんなに変わらない。久恵ちゃんにそれを言うと、歩きたいと言った。

マンションを出るとすぐに久恵ちゃんが腕を組んできた。目をやるともう当然のことのように腕を組んでいる。こちらは嫌な訳がない。ご厚意に甘えることにした。いい感じだ。

12~3分で公園についた。思っていたよりも人が多い。ゴーというような音がする。人ごみの音だ。

「すごい人だね」

「東京はどこへ行っても人が多いですね」

「でもそれが当たり前になると、だんだん人ごみに慣れてくる。人が多いと何故か安心感があるから不思議だ。皆と同じことをしているという安心感かもしれないね」

「私も慣れてくるかしら」

「自然と慣れてくる。そのうち都会の生活が良くなってくるから」

「私も都会の絵の具にすっかり染まってしまうのかしら」

「良しにつけ悪しきにつけ、染まらないと生きていけない。でも大丈夫だから、僕が久恵ちゃんを守ってあげるから」

「パパは結婚しないの? 誰か良い人いないの?」

「いない。この歳になったから、もう考えないことにした。マンションを買ったのも一人での老後に備えるためだったから」

「そうなんだ」

久恵ちゃんは何か言いたげだったけど、それからは何か考え事をしているようで黙ってしまった。

桜が満開で照明に映えてとても綺麗だ。人が多いからもう腕を組んで歩けない。それでも手を繋いで桜を見上げながら公園を一回りする。

突然、久恵ちゃんの手が離れた。驚いて足元を見ると転んで倒れていた。すぐに起こそうとするが立てないみたい。

「大丈夫か?」

「足首が」

「ひねったかな、捻挫したかもしれない。いつもよりヒールが高かったからかもしれないね」

今日買ってあげた白い靴をそのまま履いてきていた。何とか起き上がらせるが、足首が痛くて歩けないという。困った。大通りまで行けばタクシーを捕まえられるが、ここではどうしようもない。

もうこうするしかないと、久恵ちゃんの前にかがみ込む。久恵ちゃんもそれが何をしようとしているのかすぐに分かったみたいだった。少し間をおいて僕の背中に身体を預けた。

ゆっくり立ち上がる。大人をおんぶするのは初めてだ。久恵ちゃんは意外と軽かった。これなら何とか大通りまで歩いて行けそうだ。

おんぶして歩いていると道を開けてくれる。皆何事かと好奇の目で僕たちを見ている。そんなことを気にしてはいられない。早く大通りまで行ってタクシーを拾おう。

背中の久恵ちゃんは黙ったまましっかり抱きついている。背中に二つの柔らかいものを感じる。それがなんだかすぐに分かった。その感触からそんなに大きくはないが間違いない。背中に神経が集中する。

それに手は久恵ちゃんのおしりというか太ももを抱えている。柔らかい太ももだ。その感触もたまらない。ずっとこのまま歩いていたい! でも早く大通りまで行かなくては! 複雑な思いで一生懸命に歩いた。

ようやく大通りが見えるところまで来た。人ごみも空いてきた。

「もうすぐ大通りだ。大丈夫か? すぐにタクシーを拾うから」

「大丈夫です」

「歩いてみる?」

「このままおんぶして行って下さい」

「分かった」

大通りに着いて、久恵ちゃんを下ろして、タクシーが通りかかるのを待っている。久恵ちゃんは何とか立ってはいられるようだけど、僕に摑まったままで歩こうとしない。

ようやくタクシーが捕まった。乗り込んで段差の少ないマンションの裏口までの道順を説明する。着くまでの間、久恵ちゃんは黙り込んで僕に寄り掛かったままだった。

ようやくマンションの裏口に到着した。僕が先に降りて久恵ちゃんが降りるのに手を貸す。タクシーが戻って行った。

久恵ちゃんは歩こうとしないで立ったままだ。おんぶしてほしいの意思表示か? 背を向けてかがみ込むと背中に身体を預けた。望むところだ。黙って抱き付いてきた。

エレベーターに乗ってようやく部屋までたどり着いた。ソファーに座らせる。

「大丈夫か?」

「捻挫したみたいです」

「今日は土曜日でこの時間だから、このままここで手当てして様子を見よう」

「手当てしてください」

「まず、氷で冷やそう。それから湿布する。今日はお風呂はやめておいた方がいい。下手に入ると悪化するから」

「そうします」

すぐに氷を持って来て濡れタオルで包んで足首に巻いて冷やす。小さな可愛い足だ。それから自分の部屋に戻って湿布薬を探す。確か買い置きがあったはずだった。すぐに見つかった。これでいい。

こんな場合、始めは冷して後から温めるが基本だ。お風呂は禁物! 足首が冷えたところで、湿布薬を張って、その上からまた氷で冷やす。

落ち着いてきたところでコーヒーを入れる。久恵ちゃんの手にカップを持たせる。

「これで一応の処置をしたから様子を見よう」

「ありがとうございました。私の不注意でした。はしゃいでしまってご免なさい」

「いや、今日は渋谷に出かけたり、夜桜見物に歩いて行ったりして、それに新しい靴だったから疲れて足に負担がかかったからだと思う。僕の配慮が足りなかった」

「おんぶしてもらって嬉しかったです」

「いや、いいんだ、こちらこそ」

それから後は久恵ちゃんが気にするだろうから言わなかった。でも僕の背中に胸が当たっていたことや太ももを抱えていたことは本人が一番分かっているはずだ。

久恵ちゃんは足を引き摺りながら部屋に入って行った。おやすみ!

◆ ◆ ◆
日曜日は朝から雨だった。外は寒そうだ。こういうのを花冷えというのか? やはり昨晩、夜桜見物に行っておいてよかった。

久恵ちゃんはまだ寝ているみたいなので、今日一日は僕が食事を作ることにした。

久恵ちゃんの部屋で物音がして起きたのが分かったので、ドア越しにそれを伝えると「すみませんがお願いします」との返事があった。

食事の準備ができるたびに部屋に呼びに行った。朝食の後に湿布薬を張り替えた。特段腫れてもいなかった。月曜日になっても良くならなければ整形外科に行けばいい。

それから一日安静にしていたら良くなってきたみたいで、夜はお風呂に入った。

月曜の朝にはすっかり良くなったみたいで、朝食をいつもどおり作ってくれた。手当てがよかったのか,嘘のように捻挫は直っていた。

ひょっとして捻挫のふりをしていた? そんなことはないと思う。でもありかもしれない。

いずれにしても、久恵ちゃんをおんぶして良い思い出ができてよかった。今も残っている背中の柔らかい二つの感触を大切にしたい!
久恵ちゃんがここへ来てからもう3週間ほどになる。4月から通い始めた調理師専門学校にも慣れて、家事も卒なくこなしてくれている。朝は8時過ぎに出かけていると言う。それでも9時からの授業には十分に時間のゆとりがあると言っていた。

同級生はいろんな人がいるから面白そうと言っていた。久恵ちゃんは短大を卒業しているから20歳、ほかの人はおおかた高校を卒業してからの18歳、ほかに大学を卒業してからの人や年配の人もいると言う。授業が半分、実習が半分だそうだ。実習は基礎が始まったばかりと聞いていた。

帰宅はスーパーに寄って6時ごろになる。それから夕食の準備をしてくれる。僕は早ければ7時ごろ、遅くても8時過ぎには帰宅する。

久恵ちゃんと一緒に生活してみると、性格も僕と似たところが多いことが分かった。倹約家で、ものを無駄にしない、無駄なものを買わない、ものを大切にする。

それから、せっかちなところ。僕もせっかちだけど、それ以上だ。思いついたらすぐにやらないと気が済まないみたいだ。

ただ、整理整頓というか、片付けが苦手のようで、一見片付いてみえるのだが、とんでもないものが引き出しに入っていたりする。

また、かなりの綺麗好きで、家の中も掃除が行き届き、洗面所、お風呂などもピカピカだ。洗濯も大好きで、油断しているとなんでも洗濯されてしまう。下着も遠慮しないでと、毎日必ず取り換えさせられる。

夕食の料理の味付けもなかなか良い。母親譲りの味付けだとか。兄貴はこの母娘と暮らして幸せだったのだろうと思う。

でも、なにより明るい笑顔が可愛い。まるで新婚生活のような気分だ。足りないのは夜のHだけ。この歳になって、諦めていたのに。今のこんな生活がずっと続くといいなと思う。

◆ ◆ ◆
会社で10時ごろにトイレに立った。いつものように用を足そうとするが、出てこない。空いているはずの穴が手探りで見つからない。その時は後ろ向きに履いてしまったと思ったが何とか用を足すことはできた。

すぐに個室へ入ってパンツをはき直そうとするけど、パンツが違う! 白い僕のブリーフだと思ったけど違う。久恵ちゃんのパンツだ!

なんでこれを履いているんだろう。昨晩お風呂に入ったときに洗濯してもらった新しいものに履き替えたが、そういえば少し小さかったような気がしたが、太ったかなとしか思わなかった。まさか混入しているとは夢にも思わなかった。あの時もう少し確かめれば良かった。

きっと、久恵ちゃんが乾燥した二人の洗濯物を畳んで仕分けるときに間違えて僕の方へ混入したんだ。見かけは白だし、形もそう違わない。

明け方トイレに立った時も気が付かなかった。家にいるときトイレではズボンを下ろしてしているし、パジャマの時もそうだから気が付かなかった。

分かったところで、替えもないし、このまま履いているしかない。分かってしまうとどうも履き心地が悪い。なぜか興奮するのと罪悪感が入り混じって複雑な気分だ。

下着ドロボーがいるというが、盗んだものをどうしているんだろう? 自分で履いているんだろうか? どんな気持ちか聞いてみたい。

仕事も手につかないまま昼休みになったので、すぐにコンビニへ下着を買いに行った。確か売っているはずだ。

ブリーフがあった。よかった。戻るとすぐにトイレで履き替えた。なぜかほっとして解放された気分だ。

問題はこの後処理だ。帰ったら素直に間違えて穿いていたと伝える? いやきっと久恵ちゃんは嫌がるだろう。どうしたものか? なんて考えていたら昼休みが終わった。午後は気を取り直してしっかり仕事をしよう。

◆ ◆ ◆
いつものように何事もなかったように帰宅した。久恵ちゃんは全く気が付いていないと思う。自分のパンツの在庫を数えているはずもない。

帰りの電車の中で考えたことを実行する。まず、部屋着に着替えるときにパンツも取り換えておく。履いていた新しく買ったブリーフはとりあえずしまっておく。お風呂に入って着替えるときにまた洗濯された新しいブリーフに取り換える。そのとき、久恵ちゃんのパンツも洗濯籠に分からないように入れておく。

洗濯籠には、僕のパンツは1枚になるが、久恵ちゃんのパンツはきっと2枚になるだろう。でも洗濯して2枚あったとしても1枚は間違って僕が履いていたなんて思いつかないだろう。だって僕の履いていたパンツはちゃんと1枚あるのだから。これは証拠を隠滅した完全犯罪?だ。

◆ ◆ ◆
次の日に帰宅すると昨日の洗濯ものがたたまれて部屋に置かれていた。ブリーフも1枚あった。久恵ちゃんは何も言わなかった。これにて一件落着!

あれが反対に、久恵ちゃんが混入した僕のブリーフを間違って穿いて、それに気が付いたらどうしただろう? きっと黙って洗濯して終わっていたと思う。間違いない。

でも久恵ちゃんのパンツが僕の方へ混入したときに、僕のブリーフはどこへ行ったのだろう。久恵ちゃんのところ? 疑問は残る。

そういえば、2~3日前に1枚のはずのブリーフが2枚洗濯されていたことがあった。そのときは洗い忘れたのだと思っていた。

これに懲りて、それから3か月くらいかけて、僕の白のブリーフを黒のボクサー型のパンツに買い替えていった。たったパンツ一枚のことで気を遣う。
僕が現在在籍している広報部では社外対応がメインの仕事だ。研究者でありながらまるで事務系の仕事をしている。ここへくる前は企画部門にいたが、請われて異動してきた。

もともと理系で研究職を希望して、入社してすぐに希望どおり研究所に配属された。入社7年目の29歳の時に親の勧めでお見合いして婚約した。

式の日程まで決まっていたが、その後、離れていたこともあって相手との意思疎通がうまくいかず、式の直前で婚約を破棄することになった。上司や同期に出席を頼んであったので謝罪して回った。

そのことが研究所内に知れ渡り、また婚約破棄の後ろめたさから、研究に逃げ込んだ。幸いなことに、研究の成果が上がり、上司の計らいで学位も取得することができた。これが契機となって本社の企画部門への異動の話が出た。いやな思い出のある研究所を離れたかったので快諾した。

◆ ◆ ◆
4月になって2週目に僕はマンションでとんでもない事件を起こしてしまった。その日は記者クラブとの定例の交流会があった。2次会まで付き合って、午前1時を過ぎての帰宅になった。

ここのところ久恵ちゃんとの楽しい生活に浮かれていたせいか、すっかり酔いが回ってしまい、マンションの前の大通りでタクシーを降りたところから、記憶がはっきりしない。泥酔状態だったと思う。

ドアを開けて、いつもどおり部屋に入って、スーツを脱いで、敷いたままにしてある布団に入って寝た。

突然「ギャー」の叫び声が耳のそばでする。なんだ、うるさい!「ギャー」の叫び声が続く。眠い! 静かにしてくれ! 酔って疲れているんだ! 眠らせてくれ!

玄関ドアを誰かが叩いている? 何人かがドアを開けて入って来たような気がした。静かに眠らせてくれ! 頼む! この時には「ギャー」の声は収まって、泣き声が聞こえていたと思う。

回りが明るくなって、気が付いたらお巡りさんが目の前にいた。頭がクラクラしていた。

事の顛末はこうだった。午前1時半ごろに帰宅した。泥酔していたので、以前自分の部屋にしていた癖が出て、久恵ちゃんの部屋へ間違えて侵入した。バタンキュウのつもりで、スーツを脱いで、敷いてあった久恵ちゃんの寝ている布団の中に入った。

久恵ちゃんが驚いて「ギャー」と奇声を連発したため、隣の住人がマンションの警備会社へ連絡した。

ガードマンが急遽到着し、合鍵を使って部屋に入って、その侵入者を取り押さえた。その後、パトカーが来るやらで、一騒動となった。

お巡りさんに理由を説明したが、酔っぱらいの言うことなんかなかなか信用してもらえない。久恵ちゃんは、泣いてばかりなので、DV(ドメスティックバイオレンス)か何かがあったと見られてもしかたのない状況になっていた。

言い訳をしているうちに酔いが徐々に醒めてきた。ようやく落ち着きを取り戻した久恵ちゃんが、事の重大さに気が付いて、こうなった事情をお巡りさんに説明してくれた。

酔いがすっかり醒めたころようやく解放された。ガードマンやお巡りさんが引き上げて行った。二人だけになったら、どっと疲れが出た。久恵ちゃんもしょんぼりしている。

「申し訳ない。酔っていたとはいえ、以前の自分の部屋と間違えたことは、全く迂闊だった。誤解しないでほしい。信じてほしい」

手をついて久恵ちゃんに謝った。

「始めは本当に不審者が入ってきたと思ったから大声を上げてしまいました」

「本当に驚かしてごめん」

「でも、でも少し変だったの。覆いかぶさるだけで、何もしないし、アルコールの匂いがしました。それにパパの匂いがしたから、酔った勢いで私の部屋に入ってきたと思ったの」

「ごめん、本当に自分の部屋と間違えたんだ」

「パパだと分かってからは、驚くやら恥ずかしいやらで、泣いてしまって」

「本当にごめん」

「それに鍵をかけ忘れたのは後になって気が付きました。こういう間違いも起こると分かったので、これからは必ず鍵をかけます」

「そうしてくれると安心だ。でも二度とこういうことがないように気を付けるから」

「事情はよく分かりました。パパは疲れているみたいだから、もう寝てください」

「ああ、そうさせてもらうよ。おやすみ」

「私も寝ます。おやすみなさい」

その後、二人ともすぐに就寝した。

やはり次の朝、僕はひどい二日酔いになった。

「おはよう。昨夜はごめん。本当に迷惑をかけた。罰《バチ》が当たって、二日酔いで頭が痛い。それにお腹の調子も悪い」

「酔っぱらいには本当に手数がかかりますね。身体に悪いのでこれからは飲みすぎに注意して下さい」

「今回のことで、身に染みて分かった」

久恵ちゃんは朝食にお粥を作ってくれた。おいしい! それに、なんとか信頼関係を修復できたみたいで良かった。

いつもより2時間ほど遅れて、ご近所を気にしながら二人一緒にマンションを出た。うら若き女性と同居している難しさが身に染みた。やれやれ!

後日、警察に始末書を提出した。今振り返ると、どこか心の片隅にそういう思惑があったのかもしれない。それが、泥酔して無意識に問題行動を起こした? いやいや、そういうことは絶対にないと思う。