「川田さん、久しぶりに明後日の午後にでもどうですか?」
春野君から携帯に電話が入った。
「こちらも、仕事に区切りがついたところなので、OKです」
「では予約しときます」
すぐに明後日午後の半日休暇届を提出した。
約束した日の昼過ぎに、駅の改札で待ち合わせ。日差しが強い。「予約、指名、いずれもOKです」いざ!
◆ ◆ ◆
この定期的なイベントが始まって、もう5年近くになる。春野君は、僕の3年後輩で年齢は4つ下だ。今の広報部のポジションに移る前の企画部に、僕の後任として研究所から異動してきた。
研究所でも付き合いはあったが、本社でより親しくなった。本社勤務の不安があると思い、先輩として仕事のコツを教えてあげて、仕事の相談にも乗ってあげたところ、非常に感謝されて、兄のように慕ってくれるようなった。
ある時、耳打ちして誘ってくれた。
「良ければ、一緒に少し憂さ晴らしに行きませんか?」
「どこへ?」
「ソープランド」
「行ったことはありますか?」
「上京したときに何事も経験と2回くらい行ったことがあるけど、それからずっとご無沙汰している」
「この歳になると、良さが分かりますよ」
そして、馴染みの彼女から聞いたという作法まで伝授してくれた。
① 受付のお兄さんに好みを伝えること(気質、サービスを把握しているので、かなり正確に紹介してくれる)
② 初対面の彼女が挨拶したらニコッと笑うこと(好感を持っている印象を与えるとサービスが良い)
③ 部屋に入ったらすぐにベッドにドカッと座ること(サービスに手抜きがないように場慣れしている印象を与える。初心者は促されるまで座らないという)
④ ベッドの脇に小型の時計があるから、終了の時間を確認すること(時間が不足ならないように時間配分に注意する)
⑤ 彼女を大切に扱うこと(上から目線にならない。乱暴に扱わない)
⑥ 彼女がいやがらないかぎりしたいことをすること(おしなべて従順)
⑦ 満足したら言葉と態度に出して感謝すること(彼女も気に入られると嬉しい)
⑧ 気に入れば1か月以内に指名を入れて再度行くこと(1か月以内なら覚えていてくれてサービスが良くなる)
⑨ 指名したらサービスを省略させること(楽なので喜ばれ、会話の時間が増えてより親密になれる)
それを聞いて、なるほど人の機微に触れる作法だと感心した。記念すべき第1回目のイベントの彼女はここ5年間を振り返っても最高のレベルのテクニックの持ち主だった。
運がよかった。当たり外れが結構あることは後で分かった。第2回目のイベントではもちろん指名してみたが、作法にあるとおり、親密度が上がったのが分かった。
終わってからの満足感がなんともいえない。何気ない会話、心地よい疲労、このまま泊まってゆきたいほどのけだるさ、きっと昔の吉原にはこういう良さがあったのだなと、しみじみ感じる。確かにこの歳になって分かるのかもしれない。
毎回イベントの終了後は、彼と二人でビヤホールで反省会をするのが恒例となっている。良いことを教えてもらったと感謝すると「川田さんなら秘密厳守で良さも分かってくれると思っていました。何でも話のできる仲間ができて嬉しい」と喜んでくれた。反省会はいつもほどほどで切り上げて帰宅することにしている。
研究所時代の婚約破棄以来、自分が傷ついたのは自身のせいとあきらめられても、相手に取り返しのつかないことをした罪悪感に苛まれた。
もっと、言うべきこと、不満なことをぶつけるべきだった。そうして、お互いの理解をもっと深めていればよかった。一番の後悔は、相手を大切に思わなかったこと、自分のことばかり考えていたのかもしれない。その後悔から、ずっと素人の女性とは距離を置いてきた。
ここ5年間、お互いの仕事が忙しくなければ、月1回位の頻度でイベントを実施して来た。今の収入だとそれが可能だ。面倒な駆け引きなどなしで、短刀直入に目的が達せられる。
うまくいってもいかなくても、その時その場だけの刹那的な関係で終わり、後腐れなし。気に入って指名すれば、親密度が増して恋人気分も味わえる。飽きてくると浮気して新しい彼女に乗り換える。
終わってからの満足感とその簡便さが気に入っている。また、経験した女性の数が多くなったことで、男としての自信もついてきた。
このごろ、どんなに美人でも、すごいテクニッシャンでも、5回も通えば飽きてしまう。理由はよく分からない。
生物学的には、そのくらいで妊娠させて子孫を残したら次を探すからかもしれない。心理学的には、相手の心の中までは入り込めないので新しい相手を探すからかもしれない。
彼女たちはこちらから話さない限りこちらのことを聞いてこないし、こちらも彼女たちの身の上話を聞いたりしない。それでよいのかもしれないが、やはり虚しさはある。簡便さとの裏腹ではある。
ただ、何回も通った娘には情が移る。身体に飽きて、浮気しても、しばらくすると、また、思い出して指名する。身体だけの関係のはずが何故だろう?
終わった後の満足感とはなんだろう? 単に欲望の放出だけではなく、何か他にもある。心のつながり? そう何故かお互いに一歩近づいた気がする。
回を重ねるごとに、お互いの身体を覚えるからか? これは本能的なものか? 身体の繋がりが、心の繋がりを生んでいるのか? 情が移るとはそういうことかもしれない。
春野君には5年ほど通っているなじみの彼女がいると聞いている。電話番号を教えてもらっており、店を替わったら、次の店へ訪ねていくそうだ。
これで3~4回は店を替わったとのことで、その間に年齢が進むから、徐々に格下の店へ移るとのことだ。ただ、行くと喜んでくれてサービスも変わらないと言っていた。
僕は気に入った娘でも電話番号を聞くようなことはしなかった。だから、店を変わると連絡がつかなくなる。それで良いと思っている。去る者は追わず。彼女たちは足が早い。気に入って次回指名してもいないことが結構ある。
◆ ◆ ◆
春野君はこのところ、以前のような積極さが見られなくなってきた。その理由を聞くと、彼女ができて結婚を考えているとのこと、さすがに後ろめたさというか抵抗を感じるようになったようだ。実際に誘いが少なくなっているし、こちらから誘ってもパスが増えていた。
今回は、兄貴夫婦の死亡事故後の葬儀や会社の破産処理などのため間隔が空いていたので、久しぶりのイベント開催だった。まあ、この辺がイベント終了の時期かもしれない。
相手をしてくれる娘も久恵ちゃんとほぼ同じ年頃だ。彼女の代用と思うことは、彼女を自分のものにしたいという気持ちの裏返しだ。そう思うとやはり後ろめたさを感じる。
ただ、久恵ちゃんの気持ちを踏みにじって彼女を傷つけるようなことは絶対にしてはいけないと思っている。あの泥酔して部屋に侵入したときに久恵ちゃんが泣いていたことがいつも心のどこかに残っている。
何事もなかったように帰宅する。
「ただいま」
「おかえりなさい。夕食はパスでよかったですね」
「同僚とビヤホールで済ませた」
「飲んだのに早かったね」
「この前の失敗があるから早めに切り上げたんだ」
後ろめたいことをしてきたと思っていたのかもしれない。それで久恵ちゃんと目を合わせることができなった。
「パパ、同僚は嘘でしょ。女の人の匂いがする。女性の同僚?」
「ええ!」
彼女の感の良さに驚きを隠せなかった。
「洗濯しているから分かるの」
「そんな匂いする?」
ス、ス、鋭い! 浮気はこうしてばれるのか?
あそこでは匂いには特に気を使っている。石鹸は香りの少ないもの、ローションは無香料のはずで、洗髪はしない、香水も強いものはつけていない。石鹸は最初に全身を洗うだけに使い、最後は最小限しか使わない。
残り香はほとんどしないはずなのに、匂いに敏感なのかな? 鎌をかけているのかな?
「好きな人がいるなら、はっきり言って」
久恵ちゃんが食い下がってくる。
「本当に今日は男性の同僚と飲んでいたんだ。本当に好きな女性や付き合っている女性はいない。し、し、強いて言えば、久恵ちゃんだよ」
「本当?」
「誓って」
これは本当に本心だ。
「私、マンションでは妻ということになっているのでお忘れなく。浮気は絶対にダメ」
独占欲が強い。言い方が嬉しい。でも怖い。やはりイベントは止め時かな、春野君に提案しよう。
後輩の春野君はいつもの2次会ではあのこと以外にも面白いことをいろいろ教えてくれた。僕の口が堅いことを知っているからか、元々同じような趣味感覚を持っていると思ったからかもしれない。
たまたまHビデオの話になったときに、購入サイトや購入方法を教えてくれた。春野君はネットで購入して時々気分転換に見ていると言っていた。
教えられたサイトを見て試しに購入手続きをしたら、翌日にはマンションの郵便箱に配達されていた。恥ずかしい思いをして買いに行く必要がない。ネットの普及で随分便利な世の中になったものだと感心した。
僕も春野君と同じでこういうことが嫌いな方ではないので、そうこうしているうちに蔵書でなく蔵DVDが30点ほどになっている。
一人暮らしの時は、誰もマンションに訪ねてこないので本棚に並べてあったが、さすがに今は久恵ちゃんと同居していることもあり、目につかないようにクローゼットの中の棚に後ろ向きに並べてある。例え久恵ちゃんがクローゼットを開いても一見それとは分からないはずだ。
時々目が冴えて眠れないときに、取り出してきて自室のテレビで見ている。夜遅くだから音には特に注意している。ただ、突然、大きな呻き声が出ることがある。
久恵ちゃんが自分の部屋にいる場合は、まずそれでも聞こえないと思うけど、廊下にいると聞こえるかもしれない。
現に、夜中に見ていた時のこと、久恵ちゃんがトイレに出てきたようだった。まさか部屋から出てくるとは思っていなかったので油断していた。
呻き声を聞きつけて「大丈夫?」とドアをノックされた。そして呻き声を心配してのぞいてくれたのだと思う。
すぐにビデオのスイッチを切った。画面が黒く切り替わったのと同時にドアを開けられた。部屋の明かりは元々落としてあったので、布団をかぶって寝たふりをした。
声をかけて僕を起こして、何事もなかったのを確認して、ドアを閉めた。まさか、Hビデオをみていたなんて言える訳もない。そんなことを言ったら嫌われて口を利いてもらえなくなるかもしれない。
その日はそのまま眠ってしまった。次の朝、すぐに取り出してクローゼットの奥に片付けた。しばらくは封印しよう。
◆ ◆ ◆
次の週の半ばに同期会の飲み会の予定が入った。朝、久恵ちゃんには同期会で帰りが遅くなるから食事は不要で、2次会まで行くから帰り時間は11時を過ぎるかもしれないと伝えておいた。
ところが2次会を希望する人が少なかったので、2次会が取りやめになった。もうこの歳になると家族持ちがほとんどで、皆早く家へ帰りたいようだった。
9時ごろ、マンションのエレベーターを降りて廊下を歩いていくと僕の部屋に明かりがついていた。朝、明かりは消したはずだ。玄関のドアを開けると同時に、久恵ちゃんが慌てて僕の部屋から出てきた。
「おかえりなさい。洗濯物を片付けていました」
「ただいま、2次会が中止になったから帰ってきた」
「そうですか、酔いを醒ましてからお風呂に入った方がいいですよ」
「分かった」
僕は自分の部屋に入った。久恵ちゃんの匂いが部屋いっぱいに漂っている。僕はこの匂いに特に敏感だ。部屋で何をしていたんだろう。洗濯ものを片付けていただけではないと思った。残り香が多すぎる。でも机の上は朝、出かけた時のままだった。まあ、いいか。お風呂に入ろう。
今日のお風呂は久恵ちゃんの後だった。いつも彼女は必ず僕の後に入る。どうしてかと聞いたら、兄貴と暮らしているときもいつもお風呂はパパの後にママと一緒に入っていたと言っていた。それを聞いて古風な母娘だと感心したのを覚えている。
ちょっとぬるめだが、飲んだ後は心地よい。それも久恵ちゃんの入った後かと思うと、肌がすべすべになるような気がする。ああ、中年のおじさんはこれだからいやだと言われそう。上機嫌でお風呂から上がった。
「今日はゆっくりでしたね。私の入った後だから、ぬるかったでしょう。ごめんさない」
「い、いや、ゆっくり入れてよかった」
何か後ろめたいことをした後のように、突然声をかけられて驚いた。急いで自室に戻った。
一息ついたあと、ニュースを見ようとテレビのスイッチを入れた。画面がビデオの画面になっていた。あれ! そうだったのか! ピンときた。僕のHビデオを見ていたのかもしれない。
DVDレコーダーの中を確認するが、何も入っていなかった。ただ、クローゼットの中がお風呂に入る前に着替えを出した時とは違っているような気がした。お風呂に入っているうちに片付けた? でもテレビの切り替えを忘れている。
すぐにテレビを消した。画面もそのままにしておいた。気が付かなかったことにしよう。久恵ちゃんを恥ずかしがらせることは絶対にしたくない。
久恵ちゃんは僕がHビデオを持っていることには一切触れてこなかったし、まして非難もしなかった。彼女も僕を恥ずかしがらせることはしなかった。これはお互いに知らないことにしておくに限る。
それにしても、久恵ちゃんがHビデオをどんな様子で見ていたのだろう。今夜は目が冴えて眠れそうもない。
◆ ◆ ◆
次の日、帰宅してから、そっと自分の部屋のテレビを点けたら、ビデオの画面ではなくなっていて、すぐに番組が映った。推理が当たっていたことを確信した。
それが分かってからは帰るときはメールを入れるようにしている。特に帰り時間が予定よりも早くなる時には必ずメールを入れる。久恵ちゃんも帰るときにはメールを入れてと言っている。
とはいうものの、どんなものを見ているか父親代わりの保護者としては知っておく必要がある。これは決して興味本位ではない。父親代わりの義務だと自分に言い聞かせる。
思うに久恵ちゃんには男性経験はないと思う。直感的にそう思っている。だとしたら、映像を見て経験しておいた方が後々のためには良いだろうと思った。興味本位で変な男と関わり合いを持ってほしくないからだ。
30巻の中にはソフトなものから非常に過激なものまでいろんなタイプのものがそろっている。どれを見たか分かるようにディスクに一定の傾きをつけてケースにしまっておいた。
予定どおり帰りが遅くなった時にはHビデオの状況を確認した。見た痕跡があった日もなかった日もあった。ただ、だんだん過激なものが見られている。
実際に経験してみたいなどとは思わないでほしい。それが心配の種だ。世の父親って皆そうだろう。
気のせいかもしれないけど、このごろ久恵ちゃんが僕を挑発している気がしてならない。ここへきたころはお風呂に入ったら、浴室でパジャマまで着替えて出てきていた。
このごろは暑くなってきたせいもあるのかもしれないが、バスタオルを身体に巻いただけで、廊下を歩いて部屋に戻っているみたい。
リビングでテレビを見ていると、浴室から顔を出して僕が居ることを確認すると、浴室へもどってパジャマを着て出てきているみたいだ。僕が自分の部屋に居るとことが分かると、そのまま着替えしないで部屋に戻っているみたいだ。
昨日、自分の部屋に居てトイレに立ったら、バスタオルを身体に巻いただけの久恵ちゃんと出くわした。一瞬二人とも固まった。僕は目のやり場がない。でもじっと見ていたみたいだ。
「見ないで!」といってすぐに部屋に入っていった。
まあ、冷房の効いた部屋でゆっくり身体を拭いて身体が冷えてきてから着たいのは分かる。夏場は特にそうだ。僕も久恵ちゃんがリビングに居ないときはそうしている。
一度そういうことがあると、前よりも気を付けるものだが、久恵ちゃんは違っていた。僕がリビングにいても、バスタオルを巻いたままで、部屋に戻るようになった。
まあ、こちらとしては目のやり場がないとはいえ、目の保養になるので黙っている。後姿はすごく色っぽい。じっと見ていると、突然振り向いた。
「見ないで!」
そう言ったが、まるで見てくれと言わんばかりだった。すぐに目を伏せる。久恵ちゃんはそれを見届けると勝ち誇ったように悠々と部屋に戻っていった。
少しむっとしたが、部屋の前まで行って、ドアをノックして言った。
「ごめんね、見ないようにするから」
「気を付けてください」
それでも、だんだんエスカレートしてきた。時々、後ろを振り向いて僕の目線を確かめる。僕はすぐに目線をそらした。でも久恵ちゃんが向こうを向くとすぐに僕は目線を戻した。
油断した。もう一度後ろを振り向いてきた。
「見ないで!」
そう言うと、向こうを向いてバスタオルを両手で開いた。
僕は驚いて手に持っていた水割りのグラスを落としそうになった。久恵ちゃんはバスタオルを両手で開いたまま、悠々と歩いて行った。このシーンどこかであった。昔CMで見たような気がする。
すぐに部屋の前まで行って、ドアをノックして言う。
「あまり僕をからかわないでくれないか? 今度したら我慢できなくなって襲い掛かるかもしれないよ」
「見なきゃいいでしょう」
本音を言ったつもりだった。これ以上挑発されたら持たないかもしれない。しばらくの間は久恵ちゃんがお風呂に入ったら自分の部屋にいることにした。それなら見るようなこともないし、挑発にも合わない。
◆ ◆ ◆
金曜日の晩、僕が好きなアクション映画がテレビ放映される。自分の部屋のテレビは中型で迫力がないから、アクション映画放映の時にはいつもリビングの大型テレビで見ることにしている。久恵ちゃんはアクション映画を好まないので、お風呂に入った。
いつものようにお風呂からバスタオルを巻いて出てきたのが見えた。僕がテレビに夢中になっているのが気に入らなかったのか、そのまま冷蔵庫にペットボトルを取りにきた。僕の視線が久恵ちゃんに向かったのが分かると、向こうを向いてまた両手でバスタオルを開いた。
僕は「久恵ちゃん」と言って、立ち上がろうとした。それが分かると、久恵ちゃんは何を思ったのか、あわてて部屋へ戻ろうとした。
でも今回は手にペットボトルを持っていたのと、風呂上がりで足が濡れていた。すべってバランスを崩して浴室の前で転んだ。太ももが、お尻が露わになる。
僕は慌てて助け起こそうとソファーを立ち上がって久恵ちゃんのところへ行こうとした。どう思ったのか久恵ちゃんは慌てて廊下を這って部屋に向かっている。お尻が大事なところが丸見えだ。
僕が「大丈夫?」と言うのと久恵ちゃんが部屋に入ったのは同時だった。部屋の前まで行って、もう一度「大丈夫?」と声をかける。
「お尻は大丈夫だけど、足を捻ったみたい」
「見てあげる」
「ちょっと待って」
しばらくしてドアが開いた。パジャマを着た久恵ちゃんが座って足首をさすっている。
「ほら、言わないことじゃない。僕をからかうからだ」
「パパが本当に襲い掛かってくると思ったから慌てた」
「冗談に決まっているだろう。信用がないな」
触って動かした感じではそれほど重症でもなさそうだ。湿布薬を持ってきて足首に巻いてやった。歩くと痛いというが大丈夫だろう。
それから久恵ちゃんの挑発は全くなくなった訳ではないが控えめになった。あれ以上になると本当に襲い掛かってしまうかもしれない。
あんなに挑発しているのに、あの驚きよう。覚悟してそうしているのでもなさそうだ。その気持ちが測りかねる。
あの時は理性が完全に勝っていたが、ほんのわずか本心があったようにも思う。まあ、挑発が全くなくなると寂しいが、適度な挑発なら僕にとっては良い刺激だ。
僕は久恵ちゃんに本当の父親について聞いたことがあった。久恵ちゃんのママの話によると、生まれる前に亡くなったとのことだった。兄が亡くなったときに戸籍が必要になって分かったが、戸籍上も母親の子となっていた。
何か事情があったのかもしれないが、母親が亡くなった今はもう何も分からなくなっていた。
「私には優しい崇夫パパがいたし、新しいパパもここにいるので普通の人よりずっといい」と言っていた。それならそれで良しとしよう、そう思っていた。
母から8時過ぎに電話がかかってきた。久恵ちゃんのことで話があるという。久恵ちゃんには聞かれないようにしてほしいというので自分の部屋に入った。
今日、母の住む高齢者住宅に吉村真一という人が訪ねて来たという。吉村という人は若い時の知り合いの女性が亡くなった義姉の潤子さんと同一人物か確かめたいということだった。
吉村という人は50歳ぐらいで京都の大きな会社の社長をしているとのことだった。去年12月の事故が全国で放送されて、潤子という名前と年齢が一致していたので、気になって新聞記事を頼りに探して母のところまでたどりついたとのことだった。
息子夫婦の家族の写真を見せたが、すぐに探していた潤子さんだと分かった。お墓参りをさせてほしいと言われたので、一緒に墓参りに行ったということだった。長い時間、お墓の前で手を合わせていたそうだ。
一緒に写っていた久恵ちゃんのことを聞かれたので、潤子さんの連れ子だと話したら、顔色が変わったという。久恵ちゃんのことを教えてほしいというので、東京で次男が父親代わりになって一緒に暮らしていると話したという。
吉村という人に私の子供かもしれないので会わせてもらえないかと頼まれた。一存では答えられないと言って、とりあえず引き取ってもらったが、どうしたものかと僕に相談の電話を入れたのだという。先方の住所、氏名、電話番号を聞いているので、久恵ちゃんと相談してどうするか考えてほしいと言った。
久恵ちゃんの父親については、生まれる前に亡くなったということ以外は聞いていなかった。兄貴も詳しくは知らなかったようだ。兄貴の性格からして無理に義姉から聞き出すようなこともしなかったのだろう。吉村という人がわざわざ義姉を探してお墓参りに来たのはきっと何か事情があったはずだと思った。
突然の話でどうしたものか、久恵ちゃんにはどう話したものか、考えがまとまらない。とりあえず明日の晩に久恵ちゃんに相談することにして一日考えることにした。
◆ ◆ ◆
一日考えたが良い考えは浮かばなかった。久恵ちゃん自身のことなのだから、他人がどうこう言う話でもない、どうするかは彼女自身が決めるしかない。ありのままを話すしかないというのが結論だった。
食事の後片づけが終わったので、コーヒーを飲もうと久恵ちゃんを誘った。コーヒーを飲みながら、昨日の夜の母からの電話の内容をそのまま伝えた。久恵ちゃんは放心したように黙って聞いていた。
「どうする久恵ちゃんの気持ち次第だけど」
「いまさらそういうことを急に言われても会う気になれません。それならどうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?」
「なにか事情があったのだろう」
「そんなの向こうの勝手な事情でしょ」
「会わなくていいのか、後悔するよ」
「今は会いたくありません」
「それなら、僕が会ってきてもいいかな? 僕は久恵ちゃんの父親代わりだから、娘のためならできるだけのことはしたい。吉村という人のことも調べておきたいし、本人から直接事情も聞いておきたい」
「そうまで言うのなら、パパに任せます」
◆ ◆ ◆
次の日、僕は会社で母から聞いていた電話番号に連絡を入れた。こちらの名前を言うとすぐにつながった。
先方の電話の応対は丁寧で好感が持てた。久恵ちゃんが今は会いたくないと言っていることと僕が代わりにお会いしても良いと伝えた。
先方は僕に是非会いたいと言ってきた。丁度東京へ出張するというので、ホテルのラウンジで今週の金曜日の夜7時に会う約束をした。
約束の時間にホテルのラウンジで約束を告げると、すぐに奥の方の個室へ案内された。食事ができるようになっていて、そこに50歳くらいの品のいい紳士が待っていた。
僕が来たことが分かると立ち上がって一礼をした。顔を見てすぐに久恵ちゃんの父親であることを確信した。目元と鼻、口元がそっくりだった。
名刺交換をした。名前は吉村真一、京都の有名ホテルチェーンの社長だった。吉村さんは義姉とのことを話してくれた。大学を卒業してから父親のホテルでホテルマンの修業をしていたころに同じホテルに勤めていた義姉と親しくなったという。義姉は控えめで、不器用で失敗ばかりしていた彼を励ましてくれたという。
彼は一人息子だった。義姉と結婚したいというと両親から猛反対されて、義姉もホテルを辞めさせられて、行方知れずなってしまったという。
妊娠していたことは知っていたか聞いたところ、身に覚えがあったが、妊娠していたら自分に黙って身を隠すようなことはしないと思ったという。
彼女は自分のために身を引いた、いや引かされた。そう思うと申し訳ないのと両親への反発もあって、それから何年も縁談を断り続けたという。
それから20年経って、偶然テレビで交通事故に夫婦が巻き込まれたというニュースを見たそうだ。写真が彼女に似ていたし、名前と年齢が一致していたので、気になったという。興信所に頼んで、新聞記事から住所を探してもらって、ようやく母のところにたどりついたという。
それで娘さんがいたのでもしやと思って聞いたら、彼女の連れ子だったので驚いた。年齢から自分の娘だと確信したという。
娘に会って謝りたいという。知らなかったでは済まされないと言った。是非、会わせてほしいと懇願された。そういう父親の気持ちはよく理解できた。
久恵ちゃんにはそう伝えるが、ここへ来る前にこの話を伝えたとき、動転して会うことを拒絶したので、今は会わないで静かに見守ってやってほしいとお願いした。いずれ、久恵ちゃんの気持ちの整理がついたら便宜を図ると言っておいた。
それから亡くなった義兄が父親代わりをして、彼女も義兄を慕っていたことを話した。また、今は僕が父親代わりをしていることも話した。だから安心しているように言っておいた。
彼はどうか娘のことをよろしくお願いしますと何回も何回も頭を下げた。気持ちの優しい誠実な人だと思った。
◆ ◆ ◆
9時半過ぎにマンションへ帰ってきた。今日、彼と会うことは、約束ができた日に久恵ちゃんには話しておいた。今日は会社から直接ホテルへ向かった。
短時間で済むと思って、食事を一緒にすることになろうとは思っていなかった。帰る時に、食事を一緒にしたことを久恵ちゃんにメールで伝えておいた。
マンションに着くと、久恵ちゃんが食事を済ませて、後片付けをしているところだった。僕はリビングのソファーにそのまま座った。
久恵ちゃんは無関心を装って何も聞いてこない。キッチンの掃除をしていてこちらに来ない。僕が話し始めるのを待っているようだった。
「久恵ちゃんのお父さんに会ってきた」
「どうして父親だと言えるのですか?」
「一目見て分かった。久恵ちゃんに目元と鼻それに口元もそっくりだった」
「他人の空似もあります」
「久恵ちゃんのママとのことも詳しく聞いてきたから、間違いないだろう。辻褄も合うから」
それから、僕は久恵ちゃんに父親から聞いてきたことを一部始終話した。会って謝らせてほしいと懇願されたことも話した。
「会いたくありません。死んだものと思っています。大体、避妊もしないで妊娠させるなんて、男として最低!」
「でも、久恵ちゃんのママは彼を愛していたのではないのかな。だから彼のために妊娠していることも黙って身を引いたのじゃないのかな。そしてママには愛した人の子供である久恵ちゃんが生きがいだったのではないか。僕は彼に会ってそう思った」
「そんな身勝手なこと、子供には迷惑な話です」
「じゃあ、ママが嫌いになった?」
「・・・・」
「死んだものと思っているのなら、遺影だと思って見てみるかい? 彼の写真を数枚撮ってきた。確かに会ったという証拠のために僕と一緒の写真も撮っておいた」
「見たくありません」
「遺影だと思って、父親の顔も知らないと言ってたけど、顔ぐらい知っていてもいいんじゃないか、ほら見て」
スマホに撮ってきた写真を無理やり久恵ちゃんの目の前に出して見せた。するとじっと見入った。
「どう?」
「どうって、普通のおじさん、まあ、普通より少しはましな方かな」
「転送しようか?」
「いいえ、パパが持っていて下さい」
「じゃあ、大事にしまっておくよ」
「今日は私のためにありがとう。疲れたでしょう。ゆっくりお風呂に入って下さい」
そういうと、久恵ちゃんは自分の部屋に入った。僕が自分の部屋からパジャマと下着を持ってお風呂に入ろうとしたとき、久恵ちゃんの部屋で泣き声が聞こえた。僕の前では我慢していたんだ。
考えてみれば彼女は幸せものだ。父親代わりの兄貴と僕と本当の父親と3人も父親がいるんだから。僕の前で喜んだり泣いたりしては死んだ兄貴にも僕にも悪いと思ったのだろうか? 久恵ちゃんらしい。
僕は吉村さんとの別れ際に久恵ちゃんの写真が必要か尋ねた。もし1枚でもいただければ嬉しいと言われたので、携帯に保存してあった僕が気に入っている写真数枚を転送してあげた。大切にすると感謝された。このことは久恵ちゃんには黙っていた。
次の日の朝、何かが吹っ切れたようにすっかり元の久恵ちゃんに戻っていた。父親とのことはいずれ時間が解決してくれるだろう。
7月の下旬、ここのところ暑い日が連日続いている。部長に呼ばれた。何だろう?
「川田君、今日急だけど、私の代わりに講演会と懇親会に出くれないか?」
「いいですよ」
「場所は?」
「霞が関ビルだ。講演を聞いて、簡単な報告書を書いてほしい。メモ書き程度でいいから」
「了解です」
招待状を渡された。時々、部長の代理出席を頼まれる。広報部長はほかの会社との付き合いが多い。今日は暑いから部長は行きたくないみたいだ。僕はかまわない。外勤は気分転換になる。
午後会場へ向かう。会場の受付で招待状を示し、代理で着た旨を伝え、名札を受け取る。それに講演要旨をくれるからメモ作成は簡単だ。居眠りしないで聞いて、懇親会で適当に飲んで食べて帰るだけだ。
すぐに夕食はパスすることと、およその帰宅時間を久恵ちゃんにメールした。すぐに返信のメールが入る。[絶対に飲み過ぎないで!]こちらも[了解、ありがとう]と返信した。
前回の泥酔事件で懲りているから、懇親会でのお酒はほどほどで終了して、一足早く退席することにした。
帰り際に突然、強烈なゲリラ豪雨が降り出した。傘はいつも携帯しているが、全く役に立たない。走って地下鉄への階段の入口へ向かう。
階段を2、3段降りたところで、スリップした。しまった! 右肩を下に転倒した。
右肩に激痛が走る。小さい時から雪道で滑って転ぶのには慣れているので、とっさに避けて幸い頭は打たなかった。
右の手先の位置感覚がおかしい。自分の手じゃないみたいにずれている。激痛! 右肩が痛い!
後から続く人が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。「大丈夫です」と答えるが、大丈夫じゃない。何とか起き上がった。
これは大変なことになったと思った。とにかく家へ帰ろう。でも地下鉄で帰る気力がない。
入り口に戻って、大通りでタクシーを拾おうとするが、この土砂降りの雨、空車なんか走っていない。
久恵ちゃんに電話を入れる。階段で転んだから、タクシーで帰るけど、すぐには車が拾えないので帰宅が遅れると伝える。
雨の中、道路を渡って反対側のビルの軒下で空車を待つ。運よく1台、空車が通りかかったので乗車できた。一路自宅へ向かうが、右肩に激痛が続いている。
マンション前の大通りで久恵ちゃんが傘を持って心配そうに待っていてくれた。
「パパ、大丈夫?」
「ありがとう、迎えに来てくれて、階段で転んで肩を打撲した、すごく痛い」
「カバンを持つわ」
「助かる」
傘をさしてくれる。助かった! ゆっくり歩いてようやくマンションにたどりついた。
部屋に布団が敷いてあり、すぐに休めるようになっていた。とりあえず部屋着に着替えて横になるが、右肩の激痛は続いている。
水を持ってきてくれた。
「痛みはどう?」
「すごく痛い。明日の朝、病院に行くから」
「顔色もよくないから、すぐに病院にいかなきゃだめ」
「もうこんな時間だから、病院は明日でいいから」
「だめ、病院に行かなきゃ。いやでも私が連れて行く」
久恵ちゃんは119番に電話している。救急車を呼ぶのかと思いきや、近くの病院を紹介してもらっていた。
「見てもらえる病院が見つかったからこれからすぐに病院へ行きましょう」と急き立てる。そこまでしてくれたらもう行くしかない。
また、大通りへ出る。もう雨は上がっていた。時計を見るとまだ8時だ。確かにこの時間ならまだ診てもらえる。
大通りは空車がよく通る。すぐにタクシーに乗って紹介された近くの病院へ向かう。
裏口にある守衛さんのいる受付を通って院内へ入り、案内された処置室へ向かう。整形外科医が待っていてくれた。それがうら若き美人の女医さんでラッキー! すぐにレントゲン撮影をしてくるように言われた。
診断は右肩脱臼で骨折はないとのことだった。脱臼だから元に戻すと言って女医さんが腕を引っ張る。だけどとっても痛い。痛タタタ・・・・・!
女医さんは力が弱いから大丈夫かなと思ったが、何度か試みるうちにポコンとはまったのが分かった。やっぱり脱臼だった。これで一安心した。
三角巾で腕を吊ってもらって、今日の処置はここまでで、明朝再度病院へ来るように言われた。
帰りのタクシーの中で「女医さん美人だったなあ」と言うと「こんな時に不謹慎」と久恵ちゃんにひどく叱られた。それから長々とお説教された。
「こんな時に不謹慎極まりない」
「心配させて、そんなに浮かれていていいの」
「あのままにして病院に行かなかったらどうなっていたか分からないのに、自覚が足りない」
「階段で転ぶって、浮かれて油断しているからよ」
まるで小学生が母親にしかられているようだった。しょんぼりして反省した。また、借りができた。
マンションに戻ってから改めて久恵ちゃんにお礼を言った。
「ありがとう、久恵ちゃん。一人で生活していたらすぐには病院へは行かなかった。今日行かなかったら、もっとひどいことになっていた。本当にありがとう、助かった」
「私ね、パパには長生きしてもらいたいの。崇夫パパのように早死にしてもらいたくないの。長生きして私を守ってもらいたいの。だって、ママもいないし、パパのほかはもう誰もいないのよ」
「僕は死ぬまで久恵ちゃんを守り抜く覚悟だよ。兄貴と約束したから」
「私もパパを守り抜くから、絶対に死なせない」
「ありがとう」
「ママは自分のためには生きられなくとも、娘のためなら生きられるものなのよ。自分のためよりも人のためなら生きられるものなのよといつも言っていたわ」
突然、後を向いて、久恵ちゃんが泣き出した。死んだ両親を思い出したみたい。
「私、とっても悪い子なの。両親が事故でなくなったのは私のせいなの。私ね、ママが死んだら、パパの世話をするから、安心してとママにいつも言っていたの。ママはお願いねといっていたけど。ママが死んだ時のことばかり考えていたこともあるの。それはね、私がいつからかパパのことを好きになったからなの。罰が当ったのね、二人とも死んでしまった」
久恵ちゃんは、泣きじゃくるばかりだった。思わず、後から片手で抱き寄せてしまった。突然のことで身体を固くしたのが分かった。泣き止んだ。
「そんなこと考えたらだめだ。久恵ちゃんのせいじゃない。兄貴を好きになってくれてありがとう。きっと喜んでいるよ」
「一度だけ、死んだパパも今のように後ろから抱きしめてくれたことがあるの、ママのいない時に、嬉しかった。パパ、私も好きよといったら、驚いて手を放したわ。後も先もそれ1回だけだったけど」
「きっと兄貴も久恵ちゃんのことをとっても好きだったと思うよ。事故は久恵ちゃんのせいなんかじゃない。それが運命だった」
「運命って?」
「定めと言っても良いかもしれない。そう思うと楽になれる」
以前から、久恵ちゃんが死んだ両親の話をするときに見せる陰に気が付いていたが、それが何か今、分かった気がした。癒してやらないといけない。
8月下旬になってもまだまだ暑い毎日が続いている。脱臼した右肩の調子もまずまずで、吊っていた三角巾も外してよくなった。ただ、完治までは週1回は病院へ行ってリハビリをしなくてはいけない。全治3か月の怪我だった。
今週の土曜日に二子玉川で花火大会があるから行ってみたいと久恵ちゃんが言っている。数年前に行ったことがあるので、すごい人出であることが分かっていた。東京の花火大会は規模が大きいが、人出も並外れている。
ここのところ、花火はもっぱらテレビで見ることにしていた。クーラーの効いた部屋を暗くして大型テレビでビールでも飲みながら観るのが最高だと思っている。
そう言っても、行ってみたいと言って聞かない。一度行けば大変さが分かると思って出かけることにした。
◆ ◆ ◆
当日は天候が不安定で夕立もあるとの予報が出ていたので、リュックに折り畳み傘やら敷物やら飲み物を入れて出かける準備をした。
久恵ちゃんはずいぶん支度に時間がかかっている。もう2時間近く部屋に入ったきりだ。早めに行って見やすい場所を見つけておいた方が良いのにと思っていると部屋から出てきた。
浴衣を着ていたんだ。黄色地に真っ赤な大きな花柄が入っている。それに真っ赤な帯をしている。ショートの髪は浴衣にも良く似合っている。
「すごく浴衣が似合っている。とてもいいね」
「そう言っていただけると時間をかけて着たかいがあります」
「自分で着られたのなら大したもんだ」
「おばあちゃんが着付けを教えてくれました。これは崇夫パパが買ってくれたものです。成人式の着物を買ってくれるというのでそれは貸衣装でいいと言ったら、それならとこれを買ってくれました。一度だけこれを着て3人で花火を見に行きました」
「思い出の浴衣なんだね」
「だからこれを着てみたくて、そしてパパにも見てもらいたくて」
「ありがとう。とっても素敵だ」
「そういえば成人式には出席したの?」
「両親が亡くなって49日も済んでいなかったので出る気になれず、欠席しました」
「気が付かなくてごめんね。何とか出席させてあげたかった。兄貴もそう思っていたはずだから」
「もう過ぎたことです。それより早く出かけましょう」
旗の台で大井町線に乗り換えるが、浴衣姿の若い女性が目につく。下駄の心地よい音が聞こえる。でも久恵ちゃんがひときわ目立っている。これはひいき目ではない。一緒にいる僕も鼻が高いし、悪い気がしない。
もうずいぶん電車が混んできている。乗り込んで奥の方へ進む。席に座っている中年の女性が僕たち二人を見上げている。親子だろうか? でも年が近すぎる。まさか恋人同士ではいないだろう。歳が離れすぎている。そんな怪訝な顔をして見ていた。
大岡山、自由が丘でも大勢の人が乗ってくる。降りる人は少ないので電車がますます混んでくる。久恵ちゃんと身体が触れ合うくらいだ。必死で身体を離す。
ようやく二子玉川へ到着した。ほっとした。ホームは人でいっぱいだった。改札口を出ても人でいっぱいだ。まるで渋谷のスクランブル交差点を歩いているみたいだ。しっかり手を繋いで離れ離れにならないように注意して前進する。
辺りはまだ明るい。花火が始まるのは7時を過ぎて十分に暗くなってからだ。それまで明るいうちに二人が座れる場所を見つけておかなければならない。河原の方へ降りていくことにした。
幸い二人でなんとか座れる場所を見つけて陣取った。敷物をリュックから取り出して敷いてその上に久恵ちゃんを座らせる。そのすぐ隣に僕が座る。身体が密着するほど狭いが仕方がない。
久恵ちゃんが汗でびっしょりなのに気が付いた。リュックからタオルを出して汗を拭くように渡す。
「すごい汗だ、よく拭いて」
「ありがとう。こんなに人が多いとは思わなかった」
「でも何とかこうして座れてよかった。始まるまでまだ時間がある」
僕はリュックから持ってきたポカリのボトルを2本取り出して1本を久恵ちゃんに渡した。喉が渇いていたと見えて、久恵ちゃんは一息で飲み干した。僕は半分くらい飲んでまたリュックにしまった。
そして、リュックから扇子を取り出して久恵ちゃんを扇いでやる。蒸し暑いがこれで少しはマシだろう。
「さすがにパパは準備が良いからいつも感心する。だからパパと一緒だと安心していられる。本当に私の守護神ね」
「そのとおりだ。僕は久恵ちゃんをどんなことがあっても必ず守る。兄貴との約束だからね」
それに応えるように久恵ちゃんは身体を持たれかけてきた。汗の匂いの入り混じった久恵ちゃんの匂いがする。熱い腕が密着する。ちょっと暑苦しいが悪くない。
こんな蒸し暑い人ごみの中だけど今が一番良い時に思える。この感じ、どこかであった。そうだ、上京するときの新幹線の席だった。
少し眠っていたかもしれない。ドーンという音で目が覚めた。あたりは暗くなっていた。僕だけ眠っていたみたいだ。
「とっても綺麗」
「始まったんだ」
「いびきをかいて寝ていたけど、目が覚めた?」
ドーン、ドーンという音が心地よく響いて聞こえる。風向きによって時々火薬のにおいがする。久恵ちゃんはずっと見上げたまま動かない。嬉しそうなので連れてきたかいがあった。
途中で喉が渇いたというので、残っていた僕のペットボトルを「これでもいいか」と言って渡した。
何のためらいもなく一気にそれを飲み干してしまった。間接キスをしたことになるが気にも留めない様子だったが、僕は気に留めた。
花火が終わった。長いようで短い時間だった。一斉に人が立ち上がり、帰りの駅に向かって歩き出す。人が多くて動きが遅い。
電車に乗るまで小1時間もかかった。来た時と同じ通勤ラッシュ並みの満員電車だ。雨が降り出した。電車の窓がびしょ濡れだ。稲光がしている。予報どおりの夕立か? 幸い傘は準備してきているので大丈夫だ。
雪谷大塚の駅を降りても雨はやんでいなかった。というよりすごい土砂降りになっている。
「少し雨宿りする?」
「すぐに帰りたい」
そういうので、折りたたみ傘を取り出して、土砂降りの中を相合傘で歩き出す。久恵ちゃんは黙々と歩いている。いつもよりずいぶん早歩きだ。顔が少し引き攣っているように見える。
ひょっとして、我慢している? きっとおしっこを我慢している! 汗をかいたとはいえ500mlのボトルを1本半飲んでいた。それに雨に濡れて身体が冷えてきた。
それを確信したので歩調を合わせて帰り道をいそいだ。裏道の方が短いはずだが、こんな時に限って随分遠い感じがする。久恵ちゃんもきっとそう思っているはずだ。
マンションの裏口が見える。もう一息だ。エレベーターに乗って3階へ。ドアを急いで開けようとするが鍵を持つ手が震える。ドアを開けて久恵ちゃんを先に入れてやる。
久恵ちゃんは濡れた足で滑らないようにゆっくり歩いてトイレの中に消えた。廊下に水滴が垂れている。ひょっとしてと思ったが、浴衣の裾が雨でびっしょりだったので、それが垂れたのだろう。そういうことにしておこう。
水を流す音がして、久恵ちゃんが出てきた。すぐに床の水滴に気が付いて、トイレットペーパーを持ってきて、拭き始めた。すぐに手伝おうと雑巾を取りに行こうとした。
「大丈夫です。浴衣の雨水ですから、私が拭いておきます」
「分かった。まかせる。僕はお風呂の準備をしてあげよう」
そう言ってその場を離れた。すぐにお風呂の準備ができた。久恵ちゃんはまだ丁寧に床を拭いていた。疲れが見えた。
身体が冷えているからと言って、久恵ちゃんを先に入れた。いつもなら遠慮するところだが、今日はそれではお先にと言って着替えを抱えてそのまま浴室へ入って行った。
ずいぶんの長湯だった。途中で何度も「大丈夫?」と声をかけたくらいだった。ほどなく元気を取り戻して上がってきた。そして、ボトルのジュースを飲みながら言った。
「今度から花火はテレビで観ることにしましょう」
だから、そういったじゃないか! いろんなことがあったけど、僕にとってはとても楽しい花火見物だった。
3時ごろに会議が終わり一休みしていたら、学校から電話が入った。久恵ちゃんが調理実習中にフードプロセッサーで指に怪我をしたという。病院に救急車で運んだが、手術の承認が必要なので、すぐに来てほしいとの連絡だった。
慌ててタクシーで病院へ駆けつける。途中、何本かの指を落としたのではとの不安がよぎる。そうなったら、可哀そうでかける言葉が思いつかない。
案内されて病院の処置室に入ると、右手に包帯を巻いた久恵ちゃんがうなだれて座っていた。
「大丈夫か?」と声をかけると「ごめんなさい」と泣きだした。そこへ主治医の女医さんが来て、怪我の状況を説明してくれた。
診断の結果、右手中指は第1関節の先の傷が5㎜程度の深さで縫うだけで済んだが、薬指第一関節の先の傷が深く、かろうじて指先がつながっているので、すぐに手術するとのことだった。
細い血管の縫合は難しいのでやってみないと分からないが、薬指1本の先がなくなる可能性もあると言われた。
承諾書に近親者として署名捺印した。もう、よろしくお願いしますと頼むしかなかった。
「大丈夫、気をしっかり持って」と励ましたが、久恵ちゃんは不安そうに手術室へ入って行った。
待合室に行くと、学校の先生が待っていた。怪我の診断結果を知らせると「申し訳ありません」と詫びるので「彼女の不注意です。こちらこそご迷惑をおかけしました」と詫びた。
実習中なので、治療費はすべて学校が加入している傷害保険でまかなえるとのことだった。もう自分が来たので、大丈夫だからと引き取ってもらった。
手術は2時間程かかった。順調に終わり1~2日で成功したか分かるとの説明を受けた。久恵ちゃんはもう病室へ運ばれていた。
この前、右肩を脱臼した時の整形外科の女医さんも若くて美人だったが、こちらの整形外科の女医さんも若くて美人なので、説明を聞きながら見とれた。「こんなときに不謹慎」と久恵ちゃんに叱られそう。
教えられた病室へ行くと、久恵ちゃんが窓の外を見ている。一人部屋だった。秋の夜の8時はすっかり暗くなっていて、ライトアップした橋が見えた。
「綺麗だね」
「うん。ごめんなさい」
怪我した時のことを話してくれた。考え事をしていて、指が何かに当ったと思ったら血が飛び散ったという。指が痛いので、指がフードプロセッサーの刃に触れたと分かった。
「キャー」と言うと、周りの人が気付いてくれて大騒ぎになった。指が血だらけで、痛くて痛くて、腰が抜けた。すぐに先生が救急車を呼んでくれて、この病院へ運ばれたという。
「結果は1、2日で分かるそうだ」
「先生から聞きました」
「指が壊死すればあきらめて」
「うん、私の不注意だから」
「実習中は集中しないとだめ」
「分かっている」
「心配事があるのなら、相談にのるよ」
「大丈夫です」
久恵ちゃんはそのことについては何も話さなかった。
「きれいな女医さんだったね」
話をそらすと、やはり叱られた。
「こういうときに不謹慎でしょ!」
「ごめん。そういう意味では」
「どういう意味?」
何故かこういう時でも絡んでくる。僕が黙っているとそれに気が付いたみたい。元の久恵ちゃんに戻った。
「1週間は入院しなければならないので、着替えを持って来てもらえませんか?」
「いいけど、下着だよね」
「うん。プラケースの中、適当に2~3枚ずつ、見れば分かるから」
「いいのかい」
「仕方ないでしょ」
「分かった。あすの朝、出勤途中に寄るから」
「お願いします」
「何かほしいものある?」
「喉が渇いているのでジュースが飲みたい」
「すぐに売店で2、3本買ってくるよ」
売店はもう閉まっていた。自動販売機でジュースを3本仕入れた。部屋に戻ると、久恵ちゃんがもじもじしている。
「どうかした?」
「トイレに行きたい」
「すぐに看護婦さんを呼んでくる。いや、そこのコールボタンを押せばいい」
「待てない。出ちゃう! 怪我した時からずっとトイレに行ってないの。すぐにつれてって」
「ええ!」
右腕は包帯で胸の前に固定されて、左腕には点滴の管が支柱にまでつながっている。「大丈夫かい」と言いながら、部屋の入口にあるトイレまで付き添って中へ導く。久恵ちゃんの顔が引きつっているのが分かるので、すぐに出ようとする。
「下着を下して早く」
「えええ!」
「でも、見ないで!」
後ろを向かせてそっと下すと腰かけようとするので慌てて外へで出る。
水を流す音が聞こえる。しばらくして、中から声がする。
「下着を上げて」
「は、はい」
久恵ちゃんは後ろを向いて立っていた。目を伏せて下着とパジャマを上げた。でも可愛いお尻が見えた。それから、また付き添ってベッドへ導く。
「今度から早めに看護婦さんに頼むように」
言い残して慌てて病室を出た。
帰宅したら疲れがどっとでた。事故に動転して駆けつけて、手術中は緊張して、最後のドタバタがとどめ、もう疲れたー!
それから毎日、朝の出勤時と仕事を終えてからも病室に顔を出した。経過は良好で日に日に久恵ちゃんは元気を取り戻していった。
それから1週間後、下着の替えがなくなるころに久恵ちゃんは退院した。幸いにも縫合部分の壊死もなく、指はつながった。
そのあと2週間ほど自宅療養した。今回の怪我は戸惑うことばかりだった。男親では手に負えないことが盛りだくさんあった。
洗濯は僕がしていたが、久恵ちゃんからは下着の洗濯を頼まれなかった。下着は自分で洗っていたみたいだった。
朝食の準備と後片付けは僕がした。一人でいたときは全部自分でしていたので特に問題はない。2人分作るだけだ。その分出勤時間は遅くなったが、それでもいつもは早く出すぎているので問題なかった。
昼食はいろいろな種類の冷凍食品を買ってきて、電子レンジでチンして食べてもらった。夕食は僕が美味しそうなお弁当を買って帰った。
お風呂は怪我したほうの手をビニール袋で覆って入っていた。退院したばかりのころは、僕が目をつむって、着ているものを脱がしてあげたり、湯上りの身体を拭いてあげたり、それからパジャマを着せてあげたりしていたから、とても時間がかかった。
ただ、前にいるときは目をつむっていたけど、後ろ回ったときはしっかり後姿を見ていた。綺麗な背中と可愛いお尻が忘れられない。
怪我の回復は若いのでとても早かった。これは救いであった。再び学校へ行く朝、僕の所へ来た。
「パパ、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさない。親身になってくれてありがとう」
「今回は退院後の世話を十分してあげられなくて悪かったね。久恵ちゃんのママが生きていてくれたらと、女の子には母親が必要なことを痛感した」
「いえ、十分にお世話してもらったから、そんなことはありません」
「父親がどんなに愛情を注いでも、母親にはかなわない。母親の子供への愛情は父親の愛情とはかなり異質のような気がする」
「私は、物心がついた時から父親がいなかったので、比較できないけど、ママは私を命がけで育ててくれた。母親の愛って本当に一方的ですごいものだと思います」
「母親の子供への愛情って、お腹の中で芽生えて、育み、苦しんで生んだ、という実感からきていて本能的なものじゃないかな。父親の子供への愛情は、実感が伴わなくて、目で見ての愛おしさや責任感から来ていると思う。妊娠して生んだ母親と射精しただけの父親では根本的に感じ方が違って当然だと思う。母親は間違いなく自分の子供と認識できるが、父親は実感がないので本当に自分の子か確信できないのではないかな。それが、懐いてきたり、顔が似てきたりすると少しずつ実感できるようになるのだと思う」
「ひとつ聞いていい? 男女間では一方的な愛情ってありえるの?」
何で今そういうことを聞くのかな?
「片思いがあるけど、片思いはあこがれのような思いであって愛情とは異なるのではないのかな。一方的に愛して尽くすという見返りのない愛情はいずれ破たんすると思う。なぜなら、思いが高まって行かないから」
「片思いはなかなかうまくいかないというからそうかもしれない」
「そうは言っても、男女間では一方が好きになると、それに応えるように相手も好きになっていくのではないかな。好意を持ってくれる人に好意を持つというのは、極く自然のことだから。相手を愛さなければ、相手も愛してくれない。好いて好かれてお互いに高めあっていくのが男女間の愛情だと思う」
「好意を感じるとますます好きになる。分かる気がする」
「愛情とは少し違うけど、信頼関係も正に相互の信頼から成り立つ。信頼するから信頼される。職場でも部下を信頼しない上司は部下からも信頼されない。一方的な信頼関係というものは成り立たないし、ありえないと思う。でもどちらかから、信頼していることを表さないと信頼関係は築けないし進展しない。これは男女間の愛情と同じだと思う」
「パパの持論ね。いい話ありがとう。とっても参考になった」
「また、考え事していてはだめだよ」
久恵ちゃんは怪我の原因になった考え事についてはやっぱり話してくれなかった。まさか、自分が原因とは思いもしなかった。
夕食を終えて、ソファーでテレビを見ていると後片付けを終えた久恵ちゃんがそばに座った。
「コーヒーを入れてあげよう」
「ありがとうございます。ちょっとご相談があります」
「何? 深刻な顔をして。コーヒーを飲みながら聞こうか」
用意した2人のカップにコーヒーを注ぐ。今日買ってきたモカブレンドだ。モカの特徴が出ていてなかなか出来の良いブレンドだ。
久恵ちゃんは飲みながら話をしてくれた。
専門学校の同じ班のクラスメイトから結婚を前提にしたお付き合いを申し込まれているという。同じ班なので気軽にお話していたらこんなところまで話が進んだということらしい。
どんな人かと聞いたら、有名オーナーシェフの息子さんで大学を卒業してから父親の跡をつごうと一から勉強を始めたらしい。
この前の怪我の時も何回か見舞いに来てくれたようだ。知らなかった!
「いい人みたいじゃないか? 付き合ってみたらどうなの?」
「今はそんな気になれませんとお断りしました。それでも先方は納得がいかないようで、パパに直接お願いしてもいいかと言ってきた」
「僕に直接? なぜ?」
「その人の父親もはじめは母親から相手にされなかったので、父親が直接母親の親の家へ行って、交際をさせてほしいと頼み込んだそうなの。その父親の熱意さに打たれて母親が徐々にその気になって結ばれたということらしいんです」
「その成功体験を父親から吹き込まれている?」
「そうみたいです。有名なシェフで本人も父親を尊敬していて、父親のようになるのを目指しているみたいですから」
「いやなの?」
「ちょっとファザコンみたいで」
「男のファザコンはないと思うけど。父親を尊敬していて父親のようになりたいというのはいい話じゃないか」
「いやなものはいやなんです」
「それで」
「日曜日に訪ねてきて、パパに会いたいと言っているの」
「ずいぶん積極的だね。よっぽど久恵ちゃんが気に入っているんだ」
「どこが気にいられているの? 聞いてみた?」
「母親と性格がそっくりなんだとか」
「そういうところはマザコンかもしれないね」
「そんなの先方の勝手な思い込みです」
「今のところは先方の片思いというところだろうけど」
「けど?」
「前にも話したと思うけど、一方的な片思いはいずれ終わると思う。なぜなら、高まっていかないからいずれは醒めていく。でも、一方が好きになって好きだと伝えると、それに応えるように相手も好きになってくれるようになる。好意を持ってくれる人に好意を持つというのは、自然のことで、恋愛もここから始まると思うけどね」
「好意は分かりますけど、私はどうかというとそんなことにはならないような気がしています」
「まず、相手を好きになったら好きと言わなければ、相手も好きになってくれない。正攻法で来ているのは好感がもてる」
「説得力のある話だけど、それじゃ困るの」
「じゃあ、どうしたいの」
「ここに来てもらって、パパの口からきっぱり断ってもらいたいの!」
「断っても引き下がりそうには思えないけど」
「だから困っているの。でも、いい断り方を考えたから、これなら一発で引くと思う」
「何?」
「私と内縁関係にあるときっぱりと言ってください」
「内縁関係?」
「だって、管理人さんにも妻と言ってあるでしょう。調べれば納得すると思う」
「彼はどこまで僕たちのことを知っているんだ」
「きっと父親に頼んで学校に手をまわして調べたのだと思いますが、ここの住所と叔父と同居していることを知っていました」
「確かに入学手続きの書類に保証人は僕で関係は叔父としていたし、住所と氏名も書いた。久恵ちゃんの住所も同じだからね。先方も本気だね」
「付き合ってみてもいいじゃないの?」
「いやなんです。さっき言ったように本当に好きになったらどうするんですか?」
「それならそれでいいと思うけど」
口ではこう言っているが、内心は複雑な思いだ。本当に好きになることだって十分あり得る。
「いやなものはいやなんです」
それを聞いてホッとした。
「じゃあ、日曜日に会うことにしようじゃないか」
久恵ちゃんをどこの馬の骨とも分からん奴に取られてなるものか!
◆ ◆ ◆
彼が訪ねて来るという日曜日、僕は朝から落ち着かない。「娘をお嫁さんに下さい」と言いに来る彼氏を待っている父親の心境がよく分かる。普通に「娘をよろしくお願いします」と答えるのならまだ気が楽だ。
でも今日は断らなくてはいけない。久恵ちゃんにはとってもいい話だと思うのだが、本人は全くその気がない。僕も大切なものが奪われる気がして気乗りはしない。
よく聞く話だが「どこの馬の骨とも分からん奴に娘がやれるか!」と追い返すのは当を得ていない、れっきとした有名シェフ、有名レストランの御曹司だ。大学もきちっと卒業していると言う。
やぱり、久恵ちゃんの言うとおり「内縁関係にありますので!」が説得力がありそうな気がする。嘘も方便、そう言うしかないか!
マンション入り口のチャイムが訪問者を知らせて鳴る。こんな時は気持ちをイラつかせる嫌な音だ。画面をのぞくとスーツ姿の男が立っていた。
「どなた様ですか?」
「飯塚《いいづか》昇《のぼる》といいます」
「3階の306号室へどうぞ」
マンションの入口のロックを解除する。久恵ちゃんは玄関へは出て来ずにソファーに座っていた。
玄関で待っていると、ドアを開けて入ってきた。挨拶をして僕に「父の店のものですが」と言って手土産を手渡した。常識人だ。
身長は僕より高く、整った顔立ちをしている。イケメンだ。これじゃあ勝負にならないと思えるような若者であった。いや、負けるわけにはいかない。そう気持ちを振るい立たせた。
リビングに案内して座卓の前に座ってもらった。久恵ちゃんは席を立ってコーヒーを入れてくれた。コーヒーを配り終わるまで、沈黙が続いた。久恵ちゃんが席に戻ると飯塚君が話始めた。
「不躾だとは思ったのですが、川田さんと交際させていただきたいので、直接叔父様にお願いに上がりました。本人が固辞されていますが、諦めきれなくてここまで押しかけてきました。どうか交際させて下さい。お願いします」
「本人は理由を申し上げていないのですか?」
「直接、叔父様に聞いてほしいと言っています」
「そうですか、申し訳ありませんでした。歳も離れているので、本人の口から申し上げにくかったのでしょう」
そう言って、久恵ちゃんの方を見た。久恵ちゃんは黙って頷いている。演技がうまい!
「僕と交際できない理由ってなんですか?」
「歳が離れているので、お恥ずかしい話ですが、私と久恵は内縁関係にあるのです」
「叔父さんと姪御さんが内縁関係ですか? 確か叔父と姪は3親等内なので結婚できないはずですが、それで内縁関係なのですか?」
「いいえ、久恵とは血縁関係はありません。久恵は兄の結婚相手の連れ子なのです。兄夫婦が昨年の暮れに交通事故で他界いたしまして、それで久恵を引き取って面倒を見ていました」
「それで内縁関係になってしまったということですか」
「歳が離れていますが、お互いに気心が通じ合ったと言いますか、お恥ずかしい限りです。久恵もこのことを口外したくなかったのでしょう。いずれ学校を卒業したら籍を入れようと思っています」
「そういうことならしかたありません。分かりました。諦めがつきます」
「このことは学校では口外なさらないでいただけますか? そして、久恵とは友人のままでいてやっていただけないでしょうか。お願いします」
「分かりました。そうさせていだだきます」
そういうと、飯塚君は一礼すると帰っていた。二人で玄関まで彼を見送った。好感の持てる若者だった。エレベーターの下っていく音が聞こえるとほっとした。
ソファーに戻って一息つく。久恵ちゃんはと様子を見るとニコニコしてとても嬉しそう。
「パパ、迫真の演技だった。あれなら騙される」
「そうか? ここのところずっとどう言おうか考えていたから」
「でも、歳が離れてお恥ずかしいはないと思う。歳が離れていてもいいと思うし、恥ずかしがらなくもいいんじゃない。もっと自信を持って」
ええ、本当にそう思っているの?
「そうは言っても、そういうから説得力があるんだ」
「そうかな」
「それに、つい我慢できなくて手を出してしまったとも言えないだろう」
「それはDVです。私の立場もあるから当たり前です。でもとても上品な言い方でした。ありがとうございました」
そういうと、久恵ちゃんは自分の部屋に機嫌よく引き上げて行った。僕はそういうことになっているといいなあと思って本音で語っていた。だから説得力があったのだと思う。
久恵ちゃんはどう思って聞いていたのだろう。「歳が離れてお恥ずかしいはないと思う」は本心なの? そうであれば嬉しい。
いずれにせよ、これまでにはなかった最大の危機は去った!
9月14日は僕の誕生日だ。久恵ちゃんがいつ僕の誕生日を知ったのか分からなかった。その日、いつもよりも夕食の品数が多かった。
「今日の夕食はごちそうだね」
「お誕生日おめでとうございます」
「そうか、今日は僕の誕生日だった。知っていたの?」
「崇夫パパに聞いてずいぶん前から知っていました。私も同じ9月ですから覚えやすかったです」
「この歳になると、歳を取るのが怖くなるんだ。だから誕生日はおめでたくないし、忘れようとしている」
「どうして? まだまだパパは若いわ」
「若いままでいたいんだが、35歳をピークに体力が落ちてきた。体力が落ちると気力も落ちてくる。仕事でも直観力が落ちているのが分かる。なんとか今までの経験と要領でしのいでいるけどね」
「パパは運動不足じゃないの?」
「毎朝、自由が丘まで歩いているし、会社でもエレベーターを使わないで階段で上り下りして運動不足にならないようにしているけど」
「でも電車では席に座りたがるし、帰りは歩いていないんでしょう」
「帰りは疲れているから、電車にしているけど」
「この歳で体力が低下して、なんて言ってほしくありません。これからはもっと精の付く料理を心がけます」
「若ぶって無理をするのが一番いけないと思っているけどね。運動も年相応でいいんだよ。最近、高齢者の登山事故や自動車事故のニュースが多いだろう。いつまでも若いと思っていたらろくなことがない」
「それが年寄り臭い言い方だと思います」
誕生日なのに随分絡まれる。でも久恵ちゃんは手作りのケーキも用意してくれていた。それに太い蝋燭3本と細い蝋燭9本まで用意されていた。
学校でパティシエを目指している友人に作り方を教えてもらったと言っていた。もちろん、女の友人だそうだ。とても美味しくできていた。
でもプレゼントは良いものが思いつかなかったのでなしと言われた。自分の気に入ったものを送りたいし、好みでないものをもらっても嬉しくないと思ったとのことだった。
「久恵ちゃんからのプレゼントだったら嬉しくてなんでも大切にするから」と言っておいた。
「久恵ちゃんの誕生日は9月28日だったね。覚えていたけど、話題にすると僕の誕生日も聞かれると思って黙っていた。僕の誕生日が過ぎてから、誕生日プレゼントに何がほしいか聞こうと思っていたんだ」
「実はそれを期待していました」
「それは丁度よかった。何でもほしいものを言ってみて、値段は気にしなくていいから」
「へへ、それじゃあ、誕生石の指輪を買ってください」
「9月はサファイヤだね」
「そうです。別に高価なものでなくていいんです。小さな石がひとつ付いていればいいんです」
「分かった。今度の週末に買いに行こう」
これまで服やら靴などは時々買ってあげていたが、指輪がほしいのか! 値段はともかく気に入ったものを買ってあげよう。
◆ ◆ ◆
土曜日に早速、指輪を買いに銀座へ出かけた。ここならジュエリーショップもデパートもあるから好みのものが選べる。何軒か回ってから気に入ったものを買えばいい。
二人で一軒一軒見て回る。まず有名ブランドのショップへ行った。僕は高価なものでも良いと思っていたが、ここは桁が違う。さすがに久恵ちゃんも値札を見て、気が引けたみたいで、すぐに次の店へ行ってみたいと言った。
ブランド店はどこも同じような価格だった。それでデパートへ行くことにした。ここでは想定した範囲内のお手ごろな価格のものがそろっていた。二人共、口には出さないがほっとした。それで今度は本気で気に入ったものを探し始めた。
「この小さいサファイヤが3つ並んだのを見せてください」
価格は45,000円だった。これでも相当高価だと思ったみたいで、僕の顔色を伺う。僕は同じタイプで6つ並んだデザインが気に入って見ていた。でも価格は倍以上していた。
「その6つ並んだのも見せてください」
久恵ちゃんが驚いたように僕の顔を見た。
「両方着けてみて」
久恵ちゃんがはじめに3つのもの、次に6つのものを指にはめてみた。6つ
のものの方がよく似合う。それはすぐに分かった。
「サイズはどう?」
「どちらもぴったりです」
「じゃあ、その6つの指輪にしてください」
店員さんは満面の笑みで「承知しました」といった。久恵ちゃんは複雑な顔をしている。
「折角だからして帰る?」
「ええ・・・」
「じゃあ、このままして帰りますから、お願いします」
僕はカードを店員さんに渡した。そのまま店員さんは支払いの手続きをするために指輪とカードを持ってそこを離れた。
「こんな高価なものを買ってもらおうとは思っていませんでした。買ってほしいとおねだりしてすみません。もっと安いもので良かったのにごめんなさい」
「いいんだ。僕の気に入ったものを僕が買っただけだ。気にすることは少しもない。僕は6つのデザインの方が好きだったから、せっかくしてもらうならこちらと思っただけだ」
「私も6つの方が素敵だと思いました」
「それならそれでいいじゃないか」
「いいんですが、申し訳なくて複雑な気持ちです」
店員さんが満面の笑みでケースを入れた紙のバッグと値札をとった指輪がおかれた黒い小さな台を持って戻ってきた。
久恵ちゃんは指輪を左手の薬指に丁寧に嵌めた。それ左手じゃなくて右手じゃないのかと言おうとしたが、店員さんがじっとみているので、黙って見ていた。
久恵ちゃんがその手をかざして満足そうに僕の顔を見てニコッと笑った。何とも言い難い嬉しそうな笑顔だった。これで十分に元が取れたと思った。
それから久恵ちゃんは僕の手を取って歩き出した。僕は店員さんに挨拶してその場を離れた。店員さんは僕らの関係をどう見ていたのだろう。そんなことをつい思った。
「もうお昼を過ぎているから何か食べようか?」
「銀座はどこでも高いからやめましょう。パンを買って家で食べましょう」
そういって、久恵ちゃんはパン屋さんへ入って、おいしそうなパンを見繕って買った。そして、また手を繋いで駅まで歩いた。有楽町駅から山手線、池上線経由で帰ってきた。
「今日は高価な誕生日プレゼントありがとうございました。無理させて申し訳ありませんでした」
「久恵ちゃんがとっても喜んでくれたからもう元が取れた。気に入ってもらってうれしい」
「大切にします。でもいつもつけていてもいいですか」
「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから」
「なくさないようにします」
「なくしたらまた買ってあげる」
「いえ、絶対になくしません」
「それで気になっているんだけど、左手の薬指は婚約指輪か結婚指輪をするときで、独身者は右手の薬指にするものだと思うけどね」
「これでいいんです」
「どうして?」
「こうしておけば男除けになります」
「男除けって?」
「学校であれからもたびたび付き合ってくれと言われて、そのたびに気を悪くさせないように断るのが大変で」
「そんなに言い寄られているのか?」
「飯塚さんを含めてこれまで3人くらいですが」
「気に入った男なら付き合ってみればいいのに」
「言い寄ってくるのは、年下でそれもチャラチャラした人ばかりでその気にもなりません」
「まあ、それが役立つのならいいかも」
今日のショッピングは楽しかった。まるで恋人と指輪を選びに行ったようでとても楽しかった。こんなことはもうないだろうと思っていたが、よい思い出を作ってもらった。こちらが礼を言いたいくらいだ。
でも誕生石の指輪がほしいなんてまるで婚約指輪がほしいといっているようなものだ。それに左手の薬指に嵌めて! 何か意味がある? 考えすぎだ! 言っていたとおり男除けだと思う。