「えっと、確かここに……っ」
突然、ずきっと側頭部のあたりが痛んだ。
おそらく低気圧によるものだろう。でも、さっきまではなんともなかったのに。
ひどい痛みが私を襲う。耐えきれずに机に手をついてしゃがみこんだ。
「ちょ、志保!? 大丈夫?」
異変に気が付いた菜緒が駆け寄ってくる。
「……頭が、痛くて」
「え!? まさか、生理?」
こそっと小さな声で聞いてきた菜緒に、私はゆっくり首を振る。
「多分、雨で……」
「そっか、偏頭痛持ちだっけ」
保健室に行こう、と手を引いてくれたが、私は一人で行けると答えた。
頼まれていた課題を渡して、次の授業の先生にこのことを伝えるようにお願いして教室を出る。
保健室に行くまでの渡り廊下は、冷たくて心地の良い空気が流れている。ふわりとマスク越しに頬を撫でる風が気持ちいい。
「……失礼します」
扉を三回叩いて横に引く。中では養護教諭の先生がパソコンと向き合っていた。
「あら、安栖さん。珍しいわね、どうかした?」
「……頭が、痛くて」
「やだ、大変。すごく顔色が悪いわよ。早退した方がいいんじゃない?」
「……したい、です」
もう立っているのも辛い。これ以上授業に集中できるとは思えなかった。
「うん、そうしよう。先生、ちょっと教室に行ってくるね。何組だったっけ?」
「……一年三組です」
「わかった。しばらく寝てていいわよ」
「ありがとうございます」
先生は優しく微笑んで保健室を出た。私はとにかく横になりたくて、カーテンが開いているベッドに腰掛けた。そして、そこではじめて、隣のカーテンが閉まっていることに気が付いた。
(……誰か寝ているのかな)
そう思い、できるだけ物音を立てずに横たわる。
すると次の瞬間、勢いよく目の前のカーテンが開かれた。先程まで閉ざされていたカーテンの先には、背の高い(ベッドに座っているので、実際に高いかは不明だが)男の子がいた。
「ねぇ、さっき一年三組って言った?」
「……言った、けど」
いたって元気そうな彼がなぜここにいるのか。不信感と疑問を抱きながらもそう答えると、男の子は自分が聞いておきながら、ふうんと興味がなさそうに言った。
「俺さ、ずっと疑問に思ってることがあって。答えてくんない?」
「……今じゃなきゃだめ?」
こっちはさっさと寝たいのに、と自分より高い位置にある彼の顔を睨みつけるように問いかける。が、彼はそんなことを気にせずに話し続けた。
「うん、だめ。いろんな人に聞いても似たような答えしかかえってこなかったからさ、折角だし、いいでしょ?」
……だめだ、全く話を聞いてくれない。
私が諦めの境地に入った私に、自分の膝に肘をついた彼は、少しだけ私の方に体を乗り出して聞いた。
「みんな、どうして学校に通えるの? 通える理由ってある?」
「……通える、理由?」
「そ。わざわざ勉強をさせられて、トラブルが日常茶飯事な場所に通える理由。みんな友達といるのが楽しいから、好きな人に会いたいーとか、そういう答えしかなかったから」
一体なぜそんなことを聞くのかは分からなかったが、それを聞ける気力は私にはなかった。
働かない頭を必死に動かしてから、こんな質問にそんな真面目な回答をする必要はないのだということに気付く。
「……ないんじゃない? そんなの」
「え?」
彼は意表を突かれたような顔をしていたが、私は言葉を挟ませないように一気に話した。
「みんな学校なんか来たくないよ。理由? そんなのあるわけない。来る理由はあるかもだけど、通える理由とか、よくわかんない。通える理由ってどういうこと?」
自分で言いながら、なにをいっているのか分からなくなってくる。
「多分、みんな通いたいなんて本心から思ってない。絶対、朝靴を履く前に『学校行きたくない』って思うよ。そう思わないなんて、小説に出てくるみたいな青春を過ごしてないと無理じゃん。そういう大それたものはないけど、通わなくちゃいけない理由があるから、通う。なんか、自分でもよくわかんないけど、これだけは言えるから」
段々と瞼が重くなってくる。抗いようのない睡魔とはこのことなのだろうか。
「みんな、学校なんかきたくないよ……やだよ、こんなところ」
そこまで言って、私の視界は完璧に真っ暗になった。
私が目を覚ましたのは十何分かたった頃。母が私を迎えに来た頃だった。
その時にはもう、先ほどの男の子の姿はなかった。
学校を午前中に早退した、翌日。
昨日のような頭痛はないものの、ほんの少しの気怠さと眠気が残ったまま靴を履き替える。
猫背になっているであろう姿勢で教室まで歩いていくと、何やらクラスメイトが騒がしい。
……いや、クラスメイトだけではない。隣のクラスの人や、もはや見覚えのないような人までいる。
「あ! 志保、昨日大丈夫だった?」
なんとなく教室に入りづらくて廊下に立っていると、奈緒が小走りでこちらにきた。
「うん、平気。薬飲んだらすぐに良くなったよ」
「よかった〜! 早退するってなった時からずっと心配で」
「ごめんね、不安にさせて。ところで、この騒ぎって一体?」
菜緒はいつも朝早くに登校するので、何か知っているかもしれない。
そう思って聞いてみると、何やら菜緒は興奮した様子になった。
「そう、それ話そうと思ってて! なんかね、今まで学校に来てなかった、四辻恵っているじゃん?」
四辻恵。
中学校に上がってから……というか、噂によると小学校低学年のあたりから、学校に通っていないという、所謂不登校の生徒がいた。
そして今年同じクラスになったものの、一年間会えないだろうと思っていた男の子だ。
「いたけど、その子がどうしたの?」
「ほんっとにびっくりなんだけど、来てるんだよ、今日!」
「えぇっ!?」
思わず声を上げて驚いた。
不登校になった子は、しばらく休んだせいで学校に行きづらくなり、そこからずっと通えなくなるというケースが多いと聞いていたからだ。
でも、驚いたと同時に、尊敬にも似た感情が湧いてきた。
何年も来れていなかった学校に、新学期になる日などならともかく、なんでもない今日を選んで投稿するなんて。私には想像もつかないけれど、相当な勇気が必要だったはず。
いったいどんな子なんだろうかと思い、教室をのぞいてみる。
「……はっ?」
「ん? どしたの、志保」
ほとんど吐息のような声が出た。四辻恵と書かれたネームマグネットの貼られた席に座っている男の子に見覚えがあったからだ。
「うそ、あの子……」
その子は、昨日保健室で出会った男の子だった。
こんなことがあっていいのだろうか。まさか、昨日のあんな傍若無人な男の子が、クラスメイトだったなんて。
「あ、もしかして志保も、四辻くんのかっこよさに気づいちゃった……!?」
「え、いや」
「私が来てからちょっとしたあたりに四辻くんがきたんだけどね、めっちゃ背が高くて! 百七十後半……ううん、百八十くらいあるかな?」
顎に手を当てて、四辻くんのことを分析するように呟く菜緒。
「しかもなかなかの美形だよね……今はみんな遠慮して話しかけてないけど、あれはすぐに人気出るよ。間違いない」
「菜緒の予言は当たりやすいもんね」
「ねー、今のうちに話しかけに行こうよ!」
えっ、と言葉に詰まった。私は昨日すでに顔を合わせているので、なんとなく気まずい。
それをどう説明すべきかと悩んでいると、菜緒に腕を引かれた。
「ほら、はやく!」
「あ、ちょっと……!」
返事のない私に痺れを切らしたようだ。
クラスメイトたちの視線を受けながら、私たちは四辻くんの席へ向かった。