どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。


「えー、今日は中学校の復習も兼ねて、補色について、説明していきたいと思います」
桜の花弁が舞う春、高校に入学してからの初授業はまさかの美術だった。
説明する美術教師の服装も、オレンジ色のカーディガンに青みの強いジーンズ生地のロングスカート、つまり補色だ。
僕はそんなどうでも良いことを考えながら頬杖をついて窓の外を見る。説明なんて、聞かなくてもわかる。何年やってると思ってるんだ、舐められても困る。

補色。それぞれの色によって決まっていて、お互いを引き立て、鮮やかに見せる色合いのこと。
例えば、赤と緑とか。まあ考え出すときりがない。
ただし――。

「黒に補色は…」
――ない。無彩色だからだ。
僕は一瞬だけ授業に目を向けたけど、またすぐに目線を逸らした。

昼休み、僕は教室で誰と話すでもなく、一人でまた頬杖をついて外を眺めていた。
夢の高校生活!なんていうのはよく聞くけど、僕はそんな風には思っていない。約百年の人生の中のうち、たった数年の過程、そこまでにしか思っていない。そもそも僕には友達もいないし、勉強も運動も今ひとつだ。唯一才覚があったかもしれない美術だって、あの日、を境に今まで感じていたような楽しさはどこかへ消え、描いていてもどこか苦しい、という感覚だけが残った。
誰といようがどこにいようが変わらない。何をしてても息苦しい。そこに決して光が差すことはない。救いようのないこの感覚はまるで無彩色の黒と同じだ。
ーーあーあ、誰かが変えてくれたらな。
決して自分では変わろうとしない。誰かが来るまで待ってる。そんな自分はやっぱり嫌いだ。
僕は頬杖をつく左手で頬をつねった。


「……」
そうなる事がまるで決まっていたかのように僕は体験入部もせず、美術部に入部届を出した。きっと親も、親戚も、みんなが、僕以外が、そう望んでる。
早速出したその日から活動開始らしい。顧問の先生に「絵が好きなの?」と聞かれ、自分の名前を出すと、やっぱりびっくりされた。だろうな、と思った。
僕は手渡された画用紙の上に特に何も考えずに、対象物だけを見て線を走らせる。いつものように。誰にも失望されぬように。僕の絵として、美術界で天才と呼ばれた少年、目黒那月(めぐろなつき)として。
苦しい、苦しい。でも、これしか僕には生きていく術がないんだ。だから僕は今日も十五年間使い込んできたこの左手で筆を握る。線を描く。
僕にはこれしかないんだーー。

ある日の放課後も、僕は一人夕陽の光が差し込む美術室で絵を描いていた。先生はまだいない。
失望させないように、期待通りに。
「…何描いてんのー?」
そんな声が聞こえて後ろを振り返る。一人の女子生徒が立っていた。名札の色からしておそらく同級生だ。
「うわっ……びっくりした……。別に」
「えー?別に、って、答えになってないじゃん。なんか君の絵のタッチ、どっかで見たことある気がする。なんでだろうね、はじめましてなのに」
「……」
「君も一年だよね。何組ー?」
「……」
「私はね、二組だよー、美術部入ろうかなーって思って。よろしくね!君、名前は?」
……なんだこいつ。
目の前の対象物だけに向き合い、あからさまにシカトする僕に彼女は態度一つ変えずに笑いかけてきた。
「あ、自己紹介するの忘れてた。白石晴寧(しらいしはるね)って言います!改めてよろしくね、それで君の名前は?」
「……目黒、那月」
必要以上に絡まれるのも鬱陶しいので、僕は手短に名前を名乗った。
「おおー!那月くん、なんか可愛い名前だなぁ。はるとなつ、だねー!ほら、晴寧と那月だから。お、白と黒もじゃん!補色、だっけ?確か」
こいつもか。勘違いもいいところだ。
「黒に、補色はない。黒は無彩色だから」
そう話しながら僕は目を細める。何だか自分のことを言っているみたいだった。
「……僕も、黒みたいだ。補色がいなくて」
僕は何を言っているんだろうか。思わず口から出た言葉に自分でも困惑する。
彼女は少し考えたあと、あ、と何かを思いついたように僕の方を見た。そして一言。
「ーー私が、君の補色になってあげるよ」
と。


「……は?」
「だから、私が君の補色(ともだち)になる、ってこと。部活も丁度同じだし、いいじゃん。よろしく!」
「君さ、僕の言ってることの意味分かってる?『補色がいない』なんて言ってて変なやつだと思わないの?」
僕がそう訊くと彼女は「ああ」と言って笑った。
「いや?回りくどい言い方するなぁとは思ったけど、つまり君は友達がいないってことでしょ?」
「どストレートに言うね、まぁ事実そうなんだけど」
彼女は窓の外に目を向ける。
「それにさ、私も友達、できなかったんだよね。ほら、変なやつだし」
「まぁ、初対面でシカトされても話し続けるくらいだし。確かに」
「普通そこは『そんなことないよ』って言ってくれないのー?那月くんはドライだなぁ」
「知らないよ、そんなこと言ったって初対面だし」
「あはは」
開いた窓から入ってきた風が、彼女の長い髪を揺らした。
「だからさ、補色(ともだち)になってよ。お互いを鮮やかに照らしあえる関係」
「……別に、どっちでもいい」
「んじゃあ決まりね!あ、先生だ!入部届出してくる!」
こうして、僕と彼女、白石晴寧との不思議な、題して補色の関係(命名、晴寧)が始まった。
まさか、彼女との出会いが僕の世界に光をくれるなんて、思ってもみなかった。


今日も僕は描かなくちゃいけない。手を止めちゃいけない。僕の絵を待つ誰かのために、家族のために―—。
……あれ、僕は。なんで絵を描いてるんだっけ?

「―—くん、那…くん。……那月くん。あれ、死んでる?」
「…うわっ」
「あ、生きてた。良かったー」
目が覚めると一番に視界に飛び込んできたのは彼女の笑顔だった。
「……今何時?」
「もう六時。先生、先に職員室戻ったよ、那月くん描いてる途中で寝落ちしちゃったの覚えてる?倒れたかと思っちゃったけど、寝息聞こえてさ。いやぁ、あれは笑ったなぁ」
僕は寝落ちしたまま一時間、ぐっすり寝ていたらしく、もう下校時間だった。
「じゃあ、一緒に帰ろう!暗くなる前に」
「え、あ、…うん」
昨日、夜遅くまで新作の制作をしていたからだろうか。霧がかかったみたいにぼやぼやする頭を起こして、椅子から立ち上がった時、少しふらついて床に倒れ込んだ。
「な、那月くん!?大丈夫?立てる?」
僕は彼女の肩を借りて立ち上がった。
「……ごめん」
「ん?なんで那月くん謝るの?」
「…だって、迷惑、かけてるし」
そう言うと、彼女は優しく微笑んだ。その瞳に夕陽が反射して、ガラス玉のように煌めく。
「全然、迷惑なんて思ってないよ。友達でしょ?」
「……あ、ありがとう」
その後、大丈夫だと言ったけど、彼女は僕を家まで送ってくれた。