成田便の到着ゲート前で僕はリムジンの運転手と一緒に「池内様、大森様」のプラカードを掲げて待っている。
搭乗客が大きなスーツケースを引きずりながら出てくる。最初に出てくるのはビジネス客でそれからツアー客が出てくる。皆ほっとした表情だが長いフライトの疲れが見える。成田からニューヨーク便は遅れもなく定刻に到着していたが、エコノミー席で10時間を超えるフライトは確かにきつい。
女性の二人連れが出てきた。すぐに池内さんと大森さんだと分かった。声をかけて手をふると僕を見つけて安堵の笑顔を見せた。少し疲れているようだがうまく出迎えられてよかった。僕は池内さんのスーツケースを、運転手は大森さんのスーツケースを引きながら駐車場の車へ向かう。
「出迎えがうまくいってほっとしているよ」
「お顔を見て安心しました」
「市瀬君はすっかり垢抜けしてもう立派なニューヨーカーね」
「そうでもない。2年近くになってようやく慣れてきたところだ」
「お世話になります」
「せっかく僕がここにいるのだから、お役に立ちたいと思ってね。僕も二人に会って話ができるのを楽しみにしていたから」
「日本へは帰っていないの?」
「ああ」
「さすがにニューヨークね、空気が違うわ」
「大森さん、空港はジェット機の排ガスの匂いがするからじゃない」
「そうなの、このにおい」
「ニューヨークの街は独特のにおいがする。僕はあまり好きじゃないけどね。行ってみると分かると思う」
駐車場でスーツケースをトランクにしまって、ホテルへ向かう。高速道路を走って混んでいなければ40~50分で到着する。僕は運転手の横に座っている。
「すごい、看板が皆、英語で書いてある。それに右側通行で、運転しているのはみな外人、アメリカへ来たのね」
大森さんが外を見ながらはしゃいでいた。紗奈恵は静かに外を見ている。
ホテルは僕のコンドミニアムから徒歩で10分くらいの所にある。チェックインを手伝って、僕はロビーで待っている。
「ゆっくりでいいから、シャワーでも浴びて」と言ってある。まだ6時前だ。この後3人で食事をすることになっている。二人がロビーに現れた。すっかり着替えている。シャワーも浴びたとみえて、すっきりしている。
「お待たせしました。これから食事とおっしゃっていましたが、私たちはまだお腹が空いていません。到着する少し前に機内食を食べましたから」
「それなら、これからエンパイヤ・ステート・ビルに行かないか。ここから歩いて行けるから、今からなら昼の景色と夜景の両方が見られる」
「それがいいですね。市瀬君のお腹は大丈夫?」
「大丈夫だ。二人の観光が優先だ」
話が決まるとすぐに歩き出した。8月下旬の今頃は暑さも治まってきて汗をかくほどでもない。
「どう、ニューヨークの街のにおいが分かる?」
「独特の匂いがするね。金沢では絶対こういうにおいはしないわ。これがニューヨークのにおい?」
そう言って大森さんがクンクンしている。
「地下鉄からの排気のにおいとレストランやデリの排気の香辛料のにおいが混ざっているように思っているけどね」
「確かに、言うとおりかもしれない。日本人にはちょっとなじめないにおいですね」
「すぐに慣れるけどね」
すぐにビルについた。ビルの外にいる2階建てバスチケット販売員から入場券3人分を購入して2階へ上がる。前もって入場券を買っておくとすぐにエレベーターに乗れる。ここまでは順調だ。エレベーターを乗り継いで展望台へ到着した。今日は晴れているが結構、風が強い。
まだ明るいのでこの展望台を1周しながら、ニューヨークの街全体を説明してあげる。ここはマンハッタン島の中心にあるので、四方が見渡せて最高のながめだ。
ここから見るとニューヨークがマンハッタン島にあることがよくわかる。両サイドを川が流れている。ハドソン川とイーストリバーだ。
少しずつ回りながらその方向にある名所を説明していく。暗くなるまで時間は十分にある。大森さんは地図を取り出してそれぞれの場所を確認して写真を撮っている。
2巡目、3巡目になっても飽きがこないと見える。僕も始めて来た時はそうだった。紗奈恵は無口だが嬉しそうに街並みを眺めている。僕は彼女の横顔を見ている。あの時の憂いはもう見えない。時間が経ったんだな、そう思った。
大森さんが紗奈恵に聞こえないように僕に話しかけてきた。
「市瀬君、ありがとう。池内さんに気を使ってくれて。随分気落ちしていたから」
「ああ、何とか慰めてあげられればと思って、ときどき連絡していて、これを思いついた。少しは良かったのかな?」
「行きたいと言って私を誘ってくれた。それにとても喜んでいたから」
「大森さんと二人で来てくれて本当によかった。ありがとう」
次第に日が暮れてきた。街路や建物の明かりが目につくようになってきた。そうなると暗くなるのは早い。しばらくするとすっかり辺りは暗くなって夜景になっている。街全体が宝石箱のように輝いている。
「すごく綺麗!」
大森さんは一生懸命に写真を撮っている。紗奈恵は黙ってその宝石箱を眺めている。紗奈恵が僕の方を振り向いた。
「誘ってくれてありがとう。とても素敵な夜景ですね。勧めてくれた訳が分かりました」
僕は「ああ」としか答えられなかった。でもそれを聞いて嬉しかった。僕は彼女と会って話したいことがいっぱいあると思っていた。でもいざとなると何を話してよいか分からなかった。
「疲れただろう。降りようか。大森さんも気が済んだ?」
それからエレベーターで降りて、ビル内のハンバーガーショップで簡単な夕食を3人で食べた。大森さんは本場のハンバーガ―が食べてみたかったから丁度いいと言っていた。でも味はやっぱり日本の方がいいと言った。僕もそう思う。紗奈恵は食べきれないからと言って僕に半分分けてくれた。
その後、ホテルまで送っていった。そして明日は9時に迎えに来ると言って帰ってきた。初日として、あの場所を選んでよかった。有効に時間が使えた。二人とも疲れただろう。おやすみ。
ニューヨークへ着いて2日目になる日曜日、僕は一日中彼女たちを案内するために、スケジュールどおりに朝9時にホテルへ迎えに行った。
ロビーで待っていると二人が現れた。二人とも昨日とは違う服を着ている。女子は毎日服装を変えないといけないから大変だ。僕が言ったとおりに帽子も用意していた。僕は薄手のスラックスに半袖のストライプのカッターシャツだ。これならどこでもOKだ。
すぐに市内を周遊している2階建てバスの停留所へ歩いていった。バスはすぐに来た。8月の終わりと言ってもまだ日差しが強い。でも吹いてくる風はもう秋の気配が感じられる。
周遊経路に沿ってバスが走ってゆく。希望のところで、降りてしばらくそのあたりを見て回って、また、バスに乗って次の場所へ移動する。観たいところ、行きたいところが決まっていると効率的に観光ができるし、費用も安く済む。
でも結構疲れる。せいぜい回って1日5か所くらいだ。ロックフェラーセンター、国連本部、トランプタワーなどを見た。
二人とも疲れたようなのでバッテリーパークで一休みした。ベンチからは遠くにリバティー島の自由の女神が小さく見える。ここからそこへフェリーが出ている。船で行くと半日はつぶれるので、コースには含めなかった。
僕はふたりに飲み物を買って渡した。僕はこの公園で静かに海を見ているのが好きだ。昼食には屋台のベーグルとコーヒーを買って食べた。
それからまた2階建てバスに乗って、ウオール街を通って、グランドゼロを見て、それからホテルの近くまで戻ってきた。
市街見物中は僕はほとんど案内先の説明ばかりをしてガイドに徹していた。紗奈恵と大森さんは僕の説明を聞いて二人で話をしていて、僕は紗奈恵と二人で話ができなかった。
それから早めの夕食を僕の行きつけのレストランで食べた。ここはアメリカらしい料理のあるレストランだ。
飲み物だけど、彼女たちにはここのハウスワインであるカリフォルニア産の赤ワインをグラスで注文してあげた。
僕はサミュエル・アダムズ(Samuel Adams)を注文した。これはボストンにあるビール会社のビールで日本人の口にもよく合う。
ここへ赴任したときに、ビールを飲むならこれにしたらいいと事務所の人に勧められた。注文するときは「サミュアダムス」と何回も発音を教えてくれたのですぐに覚えた。
彼女たちは少食なのだが、色々食べてみたいと言うので、ステーキ、ロブスター、サーモンのソテーを注文してシェアすることにした。それにサラダを2人前注文した。きっと食べきれないほどの量がある。デザートにはそれぞれにソルベットとコーヒーを注文した。
紗奈恵と大森さんは最初、美味しい美味しいと食べていたが、すぐにお腹がいっぱいになったと見えて食事が進まない。僕は頑張って食べたが3人前は食べられない。
そこへデザートのソルベットが出てきたが、これも半端ないボリュームだった。「ボリュームがあるけど、美味しいね」といいながら、2人はすぐに平らげた。デザートは別腹らしい。
食事を終えると僕はタクシーを拾って、ミュージカルの劇場の前まで彼女たちを送っていった。彼女たちの希望は「シカゴ」だった。
僕はくれぐれも居眠りしないようにと言っておいた。僕はミュージカルが苦手でどれを見ても毎回必ず眠ってしまうので、遠慮しておいた。帰りは二人で大丈夫というので帰ってきた。眠ってしまわなければいいが。
◆◆◆
火曜日はナイヤガラ1日観光ツアーだ。日本語観光ツアーなので安心だ。朝8時にホテルの二人を迎えに行って、ツアーのバスがピックアップしてくれるホテルまで送って行った。帰りもそのホテルまで送ってくれる。
昨晩のミュージカルについて聞くと、二人とも「始めと最後しか覚えていなくて、途中は眠っていたみたい」と言っていた。「やっぱりね」と言うと「でも雰囲気だけは味わえた」と負け惜しみを言っていた。
8時30分にバスが来て二人の乗車を確認した。ほかにも日本人が数人参加しているので気が楽だろう。
◆◆◆
午後7時に今ホテルへ帰ったとの連絡があった。想像以上に水量が多くてすごく迫力があってとても良かったと言っていた。遊覧船で滝壺近くまでに行ったけど、水しぶきがすごかったとも言っていた。やはり勧めてよかった。
水曜日は1日休みを取っているので、朝から美術館の見学をすることになっている。9時にホテルに迎えに行って、まず、ニューヨーク近代美術館に行った。ここの2階の近代フランス印象派の絵画は必見で、メトロポリタン美術館より規模は若干小さいが良い絵がそろっている。僕も時々ここへきてゆっくり見て回っている。
大森さんは絵が大好きで特に近代フランスの印象派の絵が好きだとのことで1枚1枚じっくり見て回っている。「良い絵がそろっていますね」と紗奈恵も言っていた。
それから、グッゲンハイム美術館まで足を延ばした。途中にあるメトロポリタン美術館は午後からゆっくり時間調整もかねて見ればよいと思っている。
ここでは螺旋状の順路を上って行くが、ここにも近代フランスの印象派の常設展がある。ピカソの作品が多いのも特徴だ。
大森さんは見て歩くのにどれだけ時間があっても足りないと熱心に見ている。帰りには記念に収蔵絵画集を購入している。これで2冊になり重そうだ。
この美術館のラウンジで簡単な昼食をとった。歩き疲れたのか、二人ともホッとしていた。観光というのは歩きまわるのが基本だから体力もいる。栄養と水分を補給して回復した3人は3つ目のメトロポリタン美術館に向かう。
ここでは最初に2階のフランスの印象派の絵画を見るのがいいと思っている。近代美術館より収蔵点数が多い。ここは気のすむまでゆっくり見て歩くに限る。僕は何度来ても新しい発見がある。紗奈恵も大森さんも熱心に見ている。
「市瀬君が言うようにここが最高ね。いつまでも見ていたい。日本でも展覧会があったけど、来たのはほんの一部なのね。美術の本に載っていた本物の絵が見られるって素敵ね」
「僕が今まで見た美術館の中でも収蔵数が一番だね」
「ほんとうに素敵な絵ばかりですね」
二人はとても気に入ったと見えて、2回は見て回った。大森さんは特に熱心に見て回っている。僕は紗奈恵に付いて見て回った。疲れるとベンチで一休みして、また見て回る。
ようやく満喫して見終わったがまだ時間はある。
「これから、何を見る? 古代エジプト、ギリシャ、中国、それに日本もあるけど?」
「市瀬君はどれを推薦する?」
「残り時間を考えると、1か所ぐらい、無難なところで古代エジプトかな?」
「そうね、それがいいわ」
大森さんが賛成するので、案内した。こんなものをよくエジプトから持ってきたと思われる値段を付けられないほど貴重な品ばかりある。日本の国立博物館とはスケールが違う。僕はここにはもう4回目だ。
3時半を過ぎたころに、美術館を離れた。大森さんは収蔵絵画の本を買うのを忘れなかった。それから一旦ホテルへ戻って今夜のクルージングの準備をすることにした。
クルージング参加者の服装は基本的には正装なのだが、夏だから女性はワンピースでかまわないが、靴はスニーカーではダメだ。男性は上着が必要だ。僕は夏の薄いジャケットを羽織ってきていた。5時にホテルのロビーに着替えて出てくるように伝えた。
5時には着替えた二人が現れた。久しぶりに紗奈恵の着飾った姿を見た。相変わらず、胸とお尻が大きいが、それほどは目立たない。大森さんは紗奈恵より少し身長が低く、コロコロして健康的だ。
二人をエスコートしてホテルの前でタクシーに乗ってハドソン河ぞいのピア81へ向かう。6時ごろに乗船するとテーブル席に案内された。
これからピア81を7時に出港し、ハドソン河を河口に向かいバッテリーパークを周り、イーストリバーをさかのぼり途中で引き返して、9時ごろ自由の女神の前を通って、ピア81には10時ごろに戻ってくる。
ダウンタウンのビルの夜景はウイークデーの方が綺麗だから丁度いい。カップルには最適の雰囲気だ。紗奈恵と二人ならよかったのにとこの時思った。
ウエイターが注文を聞きに来る。飲み物を注文しアペタイザー及びメインディッシュをチョイスする。メインはヒレステーキが無難なことが分かっている。
アペタイザーを食べてから甲板へ上がり、夜景を見物する。もう薄暗くなっている。3人で海を眺めているとすぐに暗くなった。海風が心地よい。
「素敵ね、市瀬君が推薦しただけあるわ」
「今まで案内した人は皆そういってくれた。僕も何度来ても素晴らしいと思う」
デッキでは紗奈恵と大森さんが僕の両側にたって、遠くのビルの夜景に見入っている。大森さんは僕にぴったりと寄り添っている。紗奈恵は少し間を空けている。
8時にメインディッシュが始まるので席に戻り食べる。メインディッシュを食べ終った頃、自由の女神の前を通るので、再びデッキに出た。
自由の女神のすぐ近くを通った。ライトアップした女神像が美しい。大森さんは熱心に写真を撮っている。紗奈恵はじっと女神像を見ている。何を考えているんだろう。僕はその横顔をずっと見ていた。
二人なら後ろから抱き締めて「好きだ」と言っていたかもしれない。そんな気持ちだった。
ここからのダウンタウンの夜景も最高だ。ここを過ぎるともう帰りのコースになる。十分に夜景を堪能したので、席にもどるとデザートが配られた。
アイスクリームの量が半端ない。でも二人はすぐに平らげた。これだけは感心する。「やっぱりアメリカのアイスクリームは濃厚でおいしい」と言っていた。
このころバンドの生演奏があり、フロアーで数組が踊っている。船はピア81に向かっている。今日は3人で結構歩き回ったので疲れが出てきた。3人でそれを眺めている。「雰囲気は最高ね。本当に来てよかった」と大森さんが言った。紗奈恵も頷いていた。
10時丁度にピア81に着いた。大勢の人が船から降りる。これからはタクシーを捕まえて二人をホテルへ送り届けるだけだ。ここではタクシーが捕まりにくいので、中心街の方へ少し歩いてからタクシーを拾うことにした。
なかなか拾えなかったので、随分歩いた。これだけは余分だった。なんとかタクシーが捕まって、3人ともほっとした。ホテルで別れ際に二人は改めてお礼いった。
明日は早朝からワシントンへ1日観光する予定なので、すぐ休むように、また朝8時に迎えに来ると伝えた。やれやれ、おやすみ!
木曜日の朝、7時30分にホテルの彼女たちの部屋に電話を入れた。今日は1日ワシントン観光ツアーに行く予定になっているので、朝寝坊していないか心配だったからだ。紗奈恵が出た。今起きたところで、すぐに準備して8時にロビーに降りていくと言っていた。
8時にロビーで待っていると、いかにも眠そうな二人が降りてきた。
「そうとう疲れているみたいだね」
「そうでもないけど、昨夜は二人ともぐっすり眠れたわ。時差にも慣れたみたい」
「行き帰りは眠っていればいいから、でも迷子にならないでね」
「大丈夫よ」
そう言って二人はツアーの迎えのバスに乗り込んでいった。
午後7時に紗奈恵からホテルに戻ってきたとの連絡があった。明日はニューヨーク市街でショッピングをすることになっている。疲れているようなので、ホテルには10時に迎えに行くことにした。紗奈恵もゆっくり寝られるのでそれがいいと言った。
◆◆◆
金曜日、朝10時にホテルのロビーで待っていると2人が現れた。時間にゆとりがあったせいか、元気を取り戻しているように見えた。今日はニューヨークを見物できる最後の日だ。
「昨日のワシントンツアーどうだった?」
「ホワイトハウスを見られたし、博物館や美術館も多くて、時間が足りないくらいだった。やはり行ってよかった。写真もたくさん撮れた」
「お天気に恵まれました。今日がニューヨーク市内を見て回れる最後の日ですね」
「だから、ショッピングに当てた。お土産や衣料などを買うのなら、適当な店を案内するから」
「ガイドブックで調べてきましたからお願いします」
「今夜の夕食は何がいい?」
「もう、こちらの食事は食べ飽きたわ。市瀬君はいつも何を食べているの?」
「ここへきてすぐは要領も分からないので適当な店に入っていた。この前に案内したレストラン、中華料理の店、それから日本料理店」
「日本料理店もあるの?」
「結構探せばあるけど、高級レストランを除いて、味はいまいちだ。それに値段も安くない。最近は夕食をほとんど自炊している。と言ってもご飯を炊いて、日本の食材を買ってきたり、デリでできあいの料理を買ってくるか、スーパーで肉や魚を買って焼いたりしているだけだけどね」
「へー、自炊しているんだ」
「市瀬君はどんなところに住んでいるの?」
「ここから歩いて10分ほどのコンドミニアムの12階だけど、広さはワンベッドルーム。日本でいうと1LDKの賃貸マンションといったところかな」
「見てみたい」
「それなら、今夜の夕食は僕のところで食べるのはどうかな? 食材を買って帰って、僕も何か作ってあげよう。そうすれば費用も格安だし」
「そうしましょう。一緒に食事できるのは今日が最後だから、私たちもお手伝いします」
◆◆◆
それから彼女たちのショッピングに付き合った。米国のブランドというと僕の知っているのは「ティファニー」「コーチ」「ポロラルフローレン」「ハンチングワールド」くらいだ。彼女たちはブランドに興味をしめさない。確かに日本のどこにでもある。
婦人服をみたいというので、デパートをいくつか回った。デパートならブランドがそろっているから、見て歩くには効率がいい。こちらの婦人服はどれもシンプルな色と形が多い。花柄などはめったにない。
女性のショッピングは時間がかかる。じっくり待つにかぎる。二人とも何着かを仕入れて気が済んだみたいだった。
今は東京でも地方都市でも世界中のブランドが手に入る。まして通販を使えばいながらにして購入が可能だ。手に取って見られないだけで、リスクはあるが、注文してから数日で手に入る。旅行でショッピングはもうないのかもしれない。
昼食は町のコーヒーショップで簡単にすませた。朝食はどうしているのか聞いたら、始めはホテルの食堂で食べていたが、高価だし、慣れてきたのでホテルのフロントで近くのコンビニやスーパーを教えてもらって、二人でパン、牛乳、フルーツ、アイスクリームなどを買ってきて食べているということだった。慣れてきた証拠だ。ただ、時差にも慣れてきたころに帰国することになる。
それから買ってきた物をホテルにおいて、一息ついたら、3人で夕飯の材料を買ってその足で僕のコンドミニアムに向かうことにした。
3時に僕はホテルへ二人を迎えに行った。二人は軽快な服装に変えていた。これから食料の買い出しだ。お酒は買い置きがある、ワイン、ウイスキー、缶ビールがあるから、必要なのはソフトドリンクだ。日本の食材も買い置きが3人分くらいならある。
まず、デリへ行って、総菜とサラダなどを調達することにした。そこで彼女たちに食べたいものをチョイスしてもらえばいい。行きつけのデリへ彼女たちを連れて行った。
「じゃあ、それぞれ食べたいものをそこのプラのパケージに取ろう。それをシェアしよう」
「混ざってもいいの?」
「まとめて重さをはかって値段が決まるから」
「そうなの?」
僕は肉料理とサラダを取った。それを見て彼女たちはカットしたフルーツを選んでいる。持ち帰ってシェアすればちょうど良いくらいの量を入れていく。
支払いを済ませて今度はスーパーに寄る。ここでアイスクリーム、ソルベット、飲み物と3種類ほどチーズを買った。これで、食べ物は十分だ。3人だと買い物も楽だ。僕は買い物するときは大きなリュックを担いで行っている。1週間分を買うとなると結構な量になる。
僕のコンドミニアムに着いた。玄関には受付のおじさんがいる。まあ、門番だ。エレベーターに乗って12階の125号室へ向かう。
玄関ドアを開いて二人を中に案内する。
玄関を少し入るとすぐに10畳くらいのリビングダイニングになっている。3人掛けのソファーと座卓、テレビを置いている。左に寝室とバスルームがある。右にはキッチンがあって冷蔵庫を置いてある。使い勝手はいい。浴室はコックをひねるといつでもお湯がでる。一人で暮らすのには十分で快適だ。
二人は興味深々で部屋を見て歩いている。確かにここなら3人で落ちついてゆっくり話ができる。リビングのベランダから景色も見える。帰りもホテルが近いので安心だ。
「ウオークインクローゼットがついているのね」
「荷物が少ないからゆとりがある」
「ここから事務所ヘはどうして通っているの?」
「歩いて20分弱くらいかな。運動にもなるから毎日歩いている」
「家賃が高いでしょう?」
「会社が借り上げてくれているので問題ない」
「結構いい生活をしているのね。うらやましいわ」
「これくらいないと、海外赴任なんてできないよ。来てみるとよく分かる。いつも緊張している」
「それは言葉が通じないから?」
「それもあるけど、ここは異国の地で日本ではない。僕たちは外国人だ。自分の身は自分で守らないといけない。その緊張かな」
「だから、私たちにも付きっきりなの」
「それもある。日本人の若い女性の旅行者を見ていて時々はらはらする。無防備すぎる。まあ、日本が安全という証拠かな」
「そろそろ、食事の用意をしようか?」
買ってきたものをお皿に盛り付けるだけだけど、3人で用意を始めた。僕は炊飯器でご飯を炊いた。飲んでいる間に炊けるだろう。
「食器が2組しかないけど?」
紗奈恵が言っている。
「2組は君たちで使ってくれればいい。僕は大きなお皿を使うから」
「誰か良い人でも訪ねてくるんですか?」
大森さんが聞いてくる。
「いや、前任者がここを使っていて、引き継ぐときに家具や家電や調理器具や食器もすべて置いていってくれた。彼が2組そろえていたんだ。だから彼女でも訪ねて来ていたのかもしれない」
「素敵ですね。こんなところで二人で暮らせたら、市瀬君、私でよかったら、どう?」
大森さんが唐突に言った。
「どうって」
「一人で寂しいんだったら、残ってあげてもいいわよ」
「ありがとう。気持ちだけいただいておきます。僕はバツイチだし、それに今はそんな気持ちにはなれないから」
「そんな気持ちになったらいつでも声をかけて、市瀬君だったらいつでもOKよ」
「ありがとう。そういう友人がいると思うと心強いよ」
大森さんは僕を励ますと言うより、本心で言ってくれたのかもしれない。彼女は昔から僕に好意を持っていてくれたのは薄々分かっていた。でも気付かないふりをしていた。
大森さんは小柄だけど可愛い女性だ。家庭的で性格もよくきっと良い奥さんになるだろう。ただ、僕からみると引きつけられる何かがない。僕は紗奈恵のような男を惑わせるような何を考えているか分からない女性に惹かれる。
ここで大森さんがこういうことを言い出すとは思ってもみなかった。大森さんは勇気がある。僕にはこんなことはとても言えない。
できるだけ大森さんを傷つけないように無難に答えたつもりだった。紗奈恵は僕たちのやりとりを黙って聞いていた。紗奈恵が同じことを言ったら僕はどう答えていただろう。きっと「そうしてくれないか」と素直に言ったと思う。
「じゃあ、また、しばしのお別れだから、今日は3人で盛大に飲みましょう」
大森さんは照れ隠しなのか大声で乾杯を誘った。すぐに3人で乾杯する。まずは赤ワインを飲みながら、買ってきた総菜を食べる。どれも味は悪くない。3人で食べきれるようにほどほどの量を買ってきた。選んだチーズもなかなかいい。
二人は日帰りツアーで行った時のことを話してくれた。楽しい効率的な旅行だったとスケジュールを考えた僕に礼を言っていた。
話をしている間に外が暗くなってきた。ニューヨークの夜景はエンパイヤ・ステート・ビルから見ていたが、ここから夜景はまた別と見えて、ベランダに出て3人で眺めた。
丁度、コンドミニアムの前をイーストリバーが流れている。水面に向こう岸の光が反射している。僕には見慣れた景色だったが、珍しいのか二人ともじっと眺めている。心地よい夜風も吹き始めている。
紗奈恵と二人でこの夜景を眺めてみたかった。一人で来てくれたなら、どんなに嬉しかっただろう。でもそうできたのに紗奈恵はそうはしなかった。
僕は彼女にとって今でもその程度の存在でしかないのだろうか? いや、まだ彼女は立ち直れていないのだと思いたかった。もっと時間が必要なのだろうか? 時間が解決してくれるのだろうか?
「そろそろ、中へ入らないか? 締めに僕が鰻重定食を作ってあげよう」
「日本食が食べたくなってしかたなかったから、是非お願いします」
丁度、ご飯も炊き上がっていた。冷凍の鰻のかば焼きをいつも買い置きしている。また、保存が効く豆腐と粉末の即席味噌汁もあるからすぐにできる。
お茶碗にご飯を盛りつけて湯煎した鰻のかば焼きを盛りつけてたれをかける。豆腐に鰹節をかけて冷奴、お椀の粉末味噌汁にお湯を注いで出来上がりだ。
「お待ちどうさま。鰻重定食です」
「おいしそう。このにおい、まるで日本ね」
二人は嬉しそうに食べ始めた。
「この鰻、とっても美味しい」
「日本人に生まれてよかった。ちょっと大袈裟さかな?」
そう言って、大森さんは夢中で食べてくれている。紗奈恵も美味しそうに食べている。こんなに喜ばれるとは思わなかった。ご馳走してよかった。
「市瀬君がこんなに料理が上手とは思わなかったわ」
「ただ、買ってきたものを盛り合わせただけだから、手は加えていないけど」
「いえ、見た目も美味しそうにできているから」
「ずっと、ここで一人でやっているから、うまくもなるさ」
「こんないい人と別れるなんて考えられないわ」
「大森さん、その話は」
紗奈恵が止めに入る。
「まあ、当事者でないと分からないこともあるよ。でもそういってくれると少しは気が休まるけどね」
「考えてみて、さっき言ったこと」
「ああ、ありがとう」
大森さんはどう受け取っただろう。「御免なさい」とはっきり言えばよかったのかもしれない。さっき断ったつもりだった。紗奈恵はどう受け取っただろう。
食べ終えたところで8時を過ぎていた。
「そろそろホテルへ引き上げて明日の出発の準備をした方がいい」
「もうそんな時間、お名残り惜しいけどそうさせてもらいます」
「後片付けはいいから、明日の準備をして。寝過ごして飛行機に乗り遅れると大変なことになる。ホテルまで送るから」
「大丈夫です」
「最後まで面倒を見ることにしているから、そうさせてくれ」
僕は二人をホテルに送って行った。そして明朝8時30分に迎えに来ると伝えて帰ってきた。紗奈恵とも明日でお別れだ。
朝8時30分に僕は頼んであった見送りのためのリムジンに乗ってホテルに到着した。ロビーではチェックアウトした二人がスーツケースを持って待っていた。すぐにリムジンに乗り込んで空港へ向かう。フライトは12時だから十分すぎるほど時間はある。
道路の渋滞もなく予定の時間に空港へ着いた。すぐにチェックインしてスーツケースを預けてもらった。これで後は手荷物チェックを受けて搭乗ゲートに入るだけだ。これで紗奈恵とは帰国するまでは会えない。まあ、これからもスカイプで会話できるから良しとしよう。
「ありがとう、市瀬君、お世話になりました。とっても楽しい思い出ができました」
「池内さんに誘ってもらって、本当に来てよかった。市瀬君ともお話ができて」
「どうか、お元気でいてください」
「ああ、また連絡するから。家に着いたら無事着いたと連絡を入れてほしい」
紗奈恵は頷いたが何も言わなかった。
「もう、入った方がいい。デューティーフリーでお土産を買う時間が足りなくなるから」
二人はゲートを入って行った。僕は搭乗時間まではゲートの前にいた。帰りはバスで帰ることにしてリムジンは返した。時間は十分にある。今日は土曜日だ。
紗奈恵は8日間ニューヨークに滞在して帰っていった。会って話したいことがたくさんあったはずなのにほとんど何も話していなかった。大森さんがいたからかもしれないが、二人で話す機会は作れば作れたはずなのにそれができなかった、いやしなかった。話してもありきたりの無難な話に終始した。
中学校から高校、大学へと進む間もそうだった。好きだとか付き合ってほしいとは言わなかった。お互いに好意は持っているが、なんとなく、着かず離れずの関係だった。今に至っても二人ともそれが全く変わっていなかった。
なんとかしたいが、なんとしようもない。相手のいることだ。でもこれは僕に勇気がないだけかもしれない。
◆◆◆
日曜日の朝9時過ぎになってようやく紗奈恵から無事に帰ったとスカイプで連絡が入った。家に到着したばかりで、服装もニューヨークを立った時と同じだった。旅の疲れが見て取れた。
「旅行の手配から何か何までありがとう。本当に楽しい旅行で良い思い出になりました」
「無事について、ほっとしている。楽しかったと言ってもらえて本当によかった。誘ったかいがあった。僕も楽しかった。これからもスカイプで話をしよう」
「それなら大森さんと話してあげて、彼女はあなたに好意を持っているから、そうしてあげて、彼女を誘ったのも、彼女のあなたへの気持ちが分かったからよ」
「でも、あの時に彼女に伝えたとおり、僕は今そんな気持ちになれないから」
「お願いね。じゃあ、ありがとう。本当にありがとう。さようなら」
紗奈恵からスカイプを終えた。紗奈恵の気持ちが分からなかった。僕の気持ちを分かってくれていないのか? 大森さんに言った「僕は今そんな気持ちになれないから」が余計だった? 最後の言葉「さようなら」が気になった。
◆◆◆
1週間後の定時にスカイプの連絡を入れた。でも紗奈恵は出てくれなかった。何かアプリの不具合でもあったのだと思って次の週も入れた。やはり紗奈恵は出なかった。次の週も出てくれなかった。
これが紗奈恵の意思だと思うと、もうそれ以上は連絡を入れることをあきらめた。空港での別れが別れの始まりだった。そして帰宅後のスカイプが最後の会話になった。
もちろん、僕は大森さんには連絡を入れなかった。それに彼女からも何も言ってはこなかった。大森さんには僕の気持ちが分かっていたのだと思う。
紗奈恵たちがニューヨークへ来た翌年の4月に僕は2年半のニューヨーク勤務を終えて帰国することになった。
幸い向こうのベンチャーと共同開発していたものが新規医薬品になる可能性が高いことが分かったので、今度は日本の製薬会社とも共同開発をすることになった。それで帰国後はその調整のために本社の研究開発部に勤務することになった。
僕は帰国すると本社着任の挨拶状をこれまで世話になった会社の関係者などに送った。中学校のクラス同窓会の幹事の石田君にも出しておいた。それから紗奈恵にも出すことを忘れなかった。
今住んでいるところは大岡山の駅前の1LDKの賃貸マンションだ。ここからなら横浜研究所へも新橋の本社へも通勤が可能だ。
◆◆◆
帰国してほぼ1か月が経っていた。丁度中学校の同窓会が5月下旬の土曜日に3年ぶりに開かれるとの案内状が届いた。幹事の石田君が僕が帰国したことを知って出席の締切期限がすでに過ぎていたにもかかわらず案内状を送ってくれた。
せっかくだから、出席することにして、実家へもそれに合わせて帰国後初めて帰省することを知らせておいた。
実家へは智恵と別れて以来ずっと足が遠のいていた。両親からとやかく言われるのがいやだったからだ。ニューヨーク赴任中は1度も帰国しなかった。本社や研究所での打合せを兼ねて一時帰国することもできたが、そういう気持ちにはなれなかった。
◆◆◆
同窓会の前日の夜遅く実家に着くと、母親がすぐにそばに来て、どのようにして暮らしているか聞いてきた。
一人暮らしだけど何不自由なく暮らしていると答えておいた。でも母から、もう智恵と別れてから4年近く経っているし、そろそろ再婚を考えてもいいのではないかと言われた。
それと智恵が再婚したことを教えてくれた。仲人をしてくれた山村さんから聞いたそうだ。半年前に幼馴染の同級生と再婚したという。相手の人は初婚で一旦は断ったそうだが、相手の人がどうしてもいうので承知したそうだ。
彼女が再婚したと聞いて内心ほっとした。心のどこかにいつも残っていた重石が取り除かれたような気がした。今度は幸せになってほしい、心からそう思った。だから、母は僕にも再婚を考えてほしいと言ったのだと思う。
「お前もバツイチだからそう条件のよい人は見つからないかもしれないけど、いつまでもこのままという訳にもいかないだろう」
お見合いを始めるときにも聞いたような話だ。友人にもいい人がいたら紹介してもらえるように頼んでいるとのことだった。
「今はその気になれない。その気になったら、自分で見つけるから余計なお世話はいらないから」
そう言ったのは、智恵との見合い結婚も親の言う通りにしたから、あんなことになってしまったのかもしれないという思いもあった。
午後6時から市内のホテルで中学校の同窓会がある。3年ごとに開かれていたが、この前は出席できなかった。それまでは帰省がてらできるだけ出席していた。今回は6年ぶりだ。
紗奈恵は出席するだろうか? あれから紗奈恵とは一度も話していない。スカイプで連絡を入れても応えてくれなかった。帰国後に電話をかけることも考えたが、拒絶されることが怖くて、どうしてもかけられなかった。
僕は早めに会場についた。3年5組の幹事の石田君と吉村さんが受付にいた。久しぶりによく来てくれたと言ってくれた。僕は石田君に連絡のお礼を言った。
今日の5組の出席者名簿を見せてもらった。池内紗奈恵の名前があった。彼女が来る。大森芳恵の名前もあった。
案内された5組のテーブル席に座っていると次々と同級生がやってくる。いつも来る人は大体決まっている。6年前にあった時と容貌が少しずつ変わっている。皆、歳をとったんだ。
大森さんがやってきた。すぐに僕のところに来てニューヨーク旅行のお礼を言った。あいにく僕の両側の席はすでに埋まっていた。僕から一番近くの空いていた席に座った。
ようやく紗奈恵も現れた。僕を見つけると微笑んで会釈をしてくれた。そして僕の斜め前の大森さんの隣に席を取った。席に座った紗奈恵を僕はずっと見つめていた。ニューヨークへ来てくれた時とあまり変わった印象はなかった。
僕の視線が気になるのか、僕と目を合わせずに大森さんと話している。僕はすぐにでも紗奈恵と話がしたかったが、そろそろ開会の時間になっていた。
お決まりの同窓会会長の挨拶や恩師の挨拶が終わって乾杯となった。食事が始まると5組は幹事の石田君の提案で一人ずつ近況を話そうということになった。
僕は5年前に見合い結婚をして4年前に離婚したこと、それから関西へ転勤し、ニューヨーク勤務を経て、2か月前に帰国して東京の本社勤務になったことを話した。皆驚いてこの5年間の話を聞いていた。
紗奈恵は3年前に夫が交通事故で亡くなったので、実家に帰ってきて、今は市内の病院に勤めていると言っていた。
大森さんは3か月後に同級生と結婚することを報告していた。また、池内さんと一緒にニューヨーク旅行をして僕に案内をしてもらったことを話していた。
ここ6年間で皆にはいろんなことがあったみたいだ。子供ができたと言う話も多かった。皆そういう年齢に達している。男子はほとんどが既婚者になっていた。女子もほとんど姓が変わっていた。
僕は紗奈恵の隣の席が空いたら移動しようと狙っていた。だがなかなかあかない。彼女は今でもクラスの人気者だ。だから周りに人が絶えない。僕はビールを持って彼女に注ぎに行った。隣の席の大森さんが話かけてきた。
「ニューヨークでは本当にお世話になりました」
「いや、僕も二人を案内してとても楽しかった」
「私、さっきも話したけど、結婚することになりました。相手は隣の4組の大野君なの。今日は仕事で出席できなかったけど、どうしてもと言われてその気になりました」
「それはおめでとう」
「やっぱり、好きな人より好きになってくれる人だと思って」
「その方が幸せだと思うよ。本当によかったね」
大森さんから結婚の話を聞いてほっとした面もあった。紗奈恵は親友の大森さんの僕への思いを知ったから身を引いたと思っていたからだ。
大森さんは僕が紗奈恵に好意を持っていることを知っていながらあえてあの時、自身の悔いが残らないように僕に告白したのだろうと思う。だから、僕と紗奈恵の前でわざわざ結婚の話を伝えたかったのだろう。
大森さんはそれだけ話をすると、僕が紗奈恵と話ができるように席を空けてくれた。僕はそこに座った。
「久しぶりだね」
「ニューヨークではお世話になりました」
「いや、こちらこそ来てくれて楽しかった。少しは気が晴れたらのならよかったのだけれど、元気にしているみたいだね」
「そうでもありません」
「今でもご主人が亡くなったことを後悔している?」
「いつも心のどこかに重しのようにのしかかっています」
「早く忘れて楽になれたらいいのにね」
「忘れてはいけないことだと思っています」
「僕の別れた妻は再婚した。大森さんと同じで、幼馴染の同級生がどうしてもと言ったので承知したらしい。それを聞いて僕はほっとした。重荷が取り除かれたような気がした」
「死んだ人は生き返りません。彼も生きていれば再婚してやり直せたかもしれませんから」
「あの早朝に実家へ逃げかえった時に二人は別れたんだと思う。その後に彼が亡くなった」
「でもそれが原因で彼が亡くなりました。彼の再婚の道までも閉ざしてしまいました」
これ以上ここで話をしてはいけない、彼女をますます追い詰めることになると思った。僕は「後で話そう」と言って席を立った。そして、ビールを注ぎにまわった。
同窓会はあっという間に時間が過ぎて、お開きになった。もう少し紗奈恵と話がしたかった。クラスで2次会に行くらしい。紗奈恵も誘われて参加するみたいだ。僕も行くことにした。2次会はカラオケ店でやると言う。そこなら10名くらいは入れる部屋がある。
2次会ではそれぞれが持ち回りで歌を歌うことになって始まっている。皆それぞれの好きな歌を入れて歌っている。紗奈恵は「君を許せたら」を歌っていた。初めて彼女の歌を聞いたが、意外と歌がうまい。僕も歌が嫌いな方じゃない。この頃は一人で音楽を聴いていることも多くなった。僕は「レモン」を歌った。
ようやく紗奈恵の隣りの席が空いた。すぐに僕は隣に座った。もう時間が残り少ない。ただ、そばに座っていても話題が見つからない。紗奈恵は黙って歌を聞いている。それでも僕は彼女の隣りに座っていることに満足していた。それに彼女は席を移動しようとはしなかった。
どこかで聞いた歌を誰かが歌っている。スナック純で聞いた曲だった。僕には辛い曲だ。聞いていると悲しくなる。紗奈恵はそれをじっと聞いていた。
「なんという曲か知っている?」
「知っていますか?」
「『22歳の別れ』という1970年代の曲だ。」
「聞いていると身につまされる歌詞ですね」
「えっ」
それ以上、言葉がでなかった。紗奈恵は何を言いたかったのだろう。でもどうしてとは聞けなかった。2次会は2時間の予定だった。すぐに時間が来た。
「一緒に帰らないか? 送っていくよ」
彼女は何とも答えなかった。彼女の家はここから歩いても25分くらいの距離だと思う。出口で皆と再会を誓い合って別れた。帰りの方向が同じ数人が歩き始める。僕は紗奈恵のそばを歩いている。
一人減り2人減りして僕たちだけになった。この間にどうしても話しておきたいことがあった。思い切って口に出した。
「僕とやり直す気はないか?」
「えっ」
「僕と付き合ってくれないか? あれから、連絡しても応えてくれなくなったから、連絡だけでも再開してくれないか?」
「辛くなったんです。あなたとお話するのが」
「辛い?」
「何の解決にもならないから。それに私はあなたには似つかわしくありません。一度あなたを裏切りました」
「裏切った?」
「あなたの気持ちを知っていながら、彼との結婚を決意しました。あの歌のとおりなんです」
「いや、あの時の君の決心は間違っていなかったと思う。僕はあの時、彼のように君にプロポーズする勇気も君と生活する力もなかった。ただ、好きなだけだった。だから、今でも後悔はしているけど、それは僕の問題で、君が僕を裏切ったとは思っていない」
「私は裏切ったと思っています」
「覚えている? 大学の学園祭に誘ったら君が来てくれて、今日のように遅くなったので僕が家まで送って行ったこと」
「そんなことがありましたね」
「僕はその時、君が好きだったけど、何も言えなかった、好きだとも、付き合ってくれとも言えなかった。勇気がなかったというか自信がなかった。あの時、好きだから付き合ってくれと言っていれば、君の気持ちを繋ぎ留められていたかもしれない。それが僕の後悔だった。そして、今のようなことにはなっていなかったかもしれない」
「その時の後悔を繰り返したくないから、今、僕の気持ちを素直に君に伝えておきたい」
「僕が結婚に失敗して失意に満ちて関西に赴任してきた時に、偶然に君と再会した。住んでいるところも同じで、その偶然に驚いた。それに決定的なことは君が僕に助けを求めたことだ。驚いたし怖くなった。運命の糸がまだ繋がっていると思った」
「それからは君が知ってのとおりだ。僕は電話をしたり、スカイプをしたりして、君との繋がりを大切にしてきた。でも君はそれを切ろうとした。運命の糸はそんなに簡単に切れるようなものじゃない。今日の同窓会で再会して、僕はそう信じるようになった」
「運命の糸をですか?」
「僕の大学時代の友人が同級生を好きになった。相思相愛だったが、彼女の両親が反対した。彼女は一人娘だった。遠方に彼女を嫁がせたくなかったからだと思う。それで親思いの彼女は結婚をあきらめて彼と別れた。
その彼女に今度は僕の親友が卒業前に惚れたんだ。その惚れこみようはなかった。卒業してからも毎日電話して彼女の気持ちをつかもうとした。でも彼女の両親が反対したので、彼女は親友との交際を断った。
でもそれがきっかけで彼女の気持ちが変わったのではないかと思う。偶然に元カレと再会して、また付き合うようになって結婚したそうだ。
同窓会に出席したときに理由を聞いたらお互いに忘れられなかったと言っていた。それに運命の糸は切れないと言っていた。切っても切られても結ばれる二人はどんなことがあってもいずれは必ず結ばれると言っていた」
「私は一度切れた糸は繋がらないと思っています。繋いでもまたきっと切れます。だからお受けできません」
「切れてもいいじゃないか。また繋いでみればいいじゃないか?」
「怖いんです。それでもまた切れてしまうのが」
「分かった。そこまでいうのなら。でもまた同窓会で会おう。3年後くらいにまた開くと言っていたから」
「そうですね。私もできれば出席します」
「その時までに気が変わっているといいけどね」
「今のままだと思います。そんなことは考えないでほかの人を探してください」
彼女の家の手前で僕は彼女と別れた。後悔のないように今日は気持ちを伝えられた。これで思い残すことはなくなった。東京へ戻ろう。3年後には彼女の気持ちも変わっているかもしれない。それを期待しよう。