—1—
夜は嫌いだ。夜が終わってしまったらまた憂鬱な明日がやって来るから。
明日を乗り切ったとしても平然とした顔で明後日が襲い掛かってくる。
何かオレが悪いことでもしただろうか?
極力人との接触を避けているから誰かに迷惑を掛けた覚えはない。
どちらかと言えばオレは被害者に分類されるはずだ。
大切にしていた彼女に裏切られ、彼女に手を出した男は何食わぬ顔で残りの高校生活を謳歌していた。
あの時、彼女の言葉を信じていれば何か変わっていたのだろうか?
変わっていたとして、それで本当に心から幸せと言えるだろうか?
終わってしまったことをいつまでもくよくよ考えていてもどうしようもない。
どうしようもないこととは分かっているが、無意識の内に考えてしまう。
何か作業に没頭している時は忘れられているのだが、ふとした瞬間に思い出してしまう。
オレの場合、それは夜が多い。
気分転換も兼ねて近所のコンビニに飲み物を買いに行くと言って家を出ると、そこかしこから鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
この音を聞いて心が安らぐと答えるのが一般的なのだろうが、今のオレには少しばかり煩く思えた。
等間隔で設置された街灯の明かりを頼りにコンビニを目指す。
夜が怖い。先の見えない未来で自分がどう生きているのか想像できないから。
働きたいと思える職業も特にない。
なりたいものもない。
オレには何もない。
空気も同然のような生活を送っていたら夢なんて持てるはずもない。
こんな不安を誰かに打ち明けることができたら少しは心も軽くなるのだろうか。
相談する相手が欲しい。1人は嫌だ。
そういえば心理学の講師も言ってたっけ。
人は人と繋がっていることでしか生きていられない。
オレはずっと人との繋がりを求めていたのかもな。
自分から人と距離を置いていたはずなのに。
「ふっ、矛盾してるじゃねーか」
自嘲気味に笑う。
自分から手を伸ばさないと手に入らない。
これは人間関係に限った話ではない。
刺激を欲するならば自らが行動するしかないのだ。
ただ待っているだけでは何もやってこない。
この何ら変わり映えのない退屈な日々が死ぬまで永遠に繰り返されていく。
就職したとしても会社の歯車の一部になって。
使えなくなったら捨てられる。
所詮替えの利く部品の一つでしかない。
そんな人生楽しいか?
何のために生きているんだ?
「もう疲れた」
考えるのはやめよう。
いくら考えたところで答えは出ないしもう答えを出す必要もない。
コンビニが見えてきた所でオレは足を止めた。
駐車場で大学生7、8人のグループがバカ騒ぎしていたのだ。
ヤンキー座りをして、手には酒を持っている。
「んでさ、北高の由愛ちゃんっているじゃん。バスケ部のめっちゃ可愛い子なんだけど、意外と裏では股緩いことで有名らしいよ。ちょっと頼めばすぐやらせてくれるって」
「マジかよ!」
「おいおい、お前の顔面じゃ相手にされないから」
「ははっ、間違いない」
「うっせーな!」
ゲスい笑い。
オレには何が面白いのか理解できない。
コンビニはまた今度にしよう。入口が塞がれてるし、変に目を付けられても困る。ああいう人種とはなるべく関わりたくない。
そんなことを考えていると、大学生グループの1人から声を掛けられた。
「あれっ? 直斗じゃね? おい!」
すでに歩き出していたオレは横目で声の主を確認する。
暗くてよく見えなかったが間違いない。
「浦田……」
オレの彼女に手を出した張本人だった。
認識してしまったが最後。心臓の鼓動が早くなる。怒りがふつふつと込み上げてくる。
拳を握り締め、手のひらに爪が食い込む。
「久し振りだな! 直斗もこっちに来て飲もうぜ。俺の仲間紹介すっからよ」
こいつどんな神経してるんだ?
あの出来事を忘れたのか?
浦田にとってあの出来事はほんの些細なことだったのかもしれない。
だから何の罪の意識もなく、こうやって無神経に話し掛けることができるのだろう。
これが浦田にとっての日常なんだろうな。
馬鹿馬鹿しい。
「おい直斗ってば」
オレは浦田の呼び掛けを無視して早歩きでその場を去った。
何も変わっていない。
むしろクズさ加減に磨きがかかっていた。
なんでオレだけこんな思いをしなくてはならないのだろうか。
浦田の顔を見たせいで例の場面が鮮明に蘇ってくる。
「クソっ」
転がっていた石を思いっきり蹴飛ばした。
石は何度か地面に弾むと草むらに消えていった。
このまま生きていても良い事なんてあるのか?
そんな考えが頭をよぎる。
「終わりにするか」
踏切のカンカン、カンカンという音が近づいてきた。
オレは何かに導かれるようにここまで足を運んでいた。
神奈川県が自殺禁止区域に指定されるまで、この踏切は自殺スポットだった。
しかし、自殺禁止区域に指定されてからは自殺者が1人も出ていない。
裏を返せば自殺禁止区域では自殺することができないということだ。
本当にそうなのか?
電車がカーブを曲がり、正面にライトが向いた瞬間を見計らってオレは遮断棒を押し上げた。
痛いのは一瞬だけ。
いや、痛みすら感じる暇もないかもしれない。
耳を刺すような警笛が鳴り響く。
と、その時、オレの前を白猫が横切った。
「シロ?」
「ダメだよ。自殺なんてしちゃ」
女性の優しい声。
シロの口が動き、はっきりとそう聞き取ることができた。
猫が人の言葉を?
オレの理解が追いつく間も無く、オレは電車に轢かれた。
さようなら、川端直斗。
—1—
『神奈川県が自殺禁止区域に指定されてから1年が経ちました。昨日の自殺者も0人。これで自殺禁止区域では1年連続で自殺者が出ていないことになります』
聞き覚えのあるアナウンサーの声に聞き覚えのあるニュース。
ここはオレの家か?
だとしたらおかしい。オレは確実に電車に撥ねられて死んだはずだ。
徐々に意識が覚醒していく。まずは状況の把握だ。
使い古されたソファーに曲がった壁掛け時計。カーペットについた醤油のシミ。
20年間見続けてきた自分の家を見間違えるはずがない。
「一体何がどうなってるんだ」
あり得ない話だが、時間が巻き戻った?
そんなのファンタジーの世界でしか聞いたことがない。
だが、現にオレの身に起こっている現象を説明するならそうとしか言いようがない。
だとすればベランダにはシロがいるはずだ。
窓の外に目をやると予想通り野良猫のシロがオレの顔をまじまじと見ていた。
「ナー、ナー」
シロは猫らしくご飯を求めて撫でるように2回鳴いた。
「なんで?」
人間の言葉を話せるんじゃないのか?
『ダメだよ。自殺なんてしちゃ』っていうあの言葉は何だったんだよ。
シロはベランダをぐるりと1周するとプイッとそっぽを向き、走り出してしまった。
「待ってくれシロ! 聞きたいことが山ほどあるんだ!」
オレの必死の問い掛けも虚しく、シロの姿は見えなくなった。
—2—
込み上げてくる胃液。
オレはトイレで膝をついていた。
こうなったのはつい最近の話ではない。
あの出来事をきっかけにオレは酷い人間不信に陥っていた。
信頼していた人に崖から突き落とされるような感覚を味わった。
裏切られることが怖いから初めから過度な期待はしない。
一種の自己防衛に近いだろうな。
そうでもしていないと立ってはいられない精神状態だった。
夜になると理由も無く涙が溢れてきて親に心配をかけたこともあった。
自分の力ではどうすることもできない不安。
終いには自分が何に対して怯えているのか分からなくなった。
オレは疲れているんだ。疲れているから色々考え込んでしまうんだ。大丈夫。寝れば治る。
そう自己暗示をかけて長い夜をやり過ごす。
そして、また何度目かの朝を迎える。
1日が始まったと思うと胃が逆流してしまう。
現実世界に拒否反応を示しているのかもしれない。
つくづく体は正直だなと実感する。
今日は大学を休むことにした。
とても講義を受けられる体調ではない。
コップに水を汲み、喉に流し込む。
まだ気分は優れないがさっきよりはマシになった。
「動くか」
大学には行かないことに決めたけど、家にずっといるのも息が詰まる。
動くことで頭に酸素を回して脳をリフレッシュさせる。
そういう意味でも散歩はいい。
太陽の光を全身で浴びて、爽やかな風を感じ、自然の豊かな景色で目を癒す。
数時間前に自殺をした人間の行動とは思えない贅沢な時間の使い方だ。
誰にも邪魔されないゆっくりとした時間が流れる。
オレはバスを使ってとある橋まで来ていた。
高さ100メートル以上あるこの橋は昼間は観光地として有名だが、夜は他県からも人が押しかけるほどの自殺スポットとして知られている。
それも神奈川県が自殺禁止区域に指定される前までの話だが。
オレが飛び込んだ踏切なんかとは比べ物にならないくらい有名だ。
昼間ということもあって多くの観光客が橋の上を行き来していた。
オレも観光客の1人として橋の上からしか見ることができない絶景をスマホのカメラに収めたり、立ち止まって物思いにふけったりしていた。
鳥が羽ばたく姿を見て自分も鳥に生まれていたらよかったのになんて叶わない願いを本気で思ったりもした。
これだけ呑気に観光をしておいてなんだが、ここに来た目的は観光ではない。
オレは今度こそ全てを終わらせにきた。
自殺禁止区域で自殺者が0人の秘密。
それは自殺をしても自殺をする前に時間が巻き戻ってしまうから結果として自殺者が出ない。
自殺をした時の記憶は引き継がれるから当然痛みも覚えている。
ソースはオレ。
死ぬくらいの痛みを経験して死ぬことができないのなら自ら自殺を試みる人間はいなくなる。
それが自殺禁止区域で自殺者が出ない秘密だ。
そして、ここにはシロが関わっているとオレは睨んでいる。
人の言葉を話す猫と時間が巻き戻る現象。
一見何の繋がりもないように感じる2つの事象だが、オレの直感がこの2つを結びつけて離さない。
「きゃー!!」
橋の手すりによじ登ったオレを見て観光客の1人が甲高い悲鳴を上げる。
この世界から、この苦しみから解放されたいオレとそれを許してはくれない自殺禁止区域の謎。
このまま一歩踏み出せばオレは死ぬことができる。
もしくはまた朝からやり直すことになる。
「いざ死ぬとなると足が震えるな」
電車に轢かれて体の四肢が引き裂かれた痛みを思い出し、穴という穴から嫌な汗が噴き出してきた。
「どうしてまた死のうとしているの?」
背後から声を掛けられた。
シロの声だ。
オレは振り返らずに自分の抱えている苦しみを吐き出すことにした。オレの話を最後まで聞いてくれたのはこの世界でシロだけだったから。
「生きているのが辛いんだよ。朝起きて、今日もまた1日が始まると思うと吐き気がするんだ。これから先、何年も何十年も代わり映えのない日々を過ごすと思うと不安が、恐怖がオレの心を蝕んでいくんだ。この逃れられようの無い苦しみから解放されるならいっそのこと死んだ方がマシだって」
「でも自殺禁止区域で自殺することはできないよ。それは直斗が1番理解しているんじゃない?」
「それは……」
「本当に死にたいのなら自殺禁止区域の外で死ねばいい。それか他の人に殺してもらうか。まあ、後者は難しいとしてこれだけの行動力があるなら自殺禁止区域の外で死ぬことくらい簡単にできたんじゃない?」
シロの気配が近くなった。
シロに核心を突かれたことでオレの思考が停止する。
「それでも直斗はこの場所を選んだ。つまり、心のどこかでやり直したいって気持ちがあるってことだよ」
「そんなことは。オレはもう耐えられないんだ。この世界で生きていく意味がない。もう、終わりにしたいんだよ」
「そっか。でも、直斗の気持ちがどうであれ私の目が届く範囲で自殺することは許さないよ」
「じゃあ、シロ、お前がオレを殺してくれないか?」
シロがオレの体を押してくれればオレは自殺ではなくなる。
体はぐちゃぐちゃになってしまうだろうが、オレの目的は達成される。
オレは振り返ってシロの答えを聞くことにした。
「直斗、それはできない相談です」
オレの前には会ったことのない白髪の少女が立っていた。
少女は真剣な眼差しでそう言うと首を横に振った。
「君は誰だ?」
刹那、急な突風に体を押され、オレの足が手すりから離れた。
—1—
『神奈川県が自殺禁止区域に指定されてから1年が経ちました。昨日の自殺者も0人。これで自殺禁止区域では1年連続で自殺者が出ていないことになります』
「また死ねなかった」
いよいよ信じざるを得ない。
自殺禁止区域で自殺することは不可能だという事実を。
頭を切り替えて受け入れるしかないようだ。
目に浮かぶ白髪の少女。
大きな瞳は青く輝き、目を合わせただけで吸い込まれてしまいそうな感覚になった。
大胆に肩を露出した大人っぽい白のワンピースを身に纏っていて、背中まで伸びた白髪とよく合っていた。
彼女との口論の中でオレは「この世界で生きていく意味がない」と言った。
自分でも気がついていなかったけれど、どうやらオレは生きていると実感できる何かを求めていたのかもしれない。
空っぽのオレが心から生きていると実感できる何かを。
「ねぇ直斗、そろそろ話し掛けても平気?」
声を掛けられ、ベランダに視線を向けると、そこには例の白髪の少女が立っていた。
少女の背後から太陽の日差しが差込んでいて神々しく輝いている。
少女はオレの許可なく家に上がり込むと、右手をグーにしてオレの口元まで勢いよく伸ばしてきた。
「ッ!?」
殴られると勘違いしたオレは反射的に仰け反る。
「もう、出会ってすぐ殴らないってば」
くすくすと少女が可愛らしく笑う。
そんなこと言われたって誰でも顔の前に拳が飛んできたら避けるだろう。
「気を取り直しまして。まずは、100メートルもある橋から落ちた感想を一言でどうぞ」
「どうぞって言われてもな」
「怖くはなかったですか? 落ちた瞬間に後悔はしませんでしたか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
食い気味に質問攻めにしてくる少女と距離を取るべく両腕を伸ばす。
「君は誰なんだ? シロなのか?」
オレの名前を知っていたことと、オレがシロと呼んでも否定しなかったことから白髪の少女=シロと結びつけた。
「そういえばまだ名乗ってなかったね。私はリヴと言います。直斗が知っているシロは私のもう一つの姿です」
そう言うとリヴはパチンと指を鳴らした。
すると、たちまちオレが知っている白猫のシロへと変身してしまった。
「ナー、ナー」
普段のシロのように可愛く鳴いてみせたリヴ。
「こんなことってありかよ」
開いた口が塞がらないとは正にこのことだろう。
常識の枠に囚われていては話が進まない。オレの目に見えているものが全て真実だ。
「というわけで私はお腹が空きました。直斗、ハンバーガーを食べに行きましょう♪ 私は今、物凄くハンバーガーが食べたい気分です!」
白髪の少女の姿に戻ったリヴが小さな子供のようにはしゃいでオレの腕を引っ張った。
「転ぶからそんなに強く引っ張るなってば! 待って、靴! せめて靴を履かせてくれ!!」
展開が飛躍しすぎてもうオレの頭ではついていけない。
タイムリープだけでも2周してようやく受け入れることができたのに猫に変身できる少女だなんて。
絶賛混乱中のオレは、無邪気な少女にされるがまま近所のハンバーガーショップに向かうのだった。
—1—
『お、お会計が1380円でございます?』
リヴはハンバーガーショップにやって来るなり、笑顔の店員に向かって高難易度の呪文を詠唱した。
正確には息継ぎも無く、ハンバーガーやらポテトやらを注文しただけなのだがあまりの迫力に恐怖すら感じた。
その証拠に店員さんの語尾にクエスチョンマークが浮かんでいた。
「リヴ、お金は?」
「直斗の命を2度も救ったのはどこの誰かなー?」
えっへん、と胸を張るリヴ。
「別にオレは助けて欲しいだなんて頼んでないんだけど」
「あれれー、そんなこと言っていいのかなー?」
「もういい分かった。オレが払うよ」
オレたちの後ろに他のお客さんが並び始めた為、渋々折れることにした。
商品を受け取り、店内の角席に腰掛ける。
ぼっち生活を続けていると、自然と端っこの目立たない席を選んでしまう。
「いっただきまーす!」
行儀良く手を合わせ、美味しそうにハンバーガーにかぶりつくリヴ。
よっぽどお腹が空いていたんだな。
「見てるだけだと暇でしょ? 特別に私のポテトを恵んであげよう」
リヴがトレーの上にポテトを広げた。
「ありがとう。でもそれはオレの金で買ったポテトだけどな」
「もう、細かいことをいちいち気にしてたらモテないよ」
手についたポテトの塩をペロリと舐めるリヴの仕草になぜかドキッとしてしまった。
言っていることはめちゃくちゃだが、リヴは表情が豊かで人を惹きつける魅力がある。
「そういえばシロの姿のときは猫缶を食べてたけど、ハンバーガーも食べられるんだな」
「この星の食べ物は私にとってどれもご馳走みたいなものだからね。猫缶もハンバーガーも大好物だよ」
「そうなのか。んっ? 今この星のって言ったか?」
妙な言い回しに引っ掛かりを覚えた。
「さて直斗、お腹も満たされたことですし、そろそろ真面目な話をしましょうか」
リヴの口調が変わり、纏っている雰囲気まで引き締まった。
周囲から音が消え、店内が静寂に包まれる。
「って嘘だろ……」
店内のオレとリヴ以外の全ての動きが静止していた。
笑顔で注文を取っていた店員も、オレたちの後に並んでいた客もそれぞれが石のように固まってびくとも動かない。
「私と直斗以外の店内の時間を一時的に止めました。外部に情報が漏れては色々とまずいので」
「オレはその外部に含まれないのか?」
「直斗は特別です」
リヴの青い双眸がキラリと輝いた。
オレには特別と言われる心当たりが無いのだが。
リヴは膝の上に手を置いて背筋を伸ばすと、ゆっくりと自身について話し出した。
「私が生まれた星はここから遥か遠い場所にある小さな星です。名前は『ニンファー』。私の先祖に当たる初代星王が水面に浮かぶ一輪の睡蓮の花を見てその名を付けたそうです」
「もう今更何を言われても驚かないつもりだったけど、流石に突っ込まずにいられないわ。リヴの先祖がニンファー星の王様だったってこと?」
というかニンファー星ってどこだ?
「ええ。そして、私は第27代ニンファー星王女として1年前まで星を治めていました」
「リヴが王女様!?」
慌てて口を押さえたが、リヴの能力で周りの時間が止まっているため、その必要はなかった。
「1年前までってことは今は別の人がニンファー星の王様を?」
「いいえ、ニンファー星は滅びました」
「星が滅びた?」
「至る所で砂漠化が進み、食糧不足に陥っていた星をなんとか立て直そうと星の有識者が集まって今後の方針を固めようとしていたその時、ニンファーに巨大な隕石が衝突することが判明しました」
隕石の衝突によってニンファー星は消滅。
それが1年前の出来事。
しかし、まだわからないこともある。
星が消滅したにも関わらずリヴはこうして生きている。
「ニンファー星の人間には特殊な能力を授かって生まれてくる場合があります。中でも王族は代々強力な力を授かることが多く、私の場合は時間を自由に操ることができる能力を持って生まれました」
「時間を止めたこれか」
店内の人間の動きを止めた力。
それにタイムリープ=時間を巻き戻す力もリヴの能力とみて間違いないだろう。
「私は民を救うため、隕石が衝突する直前に時間を止める能力を使いました。そして、側近の1人であるバベルの瞬間移動の能力で宇宙空間を彷徨った末、この星に辿り着いたというわけです」
「バベル?」
「店の外にいるあの黒猫がバベルです」
リヴが指さした先を目で追いかけると、店の外を黒猫が呑気に歩いていた。
「バベル!」
リヴがバベルに向かって手招きするとバベルは黒猫から20代くらいの好青年の姿に変身して駆け寄ってきた。
「お呼びでしょうかリヴ様」
「一応、直斗に紹介をと思ってね」
「そういうことでしたか。リヴ様の護衛を担当しているバベルと申します。以後お見知り置きを」
バベルが深々と頭を下げた。
「川端直斗です。よろしくお願いします」
バベルの対応を見てもリヴが本物の王女様であるということが伝わってくる。
別の星から地球に移住してきたリヴとバベル。他にもニンファー星の人間が移り住んできているのかもしれない。
全く凄い話になったものだ。
「リヴが地球に来るまでの大体の流れは分かった。それで色々聞きたいことがある——」
リヴが突然頭を押さえて目を閉じた。
「リヴ様、また聞こえたんですか?」
「ええ。バベル、今から私が言う方角に飛べますか?」
「もちろんです」
バベルが頷きながらリヴの左手を掴んだ。
「南に3キロ! 直斗、話の続きですしあなたも来て下さい」
「来て下さいって、どこに?」
「時間がない。リヴ様が来いと言ったら黙って頷け」
バベルに右手を掴まれた。
「そんな無茶苦茶な」
「舌を噛むかもしれないから口だけは閉じておけよ。行くぞ、転移!」
次の瞬間、オレたちは何の装備も無いまま空高くに放り出されていた。
オレは思った。あっ、これ死ぬやつだ。
—1—
「うおおおおーーーーーーーー!!!!!!」
バベルの瞬間移動の能力で空高くに放り出されたオレたち。
100メートル以上ある橋の上から落ちた際に味わった浮遊感をまた体感することになるとは。
物凄い風圧で服やら髪の毛やらが暴れまくっている。
「おい、楽しいからってそんなにはしゃぐな。俺から手を離したら死ぬぞ」
「別にはしゃいでるわけじゃないんだけど!? そんなことより早く何とかしないと落ちるぞ!」
「リヴ様が座標の特定をされているのだ。少し黙ってろ」
リヴが右手を耳に当てて周囲の音を聞き分けていた。
バベルが言う座標とは何を指しているのだろうか?
「なあバベル、気になっていたんだがオレに対する当たりが強くないか?」
バベルがオレの顔をチラッと見る。
そして、
「おいバベル! 無言で手を離すな!! お前と手を繋いでいないと瞬間移動できないんだろ!? ほら早くこっちに手を伸ばせ!! 早く!!!」
このままバベルと手を繋がず地面に向かって真っ逆さまに落ちていれば死ぬこともできたはず。
しかし、オレは生きるために必死に手を伸ばしていた。
まだ短時間ではあるけれど、リヴと接したことでオレの中の何かが変わろうとしているのかもしれない。
「2人共準備はいい?」
「はっ、いつでも飛ぶ準備はできております」
リヴがグワッと目を開き、正面に見えるマンションを指さした。
「バベル、あの建物の4階。右から3番目の部屋!」
「承知しました。転移!」
—2—
「うぐっ」
着地に失敗して腹から床に叩きつけられたオレ。
それとは対照的にリヴとバベルは華麗な着地を見せた。
「えっ? 人? どこから??」
体を起こしながら声がした方に視線を向ける。
「愛梨沙」
「直斗?」
オレの高校時代の彼女である愛梨沙がそこにはいた。
泣いた後なのか目は腫れていて、頬は痩せこけている。部屋に散乱している割れた食器類にゴミ袋の山。
高校時代の清楚で大人しかったイメージの彼女とは随分とかけ離れている。
そして、天井からぶら下がった輪っか状のロープ。
愛梨沙は椅子の上に立ち、両手でロープを掴んでいた。
「直斗、どうやってここに?」
「それは」
バベルとアイコンタクトを取って確認しようと試みたが目を逸らされてしまった。
リヴからも動く気配を感じられない。
「直斗、ごめんね。私、ずっと直斗に謝りたかったんだ。許して欲しいとかはないの。私がしたことは最低なことだから。ただ、あれから、直斗と別れてから思い出すんだ。直斗と過ごした毎日が幸せだったなって。今も直斗のことが頭に浮かんでたの。そしたら直斗が突然目の前に現れたからビックリした」
愛梨沙の頬を涙が伝っていた。
彼女の言葉に嘘はない。嘘はないけれど今更謝られたところでオレはどうしたらいいんだ。
信じていた人に裏切られて、人という生き物を信じられなくなって、この世界で生きていく意味まで見失っていた。
今更謝られたところでオレのこの気持ちはどこに向ければいい?
「ずるいよ」
「うん、だから許してくれなくていいよ。私はもういなくなるから。もうなんで生きてるのか分からなくなっちゃった」
愛梨沙が力無く笑った。
「愛梨沙!」
愛梨沙の足が椅子から離れた。
椅子が後ろに倒れて愛梨沙の首にロープが締まっていく。
オレにはその光景がスローモーションのように映っていた。
複雑な感情であることに間違いはないけど、目の前で知っている人が死にそうになっていたら無意識の内に体が動いていた。
愛梨沙の体を下から支えることで少しでも首が締まらないように持ち上げ続ける。
「リヴ! バベル! ロープを頼む!」
リヴは愛梨沙に向かって手を広げていた。リヴの手のひらから淡い光が放たれている。
どうやらスローモーションに見えていたのはリヴの時間を自由に操る能力だったみたいだ。
一方のバベルは床に転がっていた食器の破片を使ってロープを切断した。
地面に放り出された愛梨沙を体を張って受け止める。
「愛梨沙、なんで自殺なんてしようと思ったんだよ」
「この世界には私の居場所がないの」
愛梨沙の目の奥に広がる闇。
オレが知らない2年間の間に愛梨沙の身に何が起こったのか。
「よかったら話してくれないか? 何かできるわけじゃないかもしれないけど、話を聞くことくらいはできる」
人は1人では生きていけない。
オレにシロ(リヴ)がいてくれたように愛梨沙にも自分の気持ちを吐き出す相手が必要なはずだ。
「直斗は優しいね。それなのに私は。本当にごめん」
「もうそのことは終わったことだからいいよ。それで何があったの?」
「高校の頃に仲が良かった友達と同じ大学に進学したんだけど、その子が浦田君のことを好きだったみたいで、当時の私と浦田君の関係をどこかで聞いたらしくて嫌がらせをしてくるようになったの」
愛梨沙は体育座りをして時々言葉を詰まらせながら話し出した。
「初めは大学でできた数人組のグループの子の荷物を持たされたり、飲み物を買わされたり。私も1人になるのが怖かったから我慢をしてたの。彼女たちの言うことを聞いていれば一緒にいられたから。でも、彼女たちの要求はエスカレートしていった」
そう話す愛梨沙の手は震えていた。
「金銭の請求は日常的に行われた。そのせいで自分の食費さえろくに払えなくなった。あることないこと大学中に噂を流されたりもした。他にも体育の授業で服を隠されたり、出会い系サイトに私の名前で登録されたり」
「酷いな」
オレは言葉を失っていた。
「そんなことまでされて一緒にいる意味があるのかなって。居場所の無い大学に行く意味があるのかなって。でも全部自業自得なんだよね。いけないことをしたら回り回って自分に返ってくるんだから」
過去の選択が未来にも影響を与えることは多々ある。
しかし、いくら過去を悔いたところで現状が変わるわけではない。
「実はさ、オレもつい最近まで自殺をしようと思ってたんだ」
愛梨沙が驚いた表情でこちらを見てきた。
「大切だと思っていた人に裏切られて、裏切られることが怖いから自分の殻に閉じこもるようになった。それでも心のどこかでは人の温もりみたいなものを求めてた。そんな自分に疲れたんだ。それが死ぬまで続くと思うと耐えられなかった」
そうだ。あの出来事があって変化の無い日常を望んだのはオレ自身だ。
それなのにそんな日常に嫌気が差して自ら命を絶つ選択肢を選んだ。
理由の分からない恐怖から逃れるために。
「オレは愛梨沙に裏切られたことを言い訳にして生きることから逃げていたんだ。どう足掻いたって過去は変えられない。だけど人間は生きていれば誰にだって間違いを犯すことはあるはずだ。愛梨沙にだって、オレにだって。その間違いと向き合って反省して、次に同じような選択肢が現れたら正しい選択を取ればいい。そうやって人は成長していくんだとオレは思う」
「直斗……」
「変わろうとする時は同時に何かを失う時でもあると思う。だからそれが怖くて現状維持を望んでしまうんだ」
オレが人と関わりを持とうとしなくなったのも、愛梨沙がグループから抜けなかったのも。
得る物より失う物の方が容易に想像できてしまうから踏み出せなかった。
「1人で変わるのは怖いから一緒に変わってみないか?」
愛梨沙が視線を左右に彷徨わせている。
オレの言葉に心が揺れているのだろうか。
変わりたい。だが、決心できない。そんな風にオレは見えた。
だからオレは優しく愛梨沙の背中を支えることにした。
「愛梨沙、もう少しだけ生きてみないか?」
「——うん」
愛梨沙の目には薄すらとだが、光が戻っていた。
—1—
愛梨沙と別れたオレたちは、終始言葉を交わすことなくそれぞれの帰るべき場所に向かって歩いていた。
「リヴ、愛梨沙が首を吊ろうとした時、どうして時間を巻き戻さなかったんだ?」
何やら神妙な面持ちで隣を歩いていたリヴに疑問をぶつける。
仮にオレが自殺をしようとすればリヴは真っ先に時間を巻き戻したはずだ。
しかし、愛梨沙の時は時間の流れを緩やかにしただけだった。
この違いがなんなのかオレは知りたかった。
すると、リヴはそんなこと答えるまでもないといった様子で軽く溜息を吐いた。
「時間を巻き戻したとしても彼女はまた同じことをするわ。根本的な部分を解決しない限り悲劇は永遠と繰り返されるだけだよ」
愛梨沙が抱えていた心の闇。
その闇を取り除かなければ自殺は繰り返される。
死ぬ間際の苦しい記憶を引き継いでやり直したとしても、この世界で生きることの方が辛ければ人は死を選択する。
今回の愛梨沙の件はそんな一例だったのかもしれない。
「もしかして愛梨沙とオレを引き合わせることも初めから計画に入っていたのか?」
「いいえ、その点に関しては本当に偶然だった。彼女とのファーストコンタクトで直斗と知り合いってことが分かったから私もバベルも静観することに決めたの」
「あの状況で瞬時に何もしないという判断を下せるのがリヴ様だ。直斗、お前にこの凄さが分かるか?」
バベルが自分のことのように誇らしく胸を張った。
確かにバベルの言うように普通の人であれば考える余裕も無く、目の前の人間を助けようと走り出すだろう。
実際、オレも反射的に体が動いていた。
だが、リヴの場合は自身の置かれた状況から何が最善であるかを読み取り、迷うことなく実行に移した。これは自分の判断に絶対的な自信がなければできることではない。
さすがとしか言いようがない。
「リヴが王女になるべくしてなったということは十分理解した」
「そうだろう。そうだろう」
バベルが嬉しそうに頷く。
「でも、だったらなんでオレの時はわざわざ時間を巻き戻したりしたんだ?」
愛梨沙とオレのケースは極めて酷似している。
現にオレは時間を巻き戻された後に再び自殺をしている。
リヴは顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「上手く言葉がまとまらないからいくつかに分けて話してもいい?」
「ああ」
「退屈な日常からの脱却を望んでいた直斗が非日常を体験したら自殺することを諦めてくれるんじゃないかなと思ったのが1つ」
リヴが人差し指を立てて言葉を繋いでいく。
「もう1つは人との繋がりを求めていた直斗と個人的に深く関わっていきたいと思ったから。直斗は覚えていないかもしれないけど、直斗は私の命の恩人だから」
「オレがリヴの?」
思い返しても心当たりがない。
そういえばハンバーガーショップでもリヴから「直斗は特別です」なんて言われたっけ。
「リヴ様、良いのですか?」
「ええ、直斗には全部話すって決めたから。直斗、家に着くまでの間、私の話に付き合ってもらってもいい?」
「うん、全然いいけど」
「私とバベルが地球にやって来てから自殺禁止区域ができるまでの話をするね」
オレは知ることになる。
自殺禁止区域の全てを。
—1—
これは私とバベルが地球にやってきた頃の話だ。
隕石衝突の危機から脱した私たちニンファー星の住人は、バベルの能力で地球という星に降り立った。
「それでは皆の者、元気で!」
鳥や狸、昆虫など様々な姿に変身した仲間達に別れを告げる。
事前に行われた有識者会議で新しい惑星に降り立ったらその星に生息している生物の姿に変身し、溶け込んで生きていくと決定していた。
いきなり人間の姿で紛れ込むにはリスクが高すぎるという結論に至ったのだ。
「リヴ様、またお会いできる日を楽しみにしてます!」
三毛猫の子供が駆け寄ってきて甘えた視線を向けてきた。
王宮に仕えていた専属世話係の一人娘、メイルだ。
王宮で顔を合わせる機会が何度かあって、2人で遊んだこともある。
「メイル、お父さんとお母さんの言うことをしっかり聞くんだよ」
「はい! リヴ様もバベルさんとお幸せに♡」
「なっ、バベルとはそういうのじゃないからっ!」
「にしししっ」
メイルが言ってやったとばかりに笑みを浮かべて走って行く。
去り際にちょこんと小さな頭を下げたから今回は許すとしよう。
「これで私の役目もひとまず終わりかな」
誰1人として欠けること無く、新しい地へと送り届けるという責務は果たせた。
体の力も抜けるというものだ。
「リヴ様!? どうされました? 気分が優れませんか?」
私の元に唯一残った護衛のバベルが私の顔を覗き込む。
ちなみに今は2人共猫の姿になっている。
「大丈夫。少し目眩がするだけ」
地球に降り立ってからというもの、私の耳には至る所から救いを求める声が聞こえていた。
代々ニンファー星の王にのみ与えられる特殊能力。
それは、救いを求める者の声を聞くことができるというものだ。
民を悲しませることがないように。もし悲しんでいる民がいれば寄り添うことができるように。
この能力はそんな優しさから生まれた能力だと伝えられている。
しかし、不思議なことに地球という星に降り立ってからも苦しみ、痛み、心の叫びまで、強い負の感情が私の耳には届き続けていた。
「ねぇバベル、この星は私たちの星より発展していて不自由がないように思えるけど、バベルの目からはどう見える?」
私とバベルは人々が行き交う商店街の様子を物陰から見つめていた。
「そうですね。身に付けている衣服、豊富な食料、便利な移動手段、連絡用の端末。どれを取ってもニンファー星より文明が進んでいるかと」
楽しそうに談笑しながら歩く若者。
スーツを着て汗を垂らすサラリーマン。
元気よく呼び込みをする八百屋の店主。
私の目に映る景色はどれも新鮮でキラキラと輝いていた。
だから余計に違和感を感じてしまう。
これほど裕福な生活を送ることができていて何が不満なのか。何に対して怒りを覚えているのか。悲しんでいるのか。
人にはそれぞれ事情があって誰にも話せないような悩みを抱えている。
私のつい最近までの悩みは食糧難だった。
星が違えば悩みも違うということか。
「バベル、お腹が空いたわね」
「しばらく何も口にしていませんでしたからね。何か食べられそうな物を探して来ましょうか?」
「いいわ。知らない土地でバラバラになるのは危険だし」
「それもそうですね」
私とバベルは行く当てもなく、道路の隅を並んで歩きながら口に含めそうな物を探していた。
地球に降り立ってから半日。
分からないことだらけの星で分かったこともいくつかある。
食料を手に入れる為にはお金が必要だということ。
お金を手に入れる為には働かなくてはならないということ。
子供は学校と呼ばれる教育施設に夕方くらいまで通っているということ。
そして、もう1つ。
猫の姿で街を歩いていると、子供に追いかけられるということだ。
「何なのもう!」
「リヴ様、突き当たりを右に曲がって下さい! 子供は私が引きつけます!」
「分かった!」
バベルの指示に従って右に曲がる。
すると、道路の真ん中に見覚えのある三毛猫が血を流して倒れているではないか。
心臓が跳ねる。
「メイル?」
「あっ、リ、ヴ、様」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声でメイルが呼び掛けに応えた。
「メイル、何があったの?」
「箱型の乗り物に轢かれちゃいました。へへへっ」
「笑ってる場合じゃないでしょ。酷い傷。お父さんとお母さんは?」
「はぐれちゃいました。でも、最後にリヴ様に会えてよかったです」
「最後って。諦めちゃダメ。メイルは絶対に助かるから」
私は白猫の姿から本来の人間の姿に戻り、メイルの手を強く握った。
絶対に死なせない。
うっ、こんな時に頭痛が。耳鳴りも酷い。
(オレは何の為に生きてるんだ? こんなクソみたいな世界で。あいつもこいつも何を考えているのか分からない。もう疲れた。誰か、誰か助けてくれよ)
私の耳にはっきりと助けを求める心の叫びが聞こえてきた。
物凄く近くで誰かがSOSを出している。
でも、申し訳ないけど今はそれどころではない。
「リヴ様! 後ろ!!」
メイルが血を吐きながら声を張り上げた。
「えっ?」
振り返ると、メイルが言っていた箱型の乗り物、車がすぐそこまで迫っていた。
時間を止める能力を使えばギリギリ間に合うかもしれない。
そうだ。メイルの怪我も時間を巻き戻して車に轢かれる前に戻っていれば解決できたじゃないか。
気が動転していてそこまで頭が回らなかった。
「時間固定!」
手を車にかざして能力を発動させようと試みたが、車が止まる事はなかった。
「何で?」
精神が乱れていたことが原因で能力が不発に終わってしまったみたいだ。
目の前に車が迫り、両手で顔を覆う。
次の瞬間、私の体に強い衝撃が走った。
「あっぶねーな。大丈夫か?」
(今の轢かれてたら死ねてたかな?)
10代後半と思われる少年が手を差し出して立たせてくれた。
どうやら私と車がぶつかる寸前にこの少年が飛び込んで助けてくれたようだ。
「は、はい。ありがとうございます」
「猫が轢かれたのを心配してたのか。近くに動物病院があるからそこで診てもらおう」
(成り行きとはいえ、自殺を考えてる奴が他人の命を助けるなんておかしいよな)
少年はメイルを抱き抱えると、急ぎ足で歩き出した。
「あ、あの、お名前を聞いてもいいですか?」
「ああ、オレは——」
川端直斗。
それが私の命を救ってくれた恩人の名前だった。
その日以降、私は白猫のシロとして直斗の家に通うようになる。
直斗が抱える悩みの正体を知る為に。
命の恩人を死なせる訳にはいかないから。
—1—
地球に降り立ってから1週間。
私とバベルは内閣総理大臣官邸に来ていた。
「リヴ様、完全部外者の我々が総理と直接会って話がしたいと言ったところで相手にされないのがオチかと。その証拠に警備員が要件を伝えに行ってから20分経ってます」
「その時はその時。正攻法がダメなら時間を止めて中に入ればいいよ」
「それはちょっと強引じゃないですか?」
「遅かれ早かれこの国のトップとは話さないといけない。だったら早いに越したことはないでしょ? こういうのは強引くらいがちょうどいいの」
官邸前でバベルとそんな会話をしていると、ようやく警備員が戻ってきた。
「大変お待たせ致しました。中で総理がお待ちです」
警備員に案内され官邸の中へ。
子供の悪戯だと追い返されることも視野に入れていたが、こうもあっさりと受け入れてもらえるとは。
この国のトップは心が広いのかもしれない。それか危機管理能力が低いか。
「失礼します」
ノックをして扉を開けると中年の男が机に腰を掛けて書類に目を通していた。
「初めまして。神代です。一応日本という国を治めさせてもらってます」
神代は書類を机に置き、私とバベルを値踏みするようにねっとりとした視線を向けてきた。
その視線に怯まず、私は一歩前に出た。
「ニンファー星第27代国王リヴとその護衛の」
「バベルです」
私の背後に控えたバベルが頭を下げた。
「立ち話もあれですし、どうぞお掛けになって下さい」
「ありがとうございます」
見るからに高級そうな革張りのソファーに身を預けた。
うん、ふかふかだ。
「随分とお若いんですね」
「今年で18になりました」
「そうですか。それはそれは。いや、実は私にもリヴさんと同い年の娘がいましてね。娘の歳で王様だなんて考えられませんね」
机に用意されていたコーヒーに口をつける神代。
様々な人間の接待をしてきた経験からなのか話しやすい空気を作るのが上手い。
だが、私は相手のペースに乗らない。
今日は交渉をする為に足を運んだのだから。
「私が別の星からやって来たことを疑わないのですね」
「正直に言えば悪戯という線も考えましたよ。ですが、リヴさんの目を見れば嘘を言っていないということは分かります。こう見えても人を見抜く力はあるんですよ」
神代は冗談っぽく言って笑ってみせた。
「さて、お互い探り合いは止めにしますか。今日はどのような御用件で?」
「それを話す前に私達がこの国にやって来るまでの経緯を説明したいのですがよろしいですか?」
私はニンファー星に隕石が衝突したことと星の民を地球に移住させたことを詳細に話した。
神代は時折驚いた表情を見せたが、適度に相槌を打ちながら落ち着いて話を最後まで聞いてくれた。
「話は大体分かりました。それで私に何をして欲しいのですか?」
「ニンファー星の民がこの国に住む許可を正式に頂きたいのですが」
私の目的はこれだ。
今は地球の生き物に変身して密かに適応しようとしているけれど、将来的には元の人間の姿で不自由無く生活させてあげたいという思いがある。
それと別の星からやって来たということが何らかの形でバレた時に差別的扱いを受ける可能性もある。
それらを防ぐ為にも国のトップから正式に許可を貰う必要があると考えたのだ。
「正式にですか。難しいですね。というのもそれを認めてしまったら他国からの反発は避けられないでしょう。何かそれを跳ね返すだけのメリットを提示して頂けるなら話は別ですが」
「自殺者の防止。これでどうでしょう?」
日本に来て1週間。
私もただフラフラしていた訳ではない。
お願いをする時は必ずと言っていいほど交換条件を求められる。
だから私とバベルは調べ上げた。
現在、日本で問題視されているのが自殺問題だ。
年間で2〜3万人が自ら命を絶っている。
私の能力は強いマイナスな感情を抱いている人間の声を聞くことができ、場所を特定することができる。
バベルの瞬間移動の能力と合わせれば自殺を未然に防ぐことも難しくはない。
「自殺防止対策はすでに我が国にも導入されています」
しかし、これといった成果は出ていない。
「神代さん、すみません。先程手にされていた資料が目に入ってしまったのですが、自殺禁止区域を立ち上げられるのですか?」
この部屋に入った時、神代が手にしていた資料の一部が目に入った。
その瞬間からこの流れに持っていくイメージが私の中で固まっていた。
「ええ、自殺者数2位の神奈川県を自殺禁止区域として指定する案が出ています」
「でしたら私がその自殺禁止区域の自殺者を1年間0にしてみせます。これでどうでしょうか?」
神代が初めて真剣な表情を見せるとゆっくりと机の上で手を組んだ。
「2年。2年間自殺者を0に抑えることができたらリヴさんのお願いを飲みましょう」
「分かりました。これからよろしくお願いします」
私と神代はガッチリと握手を交わした。
これが私と神代が裏で行った取引だった。
—2—
「ねえ直斗、もうあれから1ヶ月が経つんだね」
「そうだな。あっという間だったな」
店内に広がるコーヒーの香り。
オレと愛梨沙は喫茶店に来ていた。
1ヶ月もあれば生活は大きく変わるもので愛梨沙は大学を辞めた。
今はこの喫茶店でアルバイトをしながら自分のやりたいことを探している。
一方のオレはというと、あの日リヴから全てを聞いた上で2人の手伝いをすることに決めた。
自殺志願者の気持ちは自殺経験者にしか分からない。
ある意味オレより適任者はいないだろう。
2回も死んだことのある人間なんてどこを探してもいないはずだからな。
人は何の為に生きているのだろう。
『子孫を繁栄させる為に』なんて言葉を聞いたことがあるが、オレはその言葉にピンと来なかった。
オレがいなくなった後の世界のことなんてどうでもいい。
そりゃ自分のことを誰かに忘れられたら寂しいし、悲しいと思うけど。だからと言ってオレ自身がどうこうできる訳でもない。
愛梨沙と向き合って、リヴとバベルと関わるようになって何となくその答えが分かった気がする。
人は何の為に生きているのか。
それは守りたいモノ、譲れないモノを守る為に生きているのではないだろうか。
ここ数ヶ月でオレにも守りたいモノができた。
愛梨沙、リヴ、バベル。
かけがえのない仲間の為に今日も1日生きていく。
ふと窓越しに空を見上げると端から端まで飛行機雲が立っていた。
明日は雨が降りそうだ。
「やっぱりここにいた!」
店内の涼しげなBGMを遮る騒がしい少女の声。
白髪の少女はオレと愛梨沙が座る席まで駆け足で来ると、有無を言わせぬ勢いでオレの腕を引っ張った。
「新しい声が聞こえたから一緒に来て。バベル、飛ぶよ!」
「はい、リヴ様」
バベルがオレとリヴの手を握る。
「直斗、行ってらっしゃい」
すっかりこのやり取りにも慣れたのか愛梨沙が笑顔で手を振る。
さらばオレの平凡の日常。ようこそ慌ただしい毎日。
「行ってきます!」
自殺禁止区域、完結。