――そう言えば。

祖父のお得意様の一軒が桜さんの隣の家だと言っていたっけ。

かれこれ三十年の付き合いのあるお宅で、隣に桜さん一家の家が建ったときのことも祖父は記憶にあるという。植木の剪定は隣家に掃除に入ることもあり、桜さんとも何度か言葉を交わしたこともあったそうだ。

でも、彼女の入門のきっかけは祖父ではない。うちの母と妹だ。宗家が植木屋のおじさんだと知ったのは初回の稽古の時で、たいそう驚いていた。

――驚いたと言えば。

母さんの勢いには驚いただろうな。おとなしそうな桜さんのことだから。

三週間前の日曜日、稽古を終えてスポーツセンターを出た母と妹は、夜の闇の中で自分たちを見つめている桜さんに気付いた。そそっかしい母は彼女をその日の体験予定をすっぽかした女性が謝りに来たのだと思い込み、近付いて話しかけた。誤解はすぐに解け、そのとき、桜さんが母たちが何を持っているのか――刀用の黒いバッグのことだった――尋ねたそうだ。そこで母が勧誘し、翌週の体験へ、そして入門へとつながった。

わざわざ申し込んでおきながら連絡なく来ないひとがいるかと思えば、桜さんのように偶然の出会いで始めるひともいる。世の中って実にいろいろだ。

でも……。

桜さんは“当たり”な気がする。長い付き合いになりそうな。

彼女はあまり積極的なタイプではない。素直だけれど、教えられることを受け入れているだけ。受け身の態度だ。けれど、観察することや注意深さは優れている。並んで鏡に向かっていたときによく分かった。

古武道は、まずは真似ることから始まる。真似るためには見ること、そして自分との違いに気付くことが必要だ。桜さんにはそういう目がある。

そして何より真面目だ。三時間の稽古中、まったく気持ちをそらさなかった。

あれなら必ず上達する。

風音(かざね)、そろそろ送ってくからそこの雨戸閉めて」
「ん、わかった」

俺は通勤しやすい場所に部屋を借りている。日曜の稽古のあとは、何もなければ実家で夕食をとって、車で二十分ほどの自宅まで送ってもらっている。

「あ、お兄ちゃん、今日はあたしが軽トラで送るから」

妹の雪香(せっか)が車のキーを振ってみせた。大学就職後に一旦は銀行に就職した彼女だが、どうしても植木職人になりたくて退職し、今は祖父の造園会社――一応、会社形態になっている――で修行中。

「安全運転でよろしく」
「最近はもう全然平気だよ」

外に出て振り向くと、庭続きで奥にある祖父の家は静かだ。そこには祖父と哲ちゃんが住んでいる。ご近所からは、別棟に住んでいる我が家は「分家」と呼ばれているが、俺の中では祖父も哲ちゃんも生まれたときから一緒にいる家族であることに変わりない。

「今日、桜さんに付いてたでしょ? いい感じのひとだよね?」

車を出しながら雪香が言った。

「ああ。真面目で素直だからきっと上手くなるよ」

俺たちが桜さんをファーストネームで呼ぶのには二つの理由がある。彼女の苗字が母の旧姓と同じであるため母が呼びにくいと言ったこと、そしてもう一つは黒川流が家族中心の団体であるということだ。