顔を上げて! 桜さん。


ずっとメッセージのやり取りばかりだった翡翠から電話がかかってきたのは六月半ば。用件はなんと、桜さんとの食事会への招待。まるで俺の願いが届いたかのようなタイミングだ。

金曜日の夜に、葉空駅の近くのイタリアンレストラン。桜さんの同期の男性も来るけれど、俺が参加してもまったく問題ないと言われ、ほぼ迷わずにオーケーした。返事が早すぎたかと少し不安になったりしたが、翡翠が何も言わなかったので気にしないことにした。

葉空駅はJRや市営地下鉄のほかにいくつかの私鉄も乗り入れている大きな駅だ。連絡通路は朝から晩まで大勢の人が行き来している。

緊急の仕事が入ることもなく無事に退社できたから、遅れずに参加できそうだ。梅雨も一休みで晴れた一日だったけれど、外に出ると蒸し暑さが半端ない。桜さんに会う前に、どこかで顔を洗いたい気分。

「クロ!」

JRの改札から出たところで翡翠が追い付いてきた。隣に並ぶと背の高さが俺とさほど変わらない。紺のワンピースに細いネックレスがフォーマルな雰囲気。

「え? もしかしてちゃんとした店? 俺、仕事のままだけど」

半袖ワイシャツにグレーのパンツ。一応、革靴は履いているけれど、ノーネクタイだ。

「ああ、大丈夫大丈夫。わたしはこういう服が好きだから着てるだけ」

笑って言う翡翠は、やっぱりどこから見ても女性でしかない。

そう確認したら安心した。中途半端に気を遣う必要はない。翡翠は女性だ。そして友達。

「声かけてくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。お店、知ってる?」
「いや、初めてだな」
「こっちが近道なの」

駅の東西を結ぶ中央通路から、地下街へと抜ける細道に入る。

古くから東京と県内を結ぶ存在だった葉空駅は、俺が知っている限り、常にどこかを改修している。地元に住んでいても初めて知る出口があったり、いつの間にか抜け道ができたり消えたりするのだ。どこまでできたら完成形なのかまったく分からない。

「もう一人来る桜の同期はね、わたしたちより五つ年上。見た目がちょっと個性的だけど、いい人だし、クロとも気が合うと思う」
「五つ上? じゃあ、桜さんとは六つ違いか」
「そうね。桜は高卒で、イッチーは大卒の転職だから。あ、名前が一柳(いちやなぎ)(めぐる)さんっていうの。だからイッチー」

なるほど。

見た目が個性的というのは想像しにくい。服装なのか、体型なのか、雰囲気なのか。いったいどういう方向の? 女性からニックネームで呼ばれているのなら、フレンドリーな性格か。

年齢が五つ上ということは三十四歳。……いや、それよりも高卒すぐの桜さん、つまり十八歳だった桜さんを知っているっていうところがなんだか羨ましい。俺はべつに十代の女の子が好きというわけではないけれど――。

「あ、いたいた。桜! イッチー!」

翡翠が駆け寄る先に桜さん。淡い色のふわりとしたブラウスを着て、今日は髪を下ろしている。そして隣には。

――え? あのひと?

長身で逞しい男性。近付いてみて、思わず凝視してしまった。

白いポロシャツに包まれた胸の厚み。半袖から伸びる腕は筋肉に包まれている。ボディービルダーほどではないけれど、肩からウエストへの引き締まり具合にオーラを感じる。そこに人の良さそうな笑顔と角張った黒縁メガネが加わって、まるで正体を隠しているスーパーマンみたいだ。

「風音さん、こんにちは。来てくださってありがとうございます」

桜さんの声。稽古で聞くよりも元気で可愛らしく聞こえる。

「あ……、こんにちは。今日はお邪魔します」
「全然お邪魔じゃないです! こちらは一柳さんです。わたしの同期。十年だから、長い付き合いだよね?」
「一柳巡です! 葉空市消防局勤務です!」
「消防局……ですか」

ビシッと敬礼でもしそうな自己紹介に圧倒されつつ納得。そのとき。

「イッチーは消防士じゃないからね? 総務課よ。事務職の係長」

隣から翡翠の声。

事務職?

「あ……そうなんですか?」
「はっ。新採用時に坂井と同じ区役所に配属されて、隣の課で四年ほど」

区役所に……。

区役所に行って、窓口にこのひとが出て来たら、ちょっと身構えるな。……って、俺も自己紹介しないと。

「黒川風音です。翡翠とは昔なじみで」
「今はわたしの剣術の先生。すごーくお世話になってるの」

先生ではないと言おうとしたけれど、桜さんの表情を見たら言葉に詰まってしまった。

――桜さん、一柳さんにはそんな顔をするんだ……。

すかさず一柳さんが「坂井がお世話になってます」と深々と頭を下げる。

「あ、いや、そんな、こちらこそ、桜さんが入門してくれたこと、うちのみんなが喜んでいるんです」

あたふたしているうちに、宗家以外は先生と呼ばないと訂正するタイミングを逃してしまった。

桜さんと翡翠は可笑しそうに視線を交わしている。でも。

――これは……どういうことだ?

一柳さんと桜さんの親密そうな雰囲気。いったいどのくらいの関係?

同期と言っているけれど、桜さんのことで俺にこんなに丁寧にお礼を言うなんて、まるで身内みたいだ。それに、桜さんが一柳さんに向ける表情がいつもと全然違う。楽し気で、気楽そうで、からかう様子は甘えているようにも見えて……。

いつの間にか翡翠は入店し、すぐに案内係が来た。疑問を抱えたまま後に続いた俺の隣に、気付いたら桜さんがいた。

「風音さんがいらっしゃる前に」

軽く笑いながら桜さんがささやく。

「一柳さん、名刺を用意していたんです。風音さんに自己紹介するときに渡すって」
「名刺ですか? 仕事用の?」
「ええ。止めましたけど……」

もしかして、極端に真面目なひとなのか? あの自己紹介と言い、桜さんのことと言い、単にそれが理由?

「もしかして、欲しいですか?」
「……え?」

何を?

「一柳さんの名刺。要ります?」
「あ、いや、一柳さんの職場に連絡することはないと思います。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ」

欲しいかと無邪気に訊く桜さんも……桜さんらしいな。笑ってしまう。

――やっぱり桜さんはいいな。

一柳さんの登場に混乱していた気持ちがほぐれていく。これが桜さん効果だ。

広い店内には点々と丸テーブルが並び、グラスを集めたようなシャンデリアで明るく照らされている。店員がイタリア語で威勢よく呼び交わしながら、気取った様子でテーブルの間を歩いている。

「ここ、本格的な薪窯で焼くピザが絶品なんだって! 絶対頼もうね!」

席に着いてすぐに宣言する翡翠に桜さんがにこにことうなずく。

翡翠が中心になって手際よくメニューを選び、注文してくれた。桜さんはメニューやお酒にはあまり詳しくないようで、遠慮気味だ。

「黒川さんは」
「あ、はい」

向かい側から一柳さんに名前を呼ばれて思わず姿勢を正した。稽古のときの桜さんもこんな気分なのかも。

「どんなお仕事をされているんですか?」

桜さんと翡翠も俺に目を向けた。

「建築士です。建築会社で建物や公園の設計をしています」
「え? 植木屋さんじゃないんですか?」
「あ、そう思っていたんですか?」
「はい。雪香さんがそうだって聞いたので、てっきりご家族みなさんで……と」
「はは、そういうわけでもないんです」

目を丸くしている桜さんに翡翠が「今日はクロにいろいろ聞けるチャンスだよ」と笑って言った。俺としても、それは彼女の情報を得ることにもつながるわけで……望むところ、かな。

乾杯用に頼んだスパークリングワインが来て、店員が注ぐのを桜さんは畏まった様子で、そして興味津々の様子で見ていた。

「実は初めてなんです」

隣から身を寄せてこっそりと教えてくれた。

「こういうお店?」
「お店もですけど、スパークリングワインとか。ボトルでワインを頼むとか」

ににこにこしている桜さんは心から楽しそうだ。

「そうなんですか?」

勤めて十年なら、行く機会はありそうなのに……?

「はい。職場の宴会だと和食か中華ばっかりで」
「ああ、たしかに」
「はーい。では乾杯しましょう!」

翡翠から声がかかり、みんなでグラスを持つ。

「素敵なメンバーで集まれたことに、かんぱーい」
「かんぱーい」

グラスをあげ、桜さんは翡翠に「今日はありがとう」と言ってからそっと口をつけた。一口飲んでグラスを見つめながら味わい……にっこりした。

「美味しい!」

その笑顔を見た翡翠が「よかった!」と笑顔を返した。

「桜のために選んだお店だから、たくさん楽しんでね」
「そうだぞ。食べたいもの、飲みたいもの、どんどん頼め」
「ありがとう」

――桜さんの、ため?

三人の間では了解事項があるらしい。翡翠は何も言わなかったのに。

「お誕生日とか……ですか?」
「あ、違うんです、ごめんなさい」

桜さんが俺の戸惑いに気付いてくれた。

「ちゃんと四人で割り勘ですから心配しないでください。風音さんも遠慮しないで頼んでくださいね?」
「あ……はい」

べつに支払いのことを心配していたわけではないんだけどね……。






翡翠の情報どおり、ピザがとても美味しい店だ。

しっかりした生地がふくらんでいて熱々で、トマトソースの酸っぱさにバジルの香りやアンチョビの塩味、そしてとろけるチーズ! ほかの料理もワインもみんな美味しくて、一つを味わうたびに感嘆の声が上がり、会話が弾む。

翡翠と桜さん、そして一柳さんの気心の知れた会話と笑顔が心地よい。三人とも当たり前のように俺にも話しかけてくれるので、俺も楽しい時間を過ごせている。

「じゃあ、筋トレは去年からなんですか?」

一柳さんは元から筋トレ好きだったわけじゃないと聞いて驚いた。

「そうなんです。消防士たちに訊いた手前、やらないわけにもいかなくなりまして。なにしろみんなが次々と教えてくれるので。ははは」
「一柳さんて、やるとなったら手抜きができないタイプだから」

桜さんのひと言に心から納得する。椅子に座る姿勢も話し方も、お酒が入った今でも崩れていない。

「わたしたちもびっくりしたよね? 久しぶりに会ったらイッチーが痩せてたから」
「え? 痩せた?」

思わず訊き返してしまった。今は、マッチョだけど痩せ型とは言えないと思う。ということは。

「一柳さん、就職してからどんどん太っちゃって」
「そうだったんですか……」
「いやあ、坂井には『そのままだとセイウチみたいになっちゃうよ』って怒られたなあ?」
「桜はイッチーには容赦ないから」

たしかに桜さんは、一柳さんに対してはわりと強気だ。翡翠のようにニックネームで呼ぶことはしないけれど、口調に遠慮がない。それを受ける一柳さんは気を悪くするでもなく、ただ笑っている。そして――。

一柳さんが桜さんの飲み物や料理の残り具合を気にかけて、さり気なく世話を焼いていることに俺は気付いている。だって、俺が口を出す隙がないのだから!

こういうお店が初めてだという桜さんを気遣うのは分かる。でも、それにしては慣れているようにも見える。桜さんがそれに素直に応じているのも気にかかる。“いつものこと”みたいに。

これが十年間の絆なのだろうか? そう思うと落ち着かない。

とは言え、桜さんは俺を気遣ってくれているようだし、俺と桜さんが話すのを邪魔されることもない。だから桜さんと一柳さんの関係を俺が気にする必要はない……のだろうか。

「美味しいものって、世の中にたくさんあるんですね」

ワイングラスを手に、桜さんが満足げにため息をついた。店内を見渡す瞳が明かりを受けて輝いている。

「この前は翡翠と有名なフルーツパーラーに行ったんです。値段は高かったけど、パフェがほんとうに美味しくて、お店も素敵で大満足でした」
「美味しいものを食べるっていいですよね」

それが気の置けない相手と一緒ならなおさらだ。

「わたし、今まで……」

彼女はそっとグラスを置いた。

「母の体調がもともと良くなくて、職場の歓送迎会くらいしか、宴会や食事会には出ていなかったんです。妹が家を出てからは、母とわたしの二人暮らしだったし。でも……二月に母が亡くなって」

はっとした俺を気遣うように微笑んで。

「ほんとうは、喪中だからあんまり楽しんじゃいけないんだろうなって思うんですけど、妹が、今までできなかったことをしてほしいって言ってくれて。先月、その話を翡翠にしたら、楽しい企画を考えるよって言ってくれて」

話が耳に入ったらしい翡翠が「あたしだってずっと桜と遊びたかったんだもん」と言ってにっこりした。桜さんがそれに微笑みを返す。

「桜さんのお母さんも、きっと桜さんが楽しく過ごしている方が嬉しいと思いますよ」
「ええ……、そうですね」

俺の言葉に微笑んで答えながらも目を伏せてしまう。そりゃあ、お母さん――しかも長い間、看護をしてきた――を亡くしたことから簡単に抜け出せなくて当然だ。

――……長い間?

就職してからずっと? つまり十年間? 職場の歓送迎会だけ? それ以外はまっすぐ帰宅?

十八歳から二十代って、周りはいろいろなことを楽しんでいる年齢じゃないか。就職していれば自由に使えるお金もあるし。でも、桜さんは何もできなかった?

――それは……。

どう言ったらいいのか分からない。そんな味気ない毎日を想像すると、分かったような顔をして労いの言葉をかけることもためらってしまう。

だとしたら、俺にできることは……、彼女が“今とこれから”を楽しく過ごせるように手伝うことしかない。

「もしもお金に糸目をつけないで好きなことがいくらでもできるとしたら、桜さんは何をしたいですか?」
「お金がいっぱいあったら?」

大きな瞳がこちらを見返す。翡翠と一柳さんも会話を止めて桜さんに視線を向けた。

「そうです。一生、仕事をしないで済むくらい」
「ああ! それだったら古代遺跡です!」

笑顔が輝いた。声も憧れがあふれ出したみたいに明るくて。

「わたし、神話とか伝説が好きなんです。エジプトとかメソポタミアとかマヤとか、ギリシャ、キプロス、クレタ島……。本で読んだ場所に行って、自分の目で見てみたいです」
「坂井はいつも本読んでたなあ」

一柳さんのつぶやきに納得する。本を読むことは、桜さんの制限された生活での大きな慰めだったに違いない。

「あ、でも、古代遺跡じゃなくても、本に出てくる場所が見たいかな。ベネチアとか、ロンドンの駅と橋」
「駅と橋?」
「アガサ・クリスティの小説に駅の名前がときどき出てくるんです。あと、クマのパディントンのパディントン駅。それからものすごく好きな小説に出てくるブラックフライアーズ橋」
「なかなかピンポイントですね」
「ええ。でも考えてみると、ロンドンだったら行くのも現実味がありますね。あ、あとドイツの博物館島! 川の中州に大きな博物館があって、そこにバビロニアのイシュタル門があるそうなんです」
「それは……僕も見てみたいですね」

古代の建造物には興味がある。それを造った人々の思いを想像しながら見るのも好きだ。

「翡翠は?」
「あたしはねぇ、気に入った服を片っ端から、値札を見ないで買いたい」

桜さんに尋ねられた翡翠が答えた。

「それすごい! 保管場所もお金かかりそう」
「んー、じゃあ、一回着た服を売るお店もつくる」
「売るのか? 金持ちなのに?」
「でなければ、トールサイズ専門のレンタルドレスとか」
「意外と儲かるかもね」

屈託なく笑う桜さん。それを見ながら、聞いたばかりの彼女のこれまでを思う。

桜さんの笑顔にいつもほっとする気持ちを味わってきた。でも今は、その笑顔の後ろに淋しい過去や葛藤があることを知っている。だから、桜さんの笑顔がより一層大切に思えてくる。



店を出たとき、翡翠は上機嫌だった。四人の中で一番酒に弱いようだ。くすくす笑いながら隣を歩く翡翠は、素面のときよりも女っぽさに磨きがかかっている。

「ねえ、クロ? 桜のこと、ほんっとによろしくね?」

俺の顔をのぞき込むようにして翡翠が言う。

「めちゃくちゃいい子なの! いっつも誰かのために頑張ってるの! なのに、自分はダメな子って思ってるの」
「ダメって……どうして」
「いろいろあるのよ……。自分の価値が分かってないの。あたしがどんなに感謝しても、どんなに褒めても、自分は何も役に立たないって思ってる。そんなことないのに……」

たしかに桜さんはいつも控えめだ。稽古でも目立たないことを信条としている。

初心者で自信がないから目立ちたくないのだと思っていた。けれど今、一つの言葉を思い出した。心成堂に行ったときに桜さんが口にした「わたしがいなければ」――。

あのとき、俺に手間をかけさせたと謝る彼女を他人行儀だと思った。その理由を、知り合ってからの時間が短いからだと思った。でも、もしかしたらあれは、“価値のない自分”という前提があっての言葉だったのだろうか……。

「桜はね、自分はダメな子だから、幸せになる資格がないって思ってる」

前を行く桜さんに視線を向けると、一柳さんをぱしぱし叩いて笑っている。稽古では聞かない遠慮のない笑い声に胸がちくりと痛い。

「でも、クロなら……って、あたしは思ってる」
「俺?」
「クロなら桜の固まった心をほぐせるかもって」

翡翠の真剣なまなざしが俺を捉えた。と、にっと笑い。

「この前、会ったときに言ったこと、結構本気だったんだよ? 今日も見てて思った。クロと桜って、お、に、あ、い!」

鼻の頭をつつかれた!

「何言ってんだよ?」

身を引いた俺の耳に翡翠が囁く。翡翠の背の高さなら簡単だ。

「桜ってクロのタイプでしょ? 分かるんだから~」
「なんでだよ? そういう話、したことなかっただろ?」
「でも、クロのこと、あたしはよーく分かってるもん。クロのやさしさって筋金入りだし」

翡翠の得意気な微笑みに、中学時代の顔が重なる。

「桜ははっきりとは言わないけど、お母さんのこと、かなり大変だったと思う。ずっとだったしね」
「十年……だっけ」
「違うよ。もっと。たぶん中学生のころから。家事も全部」
「え? そんなに?」

ってことは……十四、五年? 中学生で? まだ子どもじゃないか。

「だからね、桜には幸せになってほしいの」
「それは俺も思うけど……」

前を歩くふたりは。

「イッチーと桜はなんでもないよ」

翡翠は俺の不安もお見通しだ。

「根拠があるの。今は言えないけど。あのふたりはお互いに……そうだな、あたしを見守ってくれたクロみたいな存在」
「見守って? お互いに?」
「そう。イッチーは六つも年下の同期の面倒をみなきゃって心に誓ったんだって。でも本人は、新人のころは真面目すぎて、窓口でお客さんが怒っちゃうことがあって、桜はいつもハラハラしてたって」

翡翠も前のふたりを見て、ふふ、と笑った。

「だから、クロは遠慮する必要はないよ? ――あ、でも、嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、べつに嫌じゃ、ないけど」

そう。嫌じゃない。でも、どのくらいの好きなのか分からない。まだ。それに……。

「俺一人の気持ちでどうにかなるわけじゃないから……」

そう。桜さんがどうなのか分からない。

「でも、試してみてくれる? もちろん、無理にとは言わないけれど」

翡翠の表情は真剣だ。酔っている分を割り引いても。

「桜はフレンドリーに見えて、実は人見知りで他人にはなかなか警戒を解かないの。でも、仲良くなったら、相手をものすごく大事にしてくれる」

それは翡翠との関係を考えればよく分かる。

「自分には結婚とか恋愛は無理だっていつも言ってるのは、たぶん本気」

悲し気に微笑む翡翠。

「幸せになる権利は誰にだってあるのにね。そうでしょ? まあ、もしも結婚は無理でも……」

駅の入り口で桜さんと一柳さんが振り向いた。

「友達にはなってあげてね? お願いね、クロ」

俺の肩をぽんとたたき、ふたりに笑顔で応える翡翠。

桜さんが俺にも微笑みかけてくれた。そこにはやっぱり礼儀正しさを感じるけれど。

――もっと親しくなれたら。

彼女は一柳さんに向けるような表情を俺にも見せてくれるのだろうか。そして、いつかもっと……?





食事会のあと、桜さんのこれまでのことが頭から離れなかった。

中学生のころからお母さんの世話をして、家の切り盛りをして。妹さんがいるということは、妹さんの心配もしなければならなかったのではないだろうか。

いつまで続くか分からない自由のない日々。その中で明るさと思いやりを守り通してきた桜さんの強さに尊敬の念がわいてくる。

入門したころ、桜さんがうちへの入門をとても大切そうに話していたことを覚えている。あれはきっと、偶然の出会いからとはいえ、彼女が「やってみたい」と思ったことにチャレンジできたことが嬉しかったのだ。制限された生活を知っているから、どんな些細な自由でも彼女には大切なのだろう。



「ぐらぐらしちゃうのは足腰の鍛え方が足りないからでしょうか」

食事会から二日後の稽古。自主練習の時間に、桜さんに尋ねられた。

今日の彼女は家で練習してきた成果か、抜刀納刀が少しスムーズになっている。その分、ほかの部分で気になるところが出てきたようだ。

「踏み込んで抜刀したときですよね?」
「そうです。こう……」

言いながら、彼女が構えた。一、二、三――の抜き付けで止まってこちらを見る。

「このときもそうですし、抜刀術で最後に斬り下ろすときも――」

そこから上段に構えて、もう一歩踏み込んで正面を斬って止まる。

「ここでぐらつきます」

振り返って言った彼女にうなずいて脇に立つ。

「鍛え方と言うよりも、足を置く幅ですね。桜さんは左右の足が前後にほぼ一直線になっているんです」

言われて、桜さんは自分の足の位置を見た。床板の一枚のラインに両足が乗ってしまっている。

「ほんとだ!」

目を丸くして、心から驚いた様子。子どもっぽい反応に思わず笑いが漏れてしまった。

「もう少し左右に、少なくとも拳一個分くらいは離れていないと安定しないんですよね」
「なるほど」

足の位置を調整した桜さんが、確認するようにこちらを見上げる。「そのくらいですね」と俺が言うと、もう一度自分の足元を見てから上体を起こし、鏡に向かって正眼に構えた。

「たしかにだいぶ違います」

見ていてもぐらつきが少なくなったのが分かる。

「足が一番難しいです」

納刀して足を戻し、彼女が緊張を解いた。

「足を揃える習慣がついているので、基本の姿勢でも足をくっつけて立ってしまって、宗家によく注意されます」
「わかります。僕はつま先が外に向く癖がなかなか直らなくて苦労しました」

立つ、歩く、という動きは体にしみ込んでしまっているので、最初は何度も注意される。でも、小さなことに見えるつま先の向きや両足の位置が、刀を振る向きや力に大きく関わってくる。つまり、実戦であれば命を守るうえで違いが出るということだ。だからしっかり身に着ける必要がある。

桜さんが鏡に向かって開始の姿勢をとる。と、自分の足元を見てからこちらをに目を向けた。「大丈夫です」と伝えると、前を向き、肩の力を抜いてゆっくり呼吸を一つ。

桜さんの立ち姿は美しい。もともと姿勢が良かったけれど、慣れてきた今は余計な力が抜けて、横から見ると頭から首、そして背中から腰へと自然なラインができている。……が。

抜刀術の一本目、抜き付けから上段、切り下ろし――。

「そこで止まって」と声をかける。

ん、と小さく声を漏らして桜さんが固まった。その姿勢は前かがみで、美しいとは言い難い。なんとなく、畑仕事をしているような感じだ。

「今、桜さんが見ているのはここですね?」

振り下ろした刀の先に触れると、彼女は「はい」と神妙にうなずいた。

「視線は前です。斬った相手から目を離さないでください。動けると反撃されますよ」
「あ、はい!」

あわてて顔を上げた。

「あと、体重がほとんど右足に乗ってしまっています。もっと体を起こして、重心はいつも両方の足の間にくるように。流派によって違いはあるんですが、うちは基本的に五分五分、行っても前に六、後ろが四くらいです」
「基本は五分五分……」

隣で姿勢を作る俺を真似て桜さんが上体を起こし、バランスを確認する。

「刀を振り下ろすときは左手で引き下げるようなイメージです。同時に両足でしっかり支えることで、地面の力も刀に伝わります。――こうです」

俺の動きを真剣な眼差しがチェックする。

「このとき、この左の膝が曲がり過ぎると力が逃げてしまいますから気をつけてください」
「はい」

うなずいた桜さんが「体を起こしたまま……」とつぶやきながら上段に構え、右足を踏み込んで――斬る。

「ああ! 素振りのときにやりますね」

瞳をキラキラさせて振り向いた。新しい発見に喜ぶ子どもみたい。

「なるほど。ここで使うんですね」
「そうです」

無邪気に感心する彼女を見ていると、胸の中が温かくなる。誰かが喜ぶ姿というのは、見ている側にも喜びを分けてくれるらしい。

――こうやって見ていると、苦労してきた影なんて、まったく見当たらないよな。

心成堂に行ったときもそうだったけれど、桜さんは些細なことでも感心し、楽しむ。その好奇心と喜びの表情からは素直な明るさしか感じられない。唯一それが陰ったのは、お母さんの話になったときだけだ。

「ありがとうございました。練習します」

決意のこもった表情が頼もしい。

――やっぱり誘ってみよう。

自分の稽古に戻りながら考える。

今のところ、俺の印象は悪くなさそうだ。一昨日の食事会に俺が参加したことも好意的に受け止めてくれたようだった。今日も普通に話せているし。

ふたりで出かけることをOKしてくれるといいんだけど。少しばかり緊張してしまうな。



「博物館、ですか? 行ったことないです」

稽古のあと、声をかけた俺に、桜さんはこう答えて足を止めた。

「行ってみたいと思ったことはありますけど、ハードルが高いような気がして。風音さん、よく行かれるんですか?」

世間話だと思っているようだ。誘ったら驚くだろうか。

「度々じゃありませんが、今、六本木でエジプト展が開催中なんですよ」
「エジプト展!」

桜さんの目が輝いた。目的の選択は正しかったようだ。

「大規模なものじゃないんですけど、古代文明に興味があるっておっしゃっていたので……。よかったら一緒に行きませんか?」
「ご一緒してもいいんですか?」

胸に手を当てて、目を大きく開けて。それほど意外だったのか。

「もちろん。興味がある人と行くと面白いですから」
「ありがとうございます! 嬉しいです。個人的に博物館に行くなんて初めて」

よかった! 俺もうきうきしてきた。

「ええと……、来週の土曜でいいですか?」
「来週の土曜?」

一気に桜さんがしゃっきりした。

「ごめんなさい。来週の土曜はダメなんです。選挙があるので」
「選挙?」
「衆議院が解散したじゃないですか。あれの選挙です。なので、来週の稽古も来られないんです」
「え? どうして桜さんが? 関係のある方が立候補されてるんですか?」
「ああ、違います」

うふふふ、と笑われてしまった。

「投票事務です。選挙があると、市役所の職員は投票と開票にかなりの割合で駆り出されます」
「そうなんですか? 知りませんでした」
「ですよねー」

桜さんが苦笑する。

「アルバイトもたくさん雇うんですけど、各投票所に二、三人は職員がいりますし、開票もまだ人海戦術なので」
「言われてみれば……」

紙で投票するのだから、それを仕分ける手が必要だ。大都市の葉空市となれば、投票所の数も投票数も相当な数になるはずだ。

「投票所は前日に設営があって、当日は朝六時集合。夜八時に投票終了したら、すぐに投票箱を開票会場まで運んで、残ったひとが片付けをします。開票は九時からで、中には投票と開票を連続で従事するひともいるんです」
「そうなんですか……」

感心している俺に、桜さんは「市役所独特の仕事の一つですね」と微笑んだ。

「その……エジプト展? いつまでですか? 次の週でもまだやってます?」
「あ、ああ、大丈夫ですよ。じゃあ、次の週にしましょうか」
「いいですか? ありがとうございます。投票にはぜひ行ってくださいね。権利は使わないともったいないですよ。それに、せっかく働くのに投票率が低いとがっかりなんです。――あ、みなさんをお待たせしちゃってますね。すみません」

荷物を持ち直した桜さんが、大急ぎで武道場の出口に向かう。そこで合図しているのは利用チェックシートを持った母だ。

桜さんの後ろから、「あとで情報を連絡します」と声をかける。母や妹にはふたりで出かけることを積極的に話す必要はない。隠そうと決めたわけじゃないけれど。

――来週は休みか……。

桜さんがいない稽古はちょっと味気ない気がする。ふとした瞬間に彼女の姿を探してしまいそうだ。

でも。

その翌週は……。





桜さんと約束した土曜日は本格的な夏日になった。

昼過ぎに待ち合わせたエジプト展は適度な混み具合だった。ふたりで一緒に展示をまわるのは予想以上に楽しくて、いつもよりはしゃぎ気味で話し、視線を交わし、微笑み合った。次第に桜さんが隣にいることが当たり前のような気がしてきて、手を伸ばしてははっとする瞬間が何度かあった。

「想像の何倍も面白かったです」

会場を出てから入ったカフェで、桜さんが満足気にため息をついた。楽しかったのが自分だけではなかったことに、嬉しい予感が胸をよぎる。

高いビルにある展望カフェは、座席が窓に向かって並んでいる。大きな窓の大部分を占める空は黒味がかって見えるほど濃い青。桜さんのこげ茶色のロングワンピースと緩く編んだ髪が夏のリゾート地を思い起こさせる。次は海に行くのもいいかも知れない――。

「実物を見るって、テレビで見るのとは全然違いますね」

微笑みを向けられ、あわて気味で微笑みを返す。見惚れていたことに気付かれなかっただろうか……。

思い返す視界の先で、日を浴びた飛行機がきらりと光る。ずっと先のビルの間には東京タワーの赤いとんがり。

「目の前にあると迫力というか、力を感じます。あの玄室はもちろん複製だけど、それでもすごかったです」

彼女が熱心に言う。俺の態度には何も疑いを持っていないらしい。これなら大丈夫。

「あれは見応えがありましたね」

今回の展示はある研究グループの調査の成果報告を兼ねたもので、実際の発掘現場が分かるような工夫がされていた。その一つが玄室、つまりミイラの棺が置いてあった部屋の再現だ。

小さな入り口をくぐると薄暗い小部屋で、崩れかけた壁画が四方の壁から天井まで覆っていた。入ったとき、まるで自分が発見したような気持ちが湧いてきて、不思議でわくわくする体験だった。

展示をまわりながら、ふたりであれこれ話し、感心し、笑った。驚きや感動を共有できることが楽しかった。彼女が目を輝かせて展示物に見入る様子に胸があたたかくなった。誘ってよかった、と。

「死者の書も惹かれます。魂があの世に行くためのガイドを棺に入れたっていうのがいいなって」
「ああ、あれ、けっこう長い道のりですもんね」

途中のいくつかの関門を無事に通過できるようにという願いが込められているそうだ。

「ヒエログリフが自分で読めたらって、ときどき思うんですよ」

俺が言うと、桜さんが瞳を輝かせた。

「わたしもです! 図書館でヒエログリフの入門書を借りたことがあるんです。でも、かなり根気が必要な気がして、そのときはそのまま返しました」
「入門書なんてあるんですか? じゃあ、本気を出せば、僕たちでも可能ってことですよね?」
「ええ。本気を出せば」

それは面白そうだ。いつか挑戦してみたい。……まあ、“いつか”こそが難しいのかも知れないな。

「夏は遊びに行く予定はあるんですか?」

七月上旬の今なら一般的な話題だ。話の流れで一緒に……という可能性もあるだろうか?

「翡翠と計画中なんです。候補がありすぎてなかなか決まらなくて。でも、考えるだけでもすごく楽しいです」

そうか。今まで自由に出かけられなかった桜さんだから、余計に。

「妹がお盆に泊まりに来ることだけ決まっています」
「そうか。お母さんの新盆ですね」
「ええ……」

桜さんが静かに目を伏せた。

お母さんのことを口にしたのは失敗だった。まだ気持ちの整理がついていないようだ。

「妹さんとはいくつ離れているんですか?」

話題を妹さんに向けると、桜さんの表情が明るさを取り戻す。

「五つです。自動車メーカーで企画の仕事をしているんです。希望の仕事に就けたので、すごく楽しそうです」
「それはほっとしますね」

妹の雪香がどうしても植木屋になりたいと言って、最初の仕事――銀行だった――を辞めたときのことを思い出す。雪香は、誰もが好きな仕事に就いているわけではないと分かっているけれど、自分の気持ちに折り合いをつけらない仕事は苦しいと言っていた。

「専門の大学に入って、そのときに寮に入るために家を出て、会社も県外なのでそのまま……もう五年ですね」
「そうなんですか。桜さんの五つ下ということは、雪香と二つ違いか」

――五つ下、か……。

五つ下なら、桜さんが中学校に入ったときには小学校の二年生。ということは、やっぱり桜さんは家の切り盛りをしながら妹さんの世話もしていたとみて間違いないだろう。就職した時点でも妹さんは中学生だったわけだから、心配なことはいろいろあったに違いない。

桜さんからお父さんの話は聞いたことがない。翡翠の話にも出てこなかった。ということは、お母さんが体調を崩したときには、すでにお父さんがいなかったのかも知れない。理由は分からないけれど。

「妹さんには桜さんがお母さんみたいな存在なんでしょうね」
「どうでしょう?」

桜さんがくすくす笑う。

「妹はしっかり者で、自分のことは自分でできる子でしたから。自分がどうしたいのか、そのために何をすればいいのかちゃんと分かっていて……。わたしは迷ってばかりいて、いつも妹に呆れられていたんです」
「そうなんですか? しっかりしているように見えるのに」
「まあ、そういう部分もあります」

彼女はパインジュースを一口飲んだ。

「仕事とか家事とか、やるべきことが決まっていれば平気なんです。だから職場ではしっかり者だと思われています。学校でも、ルールに従えばいいわけですから、先生方には優等生っぽく見えていたと思います。問題行動がなくて、そこそこ勉強もできる生徒ってことで、手がかからないから印象にも残ってないんじゃないかな」

軽く肩をすくめる彼女。優等生であることは、桜さんにとってはそれほど嬉しいことでもなかったようだ。

「でも、ほんとうは簡単な方に逃げているだけです。自分で目標を決めて頑張るっていうことができないんです。決断力も行動力もなくて、結局、何もできません。だから」

あらたまった様子で彼女がこちらを見た。

「今日、誘っていただいて、ほんとうによかったです。ひとりでは来る決心がつかなかったと思うので。ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」

楽しんでもらえてよかった。だけじゃなく、一緒に楽しい時間を過ごせたことが嬉しい。

「風音さんのお陰で博物館が少し身近になりました。これからも面白そうな企画があったらひとりでも行けそうな気がします」
「え?! ひとりでですか? 俺は誘ってくれないんですか?」

俺は誘ったのに!

「え? お誘いしてもいいんですか? わたしとで?」

きょとんとした顔で訊き返された。

「もちろんです」

答えながら、すとんと胸に落ちるものがあった。翡翠が言っていたのはこれだ、と。

桜さんは自分には価値がないと思い込んでいる――。

自分は他人の邪魔、あるいは重荷になると考えている。俺の言葉に桜さんがよく驚いた顔をするのは、きっとそのせいだ。他人の好意を想定していないから。

さらに、他人に迷惑をかけることを恐れて、自分の行動に他人を巻き込まないという思考が働く。だから、誰かを誘うという選択肢は彼女には最初からない。例外は翡翠と一柳さんくらいだろう。

「また一緒に行きましょう。面白い企画があったら教えてください」
「あ……、はい」

戸惑いながらも微笑んで、うなずいてくれた。

ほっとしながら椅子の背に身体をあずける。ゆっくり周囲を見回すと、さまざまな年齢層のお客。みんなそれぞれに寛ぎ、誰かと微笑み合い、語り合って、幸せそうだ。

――逃げているだけ、なんて……。

ぼんやりと外を眺める桜さんの横顔。彼女はさっきそう言った。けれど、それは違うような気がする。

職場と家の往復だけしか許されない生活。それを続けてきたことは“簡単”なことだったのか? それこそ、逃げない覚悟が必要だったのではないのか?

でも、彼女はそうは思っていない。自分は何も頑張って来なかったと……。

「よかったら」

もっと話をしなくては。もっとたくさん。

「少しぶらぶらしませんか?」

彼女から提案することはないのなら、俺から言えばいいだけだ。

「いいんですか?」

桜さんの驚いた顔も、理由が分かれば微笑ましい。とは言え、今日、一緒に過ごした時間では親しくなるのにまだ不足なのかと思うとがっかりだけど。

「もちろん。ついでに夕飯もどうですか? どうせ帰ってもひとりなので」

ほんとうは「もう少し話がしたい」と言えたらよかったけれど、今は気楽に応じてもらえることが優先だ。変に遠慮されたら元も子もない。

思惑どおり、彼女は「ひとりはわたしも同じです」とにっこりして承諾してくれた。

「どこか、行きたいところはありますか?」
「行ってみたいところですか? 翡翠と話しているところがいくつかあって……。でも、ここから近いかどうかもよく分からなんですけど……」
「どこですか?」
「浅草とか東京駅とか銀座とか新橋とか」
「新橋?」

浅草や銀座というのは観光地として分かるけれど、新橋というのは――。

「テレビのニュースによく映ってますよね? 汽車があるところ」
「ああ、新橋駅の」

なるほど。そういう場所ということなら。

「渋谷はどうですか? ここから二十分くらいですよ」
「渋谷! スクランブル交差点」

桜さんの瞳が輝いた。

「ええ。ハチ公もいます」
「行ってみたいです」

嬉しそうな笑顔だ。こんなに好奇心旺盛なひとなのに、家族のためとは言え、それを封じ込めてずっと……。

「よかったらスクランブル交差点を何往復もしてもいいですよ」
「ふふ、じゃあ三往復くらい? ぶつからないで歩けるかちょっと緊張しますけど」
「葉空駅の朝の乗り換えを経験していればどうってことないですよ」

大丈夫です、俺がリードします――って言えたら格好良かったかな。

でも。

もっともっと、桜さんの生き生きとした反応が見たくなる。次はどんな提案をしようかと考えてしまう。桜さんと一緒に新しいことに挑戦するのも楽しそうだ。驚いたり、笑ったり、感心したりするその瞬間を共有したい。

桜さんは?

その穏やかな横顔は、何を考えているのだろう。






◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


不思議だ……。

自分にこんな一面があったなんて。

行ってみたい場所。やってみたいこと。今までずっと、それらは思うだけで、自分にはできないし、行けないと思っていた。お母さんのことがなくても、勇気がない自分には憧れていることしかできないと。慣れた職場や家で安心して過ごすことが自分には合っていて好きなのだと信じていた。

けれど最近、違うような気がしている。

“チャレンジ”。

この言葉が心をかき立てる。

実際に見てみたい。やってみたい。自分にもできるかも知れない。

失敗したら、そのときはそのとき。失敗した自分を笑えばいい。そしてもう一度やってみればいい。

そんなふうに考える自分に驚いてしまう。二十八年も生きてきて、今さら。

……と言っても、その考えに思い切って飛び込むことはできていない。予測できないことが起こるのが怖いから。でも、今まで生きてきたわたしの安全で安心なエリアから少しだけはみ出してもどうにかなるのかも? そんな気持ちが今は、いつもある。

まるで人生の車輪が回り始めたみたい。

その初めは……きっと、あの日。

翡翠と出かけた日曜日の帰り道。謎が解けるかもという小さな希望に駆られて、小鳩スポーツセンターにまわり道をした。

謎。それは細長い不等辺三角形の黒い入れ物。その一週間前の夕方に見かけてから、ずっと頭から離れなかった。

前の週、相続関係の手続きのために来ていた妹の(きら)を駅で見送る時、別れ際に輝が言った。「これからはお姉ちゃんのやりたいことを自由にやってほしい」――と。

そんなこと言われたって、わたしにできそうなことなんて何もないよ。そんなふうに思いながら視線を落として歩き出したわたしを追い越して行った後ろ姿。

黒い袴をなびかせて、颯爽と。左肩に紺色のバッグをかけ、右手に細長い入れ物を提げて。……あれは風音さんだと後でわかった。

袴姿で電車に乗ってきたのか、と、まず驚いた。そして、その堂々とした歩きぶりに強く心を打たれた。

明らかに周囲と違う服装。なのにまったく気にしていない。

なんてすごい人なんだろう! いつも周囲の目を気にしているわたしとは大違いだ!

恋心ではない。尊敬と憧れ。自分もあんなふうに生きたい! 心の底からそう思った。

知り合いになりたいとか、同じことをやりたいとか、そういうことではない。そんなこと恐れ多い。

だって、武道をやっているらしいそのひとと同じ世界になんて踏み込めない。部活に入ったこともなく、体育の授業も苦手意識しかなかったわたしには絶対に無理。

ただ、あの黒い入れ物だけは気になって。

学校時代に見た剣道の持ち物とは違う。弓道の弓ならもっと長いはず。長刀でもなさそうだし、合気道は素手のイメージしかない。視点を変えて、尺八の可能性も考えた。でも、あのひとが向かった方向にはスポーツセンターがある……。

一週間考え続けて、その勢いで思わず選んだまわり道。時間は前の週よりもだいぶ遅かったけれど、何か手がかりがあるかも知れない、と。

期待とあきらめ半々でスポーツセンターの前まで行ったものの、中を覗く勇気はなくて、道沿いにあった掲示板で探してみた。でも、当てはまるような種目は見つからない。

見ているうちに、そもそも探してどうするのか、と、あきれて笑ってしまった。

わたしには入会希望の電話をかける勇気はない。だって、この世で一番苦手なのが電話をかけることなのだ。

仕事で電話を取るのは平気だけれど、自分から電話をかけるのは可能な限り避けたい。妹の輝にだって緊急事態以外はメッセージで済ませているほどで。

だいたい、自分には入り込めない世界だと分かっているのに、どうしてこんなにこだわっているのか。

もうこれであきらめようと思ったそのとき、建物から出てきたのが水萌さんと雪香さんだった。そしてその手に握られていた、わたしの謎。ふたりともジーンズ姿だけれど、あれは間違いなく同じものだ。あまりのタイミングの良さに心臓がバクバクした。

これはたぶん、二度とないチャンス。幸い、ふたりはこちらに歩いて来る。上手くタイミングを見計らえば……でも、なんて? まったく知らない人なのに。それに、これではまるで待ち伏せしていたみたいだ。どう思われるか……。

でも、立ち去ってしまう決心もつかない。そんなわたしの視線に気付いた水萌さんが駆け寄ってきて尋ねたのだ。「もしかして、サカタさん?」と。

あれは、今思い出しても可笑しい。

咄嗟に「坂井です」と答えたのは、もしかしたらご近所の誰かかも知れないと思ったからだった。必死で思い出そうとしているわたしの耳に「あら、わたし、聞き違えていたのね。ごめんなさいね」という言葉が聞こえて、あれ? と思った。

それに続いた水萌さんの話で、サカタさんはその日の見学予定者で、連絡なく現れなかったらしいと分かった。そのことを謝りに来たのだと、水萌さんは思い込んだのだ。

水萌さんは見学をすっぽかした理由を問うのではなく、謝りに来たことを気遣い、今後の予定を説明してくれた。いい人だということは分かったけれど、そのマシンガントークにわたしは口をはさめず困ってしまった。そこで事態を納めてくれたのは娘さんの雪香さんだった。

勘違いと知った水萌さんの「うそっ、やだっ」とあわてるおおらかさには微笑まずにいられなかった。

そそっかしくて親切な水萌さんと冷静でしっかり者の雪香さん。お互いを理解しあっている母娘がとても素敵だった。勘違いを詫びながらご自分のそそっかしさを笑う水萌さんに、胸の中の塊がほどけていくような気がした。

だから、尋ねる勇気が出た。「それ、何ですか?」と。

あれが、わたしが勇気を出した最初の言葉だった。

居合刀という言葉を聞いたのは初めてだったけれど、すぐに分かった。細長い三角形は鍔と刀の反りに合わせた形だったのだ。そう納得した次の瞬間。

「興味あります?」

水萌さんの質問に思わず息が止まった。

「はい」って答えたい――。

痛切に湧いてきた思い。

そうだったんだ、と、気付いた。

やってみたい、あのひとみたいになりたい、頑張ったらなれるかも知れない――。あの一週間、胸の奥ではずっと思っていたのだ、と。

けれど、答えられない。答えたら事が動き出しそうな予感がして。だって、愚図で要領の悪いわたしはきっと迷惑をかけてしまう。だけど……。

「もしよかったら、見学とか体験もできますよ」

言葉を継いだ水萌さんを雪香さんが小声でたしなめた。わたしが断れなくて黙っていると思ったのだ。このまま何も言わなければこれで終わってしまう、とあせった。

その瞬間に浮かんできた言葉、『チャンスの前髪をつかめ』。

つかみそこねたらそれでおしまいだ。

だから決心した。「体験、してみたいです」と。清水の舞台から飛び降りるというのは、あんな気持ちを言うのではないだろうか。

そして――わたしの人生が動き出した。水萌さんから連絡用の名刺を受け取るときは微かに手が震えていたっけ。

習い事くらいで「人生が」なんて、普通のひとが聞いたら大袈裟だと思うかも知れない。でも、わたしにとっては就職よりもずっと大きな変化で。だって、自分がやりたいと思ったことに、初めて飛び込むのだ。これは一大事だ!

そして翌週から稽古に参加して……。

みなさんが温かく迎えてくれて、親切にしてくださることに、ずっと感謝している。感謝の気持ちは上達することで伝えようと決めた。それが一番喜んでもらえると思うから。と言っても、上達するのは簡単ではない。

そして風音さん……。

「そろそろ行きましょうか」

隣から聞こえた声。わたしに向けられる笑顔。こうなった展開も不思議の一つだ。

「渋谷だと原宿も近いですけど……行ってみたいですか? 竹下通りとか」
「竹下通りってあの?」

元気な若い女の子でいっぱいの中で途方に暮れる自分が目に浮かび、思わず顔が引きつってしまった。

「いいえ、まだ覚悟が足りない感じです」
「よかった。僕もあの雰囲気はちょっと」

ほっとしたように微笑む風音さん。初めて見た後ろ姿を裏切らない爽やかな笑顔。

「じゃあ、そっちはいつか翡翠と行ってください。今日は渋谷の雑踏を歩きましょう」

そして、声も素敵だ。普段は低めの木管楽器。稽古中の掛け声は太鼓のようによく響く。

「はい」

こんなふうに、あの後ろ姿の本人と親しくなれるなんて思わなかった。ましてや一緒に出かけるなんて。

これは翡翠のお陰。わたしが彼女の友達だから、風音さんのわたしに対する信頼度が高くなっている。

親切で気さくに話しかけてくれるから、わたしもついつい気軽に反応してしまうけれど、やっぱり恐れ多い。剣術の大先輩だし……。それに、後ろ姿の印象のまま、いつも自然体で、何事にも動じない芯を持っているように見えて、ただただ尊敬するばかり。

でも、これからも一緒に出かけてもいいと思ってくれている? 「俺は誘ってくれないんですか?」って……。

いつもは「僕」って言うのに。そんなに驚いたのだろうか。ということは社交辞令ではない?

友達……に、なってもいいのだろうか。翡翠や一柳さんみたいに? わたしが? 風音さんと?

そうだな。友達になら、なれるのかも知れない。でも、あんまり馴れ馴れしくしないように気をつけないと。わたしは他人との距離感がよく分からないから。

今まで何度か、親しいつもりでいたら、相手はそう思っていなかったことがあった。それを言葉や態度で示されて驚いて、悪かったなあ、と反省した。

それも当然だ。

わたしは場を盛り上げることもできないし、流行も知らないし……、一緒にいて楽しい相手じゃない。そう分かっていたのに、自分が相手を困らせていることに気付かなかった。ほんとうに申し訳なかった。そのひとの時間を奪い、つまらない思いをさせていたと思うと。

風音さんも同じ。興味の対象が近いのは確かだけれど、それ以外ではわたしでは物足りないだろう。

今日みたいなことはきっと特別。だから、風音さんが一緒にいてもいいと思う間は楽しく過ごして、でも、同じ状態は続かないと自覚していればいい。そして近付き過ぎず、何も望まない。

そうすれば迷惑をかけることはないし、嫌われる心配もない。風音さんがわたしと距離を置きたいと思ったときには、傷付かなくて済む。

そう。

深く関われば関わるほど、自分が必要ないと思い知ったときはとても悲しい。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



土曜の夕方ともなれば、渋谷駅周辺は待ち合わせの人々でいっぱいだ。もちろんハチ公前も。

まだ明るさの残る空の下、スマホをいじったり、キョロキョロしたり、ぼんやりしたり、誰もがそれぞれのファッションでそれぞれの待ち方をしている。その隙間を抜けて桜さんを案内する。

「あれがハチ公ですよ」

台座に乗った犬の像。周囲に少しだけ空間があって、像の前ではしゃいで写真を撮っているグループがある。

「思っていたより大きいです。秋田犬でしたっけ? 実物大?」
「近くに行ってみますか?」
「え? いいえ、ここからでいいです」

恥ずかしそうに首を横に振ったのは目立ちたくないからに違いない。

「秋田犬って耳が立ってるイメージでしたけど、ハチは片耳が折れているんですね」
「あれ? そうでしたっけ? ……ほんとだ。よく気がつきましたね」

感心した俺に桜さんが困ったように微笑む。

「どうでもいいことですよね。学校の友達には変なところに気が付くって笑われていました。でも、細かいことがどうしても目に付いちゃって……」
「それ、ドラマでは探偵役の条件ですよ。桜さん、いい探偵になれますね!」
「え? そうですか……?」
「それに、武道の稽古はしっかり見ることが大事です。だから、桜さんは剣術に向いてるってことです」
「あ、そうなんですね!」

桜さんの表情がぱっと輝いた。

「向いてるなんて嬉しい。役に立たないし、けっこうストレスになることもあるので、やっかいな性質だなあと思っていたんです。でも、剣術に役に立つならすごく嬉しいです」

俺の言葉が彼女を笑顔にした。そう思うとドキドキしてしまう。

「じゃあ……、行ってみますか、スクランブル交差点」
「はい」

期待に満ちた笑顔。思わず彼女に手を伸ばす。

――いや、ダメだ。

「あっちです」

行き先を失った手が前方を指し示す。

「あれ? なんだか人が……」

たった数分の間に人混みが増している。桜さんはぐるりと見回すと、「分かりました。ついて行きます」となにやら覚悟を決めた様子でうなずいた。それを見た途端、やる気が湧いてきた自分に苦笑してしまう。ただ人混みを抜けるだけのことなのに。だけど。

――こんなに楽しいなんて。

桜さんの言葉や表情一つひとつが俺の気持ちを心地よく刺激する。すぐそばに彼女がいるだけで、何かいいことが起こりそうな気がする。

桜さんと一緒にいると……。



「とっても楽しいです」

皿に乗った焼き鳥を前に、桜さんが俺に笑いかける。それを見ている俺の口許も緩む。

食事に入った小さな焼き鳥屋。彼女には面白いのではないかと思って決めた。

カウンター席に案内されたとき、桜さんは驚きと不安の入り混じった顔をした。「カウンター席って、常連さんが座る席かと思っていました」とささやいて。注文の相談中に料理人のおじさんに話しかけられたときは背すじを正して畏まっていた。

そんな緊張は一串目を口にしたところで解けたようだ。美味しさに声をあげ、「焼き立てをいただくって贅沢ですね!」と感動する桜さんに、おじさんが嬉しそうに目を細めた。

喜んでもらえて大満足。それに、メニューを見るのに肩を寄せ合うカウンター席は俺たちの距離を縮めるのに都合が良い。

「そういえば、選挙の仕事はどうでした?」

彼女がいなかった先週の稽古は、俺にはどこか物足りない感じだった。声も態度も控えめな桜さんだけど、黒川流の中には彼女の場所ができているのだ。

「選挙ですか? 疲れました」

彼女が苦笑して答える。

「時間が長いですし、投票所っていろんな決まりがあるんです。とにかく不正がないように、それと “一人一票” を守るっていうのが絶対的に大事なんです。誤った投票で無効になることがないように案内も工夫して」
「へえ。知りませんでした」

投票所の中を気にしてみたことはなかった。でも、思い出してみると、投票所にはスタッフがたくさんいたっけ……。

「投票のあと、片づけをして家に帰ったら選挙の番組をやっていて……」

小さなため息。

「まだ開票が始まったばかりなのに当選確実の速報がどんどん出ていたんです。いつものことですけど、開票作業にあたっている人たちを思うと複雑な気分になります」
「たしかにそうですね」

桜さんはグラスについた水滴をつつき、そっと笑った。

「就職したときは市役所が選挙の仕事をしているって知らなくて、『あそこの投票所行ける?』って訊かれたときときはびっくりしたんです。ほんとうに勉強不足で」
「俺も考えたことありませんでしたよ」
「でも、風音さんは市役所で働こうと思ったわけじゃないですよね? ――そう言えば」

桜さんが少しあらたまった様子でこちらを見た。

「風音さんは、今のお仕事に就こうっていつ決めたんですか? 大学に入るとき?」

突然のインタビュー。思いがけず真面目な話題に戸惑いを感じるけれど、相手が桜さんならこういう話も有りだな、と思う。昔のことを思い出そうとしている間に、彼女は続けた。

「わたしは勤務地が葉空市内に限られると思って市役所を選んだんです。言ってみれば消去法で。もちろん面接では前向きに話しましたけど」

それはお母さんと妹さんのことを思って? その表情に陰りはないけれど。

「でも、翡翠と一柳さんはもっと真面目に考えてきていて、ちゃんとした理由があるんです」
「なるほど」

翡翠の選択理由は聞いている。その覚悟も分かっているつもりだ。

「妹も高校生のうちからやりたい分野を決めていて、そのために進学して頑張っていました。自分はよく考えないで選んでしまったので、世の中の人はどうやって職業を選ぶのか気になって、機会があるとお聞きしているんです」
「俺は……」

大学を決めるときは甘いことを考えていた。

「高校のときはぼんやりと建築系かなあ、くらいで。その分野なら、もしも就職できなくても祖父の植木屋で働けるんじゃないか、なんて考えていました。はは、甘いですよね。でも、自分がどうしたいのか、まだ決められなかったんです」

将来への覚悟ができていなかったことも、言葉を選べば格好良く聞こえる。けれど、空しい。そして恥ずかしい。

「それが大学で見つかったんですね?」

向けられた笑顔。その瞳に宿る信頼と憧れは俺にふさわしいだろうか。

「ええ。見つかりました。実現できるか分からないですけど」

そう。勉強を進める中で見えてきた。だからたくさん勉強したし、就活にも真剣に取り組んだ。そして今も、仕事に気持ちを向けることができている。

「やりたいことを見つけて、それに向かって仕事をしているって素晴らしいです。わたしはあきらめちゃったから」
「それは……家の事情で?」
「まあ、それもありますけど、逃げたんです。楽な方に」

小さく肩をすくめる桜さん。気楽そうな態度は俺に気を遣ってのことか。

「大学に行こうと思えば行けたんです。ただ、勉強とバイトと家のことで忙しくなるのは目に見えていて、周りのみんなと同じような学生生活は無理だなあって思ったら、頑張れない気持ちになっちゃって。就職すれば、とりあえずお金のことは解決しますから」
「お金って……」

言い淀んだ質問を彼女は察したらしい。

「亡くなった父の保険金とか公的な給付金とかでどうにか暮らせていました。母が生活保護は嫌だって言うので倹約して。でも妹の進学もあるし……。だから、頑張らないで済む就職を選んだんです。お金の心配がなくなって、ほんとうにほっとしました」

お父さんが先に亡くなっていたのか……。

明るい表情は後悔していない証拠? でも、その選択は心の傷になっていないのだろうか。だからほかの人の職業選択が気になるのではないのか。

「就職してからは、良い職員だと言われるように努力しています。それにわたし、今は一応、大卒なんです」
「――え?」
「大学の通信教育部で。図書館司書の資格も取れました」
「ええ?! すごいじゃないですか!」

頑張れないとか逃げたとか言っていたけれど、全然そんなんことない。ちゃんと両立していたのだ。なのに本人は「そんなことないんですよー」なんて笑っている。

「みなさん褒めてくださるんですけど、そんなにすごいことじゃないんです。どうせ家にいなくちゃならないなら勉強でもするか、と思っただけで。通信教育は入学の選考が厳しくないし、学費が格段に安いんですよ」
「いや、それでも単位数とかは……」
「ああ、それは昼間と同じです。卒業研究もあって。そこはやっぱり簡単ではなくて、四年では卒業できませんでした」

そう言って、えへへ、と笑い、焼き鳥をぱくりと食べた。

どうやら謙遜ではなく、本気でたいしたことじゃないと思っているらしい。けれど、出かけられないから勉強しようと思ったこと自体がすでに尊敬に値する。

長い間、家のことを優先にして、自分の楽しみを我慢して、それでも前を向いて進んできた。不安も孤独も感じただろうに、彼女からは怒りや卑屈さを感じない。そこに彼女の強さを感じる。

「桜さん……、根性ありますね」

思わず口にしていた。女性に対する褒め言葉としては微妙な気がするが、これはまさしく真実。そして心からの称賛。

「ん? そうですか?」

焼き鳥の串を持ったまま、桜さんが目をぱちくりさせて見返してくる。

「ええ。絶対に、桜さんには根性があります」

考えるように「根性か……」とつぶやく桜さん。次の瞬間、にやっと笑った。いたずらっ子みたいに。それが――何かが胸にぶつかってきたみたいで息を止めた。

「いいですね。根性があるって」

もういつもの笑顔。

「いいですか?」
「はい」

屈託のない、穏やかな笑顔。

「根性があるのは嬉しいです。いろいろ思い出すと、たしかにそんな気がしてきます。わたしには一番大事かも」

それから「ありがとうございます」と満面の笑みで言った。

桜さんが自分でも納得できる長所を見つけてあげられたのは嬉しい。でも、それよりも。

「根性で乗り越えるのはいいですけど、無理はしないでくださいね。何かあったら手伝いますから言ってください」

さっきの笑顔をもう一度見たい。あれは……彼女が俺との間にある衝立をはずしてくれた笑顔。

「……家の周りの草むしりとか?」

そう! その顔だ!

ちょっとからかうように。仲間同士のように。

「草むしり? いいですよ。簡単な大工仕事もできますよ」
「ほんとですか?! それはすごい! じゃあ、台風で屋根が壊れたら――」
「いや、それは厳しいです」

すごく楽しい。やっぱり今日、誘ってよかった。






仲良くなれた――と思ったのに。

どうも予想と違う。

さっき稽古にやって来た桜さん。俺の顔を見るとにっこりして頭を下げた。「きのうはありがとうございました」と。それはおかしくはないけれど……。

さっさと更衣室に消えていく後ろ姿を見ながら、力が抜けるほどがっかりしている。だって……もう少し何かあってもよくないか? ひと言とか、目配せとか……、逆に恥ずかしげな遠慮とか。

何もなかった。前と同じ。

きのうはとても楽しかったのに……。

エジプト展でも、渋谷散歩でも、焼き鳥屋でも、帰り道でも、大きな瞳をぱっちり開けて、面白いものや不思議なものを見つけては俺に話しかけた。「風音さん、風音さん」と。まるで世界に俺しかいないみたいに……って、一緒にいたのは俺だけなんだから当然か。

でも……あの笑顔。いたずらっ子のような。気の置けない仲間に向けるような。

そう思ったのは俺だけ? 桜さんの礼儀正しさと気遣いを、自分が受け入れられたのだと勘違いしただけか?

たしかに、じっくり思い出してみると、彼女独特の礼儀正しさは消えなかった。お酒が入っても。一柳さんと話していた彼女は違っていた。笑い方も態度ももっと元気で遠慮がなくて。

やっぱり勘違い? いや、でも。

さっきの様子では嫌な感じではなかった。嫌われているとか、避けられているわけではなさそうだ。ということは、つまり。

時間が足りない、というだけ?

彼女は控えめで人見知りだ。それを乗り越えて一柳さんと同じくらいの仲になるにはどれくらい時間を費やせばいいんだ? さらにそれ以上なら……?

――いや、ちょっと待て。

時間を気にするのはやめた方がいいな。考えても意味が無い。

桜さんはおとなしいけれど、芯のしっかりしたひとだ。人見知りで他人への警戒心も強い。そして、長い間、家庭の苦労をひとりで背負ってきた経験で、他人を当てにしない生き方も身に付いているだろう。そんな彼女に対して圧力をかけるような接し方は、たぶん逆効果だ。

俺は、彼女が心を許せる相手になりたい。信頼してそばにいられる相手に。

だったら、時間がかかっても伝えるしかない。大丈夫だよ、と。幸いライバルはいなさそうだし――あれ?

ほんとうにライバルはいないのか?

今のところ、プライベートで会っている相手はいない様子だけれど、狙ってるヤツはどこかにいるかも?



最初にがっかりはしたものの、稽古が始まってみると、いつもと変わらない桜さんの態度は気が楽だった。桜さんも俺も、この時間は上達することの方が優先だから。

彼女は宗家や哲ちゃんに対するのと同じように俺の指摘を真剣に聞き、丁寧な言葉で質問し、終わると「ありがとうございます」と頭を下げる。無駄口を叩かず、地道に真面目に取り組んで、個人的な親しさをまったく感じない。

それが俺のことを何とも思っていないからなのか、公私の区別をつけているからなのかは分からない。そこはときどきふと気になるけれど、稽古中の彼女の真面目さ、礼儀正しさは彼女の美点の一つ。好感度は上昇するのみ。

その分、休憩時間は桜さんとの時間を積み重ねるために使いたい。

「どうですか、二週間ぶりの稽古は?」
「あ、風音さん」

水筒を手に座っていた桜さんが俺を見上げてにっこりした。何かを思い出してくすくす笑い出した彼女の隣に腰を下ろしても特に気にならない様子。滑り出しは良い感触。

「最初の礼のお作法を忘れていて、あたふたしてしまいました」
「ああ、あれ」

宗家への礼から着座して刀礼まで。初心者は刀の持ち方や置き方で戸惑うことがよくある。

「わたし、来られなかった間、家で素振りはやっていたんです」

彼女が微笑んで続ける。

「振ったときにビュッて音が鳴るようになって、『できるようになった!』って思っていたんです。ところが手首の使い方が間違っているって水萌さんに指摘されて」
「そうでしたか」

そう言えば何か直されていたっけ。

「自分で呆れてしまいました。わたしなんかがそんなに簡単にできるわけないのに。間違っているのにすっかりできるつもりになっていたなんて、もう笑うしかないですよね」
「いいんですよ、それで」

俺の言葉に桜さんがきょとんとした顔をする。

「家で練習した成果をここで見てもらって、違っていたら修正するという流れは正しいんです。自分で試して、これならって思ったんですよね? それが間違っていたって分かったら、二度と同じ間違いはしないと思います。それで一歩前進です」

桜さんは感心したように俺を見たまま「なるほど……」とつぶやいた。それから胸に手を当てて。

「でも、謙虚さは忘れないようにします。それは学びました」

控えめな桜さんが謙虚さを忘れるなんて――ちょっと面白い。

「抜刀術もだいぶ慣れてきましたね。ほかの人とタイミングが合ってきていましたよ」
「あ、そうですか? 良かった!」

喜んだすぐ後に、彼女の表情が曇った。

「でも、まだ体が前に傾くのが直りきらなくて」
「ああ、正面を斬ったときですね?」
「そうです。今日は袈裟斬りでも言われました。視線が下を向いているからだって」
「やっぱりそこですね」

以前に比べると姿勢はかなり安定してきているようだったけれど。

「桜さんは納刀と後ろに下がるときにも視線が下がりやすいですね」
「あ、そうなんです」

桜さんが肩を落としてため息をついた。

「うつむきがちな人生だったもので、つい……」
「え? ……くふっ」

本心かも知れない。本心かも知れないけれど、この流れで言われると可笑しい!

「いや、ええと……、ふ」

笑いをこらえる俺を見て、桜さんもくすっと笑ったのでほっとした。

おそらくこれは彼女独特のユーモアだ。辛かった記憶を軽く、冗談にくるんでぽいっと放り投げるみたいな。だから、ここは慰める場面じゃない。笑って正解。そして稽古。

「ここでははったりでもいいので前を向いてください。それだけで周りに与える影響が違いますから」
「分かりました。ただ……、敵を想像するっていうことも難しくて」
「ああ。最初はそうですよね」

俺は入門前に剣道をやっていたので、向き合って打ち合った経験があった。けれど、桜さんは自分に攻撃を仕掛けてくる相手なんかに出会ったことがないだろう。

「じゃあ、俺が前に立ちますから、それでやってみますか?」
「え? 前って。危ないですよ」
「大丈夫ですよ、刀が届かない間合いに立ちますから。遠慮しないでいつもどおりやってください」

桜さんが黙ってこちらを見る。その顔は――。

「疑ってますね?」
「疑っているというより……」

迷いながら彼女が続ける。

「自分が信用できないんです。手が滑って刀が飛んで行っちゃうかも」
「それはたぶん、ないと思います。それに、飛んできても当たるだけですから」

桜さんが軽く首を傾げて考えた。それから納得した様子でうなずき、「風音さんなら、わたしのへろへろの振りなんか簡単に避けられますね」と笑って立ち上がった。

「では、お願いします」

彼女が表情を改める。

「はい」

開始位置を決めた桜さんから間合いを取って立つ。

抜刀術の一本目は三歩目で相手の水月に向けて抜き付け、さらに踏み込んで正面斬り。俺は彼女の正面にいて、進んでくる攻撃を避けるように後ろに下がる。刀は抜かずに下がるだけだ。

桜さんがすっと姿勢を正した。一瞬、迷うように眉をひそめたが、覚悟を決めた様子でこちらを見た。

彼女の動きに合わせるため、気持ちを集中させる。すると桜さんがはっとした様子で瞬きをした。それから一つ息をつき、再び顔を上げた。

――いい表情だ。

静かな佇まいの中に軽い緊張。まっすぐな視線が俺に狙いを定めて。……と、彼女が動いた。

前進。三歩目で抜き付け。さらに踏み込んで正面斬り。桜さんの刀が、後ろに下がる俺を追う。俺から目をそらさずに。

そのまま正眼の構え、血振り、納刀。納刀の途中で一度視線が彷徨ったのは自信がないせいだろう。けれど、下を向くのは堪えた。

鍔に手を掛けたまま七歩下がって元の位置へ。その間も視線は外さない。両手をゆっくり下ろして終了。

「できましたね」

近付きながら声をかけると、彼女は礼をしていた顔を上げてにっこりした。

「目に見えると全然違います! よく分かりました。自分の命を守るために攻撃するんですね。だから目を離しちゃいけないと」
「え、ええ、そうですね」

そのとおりなのだけど、微妙に違うところに感心されているような。

「桜さん、桜さん。ねえ、ホントだったでしょ?」

話しかけたのは莉眞さんだ。なんだか楽しそうに。

「え? ……うん、そうね」

答えながら俺をちらりと見た。気を遣っているのだろうけれど、逆に気になる。

「何ですか?」

ふたりは視線を交わし、莉眞さんはニヤリと、桜さんは機嫌を取るように微笑んだ。

「風音さんが本気で相手をしてくださるから有り難いなあ、と」
「ああ……、俺の顔が怖いって聞いていたんですね?」

さっきの違和感の原因はそれか。

莉眞さんがきゃははは、と笑って桜さんの方を向いた。

「表木刀のときなんかマジで怖いですよ、木刀振り上げてあの顔ですから。…あ! 待って雪香さん! あたしもやります!」

言いたいことだけ言って、莉眞さんは行ってしまった。

「……怖かったですか?」
「んー、そうですねぇ……」

時間を稼いでいる? でも、すぐににっこりした。

「初心者のわたしにも本気で向き合っていただけるんだってびっくりしました。でも、それでわたしも本気で行こうって覚悟ができましたので」
「なるほど。どうりでいい表情してると思いましたよ」
「あ、そうですか? 風音さんなら絶対にわたしが失敗しても避けられるって信じられたから」

自分の失敗が前提なのはいかにも桜さんらしい。でも、嬉しそうな笑顔は頼もしく見える。

「表木刀を習うのが楽しみになってきました。そのときはよろしくお願いします」
「こちらこそ」

今日、桜さんの正面に立ってみて分かった。いつも控えめな彼女だけれど、覚悟が決まれば思い切って動く。その表情は思いのほか凛々しく厳しくて、隠されていた本物の彼女と対面したように感じた。

これからもあんなふうに向き合いたい。本気で。

今まで、穏やかで友だち思いの桜さんを好ましく思っていた。でも、もっと自由な本来の彼女を、たぶん俺はもっと好きになる。

今、そんな確信がある。





――やっぱり簡単じゃないなあ……。

金曜の夜。スマートフォンを見てため息をついた。桜さんはちっとも連絡をくれない。

前回の稽古のあとに俺が言ったことは無駄だったか。あるいは、平日にも桜さんとつながりが持てたら……などと淡い期待を抱いていたのを見透かされたのか。「家で練習していて分からないことがあったら、いつでも連絡くださいね」なんて、親切を装った下心が見え見えか?

桜さんと親しくなりたいと思っているのに、彼女はいつまでも他人行儀。

知り合ってもう三か月になろうとしている。一度は――武道具屋に行ったことも含めれば二度、ふたりで出かけた。なのに、稽古の日は俺が話しかけなければ近付いても来ない。話し始めれば普通に楽しく話せるのに。

あの申し出を忘れている? いや、そもそも俺のことなど考えていないのかも。

きっとそうだ。彼女が俺を気にかけていると考えること自体、おこがましい。俺はそんな重要人物ではない。

何も言わなければよかった……。

あんな申し出、するんじゃなかった。桜さんには桜さんの世界があって、そこでは俺なんかまったくお呼びではないのだ。こんなふうに後悔するなら黙っていればよかった。

「うーーーーーん……」

思わず唸ってしまう。でも……。

なんだか情けなくないか? いい大人なのにこんな状態。まるで思春期の片思いみたいじゃないか。もうちょっとスマートに振る舞いたいよな?

でも、どうすればいいのか分からない。週に一度は稽古で会うというのが、逆にタイミングを奪っているみたいな気もする。

イベント的なものよりも、日々の生活の中で接点が欲しいのだ。ほんのひと言交わすだけでも。俺から……っていう手もあるけれど、つまらない情報で五月蠅がられたら、その後の稽古に影響が出そうで。だけど……。

やっぱり、俺から連絡した方がいいかも知れない。

だって、桜さんは超が付くほど控えめなひとだ。自己評価が低いから、遠慮している可能性は大きい。さらに、社交辞令だと思われて流されてしまっている可能性だってある。

よく考えたら、あんな中途半端な言葉でそういう桜さんの行動を促そうなんて、上手く行くはずがない。馬鹿じゃないか、俺は。

接点が欲しいと思っているのは俺なのだ。だったらこちらから動かないと。

「よし」

電話してみよう。

金曜の夜だから、今週はどうでしたか、みたいな感じで。

こうやってため息ついているよりもずっと建設的だ。……でも、金曜の夜。誰かと出かけていたりするだろうか? 男の同僚とか?

ああ、もうやめ!

考えていたらきりがない。ダメでも何でも早く済ませよう。画面の名前をタップして。

コール音。コール音。コール音……。呼吸が浅くなっている。今のうちに深呼吸を――。

『はい。坂井です』

名字で名乗った?! 俺だって分かってるはずだけど? もしかして、俺と距離を取るための……?

「あ……、風音です。こんばんは。すみません、急に」

ちょっと声が掠れてしまった。息切れしているみたいに聞こえていたら嫌だな。

『いいえ、大丈夫です。何をしていたわけでもないので』

落ち着いた口調はいつもと変わらない。

「ちょっと……素振りをしていたら思い出して。どうですか、今週は。疑問点とか……ありますか?」

なんだこれ。家庭教師じゃあるまいし。変だろ!

『ああ……、実は今週は家で練習できていないんです。すみません』
「あ、そう、でしたか。いや、謝らなくていいですよ。忙しかったんですね。働いてたらそうですよね」

失敗した。変なプレッシャーをかけてしまった。桜さんをますます委縮させてしまう。

『忙しかったのは間違いないんですけど……、ちょっと今週のは普通とは違ってて』

ふふ、と小さな笑い声。でも半分はため息みたいだ。確かに元気がないような……?

「疲れているみたいですね。大丈夫ですか?」
『大丈夫です、明日はお休みですし。たまにあることなんですけど、今回は事件が大きくて、影響も大きかったので』
「事件? 事件ですか? 市役所で? 何かありましたっけ?」

そう言えば、今週、葉空市という言葉を見たような気が。

『学校内のいじめで葉空市を訴えた方がいらして、弁護士さんが記者会見を……』
「ああ! 今週の初めですよね?」

ニュースで見たんだ。いじめの内容がかなり悪質で、いじめというよりも恐喝ではないかと思ったやつだ。

『そうです。そのあとずっとお怒りの電話が止まらなくて……』
「怒りの電話? 桜さんの職場、関係あるところなんですか?」
『教育委員会なので……。わたしは経理課なので直接の関わりはないんですけど、電話は教育委員会全体に来ていて……。電話がつながらないとファックスやメールで送ってくる人もいて。市役所のサイトに連絡先載ってますから』
「それは……大変な一週間でしたね」
『お気遣いありがとうございます』

桜さんの声が少しだけ軽くなった。

『以前は窓口のある職場だったので、怒鳴る人や嫌味を言う人にはある程度は覚悟ができていたんです。でも、経理課に来てから一般のお客様と話すことはほとんどなくて慣れていなかったというか……。今回は電話を取った途端に怒鳴り声、というのが毎日続いたのでちょっと』
「怒鳴り声が毎日ですか。メンタルやられますね」
『まあ……、でも、被害に遭ったお子さんが一番傷付いているわけですから』

それはそうだ。それはそうだけど。

「電話をかけてくるのは関係者ではないんですよね?」
『ええ。正義の……一般の方です。義憤にかられて、という気持ちは分かります。それに、どんな仕事でもこういうことってあると思うので』

そうかも知れないけれど、それを桜さんが受けていると思うと理不尽だと感じてしまう。日ごろから公務員はやり玉に挙げられやすいように見えるし、中には他人を攻撃すること自体が目的の誰かだっているかも知れない。

『やっと金曜日なのでほっとしています。土日出勤にならないように残業で頑張った甲斐がありました。でも、ネットではまだ収まりそうにないし、テレビのワイドショーもたぶん……。だから来週も頑張らないと、ですね』

なんということだ!

いつも丁寧でにこにこしている桜さんが。

辛いことを微笑んでさらりと話せる桜さんが。

こんなふうに疲れた口調で!

「桜さん」
『はい?』
「何か美味しいものを食べに行きましょう」
『美味しいもの、ですか?』
「ええ。明日」
『明日?』

少しの間があって、それから『空いてますけど……』と聞こえた。

「じゃあ、まずは昼。それから何か楽しいことをして、夜ご飯」

辛いことがあったとき、ひとりで閉じこもっていちゃダメだ。楽しいことで記憶を上書きしなくちゃ。

『楽しいこと、と、美味しいもの。……いいんですか?』
「何がです?」
『風音さんのお休みの日に』

何を言ってるんだ! まったく桜さんは。

「俺の方が誘ってるんですよ?」
『……そうですね』

この口調。どこか納得のいかない顔をしているに違いない。それなら。

「分かりました。じゃあ、俺が美味しいものを食べたいので、一緒にどうですか?」
『ん、風音さんが? 美味しいもの……いいですね。でも』
「桜さんと行きたいんです」

自分でいいのか、なんていう質問は受け付けないから!

『ええと……、そうですか。それなら……』

まだ迷ってる? いや、何か違う気配が。

『……はい。ありがとうございます。美味しいもの、ぜひご一緒させてください』

よし!

明るい声。やっと前向きになってくれた。

「何がいいですか? どんな店? 行きたい場所とかありますか?」
『え? 風音さんが食べたいものは……?』
「何でも食べます」
『えっ、それは……』

言葉を失くした様子の桜さん。けれどすぐにくすくす笑いが聞こえてきた。

『特殊な食べ物を想像してしまいます』
「あはは、特殊か」

桜さんが笑ってくれるとこんなに嬉しい。楽しい気分でいてくれることが、こんなに。

「じゃあ、俺は夜を考えます。桜さんは昼を考えてください。いくつか候補を考えて、明日会ってから決めましょう」
『分かりました』
「待ち合わせは……葉空駅で」
『はい』

電話をして良かった。

桜さんが疲れた気持ちだけを抱えて今日を終わらせることにならなくて、ほんとうに良かった。そして、明日のことを思うと……。

こんなにわくわくしている。






◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


誘っていただいた……みたいだけど。

まだよく飲み込めないまま、通話を終えたスマホを見ている。あっという間に決まってしまって……、何か勘違いだったりしない?

明日、風音さんと出かけるということは……間違いなさそう。待ち合わせの時間と場所が決まっているから。その理由は、わたしが元気が無かったから? うん、たぶんそう。やさしいね。

疲れ切ってぼんやりしていたところに電話が来て……、滅多に鳴らない着信音にびっくりした。表示された風音さんの名前を見て、間違えて掛けてきたんじゃないかと思いながら応答した。でも間違いじゃなくて。

風音さんの声。落ち着いた、気遣いを感じさせる声は、いつもわたしの心を安らかにさせてくれる。だからようやく、この一週間のことを少し距離を取って話すことができた。

この一週間……、つらかった。

電話に出るたび罵声、罵声、罵声。直接電話に出ていないときでも同僚が浴びているであろう罵りの言葉が聞こえるような気がして、苦しいのは同じ。それらの声と言葉が耳どころか全身に積み重なってくたびれて、今夜は動くことも億劫になってしまった。翡翠も心配して連絡をくれたけれど、だからと言って、何度も同じ愚痴を聞いてもらうのは申し訳ない。

こういうのはとても苦手だ。

怒鳴られると、いつまでも記憶が鮮明に残ってしまう。たった一回でも何日もダメージが続く。それが今回は毎日。何も説明できず、怒鳴られながらひたすら謝るだけの……。

……だめだ! 思い出したらまた記憶に捕まってしまう。それよりも、今は急がないといけないことを考えよう。

急がないといけないこと。明日のことだ。

風音さんと出かける。

お昼から夜まで。

美味しいものを食べて、楽しく過ごすために。

これは、元気が無いわたしを慰めるため。

うん、そうだ。

これは例えば、元気が無い同僚に「ランチ行こうよ」と声をかけるようなもの。いや、大人だから「飲みに行こう!」かな? まあ、どちらでもいいか。とにかくそういうこと。

風音さんは本当にいいひとだ。親切で優しい。でも、だからと言って甘えてはいけない。気を引き締めなくちゃ。

わたしが彼女の座を望んでいるなどと思われないようにしないと。せっかく親切にしてくれているのに、そんな勘違いで引かれてしまったら困る。今後の稽古にも差し支える。

女っぽさを出さないように……と言っても、もともと女っぽいところなんて髪をのばしているところくらいだけど。

前の職場のあの子……。

顔はもちろん、口調や仕草も可愛くて、同僚だけじゃなく窓口に来た人にまでデートに誘われていた。それを嫌味なく断るあの子に、わたしはただ感心するばかりだった。どういう育ち方をすればああいうものが身に付くのだろうと、何度も考えてしまった。

翡翠はその子とは違ってみんなの憧れの的で、まるで女神。何か頼まれるだけで嬉しいという男性職員がたくさんいた。でも、翡翠はそれに甘えることもなく、自立した格好良い同僚だった。

そしてわたしは――《仲間》だ。恋愛対象として意識される存在ではない。十代のころからずっとそう。

ちゃんと分かっている。だから。

触らない。頼らない。期待しない。

まあ、触ってしまう心配はないよね。もともと他人との距離が広めだから。でも一柳さんくらい仲良くなると――そんなに仲良くなるはずがないか。

でも、油断は禁物。風音さんとは気が合う、という感覚はあるし、仲良くなれるんじゃないかという予感もある。だからうっかり、という可能性は否定しきれない。

だけど風音さんは……そう、格が違う。わたしは仰ぎ見る立場だ。自分と同格には考えられない。だとしたら、緊張感を持って接するから、うっかりはないかな。

とにかく、今回はせっかくのお申し出。楽しく過ごしたい。風音さんを困らせないように言動に気をつけて。……あ!

早くランチのお店を探さなくちゃ!

今何時? 大変だ。経験値が低すぎて全然分からない。スマホで探せるといっても……葉空駅周辺だと数が多すぎる。どうしよう?!

食べ物の好き嫌いとか予算を聞いておけばよかった!


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇