食事会のあと、桜さんのこれまでのことが頭から離れなかった。

中学生のころからお母さんの世話をして、家の切り盛りをして。妹さんがいるということは、妹さんの心配もしなければならなかったのではないだろうか。

いつまで続くか分からない自由のない日々。その中で明るさと思いやりを守り通してきた桜さんの強さに尊敬の念がわいてくる。

入門したころ、桜さんがうちへの入門をとても大切そうに話していたことを覚えている。あれはきっと、偶然の出会いからとはいえ、彼女が「やってみたい」と思ったことにチャレンジできたことが嬉しかったのだ。制限された生活を知っているから、どんな些細な自由でも彼女には大切なのだろう。



「ぐらぐらしちゃうのは足腰の鍛え方が足りないからでしょうか」

食事会から二日後の稽古。自主練習の時間に、桜さんに尋ねられた。

今日の彼女は家で練習してきた成果か、抜刀納刀が少しスムーズになっている。その分、ほかの部分で気になるところが出てきたようだ。

「踏み込んで抜刀したときですよね?」
「そうです。こう……」

言いながら、彼女が構えた。一、二、三――の抜き付けで止まってこちらを見る。

「このときもそうですし、抜刀術で最後に斬り下ろすときも――」

そこから上段に構えて、もう一歩踏み込んで正面を斬って止まる。

「ここでぐらつきます」

振り返って言った彼女にうなずいて脇に立つ。

「鍛え方と言うよりも、足を置く幅ですね。桜さんは左右の足が前後にほぼ一直線になっているんです」

言われて、桜さんは自分の足の位置を見た。床板の一枚のラインに両足が乗ってしまっている。

「ほんとだ!」

目を丸くして、心から驚いた様子。子どもっぽい反応に思わず笑いが漏れてしまった。

「もう少し左右に、少なくとも拳一個分くらいは離れていないと安定しないんですよね」
「なるほど」

足の位置を調整した桜さんが、確認するようにこちらを見上げる。「そのくらいですね」と俺が言うと、もう一度自分の足元を見てから上体を起こし、鏡に向かって正眼に構えた。

「たしかにだいぶ違います」

見ていてもぐらつきが少なくなったのが分かる。

「足が一番難しいです」

納刀して足を戻し、彼女が緊張を解いた。

「足を揃える習慣がついているので、基本の姿勢でも足をくっつけて立ってしまって、宗家によく注意されます」
「わかります。僕はつま先が外に向く癖がなかなか直らなくて苦労しました」

立つ、歩く、という動きは体にしみ込んでしまっているので、最初は何度も注意される。でも、小さなことに見えるつま先の向きや両足の位置が、刀を振る向きや力に大きく関わってくる。つまり、実戦であれば命を守るうえで違いが出るということだ。だからしっかり身に着ける必要がある。

桜さんが鏡に向かって開始の姿勢をとる。と、自分の足元を見てからこちらをに目を向けた。「大丈夫です」と伝えると、前を向き、肩の力を抜いてゆっくり呼吸を一つ。

桜さんの立ち姿は美しい。もともと姿勢が良かったけれど、慣れてきた今は余計な力が抜けて、横から見ると頭から首、そして背中から腰へと自然なラインができている。……が。

抜刀術の一本目、抜き付けから上段、切り下ろし――。

「そこで止まって」と声をかける。

ん、と小さく声を漏らして桜さんが固まった。その姿勢は前かがみで、美しいとは言い難い。なんとなく、畑仕事をしているような感じだ。

「今、桜さんが見ているのはここですね?」

振り下ろした刀の先に触れると、彼女は「はい」と神妙にうなずいた。

「視線は前です。斬った相手から目を離さないでください。動けると反撃されますよ」
「あ、はい!」

あわてて顔を上げた。

「あと、体重がほとんど右足に乗ってしまっています。もっと体を起こして、重心はいつも両方の足の間にくるように。流派によって違いはあるんですが、うちは基本的に五分五分、行っても前に六、後ろが四くらいです」
「基本は五分五分……」

隣で姿勢を作る俺を真似て桜さんが上体を起こし、バランスを確認する。

「刀を振り下ろすときは左手で引き下げるようなイメージです。同時に両足でしっかり支えることで、地面の力も刀に伝わります。――こうです」

俺の動きを真剣な眼差しがチェックする。

「このとき、この左の膝が曲がり過ぎると力が逃げてしまいますから気をつけてください」
「はい」

うなずいた桜さんが「体を起こしたまま……」とつぶやきながら上段に構え、右足を踏み込んで――斬る。

「ああ! 素振りのときにやりますね」

瞳をキラキラさせて振り向いた。新しい発見に喜ぶ子どもみたい。

「なるほど。ここで使うんですね」
「そうです」

無邪気に感心する彼女を見ていると、胸の中が温かくなる。誰かが喜ぶ姿というのは、見ている側にも喜びを分けてくれるらしい。

――こうやって見ていると、苦労してきた影なんて、まったく見当たらないよな。

心成堂に行ったときもそうだったけれど、桜さんは些細なことでも感心し、楽しむ。その好奇心と喜びの表情からは素直な明るさしか感じられない。唯一それが陰ったのは、お母さんの話になったときだけだ。

「ありがとうございました。練習します」

決意のこもった表情が頼もしい。

――やっぱり誘ってみよう。

自分の稽古に戻りながら考える。

今のところ、俺の印象は悪くなさそうだ。一昨日の食事会に俺が参加したことも好意的に受け止めてくれたようだった。今日も普通に話せているし。

ふたりで出かけることをOKしてくれるといいんだけど。少しばかり緊張してしまうな。



「博物館、ですか? 行ったことないです」

稽古のあと、声をかけた俺に、桜さんはこう答えて足を止めた。

「行ってみたいと思ったことはありますけど、ハードルが高いような気がして。風音さん、よく行かれるんですか?」

世間話だと思っているようだ。誘ったら驚くだろうか。

「度々じゃありませんが、今、六本木でエジプト展が開催中なんですよ」
「エジプト展!」

桜さんの目が輝いた。目的の選択は正しかったようだ。

「大規模なものじゃないんですけど、古代文明に興味があるっておっしゃっていたので……。よかったら一緒に行きませんか?」
「ご一緒してもいいんですか?」

胸に手を当てて、目を大きく開けて。それほど意外だったのか。

「もちろん。興味がある人と行くと面白いですから」
「ありがとうございます! 嬉しいです。個人的に博物館に行くなんて初めて」

よかった! 俺もうきうきしてきた。

「ええと……、来週の土曜でいいですか?」
「来週の土曜?」

一気に桜さんがしゃっきりした。

「ごめんなさい。来週の土曜はダメなんです。選挙があるので」
「選挙?」
「衆議院が解散したじゃないですか。あれの選挙です。なので、来週の稽古も来られないんです」
「え? どうして桜さんが? 関係のある方が立候補されてるんですか?」
「ああ、違います」

うふふふ、と笑われてしまった。

「投票事務です。選挙があると、市役所の職員は投票と開票にかなりの割合で駆り出されます」
「そうなんですか? 知りませんでした」
「ですよねー」

桜さんが苦笑する。

「アルバイトもたくさん雇うんですけど、各投票所に二、三人は職員がいりますし、開票もまだ人海戦術なので」
「言われてみれば……」

紙で投票するのだから、それを仕分ける手が必要だ。大都市の葉空市となれば、投票所の数も投票数も相当な数になるはずだ。

「投票所は前日に設営があって、当日は朝六時集合。夜八時に投票終了したら、すぐに投票箱を開票会場まで運んで、残ったひとが片付けをします。開票は九時からで、中には投票と開票を連続で従事するひともいるんです」
「そうなんですか……」

感心している俺に、桜さんは「市役所独特の仕事の一つですね」と微笑んだ。

「その……エジプト展? いつまでですか? 次の週でもまだやってます?」
「あ、ああ、大丈夫ですよ。じゃあ、次の週にしましょうか」
「いいですか? ありがとうございます。投票にはぜひ行ってくださいね。権利は使わないともったいないですよ。それに、せっかく働くのに投票率が低いとがっかりなんです。――あ、みなさんをお待たせしちゃってますね。すみません」

荷物を持ち直した桜さんが、大急ぎで武道場の出口に向かう。そこで合図しているのは利用チェックシートを持った母だ。

桜さんの後ろから、「あとで情報を連絡します」と声をかける。母や妹にはふたりで出かけることを積極的に話す必要はない。隠そうと決めたわけじゃないけれど。

――来週は休みか……。

桜さんがいない稽古はちょっと味気ない気がする。ふとした瞬間に彼女の姿を探してしまいそうだ。

でも。

その翌週は……。