六月に入るとじめじめした日が続くようになった。稽古に使っているスポーツセンターの武道場は冷房が入るのでありがたい。

桜さんは少しずつ稽古に馴染んできた。袴姿も凛々しく、素振りのときはリズムについていけるくらいに。ただ……。

「ふぅ」

一つの素振りが終わるごとに大きく息をつき、すーはーすーはーと深呼吸をしている。

「桜さん」

インターバルで声をかけると、「はい」と息を整えながら姿勢を正して振り返った。

心成堂に行ってからずいぶん話すようになったけれど、彼女の礼儀正しさは崩れない。余分な緊張はしなくなったようだから、おそらくこれが彼女にとって自然な状態なのだろう。

「素振りのとき、桜さんは息を止めちゃってるんですよ」
「え?」

驚いた顔。自分では息を止めていることに気付いていなかったようだ。もちろん無呼吸ではないけれど、力を込める瞬間に息を止めてしまっているのだ。

「素振りの後に息切れしてるのはそのせいです」
「え、そうなんですか?!」
「ええ。素振りで声を出して数を数えるのは呼吸の練習の意味もあるんです」
「あ。わたし、声出してません……」

そのとおり。恥ずかしいのか、遠慮があるのか、桜さんは声が出ていない。

「呼吸で力の込め方が変わってきます。それと、酸欠になると動けなくなってしまいます。小さくてもいいので、声を出してみてください」
「分かりました。ありがとうございます」

神妙な顔でうなずいた。

おとなしいひとだから声を出すことに苦手意識があるのかも知れない。でも、こういうときに嫌な顔をしないのが彼女だ。だから躊躇なくアドバイスができる。

――頑張ってください。

上達してゆく姿が見たい。少しずつでも着実に。

次の素振りでは彼女の唇が動いていた。まったく聞こえないけれど、前向きに取り組んでいるのは間違いない。

個別練習の時間になると、清都くんと莉眞さんに(おもて)木刀の稽古を頼まれた。

表木刀は二人で向き合っておこなう技で、相打ちから仕留めるまでの流れが五本ある。その魅力は太い木刀での打ち合いと大きな掛け声によるダイナミックさ。技術のほかに気迫も大きな要素だ。

入門して二年目のふたりは五本の勝つ側、負ける側それぞれの動きは覚えている。でも、まだバランスが悪いし迫力もない。

「相打ちはちゃんと相手の面を狙って、ここに」

「そこは間合いを切るために大きく下がって。いや、ぴょこんと跳ばないで」

「そこで後ろの足を寄せてから……突く! そうそう」

「途中で上段になるときもいつもと同じ。重いけど切っ先が下がらないように、脇構えから、こう」

俺の指摘にふたりは一つひとつうなずき、やり直して確認する。「こうですか?」と質問し、「勘違いしてたー」と笑う。「なんでできないんだろう」と肩を落とした次の瞬間に「もう一回!」と構えている。上達したいという気持ちの前には遠慮など必要ない。

入門直後のふたりはこうではなかった。

稽古中に笑顔を見せることはめったになく、いつも眉間にしわをよせているみたいに見えた。やる気は見えるものの、話しかけると「はい」か「いいえ」しか言わないし、体を強張らせるのがはっきりと分かるので、こちらもずいぶん気を遣った。

それらは中学生まで通っていた水泳クラブの影響だったらしい。

少しずつ聞いた話を総合すると、「子どもは大人の言うことにただ従うべし」という強い信念で指導されていたようだ。ふたりとも好成績をあげていた一方で精神的に苦しくなっていて、高校受験を理由に退会できてほっとしたと言っていた。

そんなふうに、何かを習うということに疲れていた彼らがここに通うことを決め、今はのびのびと稽古している。俺や親世代の面々とも馴染んだ。彼らを見ていると、うちのような小さな団体でも何かしら世の中の役に立っているのだなあ、と感じる。

「そこはそうじゃないって」
「あ、宗家。これですか?」

宗家が来たので、宗家と俺が清都くんと莉眞さんそれぞれの相手になることにする。

俺と向き合った莉眞さんが、構えた途端に笑いをこらえたのが分かった。以前から、表木刀の稽古になると俺の顔が怖いと言って笑うのだ。

でも、これは仕方ない――というか、当然なのだ。正しく学んでもらうために、教える側は常に本気で向き合うべきだから。

向かい合っての技は実戦を模している。つまり、命のやり取りにつながっているということ。なので、常に本気で相手と向き合う。

それに実際問題として、重量級の木刀で打ち合うわけだから、気を抜くと大きなケガにつながる。……ということを分かっていても、莉眞さんは俺の顔――真剣な顔だ!――が面白いようだ。

相打ちの音がだんだん響くようになり、リズムも良くなってきた。宗家が一通りみたところで休憩にした。

場内では雪香と哲ちゃんが小具足の稽古をしており、その向こうで翔子さんと桜さんの抜刀術を母がみている。

離れて見ていると、入門から七、八年の翔子さんと桜さんの差がよりはっきりする。特に体の安定感。翔子さんに比べて、桜さんはまだぐらつきが多い。

――お。

彼らも休憩にするようだ。歩いてきた桜さんが俺に気付いて微笑み、小さく頭を下げた。屈んで水筒に手を伸ばしても、もう刀身が鞘から滑り出てくることはない。

「どうですか?」

声をかけると、「難しいです」と苦笑いが返ってきた。

「正面を斬ったときに前屈みになるのが直らなくて……、あと、視線がすぐに下とか手元にいっちゃうし。足もなかなか上手くいきません」
「そうですか」

まあ、週一回の稽古だと、上達は一進一退というところかも。

「それに、どうしても刀が抜けたところで『抜けた!』ってほっとしちゃうんですよね。そこで気持ちが途切れてしまうみたいで……」
「はは、それじゃあ相手にやられちゃいますね」

まだ抜刀が不安なようだ。刀が抜けなくて止まることはほとんどなくなっているけれど。

「抜刀のどこが気になっていますか?」

尋ねると、桜さんは考え考え動作をゆっくりなぞった。最初に比べるとだいぶ上手になっている、が。

「刀が抜ける最後のところでガリガリいう感触があって……、鞘引きが足りないってずっと言われてます。あと、ガチャガチャいう音が」
「あ、俺もガチャガチャ直らないっす」

横にいた清都くんが手を挙げた。

「ああ、そうだよね」

抜刀も納刀も、正しくできていると音がしない。ガチャガチャいうのは動きのどこかしらに不都合な点があるということだ。清都くんの場合は急ぎ過ぎで、余分な力が入っている。莉眞さんによると、アニメの影響で格好つけているからだとか。

自分の命を守るうえで、速く動くことは重要だ。でも、急いで動くというのとはちょっと違う。黒川流ではその“速さ”を、無駄のない動線と、さまざまな力の流れを利用することで生み出そうとする。

「水分補給が終わったら、ちょっと抜刀してみてもらっていいですか?」

はずしていた刀を差しながら桜さんに言うと、彼女は「わたしなんかにそんなに丁寧に言わなくてもいいんですよ!」と笑った。清都くんもクスッと笑っている。セリフにさりげなく親しみと可笑しさを込めるのは桜さんならではで、話していると、フッと肩の力が抜ける瞬間がよく訪れる。

水筒を置いて壁から離れた彼女の左側――帯刀している側――に立つ。

「いきます」

視線を正面に向けた桜さんが姿勢を正す。右足から出て一、二、三で抜き付け。正眼の構えから血振り、納刀――の初めで声をかけた。

「鞘引きは――この左手なんですけど、もっと前、鯉口が隠れるように握ると、あと何センチか引けます」
「え、それは手がはみ出すくらいってこと……ですか?」
「そうです。こんなふうに」

やってみせると桜さんが目を瞠った。

「それだと手を切っちゃいませんか?」
「大丈夫です」
「居合刀だから……?」
「いいえ、本身でも。正しくできていれば切れません」

桜さんが無言で俺の顔を見る。

桜さんはよくこんなふうに、会話の途中で黙って俺の顔を見る。初めは戸惑いの表情かと思ったが、実は自分の意見を胸の中にとどめているときの彼女の癖だ。その都度、微妙に表情が違うのだ。そう気付いたら、何が言いたいのかもだいたい想像がつくようになった。

今はたぶん、疑念か否定。そして、それを口にするのは失礼だ……なんて考えているのだろう。言わなくても顔に出ていたら同じなのに、と思うと可笑しい。

「練習すればできますよ」

確信を込めてうなずいてみせる。

「……分かりました」

桜さんも、自分に言い聞かせるようにうなずいた。

「風音さんを信じます。練習します」

俺を真っ直ぐ見て言ってから、にこっと笑って。

「まあ、この刀ではいくら触っても切れないですもんね?」

気軽に付け加えられたひとこと。入門当初は返事をされて終わりだったけれど、今は少しやり取りが増えた。

「そうですけど、最初から本身を使うと早く上達するそうですよ。良かったら僕のでやってみますか?」
「え、それ、切れるやつですか?」
「そうです。ときどきこっちでも稽古しているんです」
「どうりで今日は柄巻きの色が違うなあと思ってたんですよね……」

話しながら桜さんがそろそろと後ろに下がっていく。俺を信用していないらしい。

「大丈夫ですよ。人に向けては抜きませんから」
「あ、ソーシャルディスタンスです。普通の」
「明らかに間合いを取ってますよね?」
「ああ、なるほど! これが間合いを取るっていうことですね? すごい! よく分かりました!」

本気で感心している彼女。なんだか漫才をやっているような気分になる。

「では、納刀してみます」

あらたまって姿勢を正した彼女に、俺もあらたまって「はい」と返事をした。

俺の横に戻った彼女が正眼に構える。そこから血振り、そして――。

「ええと鯉口の……このくらいですか?」
「あー、もう少し前ですね」
「こう?」
「うん、そのくらいかな」

――信じます、か……。

ふと、さっきの言葉が頭に浮かぶ。

なんだか妙にくすぐったいような、照れくさいような気分。彼女が俺に大きなものを委ねてくれたみたいな。

そんなふうに考えるのは大袈裟だ。だけど……。

だけど。