「根元から?」
「そう。下半身が下がるのが、もう少し浮いてくると思う」
「あ、ありがとう」
「僕が見ててあげるよ。やってみる?」
「う、うん!」

 奏が一生懸命に水を跳ね上げ泳ぐ姿なら、いくらでも見ていられる。
彼女のどんな質問にだって、何だって答えてあげる。
バシャバシャ飛び散る水しぶきだって、彼女のものなら可愛らしいと思える。

「すごい! 宮野くんの言う通りにしてみたら、ずいぶん体が軽くなった! 楽に前に進めてる!」
「よかった」
「うれしい! ありがとう」

 奏が喜んでいる。
奏にそう言ってもらえるのなら、僕はこんな臭い水の中だって平気。
戻って来た彼女の手を取り、その指先にキスをする。

「大好きだよ奏。僕のことも、好きになってくれる?」
「あー。そのことなんだけど……」

 彼女は僕に取られた手を、スッと引き抜いた。

「私、他に好きな人がいるから。ごめんなさい」
「それは岸田くん?」
「そ、そうだね」
「僕も岸田くん好きだよ。奏と一緒だね」
「はは。そうだよね。よかった」

 奏は困ったように顔を背ける。
奏が岸田くんを好きでも、僕のことも好きになってほしいんだ。
ふと顔を上げると、その岸田くんと目があった。
僕は彼に大きく手を振る。

「おーい! あのね、僕と奏は、二人とも岸田くんのことが……」
「ちょーっと待って!」

 急に彼女に腕を掴まれ、ビクリとなった。

「ねぇ、それを言う時は、私から直接岸田くんに言いたいの。だからそれまでは、岸田くんにも他の人にも、誰にも内緒にしておいてくれる?」
「奏が岸田くんを好きってこと?」
「そう!」
「分かった。いいよ。ちゃんと約束する」

 僕の肌に触れたまま離れない彼女の、手の平からの熱をずっと感じている。
また一つ約束の増えたことがうれしい。
そうやって仲を深めていけばいい。
僕たちのところへ、岸田くんはぽちゃんと飛び込んできた。

「なぁ、宮野。俺にも泳ぎ方教えてくんない?」
「やだよ」
「なんで」
「奏だけ特別。もう今日はお終い」
「は? 何だソレ!」

 彼は一人で勝手にぷりぷり怒っているけど、そんなことは知らない。
無視してぷかぷか浮いていたら、そのうちどこかへ行ってしまった。
他の部員たちのところへ行ってなんかしゃべってるけど、そんなこともどうだっていい。

 僕はビート板に浮かんでにこにこしながら、奏の泳ぐ姿だけを見ている。
水泳部が楽しいと思えたのは、初めてだ。
立ち止まった彼女に手を振ったのに、見えなかったのか気づかなかったのか、反応はなかったけど、それでも僕の教えたことを一生懸命やろうとしてくれているから、僕を忘れているわけじゃない。
そうやって僕はぷかぷかしながら、ずっとのんびり奏を楽しんでいる。

 その日の部活を終え更衣室を出たら、いつものようにすぐ前の広場に奏と岸田くんがいた。
まだ少し髪の濡れている奏は、明るい西日を受けながらなんだかもじもじしていて、そんな彼女に岸田くんは熱心に何かを話している。

「だからさ、奏からアイツに頼むよ。別にお前が損する話しでもないだろ」
「それは分かってるよ。宮野くんから私だけ教えてもらってるってのも、それはみんなのためにならないって思ってるし。みんなも直接教えてほしいよね。私だって水泳部全体のためになればって思う。だけど私は、宮野くんとは特別でもなんでもなくて……」

 そう言って見上げた奏を、岸田くんはムッと見下ろした。

「だから、なんだよ」

 そう言われて、奏はまた恥ずかしげにうつむく。
もしかして奏は、岸田くんに好きだって伝えたのかな。

「何の話してるの?」

 近づいた僕に、岸田くんは顔を上げる。
彼が何かを話そうとした瞬間、奏はそれを止めた。

「わ、私ね、岸田くん。宮野くんに、岸田くんのことが好きって言っちゃった」
「は? 何それ」
「だから、その……。そういうことに、しておいてほしい……」

 奏は顔を真っ赤にしてうつむく。
岸田くんは彼女からの告白を、戸惑う様子もなく静かに聞いていた。
そんなこと、まるでずっと前から知っていたみたいだ。

「今の話は、それとこれと関係ないだろ?」

 奏は顔を真っ赤にしたまま、うつむいて動かなくなってしまった。
岸田くんはイライラと、その茶色いサラサラした髪をかきむしる。

「だけど奏、それは……。そんなふうに思う必要はないからって、ずっと……」

 彼の言葉が終わるより先に、奏は僕を振り返った。
いつものよりにっこりと、彼女は丁寧に微笑む。

「ね。だから、宮野くんゴメンね」
「なにが? 僕も岸田くん好きだよ。奏が好きなものは、全部好き」
「そっか。ならいいんだ。だけど私は、そういうのじゃないから」

 奏は今度はゆっくりと、だけど真っ直ぐに岸田くんを見上げた。

「海に溺れた私を助けてくれたこと、すごく感謝してる。だから好きになったってワケじゃなくて、前からもずっと、そう思ってたから」

 そう言った奏は、じっと彼を見上げていた。
そんな彼女に、岸田くんはゆっくりと言葉を選ぶように話す。

「お前の気持ちは……。その、うれしいけど。俺だって、お前のことは嫌いじゃない。どっちかっていうと、俺だってその……。だから、なんていうか……」

 岸田くんの目が、チラリと僕を気にして向けられた。
それからもう一度奏に向き合うと、意を決したようにすうっと息を整える。

「悪いけど、お前とは付き合えない。俺はいま、そういうことを考えてないから」
「大会が近いから?」
「それもある。だけど、それだけじゃない」
「私とは、付き合えないんだ」
「……。悪いな」
「そっか。ありがとう」

 それを言い終わった瞬間、奏は走り出した。
短いスカートの裾が、パッとひるがえる。
僕にはそんな彼女が、いま泣きながら走っているような気がした。
放ってはおけない。

「待って!」

 急いで追いかけようとした僕の腕を、同時に岸田くんが掴む。

「お前もちょっと待て!」
「何がだよ。放せ!」
「放さねぇよ。いいからちょっと聞け」

 どれだけ振り払おうとしても、押しのけようとしても、力ではどうしたって彼には敵わない。
奏を追いかけていきたいのに、僕はここから動けない。
「放せ! 僕は奏を追いかけなくちゃいけないんだ!」

 殴りたくはないけど、殴らずにはいられない。
彼女をそのままにしておくなんて、そんなことは出来ない。
思い切って振り上げた拳は、だけど簡単に押さえ込まれてしまった。

「なぁ宮野。お前、人魚だろ。俺は去年の冬、海岸で溺れた奏を浜に残して、脱げた靴を履かせてまた海に戻るのを見た」

 体の中で、ボコリと血の泡立つ音が聞こえた。
僕の体に残る人魚としての血だ。
心臓が止まる。
あの時彼女の足からポロリと外れた小さな殻みたいなものが、スニーカーという靴であることを、僕はもう知っている。

「お前が助けた後で、奏を助けたのが俺だ。お前がうちの学校に転校してきた時は、死ぬほどびっくりした」
「見てたの?」

 抵抗しようと腕を動かしても、がっちりと掴んだ岸田くんの手は僕を放してくれない。

「見てたよ。お前が凄い勢いで泳ぐから、水面がさーっと一直線に盛り上がって、それでなんだろって見てたら、勢いよく浜辺に飛び上がった。奏と一緒に」

 振り上げた拳から、力が抜ける。
もう立っているだけの力も残っていない。
僕はその場にガクリと膝を落とした。

「お願い。そのことは誰にも言わないで。じゃないと僕は……」
「だから、奏にまとわりついてんだろ?」
「なんで知ってるの!」
「有名な話しだろ。人魚っていえばさ。たいがいはみんな知ってるよ」

 どれだけ正体を隠しても、隠しきれるものじゃないって、海のみんなも言っていた。
本当のことって、嘘はつけないよって。

「他に、僕の正体を知ってる人は?」
「いずみが知ってる」

 いずみ? いずみか。
そういえばここに来た最初の頃、他の人に比べても、ちょっと僕に意地悪なような気がしてたんだ。
そうか。そういうことだったんだ。

「バカだな僕は。そんなことも知らずにいたんだ」

 岸田くんといずみが知ってるっていうのなら、僕にもう逃げ場はない。

「じゃあ、僕がどうしてここに来たかも知ってるの?」
「人間になりたいってやつ?」
「そう。そうだよ。じゃないと僕は、海の泡になって消えるんだ」

 海の泡になるのは怖くない。
いつだって彼らは僕らのそばにあったし、いつかはみんなそうなる。
暗い海に現れては浮かぶ透明な泡は、優しかった長老の魂で、美しい女王の欠片だ。
だけど僕が何よりも恐ろしいと思うのは、このまま自分が何にもなれずに終わってしまうこと。

「僕は、奏と一緒に生きていかなくちゃいけないんだ。勝手にそう決めたのは、僕だけど」
「俺にはよく分かんねぇけど……。まぁ、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
「頼みがある。このことを、彼女に知られたらいけないんだ。じゃないと僕は、もう絶対に人間にはなれない」

 岸田くんを見上げる。
僕の運命は、もう僕一人の力でどうにかなるものではなくなってしまった。

「まぁ、邪魔をする気はないけどさ。協力は出来ないぞ」
「だから奏は、さっき泣いたの? 奏は僕より、岸田くんの方が好きってこと?」
「知らねぇって!」

 もしかしたら彼は、そのために奏の『好き』を断ったんだろうか。
だとしたら、奏が泣いた原因は、僕にもある。

「分かったよ。もういい。黙っていてくれるだけで十分だ。ありがとう」

 震える膝を押さえ、何とか立ち上がる。
自分の体が、もう自分のものではなくなってしまったみたいだ。
たった一つの望みを叶えることが、こんなにも難しい。
自分だけの意志では、自由に動けない。

「俺がお前に協力っていうか、それを黙っててやるのは、別に脅しでもなんでもなくて、俺といずみが、お前に感謝してるからだ。特にいずみは……。あのまま奏にもしものことがあったらって思うと、今でも怖くて仕方がないって言ってる。俺だってそうだ」

 そんな僕に、岸田くんはとても優しい声で言った。

「なぁ、宮野。俺からも頼みがあるんだ」

 彼の茶色の目は、意地悪でもなんでもなく、とても綺麗に澄んだ目をしていた。

「奏以外のやつらにも、泳ぎを教えてくれないか。学校全体で、この夏を勝ちたい。だからその、お願いっていうか、なんていうか……」

 僕はすっかり日の落ちたプール前の広場で、背の高い彼を仰ぎ見る。
ここへ来たころにはよく見ていた外灯に、ようやく灯りがついた。
そんなこと、もう僕に選択肢は残されていないじゃないか。

「うん。いいよ。約束する。ちゃんとみんなに泳ぎ方を教えるよ」
「本当か! 助かるよ。ありがとう」

 岸田くんはすごく喜んでくれて、僕はそれににこりと微笑む。
彼と別れた日の沈む陸の街を、僕は使い慣れない足で歩き始めた。
 翌日、僕は岸田くんに呼ばれて、水泳部のみんなの前に立たされた。

「今日の練習から、宮野が全体のコーチをしてくれることになった」

 僕の突然の気の変わりように、全体がざわざわしている。
喜んでいるのが半分。
驚いているのが半分って感じ。

「聞きたいことがあったら、なんでも宮野に聞いてくれ。ヒマそうにしてる時に声かければ、それでいいってことになってるから」

 集まって聞いていた水泳部のみんなは、それにちょっと笑っていた。
その笑い方は、いつも教室で向けられる、僕への笑い方とは少し種類の違うような気がした。
僕はそれに嬉しいような悲しいような、少し複雑な気分になる。
ビート板に浮かんでいる時に色々話しかけられ、僕はそれに知っているような分かったような返事を返す。

「凄いじゃない。宮野くん、どうしたの?」

 奏は僕を見上げ、うれしそうにそう言った。

「あんなに嫌がってたのに。それでもやっぱり、いつかはみんなのためにやってくれるだろうとは思ってたけどね。もしかして、岸田くんの説得に負けた?」

「奏は、僕がこうすることはうれしい?」

「もちろんだよ。ちょっと見直した」
 ならよかった。
昨日あんなことがあって、奏はもう学校に来ないかもしれないし、岸田くんのことも嫌いになっちゃったのかもしれないと思っていたけど、奏も岸田くんも、いままでと変わらない感じで接している。
彼女のことが心配で、本当はずっとそばから離れたくないけど、もうそんなわけにはいかない。
岸田くんがやって来て、奏に言った。

「やっぱちゃんと話せば、分かってくれる奴なんだよ。な? コイツいい奴だよ。奏もそう思うだろ?」
「うん。私だってそう思ってたよ」

 岸田くんはずっと奏の前で僕のことを褒めちぎってくれてるけど、なんだか寂しそうに微笑んだ奏は、ぽちゃりと水中に沈んだ。
プールに張られたレーンを移動すると、壁を蹴る。
キラキラとした水しぶきを上げ、彼女は泳ぎだした。

「よかったな。奏に褒めてもらえて」
「そうなのかな。なんだかそんな風でもなかった気がするけど……」

 岸田くんは満足したように僕の肩をぽんと叩くと、自分も泳ぎ始めた。
奏が喜んでくれたのはもちろんうれしいけど、僕に残されたモヤモヤしたものが、自分でもなんだかよく分からない。
近づいてきたいずみは、黄色くて長い髪をサラリと耳にかけた。

「岸田くんから聞いたよ。なんで突然言うこと聞くようになったのか」

 そうだ。いずみも僕のことを知っている一人だった。

「私は応援するよ。奏と宮野くんのこと。もっと本気で頑張ってほしいから」
「本当に?」
「約束する」

 いずみとの約束。
僕はこれから先、どれくらいの人とどんな理由で、どんな約束を交わすのだろう。

「きっとみんなにも、奏にするみたいに優しくしてる方が、奏も宮野くんのこと、好きになってくれると思うよ」
「本当に?」
「本当。嘘は言わない」

 いずみは「うん」と力強くうなずく。
そんなこと、考えもつかなかった。

「だから、ちゃんといい人アピールしておいで」
「いい人アピール?」
「みんなに泳ぎ方を教えるってこと!」

 いずみに言われた通り、僕はみんなから聞かれたことに、色々ちゃんと真面目に答えることにした。
泳いで見せてって言われたら泳いだし、息継ぎのコツも体の使い方も教えた。
それだけじゃなくて、好きな教科とか苦手な先生、昨日食べたものとかにも、聞かれたことにはちゃんと返事をした。
イカとかワカメとか。

 そうやってしていても、奏の方から僕に話しかけてくれることは少なかったけど、それでもふとした合間に彼女と目が合うと、今までにない穏やかな笑みを浮かべてくれるようになった。
いずみの言うことは、嘘じゃなかった。
時々岸田くんの方を、寂しそうに見る彼女の目は変わらなかったけど。

 そんな日々が続き、雨が降ってプールに入れなかったある日、みんなを別の教室に集めた岸田くんが話し始めた。

「もうすぐ今年の予選会が始まります。それに向けてなんですが、今年は色々と変更を予定していて……」

 僕は岸田くんのアドバイスを受け、バタフライに出場することになっている。
他の部員たちと、出場種目を調整してくれたんだって。
一人でどれもこれも全部泳ぐってのは、出来ないかららしい。

「記録会だからって、気を抜くことのないようお願いします。この成績で、うちの学校のランクが決まることになるんで」

 このあたりの水泳部員がみんなで集まって、記録会というのをやるらしい。
公式の大会でちゃんと泳いだ記録を持っていないと、どれだけ速く泳いでも認められないんだって。
選手の登録は、期限ギリギリでいずみが済ませてくれていた。

「特に宮野!」

 突然、岸田くんは僕を名指しする。

「すぐに途中でフォームがくずれ過ぎる。お前の泳ぎは確かに速いが、それでは世間に認められない!」
「あーもう。それ何回も聞いた」

 両手で耳をふさぐ。
泳ぐスピードを競うのに、どうして自分の得意な、より速い泳ぎ方で泳いではいけないのか。
なんでそれを禁止されているのか理解できない。
水中で長く潜るのは禁止とか。

 頻繁に息継ぎをしなければならないという、人間特有の泳ぎ方で競うから、仕方ないのかな。
みんな一緒にーみたいな?

 僕の泳ぎ方だと、他の人間はとてもびっくりするらしい。
だから、知らない人には、あんまり見せられないんだって。
だから僕が出るのは、バタフライだけなんだって。
トビウオみたいにぴょんぴょん跳ねる泳ぎ方は、海にいた時も遊びでよくやってたし、慣れてるから別にいい。
他の泳ぎ方も出来ないわけじゃないけど、もっと早く泳げる方法があるのに、ワザとヘンな泳ぎ方で競争しなければならないのは、ちょっとしんどい。
僕にはどうしても、死にかけの魚みたいに感じる。
だけどここは人間の世界で、人間が人間同士で決めたことだから、そのルールに従わないといけないことは理解できる。
僕だってこれから、その人間になるワケだし。

「他のみんなも、それぞれの出場種目と、公式ルールの再確認をお願いします。あとはとにかく、練習だ!」

 おー!! という歓声が上がって、その日は筋トレ。
雨の日はいつもそんな感じ。
晴れて気温の高い日は、毎日プールに飛び込む。
人間流を覚えなくちゃいけないって言われたけど、結局自分の泳ぎやすいようにぐるぐる腕を回していたら「完璧だよ、宮野くん! やっとコツをつかめるようになったんだね」なんて、奏にほめられたりしたから、きっとそういうものなんだろうと思う。
この世界に生まれ出た瞬間から泳いでいた僕にとって、こんな狭いプーを真っ直ぐ往復するだけってのは、楽しいを通り超して狂気じみている。
奏が好きじゃなかったら、きっと好きじゃなかった。

「やっとフォームが固まってきたね。もともとドルフィンキックは得意だし、あとは腕のタイミングだけだったもんね。バタフライって苦手な人も多いから、メドレーリレーに宮野くんが入ってくれれば、心強いかも」

 いよいよ記録会とかいうものが近づいてきた日、真夏の太陽に照らされ、ギラギラ光る水面のプールで、奏は言った。
「凄く頑張ってるし、努力もしてる……よね。他のみんなだって、最近は宮野くんのこと見直したって、ちゃんと褒めてたよ。そんな風に思ってるのは、私だけじゃないから」

 奏から話しかけられたことが嬉しいのに、その言葉にももっと嬉しくなる。

「ありがとう。そう言ってもらえると、僕もうれしいよ。奏もずいぶん早くなったね」

 彼女はちょっとだけ、にこっと微笑むと、顔の半分を水に漬けぼこぼこさせながら言った。

「私が元気になれたのも、宮野くんのおかげだよ」

 その声は水の泡と一緒になって、すぐに消えてしまったけど、僕にはちゃんと聞き取れた。
泳ぎ去る彼女の水しぶきを見ながら、僕はなんだか頭がクラクラしている。
熱でもあるのかな。心臓だって、なんだかドキドキしている。

 僕はビート板に浮かんで、少し休むことにした。
真夏の太陽の下、小さなプールに沢山の水泳部員たちが泳いでいる。
この最近、ずっと奏以外にもアドバイスをしてきたおかげで、泳ぎの上手い人間とそうでない人間とは、ちゃんと分かるようになってきた。
飛び込み台からバシャリと飛び込む音がして、振り返る。
岸田くんだ。

 人間の泳ぎ方にあまり詳しくなかった僕でも、彼が上手なのはすぐに分かった。
泳ぐスピードの速さだけじゃない。
泳ぐための動作、その流暢で無駄のない体の動きが、彼個人の能力を明確に表している。
他の人とは全然違う。
僕も岸田くんみたいに泳げてるのかな。
彼のようになりたいと、ちょっとだけそんなことを思った。

 初めての記録会の日は、学校の授業はお休みの日で、朝から水泳部の人間だけが校門に集まっていた。
これからみんなで電車に乗ってバスに乗って、会場となっている大きなプールに行くんだって。
いつもと雰囲気が違うのは分かるけど、他のみんなもドキドキしてなんだか落ち着かない感じ。
会場施設敷地内に入ると、そこで別ルートから来た部員たちとも合流する。
照りつける太陽の下、タイルの張られた広場に、まとめて荷物を置いた。

「ロッカーが4つまでしか使えないから、出場者で順番に交代してね」

 いずみから渡されたプリントには、僕の名前のところにピンク色のマーカーで線が引かれていた。
奏のプリントには、奏の名前にピンクの線。
学校ごとにまとめて記載された出場メンバーの名前欄に、他の人たちに混ざって僕の名前があることは、本当にこのチームの一員になったような気がして、ちょっとうれしくなる。
僕はここで、ちゃんと人間として認められている。

 目の前にそびえる大きな建物の前には、長い金属の棒が立てられ旗が揺らめいていた。
とても大きな会場だ。
僕たちと同じようなチームが、いくつもこの周辺に集まっている。
そうか、この紅藻色のお揃いの服は、仲間を見分けるためのものだったんだ。
岸田くんもずいぶん背が高くてがっしりしているけど、それ以上に大きな人たちをそこかしこに見かける。
この人たちと、これから泳ぐ速さを競うのか。

 もう一度渡された紙に目を落とす。
僕が出るのは、バタフライの個人、100mと200mだ。

「観客席での待機場所が決まったから、出場者以外は移動を始めてください。最初は400の個人メドレー、次が100の背泳ぎと自由形だから、その出場者は、ロッカーへお願いします」

 いずみの言葉に、岸田くんと奏は大きなバッグを持ちあげた。
岸田くんは400の個人メドレーに出る。奏は100m自由形だ。

「あれ? 奏の自由形100の次が僕のバタフライ200だよ? もしかして奏は、僕の泳ぎ見られないんじゃない? ねぇ、それってどうなの? ちょっと順番変えてくださいって、大会の人にお願いしに……」

「俺が代わりに、しっかり見てやるよ!」

 岸田くんは僕の頭を上から押さえつけると、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。

「岸田くんに見てもらっても、全然うれしくないし!」
「はは。じゃあな、宮野。しっかり泳いで、衝撃のデビューを飾れよ」

 岸田くんは、大会最初の種目に出る。
残された僕たちは、2階の観客席に上がった。
見渡す限りの広大なプールだ。
白い壁と客席に囲まれ、真っ青なプールが中央にドカリと置かれている。
天井には小さな旗までぶら下げられていた。
あれは何って聞いたら、その旗を見て、背泳ぎの人が距離を知るんだって。
いつも泳いでいるコンクリートむき出しの、カビ臭い学校のプールとは全然違う。
大きさも倍はあるし、なにより室内プールだし、電光掲示板まである。

「もしかして、50mのプール?」
「そうだよ。だからターンの回数、間違えないでよね」

 奏にも出場予定が早くからあって、更衣室へ行ってしまっていたので、僕はいずみの隣に腰を下ろした。

「100だと1回、200だと3回ね。はい、宮野くんももう一回言って」

 いずみは僕に、ちゃんと念押しすることを忘れない。

「100だと1回、200だと3回です」
「はい。よく出来ました。じゃないと宮野くん、調子よくいつまでも泳いでそうだから!」
「最初が3回で、二回目は1回ね」

 ちゃんと覚えておこう。
じゃないと、また奏にも怒られちゃう。
すぐに大会開始の時間が来て、場内アナウンスが流れた。
とにかく大勢の人がひっきりなしにあちこちで出入りしている。
動画でしか見たことのない審査員も用意されていた。
その人たちも揃って同じ服を着ていて、僕にもすぐに審査員だと分かる。
隣の観客席に座っている学校のグループは、僕のいる学校より随分人数が多い。

「記録会って、凄いんだね。こんなにちゃんとした大会だなんて、思わなかったよ」

 初めての大会にキョロキョロしていた僕に、いずみは言った。

「しっかり選手の動きを見てて。笛の合図でどう動くのか。スタートで失敗して、失格になる人が多いの。宮野くんも気をつけて」
 そうこうしているうちに、女子の400mメドレーが終わった。
次が男子の400m個人メドレーだ。
この学校では、岸田くんが最初の出番になる。
じっと見ていると、プール脇の通路から、彼がゆっくりと歩いて出てきた。
事前にいずみから渡された紙にかかれた通りの、決められたレーンに入る。
4番のところだ。
選手が出そろったところで、長いホイッスルが鳴る。
飛び込み台の上に上がった。

「スタートの横にいる人を、よく見ててね」

 いつもその役は、いずみか別の部員がやっている役。
よく分からない言葉が、突然出てくるやつだ。
その審判長とかいう人が、水平に片手をあげた。
笛がなったら、スタートの合図。

「ピッ!」

 その合図と同時に、選手は一斉に飛び込んだ。
この広い会場中に響き渡るような笛の音だ。
横一列に水しぶきが上がったと思った瞬間、深く潜り込んだ体はぐんぐん進んでゆく。
最初はバタフライ。
岸田くんの泳ぎは綺麗だと前から思っていたけれど、やっぱり他の人間と比べてみても、とても綺麗だった。

「岸田くん、速いね」
「うちのエースだもん」

 いずみはうれしそうに笑う。
くるりとターンして、もう一度バタフライ。
岸田くんのスピードは落ちない。
次のターンのところで、2位の選手が迫ってきた。

「あぁ! 岸田くん、頑張れ!」

 こんな遠くからじゃ、絶対に彼に届いてないことは分かっている。
だけど声に出さずにはいられない。

「がんばれー!」

 ターンと同時に、背泳ぎに変わる。
よくもまぁこんなに、色んな泳ぎ方ができるもんだ。
しかも好きなように泳いでるんじゃない。
手の回し方とか、色々と面倒くさい決まりが細かくあるってのに。
岸田くんが追いつかれた。
2位と3位の選手に並ぶ。

「追いつかれちゃったよ!」
「大丈夫、次の平泳ぎとクロールで、取り返すから」

 くるっとターン。ほぼ3人が横並びになった。
それでもわずかに、岸田くんがリードしている。

「あぁ、がんばれ……」

 これはこれで、見ている方はとても落ち着いていられない。
握りしめた手が、じんわりと汗をかく。
背泳ぎから平泳ぎに変わった。
ターンからの伸びで、岸田くんが他より半身ほど先に出た。

「ね、ターンがどれだけ大事か、よく分かったでしょ」
「分かった分かった。もっと真面目に、ちゃんとするようにするよ」

 岸田くんが他のどの部員より、練習していたのを知っている。
そうか。
だからみんな、今日のために筋トレしたり練習したりしてたんだ。
のんびりビート板に浮かんでる場合じゃなかった。
400mメドレーは一番きつい種目だから、あんまり泳ぐ人がいないって。
だから、勝てる可能性も高くなるって。
岸田くんはそう言って、短い距離を他の部員に譲り、自分が一番しんどい種目に出ている。

 次のターン。
平泳ぎに変わってから、背泳ぎの時より少し余裕が出来たとはいえ、すぐに抜かされてしまいそうな距離だ。
自分が泳いでいるわけでもないのに、なんとも言えない苛立ちと焦りが押し寄せる。

 岸田くんに疲れが出てきたのか、平泳ぎ最後のターンで、また3人が並んだ。
水面に浮かび上がった時点で、ほとんど差はない。
岸田くんの腕が水面に肘から上がって、真っ直ぐ前に伸びる。
そのターンでのひとかきが、彼の始まりの合図のようだった。
自由形といわれるクロールに泳ぎが切り替わったとたん、彼はあっという間に他の人間を後ろにおいていく。

「やった! 岸田くんが抜いてったよ!」

 興奮してしまった僕がつい叫ぶと、周りにいた部員たちは笑った。

「はは。宮野がそんなに、岸田のこと応援してくれるようになるとは思わなかったよ」
「俺たちの時も、それくらい応援してね」
「えっ? う、うん……。もちろん応援するよ」

 そんなことを言われて、逆になんだか急に恥ずかしくなって、自分の顔が赤くなっているのが分かる。
思いがけない言葉に驚いている僕の隣で、いずみは無邪気に笑った。
岸田くんはそのまま逃げ切り、無事1位でゴールを決める。
僕は思わず立ち上がった。

「おめでとう! 岸田く~ん。やったー!」

 大きな声で、岸田くんに向かって叫ぶ。
拍手をして両手をぶんぶん振っていたら、岸田くんはちらりとこっちを見ただけで、特に反応を返してくれない。

「あれ? 聞こえてないのかな」

 そう思って、また彼に向かって叫ぶと、いずみに笑いながら止められた。

「きっと後で、岸田くんに怒られるよ」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめろって」

 なんだそれ。
応援されるのが恥ずかしいだなんて、なんだか変わってる。
なんだよ。
人間ってのは、みんな照れ屋さんなんだな。
僕は仕方なくそこに腰を下ろす。
次は一番大事な奏の番だ。
ここまでにいくつかレースを見ていて思った。
僕はくるりと座席に座ったままプールに背を向けると、背もたれに向かってうずくまる。

「あれ、どうした。次は奏だよ。奏は応援しないの?」
「奏のは見ない」
「どうして?」

 ちらりと指の隙間からのぞいたいずみは、もの凄くびっくりした顔をしている。

「そんなの当たり前だよ。奏は何番でも頑張って泳いだし、何をしてたって僕には1番だから」
「あっそ!」

 奏はそこにいるだけでいいの。
怪我とか溺れたりなんかしないで、ちゃんと無事に……。

「違う。そうだ。何かあったら、僕が助けに行かなくちゃ」

 やっぱりちゃんと見よう。
ここからだって、遠いけどきっと1階に飛び降りれないわけじゃないし。
人魚仲間で、こういう競争を遊びでしたことはもちろんあったけど、こんなにドキドキするのは、初めてだ。
奏に自分の泳ぎはどうだったって聞かれても、ちゃんと答えられないし……。
100m背泳ぎの、女子と男子が終わって、次が奏の100m自由形だ。

「あ、ダメだ。なんか緊張してきた」

 もし奏が1番じゃなかったらどうしよう。
それで悔しくて、泣いちゃったりしたらどうしよう。
奏がもし途中で失格なんかになったら……。
 その彼女がプールサイドに現れた。
いつもの奏が、100倍かっこよく輝いて見える。
スラリと伸びた手足と、キュッとしまった体。
奏はいつ見ても綺麗だ。
その奏が、もしも傷ついたりなんかしたら……。
岸田くんが観客席に戻ってきた。

「宮野、お前なにやってんの?」

 僕は顔を両手で覆って、指の隙間から奏を見ている。
緊張で返事の出来ない僕の代わりに、いずみが答えた。

「奏のを見てたら、心臓が止まりそうになるんだって」
「あっそ」

 今の僕は、緊張で怖くてそれどころじゃない。
だけど彼女の勇姿もちゃんと見て起きたい。
奏がスタート台に立つ。
我慢出来ずに、僕はぎゅっと目を閉じた。

「ピッ!」
 スタートの合図が鳴って、静かだった会場が一気ににぎやかになる。
100mは距離が短いから、勝負もあっという間だ。
5レーンを泳ぐ奏は、なんとか先頭を泳ぐ隣のレーンの選手にくらいついている。
50mのターン。
奏は少し、距離を開けられた。

「あぁ、もうダメ!」

 目を閉じる。
僕は賑やかな会場の声や水音を聞きながら、ゆっくり数を数える。
奏の平均タイムは覚えている。
それくらいにはきっと、僕に与えられたこの試練も終わる。
1、2、3、4、……18、19、20、……。
会場から拍手がわき起こった。
勝負がついたらしい。
電光掲示板を見ると、奏は2位だった。
ちゃんと彼女が泳ぎ切れたことが、それだけで素晴らしい。

「もう奏が優勝でいい……」
「アホか」

 岸田くんが怒った。

「奏は200がメインなんだよ。150からの追い込みが持ち味なんだから、この順位は、これはこれでいいの」
「なにそれ、意味分かんない」
「だからもうちょっと勉強しろって、いつも言ってんだろ」

 僕の知らない奏を知っている岸田くんに、ちょっとムッとする。
そんなこと、聞いてたかもしれないけど覚えてない。
短水路の自由形は選手層が特に厚くて、泳ぐ人数が多い分、なかなか終わらない。
奏が観客席に戻ってきた。

「あれ? 奏、僕のバタフライ、もしかして見られるの?」
「そうだよ」

 男子の100m自由形は、女子よりもさらに人数が多かった。
奏はその様子を見ながら、少し早めの昼食をとる。

「食べられる時に、お昼食べとかないとね」

 彼女はここへ来る前にコンビニで買ったおにぎりをほおばる。

「予定表に次の開始時間が書いてあるでしょ。自分で時間見て、動かないとダメだよ。宮野くんは、200のバタフライが終わってから、お昼ご飯だね」

 水着の上から羽織ったジャージと濡れた髪。
今ここで彼女を抱きしめられたら、どれだけいいだろう。

「おにぎり美味しい?」
「うん。美味しいよ」

 代わりに僕は、彼女の額にかかる前髪をかき分ける。

「宮野くんは、おにぎり好き?」
「好き」

 彼女は海苔にくるまれたお米の塊を、むしゃむしゃとほおばる。

「ね、宮野くんも緊張とかしてるの?」
「僕が? ううん。してないよ」
「あっそ。ま、いいけどね」

 奏はもう一度、僕にスタートの説明を始めた。
何度も何度も、入れ替わり立ち替わり色々な人間からさんざん聞かされた同じ話を、僕は初めて聞くような顔をして彼女から聞いている。

「ね、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん。ちゃんと聞いてるよ」

 どんなことであっても、彼女が僕に話してくれることなら、うれしい。
にこりと微笑んで見せたら、奏は小さく息を吐き出した。

「ま、いいけどね」

 そんな僕たちの間に、岸田くんが割って入ってくる。

「ほら宮野。のんびりしている暇はないぞ。そろそろ準備に行ってこい。ロッカーの位置くらい、分かってるんだろうな」
「分かってるって」

 せっかく今日は一日、自由に彼女のそばにいられる日なのに、なんてもったいない。
僕はやれやれと立ち上がる。

「3回ターンのやつでしょ。知ってるよ」

 泳ぎに行かないといけないのは分かるけど、奏の隣に岸田くんが座ったのが、なぜか気に入らない。
さっさと泳いで戻ってきて、すぐにどいてもらおう。

 着替えの荷物だけを持ってロッカーに入る。
このぴちぴちした水着にも、すっかり慣れた。
僕の足も、随分太くたくましくなったもんだ。
人間の泳ぎ方での筋肉がついてきている。
時間が来て、プールサイドへ向かった。
準備運動の代わりに、軽く体をほぐす。
この手も足も体も、全部自分のものだということを、もう一度確認していく。
係員に名前を呼ばれ、「はい」と返事をした。
僕はすっかり人間の仲間入りを果たしている。
誘導されたのは、プール一番端っこの0番レーン。
公式記録のない人は、泳ぐ場所もあらかじめ決められている。

 人間は、このバタフライという泳ぎ方が苦手な人が多いらしく、距離も長いので出場者も少ない。
いっぺんに泳ぐのは一組だけで、全部でちょうど10人だった。
プールサイドに集まった出場者に向かって、長い笛が鳴る。
奏たちのいるところはどこかな。
ここからだとちょっと分かりにくい。
プールの一番端っこのレーンだから、僕のすぐ横に、合図を出す役目の人間がいた。
片腕が水平に上がる。

「take your marks」

 僕は台の上に上り、背中を丸めた。
奏と岸田くんから、スタートの合図を聞いてから飛び込んだんでいいと言われている。
僕は上手くやれるよ。
ちゃんと見ててね、奏。

「ピッ!」

 もう十分聞き慣れたはずの音なのに、大きすぎるその音にビクリとする。
僕以外の全員が、水に飛び込んだ。
それを見届けてから、僕も飛び込む。
学校のプールとは、やっぱり雰囲気が違うよな。
0レーンの1番端っこを泳いでいるから、学校とは違う真っ白できれいな壁が気になって、壁ばかりを見て泳いだ。
水底の床の色が変わって、ターンをする。
ターンの動作は正確に。
水深もこっちの方がちゃんと深い。
たしか今回は、3回ターンのやつだ。
この色つきの床のところでターンして、ちゃんと壁にタッチすることを忘れないこと。
 奏に散々言われたから、もちろん言われた通りにしてるけど、絶対にこんな風に両腕をぐるぐる回しながらジャンプして泳がない方が、速いのにな。
そんなことを考えながらも、2度目のターン。
潜ったまま泳いでいいのは15mまでと決められているから、最初の蹴りからすぐに水面に浮き上がらなければならない。

 泳ぐこと一つにも色々と面倒くさい。
最後のターンが終わって、スタートラインに戻った。
ちゃんと壁にタッチしてから、立ち上がること。
ふぅ。ちゃんと出来たよ、奏。

 泳ぎ終わった僕の耳に、場内の大歓声が響いた。
振り返ると、まだ他の人間は泳いでいる。
だけどまぁ、端っこだからよかった。
すぐにプールから出られるし。
急いで奏のところに帰らなければ。
どんな時だって出来るだけ長く、彼女と一緒にいたい。

「すごいな、君!」

 更衣室に戻る途中、知らないおじさんにいきなり声をかけられた。
白い服を着ていたから、きっと審判の人だけど、とにかく早く観客席に戻りたい方が強かった。
ペコリと頭を下げただけで許されるのは、ちょっと便利。
体を拭いて、ロッカールームを出る。
交代で入る次の部員が、なんだかニコニコで片手をあげ、「ハイタッチ!」って言ってきたから、同じように片手を上げたら、その手をパチンと叩かれた。
ちょっと痛い。
いずみから言われた通り、ロッカーの鍵を渡しただけなのに、なぜか抱きつかれたりして、またちょっとびっくり。
観客席に戻ると、今度はいきなり岸田くんが抱きついて来た。

「やっぱお前、凄いよ!」

 いずみが泣いている。奏の目も赤い。
僕のところに、今までずっと今回僕の泳いだバタフライの200を泳いでいたという男の方の人間が来て、僕に言った。

「ゴメンな、宮野。やっぱお前がうちに来てくれて、よかったよ」

 ぎゅっと握手をして、肩に腕を回されたので、よく分からないけど同じように返しておく。
周りの人間はみんな喜んでいるようで、温かな拍手が起こった。
僕と同じ学校ではない、観客席の周りにいる他の知らない人間まで、こっちに向かって手を叩いていた。

「次も期待してるぞ」

 岸田くんが本当に嬉しそうに、ぽんと僕の肩に手を置いた。
電光掲示板に出た記録に、場内がどよめく。
1分55秒09。
高校生男子の、日本記録に迫る勢いだ。

「おめでとう」

 奏にそう言われて、僕はようやく、ほっと安心できる。

「ね、大丈夫だった? どっか失敗したり、間違えたりしてなかった?」
「バッチリ問題なし。大変よく出来ました」

 奏の声が震えている。
彼女の手が右の目をこすった。
やっぱり泣いたんだ。
なんだかそれが、彼女に悪いことをしたようで、僕は彼女に謝りたくて、そう思って両腕を前に差し出したのに、彼女は僕の胸に自然と体を寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。

「ねぇ、なんで泣いてるの? 僕は奏を泣かせるために泳いだんじゃないよ」
「はは。これはうれしくて泣いてるんだから、大丈夫だよ」

 奏がそう言った直後、別の男子部員が僕の上に抱きついてきて、また別の女子部員も抱きついて来て、岸田くんやいずみまで一緒になってくるから、密集したイソギンチャクみたいになってしまった。
ぎゅうぎゅうすぎて、重いし暑い。

「ほら。宮野くんは次もあるんだから、今のうちに食事をとっておいて」

 いずみに言われて、ようやくみんなは離れる。
こんなに色んな人間に、いっぺんに触られるのも初めてだ。
岸田くんはそのまま残って、なんだかごちゃごちゃ色んなことを、僕に話しかけてくる。

「いいか、食べながらよく聞け。次の100は、お前のさっきの200の泳ぎで、完全にマークされてるはずだ。絶対にスタートで飛び出すなよ。ターンとタッチは……」

 ここに来る前にみんなで寄ったコンビニで、奏の選んでくれたおにぎりを食べている。
その横で岸田くんがいつも以上に熱く語っているけど、僕たちが速く泳ぐのは、乱暴なシャチやサメから逃げるためだったり、ハマチやカツオの群を追いかけるためだったりする。
ただ泳いでスピードを競うための話しじゃない。
もちろんそういうことだって、全然しないワケじゃないけど、岩や潮の流れもない真四角でのっぺりとした箱の中を泳いでも、あんまり楽しくはない。
僕はそういう、ただ何かをやり続けるということには、もう飽き飽きしている。

「だから、ここは……って。おい、宮野。ちゃんと聞いてるか?」

 僕は食べ終わったおにぎりを包んでいたビニール袋を、ぐしゃぐしゃと丸めながら一息つく。

「次も一番で泳ぐよ」
「お、おう」

 おにぎりは美味しいけど、あんまり好きじゃない。
さけやいくらのおにぎりは好き。
岸田くんはまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、結局そのまま、何も言わずに立ち去っていった。
申し訳ないけど、僕はプールで泳ぐために海から上がったんじゃない。

「奏は?」
「次の個人メドレーのために、更衣室へ行ったよ」
「そっか」

 彼女と一緒にいられるのなら、どこへだって行くし、何だってする。
それだけのこと。

 次の競技に出場する奏が、プールサイドへ出てきた。
個人メドレーの2組目、5番レーンだ。
彼女はどんな気持ちで、あそこに立っているんだろう。
その思いを少しでも知りたくて、そのためだけに僕はここにいる。

 合図があって、彼女は台に上がった。
その美しい体を曲げる。
スタートと共にしぶきをあげ、水に飛び込んだ。
彼女の望みなら、なんだって叶えてあげるのに。
そうしたらきっと、僕の本当の望みを、彼女は叶えてくれる。
その唯一の人に、僕は彼女を選んだ。

 奏はぐんぐん調子よく泳いで、また2位でゴールした。
記録は少し伸びたみたいだけど、タイムは2分46秒28。
悪くはないけど、よいとも言い難い結果だ。
だけどそんなことは、僕にはどうだっていいんだ。

「お帰り」

 泳ぎ終わって2階席に戻って来た彼女に、声をかける。

「ただいま」
「奏、凄く上手に泳げてたよ」
「はは。ありがとう。宮野くん、次の100に行かなくていいの?」