いつもより一時間早く目が覚めてしまったのは、今日を含み二日目だ。もちろん、受験の合否が気になるからという理由だけじゃないんだよなと心を鎭ませる。そう、あの子だ。きっとというか絶対的というか、一目見ただけで完全に吸い込まれた圧倒的美に僕は一瞬にしてノックアウトだった。多分というか、誰が見てもあの笑顔を可愛いと思わない人はいないと思う。だって、可愛いんだ。目が離せないくらい。思わず顔が緩んでしまう頬にバシッと気合いを入れる。もしかしたら、いるかなと密かに淡い想いを募らせる。
 友達であろう長髪の女性に戯れて甘えている、憧れの素敵な人を見つけた。やっと、見つけた。ずっと会いたかった!という気持ちに急いで蓋をして、遠目からそっと二人が仲良く話しているのを見守る。いいな、僕も早くあの素敵な人と話してみたいな。どんな声で話すのかな。すきなキャラクターなんだろ。クロミちゃんとか好きそうだな。わからない気持ちがもどかしい。
 無事に自分の名前が表示されているのを三度目視して、噛み締めながら帰路に着いた。
 「どんな名前なんだろう」
 気づけば、今日食べた夜ご飯のシチューに何が入っていたのか思い出せなくなるほどに、恋煩いをしていた。
 「もう!ちゃんと話聞いてるの?」
 口うるさい母の話はほどほどに耳を貸しているふりをして自室に籠った。


 
 そうか、あの人も僕と同じ高校に入学したのか。同じクラスだったりするのだろうか、そしたら毎日、あのくしゃっと優しい笑顔を眺めることができるのか。もし、クラスが違ったら、どうやって声をかけようか思案を巡らせながら、深い眠りに落ちた。

 用意周到。この言葉を知ったのは、いつ頃だっただろうか。あまり、国語は得意な方ではないが、四字熟語って昔の人たちが痛い目にあって、その学びを言葉にして後世に引き継いでくれていると国語の先生が言っていたような気がする。もし、上手くいかない方法を先に知っていたら、要らぬ苦労をせずに済むのかと思うと、言葉って想像以上にすごいものだよなとペダルを漕ぎながら感激していた。
「よーす!」
 ビュンと僕の右隣を風が切る音がした。
「おはよ!朝飯何食べてきた?」
 僕らのお決まりの挨拶といえば、さっき何食べた?から始まる。そうだ、僕らは食べ物に目がないんだった。暇さえされば、片手に文庫本を忍ばせ、軟骨やら耳たぶやら、キラキラしたものをはめ込ませている彼とは、切っても切れない糸で結ばれているかのような関係が続いている。僕は第一、本なんて読まない。読むといっても、妹に絵本の読みかせをするくらいで。自分から読んでみようと心を動かされる瞬間は残念ながらまだ、ない。文字だけだとうっと頭を殴られたような感覚になるからだ。いつか、そうならない日が来ればいいなと思った。

「チャイム鳴ったぞー。席つけー」
 これから一年間僕らの担任をするであろう先生の声は、やる気に満ち溢れているというよりも、あぁ、また新学期か、のような気だるさを感じた。多分、年齢は姉と近しい気がする。教師歴7、8年はしているであろう風格だ。新担任の人間観察をしていると、突然、大きな声を荒げたので慌てた。
「おい、槙原。本しまえ。」
 宏太。決まって、本という単語が出てくると、槙原もセットでついてくる。これまでも、そして、これからもそうなんだろうなと予感した。
「すみません。本の世界から帰ってきました。」
 見た目よりもずっと彼は素直なので、強面の教師から愛されるだろう。やんちゃなのにな、と顔を崩しながら。

部活がない日によく一緒に自転車を走らせる帰路は、いつになく心細く感じた。
彼が夢中になって新刊を買いに行った書店先は、行き道と真逆方向で駅前にある。焼きたてふわふわのミニ食パンが彼の好物で、書店に立ち寄った際はいつも5個ほど大量買いしている。たまにお裾分け、と言って届けてくれるミニ食パンを実はこっそり楽しみにしているが、僕の返した物で彼も喜んでくれているのか気になっている。「図書委員の鏡だから俺」と決まり文句のように言ってみせる宏太が、鞄に忍ばせている小説はどれもカバーデザインが色彩豊かで目ばしばしばする。そんな僕に気づいて、いつも「お前も本読めよな〜そしたら楽しいじゃん!」と、くしゃっと笑ってみせる宏太は、今日も一人で晩御飯を食べているのだろうか。気づけば、温めたはずのスープはもうひんやり冷めてしまっていた。