「傷つかない恋愛なんてない」
とあるエッセイで見つけたその一文は、私の心を何度も突き刺し続けるような痛みと、これでいいのだと若干諦観にも似たような絶望をくれた。
この気持ちに彩りをつけるとしたら、私はどの色をこの心に重ねるだろうか。
そして、この心になんと名前をつけるだろうか。
好きだとか、愛だとか、もう私には分からなくなって、そんな言葉では言い表せないようなカタチにならないような想いに鍵をそっとかけた。
それでも心は今日も静かに悲鳴を上げて、中からこじ開けようとしている。
それもきっと、目の前にいる彼女がこんなにも幸せそうに笑うからだ。
彼女を笑顔にするために出逢ったんだというのなら、もう私は幸せの色を知っているのかもしれない。
「桜は散る時が最も美しい」と誰かが言っていた。
その誰かは誰のことだったのかもう完全に忘れてしまって、ただその言葉だけは今も脳裏にこびりついていて離れない。
受験シーズンをどうしてこんな極寒に設定したものか疑問が絶えない。
こんな偉そうな事を内心でごちるが、それを言葉という出力で表現するのにハードルを感じてしまう。
この半年間という短くそれでいて長くも感じられる時間軸に、半強制的に、机と因数分解と向き合った成果を発揮する時間が近づこうとしている。
「詩織ちゃんって真面目だよね。でも、なんかいつも抜けてる」
仲良くしてくれる子はなぜか異口同音にそう言うが、今日という日に限って、まさかそれをこういう形で現実化されるとは我ながらに言葉を失った。
この日を迎える前日から、スマホのメモに頼りながらも用意していたはずの2Bの鉛筆の在処を今、血眼になって探している。
そうこうしているうちに試験開始時間が10分前を切った。
泣く泣く使う予定のなかったシャープペンシルを鷲掴み、震える手をまるでなかったことのように素早く振ってみるが、出るはずである芯は微塵も姿を現さない。
どうしてだ、どうして今なんだ。
そんな事で脳内が9割を占めてしまい、キャップを押す力すら上手くコントロールできていない。
ああ、だからシャーペンは嫌いなんだ。
どうしてもう一度確認しなかったんだ。
自分の記憶なんて当てにならないのを承知でメモ機能を使い倒しているのに、いつも肝心な部分が抜け落ちている。
客観的に見ても、かなり焦っているであろう自分を感じた。
一瞬時が止まったかのように、目の前に現れたのは、私が喉から手が出るほどのあれだった。
あれほど慌てていた脳内の信号も信じられないほどに落ち着きを取り戻し、正常モードに切り替わるのがわかった。
そっと微笑み、どこか懐かしさを憶える同い歳であろう天使みたいな人が、なぜか私の前に立っている。
そして、目が合った3秒間、彼女が首を縦に一度振ったその仕草に心が共鳴したかのようなそんな感覚に包まれた。
どうしてだろう。
一言も言葉をまだ交わしたこともないのに。
どんな声をしているのかも知らないのに。
強烈に私の心を揺り動かした。
「それでは時間です。試験を始めます。」
静寂に包まれた異空間にこれまでの葛藤をこの白い用紙にぶつけた。
選択問題、記述式、どの問題を見ても、これまで解き続けた過去問題集と差して変わらないことに安堵しつつ、名前の知らない彼女が届けてくれた鉛筆を握る手に力がこもる。
どうしてこんなに落ち着いているのかはきっと後者だからだ。
多分ではなく圧倒的に。
疑う余地など1mmもない。
彼女は私の救世主だ。
予定していた時間よりも早く記入欄は埋まり、力を込めすぎたせいであろう太く短くなった鉛筆の芯を眺めていたら試験時間終了の合図が耳に入った。
帰る準備を手際よく済ませ、猛烈に会いたい人が座っているであろう座席に目を走らせた。
最後列から2番目の席に彼女はいた。
どんな言葉を言おうかと思惑しようとする前よりも先に言葉が出た。
「さっきは大変助かりました!!…ありがとうございました。」
彼女に届いた第一声は想像以上に裏返り、力強く聞こえただろう。
若干の間を置いてから、言葉よりも先に彼女は首を縦に二度頷いてみせた。
「役に立てたのなら嬉しい。…春から一緒の学校に通うんだね。私達。」
目が合うと優しく微笑み、言葉を出す前は決まって首を一度傾ける彼女の苗字は、
冨上といった。
口数は決まって少なく、口を開いたかと思えばくれる言葉のベクトルは、どれも決まっていつも私自身に向けられていた。
「詩織、小説好きなんだね。その本面白い?」
寵愛している作家さんの新作に読み耽っていたところに声をかけられ、想定外の事態に若干声が上擦った。
「え…うん!…面白いよ。F先生の小説。」
読みかけのページにそっと栞を挟み、表紙を右手の人差し指でなぞって見せる。
「真夜中乙女戦争…?」
「そう、真夜中乙女戦争。」
真剣な表情でかつ緊急な会議をまるで今開いているかのような声色を出してみる。
「どんな任務なんですか?隊長。」
なんか私達、秘密の捜査員みたいだね、と声を潜める彼女の横顔に見惚れていることを隠すのに必死で、次の言葉を探すのを忘れていた。
気を取り直して、捜査員っぽく低音を意識しつつ言葉を放った。
「…さて菜々くん。実は、理科室に第二の爆弾を用意しているんだ。」
「…ちょっと。真面目な詩織さんのお口から聞こえてはいけない言葉が聞こえてきましたよ〜?」
私には聞こえませんみたいなポーズを取って、おどけてみせるのも、気づけば日常と化していた。
春。
約束などされていない受験合格者記載欄に、「嘉神 詩織」の四文字を見つけたとき、心がスキップ、ジャンプして、ガッツポーズをしていた。
家から自転車を飛ばし、十分で着くという通学時間に魅力を覚え、第一志望から第三志望まで通う高校はここしかないと目星をつけていた。
それが叶ったという事実と優越感を重ね、しばし浸っていると、後ろからトントンと肩を二回叩かれた。
「あの…久しぶり!やっぱり!私達、一緒だね!」
もしかしたらという淡い期待がこんなにも簡単に叶ってしまったという高揚感に蓋をしつつ、笑顔を作った。
「あの時は本当に助かりました!会えたらいいなって思ってて…」
言葉に詰まっていると、目を細め、彼女が私の手を握った。
「私も…だよ?」
「…?」
「ずっと話してみたくてね。今日会えるの楽しみにしてたの!」
私達が受験に落ちることをまるで疑わない真っ直ぐな物言いに後ろ髪を引かれつつも、存在を肯定してくれる温かな言葉に身を寄せた。
「そんな嬉しい言葉かけてくれるの、照れちゃうね…」
「…顔赤くなってる…?かわいいな〜」
戯れてくるとは思ってもみなかったので、彼女の肩が私に触れた瞬間、上手く体を支えきれずよろけてしまった。
「ごめんごめん、私、ゴリラだから、力加減下手っぴだね!」
申し訳なさそうに顔を顰めつつ、すぐさまフォローを入れる彼女はそんな人で、そんな人みたいだ。
「痛いところない?」
彼女の綺麗な眉毛が悲しそうに下を向いた。
「大丈夫だよ!まさかアタックを喰らうとは思ってもみなかったから!」
「えー!これアタックにカウントされちゃうんだ〜」
やれやれといった様子で手をひらひらさせる。
「あ、そういえばさ!クラスってA ? B ?」
「私はAクラスだよ!」
「やった‼︎君の女神様、冨上菜々も同じクラスであります!」
「女神って大げさ…。ふふ、嬉しい‼︎私、嘉神詩織‼︎よろしくね‼︎」
願ったり叶ったりで、これから先の運を使い果たしてしまったのではないかと内心焦りの音が聞こえてきそうだったが、何よりも喜びの音色の方が優ったのでよしとしよう。
早く到着しすぎたか〜と用意周到すぎる自分を笑い飛ばしながら、試験会場に早々と席に着く。
別に自転車をかっ飛ばして行かなければ指定された時間に間に合わない訳でもないはずなのだが、いつもの癖がこうも抜けないとなると、癖って怖いな。
朝TwitterのTLに流れ出た、とあるインフルエンサーのツイートに「習慣化は長期視点で!」とか書いていたけど、本当にそうなのかもしれないなーなんて。
とにかく、今日はなんとしてでも、合格ライン以上の点数をしっかり取らないとなっと静かに心の中で一人エールを送った。
指定された席は最後列だった。
ラッキーすぎる‼︎もう受かったも同然と高ぶる気持ちにブレーキをかけつつ、深呼吸する。
自分でもよくわかっていないのだが、最前列に座ると落ち着かず、逃げ出したくなる衝動に駆られるからだ。
それに後ろを振り返ると、人がたくさん視界に映り込んできてパニックになりそうになる。
正直、あまり人混みは得意な方ではないのだ。
そう言いつつも、サッカー部に所属している身分だ。
サッカーに罪はない。
サッカーは好きだ。
サッカーだから好きだ。
思えば、生きた年数と恋人さんがいない歴はイコールで、友達はみんな誰かと付き合っているのが疎ましくもある。
あぁ、僕にも「この人と付き合いたい!!」と叫んでしまいたくなるほどの素敵な人と果たして出会えるのだろうか。
昨日だったか、アルコールに酔い潰された姉が「運命なんてないのよ。…目の前にいるこの人を運命にしたいって思えたのかよ」と何やらすごいパワーワードを放っていたが、イマイチ、ピンとこない。
そんな風に心が叫びたくなるような何かが起きるんだろう。
だとしても、やはり、経験者の口から出た言葉でも理解し難い感覚だ。
逡巡していると、気づけば、試験会場も受験者で賑やかになっており、同じ学校の学生だろう人たちが談笑している。
いやいや、すごい余裕だな。
これから試験だぞと思わず横から茶々を入れてしまいたくなるほど、その子たちは余裕そうだった。
頭いいんだろうな、なんて羨ましくもなった。
目を閉じて、試験時間が始まるのを迎えていたら、一瞬、柔軟剤の華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
ハッとして、勢いよく目を開けると、花が咲いたかのような優しい微笑みを浮かべている女性が僕の目の前の席に腰を下ろした。
誰だこれ、なんだこれ、絶対その笑顔は僕に向けられたものではないとわかってはいるのに、胸の高鳴りが収まらない。
静かにしろよ、これから試験なんだぞ、と言ってきかせるが落ち着くばかりか、むしろヒートアップしているような気がする。
そうだ、困った。
今、すごく困っている。
「タイム!」と叫んで、試験時間を延長できたらいいのにと叶うはずのない願い事を考えている自分がいた。
さすがに待ったなんてものはなく、心を落ち着かせれないまま、試験開始時刻を迎えた。
いつもより一時間早く目が覚めてしまったのは、今日を含み二日目だ。
もちろん、受験の合否が気になるからという理由だけじゃないんだよなと心を鎭ませる。
そう、あの子だ。
きっとというか絶対的というか、一目見ただけで完全に吸い込まれた圧倒的美に僕は一瞬にしてノックアウトだった。
多分というか、誰が見てもあの笑顔を可愛いと思わない人はいないと思う。
だって、可愛いんだ。
目が離せないくらい。
思わず顔が緩んでしまう頬にバシッと気合いを入れる。
もしかしたら、いるかなと密かに淡い想いを募らせる。
友達であろう長髪の女性に戯れて甘えている、憧れの素敵な人を見つけた。
やっと、見つけた。
ずっと会いたかった!という気持ちに急いで蓋をして、遠目からそっと二人が仲良く話しているのを見守る。
いいな、僕も早くあの素敵な人と話してみたいな。
どんな声で話すのかな。
すきなキャラクターなんだろ。
クロミちゃんとか好きそうだな。
わからない気持ちがもどかしい。
無事に自分の名前が表示されているのを三度目視して、噛み締めながら帰路に着いた。
「どんな名前なんだろう」
気づけば、今日食べた夜ご飯のシチューに何が入っていたのか思い出せなくなるほどに、恋煩いをしていた。
「もう!ちゃんと話聞いてるの?」
口うるさい母の話はほどほどに耳を貸しているふりをして自室に籠った。
そうか、あの人も僕と同じ高校に入学したのか。
同じクラスだったりするのだろうか、そしたら毎日、あのくしゃっと優しい笑顔を眺めることができるのか。
もし、クラスが違ったら、どうやって声をかけようか思案を巡らせながら、深い眠りに落ちた。
用意周到。
この言葉を知ったのは、いつ頃だっただろうか。
あまり、国語は得意な方ではないが、四字熟語って昔の人たちが痛い目にあって、その学びを言葉にして後世に引き継いでくれていると国語の先生が言っていたような気がする。
もし、上手くいかない方法を先に知っていたら、要らぬ苦労をせずに済むのかと思うと、言葉って想像以上にすごいものだよなとペダルを漕ぎながら感激していた。
「よーす!」
ビュンと僕の右隣を風が切る音がした。
「おはよ!朝飯何食べてきた?」
僕らのお決まりの挨拶といえば、さっき何食べた?から始まる。
そうだ、僕らは食べ物に目がないんだった。
暇さえされば、片手に文庫本を忍ばせ、軟骨やら耳たぶやら、キラキラしたものをはめ込ませている彼とは、切っても切れない糸で結ばれているかのような関係が続いている。
僕は第一、本なんて読まない。
読むといっても、妹に絵本の読みかせをするくらいで。
自分から読んでみようと心を動かされる瞬間は残念ながらまだ、ない。
文字だけだとうっと頭を殴られたような感覚になるからだ。
いつか、そうならない日が来ればいいなと思った。
「チャイム鳴ったぞー。席つけー」
これから一年間僕らの担任をするであろう先生の声は、やる気に満ち溢れているというよりも、あぁ、また新学期か、のような気だるさを感じた。
多分、年齢は姉と近しい気がする。
教師歴7、8年はしているであろう風格だ。
新担任の人間観察をしていると、突然、大きな声を荒げたので慌てた。
「おい、槙原。本しまえ。」
宏太。
決まって、本という単語が出てくると、槙原もセットでついてくる。
これまでも、そして、これからもそうなんだろうなと予感した。
「すみません。本の世界から帰ってきました。」
見た目よりもずっと彼は素直なので、強面の教師から愛されるだろう。
やんちゃなのにな、と顔を崩しながら。
部活がない日によく一緒に自転車を走らせる帰路は、いつになく心細く感じた。
彼が夢中になって新刊を買いに行った書店先は、行き道と真逆方向で駅前にある。
焼きたてふわふわのミニ食パンが彼の好物で、書店に立ち寄った際はいつも5個ほど大量買いしている。
たまにお裾分け、と言って届けてくれるミニ食パンを実はこっそり楽しみにしているが、僕の返した物で彼も喜んでくれているのか気になっている。
「図書委員の鏡だから俺」と決まり文句のように言ってみせる宏太が、鞄に忍ばせている小説はどれもカバーデザインが色彩豊かで目ばしばしばする。
そんな僕に気づいて、いつも「お前も本読めよな〜そしたら楽しいじゃん!」と、くしゃっと笑ってみせる宏太は、今日も一人で晩御飯を食べているのだろうか。
気づけば、温めたはずのスープはもうひんやり冷めてしまっていた。
__新刊が出ました。本日発売です。
好きな作家さんのツイート欄に表示された瞬間、できれば今すぐにでも書店に駆け出したくなる衝動に駆られる生活をここ2年は続けている。
そうだな、毎週金曜日は書店に足を運び、「本屋大賞コーナー」「売れ筋ランキング」などを見ては、どこに運命の本が眠っているのか発掘する楽しみを忍ばせている。
秘密基地の中を散策している、ような感覚だ。
本が、言葉が、好きだ。
人間は60,000回も考え事をするというのに、9000回しか決断できないと最近の科学本を読んで知った。
もし、俺に好きな人ができたら、9,000回その子を笑顔にできる選択をしていきたい。
そう思うと、本を読み進める手が猛烈に速まった。
静かな空間で、本を捲るこの音を聴くのが好きでたまらない。
そのままでいていい、がんばってもいいよと伝えてくれているみたいで、心ごと抱き締められてるみたいで、本に恋をしているのかもしれない。
本に出逢って心が解かされた。
色のない感情に色彩がついた、みたいに。
ずっと知りたくて、ずっと出逢いたくて、心が叫んでいるのに見つからなくて。
そんな日々を言葉に掬ってもらえた。
白の紙に黒の文字。
たったそれだけ。
それだけなのに、なぜこんなに惹かれるんだろう。
本を捲るたびにそう思う。
「一人で留守番偉いな」
「お家の人働きすぎよ、ずっとひとりぼっちにさせるなんて」と親戚の叔父と叔母は声高々に哀れみの台詞を次々に投げかけるが、本当の意味で「俺」を気にかけているようには思えない。
「僕達は何もしてやるつもりは更々ないが、まぁこんな言葉くらいかけた方がいいだろう」と言葉の裏にある冷たさを読み取った。
心から思ってもない言葉をかけられる度に疲弊している俺がいるのも俯瞰しているから簡単に見つけることができる。
「あー、今日も超絶俯瞰したな〜」しんと静まり返る寝室のカーテンを端までぴっちりと閉めて、風呂の湯を沸かしに腰を持ち上げる。
お湯が入りますのアナウンスが流れたのを確認して、お気に入りのポットでお湯を沸かす。
何を飲もうか考えあぐねていると、大して消費してない紅茶のパックが大量に積まれてあることに気づく。
久しぶりにアールグレイを選び、黄色のカップにそっと湯を注ぐ。
紅茶の香りがふっと鼻腔をくすぐる感覚に身震いしつつ、本屋大賞を取った作家さんの本の続きに目を走らせた。
1年間で160冊も読破している生粋の読書愛好家人間だから、たとえ300ページ、400ページあろうがなかろうが、読み終えるスピードも読破した冊数が増すごとに比例するようになった。
人間の「知りたい欲」には限界なんてないのだろうと驚かされつつある。
本の魅力を伝えたくて、趣味で始めたブログも半年もすると、徐々に見てくれる人が増えた。
右型上がりというわけではないが、挑戦してきたからこそ今があるという確信は揺らがない。
もっとたくさんの人の心が救われたら嬉しいと願うばかりだ。
ある意味、この上ない絶望を味わった人としか話したくないとも思ってしまう。
本の話がしたいが、読書好きだからといって誰とでも意気投合するわけではない。
本といっても扱うジャンルは広いし、好き嫌いが激しいことも承知だ。
読むジャンルは違えど、その違いを面白がったり楽しめる人と話がしたいと思う。
なかなか、そんな理想通りの人に出逢えるわけではないのも現実的だ。
図書委員の部長に今年度からなったのも、上の先輩が引き受ける気さらさらないという雰囲気を全面的に出していたし、それ以上持ち上げるような先生ではなかった。
俺は本が好きだし、あわよくば図書室を乗っ取りたかったので、立候補したまでだ。
「あ、明日当番だったな」カップに残ったアールグレイを一気に飲み干した。
「はぁ、今日から当番だよ〜…」今年度一発目の当番は私だけではなく、チャラチャラした同級生とすることとなったことを思い出し、ため息が漏れた。
正直、活動をすること自体に不満はないのだが、ただ隣で課題をしている彼女としばし離れてしまうことが寂しくて、悲しくて、いたたまれないのだ。
ずっと見ていたいほど吸い込まれる美しさに今日も恍惚とし、「友達」というレッテルでは満足できないような、かといって「心友」以上の関係を望んでいるこころに急いで蓋をする。
「もう少ししたら当番行く…?」
ハッとして目を逸らす。
「えっと、今5分か…あと2分したら行く」
あぁやだ離れたくないな、という本音は今日もうるさい。
「ギリギリまで行かないタイプなんだ詩織。いいんですか〜?先輩に怒られませんか〜?」
なんだかんだ言って、私のことをいつも心配してくれる。
「そう、それがね!先輩じゃなくて、タメの子なの。楽!」
「そうなのか!じゃ、詩織、気楽に当番楽しめそう?」
「そう…だと思うな。じゃあ、もうそろそろ行くね!」
気にかけてくれてるという事実が私の心を加速させていく。
悟られまいと会話を早く切り上げるのも至難の業だったりする。
控えめに、私はちゃんと今日の仕事を覚えていましたよという雰囲気を醸しつつ、既に受付で本を読んでいる彼に声をかける。
「あの、今日の貸出結構いるの?」
あ、今俺に声かけたのかと本の世界からふっと帰ってきた目が私をじっと見つめる。
「うーん、あんまりかな。こんなに本面白いのにな…」
彼の左手に支えられている小説は加藤シゲアキ先生の「閃光スクランブル」だった。
あ、そういえば、この人めちゃくちゃ本読むとか言ってたような、、、
「あ!私も最近読んだよ、その本!」
思わず声が上擦った。
「え、嘉神も?まだネタバレすんなよ?」
「いやいや、流石に読者から結末を想定する楽しみ奪ったりはしないよ…」
右手をヒラヒラさせてしょんぼり声で言ってみる。
もし、私も読み切る前に実はこんな話でした、みたいな知りたくもない情報を聞かされるのは辛いから。
「そうだよな。嘉神も俺と同じで、クライマックスまで楽しみとっときたい派なんだな。」
「うん。本好きでも、みんながそうじゃないってことも最近のハイライトだったりするんだよ。」
「あぁ、確かにな。先に最後押さえて、結末わかった上で初めから読み進めていくタイプもいるもんな。」
腰掛けた椅子からスッと立ち上がる委員長は、ふわわと大きな欠伸をした。
「そうそう。本って必ずしも、こう読まなきゃって決まりないでしょ?」
本の読み方一つで話が深まるのがたまらなく楽しいと感じている自分がいた。
いつもあまり人と友好的に話したりしない私だが、本の話になると饒舌になっていて、なんだか同じ人間なのにまるで違う人が自分に乗り移っているみたいで狐に包まれているかのような感覚に陥った。
「あー。たしかにな。本ってほんと自由でいいよな。心がふわって軽くなるしな。」
そう言って、私の前で軽くスキップしてみせる。
なぜだか、図書委員になってまだ2回ほどしか顔を合わせていないのに、馬が合う彼の存在が奇妙に思えた。
きっと、見た目とは相反するこころに渦巻く霧を彼も抱えているのかもしれないと感じた。
ほんのわずか、だといいのだけど。
全く、いつまで蓋をし続ければいいのだろう。
三限目の授業は「音楽」で、吹奏楽部生に大人気の木藤先生が教室に入った。
「はい、それじゃ、今日はこの曲を聴いてもらいます。」
いつもなんの前置きもなしで、いきなり曲を生徒に聴かせるのが彼女の授業スタイルだった。
「あっ、始まったよ。なんだろ〜?」
「木藤先生、今日も可愛くない?」
吹部メンバーが一瞬ざわついたが、すぐに曲に耳を澄ませていた。
-流れゆく日々その中で
変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ
あなたへの思いは変わらない-
先生はなぜか、原曲ではなく、合唱バージョンを聴かせたらしい。
あとから、原曲とのギャップに驚いたけど、素敵な歌詞だなって思った。
「ほら、今ってさ、情報過多って言うのかな?スマホとかタブレットとか出て、簡単に情報にアクセスできるようになって、時代が大きく変わったよね。当たり前にあった仕事もAIに取って代わられたりとか。コロナで仕事ができなくなった人もいる。日常だった風景が非日常になってもさ、変わらないもの、みんなにはある?」
-変わらないもの?-
「うーん、なんだろ?変わらないものって深すぎて逆にわかんない。けど、そこがエモいよね。」
「木藤先生、いつもいい話振ってくれるよね。じんとくる。」
木藤ファンは恍惚とした表情で互いに意見交換をしている。
変わらないものの定義が難しい。
一年後、二年後に必ず存在するもののことを言っているのだろうか。
命とか、気持ちとか、カタチとか。
変わってほしくないものも、いつか変わってしまうのだろうか。
そう思うとやるせない気持ちになった。
「ねぇ、詩織はどう思う?」
耳元で囁くように彼女が聞く。
「うーん、今考え中、、、」
彼女も真似して考えるポーズをとると、かわいいエクボが顔を出した。
「詩織は真面目なんだよ〜。」
ツンツンと腕をつつかれる。
「じゃあさ、菜々の思う、変わらないものってなに?」
なぜかドキドキして、自分で聞いたくせに穴に入りたくなった。
「失いたくないって気持ち、だと思う。」
一瞬、彼女の真顔がもう大切なモノを握っているみたいで、寂しくなった。
私はその存在をきっと知らないのだと思った。
「ねぇ、もう答え出た?」
弧を描くような目が今、合った。
多分、あと10分考える時間をもらったとしても、答えが出そうになかったのでまた後日といって先延ばした。
帰りは用事があるからと言って、真っ直ぐ帰った。
「変わらないもの」について、ちゃんと向き合わなければいけないと思ったからだった。
そういえば、最近よく起こる現象はなくなってくれないなと思った。
彼女を一目見ると、自分の心が熱くなる現象を何と言ったらいいのか。
何度も溢れ出しては必死に抑えた。
こじ開けようと渦巻く感情は、今か今かと外に飛び出すタイミングを狙っている猫のように、息を潜めている。
気を許すと流れ出てしまうのではないかとはやる気持ちを鎮める。
想えば想うほど比例していくように暴れ出す感情をどう制御すればいいのか、もうコントロール術を知らない。
この熱はいつまで続くのだろうか。
なぜか途方もない、と思った。
翌日、彼女はなぜかやけに「変わらないもの」についての解を聞き出そうとしてきた。
「はい、詩織さん。教えてもらうよ?昨日の約束。」
「えっとね、変わらないもの。それってね、熱だと思う。その人を想う熱。」
「うーん、例えば、好きって気持ちがずーっと続くってこと?だよね。」
「そう。その人を初めて好きになった時の大切だなって想う感覚っていうのかな。他の人とはちがうなにかが心の中にずっと存在してるみたいな。」
「なるほどね。じゃ、詩織にはそういう人がいるんだね。」
屈託のない笑顔を浮かべた彼女に悪気が全くないことも知っているのだけど、胸がチクっと痛んだ。
「んー、まぁ?」
それ以上詮索されたくなくて、彼女の失いたくない人の存在も引っかかっていたが、自然体を装って「今日の昼ごはん何食べる?」と言って、話を逸らした。
「おーい、こっちこっち!」
「パス!!センキュ!!」
6限が終わり、教室のバルコニーでさっき自販機で買ったばかりのサイダーを勢いよくカチッと開ける。
シュワワワと小さい泡が弾けて心地のよい音に包まれた。
今日も彼は楽しそうにサッカーボールを追いかけている。
友達や先輩にも人気のようで、彼の周りにはいつも人がいる。
いつ見ても笑顔で、まだ一度も話しかけたことはないが気になっていた。
最近、ふと気がつくと、いつも目で追いかけている存在が彼だった。
わたしの視線と交差した彼の瞳が大きく揺れる。
どうしていいものやら、考えるよりも先に「がんばれ…!」という声が前に出た。
部員の声で掻き消されてしまわないか心配だったが、彼の鼓膜に届いたようで安心した。
ちょっと照れ笑いをして手を振ってくれた。
それだけで今は充分だった。
「菜々、何してるの?」
大好きな心友の声が近づく。
「うーんとね…サッカー見てた。かっこいいじゃん?」と共感を求めてみたが、いまいちみたいで寂しくなった。
「詩織は何見てるのがすきー?」
わたしのマイブームはサッカーを観ることだけど、彼女のマイブーム的なものを知らないなと思った。
「小説だよ〜〜〜」
もうそれしかないじゃん!と若干キレられたが、たしかにそうだったなとも反省した。
もくもくと厚みを増した雲が校舎に近づき、あたりは一層暗くなった。
実は、詩織のすきな存在が気になっている。
わたしがいつもの調子で突いた一言が、若干気まずさを作ってしまったのは、目の逸らしようがなかった。
そんなに触れてはいけないキーワードだとも思っていなくて、というより、こういう話をできるのが心友だと、どこかで腑に落ちない。
もしかして、告白がうまくいかなかったのだろうか。
そもそも自分から進んで告白できるタイプなのだろうか。
すでにすきな人には、パートナーがいるのかもしれない。
いろんな事が考えられて、頭を抱える。
最悪の状態が今起きているのだとしたら、失言なのはまちがいないなとも思った。
だけど、本当のところはわからないのに早とちりするのはよくない。
「詩織。聞きたいことがある。」
これから何が起こるかなんて、話してみないと分からない精神が顔を出した。