蛻の殻となっている貴賓室の扉の前で、冷水を浴びせられ濡れ鼠となった枢機卿――アーリン・ティム・ジンデルは暫し呆然とし、これ見よがしに開け放たれている窓へ目を向ける。
そしてその状態が齎しているであろうを最悪の結末をなんとなーく推測して、その場に崩れ落ちた。
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
滂沱の涙を落としながら、無念に歯噛みするアーリン。人は財産を求めると同じように、地位と名誉を望むものだから。
そう、彼はそれが、あくまでそうであると疑えない。
だから、今その眼前で起こったであろう最悪の結末が、欠片も、微塵も、その隅々に至るまで一切理解出来ない。
そう、彼が、アーリンが長い年月に渡って待ち望んだ理想の女性――いや、成人して間もない正しく理想を具現化しているとしか思えない無垢なる少女が、一切の穢れを知らない聖女が、自らその命を絶ってしまったのだ!
「あ、あの……枢機卿猊下?」
そのあまりに衝撃的な事実に直面し、自身の不甲斐なさを悔いるアーリン。流れ出る涙を拭おうともせず、まるでなにかに謝罪するかのように両手を上げて「ああ」だの「うう」だの唸っている。
そしてその後ろで冷水の余波を浴び、いうなればとばっちりを受けちゃった傍付きの修道士は、あまりに飛躍し過ぎているであろう枢機卿猊下の思考をなんとなーく読み取れちゃったため、少し――いや相当白けた視線を向けていた。
そもそも其処まで思い詰めていたのなら、扉に掛けられている〝施錠〟が〝 強制詠唱破棄〟で消し去られるのを前提として、待ってましたと言わんばかりに準備万端に用意周到に〝条件発動術式〟で〝冷水射〟を組む筈がない。しかも床掃除に困らない程度に加減された量で。
この魔法を組んだ人物――聖女様は、カーペットが水浸しになったときの後始末と掃除の大変さを、よーく理解していらっしゃる。
きっと過去にそのことで、凄く苦労したんだろうなぁと予測しちゃったその聡い修道士は、それを偲んでそっと目頭を押さえた。
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んでくれるのか……」
そんな傍付き修道士を見上げて、森妖精の固有である空色の瞳を濡らしてそんなことを言っているアーリン。
ちょっと違う。偲んでいるのは事実だが。
そう即座に考えたのだが口には出さない、ある意味で実は有能な修道士であるセバスティアーノであった。
どうでも良いが、重ねた年齢が数百年を超えているクセにメソメソするとか、気持ち悪いから止めて欲しいと更に切実に思っていたりする。
彼は若干――いや相当にいい性格であった。
そしてこれはあまり関係ないのだが、彼は教皇の命を受けてアーリンの傍付きをしている。
ちょっとどころか相当嫌がってあの手この手で抵抗したのだが、結局押し切られて断れずに現在に至っているそうな。
いつの世もどんな世界でも、上司や上役の無茶振りはあるものだ。
何かあったときには責任を持つとか口ばかりで、実際そんなことは一切しないのがお約束である。
これから就職を控えている人は、口だけ約束は簡単に反故するのがヤツらの常套手段だと理解して、一切信用も信頼もせずにそれを踏まえた対策を講じておいた方がいい。
そう、信じられるのは自分自身の資格と技術と現金だけだから。
まぁ、あんな枢機卿の傍付きに選ばれてしまったら、結果として少なからずそうなるのは無理のないことなのだろう。
「ああ……返す返すも何故、聖女はそこまで思い詰めてしまったのだ……」
(いや、仮にアンタの妄想通りだったとして、その説得というか説明にアベスカ司祭長を選んだ時点で、成功させる気がないと当り前に評価されるだろう)
やっぱり「うう」「おお」だの言っている枢機卿猊下に、心中で突っ込むセバスティアーノ。だがその表情は、一切変わらない涼しい顔である。
「ワタシには判らない……一体、なにがどうなってこうなったのだ……?」
(なんで判んねーんだよ、判るだろフツー。というかその妄想が事実だったとして、今やるべきなのはそんなところで唸って動かねーことなのかよ。上に立つ者としてやるべきなのは別にあるだろうが)
悲嘆に暮れる枢機卿猊下のザマを半眼で見下ろし、だがやっぱり口は出さない。
「ああ……誰か教えてくれ、答えてくれ……ワタシは、一体なにをどうすれば良かったのだ……!」
(なに言ってんだコイツは。そんなの教えられなくても判るだろう。まずはあの使えねぇ金喰い給金泥棒なアベスカ司祭長を懲戒処分にする。これが一番。そうすれば前職の所為で日頃性的嫌がらせを受けて、だが他の修道女を守らなければならないという立場上文句のひとつも言わないクハジーコヴァー女子修道院長だって清々するだろうよ。そもそもな話し、バカみてーに長生きしてんだから人を見る目を養えよ。ホンット使えねー。あと世間一般的な常識を鑑みるまでもなく説明一つしないで婦女子を連れ込むとか、法律的にも犯罪なんだよ判れや。まったく、マジで使えねー)
表情を一切変えず、だが心中で上司を罵って溜飲を下げようとするセバスティアーノだが、いつまでも変わらずメソメソしているアーリンを視界に捉えているのが嫌になり、開け放たれた窓に近付いて深く漆黒に落ちる圏谷壁を覗き込む。
一般的に考えれば、此処から飛び降りるのは当り前に自殺行為である。だが話しを聞く限り、アーリンが聖女と呼ぶ少女は驚くほど魔法に精通しているという。
もっとも、〝条件発動術式〟を周到に用意していたり、〝多重詠唱〟や〝 強制詠唱破棄〟の上位互換である〝対抗術式〟すら使い熟せるのだから、飛び降りた程度でどうにかなるとは考えられない。
きっと風魔法で風を起こし、それに乗ってさっさと脱出したのだろう。自分も同じ目に遭って、且つ同じことが出来たのならそうするだろうし。
心の底から聖女と祭り上げられた少女に同情しているセバスティアーノは、これは言わないで済まそうかと考えたのだが、立場上そうするわけにもいかず、更にその発想にすら至れず泣き崩れて動かない「枢機卿猊下様」を横目で一瞥して、
(これ絶対私がひたすら延々と後悔と悔恨と悲嘆と愚痴を聞かされるヤツだ。あー面倒臭ぇ。あ、後悔と悔恨って意味がほぼ一緒だったな。それはまず、良いとして。あの娘には悪いが、此処は進言するべきだろう)
「枢機卿猊下。聖女様は魔法に長けていたのですよね」
窓から目を逸らさず、自分の想像に衝撃を受けて奈落の底に沈んでいるアーリンへと進言する。
だが――
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
またしてもそんなことを言っているアーリン枢機卿猊下。そして傍にいる他の修道士たちも涙を拭っていたりする。
そんな地味に思考が周回している野郎どもを目の当たりにして、流石に「苛ぁ!」とするセバスティアーノ。
「……いや聞けやこの腐れ森妖精。いつまでメソメソしてんだ鬱陶しい。そもそも手前ぇの人選能力に問題なければ起きなかったんだろうが。いい加減に人を見る目がないって判れやこの人事無能力者。そんなんだからアベカス司祭長が増長するんだよ」
冷静に正しくその状態を評価し、だが堪え切れずに罵詈雑言が口を衝く。
それを耳にした修道士たちは、流れる涙を拭う手を止め唖然とした。
まぁ、当然の反応である。
だが言われた枢機卿猊下はというと、
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んで……」
やっぱり思考が周回していて聞いちゃいなかった。
いい加減に面倒になった彼は、先程の考察をアーリンの両肩を掴んでカックンカックン揺さ振りながら説明する。
そしてそれを聞いたアーリンはというと、暫し呆然としてその説明を脳内に浸透させて、やっと理解したのか勢い良く立ち上がり宣言した――
「ぜいじょがいぎで……」
だが盛大に鼻水が垂れているために巧く喋れなかったりする。
それでもアーリンは挫けない。枢機卿にまで登り詰めた厚いツラの皮は伊達ではないのだ。
懐から純白のハンカチを取り出して豪快に鼻をかみ、そして何事もなかったかのように宣言した。
「聖女が生きている可能性がある! いや、確実に生きているであろう! そう、ワタシには解る! 聖女はその重圧をその身に受け入れるために、時間が必要であったのだ! それを理解してやれず、結果として追い詰めてしまったのは痛恨の極み! だが聖職者である我らは、それを癒すのもまた務めである! これより、ベン・リアック神殿及びベン・ネヴィス教会の総力を以て、聖女を迎えに行こうではないか!」
その宣言に、一気に士気が上がる神殿関係者たち。枢機卿付きの修道士は勿論、神殿兵の士気も爆上がりだ。
「聖女様をお迎えに。なんという誉!」
「あのお美しくも可憐な聖女様を!」
「素晴らしくも美しい魔法を使う聖女様!」
特にシェリーの容姿や魔法に心酔してしまった神殿兵は、既に聖戦もかくやとばかりに鬨の声を上げ――
「我らに慈悲を授けてくれた、女神のような女お――聖女様!」
「あのお美しい御御足で踏ん――慈悲を下さった女王――聖女様!」
「半眼の翠瞳で見下ろす蔑――慈悲に満ちた眼差しは素晴らしかった!」
「あの素晴らしくも均整の取れた御御足が下からチラチラ見える光景は一生の宝である!」
「凄まじい魔力の奔流でスカートがブワっとなったときに見えた御御足は少女の様を残しながらも大人の階段を上り始めた――がふぅ! 鼻から赤い汗が!?」
「我の兜を踏ん付け――兜に祝福を授けてくれたときにチラチラと覗いていた素晴らしくも眩いフトモモが――げふぅ! 鼻から赤い感涙が!?」
「我が兜に付いている聖痕は家宝です! 落ちないように透明樹脂で固めました!」
「女王さ――聖女様の罵詈雑ご――聖言は正に福音! この卑しく救いを求める心に沁みました! またいつでも何度でも授けて頂きたい!」
――ある意味で心酔しちゃった神殿兵は、そう口走りながら鬨の声を上げた。
そんなあれこれがちょっと理解出来ないセバスティアーノであったが、結果的に誘導通りコトが進んでくれて満足する。
そう、どんな結末であれ、皆の意識を聖女へと向けるのに成功したのだ。
(あの枢機卿に振り回されている私の――精神衛生と安息のために)
そしてセバスティアーノはほくそ笑む。
「よし! 聖女捜索隊の隊長はアベスカ司祭長にしよう!」
「いやヤメロ莫迦!」
どういう経緯があったのか、何故かアーリンはアベスカ司祭長をこの上なく重用していた。
程なく体制を整えた神殿兵は、高い士気のまま聖ヴィレーム橋を一気に越えてリトルミルへと雪崩れ込むべく指示を待つ。
そして遂に、アーリンにより指揮官に推薦された人物が壇上に上がり――
「えー、此度の、えー、出征は、えー、聖女を、えー、迎える――」
「なんでいるんだよ呼んでねぇしお呼びじゃねぇんだよ引っ込めクソがぁ!」
――堪忍袋の緒が小気味よくブチ切れたセバスティアーノにより、アベスカ司祭長が壇上から蹴り落とされた。
「なにをするのだキサマ! この我に対して不敬であるぞ! お前達、そのふちらのもを捕らえるのだ!」
「『ふちらのも』ってなんなんだよ。もしかして『不埒者』って言いてぇのか? いいから引っ込め湧いてくんな。ダニか何かなのかテメー」
蹴り落としたアベスカ司祭長を壇上から見下しそう言い捨てる。少なくともそれは、一介の修道士がして良い行為ではない。
「なんと不遜な! そもそも我はアーリン枢機卿猊下から直々に拝命され指揮を執っているのだそ!」
よってアベスカ司祭長のそれは、後半はともかく至極真っ当であった。
だが言われたセバスティアーノは、怒気を孕んでさも当然とばかりにそう喚くアベスカを半笑いで下目遣いで見遣り、
「いや拝命されてねぇ。推薦されただけで兵長達から承認されないで全却下されたの知らねぇのかよ。そもそもテメーは度重なる猥褻行為と収賄容疑で追放予定だし。あ、あとクハジーコヴァー女子修道院長への度重なる性的嫌がらせの件も追加な。その足りねぇ脳ミソじゃあ理解出来んか? 困ったモンだな、ボ・ク」
あからさまな侮蔑と共に、だが言い聞かせるようにそう言うセバスティアーノ。
「キサマー! 長年神殿に仕えて来た我とあの娼婦崩れを同列に置くとは不敬の極み! 皆の者、このふちらのお今すぐ捕らえるのだ!」
誰にでも判るように明確に莫迦にされたのが気に入らないアベスカは、顔を真っ赤にして唾を豪快に飛び散らせて喚く。
まぁ、そうなるだろう。その反応も至極真っ当である。
だがそれを呆然と見ていた神殿兵達は、
「……アベスカ司祭長って指揮出来んのか?」
「いや無理だろう。というか突撃ってしか言わないよ絶対」
「普段の演説も何言ってるか判んねーし」
「それ以前に、そもそもなんでアレが司祭長なんだ? 年功序列だからか?」
「あー、枢機卿猊下って優秀だけど人を見る目がないからなー」
「あと口が巧いヤツの言うことを鵜呑みにするから」
「それよりも、クハジー女子修道院長を『娼婦崩れ』って言ったぞあの野郎」
「聖職者として有り得ない。それにクハジー女子修道院長は、ロクデナシな親の借金の形で娼館に売られた可哀想な人なんだぜ。好きでやってたわけじゃないのに」
「まったくだ。良い匂いするしな」
「だよなー。これってけっこう有名だよな」
「だな。良い匂いするしな」
「つーかクハジー様を悪く言うとか、許さん!」
「それな! 良い匂いするしな」
「まったくだ! クハジー女子修道院長ってメッチャ優しいんだぞ」
「女神様か!? て思うよな。良い匂いするしな」
「あと人を見て態度を変えたりしないんだよ、クハジー女子修道院長は」
「そう! まさにそれ! 良い匂いするしな」
「つーかさぁ、返す返すもなんでアレが司祭長なんだ? 意味が判らねぇ」
「おぇ! 女神様で気持ち良くなってたのに突然クソ野郎に話し変えてんじゃねーよ! 嘔吐いちまっただろうが!」
「いや知らねーよ」
「あとルビがルビじゃなくなってるぞ」
各々そんなことを言い出し、そして当然のようにアベスカの指示らしきモノには従わない。
当り前である。
アベスカは、指揮官として兵長に承認されていない。そして修道院や神殿と神殿兵とでは、大元は同じだが枝分かれした指揮系統は全く異なる。
司祭はあくまで修道としての上役であり、軍隊とは関係ない。よってそれに我が物顔で首を突っ込み指示を出すアベスカは、もちろん良く思われていない。
というか嫌われていた。まぁ容易に予想は出来るだろうが。
ただ、他部署ではあっても上司であるのには変わりないため、強くは出られないだけだ。
それでも、今回の行動は目に余る。
だから神殿兵が指示に従わないのにヒステリーを起こし、見苦しくもギャーギャー喚きながら奥へと引き摺られて行くアベスカに一瞥すら与えない。
結局、指揮権は当り前に兵長に与えられ、そして出動態勢が整った神殿兵小隊は、その日の内に神殿から出撃――出来なかった。
出撃しようとした矢先、神殿と教会の出入口全てが、まるで接着されたかのように開かなかったのである。
その頃シェリー達はというと、とっくに峡谷を渡り切ってリトルミルの町に向かっていた。
その途中、結構お粗末な脱出であったためにとっくに気付いても良い筈なのに、追っ手が一切来る気配がなのを怪訝に思ったデリックが、口唇の動きだけでリーに訊いた。
(そういえばお前。部下どもに何か指示出していたけど?)
(ふふ。魔法で閉鎖しても破棄されて開けられるでしょ。だから神殿と教会の通用口全てを特殊接着剤で閉め切ったのよ。どう? わたしも〝ラ・クレム・シトロニエ〟も良い仕事するでしょ)
(いや接着剤ってお前。いくらなんでも開かなかったら大惨事だろう)
(特殊接着剤だから大丈夫よ。効果は精々三〇時間だから。その頃にはもうグレンカダムに戻っているでしょ)
(……相変わらず怖しい女だな)
(うふふ。惚れなおした? 良いのよこのままお持ち帰りして――)
(いや要らね)
「ちょっとデリックさん。リーが相変わらずニヤ笑いで気持ち悪いんだけど」
「アレはいつもです。無視しましょう」
「あ、あの……私は何処に連れて行かれるのでしょう……?」
「大丈夫大丈夫。怖いことや痛いことはしないし大切にするから。私がディリィにイロイロ教えてあ・げ・る♡」
「私なにされちゃうの!?」
緊張感など欠片もなく、呑気にそんな会話をしていた。
そしてその状態が齎しているであろうを最悪の結末をなんとなーく推測して、その場に崩れ落ちた。
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
滂沱の涙を落としながら、無念に歯噛みするアーリン。人は財産を求めると同じように、地位と名誉を望むものだから。
そう、彼はそれが、あくまでそうであると疑えない。
だから、今その眼前で起こったであろう最悪の結末が、欠片も、微塵も、その隅々に至るまで一切理解出来ない。
そう、彼が、アーリンが長い年月に渡って待ち望んだ理想の女性――いや、成人して間もない正しく理想を具現化しているとしか思えない無垢なる少女が、一切の穢れを知らない聖女が、自らその命を絶ってしまったのだ!
「あ、あの……枢機卿猊下?」
そのあまりに衝撃的な事実に直面し、自身の不甲斐なさを悔いるアーリン。流れ出る涙を拭おうともせず、まるでなにかに謝罪するかのように両手を上げて「ああ」だの「うう」だの唸っている。
そしてその後ろで冷水の余波を浴び、いうなればとばっちりを受けちゃった傍付きの修道士は、あまりに飛躍し過ぎているであろう枢機卿猊下の思考をなんとなーく読み取れちゃったため、少し――いや相当白けた視線を向けていた。
そもそも其処まで思い詰めていたのなら、扉に掛けられている〝施錠〟が〝 強制詠唱破棄〟で消し去られるのを前提として、待ってましたと言わんばかりに準備万端に用意周到に〝条件発動術式〟で〝冷水射〟を組む筈がない。しかも床掃除に困らない程度に加減された量で。
この魔法を組んだ人物――聖女様は、カーペットが水浸しになったときの後始末と掃除の大変さを、よーく理解していらっしゃる。
きっと過去にそのことで、凄く苦労したんだろうなぁと予測しちゃったその聡い修道士は、それを偲んでそっと目頭を押さえた。
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んでくれるのか……」
そんな傍付き修道士を見上げて、森妖精の固有である空色の瞳を濡らしてそんなことを言っているアーリン。
ちょっと違う。偲んでいるのは事実だが。
そう即座に考えたのだが口には出さない、ある意味で実は有能な修道士であるセバスティアーノであった。
どうでも良いが、重ねた年齢が数百年を超えているクセにメソメソするとか、気持ち悪いから止めて欲しいと更に切実に思っていたりする。
彼は若干――いや相当にいい性格であった。
そしてこれはあまり関係ないのだが、彼は教皇の命を受けてアーリンの傍付きをしている。
ちょっとどころか相当嫌がってあの手この手で抵抗したのだが、結局押し切られて断れずに現在に至っているそうな。
いつの世もどんな世界でも、上司や上役の無茶振りはあるものだ。
何かあったときには責任を持つとか口ばかりで、実際そんなことは一切しないのがお約束である。
これから就職を控えている人は、口だけ約束は簡単に反故するのがヤツらの常套手段だと理解して、一切信用も信頼もせずにそれを踏まえた対策を講じておいた方がいい。
そう、信じられるのは自分自身の資格と技術と現金だけだから。
まぁ、あんな枢機卿の傍付きに選ばれてしまったら、結果として少なからずそうなるのは無理のないことなのだろう。
「ああ……返す返すも何故、聖女はそこまで思い詰めてしまったのだ……」
(いや、仮にアンタの妄想通りだったとして、その説得というか説明にアベスカ司祭長を選んだ時点で、成功させる気がないと当り前に評価されるだろう)
やっぱり「うう」「おお」だの言っている枢機卿猊下に、心中で突っ込むセバスティアーノ。だがその表情は、一切変わらない涼しい顔である。
「ワタシには判らない……一体、なにがどうなってこうなったのだ……?」
(なんで判んねーんだよ、判るだろフツー。というかその妄想が事実だったとして、今やるべきなのはそんなところで唸って動かねーことなのかよ。上に立つ者としてやるべきなのは別にあるだろうが)
悲嘆に暮れる枢機卿猊下のザマを半眼で見下ろし、だがやっぱり口は出さない。
「ああ……誰か教えてくれ、答えてくれ……ワタシは、一体なにをどうすれば良かったのだ……!」
(なに言ってんだコイツは。そんなの教えられなくても判るだろう。まずはあの使えねぇ金喰い給金泥棒なアベスカ司祭長を懲戒処分にする。これが一番。そうすれば前職の所為で日頃性的嫌がらせを受けて、だが他の修道女を守らなければならないという立場上文句のひとつも言わないクハジーコヴァー女子修道院長だって清々するだろうよ。そもそもな話し、バカみてーに長生きしてんだから人を見る目を養えよ。ホンット使えねー。あと世間一般的な常識を鑑みるまでもなく説明一つしないで婦女子を連れ込むとか、法律的にも犯罪なんだよ判れや。まったく、マジで使えねー)
表情を一切変えず、だが心中で上司を罵って溜飲を下げようとするセバスティアーノだが、いつまでも変わらずメソメソしているアーリンを視界に捉えているのが嫌になり、開け放たれた窓に近付いて深く漆黒に落ちる圏谷壁を覗き込む。
一般的に考えれば、此処から飛び降りるのは当り前に自殺行為である。だが話しを聞く限り、アーリンが聖女と呼ぶ少女は驚くほど魔法に精通しているという。
もっとも、〝条件発動術式〟を周到に用意していたり、〝多重詠唱〟や〝 強制詠唱破棄〟の上位互換である〝対抗術式〟すら使い熟せるのだから、飛び降りた程度でどうにかなるとは考えられない。
きっと風魔法で風を起こし、それに乗ってさっさと脱出したのだろう。自分も同じ目に遭って、且つ同じことが出来たのならそうするだろうし。
心の底から聖女と祭り上げられた少女に同情しているセバスティアーノは、これは言わないで済まそうかと考えたのだが、立場上そうするわけにもいかず、更にその発想にすら至れず泣き崩れて動かない「枢機卿猊下様」を横目で一瞥して、
(これ絶対私がひたすら延々と後悔と悔恨と悲嘆と愚痴を聞かされるヤツだ。あー面倒臭ぇ。あ、後悔と悔恨って意味がほぼ一緒だったな。それはまず、良いとして。あの娘には悪いが、此処は進言するべきだろう)
「枢機卿猊下。聖女様は魔法に長けていたのですよね」
窓から目を逸らさず、自分の想像に衝撃を受けて奈落の底に沈んでいるアーリンへと進言する。
だが――
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
またしてもそんなことを言っているアーリン枢機卿猊下。そして傍にいる他の修道士たちも涙を拭っていたりする。
そんな地味に思考が周回している野郎どもを目の当たりにして、流石に「苛ぁ!」とするセバスティアーノ。
「……いや聞けやこの腐れ森妖精。いつまでメソメソしてんだ鬱陶しい。そもそも手前ぇの人選能力に問題なければ起きなかったんだろうが。いい加減に人を見る目がないって判れやこの人事無能力者。そんなんだからアベカス司祭長が増長するんだよ」
冷静に正しくその状態を評価し、だが堪え切れずに罵詈雑言が口を衝く。
それを耳にした修道士たちは、流れる涙を拭う手を止め唖然とした。
まぁ、当然の反応である。
だが言われた枢機卿猊下はというと、
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んで……」
やっぱり思考が周回していて聞いちゃいなかった。
いい加減に面倒になった彼は、先程の考察をアーリンの両肩を掴んでカックンカックン揺さ振りながら説明する。
そしてそれを聞いたアーリンはというと、暫し呆然としてその説明を脳内に浸透させて、やっと理解したのか勢い良く立ち上がり宣言した――
「ぜいじょがいぎで……」
だが盛大に鼻水が垂れているために巧く喋れなかったりする。
それでもアーリンは挫けない。枢機卿にまで登り詰めた厚いツラの皮は伊達ではないのだ。
懐から純白のハンカチを取り出して豪快に鼻をかみ、そして何事もなかったかのように宣言した。
「聖女が生きている可能性がある! いや、確実に生きているであろう! そう、ワタシには解る! 聖女はその重圧をその身に受け入れるために、時間が必要であったのだ! それを理解してやれず、結果として追い詰めてしまったのは痛恨の極み! だが聖職者である我らは、それを癒すのもまた務めである! これより、ベン・リアック神殿及びベン・ネヴィス教会の総力を以て、聖女を迎えに行こうではないか!」
その宣言に、一気に士気が上がる神殿関係者たち。枢機卿付きの修道士は勿論、神殿兵の士気も爆上がりだ。
「聖女様をお迎えに。なんという誉!」
「あのお美しくも可憐な聖女様を!」
「素晴らしくも美しい魔法を使う聖女様!」
特にシェリーの容姿や魔法に心酔してしまった神殿兵は、既に聖戦もかくやとばかりに鬨の声を上げ――
「我らに慈悲を授けてくれた、女神のような女お――聖女様!」
「あのお美しい御御足で踏ん――慈悲を下さった女王――聖女様!」
「半眼の翠瞳で見下ろす蔑――慈悲に満ちた眼差しは素晴らしかった!」
「あの素晴らしくも均整の取れた御御足が下からチラチラ見える光景は一生の宝である!」
「凄まじい魔力の奔流でスカートがブワっとなったときに見えた御御足は少女の様を残しながらも大人の階段を上り始めた――がふぅ! 鼻から赤い汗が!?」
「我の兜を踏ん付け――兜に祝福を授けてくれたときにチラチラと覗いていた素晴らしくも眩いフトモモが――げふぅ! 鼻から赤い感涙が!?」
「我が兜に付いている聖痕は家宝です! 落ちないように透明樹脂で固めました!」
「女王さ――聖女様の罵詈雑ご――聖言は正に福音! この卑しく救いを求める心に沁みました! またいつでも何度でも授けて頂きたい!」
――ある意味で心酔しちゃった神殿兵は、そう口走りながら鬨の声を上げた。
そんなあれこれがちょっと理解出来ないセバスティアーノであったが、結果的に誘導通りコトが進んでくれて満足する。
そう、どんな結末であれ、皆の意識を聖女へと向けるのに成功したのだ。
(あの枢機卿に振り回されている私の――精神衛生と安息のために)
そしてセバスティアーノはほくそ笑む。
「よし! 聖女捜索隊の隊長はアベスカ司祭長にしよう!」
「いやヤメロ莫迦!」
どういう経緯があったのか、何故かアーリンはアベスカ司祭長をこの上なく重用していた。
程なく体制を整えた神殿兵は、高い士気のまま聖ヴィレーム橋を一気に越えてリトルミルへと雪崩れ込むべく指示を待つ。
そして遂に、アーリンにより指揮官に推薦された人物が壇上に上がり――
「えー、此度の、えー、出征は、えー、聖女を、えー、迎える――」
「なんでいるんだよ呼んでねぇしお呼びじゃねぇんだよ引っ込めクソがぁ!」
――堪忍袋の緒が小気味よくブチ切れたセバスティアーノにより、アベスカ司祭長が壇上から蹴り落とされた。
「なにをするのだキサマ! この我に対して不敬であるぞ! お前達、そのふちらのもを捕らえるのだ!」
「『ふちらのも』ってなんなんだよ。もしかして『不埒者』って言いてぇのか? いいから引っ込め湧いてくんな。ダニか何かなのかテメー」
蹴り落としたアベスカ司祭長を壇上から見下しそう言い捨てる。少なくともそれは、一介の修道士がして良い行為ではない。
「なんと不遜な! そもそも我はアーリン枢機卿猊下から直々に拝命され指揮を執っているのだそ!」
よってアベスカ司祭長のそれは、後半はともかく至極真っ当であった。
だが言われたセバスティアーノは、怒気を孕んでさも当然とばかりにそう喚くアベスカを半笑いで下目遣いで見遣り、
「いや拝命されてねぇ。推薦されただけで兵長達から承認されないで全却下されたの知らねぇのかよ。そもそもテメーは度重なる猥褻行為と収賄容疑で追放予定だし。あ、あとクハジーコヴァー女子修道院長への度重なる性的嫌がらせの件も追加な。その足りねぇ脳ミソじゃあ理解出来んか? 困ったモンだな、ボ・ク」
あからさまな侮蔑と共に、だが言い聞かせるようにそう言うセバスティアーノ。
「キサマー! 長年神殿に仕えて来た我とあの娼婦崩れを同列に置くとは不敬の極み! 皆の者、このふちらのお今すぐ捕らえるのだ!」
誰にでも判るように明確に莫迦にされたのが気に入らないアベスカは、顔を真っ赤にして唾を豪快に飛び散らせて喚く。
まぁ、そうなるだろう。その反応も至極真っ当である。
だがそれを呆然と見ていた神殿兵達は、
「……アベスカ司祭長って指揮出来んのか?」
「いや無理だろう。というか突撃ってしか言わないよ絶対」
「普段の演説も何言ってるか判んねーし」
「それ以前に、そもそもなんでアレが司祭長なんだ? 年功序列だからか?」
「あー、枢機卿猊下って優秀だけど人を見る目がないからなー」
「あと口が巧いヤツの言うことを鵜呑みにするから」
「それよりも、クハジー女子修道院長を『娼婦崩れ』って言ったぞあの野郎」
「聖職者として有り得ない。それにクハジー女子修道院長は、ロクデナシな親の借金の形で娼館に売られた可哀想な人なんだぜ。好きでやってたわけじゃないのに」
「まったくだ。良い匂いするしな」
「だよなー。これってけっこう有名だよな」
「だな。良い匂いするしな」
「つーかクハジー様を悪く言うとか、許さん!」
「それな! 良い匂いするしな」
「まったくだ! クハジー女子修道院長ってメッチャ優しいんだぞ」
「女神様か!? て思うよな。良い匂いするしな」
「あと人を見て態度を変えたりしないんだよ、クハジー女子修道院長は」
「そう! まさにそれ! 良い匂いするしな」
「つーかさぁ、返す返すもなんでアレが司祭長なんだ? 意味が判らねぇ」
「おぇ! 女神様で気持ち良くなってたのに突然クソ野郎に話し変えてんじゃねーよ! 嘔吐いちまっただろうが!」
「いや知らねーよ」
「あとルビがルビじゃなくなってるぞ」
各々そんなことを言い出し、そして当然のようにアベスカの指示らしきモノには従わない。
当り前である。
アベスカは、指揮官として兵長に承認されていない。そして修道院や神殿と神殿兵とでは、大元は同じだが枝分かれした指揮系統は全く異なる。
司祭はあくまで修道としての上役であり、軍隊とは関係ない。よってそれに我が物顔で首を突っ込み指示を出すアベスカは、もちろん良く思われていない。
というか嫌われていた。まぁ容易に予想は出来るだろうが。
ただ、他部署ではあっても上司であるのには変わりないため、強くは出られないだけだ。
それでも、今回の行動は目に余る。
だから神殿兵が指示に従わないのにヒステリーを起こし、見苦しくもギャーギャー喚きながら奥へと引き摺られて行くアベスカに一瞥すら与えない。
結局、指揮権は当り前に兵長に与えられ、そして出動態勢が整った神殿兵小隊は、その日の内に神殿から出撃――出来なかった。
出撃しようとした矢先、神殿と教会の出入口全てが、まるで接着されたかのように開かなかったのである。
その頃シェリー達はというと、とっくに峡谷を渡り切ってリトルミルの町に向かっていた。
その途中、結構お粗末な脱出であったためにとっくに気付いても良い筈なのに、追っ手が一切来る気配がなのを怪訝に思ったデリックが、口唇の動きだけでリーに訊いた。
(そういえばお前。部下どもに何か指示出していたけど?)
(ふふ。魔法で閉鎖しても破棄されて開けられるでしょ。だから神殿と教会の通用口全てを特殊接着剤で閉め切ったのよ。どう? わたしも〝ラ・クレム・シトロニエ〟も良い仕事するでしょ)
(いや接着剤ってお前。いくらなんでも開かなかったら大惨事だろう)
(特殊接着剤だから大丈夫よ。効果は精々三〇時間だから。その頃にはもうグレンカダムに戻っているでしょ)
(……相変わらず怖しい女だな)
(うふふ。惚れなおした? 良いのよこのままお持ち帰りして――)
(いや要らね)
「ちょっとデリックさん。リーが相変わらずニヤ笑いで気持ち悪いんだけど」
「アレはいつもです。無視しましょう」
「あ、あの……私は何処に連れて行かれるのでしょう……?」
「大丈夫大丈夫。怖いことや痛いことはしないし大切にするから。私がディリィにイロイロ教えてあ・げ・る♡」
「私なにされちゃうの!?」
緊張感など欠片もなく、呑気にそんな会話をしていた。