商業ギルドのマスターは鬼人族のシオドリック・グレンヴェルであるが、実のところ彼はほぼギルドの仕事はしていない。
というか能力的に頭脳労働向きではなく、いってしまえば完全な脳筋であるため、やりたくても出来ないのである。
元々商業ギルドはそれとは名ばかりな傭兵団であり、戦地を点々として来た歴史があるためか、その上に立つものは腕に覚えのあるものが多い。というかそうでなければマスターとして選ばれないのだ。
そして現在のマスターであるシオドリック・グレンヴェルは、武芸者として他と一線を画し、だがそれでいて他者を慮れる人格者である。
まぁ、先に述べた通りに脳筋で頭脳労働には全く適さないが。
そんな脳筋マスターを完璧に補佐しているのが、サブマスターである草原妖精のデリック・オルコックである。
彼はかつて草原妖精族が多く住んでいる遊牧地であるマグダフ平原を、誰かさんと争い競い合うように二分し取り仕切っていた過去を持つ。
当時の彼を、誰が言ったかこう呼ばれて恐れられていた。
〝草原の破壊者〟――と。
その競い合っていた〝草原の災厄者〟な誰かさんとはいつしか何故か恋仲になり世帯を持ったのだが、その誰かさんがあまりに変態であったために付いて行けず、敢えなく離縁となったそうな。
だが本気で嫌いになったわけではないらしく、誰かさんのなにかが溜まっちゃったとき、たまーに発散目的の朝チュンをしているらしい。
そんな誰かさんは家事全般に精通しているし、もちろん料理上手でもある。更に気が利いていて相手がどうしたいのかを察する能力にも長けていた。
変態なのに。
そして残念ながらデリックは、変態ではなく至って普通であるため、それを理解出来なかった。
普通と変態の軋轢は、想像以上に根深いものである。
そんなデリックの元に秘匿回線からの直通電話があったのは、彼が日も暮れてそろそろ帰宅の途に着こうかと用意を始めた頃合いであった。
『ああ、デリックさん。良かった、まだギルドにいてくれた』
電話の相手は、とある極秘任務のためにリトルミルに遣わしたデメトリオであった。
「そろそろ帰宅しようとしていたのですが……どうしたのですか、そんなに私の声が聞きたかったのですか? 言っておきますが私は変態が嫌いですよ。それに男色も他所様が勝手にするのは一向に構いませんが、私は絶対に無理ですからね」
などと軽口を言ってみる。だが今のデメトリオには、それに反応する余裕はない。
『そんなことはどうでも良い! 大変な事態になった! シェリーの嬢ちゃんが、教会に入ってから行方を晦ませちまった!』
「……なんだと?」
デメトリオが焦燥しながら訴えるそれを聞き、底冷えする言葉を吐くデリック。
それを聞いて心胆寒からしめるデメトリオだが、そんなことよりもシェリーが行方不明になった経緯の報告を優先させる。
そして一通り報告を聞いて、デリックは椅子に深く腰掛け溜息を吐いた。
『済まねぇ、デリックさんが俺を信じて与えた任務なのに、それすら満足に熟せねぇ自分が情けなくて嫌になる』
「自分を卑下するのは止めなさいデメトリオ。あなたは良くやってくれていますよ。ちょっと実力不足は否めませんが、ユーインの部下にしておくのは勿体ないくらいです」
『いや、でもよ――』
「まったく、チンピラ然としている容姿のくせにバカが付くほど真面目なのは相変わらずですね。どうしてこんな良い男を世の女性諸姉は放っておくのでしょう。やはり見た目でしょうか?」
『貶すのか褒めるのかどっちかにしてくれ。物凄く反応に困る』
「まぁそれはそれとして――」
一度言葉を切り、デリックは表情を引き締める。その雰囲気が伝わったのか、通話先のデメトリオも息を殺して次の言葉を待った。続くそれを、聞き逃さないために。
「私が貸したエセル様の写真、汚したり紛失したりしていないでしょうね? あれは現存するものでは最後の原物ですから」
『え? あ、ああ、それか。それならシェリーの嬢ちゃんがネガ持ってるそうだ。言えばいくらでも現像してやるって言っていたぞ』
「デメトリオ、君は素晴らしい。ギルドに戻ったら今月の総支給額の500%を特別賞与として支給しましょう。いや、戻るまでもなく君のギルド口座に即振り込んでおきます。そして明日より三〇日間の特別有給休暇を与えます。これは業務命令ですので、必ず受け取り休養するように。総務課のサロモンも会計課のエヴラールも、絶対に否とは言わないでしょう」
『は? え? あれ? ちょっと待ってくれ、意味が判らん。それに今月の給与って、例のオスコション商会への強制捜査とか残業とかも結構あって特別手当が加算されているから、収入としては相当多いんだけど――』
「君はそれだけの功績を上げたのですよ、デメトリオ。大丈夫です、税金は掛からないように裏工作しますし、誰にも文句は言わせません。文句があるなら私やサロモン、エヴラールが相手になります」
『組織のNo.2なアンタと二人のNo.3が相手って……逆に空恐ろしいわ。それに組織の上に立って不正を取り締まる筈の役職が脱税を推奨するとか、どうしてくれようか反応に困るぞ』
「綺麗事では世の中は渡って行けないのですよ、デメトリオ。いつか君も判る日が来ます」
『判りたくないわ! 本来なら賞与も特休も嬉しい筈なのに、内容聞いたら全然嬉しくない。それに金と休日があっても恋人の一人もいないんじゃあ意味ないだろう。誰かいないかデリックさん』
「私の心当たりは一人だけですね。紹介しましょうか? 変態ですけど」
『俺そんなに変態には抵抗ないし、むしろちょっと心惹かれるが、それアンタの元奥さんだろ? 良い加減に諦めて復縁しろよ。変態だって慣れれば可愛いもんだろうが』
「いえ、変態は認めません。そんなわけで、シェリーさんが行方不明になった原因に心当たりがあるので調べてみますね。……きっとあのクソ森妖精が一枚噛んでいるどころか根源なんだろうし」
『お似合いなんだけどなー。良いじゃねぇかちょっとくらい変態でも。……て! もしかしてアンタが直接動くのか!?』
「当り前です。シェリーさんはエセル様の娘なのですよ。この意味、貴方は判りますよね?」
『え? いや、鐚イチ判らないが――』
「ふふ、ふっふっふ。私もすぐに其方へ行きますから、そのときによーーーーーーく説明してあげましょう」
そして切れる通話回線。デメトリオは暫く受話器を持ったまま、空恐ろしいなにかに触れてしまったのを理解した。
だが、それでもまだ、その理解は足りなかった。
シェリー・アップルジャックという個人へ不当に手を出すという行為が如何に愚かで恐ろしく、そしてその感情を抱くことすら生易しく感じさせる者ども――既に眠りに就き、二度とそうであると名乗らないとした誓約すら破棄させ覚醒させるほどの絶望的な所業であることを――。
この日、既に引退して平穏な日常に生きると剣を置いた一人の男が、それを再び手に取り仲間と共に再始動した。
――男の名は、アイザック・セデラー。
魔法生物だろうと亡者だろうと、そして神龍であろうとその全てを物理で粉砕すると恐れられた冒険者集団〝無銘〟のリーダーであり、一人でも災害級の能力を持つとされる仲間を取り仕切っていた、そして暴走する三人の仲間をたった一人で抑えていた、最強と謂れている商業ギルドのマスター・グレンヴェルにして戦いたくないと言わしめた唯一の男。
その身に急所を守る最小限の鎧を纏い、神龍より授った灼熱と極寒の大太刀を腰に差し、そして極光の棍を携え、全身から迸っているであろう殺気を無理矢理抑え込む。
それは、その殺気は、愚かな行為に及んだ者どもと対峙すまで解放するわけにはいかない。気の弱い者ならば、それに充てられただけで生を放棄する場合もあるから。
デリックから手短に事情を聞き、そして最短で身支度を整え、彼は仲間と共に用意された特別列車でリトルミルへと発った。
たった一人の、己が娘を救うために。
――*――*――*――*――*――*――
ベン・ネヴィス教会に足を踏み入れ、その絢爛でも華美でもない教会堂の美しさに目を奪われ、シェリーは感嘆の溜息を吐いた。
白を基調とした内装に、おそらく自然のものであろう同じく白い石壁面と建造物との継ぎ目が見えないほど巧緻な技術によって構築された内壁材と立ち並ぶ石柱が見事に融和し、それ自体が芸術作品と言ってしまっても過言ではないと、シェリーは思う。
そして採光窓を彩る彩色硝子も必要以上に原色ではなく落ち着いた、だが見る者の目を釘付けにするほどに繊細で一部のズレもない、神々しいとはこの光景を言うのだろうと、重ねてシェリーは考え一人頷いていた。
「おかーさん、あのおねーさんひとりでうんうんしてるよ」
「しー! そっとしておいてあげなさい。きっと、理由があって、独りで教会に来てるんだから……」
我が子の恐れを知らない指摘にそう言い返し、そっと同情の涙を拭う母親。その視線は「強く生きてね」と言っているかのようで――
――なんかヘンな誤解された!?
そんな母子の会話を耳にし、その対象が自分であると理解したシェリーは、ちょっと慌てて周囲を見回した。
周りには親子連れや夫婦、そして恋人同士であろうイチャコラしているヤツらが結構いる。そんな中に女子が独りでいたのなら、そりゃあ誤解もされるだろう。
だがそもそもな話し、別になにか理由があって独りなわけではない。逆に独りであることに、特別な理由などあるワケがないし。
まぁ強いて言うなら、一緒に来てくれる友達がいなかっただけ。実に寂しい女子である。
――て喧しいわ!
などと心中で一人ボケツッコミをするシェリー。当り前にそれが誰かに気付かれることなどあるワケがないないため、「独り上手」と「一人ボケツッコミ」の技術が天元突破して行く。そんな技術は存在しないけれど。
こんな性格だし、おまけに精神的に相当擦れているから同い年の友人は望むべくもないが、せめて同世代の友人が欲しいと、わりと本気思うシェリーだった。
それはともかく。
自分の目的は別に観光をするためではないし、それにはあまり興味も――興味は……はいごめんなさい、興味ありました。
噂に聞いた世界一美しいと称されているベン・ネヴィス教会には、実は子供の頃から来たいと思っていたのである。
だが母親が何故か頑なに拒んでいたため、結局は現在のように一人で来るしかない。
本音を言えば、リトルミルの温泉も、このベン・ネヴィス教会にも、母と一緒に来たかった。
父親とは来たいとも思わないし、その発想すら湧いてこないが。
でも、どうしてお母さんは此処には絶対に行かないって言っていたんだろう? 温泉は嫌いじゃないだろうし。もしかして、宗教とか信仰とかが苦手だったのかな?
そんな取り留めもない夢想をしながら、案内に従い〝齢の儀〟が執り行われているベン・リアック神殿の聖堂へと移動する。
ちなみに先程シェリーを見てなにを思ったのかそっと涙を拭った母子は、そのすぐ前にいた。
教会堂を抜けて渡り廊下を進み、神殿の聖堂に入る。其処は教会堂より幾分華やかであり、だがそれよりもまず目についたのが、それが行われている場に置かれている、高さ3メートル、幅1メートルもある六角形の巨大な魔水晶であった。
「うわー、でっかーい。というかこれって一体お幾ら枚の大白金貨を注ぎ込んだんだろう」
などと、それを見て無邪気にキャッキャ騒いでいる子供達や、その大きさと荘厳な雰囲気に感心している大人達とも一線を画す感想を漏らすシェリー。
ちなみに例の母子にはしっかり聴こえていたようで、首を傾げる子供の傍で母親が微妙な表情を浮かべていた。
ある程度の人数が集まった頃合いを見計らい、神父らしき法衣を纏った壮年の男が壇上に立ち、咳払いをしてから厳かに――
「えー、この魔水晶は~、魔力を流すことでー、えー、それぞれのぉ~、えー、属性に光りー、えー、どの属性が――」
説明下手か!
シェリー、渾身のツッコミ。
だが流石に声に出すわけにもいかないために、心中で思うままそうして独り上手スキルの熟練度上げに勤しむ。そろそろスキルレベルが上がりそうである。転職はあるのだろうかとか、やはり意味のないメタメタしい思考を巡らせ更なる熟練度上げに余念がない。
「ふーん、凄ーく綺麗に磨かれているわねー。いっぱい触られて手垢とか付いたら大変そう。気後して触るの躊躇する人もいるんじゃないかしら」
小声で、またしてもそんなどーでも良いだろうと言われるであろう独白をする。だがこれには、やっぱり聞こえている例の母親も頷いていた。どうやら同じ発想に至り、そしてそのまま気後しているらしい。
まぁ、ちょっとくらいの汚れが付いたくらいなら修道士や修道女が頑張って磨き上げるだろうし。
今度はそう考え、だがその直後、
「乳液べっちょりな手で触ってやろうかしら」
とっても悪い笑みを浮かべながら、そんな言葉が口を衝くシェリー。
そしてそれが聞こえている母親は――ちょっとそれを考えていたため肩越しに振り返り、アイコンタクトの後で同じく悪ぅい笑みを浮かべた。
このお母さんも、ちょっと色々溜まっているらしい。きっと家族旅行も兼ねていたのであろうが、父親が急な仕事とかで結局母子旅になっちゃったのであろう。
などと勝手に他所様の家庭の事情を連想する。
正解であった。
神父の、きっと重要なのであろうが万人の記憶に一切残らないのは確実な解説が終わり、修道士や修道女達がそんな解説なんかよりよほど効率的で的確で要点をまとめた説明をしながら誘導する。
中でも茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんは群を抜いており、必然的に其方へ人が流れて行くのだが、それすら上手に操作して均等に割り振って行く。
あのお姉さん、欲しい!
などと考えるシェリー。だが悲しいかな、残念ながら現在は無職な自宅警備員である自分。部下や従業員など必要ない。
それに残念ながら、終生請願をしているであろう修道女を、そう易々と勧誘出来る筈がない。
だがそれでも彼女のウィンプルは肩までしかないから終生請願の前だろうしワンチャンある筈! などとちょっと意味不明な悪足掻きを勝手にし始める始末。
独り上手の熟練度が鰻登りである。
優秀な修道士と修道女により効率良く儀式は進み、あと数名が終わればシェリーの番になるというとき、徐に肩掛け鞄からポーチを取り出して中から小瓶を摘み出し、手の甲に乳液を垂らした。
あ、本気でやるんだ。ゴソゴソしているシェリーを伺い見ている例の母親が、そう言いたげに小さく溜息を吐き、ちょっと呆れた視線を向けている。
「ねぇ、どうすればいいの?」
次が自分の番になり、目の前で母子が魔水晶に触れて感嘆の声を上げているのを尻目に、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんに訊いてみる。
「魔水晶に触れるだけで良いのですが、もし魔力を扱えるのでしたら意識して流して貰えれば、より詳しく結果が表れます。大丈夫です。気を楽にしてまず触れてみましょう」
そしてにっこり笑顔を浮かべるお姉さん。
その笑顔は、彼女の相貌と修道服効果も相まって、反則的なほどに魅力的である。
ああ、お持ち帰りしたい!
などと親父的、もしくは犯罪者のような発想に至るシェリーであるのだが、その原因は幼少期から見て来た元従業員どもにある。
朱に交われば赤くなるとは良く言ったものだが、変態や豚野郎に囲まれていれば少なからず影響を受けるらしい。
実に恐ろしい現象である。
そして遂にその時となり、その魔水晶を見上げるシェリーは、聖堂のテラスに赤いキャソックを身に纏っている森妖精を目撃した。
服装からしてきっと枢機卿なのだろうと考え、だがそれより、言い方は悪いがこんな辺境にある神殿なのに、何故そんなお偉い様がいるのだろうかと怪訝に思い、更に、森妖精の聖職者? レアだ! とも考えて、未確認動物でも見付けたかのように繁々と観察する。
すると彼も自分を見詰めるシェリーに気付き、口元に笑みを浮かべて見詰め返した。
その笑顔を見た途端、シェリーの全身がザワッと粟立ち、そして半眼になってから視線を逸らす。
なにやら見てはならないなにかを見ちゃったり、触れてはいけないなにかに触っちゃったような悍ましい感覚に襲われた気がしたから。
そんなシェリーを見て緊張しているのだろうと察した、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんが、優しくその背を押して促した。
好き♡
そのさりげない気遣いと優しさに、おかしな扉を開き掛けるシェリー。もう枢機卿なんてどうでも良い。
そして、乳液たっぷりの両手に容赦なく魔力を込めて魔水晶に触れる。
その瞬間――
その場にいる全ての者が言葉を失った。
本来であれば魔水晶の変化は、時間の経過と共に現れる。それにどれほど短くても、十数秒は掛かる筈だ。
だがシェリーの場合、触れた瞬間その全ての変化現れた。
それは、彼女が桁違いの魔力を保有しているということ。
そしてシェリーが触れたことで現れた変化は――
「なんだ、これは……!」
そんな呟きが、上にあるテラスから聞こえる。
魔水晶は、シェリーが触れたその一瞬で、可視光のほぼ全てを捕らえて吸収する色――ベンダブラックに染まっていた。
水晶という鉱物は色素が混入していない限り無色透明であり、そして、魔力を通すことで十一種の色を放つ魔水晶も、その例外ではない。
魔水晶に浮かび上がる色は、それに触れた者によって種々様々な色を放ち、人それぞれに個性があるのと同じく、限りなく近い色はあるものの、誰一人として同一になることはない。
ベン・リアック神殿が建立された当時から其処に住まう、百余年前から神殿を牛耳っていると自負するアーリン・ティム・ジンデル枢機卿は、年に二度行われる〝齢の儀〟に集まった人々がそれに触れることで様々な色に染まり、そして発現する幾通りもの結果によって一喜一憂する様を見物するのが楽しみであり、そして今もテラスに用意させた座り心地の良いふかふかソファに独りで座ってふんぞり返り、その変化を楽しんで――
「ふん、あの程度の魔力しかないのか。今回も不作だな。だがそれは仕方のないこと。ワタシのように神に愛され魔法の才に恵まれたものなど、そうそういるものではないからな」
――愉んでいた。
そんな独りで勝手に愉悦に浸っている、若干どころか結構性格が悪い枢機卿猊下は、懐から懐中時計を取り出してその時計盤へ目を遣り、そろそろ終わりであろうと下を覗き込む。
そして――ある意味で運命の相手であろう自分を見上げている一人の少女と、幸か不幸か目が合った。
いや、合ってしまった。
『森妖精であるワタシの美貌に見惚れているのだろう。そうに違いない』
そんな自惚れ全開で見当違いなことを考え、鏡に映る己を見ながら幾度となく――いや、すでにそれが日課となっている鍛錬し研鑽された笑顔を浮かべて見詰め返す。
大抵の女性はそれだけで頬を染めて恥じらうものだ。少なくとも、枢機卿猊下は常々そう思っており、そしてそれが当然だと信じて疑えずにいた。
――だが。
その少女は猊下の百戦錬磨の微笑みを直視した瞬間、穢らわしいなにかを目撃してしまったかのように、そりゃあもう盛大に表情を歪め、そしてさっさと視線を逸らしてしまった。
そのあまりといえばその通りな反応に驚き、だが自分を見詰めた明らかに他と一線を画す視線にちょっとゾクゾクしちゃった猊下。新たに特殊な扉を開いて気持ち良くなっちゃったらしい。
俄然その少女に興味が湧く。
それを向けられる側にしてみれば、確実に迷惑極まりないのだが。
――長寿を誇る森妖精である枢機卿猊下は、その例に漏れずに長く生きており、当然ではあるが様々な経験を重ねているためであろうか、その性癖は特殊であった。
これは当り前なのだが、全ての森妖精が猊下や何処ぞの愛を語る国法士や、やんちゃな王様だったりあらあら系で物理攻撃超特化な最強撲殺女王様なわけではない。
森妖精は本来であれば穏やかな性格であり、良く言えば分け隔てのない平坦な人格者揃いである。悪く言えば他に興味を示さない冷淡な性格であるのだけれど。
まぁ、世界総人口の三割を占めるまでに増えちゃったために、そういう特殊な性癖の持ち主が現れたとしても、なんの不思議もないのは当然だ。
もっともその程度の性癖など、昨今廃業したリンゴ酒を取り扱っていた商会の従業員達の高度で高性能なソレに比べれば、まだ可愛いものである。
それほどその商会の従業員達は優れていたのだ。色々と。
最後の最後でそんな少女と見つめ合えて御満悦な枢機卿猊下は、改めて階下にいる今まさに魔水晶へ触れようとしているその少女――シェリー・アップルジャックを熱っぽく見詰める。
そんな有様な枢機卿猊下を、傍付きの修道士達はやれやれと言わんばかりに、傍にいる筈なのに半眼で見遣り、ほぼ同時に深い深い溜息を吐いた。
どうやらそれは心の距離であるようで、傍付きであるため離れられない分せめてそれだけでも離れようと、もしくは離れていたいという願望の表れであるのかも知れない。
そんな猊下に対して不敬な諸々を気付かれない程度に細々としている修道士達は、だがいつまでもそんな猊下を見るのもイヤ――もとい、そのようにするのはそれこそ不敬であるために、儀式の最後であるだろうその少女の結果を注視する。
俗世との全てを切り離し、神々へとその身全てを捧げる終生請願をしている修道士達も、少なくともおかしな性癖の枢機卿猊下より、目麗しい少女を見ている方が数段マシなのであろう。
そしてその少女が、何故か妙にしっとりしている手で魔水晶に触れたそのとき――
「――魔水晶が……消えた……?」
瞬間的にその魔水晶があるべき場所に、ポッカリと漆黒の穴が空いた。
少なくともその現象を目撃したその場にいる全ての者は、それをそのようにしか認識出来なかった。
それほどそれは、怪奇で不可解であったのである。
実際に魔水晶は消えてはおらず、その形を保ったままその場から僅かも動いていない。
本来であればどのような色であっても――例えそれが黒であっても、光を受けて反射し輝く筈の魔水晶が、その光すら呑み込み一切の輝きを発しないという事態は、明らかに異常であるとしかいえないのだ。
黒より黒い漆黒――ベンダブラックに染まる魔水晶を目の当たりにして、騒然とすらせずただ言葉を失う一同を尻目に、アーリン・ティム・ジンデル枢機卿はいち早く我に返り、
「聖女だ……」
立ち上がりながらそう呟き、次いで声高々に、
「――聖女が顕現された!」
滂沱の涙を落としながら、その両手を広げて宣言した。
――で。
そんな意味不明な宣言をされちゃったシェリーはというと、ベンダブラックに染まった魔水晶を目の当たりにして、
『うわぁ、腹の色まで出ちゃうのコレ?』
腹黒な自覚があるのか、そんな的外れなことを考えており、だがその現象に驚き思わず尻餅を付いてしまっている、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんへ目を向け、捲れているスカートの奥を視界に収めて心情的にサムズアップする。
清楚な白だけど凝ったレース生地で紐っていうギャップが唆る。なによりスパッツを着けずに生足というのがポイントが高いわ! 生足バンザイ!
そんなことを考えるシェリー。明らかにエロオヤジ的発想である。そして確実に、元従業員どもの悪影響が如実に出ていた。
そんなアホなことを考えながらも、魔水晶に直で魔力を流し続けるシェリー。その遠慮もなにもあったものではない行為に、ちょっとミシミシミチミチいっているのは聞こえなかったことにする。
そういえば――シェリーはふと思い出した。
まだ五歳くらいであった頃に母親から聞いたことだが、故あって水晶球を手に入れたことがあり、魔力を込めれば様々な効果あるらしいと聞いて興味が湧いた母親は、試してみようと思いっ切り流してみたところ、それが壊れるでも弾けるでもなく砂となり崩れ落ちたそうな。
――あ、これ拙いヤツだ。
夢想から我に返るシェリー。此処で魔水晶を壊してしまったら、その賠償金はとんでもない額になるであろう。
そう判断し、同時に脳内でJJ謹製の算盤を弾く。こんなところで負債を抱えるなど真っ平御免である。
そんなちょっとズレた思考の後、なにやら頭上で喚いていたなぁと思いながら見上げると、例の穢らわしい視線の、多分枢機卿が立ち上げっており、両手を広げてメッチャ泣きながら大騒ぎしているのが目についた。
うわ! 気持ち悪い!
「キモい」ではなくシェリーは素直にそう思い、思わず更に魔水晶へと魔力を流す。すると今度は共振し始め、ミシミシミチミチがメキャメキョと軋みだし、やっとそれに気付いて慌てて手を離した。
それによりその共振はすぐに収まったのだが、漆黒に染まった魔水晶はそのままである。あと少し遅かったなら、きっとそれはちょっと考えたくないような事態になっていたであろう。
これは私の腹が相当黒いという嫌がらせなのかな?
大惨事になりかけた事実から綺麗に目を逸らし、 未だ漆黒に染まっている魔水晶を眺めつつ、そんなことを重ねて考えるシェリー。完全に被害妄想である。
だがいつまでもそんな被害妄想に浸っている余裕などあるわけもなく、これは面倒の予感がすると察したシェリーは、
「お……邪魔しましたー……」
そそくさと襷掛けにしている肩掛け鞄を正してその場を去ろうとする。
だがその判断は既に遅く、枢機卿猊下の宣言を聞いた神父、修道士、修道女を始めとする神殿、教会関係者が一斉に膝を着き、シェリーへと祈りを捧げた。
関係ないが、シェリーより前に儀式を終えた例の母子は、聖堂の門扉付近でその様相に呆然としていたりする。
そして先程シェリーにスカートの中を観察されちゃった、 茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんも同じく呆然としていたが、捲れ上がっているスカートに気付いて慌てて抑えて膝立ちになり、だが訳が分からなかったためとりあえず皆に習って祈りを捧げた。
シェリーが小さく舌打ちをしたのは言うまでもない。
それにしても――そんな有様になっているのに心当たりなど一切ないシェリーは、どうしてこうなったと困惑し、だが先程テラスで変た――じゃなくて枢機卿らしき森妖精が喚いていた言葉を反芻する。
『せいじょ』って言った?
誰を?
私を?
え?
なに?
私が?
私が――『せいじょ』!?
「性女ってどういうことよ! 失礼な!!」
フンガー! と擬音が付きそうなくらいに激昂するシェリー。だがその場にいる聖職者達は、何故にそうなっているのかが判る筈もなく、
「おおおおお落ち着き下さい聖女様」
慌てて宥める、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さん。
だがいくらシェリー好みの彼女でも、明らかに侮辱されたと勘違いしているシェリーの怒りが収まるわけもなく、
「だから! 誰が性女よ!『様』付けしたって意味は一緒でしょうが失礼な!」
確かに一緒である。字面と意味が違うだけで。
そして何故にそこまで怒り狂っているのか判らない一同は、戸惑い全開で呆然としていた。
「落ち着きなさい、少女――いや、聖女よ」
そんな中、事の成り行きを見守っていた枢機卿猊下が、テラスからシェリーを見降ろし厳かにそう言い――
「だーかーらー! 誰が性女よ! 失礼にも限度ってものがあるでしょ! なんなの? 此処ってヒトを莫迦にして楽しむ儀式でもあるの!? ヒトを蔑めるのも仕事のウチなの!?」
「いや、蔑めているわけではないし、そうは言っていないが……」
「自覚もなく言っているんじゃあ尚タチが悪いわよ!」
「えええええぇぇぇぇぇぇ……」
だがそんな地位ある人物からのお言葉に畏るほど殊勝なわけでも気弱なわけでもなく、一五歳にして魑魅魍魎が住まうと揶揄される会頭どもが集う商工会に通い詰め、互角以上に遣り合った実績持ちのシェリーが黙っているわけなどない。
世間一般じゃあ『聖女』って蔑称だっけ? シェリーのあまりな激昂ぶりに、思わずそんなことを考え始める枢機卿猊下。百余年も俗世から離れていたために、現在の風潮に疎い自覚は確かにある。
階下で地団駄を踏み、
「危のうございます。そんなに暴れては――」
「誰が変態だ!!」
「言ってない!」
今にも暴れ出さんとして、茶系金髪で青い瞳の、 眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんとそんなことを言い合っている少女へ視線を落として溜息を吐き、枢機卿猊下は戸惑い全開な神殿関係者へ、未だ僅かに残っている礼拝者に帰って貰うように指示を出し、更にシェリーを別室へと案内するように言い付ける。
「落ち着いて下さい聖女様! 何故そのようにぷんすこ怒っていらっしゃるのですか!?」
「まだ性女言うか! そんなに何回も性女性女言われたら誰だってぷんすこ怒るわよ! ……ていうか表現可愛いわね貴女。お持ち帰りしたいわ~」
「なんで!?」
視線が瞬時にエロオヤジ化するシェリーに身の危険を感じる、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんは即座に距離を取りたくなったが、階上でこちらを見降ろしている枢機卿猊下の手前それも出来ず、その指示に従い泣きそうな顔で、ペタペタお触りして来るシェリーを神殿の奥へと案内して行った。
――この日、建立より絶やすことなどなかったベン・ネヴィス教会の灯が、初めて途絶えた。
――ところで。
「いやー、凄かったですねぇ。最後の女の子。あ、聖女様ですか」
「ですねー。まさか魔水晶が真っ黒に染まるなんて。ワタクシ初めて見ましたわ」
「十一種の属性全てに適性があればそうなるらしいですよ。見ることが出来てワタシは幸せです」
「黒に近い色がいままで数名は居られて、その全てが聖者、もしくは聖女となられたらしいですね」
「では我らは世紀の瞬間に立ち会えたのですね」
「そうなります。なんという幸運……あら、魔水晶に汚れが……手形が付いていますね。何方かが緊張のあまり手に汗を握っていたのでしょうか?」
「無理もないことです……ってなかなか落ちませんねこの汚れ。なんでしょうか、乳液のような……」
「あら? 魔水晶の輝きが僅かに歪んでいるような……中に傷があるような……」
「いえいえ、まさかそんなことがあるわけ――」
神殿の片付けと清掃をしている小間使い達は、そんな談笑をしていたそうな。
シェリーが通された部屋は、貴賓室ほど豪奢で絢爛はでないものの、洗面所や浴室、そしてトイレもある、それなりに豪華な部屋であった。
ところで――聖女と性女を勘違いしていたシェリーなのだが、部屋へ行く道すがら、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんに丁寧に説明されて、ようやく正しい意味を理解した。
説明の途中で性女の意味を理解した途端に真っ赤になった彼女を、ニヤ笑いで見ていたのはどうでも良いだろう。
その茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんの名前はコーデリア・ハーネスというらしい。
現在二一歳で、成人してからすぐにグレンカダムの教会に小間使いとして引き取られたそうだ。そして生来の真面目な性格と直向きな作業態度が評価され、今年からこのベン・リアック神殿で見習い修道女として生活しているらしい。
――余談だが、そのベン・リアック神殿には当り前に修道院も併設されており、其処では慈善事業としてクッキーを焼いて訪れる子供達に配っていたそうなのだが、実は味付けが一緒で変化かがないため飽きられてしまっていた。
だが今年から、元商家の娘で見習い修道女の発案で、販売用になってしまうがそれ以外にもマドレーヌやスコーン、ビスコッティなども取り扱うことになり、更にそれなりに保存も効くガレットやバター飴をも生産し、そして消費期限が当日になってしまうがパウンドケーキも数量限定で販売しているそうだ。
この焼き菓子は存外好評で、お菓子大好き子供たちは元より、
「修道女のお姉さんが手ずから作ったお菓子……(ハァハァ)」
「白魚のような手で生地を捏ねて一つひとつ作っているんだって(ハフハフぅ)」
「きっと汗水流して一生懸命心を込めて、オレ達のために作っているんだろうな……は! もしかしてその汗が零れているかも……」
「きっとそうだ、そうに違いない! そう考えると……くぅ、鼻から赤い汗が止まらねぇ!」
――修道女萌えの豚野郎どもに爆発的人気があった。
ちなみに生産者は確かに修道女なのだが、彼女達だけで全てを賄えるわけはなく、修道士もそれに混じっている。
更に言うなら力作業である生地作りは修道士の仕事で、しかも彼らは結構なガチムチ連中だった。
そして修道士や修道女達は意外に水仕事が多いために手荒れが結構酷く、少なくとも白魚のような手の者は誰一人いない。いたとすれば、それは働きが悪い怠け者である。
それらは教会から聖ヴィレーム橋を渡った先にある、提携しているオープンカフェ「ハーネス」で、もちろんお手頃価格で取り扱っており、カフェというだけあって其処で美味しく頂くことも可能である。
店主は三〇代後半の元商家の夫婦で、旦那はほぼ表に出ないが、奥さんは茶系金髪で青い瞳の、若い頃は大層可愛らしかったであろう容姿の美人さんだった。
話しが逸れたが、コーデリアの実家は元々商家で、某リンゴ酒を取り扱っていた商会の若奥様が事故で急逝して商業ギルドが混乱していた時期に、これは偶然なのだが、資金繰りが苦しくなりギルドに援助を申請したのだがなかなか通らず、間に合わせのつもりで即金で借りられるモグリの業者に借りてしまい、だがそれで巧く行く筈もなくあえなく倒産してしまったそうだ。
一人娘であった彼女はその借金の形に身売りさせられそうになり、彼女自身もそれで家族が助かるならと覚悟を決めていたのだが、そんなことはさせられないと考えた両親が教会へと預けたそうである。
名を訊ねるところから始まって何故か身の上話になり、そしてそれを力ない笑顔で語る彼女を無言で見詰めるシェリーがドバッと泣き始めてしまい、その予想外の反応にはわはわ慌てるコーデリアさん。
その反応すら可愛らしく、絶対にこの人は幸せにしてみせると、ちょっと意味が判らない決意を新たにするシェリーであった。
まぁ自分の商会が混乱してその余波でそうなっちゃったようなもんだから、完全に責任がないというワケでもないし。
自分の身の上話ばかり語るのが気恥ずかしくなったのか、深い考えもなくシェリーに訊き返すコーデリア。そう、深い考えなど一切なかったのである。
結果から言えば、コーデリアの両親の商家がそうなったのは自分達の責任であり、それでどうこう言うつもりはないと完全に割り切っており、だがそれより娘を残して夜逃げする父親が有り得ないと、コーデリアはぷんすこ怒り始めた。
初対面なのに、こんなに私のために怒ってくれるなんて。なんて良い人なんだろう。あれ? 聖女ってこの人だっけ?
なにやらコーデリアの背後に後光が差す幻視がする。属性はないけれど、この人が聖女だったら萌える自信がある。そんな益体のない思考にド填まりするシェリーであった。
そしてそんな茶飲み話に花を咲かせて年相応にきゃいきゃいしている二人の元に、その姦しい雰囲気をぶち壊しながら、壮年の司祭が鼻息を荒く吐きながら訪れた。
彼は〝齢の儀〟の最初に色々説明という体の催眠攻撃を行っていた例の司祭である。ちなみに、ノックはしていない。
慌てて立ち上がって黙礼をするコーデリアを他所に、仮にも異性が在室中であるにもかかわらずそんな礼を完全に逸した行為をされたシェリーは、
「そなたが聖女か! 儂は司祭のズビシェク・アベスカである! 枢機卿猊下がお待ちで――」
「〝風鎚〟!」
「――ある! 直ちに出頭を命じぶふぇどばげ!?」
ノックもせずに「ドバーン」と扉を開ける、作法なるものをまるで解していないロクデナシを思い出してしまって瞬間的に頭に血が上り、そのやたらと尊大で無駄に偉そうにしているヒヒジジイな司祭の全身に丸ごと衝撃を与える特大の風の鎚を叩き付け、豪快に室外へ吹き飛ばした。
「司祭様、そんな……!」
それを見て、コーデリアが口元を押さえながらそう零す。
あ、やっちゃった。身の上話をしてクズを思い出した所為なのか、自分のあまりに軽率な行動にそう独白して反省するシェリー。
だが――後悔はしていない!
それでも、こんなことをしてコーデリアさんに嫌われたらイヤだなぁ、とかその程度には後悔していた。
司祭様を思わず迷わず小気味良くぶっ飛ばしたことに関しては、欠片も微塵も一切合切、一片の悔いもなく、ナノ単位で後悔はしていないしする筈がない。
そして、口元を抑えたまま立ち尽くすコーデリアへと目を向ける。目の前で展開された光景があまりに衝撃的だったのか、呆然としているようだ。
だがそれも長く続く筈もなく、廊下の壁に叩き付けられたヒヒジジイ――もとい、司祭からシェリーへと視線を移す。
そして――
「無詠唱であれほどの魔法を展開するなんて……やはりシェリー様は聖女……」
――凄ーくキラキラした目でそんなことを言い始めた。
うん、私この人とっても好きかも。
惚れ直すシェリーであった。
ブッ飛ばされて広い廊下の向こうの壁に思い切り叩き付けられ、当り前に意識を失っている司祭を見て呆然とするお付きの修道士や、騒動を聞きつけて集まって来る神殿兵を苦々しく見遣り、そしてそうするのが当然とばかりに室内に闖入しようとするそれらへと、
「だーかーらー! レディの部屋に許可なくむさ苦しい野郎どもが入って来るんじゃないわよ!」
フンスと鼻から息を吐き、その小柄な体躯に存在している有り得ないほど膨大な魔力を練り上げる。
「〝三重詠唱〟」
その魔力が全身から吹き出し、白金色の髪の長い髪が波打ち、そしてその光の加減で色が変わる翠瞳が、様々な色に染まる。
ついでにその余波でスカートがちょっと捲れたが、コーデリアが慌てて抑えたために惨事には至らなかった。その場にいる男衆の賛辞にも至らなかったが。
「〝遅延発動術式〟」
そんなちょっとアレなことを考えていた、だが職務に忠実で愚直に突撃してくる神殿兵の背後――丁度廊下の中心付近に霜が張ったが、それには誰も気付かなかった。
「〝風鎚連弾〟!」
シェリーの宣言と共に、風の塊が次々と展開されて射出される。そしてそれが的確に闖入しようとする野郎どもへと直撃し、その全てが効果的一撃となる。
だがそれは弾き飛ばすだけに特化した魔法であるため、ヒヒジジイと違ってしっかり鍛えて十全な装備も整えている神殿兵には効果が薄い。
よってその装備の重量もあり広い廊下に転がるだけの神殿兵は、即座に立ち上がりシェリーを取り押さえようとするが、
「発動」
神殿兵が転がっている廊下の床に魔法陣が出現し、其処から凍て付く蔓が生えて来る。
「〝氷蔓縛〟!」
床から生えるその蔓は、瞬く間に神殿兵に絡み付き、その動きを拘束した後完全に凍り付いた。
「〝三重詠唱〟だけではなく〝遅延発動術式〟まで……流石は聖女様です」
シェリーの鮮やかな魔法に心を奪われ、思わず恍惚とするコーデリア。自身の上司や同僚ともいうべき司祭や神殿兵が酷い目に遭っているのに。
そんなコーデリアを尻目に、もしかしてあまり神殿が好きじゃないのかな? とか考えつつ凍り付いて動けない神殿兵の鎧をケシケシ蹴飛ばすシェリー。
まだ成人したてであり、それに力を込めているわけでもないため決してダメージにはならないほどの衝撃なのだが、
「おぶ、ちょ、やめ――」
「うげ、ぶ、ごへ――」
「あぼぉ、ぐげ、ごぶ――」
「あ、う、い、おふぅ♡」
「はう、おふぇ、うん、おぅいぇ♡」
地味な嫌がらせにはもってこいであった。
だが、整った容姿の少女がそんな風に足蹴にしている所為か、ちょっとおかしなのが混じっているのには全力で知らん顔をする。
そういうヤツらには反応してはならないし、仮にしてしまったら喜ぶだけなのだから――シェリーは商会に携っていた六年間で、そう学んだ。
学習の方向と質に、些かどことか相当問題があるが。
だがそんなことをしていれば更に事態が悪化するのは当然であり、廊下の向こうからどんどん集まって来る神殿兵や野次馬神殿関係者達に、思い切り辟易するシェリーだった。火に油を注いだのは自分なのに。
もう面倒だから、ぜーんぶ凍らせて逃げちゃおうかな。あー、でもコーデリアさんはお持ち帰りしたい。
などと、この期に及んで不穏なことや不謹慎なことを考えていた。
集まった神殿兵は、廊下でケシケシ蹴飛ばされてちょっと嬉しそうな同僚を見てなんとも微妙な表情になり、だが続けてそれらを拘束している氷の蔓を目の当たりにしてその動きを止めた。
拘束されて動けないということは、その命を握られているということであり、つまり――その気になればいつでも殺せるという意味なのだから。
「なんだって揃いも揃って乙女の在室中にノックもせずに闖入しようとするの! そんな不作法者は殺されても文句は言えないわよ!」
腕を組み、氷の蔓に絡め取られて身動きが取れない神殿兵の兜を踏ん付けてグリグリしながら、そんな至極真っ当なことを言うシェリー。殺されても~の件はちょっと違うが。
「確かにアベスカ司祭はいつも通りにブサイク――じゃなくていつも通りに不作法であったのであろうが、明らかにやり過ぎであろう!」
そんな同僚を目の当たりにして、先頭に立っている神殿兵が歯噛みをしながら強い口調で抗議する。それは当然であるのだが――
「現に君が踏ん付けている者は苦しんで――」
『――あふぅ……これ堪らん……もっとグリグリして下さい女王さ――』
「――く、苦しんで、いる、だろぉ?」
――明らかにそうじゃない様子な同僚を目の当たりに、だが引っ込みがつかなくなって抗議を引っ込められずにちょっと口調がおかしくなる。
「……いつも通りなんだ……司祭のクセに粗忽者なのね、あのヒヒジジイ。まぁいいわ。もういい加減に面倒だから今は大目に見てあげるわ。というかディリィに案内されるまま来ちゃったけど、私に一体何の用よ」
聖女聖女っていちいち煩いし。そう独白して兜グリグリを止め、どういうわけか絶望の吐息を漏らすそれら一切を無視して、抗議してくる神殿兵に訊く。
だがそうしているシェリーの視線は、何故かコーデリアに向いていた。ちなみにディリィはコーデリアの愛称である。
そんなシェリーの問いに、流石に戸惑う一同。てっきり説明されて同意の上だとばかり思っていたからだ。
「そういえば、此処に通すように仰せつかりましたが、理由は聞いておりませんでした」
そして更に、コーデリアが今更なことを呟いてそれに追い討ちを掛ける。
「いやダメでしょディリィ、どうしてそうするのか訊かないと。ただ唯々諾々と言うことだけ聞いていたら、そのうちとんでもないことになるわよ」
そんなコーデリアにダメ出しするが、
「ぷんすこ怒ってて人の話しを聞いてくれませんでしたし、隙あらばお触りして来ましたけど」
「……負の感情は判断を鈍らせるのよ。これも覚えておいた方が良いわ」
逆襲に遭い、特大のブーメランを投じる羽目になるシェリー。その場にいる一同は口を挟むことなど出来る筈もなく、ただただ微妙な表情を浮かべるだけだった。
「うぬぅ! 聖女と呼ばれて図に乗りおったか小娘が!」
そんななか、お付きの修道士に介抱されて復活したヒヒジジ――司祭のズビシェク・アベスカが、怒り心頭で勢い良く立ち上がり、だがダメージが残っているのかよろめいて支えられながら、そんなことを喚き散らす。
「本来であれば貴賓室には貴人でなくば通されぬ場なのだぞ! それを――」
「〝静寂〟」
地団駄を踏みながら喚き続ける司祭が煩く鬱陶しかったのか、サラっと魔法で黙らせる。
「なんなの一体。アンタらなにがしたいワケ? ことと次第によっては、いくら温厚で優しい私だって黙っちゃいないわよ」
いい加減に我慢の限界なのか、苛立たしげに皆を睨めながら、シェリーは低音でそう言う。
その言葉自体には大して迫力はなかったが、全身から迸っている魔力が筆舌し難い圧力となり、その場にいる鍛え上げられた神殿兵以外の修道士が、そのあまりの圧迫感に固唾を呑むことすら出来ずに蹲る。
「……誰も何も言わない、と。ああそう」
そしてシェリーの背後に、無数の氷の槍が浮かび上がる。
「〝氷槍連弾〟」
それは先程の風の鎚とはまるで違う、一つでも真面に当たれば確実に命を奪う魔法――とまぁ基本はそうなのだが、シェリーも本気でそんな凶悪な魔法を使っているわけではなく、実は表面をごく薄ーい氷で覆っただけの水の塊であり、暑い時期の納涼にはもってこいな魔法である。水温は摂氏零度だが。
そんな見た目が凶悪な魔法を向けられた方は堪ったものではなく、恐怖に慄き腰を抜かす者や、神に祈りを捧げて許しを乞う者、身に纏っている鎧で防御を試みる者、そして気付いたら一目散に逃げ出している司祭など反応は様々であった。
「え?〝氷槍〟? 形が違うけど〝水球〟なのでは……」
そしてシェリーの後ろで、そんな的確に展開された魔法を読み取っているコーデリア。実は彼女は、結構優秀であった。評価されていないだけで。
そんな見た目は一触即発な現場に、
「〝 強制詠唱破棄〟」
涼やかな声が響き、シェリーが展開している魔法が強制的に破棄され――
「〝対抗術式〟」
だが思わず〝 強制詠唱破棄〟を強制破棄し返し、
「〝射出〟ついでに〝静電撃〟」
更に思わず声がした方へと〝氷槍〟という体の〝水球〟を、問答無用で放つ。
あまり知られていないのだが、全ての魔法を強制破棄する〝 強制詠唱破棄〟も実は魔法であり、術式を読み取れれば上位互換である対抗魔法で打つ消すことが可能なのだ。
その〝 強制詠唱破棄〟を展開した人物は、まさかそれが破棄され返されると思っていなかったのであろう、そのまま見事に冷水を思いっ切り喰らって引っ繰り返り、更に電撃も喰らってビクンビクンする。
「あ、つい」
そう呟いて片目を瞑り、はにかみながらペロリと舌を出して、これには目を瞑ってと言わんばかりにテヘペロするシェリー。
既に手遅れであるし、明らかにやり過ぎであるのだが、やられたら自身に被害が及ぶ前にやり返すのが信条であり、それが習慣として身に染みている彼女に後悔はない。
例えそれが、その相手が、赤いキャソックを身に纏っている森妖精であったとしても、自分の行動に後悔は一切ない。
ただ、過去にないくらい反省したが。
三秒間くらい。
枢機卿のアーリン・ティム・ジンデルは、自身の政務室へ聖女を招くべく使いを出し、だがあまりに到着が遅かったため待ち切れず、その聖女が通された貴賓室へ自ら足を運び、そして――廊下のど真ん中で氷の蔦に絡め取られて動けなくなっている、更に防御体制を取る神殿兵と、慄きその場に蹲る修道士、そしてそれらの前で背後に無数の氷の槍を中空に浮かべて仁王立ちする聖女を目の当たりにして絶句した。
魔力の過不足が一切なく全て事象変換に行使されている。なんと、美しい魔法だ……!
部下がたった一人の少女にやり込められていることや、本来であればその場で最も地位が高いため責任者としてなにがあろうと残らねばならない筈の司祭が、誰よりも先に脱兎の如く逃走している事実より、その少女が展開している魔法に目を奪われる枢機卿――アーリンであった。
不純物が一切混じることない素晴らしくも美しい氷魔法で展開される、水晶もかくやとばかりに鋭く輝く〝氷槍〟はまさに芸術。
そして光を受けて輝く美しいそれは、純水で構成されているためその鋭さは折り紙付きであり、一度放たれればその全てを貫いてしまうだろう――
「〝 強制詠唱破棄〟」
流石に其処で我に返ったアーリン。慌ててその魔法を強制破棄させようとするのだが、
「〝対抗術式〟」
〝 強制詠唱破棄〟の上位互換魔法である、全ての魔法を相殺するそれを無詠唱の即時展開で放ち、
「〝射出〟」
更に半ばまで強制破棄された筈の氷槍を、瞬時に修復して連弾で射出して来た。
それらは全て一直線にアーリンへと襲い掛かり、彼は慌てて魔法障壁を展開する。
ちなみに魔法障壁は、任意の方向へと魔力を集中させて放つものであるため、厳密には魔法ではなく、魔力を有する者であれば訓練次第で誰でも出来る技術だ。
放たれた〝氷槍〟はアーリンの魔法障壁に直撃し、ベシャっと潰れた。
――え?
それを弾く気満々であったアーリンは、想像と違う結果に一瞬呆然とし、そしてそれが致命的な隙となって続く〝氷槍〟という体の〝水球〟にそれをあっさり砕かれ、夏の飲料水には最適な、ビックリするほど冷えまくっている冷水を全身に喰らいまくって吹っ飛ばされる。
だがそれで終わりではなく、
「ついでに〝静電撃〟」
あろうことか気魔法の初級である、一瞬だけだがパチっと感電させるそれまで放って来た。
本来であればその魔法は子供の悪戯程度の威力しかなく、実戦で使えるほどのものではない。
だが聖女――シェリーは理解していた。というか母親から教えられていた。
それでパチっとしか感じないのは、生態を含む全てには電気に対しての抵抗があるからであり、それを取り除いてしまえばパチっと感じるどころではないということを。
よって通電し易い水を、更にいえば電気抵抗が低くなるように温度を液体を保つ極限までに下げてぶっ掛けられればどうなるか、結果は火を見るより明らかである。冷水だけど。
余談だが、氷部分は不純物がない純水で構成されていたが、中の水は其処まで気を使って生成したわけではないため絶縁効果は一切ない。
まぁシェリーもそこまで考えてそんなことをしたわけではなく、表面のみそうした方がハッタリが効くとかその程度しか考えていなかったりする。
だがそもそもな話し、表面を氷で覆って〝氷槍〟と同じ形に偽装した〝水球〟を展開すること自体、非常識で規格外なのだが。
『枢機卿猊下ぁ!』
〝水球〟と〝静電撃〟のコンボを喰らって吹っ飛ばされ、次いでビクンビクンしているその森妖精を目の当たりにして、神殿兵や修道士が異口同音に叫ぶ。
うん、素晴らしい節奏調和。流石は事ある毎に讃美歌を歌っているだけあって、見事なものである。
などと若干どころか相当失礼なことを考え、そして――
「じゃあそんなワケで。お疲れさまでした~」
何事もなかったかのように肩掛け鞄を襷掛けにして、茶請けに出されていた個別包装されているパウンドケーキをちゃっかりしまい込み、やっぱり何事もなかったかのようにそそくさとその場を去ろうとするシェリー。
だが――
「お待ち下さい!」
それをコーデリアが制止した。
うん、まぁそうだよね。舌打ちを一つ、シェリーが独白する。明らかにやり過ぎたし暴れ過ぎた。此処までやらかして「帰ります」と言われたって、「はいそーですか」などと言う奴は誰もいないであろう。
これは賠償金案件かなー。それとも訴訟問題になる? 神殿が相手となると、トレヴァーさんじゃなくてヒューさんにお願いした方がいいかな。変態なヤツだけど一応は特級な国法士だから、神殿相手は役不足ってことはないだろうし。あ、そうなると報酬はどれにしよう?
などと次の展開を予想し、そしてそれに対してどう動くのが最適解なのかを脳内で想定分析する。
報酬云々に関しては、気にしない方が良いだろう。好きか嫌いかで言えば、シェリーが差しだすそれならば間違いなく彼は胸を張って「好きだ!」と断言するだろうし。
だがそんな最悪な想定などよりも、次に発せられたコーデリアの言葉はそれの遥か斜め上を行っていた。
「そのパウンドケーキは消費期限が本日のみとなっておりますので、ご注意下さい。それと食べるときは温めてから、バターを添えてメイプルシロップをたっぷり掛けるとより美味しく頂けます。尚これと同じ商品は、お帰りの際に聖ヴィレーム橋を渡りますと『ハーネス』というオープンカフェがありますので、数量限定とはなりますが其処で取り扱っています。ああ、でもこの時間ではもう販売終了となっていますね。ですがそれ以外にも、多少日持ちしますマドレーヌやスコーン、ビスコッティなどや、それなりに保存も効くガレットやバター飴も取り扱っておりますので、宜しければご利用下さい」
「え? あ、はい」
何処の販売員なのだろうかとばかりに、修道院で製造している諸々の売り込みをする、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさん。元商家の娘は伊達ではないようだ。
「ん?『ハーネス』?」
そんなコーデリアの売り込みに若干気圧されながら、だがそのオープンカフェの店名が引っ掛かるシェリー。思わず復唱すると、コーデリアさんはとっても素敵な笑顔で、
「あ、気付きました? 実は私の両親が経営しています。御贔屓にして頂けたら幸いです」
……そういえば、借金の形に身売りさせられそうになったとは言ったが一家離散したとは言っていない。そしてちゃっかりグレンカダムを離れ新天地で成功していたとか、なんというか凄く逞しい人達だ。もっとも商人とはそれくらいの気概がなければやっていられないのだろう。
借金をこさえて首が回らなくなり、あろうことかまだ未成年であった娘へそれを擦り付けて失踪した戸籍上の父親を夢想し、軽く殺意を覚えるシェリーであった。まぁ、どうせ今頃は何処ぞで野垂れているであろうが。
それはともかくとして、てっきり出て行こうとするシェリーを静止するのだろうと思っていたコーデリアが、それをせずにあろうことか提携店の宣伝をし始めている様を目の当たりにして、言葉を失う一同。
提携店の売り上げが伸びれば、確かにそれだけ神殿側の増収にも繋がり良いことなのだろうけど、だが現状なにかが違う。
追加でそう考えたのか、苦悩する一同であった。
いや其処は突っ込むところじゃないの? そう思うシェリーだが、わざわざ言ってやるほどお人好しではない。
そしてその隙を逃さず、逃げるように――事実逃げているのだが――その場を後にしようとするシェリー。
しかしいつまでも惚けている筈のない神殿兵が立ち塞がり、背負っている大盾を構えて並び、立ち塞がる。
おお、亀甲隊列。その隊列を見て、シェリーは独白しつつ感心した。
最初からバラけないでそうしていたのなら、いくら魔法に一家言持ちなシェリーといえども先程のような戦法は取れなかったであろう。
だがそれは、そうすることでお手上げになるということではなく、あくまで同じ戦法が取れないというだけであり、裏を返すまでもなく別を選択していたであろう。
更に言うなら――
「〝二重詠唱〟〝冷却〟〝激流〟」
「だにぃ!?」
「ごふぅ! 耐えろ、耐えるんだがぼべ――」
「ぐひゃあ! 流れる、流されるぅ――」
「水流凄ぇ! ビシビシ当たって痛ぇ!」
「いや冷てぇよやっぱり痛ぇよ!」
そんな密集陣形をとっていたら、ちょっとした範囲魔法で一網打尽である。
そしてそれを一切の躊躇なく、冷めた表情と冷たい視線を向けて実行するシェリー。
まぁ考えてもみれば、言葉巧みに部屋に連れ込みなにかをしようとした時点で、常識的にも倫理的にもアウトである。よって抵抗されて酷い目に遭おうが知ったことではな――
「ああ……冷たい、痛い……んぎぼじいいぃぃ!」
「この全身を隈なく包む冷た痛さが堪りません! もっとして女王さ――」
「ああ、その汚いゴミを見るような視線が堪りません! もっと、もっとソレを下さい女お――」
「流される流されるぅ! ゴミなボクちん流されるううぅぅぅぅぅ!」
――酷い目に遭おうが、断じて知ったことではないのだ。
亀甲隊列でにじり寄る予定であった神殿兵を一蹴し終え、
「――詠唱破棄」
それを水滴一つ残さず破棄すると、シェリーは自分を見て畏怖する皆を俯瞰し、油断せずに、だが悠々と廊下を歩き出す。
なにかを期待してキラキラした目で見上げる奴らのことなど気にしない。というか全力で無視する。
途中で何故か、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんの手を自然に取っているのは、きっと案内させる心算なのだろう。
決してお持ち帰りしようなどとは、断じて思ってはいない。それは己が矜持に賭けて誓おう。
ただ――
うっかり連れて帰っちゃったよどうしようテヘペロ。来ちゃったもんはしょうがない。責任取るから此処にいようよ。
よし! これで行こう!
とか犯罪者のような計画を練るシェリーであった。
「待ちなさい、聖女よ」
そんなことをスケベジジイよろしく夢想するシェリーを、いつの間にか復活している枢機卿猊下が、修道士にキャソックスに付いた埃を払わせながら呼び止める。
その威厳に満ちた声と口調を前に、従わないものは誰もいない。枢機卿の肩書は伊達ではないのだ。
その発せられた言葉の通りにシェリーの足が止まり、その反応にご満悦になる枢機卿猊下。そして更に言葉を重ね、宥めようとする。
「突然このような扱いをされて混乱するのは理解出来る。だが君にとっても悪い話しで――」
「『待ちなさい』ですって?」
そんな枢機卿の言葉など皆まで聞かず、更に言うなら聞く筈もなく、掴んでいたコーデリアの手を離して正面から見据える。
「随分とまぁ熟れた命令口調じゃあないの。アンタくらいの地位だと言われたまま全てが従うとでも思っているのでしょうね。そりゃあそうよね、それだけは理解出来るわ。地位ある一廉の人物にそんなことを言われたのなら、一般的な社会生活を営んでいる人達なら思わず従うでしょうよ。ええ、ええ、それは間違いないわよ。大正解」
シェリーの白金色の髪が波打ち、その全身が僅かに白色に輝き始める。
「でもね、私もお母さんもお父さんも、そんなときには必ずこう言ってやるの」
それは明らかにとある魔法の効果であるのだが、シェリーはそれを発動させる「詠唱」も、効果を決定付ける「呪文」も口にしていない。
「『だからどうした』」
ちなみに詠唱は魔法を正確に発動させるための、韻を踏んだ読経のようなもので、呪文はその効果を決定付けるものであると、一般的に謂れている。
詳細は不明であるのだが、魔法に熟達すると詠唱は不要となり、呪文だけで発動可能だ。そしてそれは、いわゆる「無詠唱」と呼ばれている。
多くの魔法使いは、詠唱と呪文は絶対に必要なものであり、一部の才能と才覚ある者のみが「無詠唱」を習得出来ると教えられていた。
だが実際はそんなことはなく、確かに複数の属性や高度な魔法の習得にはそれなりの才能が必要ではあるが、それ自体はそれほど難しいわけではない。
全ての技術の習得に必要な最も重要な事項は「反復」であり、魔法も技術の一つである限りそれは変わることなどないのだ。
ただ稀に、純粋に才能のあるものにしか習得出来ないとされている魔法技術は、確かに存在する。
それは、魔力操作のみで術者が思い描き期待する効果を再現し発現させる、記憶に完全依存した魔法技術であり、その名称は――実は無かったりする。
更にいうなら、その技術自体が異端とされ否定されているのだ。
何故ならそれは、それを享受出来ない者どもにとっては明らかに都合の悪い技術であり、当然それらを教授出来る筈もない。
もっともそれはシェリー自身でも出来ることではなく、その技術を言語化して教授出来ていたのは、知る限りではただ一人だけ。
非公式ではあるが〝魔法女王〟の二つ名を持つ魔女、エセル・アップルジャック。
その道を極めんと切磋し琢磨する者どもが、挙って羨望し嫉妬し、そして憧憬を抱いた、若くして逝去した偉大な魔法使い。
本人は、そんな「『ちゅうに』臭い」二つ名は嫌だと、全霊で拒否して否定していたが。
そんなトンデモ技術を事も無げに、なんでもない当り前であるかのように発動する。だがそのシェリーを慄きながら、だが視線を外したら命がないとでも思っているのか、その場の全ての者がその一挙手一投足から目が離せない。
「おお……美しい……」
だがそんな中、シェリーが発動したそれを正しく理解した枢機卿アーリンが、危機的状況であるにもかかわらず恍惚の表情でそんな呟きを漏らした。
流石は枢機卿。どうやらそれがどのようなもので、そしてどれほど高度で難解な技術であるかを理解してい――
「なんだか良く判らんが、可視化されるほどの凄まじく高濃度な魔力が見事に練り上げられて行く。ああ……それに煽られ恰も意思があるかの如く波打つ白金色の髪と、魔力と光の加減で色彩が変化する翠瞳が堪らなく美しい……。流石は聖女、なんと素晴らしい魔法だ……」
――理解していなかったようである。彼が感動していた対象は、どうやらシェリーの容姿と魔力とその操作技術であるらしい。
「うくぅ! 聖女のフトモモが……はぅあ!? 白いのがちょっとだけみ、見え――はふうぅぅぅ……ぐは、鼻から赤い汗が!」
訂正。
追加でナニかが見えてしまったようで、禁欲生活が長期に渡っているためそーゆー免疫が決定的に不足している枢機卿や修道士、そして神殿兵も同じように、いや、それ以上に、前方を正視出来なくなったり何故か前のめりに前屈みに立てなくなったり出血の継続損傷を勝手に受けたりと、ある意味での状態異常に陥ってしまい、その場で動ける者が誰一人として存在しなくなってしまった。
結局、シェリーが発動して周囲に撒き散らしている〝放電〟の効果を巧みに魔法障壁で防ぎつつ、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんが説得を試みてなんとか落ち着かせ、ようやくその場は収まった。
その後、コーデリアさんと茶飲み話しに楽しく咲かせていると、それをぶち壊すように司祭のズビシェク・アベスカがまたしても闖入し、反省? ナニソレ美味しいの? とばかりに高圧的に意味不明なことを喚き、今度は本当に面倒になったのか無属性魔法である魔力弾の直撃を喰らってやっぱり廊下の反対側まですっ飛ばされた。
そしてそれを気遣ったりそうされたことを諫めるものは誰もおらず、逆に汚物を見るかのように引っ繰り返って延びている彼を眺めるだけであったという。
白金色の髪を掻き揚げて、ズビシェクを蔑むように一瞥するシェリーを、一部の修道士や神殿兵が尊敬と憧憬と熱狂が入り混じった視線を向けてハァハァしていたのだが、その手の連中に慣れちゃっている彼女は、其方に一瞥すら与えす部屋に引っ込んで行った。
そうしたところで――
「聖女シェリー様……なんと美しい……」
「まるで天より降り立った女神のようだ……」
「いや、聖女様はきっと女神の生まれ変わり、いや、女神の化身なのだ。絶対にそうだ」
「表情を一切崩すことなく数多の魔法を展開するそのお姿……ああ、尊い……」
「時に無慈悲であるが、それがまさしく女神様……」
「は? 何を言っているんだ? あれは無慈悲なんかじゃない! 我らに与えたもうた御褒――慈悲なのだ!」
「いやでも物理的に踏んだり蹴ったりは無慈悲じゃ……」
「バカかお前。あれこそ御褒び――慈悲であろう! その証拠に、踏まれた俺は全然痛くなかったぞ! むしろ気持ちぃ――」
「そう、冷たい蔓に縛られた上で軽く衝撃が来る程度に踏まれたあの瞬間、私はこの世に生を受けて初めて『生きている』実感があった……」
「全く以てその通り! ボクも踏まれたが全然痛くなかった! そしてそのときに目に焼き付いた内モモが……がふぅ! いかん、またしても鼻から赤い汗が……」
「な! 内モモだとぅ!? 貴様! なんと羨ま怪しからんことを! 不敬であるぞ! 万死に値す――」
「ああ、俺も目に焼き付いて離れない……女性的に柔らかそうな……だが無駄のないハムストリングス……あれこそまさに、まさにまさにまさにまさにまさに! 女神のフトモモ!!」
「そればかりではなく、折れそうに細い足首から延びる女性らしい柔らかそうなふくらはぎ……腓腹筋とヒラメ筋の絶妙なバランスが素晴らしいのです! 可能であるなら、死ぬまでにもう一度踏んで欲しいのです!」
「筋肉も良いが、踏まれる度に動く綺麗な膝も、膝蓋骨も堪らないのです。まさに完璧な、美しい御御足……踏まれるだけで天上に居るかの如き甘美な感覚に包まれるのです……」
更に色々な拗らせを誘発させるだけであった。
シェリーがベン・リアック神殿でお歴々な方々と大立ち回りをして、ちょっと特殊な信仰を不本意ながら集めちゃっていた頃、グレンカダムを特別列車で発っていた冒険者集団〝無銘〟の三名は、リトルミルの駅構内に降り立っていた。
そして険しい表情をそのままに、リーダーであるアイザック・セデラーはリトルミルの町へと一歩踏み出し、そのまま崩れ落ちた。
顔面が蒼白であり、吐き気が酷い。更に耐え難い眩暈にも襲われており、目を開いていても瞑っていても変わらず気持ち悪い。
「ぎぼじわるい……なんであんなに揺れるんだよおかしいだろ……」
そう、彼は――アイザック・セデラーは、只今絶賛乗り物酔い中であった。
「あー、速度を最優先にした特別列車だからねー。まー思いっきり揺れてたねー」
そんな情けなく丸まっているアイザックの背を眺め、その妻であるエイリーンはやれやれと言わんばかりに溜息を吐く。
奥さんなら乗り物酔いで気持ち悪くなっている夫の背を撫でるとかしろよとか言われるかも知れないが、それで気持ち悪くなっているのに背を撫でて振動を与えたら、余計に気持ち悪くなるのである。
興味があるという強者は、とりあえずグローブジャングルを高速で三〇回転ほどしてから試してみると良い。それをされたら確実に殺意が芽生えるであろう。
「乗馬とかは平気なのに、なんで乗り物で酔うんだろうな。馬車とかに乗ってもすーぐに酔っ払うし」
「酒も呑まずに酔えるんだから財布に優しいじゃない」
「いや姉さん、それなんか違う」
「酒云々は置いといて、あたしが抱えて走ったときには平気だったわよ。馬車より揺れてたと思うんだけど」
「なにがあってそうなったのは予想も想像も出来ないし、なんかしたくもないけど、きっとそれは御褒美だから酔う筈ないよ。あと自覚がないようだから敢えて言うけど、〝龍纏武術〟を修めている姉さんの歩法は重心がブレないんだから、馬車より揺れるとか有り得ない。逆に快適だったんじゃない?」
気持ち悪くて蹲るアイザックを眺めながら、エイリーンとJJの龍人姉弟が呑気にそんなことを言っている。
本来であればそれにツッコミを入れるアイザックなのだが、現在そんなワケで出来る筈もなく、そしてそうする気力すら湧かないために野放し状態だ。
「んがなんとした? あんべわりんだばこっちゃこ。ひゃっけ水っこなんじぎさあででやるったいに」
だが蹲るアイザックに、小妖精の駅員さんがつぶらな瞳で覗き込んでそう話し掛ける。
雰囲気でなんとなーく気遣っているなーとは思うのだが、例によってなにを言っているのか全然判らない。
しかしそれでも、その小妖精の駅員さんの気遣いが嬉しくもあり、でもやっぱりちょっとそっとしておいて欲しいとも思うアイザックであった。
シェリーを救出すべく押っ取り刀でリトルミルへと駆け付けた彼ではあるが、自身が乗り物酔いし易い体質だというある意味で最重要でもある事項がスッポリ抜けてしまっており、更にそれに思い至らなかったためにこの有様である。
仕方なく、三人は日が沈んで夜闇に包まれ、そして夜営業の店舗の明かりが灯る町へと歩き出した。
ちなみにアイザックはエイリーンにおんぶされている。荷車や人車で運ばれたり自分で歩くより、殆ど揺れない特殊な歩法で滑らかに移動するエイリーンに運ばれた方が、圧倒的に楽だから。
そんな有様な自分が情けなく、そうされている自分が恥ずかしいと、つくづく彼は思っていなかった。
自身の体質を嘆いたところでどうなるわけでもなく、そしてそう考えているのだから治そうとも思わない。
体質や性質は、そう簡単に治らないものである。それを無理にどうこうしようとしたって、事態が悪化するだけだから。
必要なのは、そういうことを受け入れてどのように付き合って行くかだ。KIAIでなんとかしろとか言うクズ野郎の言い分になど、耳を貸す必要も価値もない。ただ気分を害して時間を浪費するだけだし。
商業ギルドのサブマスター、デリック・オルコックからの情報で宿泊予定先は判っているため、なにはともあれその宿泊予定先である「カネキラウコロ」へと向かうことにした――
「ねえザック、お腹空いた。何か食べても良い?」
――のだが、物凄ーく真面目な表情で、そんなことを言い出すエイリーン。となりのトト……じゃなくて隣のJJも、やたらと神妙な表情で一度で充分なのにこれ見よがしに何度も首肯している。
流石にそれは承服出来ない。即座に反論しようとするアイザックだが、
「いや、ぞれどごろで……おぶふぅ……」
気持ち悪くてやっぱりそれどころではない。
「姉さん、今のザックにそれを訊くのは酷だろう。でもその意見には全面的に賛成だ」
言うが早いか、JJが道端に連なっている屋台に入って行き、野菜やら何かの肉やらを煮込んだ熱々なスープが入った特大の器――丼を二つ持って出て来る。
アイザックの身体を自分に、何処から出したのか帯紐で固定したエイリーンが、JJからそれを受け取ると、申し合わせたかのように一気に口へと流し込む。
「まったりっかおめだ。七味いれればまっとめはんで……あんやどでした、も食ったが。あぢくねがったが?」
そんな二人の前に、屋台の主人の小妖精が小瓶を片手にJJを追って来る。そして熱々のスープを一気飲みした龍人姉弟を目の当たりにして、ただでもつぶらな双眸を更に点にしていた。
「ん、熱くなかったかって訊いたのか? 龍人にとって多寡が煮立った湯など焔に比べれば流水のようなものだ」
「あんやんだなが。だばってそったはえんだば食ったそらねべしゃ。こっちゃこ。もいっぺかへるったいに」
言われ、だがやっぱり理解出来なくて丼片手に首を傾げる二人に手招きをし、その小妖精は言葉の壁にぶち当たって理解が追い付かないのを完全に無視して新たにスープを装う。
「そういえばなにも考えずに一気飲みしちゃったけど、このスープって何?」
装われたスープを繁々と眺め、至極真っ当なことを今更ながらに訊くエイリーン。
すると店主の小妖精は、
「モツ汁だ。なんぼがクセあるったいになもまぐねってへるのもいるばって、くしぇかまりねぐでぎだったいにめど」
案の定なにを言っているのか判らないが、見た感じ野菜と内蔵系の肉を煮込んだスープのようだ。
内臓系の肉は、龍人族の大好物である。
二人はその屋台に陣取り、まずJJが懐からちょっと屋台に払うような桁じゃない金額を出して店主に払い、ギョッとする店主を尻目に有り得ない量を食べ始めた。どうやら久し振りの内臓肉を目にして、完全に箍が外れたらしい。
「あいすかだねどでした。にゃまだくごどくごど。わこったにくのみだごどね。んだばこさじゃっぱ汁あるばってこいもくが?」
そう言い、丼に魚の頭やら骨やら鰓部分といったアラで出汁を取ったスープを出す。ちなみに、頭はまるっと入っていた。
龍人は、魚も頭からバリバリ食すのが好きである。
よってそれも――以下略。
「ガラの出汁さだまっこへだだまこ汁もあるばって、くが?」
そして更に提供される、米の粒を半分潰した――いわゆる半殺しにして丸く成形してキノコとささがき牛蒡とで煮込んだスープも提供させる。
龍人は、炭水化物も大好物である。
いや種族関係なしに、大抵はそうだと思うが。
「いや、食ってねぇではやぐ……うぼぁ……」
エイリーンの背で呟くアイザックの言葉は、食欲を満たそうとする龍人姉弟には届かない。
そしてその頃、シェリーが宿泊予定であった旅館「カネキラウコロ」のロビーでは、デリックやアイザックの到着を今か今かと待つデメトリオが、
「あいや大変だすなぁ。こだに待だねばねんだすか。まんず茶っこ飲んでたんせ」
年柄年中変わらず繁忙期で忙しい筈なのに、何故か隣にちょこんと座ってお茶を勧めて来る女将に困惑し、
「いやまんず良い男だごど。わ独り身だすがらどんだすか?」
「やめろ!」
何故か気に入られて言い寄られていた。
――*――*――*――*――*――*――
龍人姉弟が夜のリトルミルで食欲を満たしていたり、鹹水の魚人が小妖精の女将に気に入られて言い寄られるという珍事が起きている頃、一足先に現地入りしていた草原妖精二人――デリック・オルコックとリー・イーリーは、ベン・ネヴィス教会を一望出来る、峡谷を挟んだ町外れの林に潜んでいた。
ちなみにどうやって速度重視の特別列車より先に現地入り出来たかというと、なんのことはない自力で走って来たのである。
マクダフ平原を二分し取り仕切っていたその草原妖精二人は、控え目に言っても超人級の化物であった。
(まさか一緒になるとは思わなかったけど、貴方はこれからどうするつもりなの?)
潜みながら、声を出さずに口の動きだけでリーが訊く。若干頬が上気して、そして衣服が乱れて妙に艶っぽいのは何故だろう。
(キミが考えているのと同じだよ。まず教会を抜けて神殿に行く。構造は理解しているから最速で片付ける)
それに対して、何の迷いも淀みもなくそう答えるデリック。その視線は真っ直ぐに教会に向けられており、だがこっちも衣服が乱れてちょっと疲れているのは何故だろう。
(ま、貴方なら問題なく出来るでしょうね。勿論わたしも行くけど。ねぇなんか疲れているみたいだけど。それで行けるの?)
背負っているザックから弩を取り出しているデリックに、魔力が付与された特製の短矢を渡しながら、気遣わしげに訊く。
するとデリックは、弦を巻き上げて受け取った短矢を弓床に装着しながら、半眼のジト目をリーに向けた。
他所様がそれを見ていたのなら、男のジト目など何処に需要があるのだと思うだろう。
(問題ない。というか疲れる原因はキミだろう。まさかこの期に及んで絞られるとは思わなかったよ)
溜息と共にそう言い、ジト目のままで「よっこいしょ」とでも言いたげな様子で立ち上がる。それを何も言わずに支えるリー。完全に奥さんである。
(ん……んん……。仕方ないでしょう。貴方ったら暫く相手してくれなかったもの。これでも我慢して加減したつもりよ。あと言っておくけど、浮気はしていないから安心して)
そんなデリックのジト目に、キュンキュン来ちゃったらしいリー。どうやら需要はあったらしい。
(い、いや、浮気もなにも、ボクとキミはもう夫婦じゃないし、それに恋人でもないからね)
そのキュンキュンしているリーに、やっぱりキュンキュンしちゃったらしいデリックであった。
傍から見れば、どうあっても相思相愛である。そんなに仲が良いのに何故に離縁したのか理解出来ないと他所様から言われそうなバカップルぶりだ。
(貴方が言葉責めをしてくれるだけでわたしは我慢出来るわよ。今はね)
自身が背負っているザックから黒装束を取り出し、何故か乱れている着衣を全て脱ぎ去ってそれを着る。それは身体を引き締めるようなものであり、判り易く言えば全身タイツであった。
(そういうのが嫌だって言っているだろう。ボクは変態を許容出来ない)
……そういうことである。正常と変態には、計り知れない溝があるのだ。
(ふうん……。じゃあ身体だけの関係で我慢するわ。今はね)
さりげなく予防線を張るリーを再びジト目で見詰め、だがすぐに溜息を吐いて気を取り直し、同じく黒装束を取り出した。
(今後もないから。あと、どうしてボクの前だけ女言葉なんだ?)
そしてそう言いながら、着衣を全て脱ぎ去りそれを着始める。そんな姿をガン見しながら、だがそれを手伝い始めるリー。
事務仕事が多くて運動不足のせいなのか、若干お腹が出て来ているのに気付く。
後で運動させてやろうと、リーは勝手に画策した。無論どういった運動なのかは謎であるが。
(貴方がわたしにとって、昔も今も未来までも特別だからに決まってるでしょ。じゃなかったらこんなことを言ったりしたりするワケないわ)
「お、おお」
そんな男心を擽るリーに、思わず声が漏れるデリックであった。まぁ周りに誰もいないから、ちょっとくらい口に出したところで誰一人気付かないだろうが。
どうあってもイチャコラしているようにしか見えないのだが、そんな中でも着々と準備をする二人である。
程なく準備が終わり、互いに視線で合図を送ると、デリックが先程の弩を構えて100メートルを超える峡谷の先にある岸壁へと短矢を放つ。
それは暗闇へと消えて常人には視認出来ない――いや、日中であっても小さな短矢を視認するなどほぼ不可能。
それ以前に、いくら弩であってもそれほどの長距離射撃を成功させるのも、限りなく不可能であるのだが――
(うん。その腕は衰えていないのね)
暗闇の彼方に消えた短矢を眺めてそう声もなく呟き、岸壁に魔法陣を描く。其処に魔力を流すと、先程デリックが放った短矢から魔力のロープがリーが描いた魔法陣へと伸びて突き刺さる。
(ふふ。貴方の棒から出たモノがわたしのモノにキレイに突き刺さったわね。相変わらずの百発百中ぶりだわ)
(……そういうところがイヤなんだよ)
ちょっとした悪ふざけのつもりで言ったリーなのだが、大真面目にそう返されて、更にそれ以上は聞く耳持たないとばかりにデリックは、空気抵抗を打ち消す風を全身に纏って張られた魔力のロープの上を走り出す。
その反応が不満ではあったが、リーも同じように風を纏ってその後を追う。
その魔力のロープは物質的なものではないため、風や重力の影響は一切受けない。
故に揺れやたわみは一切なく、それを渡るのは慣れたものなら特別難しくはない。
だからといって、その100メートルを超える距離を十秒足らずで駆け抜けるのは些か非常識が過ぎると思われそうなのだが、そもそも列車よりも速くその速度を維持したまま長距離を走る化物相手にそんな常識を説く自体、当り前に無謀である。
ともかく、闇夜に紛れた二人の草原妖精は、音もなく拍子抜けするほどにあっさりと、ベン・リアック神殿へと侵入したのであった。
充てられた部屋で、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんと茶飲み話しに花を咲かせ、そして何度も闖入しようとして叩き出される司祭なヒヒジジイにいい加減にウンザリしたシェリーは、遂にというかなんというか、止せば良いのにその話しを聞いてしまっていた。
「聖女に選ばれるのは大変な栄誉である!」
「知らないわよそんなこと。そもそも栄誉かどうかなんてアンタが決めることじゃないでしょうが。少なくとも私はそんな称号を栄誉だなんて思わない。ぶっちゃけ要らないし邪魔」
「なんと不敬な! 聖女とは成りたくて成れるものではないのだ! その神より与えられた力を世のため人のために生かすのは、力を持つ者の責務なのだぞ!」
「勝手に責務にしないでよ莫迦じゃないの。それにこの力は神とかいう漠然とした、言ったモン勝ちみたいな不確定要素の塊に与えられたわけでもなんでもなくて、私個人の研鑽と努力で勝ち取ったものよ。それを全否定するような奴の言い分なんが、これっぽっちも聞いてやる価値もないし義理もないわ」
「なにを言うか! 人は生まれながらにして役割が決まっているのだ! それが神が与え給た責務であり、義務なのだ! 義務を果たすのは神の御子たる我らの使命であるのだぞ!」
「そっちこそなにを言っているのよ。聞くに耐えない自分美学なんか、よくもまー恥ずかしげもなく披露出来るわねみっともない。役割とか責務、義務って言えば全ての人が納得するとでも思っているのかしら。それを言うなら、紛争で殺される罪のない一般人の役割ってなに? そしてそうやって殺す側の役割は? アンタの主観じゃなくてハッキリ判るように説明してみなさいよ」
「それは神のみぞ知ることである! 神は我らの考えも及ばない存在であるのだ!」
「都合が悪くなったからって『神』とやらに逃げるんじゃないわよ。『神』って名称を便利に使って言い包めようとしたって無駄だからね」
「神を侮辱するか! いくら聖女といえど不敬にも限度があるぞ!」
「侮辱してないわよ何言ってるのよ。アンタがあまりに神とやらの理解が足りていないからそれを指摘しているだけ。それが気に入らないなら理路整然といままでの件を私が納得するように説明してみなさいよ」
「それを考えるのも人に与えられた責務である! 神の考えを理解することこそが、我らに与えられた使命なのである!」
「あれあれ~? さっき『神は我らの考えも及ばない存在であるのだ~』とか言っていなかった~? 及ばないのにどーやって理解するのかなー」
「それは、それこそ試練なのだ!」
「はいダウト。まー見事に語るに落ちたわね。アンタら宗教関係者は役割、責務、義務、そして試練っていう単語が大好物でそれ言えば皆が納得するって思い込んでる節があるみたいだけど、ちゃんとそういう話しにはオチをつけないと心に一切響かないわよ。特にアンタの言葉は薄っぺらくて響かない。そんな調子で延々と演説されたって眠くなるだけだもの。もう良いでしょ。お帰りは彼方」
「なんという傲慢な! その態度は不敬である! 親の顔が見てみたいわ!」
「あら残念。私の戸籍上の両親ならもういないわよ。まぁクズな親父は何処かにいるかも知れないけれど、会いたくもないし視界の隅にすら入れたくないわ。知ってる? 子供ってね、常に親を観察していて評価しているのよ。アンタはどういう風に評価されているのかな~?」
「我は神を信仰し、成人と共に世俗から離れて生涯を神に捧げると出家した身! よってそのような者はいない!」
「なんだ、成人して並の生活を送るのが辛いからって『神』とやらに逃げたヤツか。下らない。ああ、でも前もって言っておくけど、私は別に聖職者を貶めてるつもりはないわ。本当の意味で情熱を持って神に支えている人もいるしね。確実にアンタじゃあないって判るけど」
「神ばかりではなく我まで貶すか! 不敬もここに極まれ――」
「待ってよただの莫迦。それ言葉がおかしい。なんで神がアンタより下みたいに言われなくちゃならないのよ。アンタの方が不敬でしょ。それに私は確かに神を漠然とした不確定要素の塊だって言ったしそう思っているけれど、これでもその存在は信じているのよ」
「神を信仰しているのなら尚のこと! その力を信仰のために使うのがあるべき道であろう!」
「『信じている』はイコールで『信仰』じゃないわ。あとアンタの言い分が『人々の為』から『信仰の為』に変わってるわよ。語るに落ちるが止まらないわね」
「だがお前は神を信じてると言った! それは神の慈悲を受ける信仰と同義である!」
「違うよ」
自分の言い分をあくまで通そうとしている司祭なヒヒジジイ―― ズビシェク・アベスカへと最高の笑顔を見せ、そして――
「その方が、面白いから」
極論として、シェリーは「神」という存在を「あったら面白い娯楽的な何か」としてしか捉えていなかったりする。
「不敬にも限度があるぞ! 神の存在を面白いから認めるなどとはあってはならぬ! 今すぐ我に謝罪しろ!」
「はぁ? なんでアンタに謝らなくちゃいけないのよ。幾重にも重ねて言うけど莫迦じゃないの。というか神の代理気取りのアンタが神に謝罪しなさいよ鬱陶しい」
「黙って紳士的に言っておれば図に乗りおって! こうなれば我が神罰を下してやろう!」
あー言えばこー言うシェリーに業を煮やし、そんなことを口走る司祭様であった。
だがシェリーにしてみれば、そうしているのはヒヒジジイの方であり、そして大の男が小娘相手にあーだこーだ言うのもどうかと思っていたりする。
というか見苦しいし鬱陶しい。
それに客観的に見てもどう考えても、明らかにシェリーがイチャモンをつけられているだけである。
そんな不毛な言葉の応酬を黙って観ていた、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんは、隠そうとすらせず露骨に呆れた溜息を吐く。
上司がそんなみっともなく意味不明に、しかも成人したての少女相手に喚き散らす様を目の当たりにすれば、当り前にそういう反応になるであろう。
だが逆上している司祭なヒヒジジイは、そんなコーデリアの反応に気付かない。
更にあろうことか、テーブルに着いて優雅なティータイムをしているシェリーへと、テーブル越しに掴み掛かろうとする。
それを冷めた表情で眺め、だがすぐに立ち上がるとカップとソーサー、ティーポット、ケーキスタンドを真上に放り投げ、テーブルを退かしながら、
「〝寸勁〟」
豹拳をポニョポニョしているヒヒジジイの腹に当て、それをそのまま突き出し方拳へと移行させ、衝撃を爆発させる。
非力な少女なら力に訴えれば黙らせられるとでも思っていたらしい司祭なヒヒジジイは、予想を超える反撃にあってそのまま吹き飛び、いつのまにか移動しているコーデリアが開けたドアの先へと消えて行った。
残念ながら、一見すると華奢で可憐に見えちゃうシェリーは、その見た目を完全に裏切る実力を持っている。
離れれば魔法が飛び、接近すれば打撃が飛ぶという、どんな戦略兵器だとツッコミを入れられるであろう実力者だ。
もっとも得意なのはあくまで魔法であり、師匠であるエイリーンが言うには、
「〝浸透勁〟を修めるまではまだ半人前」
だ、そうである。
〝寸勁〟も充分に秘伝や奥義に類する技術なのであるのだが。
「神罰を与えるとか烏滸がましいヒヒジジイには当然の報いよね」
放り投げた色々を、中身を一切零さず受け取りテーブルに戻し、ドヤ顔でそんなことを言う。
そしてそうしつつコーデリアをチラ見しているのだが、それになにかを言うといった突っ込みスキルを持ち合わせていない彼女は、ちょっと困った顔で首を傾げるだけであった。
純朴なディリィにそれを求めちゃいけないわよねうん。
そう独白して自分を納得させるシェリー。瞬間的にセンチメンタルになっちゃったようだ。
その後、意識を取り戻した司祭なヒヒジジイ――ズビシェク・アベスカが、ぶっ飛ばされて廊下に放り出された前後の記憶がスッポリ抜け落ちたのか、退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ! 司祭に逃走はないのだー! と言わんばかりに、いい加減に諦めるか交代すれば良いのに懲りずに突撃を繰り返し、その度に圧迫面接のような押し問答と脅迫と迎撃を繰り返す事態となった。
第三者として見物している分には面白い見世物ではあるのだろうが、当事者で被害者なシェリーにとっては堪ったものではない。
出来れば退いて欲しいしその行動を省みても欲しい。媚びるのはキモいではなく気持ち悪いから断固断るが。
そんな寸劇を数えるのも嫌なくらい繰り返し、ヒヒジジイの鬱陶しい行動と自分のお人好し加減に嫌気がさしたシェリーは、
「〝施錠〟」
「おお!? 開かない!? 神の代弁者であるワシを入れないとはなんたる不敬! だがこんなこともあろうかとマスターキーを持っているのだ! そのあかさかわな行動などお見通しで……んお、キーが回らん! どんな小細工をしたのだ不敬であるぞこ――」
「〝静寂〟」
ドアを魔法で閉鎖し、そしてその向こうで大騒ぎしているバカ……じゃなくてズビシェク・アベスカ司祭の騒音を打ち消した。
そうしてやっと静寂が訪れ、そして数分後にシェリーとコーデリアは互いに溜息を吐く。
「ねえディリィ。ここの司祭ってみんなあんななの?」
「いいえ。いっそそうなのならば諦めもつくのですが、残念ながら他の司祭様はまともです。アベスカ司祭長が特殊で、ずっとあんなです」
「……そう……」
「……ええ……」
「てか、アレで司祭長なの? 本当に?」
「……ええ……」
「なんというか、大変なのね貴女たちも」
「……ええ……」
「ところで、さっきアレが言ってた『あかさかわ』ってなに? なにが言いたかったのかな?」
「おそらく、『浅はかさ』と言いたかったのではないかと……」
「は? え? 本当に?」
「……ええ……」
「巫山戯てたわけじゃないわよね?」
「……ええ……」
「大真面目に言ってアレなの?」
「……ええ……」
「そう……。何を言っても気休めにもならないでしょうけど、まぁアレね。ドンマイ」
「……ええ……」
完全に部外者であるシェリーに「気にするな」と言われても気休めにもならないし、言葉としてどちらかといえば「気にするな」の方が適当かなとも思っていたりする。
だがとにかく、なんとなーく神殿で働く人々に同情してしまい、そう言わずにいられないシェリーであった。
――*――*――*――*――*――*――
シェリーがそんな騒動を引き起こしている――いや、どちらかといえば騒動に巻き込まれている方であるが、とにかくわちゃわちゃ(?)している頃、説得と協力を要請するようにと実は正しく指示を出していたアーリン・ティム・ジンデル枢機卿猊下は、いつまで経っても結果報告がないことに首を傾げていた。
枢機卿猊下の指示は至極真っ当ではあったのだが、それを実行させる人選に決定的で致命的な誤りがあったりする。
だが人を見る目が実はない彼は、それに一切気付かない。いや、気付けない、が適当であろう。
更にいえば、「報せが無いのは良い報せ」とか、意味はなんとなく判るが単語と使い所が確実に間違えている言葉を、そうとは気付かず信じちゃっていた。
ちなみに正解は、「便りがないのは良い便り」であり、遠方にいる家族、知り合いがその対象である。間違えても指示を受けて実行中の部下に使う言葉ではない。
そんな感じにやきもきしながら、だが大司祭であるアベスカに一任しているからと動かない枢機卿猊下。寿命が無限であると謂れている森妖精に相応しく、恐ろしく気が長いようだ。
――慌てても仕方ない。家宝は寝ているという格言もあるしな。
そんな格言があったと想起しながら、枢機卿猊下は側仕えの修道士が淹れた茶の香りを楽しむ。そして格言が間違っていることにはやっぱり気付いていない。
そうやって余裕をブッかまして優雅に茶をしばいている枢機卿猊下の元へ、下級司祭が血相を変えて面会を求めて来た。
――やっと聖女が説得に応じたか。
その報せは、まさしく福音であろう。ソーサーを片手に、カップを傾けながら優美に立ち上がり、
「枢機卿猊下へご報告致します! アベスカ司祭長の説得に、聖女様が一切応じません!」
口に含んだ紅茶を、アトマイザーよろしく綺麗に吹き出した。
「そればかりか、扉に〝施錠〟の魔法を掛けて立て篭もりました! アベスカ司祭長が怒鳴り込んで――もとい対応していますが、まっっっっっったく反応がありません!」
その報告に、ソーサーとカップをテーブルに戻してから口元を拭い、息を吐いてから窓際に立つ。
そして――
「なんということだ。アベスカ司祭長の説得に応じないとは……なんと意思の硬い。いや、素晴らしい信念というべきか……」
いや、その原因はバカ――じゃなくてアベスカ司祭長にあると思う。
下級司祭はその状況を正しく見て、そして的確に評価した。そう、司祭長があんなだから司祭達が軒並みそうなのかと問われれば、断じて否である。
〝齢の儀〟での説明上手な修道士だったり修道女だったりを見れば自ずと判明するのだが、ベン・リアック神殿には結構優秀な人材は在籍している。
ただ正しく評価されていないだけ。
上司に見る目がなかったり節穴だったりすると正しく評価されないために、往々にして部下は大変苦労するものだ。
心当たりのある人は、激しく首肯し共感出来るであろう。中には血涙を流す勢いで諒解している者も居るかも知れない。
まぁそれよりも、枢機卿猊下の立ち居振る舞いがいちいち気障ったらしくて勘に触るのは気の所為ではない筈。
「よし、判った」
唐突に、一体なにを理解したのか、身に纏っている赤いキャソックをバサリと靡かせる。もっともマントのように派手に靡くわけでもないため、決して格好良いものではない。
「聖女の心意気に敬意を評し、ワタシ自ら出向くとしよう!」
会心のキメ顔で、そんなことを言っちゃう枢機卿猊下である。
頰が紅潮し、鼻翼がスピスピ広がったりしているのがなかなかに気持ち悪い。
更に何故かウットリと目を閉じて、左手を胸に当て右手を上に掲げるという、全然意味が見出せない謎ポーズまで取っているというオマケ付き。
枢機卿猊下は、聖女萌えだった。
――やはり長命な森妖精の思考は、ヒト種などが理解など出来ないのだろう。
そんな枢機卿猊下の有様を見て、下級司祭はそう思い、そして自分に言い聞かせることで無理やり納得した。
物凄い風評被害である。
何度でも述べるが、この森妖精――アーリン・ティム・ジンデルがおかしいのである。
他所の善良で良心的な森妖精がこの事態を見聞きしたのなら、それを滅ぼすレベルで怒りまくるだろう。
全ての森妖精が、この聖女萌えな枢機卿猊下や愛を語る国法士のような変た――もとい、頭がおかし――でもなく、特異な性癖があるわけではない。
むしろそういう輩は極々一部なのだ。
更にいえば、それは全ての種族に言えることでもある。
岩妖精の下戸だけは、種族的に全てに当てはまるが。
そうして意気揚々と執務室を後にする猊下。それを止められるものは、誰もいない。
というか頬を紅潮させて鼻をスピスピさせて夢心地な表情をしている様が気持ち悪く、極力関わりたくないだけかも知れないが。
彼を先頭に、下級司祭と修道士が、大名行列よろしくそれに続く。
そしてシェリーが立て篭もっている貴賓室へと向かい、その扉の前で口角から泡を吹きながら興奮を隠そうともせずに怒鳴りまくっているアベスカ司祭長を目撃することとなり、このとき初めて猊下は思った。
――人選、間違えた?
森妖精として長い生の中で、数少ない反省をする枢機卿――アーリン・ティム・ジンデルであった。
その後、枢機卿猊下を目撃して一気に興奮が冷めたアベスカ司祭長は、到着した一同から一斉に浴びせられる冷たい視線から逃げ出すように遁走し、そして枢機卿はシェリーが施した〝施錠〟を〝 強制詠唱破棄〟で消し去り、ノックもせずに入室する。
だが次の瞬間、〝条件発動術式〟で展開されていた〝冷水射〟が発動し、真夏に飲むのにちょうど良い冷水が、その場にいる全てにぶっ掛けられた。
そのあまりといえばその通りな所業に一同が呆然とする中、先頭に立っている枢機卿アーリンが、室内にいる筈の少女の姿がないことに気付く。
――そして、
『女子が在室中にノックもせずに闖入するんじゃないわよ』
これ見よがしに正面に置かれた姿見に、真っ赤なルージュで、物凄く綺麗で達筆な活字でそう書かれていた。
ベン・リアック神殿に侵入したデリックとリーは、その警備があまりに杜撰であることにまず驚き、だがこれ幸いとばかりに気配を消して堂々と探索していた。
もっともさすがに専門の訓練を受けているであろう神殿兵だけは避けて通り、それでもその程度なだけで誰も気付かないのはどうしたものかと逆に心配になったりもしたが。
闇雲に探すのでは埒が明かないため、お約束として使用人の会話を聞こうと下働きが集まる食堂の天井裏へと忍び込む。そうやってそれらの会話や愚痴、噂話からシェリーの居場所を探るつもりであったのだが、
「そういえば、聖女様って何処にいるんだ?」
「ああ、貴賓室に通されていたよ」
秒で必要な情報が掴めてしまった。
さすがは訓練されてもいない神殿の下働きである。
そんなワケで必要な情報が即座に手に入った二人は、さっさと要件を済まそうと移動を開始し、
「その聖女様だけど、なんでもアベスカ司祭長や神殿兵と大立回りしたみたいだよ」
(ちょっと待って)
(おげ!?)
だがリーにとって聞き逃せない情報が語られ、先行しようとするデリックの襟首を掴んで引き戻す。
因みに二人が着ている潜入用の服は動きを一切阻害しない、そして若干の筋力強化を作用させるために隙間など一切ない。そんな着衣の襟首を問答無用に掴めばどうなるか、答えは明白である。
(なにをするんだ突然! 必要な情報はもう聞けただろう!)
(いいえ、これからもっと重要な話が聞けそうよ。それが判らないなんて、随分と腕が落ちたんじゃないの?)
実力だけは認めているリーにそんなことを言われ、見落としや聞き逃しがあったのかを反芻するデリック。
だがどう考えても、必要な情報は充分にとれている。なにしろ自分は、このベン・リアック神殿の間取りを完全に――トイレの場所から秘密の抜け道、某司祭長が愛人との逢瀬で使う、勝手に増築した枢機卿ですら知らない秘密の抜け道すら把握しているのだから。
しかし、あまりに自信満々にそう言われて気になってしまった彼は、逸る気持ちを抑えて渋々その会話に耳を傾けた。
「え、そうなの? アベスカ司祭長は口の利き方を知らないし態度が悪いし面倒臭がり屋な上に根気がないから判るけど、神殿兵はちゃんと訓練されたエリートでしょ。それを相手にそうするって、相当なんじゃない?」
「凄かったみたいよ。取り押さえようとする修道士とか神殿兵を氷の蔓で縛って動けなくしたり、枢機卿猊下に氷の槍を撃ったりしたんだって!」
「ああ、知ってる~。なんか蔓に縛られた神殿兵をケシケシ蹴っていたんだって」
え、そんなことをしたのか? まさかシェリーさんが?
下働きのそんな噂話に、我が耳を疑うデリックだった。
「でもそれは聖女様の気持ちの方が判るわ~」
「そうなの?」
「だってあのブタ――アベスカ司祭長ったらノックもなしに扉を開けたんですって」
「うわ~……有り得ない。デリカシーが全然ないわね。話も全然面白くないし、あの人ってなんで司祭長やってるの?」
「そりゃあ、ジンデル枢機卿猊下を除けば、この神殿で一番長く居るからよ」
「……年功序列って害悪でしかないよね……此処も実力主主義になればいいのに」
「そんなことを言ったら、シスター・ハーネスが司祭長どころか大司祭になっちゃうでしょ」
「うん、そうだよね。無詠唱で聖魔法が使えるのって、シスター・ハーネスだけだもんね」
「でもシスター・ハーネスって確か、終生誓願してないよね」
「そりゃそうよ。此処の神殿にいる司祭を見たら、そんなものする気がなくなるでしょう」
「そうよね。隠しているみたいだけど、あのブタ――アベスカ司祭長とクハジーコ……女子修道院長ってそういう関係だしね」
「だよねー。そのうち妊娠して追放されるんじゃない?」
「でも意外だよね~。ラディスラヴァ・クハジーコヴァー女子修道院長ってそういうことには一切興味がないようにしか見えないのに」
「え? 貴女知らないの。クハジ……女子修道院長って、元々は王都の娼館にいたんだよ。それに関しては珍しくないけど、あの人は特別で、脱いだら色気が凄いんだ」
「うんうん。なんでもクハジー……女子修道院長の取り合いで貴族達が潰しあったくらいなんだって。きっととんでもない悪女だったんだよ」
「へ~。なんか意外。だってラディスラヴァ・クハジーコヴァー女子修道院長って凄く優しいんだよ。以前あのブタに殴られそうになったのを庇ってくれたし」
「え? そうなの? だってあのブタの愛人でしょ? なんでそんなことをするのよ」
「それは判らないけど。でもその話しだって本当かどうか怪しいよね。そもそも終生誓願しているラディスラヴァ・クハジーコヴァー女子修道院長がそういう不実をすると思う? 皆、ちょっと娼館勤めに偏見あるんじゃないの」
「あー、う、うん……。確かに事情があってそういう処にしかいられないって人もいるし……というか、貴女こそどうしてクハ……女子修道院長の肩を持つの? それに名前もちゃんと言えるし」
「あたしなんて名前が長くて全然覚えられない……」
「以前ラディスラヴァ・クハジーコヴァー女子修道院長の担当だったの。当然寝所の掃除もするんだけど、一度だってそういうことをした跡がなかったよ。それに凄ーく親切で凄ーく優しくて、凄ーく良い匂いした――」
その後、延々とその女子修道院長の話しが続き、痺れを切らしたデリックがジト目でリーを睨んで悶絶させてしまい若干後悔した頃になり、
「そういえばさ、聖女様に蹴られたり踏まれたりした神殿兵達がね、なんか凄く幸せそうだったって」
「あーね。それあたしも聞いた。なんか『女王様』とか『女神様』とか言ってたんだって」
「ええ? わたしは『フトモモがぁ』とか『ハムストリングスが堪らん』とか言ってたって聞いたけど?」
「違うよ。『腓腹筋とヒラメ筋の絶妙なバランスがぁ』とか『内モモがぁ』とかでしょ?」
「そうなの?『綺麗な膝と膝蓋骨がぁ』だったと聞いたけど……」
シェリーが神殿兵に対して行った、悪逆極まりない行いの数々(笑)が露呈してしまった。
(イエス!)
だがそれよりなにより、過酷極まる訓練を行いやっとそうと名乗れる神殿兵が、特殊なナニかに目覚めてしまった。
下働きのそんな会話に耳を疑うデリックであったが、リーは何故かサムズアップをしていた。
「聖女様って凄く可憐で綺麗でしょ。そんな少女に踏まれたり蹴られたりするのが堪らないんだって」
「あ、う、うん。ちょおっと理解出来ないかなぁ」
「ん~、素敵な人にちょっとイジワルされるのはイヤじゃないかも……」
「え? 貴女そういう属性持ちなの? 鐚イチ理解出来ないんだけど」
「それには同意するわね。でも一部の神殿兵がそうされて新しい扉を開いちゃったんだって」
「うわ~……。きっと厳しい戒律とか訓練で抑圧されたナニかが一気に弾けたんだろうね……」
(あのシェリーさんが……エセル様の忘形見のシェリーさんがそんなことを……)
思わず頭を抱えるデリックであった。
だがその隣で、そりゃあもう小気味良いくらいの満面得意顔をしているリーに気付いて「苛ぁ!」とし、その胸倉に掴み掛かる――
(お前か! お前らの所為か! シェリーさんに、エセル様の忘形見になにしてくれてんだ!)
(あ、ん、うんん……良いわデリック。その調子でもっとして。いつも何度でもこうしてくれると、わたしは何回でもイけるわ)
――のだが、都合が悪くなって視線を逸らすでも言訳をするでもなく、胸倉を掴まれてカックンカックンされるがままに恍惚の表情を浮かべるだけであった。
(もう、貴女は優し過ぎるのよ。わたしがもっと乱暴にしてって言ってるのにしてくれないし。確かにそうされるのもイヤじゃないし、イチャイチャネチネチするのが好きだっていうのも理解出来るわ。だけど私の希望もちょっとは聞いて欲しいっていうのは至極真っ当なことだと思うわ)
(うっさい!)
姦しく噂話しに花を咲かせる使用人用食堂の天井裏で、草原妖精二人は声もなく音もなく、現時点で一切必要のない会話をしていた。
客観的に見て、滅茶苦茶仲のいい二人である。
そんなどーでもいい情報と行為がありつつ、だが身の熟しと捜索技術は本物な二人は、ほどなくシェリーが立て籠っている貴賓室へと到達した。
数ある貴賓室の中からシェリーが在室しているそれを探し出すのは、実はそれほど難しいくはない。
シェリーほど優れた魔法使いならその魔力は独特であるし、それにそれを抑えていたとしても、逆にその場が空白のようになるから、デリックやリーが気づかない筈がないから。
それに、何故かその扉の前ではやたらと肉付きが良い、本当に聖職者なのかと疑いたくなるようなジジイが喚いているし、更に内側には〝静寂〟の効果で音が伝わらないようになっていた。
気付かないわけがない。
「お嬢」
天井の張り板を外し、まずリーが室内に侵入するのだが、それより早くシェリーは其方へ目を向けていた。
「迎えに来ました。さっさと此処から出ましょう」
室内に降りて片膝を突き、慇懃に礼をして微笑み掛ける。そんな一見安堵させるような笑顔であっても、常日頃の行いや言動を知っているシェリーは、ティーカップ片手にそりゃあもう嫌ぁな顔を向けてちょっと後ずさった。
「なにしに来たのよリー。私、アンタを呼んだ覚えなんてないわよ」
世の子女達が床を這いずる黒い甲虫を目の当たりにしたときような目を向けられ、思わず頬を赤らめハァハァしだすリー。
それを目の当たりにしたシェリーは、更に汚物へ向けるような視線を浴びせる。だがそんな表情を向けられたら、余計に悶絶するだけである。
関係ないが、二人が着ている黒スーツは身体に吸い付くように締め付け凹凸を押さえるため、草原妖精特有の体型であるリーは細身の少年にしか見えない。四六歳だけど。
「この変態は気にしないで下さい」
「あぶぇ!?」
そんなハァハァしているリーをよそに、続けてデリックがリーの上に足から落ちて来る。
此方も黒スーツであり、リーより若干体幹がしっかりしているように見える。どちらにせよ、シェリーはそんなものに興味はないからどーでもいいが。
「デメトリオから、シェリーさんが教会に入ったきり出て来ないと報告がありましたので迎えに来ました。まさか教会がこんな意味不明なことを強行するとは……」
『あ……んん、ん……。唐突にそうクルとかハイレヴェルなプレイを始めるなんて……ぅうん、萌えるわ……』
「デメトリオさんが? そっかー、なんか悪いことしちゃったなぁ。真面目な人みたいだったから、必要以上に責任感じちゃっていないか心配してたんだよね」
『ふ、ふふ……お嬢の前で私を踏むとは良い度胸じゃないか。いつもはしてくれなあふぅ――』
「そもそもなにがあったのですか? 下働きの雑談で『聖女』とか言われていましたが……」
『「性女」!? お嬢! 遂にやりましたね! コレでオトナの仲間入りごふぅ――』
「それが私にもワケが判らないのよ。水晶に触ったら真っ黒に染まるし。私の腹ってそんなに黒いのかしら……って放っといて。というかデリックさんもリトルミルに来てたの?」
『あ、ああ、あ……お、お嬢にまで踏んで頂けるなんて……なんて至極な……』
「いえ。デメトリオから連絡がありましたので、急いで駆け付けました」
『んん、あぅん……お嬢の力加減が絶妙です……クセになっちゃ――うん……』
「駆け付けたって、どれだけ急いで来たのよ。大変だったでしょ。あ、お茶飲む? ディリィ、デリックさんにも淹れてあげて」
「え? あ、はい」
突然の闖入者に驚き、そして踏ん付けられて恍惚としているリーを見て唖然とし、だがシェリーが親しげに話しているため良からぬことをしに来たのではない判断した、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんは、若干どころか相当戸惑いながらもティーカップを二つソーサーに乗せて紅茶を淹れ――
「あ、一つで良いわよ。二つも淹れて誰に飲ませるの。やーねーディリィったら」
「え? あ……の、其方の方には……」
「なに言ってるの? 此処にはデリックさんしか来ていないでしょ。もーディリィったら、まさか虫にも振る舞うつもりなの?」
「え……虫って……」
とても良い笑顔でそう言うシェリー。だがコーデリアは見逃さなかった。「虫」とか言っているときのシェリーの瞳から、ハイライトが消えていることを。
だがそうはいっても、そんな扱いを受けて虐げられて辛い思いをしている者を目の当たりにして放って置くのは、終生請願をしていないとはいえ聖職者である自分には出来な――
『あ、ああ、グリグリしちゃらめぇ……う、ううん……もっとして欲しくなっ――』
うん、放って置こう。
辛くないようで逆に楽しんでいるのならば、その享楽を邪魔するのは無粋である。
ヒトにはそれぞれ、他と違った楽しみ方があるのだから。
そう、みんな違ってみんな良いのだ。
「お気遣いなく、お嬢さん。我らはすぐにでも去りますから」
まぁ、そうだろう。
決して察しが悪いわけでも鈍いわけでもない、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんは、二人を見たときから見当はついていた。
というか、シェリーが置かれている現在の状況を鑑みた上にこんな黒尽くめな格好をした闖入者を目の当たりにすれば、気付かない方がどうかしている。
そもそも、相手の同意などなく個人を連れ去っている時点で充分不当だし、一歩間違えば犯罪だ。
特に、今も扉の向こうで喚いているであろう誰かさんは特権だと思い込んでいるのだろうが、無理やりなにかをやらせようとするのは当り前に強要罪である。
だが、一応はシェリーの世話を任され、その実監視をさせられている手前、そういうことは止めなくればならないわけで――
「あらそう。じゃあさっさと行きましょうか。窓からでいい?」
「構いませんよ。ただ此処からでは〝魔力縄〟まで崖伝いに行かないといけませんが」
「大丈夫よそんなの。じゃあディリィ、行くわよ」
「え?」
言うが早いか、その手を引いて細い腰に手を回す。そしてデリックが窓を開け放つと、なんの躊躇もなく其処から身を躍らせた。
ちなみに、下は150メートル超の断崖である。
一瞬の浮遊感――そして襲い来る、重力に引かれた自由落下の戦慄。
コーデリアの脳裏に、一瞬にして過去の出来事が過ぎる――
「〝空中浮揚〟」
――前に、シェリーが魔法を紡ぎその効果でゆっくりと下降して行く。
黒装束二人は、神殿の外壁にある僅かな窪みや隙間に指を入れ、驚くほどの速度で降りている。
そんなことをさせられて、更に不可解な行動をしている草原妖精二人を目の当たりにして、酸欠の淡水魚のように目を丸くして口をパクパクさせている、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさん。
今まで見たり聞いたり体験した中でも、きっとに圧倒的に奇々怪界な出来事なのだろう。
だがそれは、まだいい。世の中には有り得ないと思われる事象や、理解不能な行動をとる者どもは山程いるから。
それよりも気になるのは、何故に自分が一緒になって神殿から脱出しているのだろうか。
やっとそれに思い当たり、あたかも逃すまいとしっかり腰に手を回して捕まえているシェリーをジト目で見る、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさん。
その視線に気付いて、
「あら困ったわー。ついディリィまで連れて来ちゃったわー。どーしましょー。今更戻れないわー、困った困ったー」
明後日の方向へと目を向けて、そんなことを棒読みで言うシェリーだった。
絶対確信犯だ。
ゆるゆると下降し、そして見えないなにかに着地するシェリーへ、一言文句を言わないと気が済まないとやっと思い至った、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさん。
だがそれより早く、
「大丈夫よ、ちゃんと責任取るわ。私がディリィを幸せにしてあ・げ・るから♡」
何処かで聞いたようなコトを言いつつ、ウィンクをするシェリーであった。
蛻の殻となっている貴賓室の扉の前で、冷水を浴びせられ濡れ鼠となった枢機卿――アーリン・ティム・ジンデルは暫し呆然とし、これ見よがしに開け放たれている窓へ目を向ける。
そしてその状態が齎しているであろうを最悪の結末をなんとなーく推測して、その場に崩れ落ちた。
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
滂沱の涙を落としながら、無念に歯噛みするアーリン。人は財産を求めると同じように、地位と名誉を望むものだから。
そう、彼はそれが、あくまでそうであると疑えない。
だから、今その眼前で起こったであろう最悪の結末が、欠片も、微塵も、その隅々に至るまで一切理解出来ない。
そう、彼が、アーリンが長い年月に渡って待ち望んだ理想の女性――いや、成人して間もない正しく理想を具現化しているとしか思えない無垢なる少女が、一切の穢れを知らない聖女が、自らその命を絶ってしまったのだ!
「あ、あの……枢機卿猊下?」
そのあまりに衝撃的な事実に直面し、自身の不甲斐なさを悔いるアーリン。流れ出る涙を拭おうともせず、まるでなにかに謝罪するかのように両手を上げて「ああ」だの「うう」だの唸っている。
そしてその後ろで冷水の余波を浴び、いうなればとばっちりを受けちゃった傍付きの修道士は、あまりに飛躍し過ぎているであろう枢機卿猊下の思考をなんとなーく読み取れちゃったため、少し――いや相当白けた視線を向けていた。
そもそも其処まで思い詰めていたのなら、扉に掛けられている〝施錠〟が〝 強制詠唱破棄〟で消し去られるのを前提として、待ってましたと言わんばかりに準備万端に用意周到に〝条件発動術式〟で〝冷水射〟を組む筈がない。しかも床掃除に困らない程度に加減された量で。
この魔法を組んだ人物――聖女様は、カーペットが水浸しになったときの後始末と掃除の大変さを、よーく理解していらっしゃる。
きっと過去にそのことで、凄く苦労したんだろうなぁと予測しちゃったその聡い修道士は、それを偲んでそっと目頭を押さえた。
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んでくれるのか……」
そんな傍付き修道士を見上げて、森妖精の固有である空色の瞳を濡らしてそんなことを言っているアーリン。
ちょっと違う。偲んでいるのは事実だが。
そう即座に考えたのだが口には出さない、ある意味で実は有能な修道士であるセバスティアーノであった。
どうでも良いが、重ねた年齢が数百年を超えているクセにメソメソするとか、気持ち悪いから止めて欲しいと更に切実に思っていたりする。
彼は若干――いや相当にいい性格であった。
そしてこれはあまり関係ないのだが、彼は教皇の命を受けてアーリンの傍付きをしている。
ちょっとどころか相当嫌がってあの手この手で抵抗したのだが、結局押し切られて断れずに現在に至っているそうな。
いつの世もどんな世界でも、上司や上役の無茶振りはあるものだ。
何かあったときには責任を持つとか口ばかりで、実際そんなことは一切しないのがお約束である。
これから就職を控えている人は、口だけ約束は簡単に反故するのがヤツらの常套手段だと理解して、一切信用も信頼もせずにそれを踏まえた対策を講じておいた方がいい。
そう、信じられるのは自分自身の資格と技術と現金だけだから。
まぁ、あんな枢機卿の傍付きに選ばれてしまったら、結果として少なからずそうなるのは無理のないことなのだろう。
「ああ……返す返すも何故、聖女はそこまで思い詰めてしまったのだ……」
(いや、仮にアンタの妄想通りだったとして、その説得というか説明にアベスカ司祭長を選んだ時点で、成功させる気がないと当り前に評価されるだろう)
やっぱり「うう」「おお」だの言っている枢機卿猊下に、心中で突っ込むセバスティアーノ。だがその表情は、一切変わらない涼しい顔である。
「ワタシには判らない……一体、なにがどうなってこうなったのだ……?」
(なんで判んねーんだよ、判るだろフツー。というかその妄想が事実だったとして、今やるべきなのはそんなところで唸って動かねーことなのかよ。上に立つ者としてやるべきなのは別にあるだろうが)
悲嘆に暮れる枢機卿猊下のザマを半眼で見下ろし、だがやっぱり口は出さない。
「ああ……誰か教えてくれ、答えてくれ……ワタシは、一体なにをどうすれば良かったのだ……!」
(なに言ってんだコイツは。そんなの教えられなくても判るだろう。まずはあの使えねぇ金喰い給金泥棒なアベスカ司祭長を懲戒処分にする。これが一番。そうすれば前職の所為で日頃性的嫌がらせを受けて、だが他の修道女を守らなければならないという立場上文句のひとつも言わないクハジーコヴァー女子修道院長だって清々するだろうよ。そもそもな話し、バカみてーに長生きしてんだから人を見る目を養えよ。ホンット使えねー。あと世間一般的な常識を鑑みるまでもなく説明一つしないで婦女子を連れ込むとか、法律的にも犯罪なんだよ判れや。まったく、マジで使えねー)
表情を一切変えず、だが心中で上司を罵って溜飲を下げようとするセバスティアーノだが、いつまでも変わらずメソメソしているアーリンを視界に捉えているのが嫌になり、開け放たれた窓に近付いて深く漆黒に落ちる圏谷壁を覗き込む。
一般的に考えれば、此処から飛び降りるのは当り前に自殺行為である。だが話しを聞く限り、アーリンが聖女と呼ぶ少女は驚くほど魔法に精通しているという。
もっとも、〝条件発動術式〟を周到に用意していたり、〝多重詠唱〟や〝 強制詠唱破棄〟の上位互換である〝対抗術式〟すら使い熟せるのだから、飛び降りた程度でどうにかなるとは考えられない。
きっと風魔法で風を起こし、それに乗ってさっさと脱出したのだろう。自分も同じ目に遭って、且つ同じことが出来たのならそうするだろうし。
心の底から聖女と祭り上げられた少女に同情しているセバスティアーノは、これは言わないで済まそうかと考えたのだが、立場上そうするわけにもいかず、更にその発想にすら至れず泣き崩れて動かない「枢機卿猊下様」を横目で一瞥して、
(これ絶対私がひたすら延々と後悔と悔恨と悲嘆と愚痴を聞かされるヤツだ。あー面倒臭ぇ。あ、後悔と悔恨って意味がほぼ一緒だったな。それはまず、良いとして。あの娘には悪いが、此処は進言するべきだろう)
「枢機卿猊下。聖女様は魔法に長けていたのですよね」
窓から目を逸らさず、自分の想像に衝撃を受けて奈落の底に沈んでいるアーリンへと進言する。
だが――
「何故……一体なにが不満であったというのだ……聖女と称されるのは、この上ない誉であるというのに……」
またしてもそんなことを言っているアーリン枢機卿猊下。そして傍にいる他の修道士たちも涙を拭っていたりする。
そんな地味に思考が周回している野郎どもを目の当たりにして、流石に「苛ぁ!」とするセバスティアーノ。
「……いや聞けやこの腐れ森妖精。いつまでメソメソしてんだ鬱陶しい。そもそも手前ぇの人選能力に問題なければ起きなかったんだろうが。いい加減に人を見る目がないって判れやこの人事無能力者。そんなんだからアベカス司祭長が増長するんだよ」
冷静に正しくその状態を評価し、だが堪え切れずに罵詈雑言が口を衝く。
それを耳にした修道士たちは、流れる涙を拭う手を止め唖然とした。
まぁ、当然の反応である。
だが言われた枢機卿猊下はというと、
「ああ……セバスティアーノ……お前も聖女を偲んで……」
やっぱり思考が周回していて聞いちゃいなかった。
いい加減に面倒になった彼は、先程の考察をアーリンの両肩を掴んでカックンカックン揺さ振りながら説明する。
そしてそれを聞いたアーリンはというと、暫し呆然としてその説明を脳内に浸透させて、やっと理解したのか勢い良く立ち上がり宣言した――
「ぜいじょがいぎで……」
だが盛大に鼻水が垂れているために巧く喋れなかったりする。
それでもアーリンは挫けない。枢機卿にまで登り詰めた厚いツラの皮は伊達ではないのだ。
懐から純白のハンカチを取り出して豪快に鼻をかみ、そして何事もなかったかのように宣言した。
「聖女が生きている可能性がある! いや、確実に生きているであろう! そう、ワタシには解る! 聖女はその重圧をその身に受け入れるために、時間が必要であったのだ! それを理解してやれず、結果として追い詰めてしまったのは痛恨の極み! だが聖職者である我らは、それを癒すのもまた務めである! これより、ベン・リアック神殿及びベン・ネヴィス教会の総力を以て、聖女を迎えに行こうではないか!」
その宣言に、一気に士気が上がる神殿関係者たち。枢機卿付きの修道士は勿論、神殿兵の士気も爆上がりだ。
「聖女様をお迎えに。なんという誉!」
「あのお美しくも可憐な聖女様を!」
「素晴らしくも美しい魔法を使う聖女様!」
特にシェリーの容姿や魔法に心酔してしまった神殿兵は、既に聖戦もかくやとばかりに鬨の声を上げ――
「我らに慈悲を授けてくれた、女神のような女お――聖女様!」
「あのお美しい御御足で踏ん――慈悲を下さった女王――聖女様!」
「半眼の翠瞳で見下ろす蔑――慈悲に満ちた眼差しは素晴らしかった!」
「あの素晴らしくも均整の取れた御御足が下からチラチラ見える光景は一生の宝である!」
「凄まじい魔力の奔流でスカートがブワっとなったときに見えた御御足は少女の様を残しながらも大人の階段を上り始めた――がふぅ! 鼻から赤い汗が!?」
「我の兜を踏ん付け――兜に祝福を授けてくれたときにチラチラと覗いていた素晴らしくも眩いフトモモが――げふぅ! 鼻から赤い感涙が!?」
「我が兜に付いている聖痕は家宝です! 落ちないように透明樹脂で固めました!」
「女王さ――聖女様の罵詈雑ご――聖言は正に福音! この卑しく救いを求める心に沁みました! またいつでも何度でも授けて頂きたい!」
――ある意味で心酔しちゃった神殿兵は、そう口走りながら鬨の声を上げた。
そんなあれこれがちょっと理解出来ないセバスティアーノであったが、結果的に誘導通りコトが進んでくれて満足する。
そう、どんな結末であれ、皆の意識を聖女へと向けるのに成功したのだ。
(あの枢機卿に振り回されている私の――精神衛生と安息のために)
そしてセバスティアーノはほくそ笑む。
「よし! 聖女捜索隊の隊長はアベスカ司祭長にしよう!」
「いやヤメロ莫迦!」
どういう経緯があったのか、何故かアーリンはアベスカ司祭長をこの上なく重用していた。
程なく体制を整えた神殿兵は、高い士気のまま聖ヴィレーム橋を一気に越えてリトルミルへと雪崩れ込むべく指示を待つ。
そして遂に、アーリンにより指揮官に推薦された人物が壇上に上がり――
「えー、此度の、えー、出征は、えー、聖女を、えー、迎える――」
「なんでいるんだよ呼んでねぇしお呼びじゃねぇんだよ引っ込めクソがぁ!」
――堪忍袋の緒が小気味よくブチ切れたセバスティアーノにより、アベスカ司祭長が壇上から蹴り落とされた。
「なにをするのだキサマ! この我に対して不敬であるぞ! お前達、そのふちらのもを捕らえるのだ!」
「『ふちらのも』ってなんなんだよ。もしかして『不埒者』って言いてぇのか? いいから引っ込め湧いてくんな。ダニか何かなのかテメー」
蹴り落としたアベスカ司祭長を壇上から見下しそう言い捨てる。少なくともそれは、一介の修道士がして良い行為ではない。
「なんと不遜な! そもそも我はアーリン枢機卿猊下から直々に拝命され指揮を執っているのだそ!」
よってアベスカ司祭長のそれは、後半はともかく至極真っ当であった。
だが言われたセバスティアーノは、怒気を孕んでさも当然とばかりにそう喚くアベスカを半笑いで下目遣いで見遣り、
「いや拝命されてねぇ。推薦されただけで兵長達から承認されないで全却下されたの知らねぇのかよ。そもそもテメーは度重なる猥褻行為と収賄容疑で追放予定だし。あ、あとクハジーコヴァー女子修道院長への度重なる性的嫌がらせの件も追加な。その足りねぇ脳ミソじゃあ理解出来んか? 困ったモンだな、ボ・ク」
あからさまな侮蔑と共に、だが言い聞かせるようにそう言うセバスティアーノ。
「キサマー! 長年神殿に仕えて来た我とあの娼婦崩れを同列に置くとは不敬の極み! 皆の者、このふちらのお今すぐ捕らえるのだ!」
誰にでも判るように明確に莫迦にされたのが気に入らないアベスカは、顔を真っ赤にして唾を豪快に飛び散らせて喚く。
まぁ、そうなるだろう。その反応も至極真っ当である。
だがそれを呆然と見ていた神殿兵達は、
「……アベスカ司祭長って指揮出来んのか?」
「いや無理だろう。というか突撃ってしか言わないよ絶対」
「普段の演説も何言ってるか判んねーし」
「それ以前に、そもそもなんでアレが司祭長なんだ? 年功序列だからか?」
「あー、枢機卿猊下って優秀だけど人を見る目がないからなー」
「あと口が巧いヤツの言うことを鵜呑みにするから」
「それよりも、クハジー女子修道院長を『娼婦崩れ』って言ったぞあの野郎」
「聖職者として有り得ない。それにクハジー女子修道院長は、ロクデナシな親の借金の形で娼館に売られた可哀想な人なんだぜ。好きでやってたわけじゃないのに」
「まったくだ。良い匂いするしな」
「だよなー。これってけっこう有名だよな」
「だな。良い匂いするしな」
「つーかクハジー様を悪く言うとか、許さん!」
「それな! 良い匂いするしな」
「まったくだ! クハジー女子修道院長ってメッチャ優しいんだぞ」
「女神様か!? て思うよな。良い匂いするしな」
「あと人を見て態度を変えたりしないんだよ、クハジー女子修道院長は」
「そう! まさにそれ! 良い匂いするしな」
「つーかさぁ、返す返すもなんでアレが司祭長なんだ? 意味が判らねぇ」
「おぇ! 女神様で気持ち良くなってたのに突然クソ野郎に話し変えてんじゃねーよ! 嘔吐いちまっただろうが!」
「いや知らねーよ」
「あとルビがルビじゃなくなってるぞ」
各々そんなことを言い出し、そして当然のようにアベスカの指示らしきモノには従わない。
当り前である。
アベスカは、指揮官として兵長に承認されていない。そして修道院や神殿と神殿兵とでは、大元は同じだが枝分かれした指揮系統は全く異なる。
司祭はあくまで修道としての上役であり、軍隊とは関係ない。よってそれに我が物顔で首を突っ込み指示を出すアベスカは、もちろん良く思われていない。
というか嫌われていた。まぁ容易に予想は出来るだろうが。
ただ、他部署ではあっても上司であるのには変わりないため、強くは出られないだけだ。
それでも、今回の行動は目に余る。
だから神殿兵が指示に従わないのにヒステリーを起こし、見苦しくもギャーギャー喚きながら奥へと引き摺られて行くアベスカに一瞥すら与えない。
結局、指揮権は当り前に兵長に与えられ、そして出動態勢が整った神殿兵小隊は、その日の内に神殿から出撃――出来なかった。
出撃しようとした矢先、神殿と教会の出入口全てが、まるで接着されたかのように開かなかったのである。
その頃シェリー達はというと、とっくに峡谷を渡り切ってリトルミルの町に向かっていた。
その途中、結構お粗末な脱出であったためにとっくに気付いても良い筈なのに、追っ手が一切来る気配がなのを怪訝に思ったデリックが、口唇の動きだけでリーに訊いた。
(そういえばお前。部下どもに何か指示出していたけど?)
(ふふ。魔法で閉鎖しても破棄されて開けられるでしょ。だから神殿と教会の通用口全てを特殊接着剤で閉め切ったのよ。どう? わたしも〝ラ・クレム・シトロニエ〟も良い仕事するでしょ)
(いや接着剤ってお前。いくらなんでも開かなかったら大惨事だろう)
(特殊接着剤だから大丈夫よ。効果は精々三〇時間だから。その頃にはもうグレンカダムに戻っているでしょ)
(……相変わらず怖しい女だな)
(うふふ。惚れなおした? 良いのよこのままお持ち帰りして――)
(いや要らね)
「ちょっとデリックさん。リーが相変わらずニヤ笑いで気持ち悪いんだけど」
「アレはいつもです。無視しましょう」
「あ、あの……私は何処に連れて行かれるのでしょう……?」
「大丈夫大丈夫。怖いことや痛いことはしないし大切にするから。私がディリィにイロイロ教えてあ・げ・る♡」
「私なにされちゃうの!?」
緊張感など欠片もなく、呑気にそんな会話をしていた。
ベン・リアック神殿からデリックとその他の誰かの助力で脱出したシェリーは、荷物を置いたままである宿「カネキラウコロ」へと向かい、そしてその途中で屋台が立ち並ぶ通りで見知った顔を見付けて暫し呆然とした。
「……なにしてるの? エイリーンさん」
「んあ、へひーひゃひゃいほ。ほーひへほほひひふほ?」
「うん、なに言ってるか判んない」
ルリを半分潰して作った団子が入っている汁物を口いっぱいに頬張りながら、そこにいる筈がないと思っていた人物を目の当たりにして、驚愕と共にそう言った。
まぁ、シェリーが言ったとおり、はっきり言って言語にすらなっていなかったが。
「へひーほはふへひひへははほはひほひへふほほ」
「いや、だから。なに言ってるか判らないから食べるか喋るかどっちかにしてくれないかな」
「もぐもぐはふはふはむはむはももごむぐもごごくごく」
「喰うんかーい!」
お約束をしっかり理解してるエイリーンであった。
そんな食欲全開なエイリーンの隣には、シェリーの姿など一切見えていないし声すら聞こえないくらいに集中して七輪と向き合い、そしてタレ付きホルモンを丼飯片手に焼いているJJもいたりする。
だがそんなことよりなにより、おんぶ紐で括り付けられてエイリーンに荷物のように背負われ振り回されて息も絶え絶えなアイザックを視界に捉え、一体なにがあったと慌てるシェリーであった。
まぁそりゃそうなるだろう。身内だけの守秘事項とはいえ、仮にも実の父親がそんな有様になっているのだ。慌てない娘などいる筈もない。
そんなはわはわ慌てるシェリーに気付いて怪訝に思い、だがすぐに「ぐったりアイザック」を心配しているのだと理解したエイリーンは、丼片手に器用におんぶ紐を解いて彼を降ろす。勿論そのまま降ろすのではなく、やんわりと。そしてこちらも勿論、例の丼は放していない。
それはともかく、石畳に座り込んで放心しているアイザックの傍にしゃがみ込み、
「おとう――じゃなくてザック! いったい何がどうしてこんな情けない有様になっちゃったの!? プライベートで色々情けないのはいつも通りで知っているけど、それ以外ではちゃんとしているじゃない! バカみたいに元気で丈夫で、 大地の巨獣に踏ん付けられても『あーびっくりしたー』で済ませるくらいアホほど頑丈だってエイリーンさんが謎の惚気を吐き出して周りをドン引きさせるくらいなのに!」
そう言いながらカックンカックン揺さ振るシェリー。それを目の当たりにしたエイリーンは危険を察知して即座に止めようとしたのだが――
「……う」
「え?」
「おぶぁ――」
「――! ――!? ――!!」
とてもそのまま放送させられないため確実に映像加工が施されキラキラしたものに変換されるであろう物質が放出され、超至近距離でその惨劇の目撃者どころか当事者になってしまったシェリーは、声にならない悲鳴を上げた。
「時既に遅し」とはこういうときに言うのだろう。そんな感慨に耽るエイリーン。
それを察したのか、いやそれアンタのダンナだろうと心中でツッコミを入れるデリックであった。
幸いだったのは、気持ち悪くて固形物を一切摂っていなかったことであるが、それを除外したとしても悪夢のような惨劇であったのに変わりはない。
そんな有様になっちゃったシェリーを目の当たりにした誰かさんは、
「純真なお嬢が吐物で汚さ……はひゅう……」
などとほざきながらビクンビクンしていたのは、ぶっちゃけどーでも良いだろう。
このあと、シェリーは暫く口をきかなかったそうだ。
エイリーンとJJの龍人姉弟と。
そんな傍から見ると喜劇でしかない悲劇――いや、惨劇が繰り広げられ、だがそんな有様であるにもかかわらず食指の動くまま赴くまま食欲に突っ走る龍人姉弟に若干どころか相当「苛ぁ!」としたが、それは種族としての本能と特性であると自分に言い聞かせて心を鎮めるシェリー。
そう、言っても仕方のないことは言うべきではないし、しても仕方のないことはするべきではないのだ。
よってシェリーは、脇目も振らずにまさしく一心不乱に喰いまくる二人を生温く見守ることにしたのである。
汁物の丼に練りカラシを玉杓子大盛り一杯と一味唐辛子を一本入れてやったけど。
そんなわちゃわちゃしている様に口を挟めずに呆然としていた、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさんが、ぐったり継続中のアイザックを目の当たりにして我に返り、聖魔法の〝回復〟を無詠唱の即時展開で発動させる。
その効果は即座に発揮され、さっきまで「へんじがない ただの しかばねのようだ」状態だった彼が途端に復調し、うっかりシェリー謹製――といっても込められている心は悪意だが、とにかく、シェリー謹製「特盛練りカラシ丼~一味唐辛子一本を添えて~」を口に運んでしまって悶える龍人姉弟をよそに、傍で心配げに自分を見詰めているシェリーを抱き締めた。
ちなみに、そのシェリーは誰かの何かをまともに喰らってしまっており、ちょっとアレな臭いがしていたのだが、そんなことを気にするアイザックではない。
それに、そもそも自分のアレだし!
「シェリー。良かった、無事だったんだな。デリックさんから行方不明になったって連絡があって、どうしてくれようかコンマ五秒くらい悩んで、とりあえず教会とか神殿とかをちょっと地図から消してやろうって来たんだ」
「ああ、うん、心配掛けてゴメンね。というかもうちょっと悩もうよ。それから、結果観光名所にもなってて宗教的に重要だと思われる建造物を地図から消すとか物騒なことを言うのはヤメテ」
「とにかく、無事で良かった! 神殿のクソどもに何かされなかったか? 具体的には人の話しを聞かない無駄に偉そうで無駄に肉付きが良い実力の伴わない脂ぎった、年功序列で偉くなっただけの勘違いヒヒジジイ司祭とかにクダ巻かれたとか!」
「特になにもされなかったし、なんともないわ。でもなんで、見て来たような具体例がスラスラ出るのかな。そっちの方がよほどビックリよ。お父さん、私に盗聴器でも仕込んだ? あと『神殿のクソども』て、なにかイヤな想い出とか私怨でもあるの?」
「仕込みたかったけど、バレたら『もうお父さんて呼ばない』とか言い出すと思って腸が捻じ切れる思いで断念したんだ。あいつら宗教関係者は自分が特別だと腐った思考しか持っていやがらなくて他の職業を見下す傾向があるからな。なーにが『人の命を助ける素晴らしい仕事DEATH!』だよ巫山戯んな死ね! 安心しろ、なにがあろうと俺が一生面倒見てやる! 嫁に行くとか婿を貰うとかしなくても良いからな!」
「確かに、そんなの仕込まれたら嫌うどころか他国に亡命したくなるわね。愛してくれているっていうのは凄ーく凄ーく嬉しいけれど、だからといって恋愛や婚姻禁止とかされたらそれこそ家出案件よ。むかーし岩妖精の国の大公に酔った勢いでプロポーズされたってお母さんが言ってたから、その伝手を辿れば亡命も婚姻もいけるんじゃないかな。大公のお妾さんになっちゃいそうだけど、相手が長命種なら問題ないでしょ」
「あんな変態職人種族に嫁入りとか絶対に許さないからな! ……んん? エセル様に、プロポーズした、だと……! なんて羨ま――怪しからんことをし腐りやがってたんだ! あんの腐れチビ豆タンクがぁ! よろしい、戦争だ! ちょっと岩妖精の国消して来る。城攻めは久し振りだな、腕が鳴る」
「酔っ払いの戯言や戯言を真に受けて戦争仕掛けるとか、お父さんが言うと本当に洒落にならないから本気でヤメテ。そんなにお母さんが大切で好きだったんならとっとと寝取っちゃえば良かったのに。エイリーンさんだって許してくれただろうし、カルヴァドスお爺様だって爆笑して手伝ってくれたと思うよ。奥さん二人と私一人くらいなら、当時でも余裕で養えたでしょ。それとね、成人している娘の交際や婚姻に口出ししたら戸籍上の父親以上に嫌うからね」
「いやしかし、親としての責任とか――」
「……ふうん?」
「調子に乗りましたゴメンなさい」
基本的に交際は個人の自由であるし、成人後は全ての責任は自分にあるのだから、婚姻に関しても親の承諾など必要ないと、王国法で決まっている。
ぶっちゃけ「結婚するから親の許可が欲しいんですぅ」とかやらなくても婚姻出来るし、それが原因で禍根や血痕が残るような事件を親が起こしてしまったのなら、たとえ肉親でも傷害罪が適応されるのだ。
そもそも、子は親の所有物などではなく、一つの個性を持つ別の生き物なのだから。
まぁバカ親なら絶対に「認めたくなーい」と言い出しそうなのは、どの世界でもいつの時代でも同じなわけで、そういうモラハラ親は将来的に野垂れて死んじまえと、ワリと本気で考えていたりする。
何処の。誰が。とは明言しないけれど。
そんな親子漫才を心ゆくまで楽しんだ後、なんだかんだで空腹であったシェリーと回復したためやっぱり腹が空いたアイザックは、勿体ないからとよせば良いのにシェリー謹製(略)を悶えながらも啜り続けている龍人姉弟を尻目に、JJが抱えて使っていた七輪で肉を焼き始めた。
ちなみにシェリーはサーロインやバラ肉、アイザックはロースを好んで焼いている。年齢的に、そうなるのは仕方のない。
あんまり関係ないが、「カルビ」という部位が存在しないのはこの世界でも同じである。
そんなシェリーを見て、この上まだ喰うかとゲンナリする、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のコーデリアさん。
それもその筈。神殿内で結構長いことティータイムをしており、そして結構茶菓子を食べていたのだ。
お陰で、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う、だが今は表情を曇らせている、しかしそれでも可愛らしい修道女のコーデリアさんは満腹だった。
そんな当り前にドン引きしているコーデリアさんを他所に、シェリーと彼女の回復魔法で乗り物酔いから完全復活したアイザックは、この後あり得ないほどの食欲を発揮した。
更に龍人姉弟も、そうする必要などないのに食材を無駄にしてはならないとばかりに謎の使命感を発揮してカラシ丼をたいらげ合流したことで、結果的に数件の屋台が食材切れのため閉店したという。
そして、まだ開店間もない宵の内だというのにこんな有様になってしまった小妖精の店主は――
「あいしかどでした。なもかもねぐなったは。こいだばわすっこどねは」
仕入れた食材が一切無駄にならずに消費されたために、物凄ーくホクホクしていたそうな。
そうして腹を満たした一行は、シェリーが宿泊予定であった宿「カネキラウコロ」へと向かい――
「わおどどわがいでからなもしてねがらいすべ」
「ヤメロ!」
やけに艶っぽい口調の小妖精の女将に迫られているデメトリオを目撃し、
「あ、シェリーの嬢ちゃん! 無事だったか、良かった……て! なんで生温い目で見ているんだ!? デリックさんも! いるなら黙って見ていないで助けてくれ!」
「……いやぁ、恋愛は自由だし、人生経験が乏しい私がどうこう言うのはぶっちゃけ烏滸がましいけど……デメトリオさんってそういう趣味だったんだ……」
「ええ、ええ。私も知りませんでした。まさかデメトリオがロリな後家さん好きだったとは……。いやはや、人の好みは千差万別とはまさにこのこと」
生温ぅーい視線を向けながら、そんな会話をし始めるシェリーとデリック。
「いや煩ぇよ絶対ワザと言ってるだろ! あと小妖精の女子相手に『ロリな後家さん』とか言うのやめろ! それから! どうでもいいから助けてくれよ! この女将やたらと体術が凄ぇんだよ組み敷かれたら抜け出せなくなりそうなんだよ!」
「そうだろうね。彼女は商業ギルドの特殊作戦捜査官も兼ねているから、特務員であるキミとは格が違う」
「だろうね! なんとなく判ってたよ! つーか助けてくれっつってんだろうがいい加減にしてく……アッ――――!」
そんな遣り取りがあったのはどうでもいいとして、シェリー達は「カネキラウコロ」に宿泊し、翌日ゆっくり朝風呂を味わい昼前までのんびりしてから、午後一番の列車でグレンカダムへと帰って行った。
ちなみに、女将に良いように遊ばれていたデメトリオは、その宿から早々に退避して深夜の屋台を梯子して歩き、最終的には駅の待合室で一夜を明かしたそうな。
そして翌日。一緒にグレンカダムへ帰ろうと思っていた憔悴し切っている彼に、
「ああデメトリオ。休暇はここで取るように。一ヶ月ばかり経費で『カネキラウコロ』の予約取ってあるから」
「マジかよ……」
デリックがそんな爆弾を投下した。
そしてデメトリオはその女将に色々されてしまった――わけはなく、あれはなんだっのだろうと暫し悩んでしまうほど何事もなく、至って自然に接して来る彼女に戸惑いまくっていたそうな。
まぁぶっちゃけると、単に経験の薄い彼を揶揄っていただけなのだが。
そんな平和に全てが終わったと考えているシェリー達とは裏腹に、ベン・ネヴィス教会ではちょっとした騒動が勃発していた。
夜が明け、いつもなら開かれる門扉が一向に動かず、だがその向こうから怒号ばかりが響いて来る。
気付けばそれは、早朝どころか昨夜の宵の内から続いており、それでも門扉はそのままで、やっと開かれたのは夜半を過ぎてからであった。
そこから現れたのは、疲労困憊になり歩くのもやっとになっている神殿兵と一部の司祭達、そして――枢機卿であるアーリン・ティム・ジンデル。
何故扉が開かなかったのかが判らず、もしかしたら聖女という望まぬ地位にあの少女を就けようとしたことによる神罰なのではないかと一部の者が言い始めたが、扉の縦枠や沓摺を見ていたセバスティアーノが、特殊な接着剤が使われた跡があると発言し、事態は急展開した。
彼にしてみれば単に見たままの事実を述べただけで深い意味は全くなかったのだが、一部の者が聖女――シェリーが拐かされたと言い始めたのである。
勿論それに明確な根拠があるわけではなく、ただ単に逃げ出しただけなのであるが、ベン・ネヴィス教会及びベン・リアック神殿の立地を見る限り、常識的にか弱い少女が一人で抜け出せるわけもなく、何者かが手引きしたのは明らかであった。
――神殿兵を魔法で縛って足蹴にするようなのが「か弱い少女」なのかは、些かどころか相当疑問だったりするが。
だが実際、それは事実である。違うのは、何者かが拐かしたのではなく、誘導により脱出しただけであるのだが、盲信しちゃっている彼ら神殿兵は止まらない。
そうして、まだ夜が明けていないにも関わらず、自身も疲労困憊であるにも関わらず、興奮物質が脳内にドバドバ出まくってテンション爆上がりな彼らは、その意味不明な勢いそのままに聖女を奪還すべしと鬨の声を上げた。まだ夜明け前の深夜なのに。
当然、物凄く近所迷惑である。
そんな人として当り前に守るべきマナーやモラルをも忘れて興奮している皆を、セバスティアーノがなんとか宥める羽目になっていた。
だがそれよりも、やっぱり興奮物質が出まくっているばかりか聖女の姿や、向けられていたのはゴミや汚物への視線であったにもかかわらず、都合よく脳内変換された笑顔を勝手に夢想し、
「『もう。枢機卿ったら、い・け・な・いお方♡』と言われたらどうしようか……ああ、だがワタシも子孫を残す責務が……。此処は父君と母君に相談すべきか――」
などと虚構で快楽物質や幸福物質を勝手に出しまくり、先頭に立って何処へともなく突撃しようとするバカ――もとい、アーリン・ティム・ジンデル枢機卿を物理的に黙らせ、大ごとになってしまったために教皇の指示を仰がねばならないと説得する。
そして早朝。
セバスティアーノはアーリンを含む全ての教会関係者に不用意に動くなと言い含め、王都ブルイックラディのクライヌリッシュ宮殿に御座す教皇の元へと向かった。
だが、そんな彼の願いは虚しくも届かず、事態は最悪の方向へ進んで行くこととなる。
セバスティアーノの言は一理あると判断し、一時は待機を命じたアーリンであったが、とある司祭長が素速く動かねば機を逸してしまうと強く主張し、更に神殿兵では戦力不足だと進言し、遂には神殿の精鋭である聖堂騎士団まで投入する事態に発展させてしまった。
聖堂騎士団が出撃するような事態は当然重大事であり、そしてそれに与えられる任務は、如何なる事項であっても達成させなければならない。
彼らは神殿の精鋭であると同時に狂信徒でもあり、更に――アーリン・ティム・ジンデル枢機卿に匹敵するほどの聖女萌であった――