――セシル達がグレンカダムを訪れて、早速一騒動が起きてそれを片付けてから一ヶ月が経った。
その間に、何故か済し崩し的にアップルジャック商会に就職したことになっていたセシル達は、気付けば唐突に積み上がる仕事に忙殺されていたりする。
更にその商会の仕事とは別に、お世話になっている本社兼社宅である郊外の邸宅でそのお礼にと炊事を、片付けられない汚部屋の主な某水妖精以外が担当したのだが、中でもセシルとクローディアとラーラのそれが非常に気に入られ、おかげで現在は朝食をシェリーとセシルが、昼食をシェリーとクローディアが、そして夕食をセシルとラーラが担当することになってしまった。
余談だが、クローディアとラーラが朝のそれを担当していない理由は、共に何故か朝が弱くなってしまったという怪奇現象があったからである。
そんな怪奇現象の犯人は非常にタフで、更にどういうワケかやる気に満っち満ち溢れちゃったらしく、平気で朝と夕食の担当になっているが。
一応ではあるのだが、仮にも会長であるシェリーがそれの人員に名を連ねているのを気にしてはいけない。
単に一緒に生活している某社長の某奥さんと、某会計監査の某恋人の、唯一と言ってしまっても良い女性陣二名は、炊事がちょっとアレなだけだ。
ちなみに野郎連中のソレは壊滅している。
まぁ、意外にもリーは料理上手ではあるが、アレはアレで別件を結構抱えていて忙しく、とてもじゃないがそれに時間を割くことなど出来ない。
そもそも実は社宅にいることすら稀であったりするし、最近ではセシルを見掛けるたびに、なにがあったのか何故か妙に恥じらって逃げ回っていたりする。
そんなリーの奇行を見て、思わず「可愛くなっちゃったよ」とか思ってしまうセシルではない。
その程度の奇行が増えたくらいで、過去に負ったセクハラ行為の心的外傷が払拭出来る筈はないのだ。
残念ながら、セシルの心には既にリーが入り込む隙間は一切存在しない。諦めて他所を当たって欲しいと切実に願うセシルであった。
――きっとその願いは叶わないであろうが。
そんな感じで、相談などは全然していないにも拘らず、いつの間にか、それこそ済し崩し的に炊事当番が決まってしまっていた。
ちなみに、それにデシレアが名前が連ねていないのには理由がある。
彼女は大変料理上手で、しかも大変美味しく、更に身体に優しい優れた出来栄えに仕上げるのだが、軒並み動物性の素材を一切使わない野菜類しかないために、肉食種や狩猟民族などの物理的な肉食系である皆様には残念ながら不評であった。
もっともデシレアは、自分がそれだからそんな料理しか作りませんとかワケの判らないことをほざく輩と同列ではなく、若干の忌避感はあるものの、ちゃんと動物性の物を含んだ料理も用意出来る。ただ慣れない所為か、それがちょっとアレなだけだ。
そもそも植物妖精は食事を必要とせず、水と陽光さえあれば生きて行ける。口からの摂取は付き合いと趣味程度なのである。
関係ないが、セシルが一度だけ「我儘を言うとデシレアの料理を喰わせるぞ」と商会員達に言ったことがあり、皆して平伏して「それだけは止めてくれ」と懇願されたそうな。
だがそんな罰ゲームよりなにより、プンプン怒ったデシレアにセシルが胸をポコポコ叩かれるという、傍から見ればイチャコラしているようにしか見えない場面を見せ付けられて、独り身が多い彼らは軒並み血涙を流しそうになったり、あらゆる甘いものを吐きそうになったという。
ある意味、罰ゲームより酷い仕打ちである。
そんな完全菜食主義な料理は、セシルやクローディア、そしてコーデリアさんには大変好評であったが。
余談。
クローディアとラーラの二人と同じ状況である筈のデシレアなのだが、彼女は変わらずセシルと同時刻に起床して、植物妖精の固有技能が薬師であるためそれを応用し、草魔法と木魔法を駆使して植物性の洗濯用洗剤を調合する。
そして洗濯物を中心に(空)気魔法で気体の閉鎖空間を構成して調合したそれを入れ、水魔法で生成して精製した純水を熱魔法で温めつつ攪拌して洗濯を始め、洗い終わったら風魔法と熱魔法で乾燥させるという、魔法としては非常に高次で高度な技術をしれっと披露して、シェリーの憧憬の視線をほしいままにしていた。
そして洗濯物を良い塩梅に、なんでもないことのように攪拌している魔法は、ごく小規模で展開された〝潮流渦〟という、実はそれに巻き込まれた物体は生物だろうが岩だろうが鋼だろうが例外なく、漏れなく細切れにされるという、凶悪極悪極まりない戦略級魔法であったりする。
ついでに、デシレアは最大十五もの魔法を同時行使可能な、〝十五重詠唱〟の〝魔法使い〟としてその道の者達の中では有名だった。
ちなみに世界最高の〝魔法使い〟と謳われている森妖精の王は〝十三重詠唱〟の使い手である。
もっとも魔法使いの優劣は、そんな多重詠唱が出来る出来ないは関係ない。象徴や憧憬の対象になるのは否定出来ないが。
あと、同じ〝魔法使い〟でも男と女とでは呼び名が違う。男が〝魔法使い〟で女が〝魔法使い〟である。
どうでも良いことではあるが、念のため。
そして、そんなこんなな或る日――
日当たりの良い窓際で、嗜好しているブルーベリーのフレーバード・ティーの香りを楽しみながら、セシルは座り心地の良いソファに身を委ねて緩やかな時間を満喫していた。
そしてその隣には、チョコレートを口に含んでゆっくり溶かして味わいながら、オレンジのセンティッド・ティーを嗜んでいる茶系金髪と紫の瞳を併せ持つ、整った容姿の女性――クローディアが当たり前に座っている。
「良い天気じゃのう。のうクローディアさんや」
「……『そうですねぇセシルさん』――これで良い?」
「うん、ありがとう」
自分の望んでいる返答がちゃんと返って来て、ちょっと涙目になるくらい嬉しいセシル。なんだか色々お疲れである。
そしてこの遣り取りの意味がちょっと判らないクローディアなのだが、セシルがやりたいと言うのなら叶えてあげたいと思っていた。
もっとも、それ自体に意味などありはしないとも理解出来ているが。
そんな感じで優雅なティータイムを楽しんでいる風な二人なのだが、別に休日の昼下がりとかでは一切なく、現在交代制の昼休憩なだけであった。
セシルの担当している仕事は多岐に渡っており、忙しいところに必ず放り込まれる。
なにしろ彼は優秀で、出来ないことを探した方が早いくらいなんでも出来るのだ。
そして、同じくなんでも出来る会長様とセットで修羅場に放り込まれる場合が多く、互いに申し合わせてすらいないのに阿吽の呼吸で、常人にはちょっと無理なんじゃね? と思われるほどの仕事量を熟していた。
曰く――なにが必要でなにをすれば良いかが判るから楽。
だ、そうである。
そんな二人を見たクローディアも流石にちょっと驚いて、だが考えてもみれば、シェリーは僅か五年で商会の純利益を百倍以上にしたあのエセルの愛娘であり、セシルはそのエセルのお気に入りで、手塩に掛けて――かどうかは不明だが、とにかく特別な教育が成されていたのである。この程度は出来て当然であろう。
――その有能という範疇にすら収まらない鬼才なエセルの法律上の配偶者である誰かさんは、それら莫大な資産を僅か五年で丸ごと失くすばかりではなくマイナスにするという、ある意味では非常に優秀なコトをやってのけちゃった挙句に高飛びするという離れ業までやってのけたが。
それにセシルは体力が純粋に半端なくあり、シェリーならば疲労困憊してしまう仕事量も難無く熟し、しかもその速度が落ちないというバケモノぶりを発揮していた。
まぁ、例えどれだけ体力があろうとも、「出来る」ことが多いと「疲労」も多くなるのは当然だが。
そんなお疲れな上に気持ち良い陽光に当てられてうつらうつらしているセシルの隣に、クローディアはなにも言わずにただ傍にいるだけであった。
声を掛けるでもなく――
労うでもなく――
――ただ、その傍にいるだけだ。
やがて、そのクローディアの肩になにかが乗り、青みを帯びた黒の――濡烏色の髪が流れ落ちるように零れる。
「……こんなところで寝ちゃうなんて、バカね」
ティーカップをソーサーに戻し、テーブルに置く。
そして空いた手で自分の肩に乗っているセシルの頭を優しく撫で、そのままゆっくりと、自身の大腿を枕にして横にした。
「いくら仕事が出来るといっても、一人じゃあ限界があるのよ。まったく、なんだかんだ言ってても昔からお人好しよね。ホント、私がいないと何処までも無理しちゃうんだから」
そう、昔から。
エセルが彼を伴って孤児院を訪れ、名も無く番号でしか呼ばれていなかった彼に「セシル」という名を与えたときから、彼は――セシルは誰よりも働いていた。
当時まだ九歳でしかなかったのに、誰よりも、成人間近な子供達よりも、働いていたのだ。
元々孤児院での食事は、一〇歳前後の女の子達が担当していたのだが、気付けばそれすらセシルが全て請け負っていた。
結果的には、一人に任せるのはいけないことだと言ったクローディアと、見様見真似でやっているうちに料理の楽しさに目覚めたリオノーラの三人が主に請け負うこととなったが。
そればかりではなく、孤児院内の全ての掃除や其処で生活している子供たち全ての洗濯も始めてしまい、流石にそれは皆のためにもならないと、孤児院を管理していたレミーに注意され、それだけは皆で協力してやることになったのだ。
――可能性としての憶測ではあるが、もしかしたら誰かさんが片付けられない汚部屋の主となったのは、セシルにも責任の一端があるのかも知れない。
それはともかく。
そんな風に一人で大量に抱え込んで、だが仕事が回らないなどは一切なく、逆に全てを完璧に仕上げてしまう。
セシルはそんな危うい離れ業を、幼少期から当たり前に熟していた。
「――貴方は昔からそう。他人に頼らず、常に全部を背負って努力して頑張って。でもきっと、貴方は言うんでしょうね。『頑張ってはいない』って」
努力は必要だ。
頑張ることも必要だし価値あるものだ。
だが――過ぎればそれは猛毒になる。
自分にとっても。
他人にとっても。
そしてそれらは、本人は元より周囲すら判断も理解も出来ない内に簡単に閾値を超え、場合によってはその全てを巻き込んで盛大に瓦解する。
交易都市バルブレアで教育校を設立したとき、同じく設立仲間であったデシレアもそれを感じていたようで、そのときは実力行使で休ませていた。
もっともそれが出来るのは、同じく仕事が出来るデシレアだけであり、クローディアには出来る筈もない。
だから、彼女は常にセシルの傍にいる。
生き急いでいるようにしか見えないセシルが、仮に閾値を超えてしまったときに、仮にその全てが終わってしまったときに、共に終わるために――
『ねぇセシル。どうしてそんなに頑張るの? そんなに急いだら疲れちゃうわよ』
『急いで……いるかな? でも、そうしないと全部無くしちゃう気がするんだ。今まで失うばかりで得られなかったから……だから、頑張って「今出来ること」をしておきたいんだ』
『……そう。判ったわ。じゃあもしもセシルが力尽きたときには、私が一緒にいてあげる。独りは――淋しいから』
――*――*――*――*――*――*――
商業ギルドの監査特務隊がイーロ・ネヴァライネン邸を強制捜査し、ある意味で色々と甚大な被害が出ちゃって一ヶ月後。
既に提出して受理印が押印されている報告書を前にして、ユーイン・アレンビーは引き攣った笑みを浮かべていた。
報告書が置かれているのは、サブマスターであるデリック・オルコックの机上であり、更に言うなら其処は彼の執務室であった。
「まぁ、あれだ」
脂汗を滴らせているユーインを、極上の笑顔で迎えるデリック。だが組んでいる手にとてつもない力が込められているのに、目敏いユーインは気付いている。
彼が――デリックがそうなっているときは、間違いなく碌でもないことしか起きない。
「実は先日、離婚れた妻と偶然に逢ってね」
「はあ」
突然なにを言い出すかと思えば。確かにデリックには離婚歴があると聞いたことがあるが、それに触れる命知らずはいない。
なにしろ彼は、名実共に商業ギルドのナンバー2であり、過去には〝草原の破壊者〟と呼ばれて怖れられていたのだから。
「ある不一致で離婚れたとはいえ、一度は夫婦であったからある程度は情が湧くものでな。酷く落ち込んでいたから話を聞いたんだ」
その後で有り得ないくらい絞られたが。一瞬だけだが半眼になり、えらく疲れた表情で独白するが、そんな些事などどうでも良いだろう。
「彼女は変態だから痴情の絡れだろうと思ったが、意外に操を立てていたのにはちょっと可愛いかなとは思ったが、問題は其処じゃない」
ちょっと惚気始めるデリックを、珍獣でも見つけたかのような視線を向けるユーインだが、目が真剣な笑顔を向けられて瞬時に凍り付いた。
「ネヴァライネン氏の装備品は、やはり帝国製で間違いないようだ。オスコション商会のときに騒動の種になった〝機関砲〟と入手経路は同じらしい。どうやら裏できな臭いことを始めているようだ」
「なんと!」
予想は出来ていた。
そもそも他国の介入なくして、このストラスアイラ王国で〝機関砲〟や〝魔導鎧〟などという兵器が手に入る筈がない。
「それは由々しき事態ですね。それで、どうするおつもりですか?」
表情を引き締め、真剣な眼差しを向けるユーイン。それに対してデリックは深い溜息を吐き、
「ああ、避妊する暇すら与えてくれなかったから、元妻が懐妊していないことを祈るばかりだよ。まぁでも以前に比べてちょっとまともになっていたから、そうなったらなったで復縁しても良いかな、とも考えているが」
「は?」
デリックの口からまさかな言葉が飛び出し、思わずユーインは自身の耳を疑った。
「あの、俺が訊きたかったのは帝国の動向とかであって――」
「そんなのは国が考えることだ。情報は提供するが後は知らん。それはさておき、そのときのピロトークで耳にしたのだが、ネヴァライネン邸の強制捜査があった夜、誰かが〝大海嘯〟を構築していたらしい」
とても良い笑顔で、だがやっぱり笑っていない目を向けられて、再び凍り付くユーイン。
実は実害が一切なかったために、その事実は報告書には上げていなかった。それにギルドの目撃者もおらず、いたとすればそれを強制詠唱破棄した誰かだけである。
よって、それが露呈するなど無いと考えていた。
「ちなみに、お前の大海嘯を〝 強制詠唱破棄〟したのは、私の元妻が勤務している商会の客人らしい。なんでも十年以上前からの顔見知りだそうだ。さて、申し開きはあるかな?」
その後、部下との痴情の絡れや他の諸々がコロコロ露呈しちゃったユーインは、チームを解体された上に半年間の85%減俸処分となったそうな。
まぁだからといって、高給取りな彼が生活に困るほどの減俸ではなく、更に言うなら財布をしっかり自称妹に握られているため、そういう面では大して痛くなかったそうな。
だが――
「あらお兄様。どうしてそのような処分が下されてしまわれたのですか? まさかとは思いますが、あの泥棒猫に現を抜かしてしまわれたのでしょうか? 困ったお兄様です。浮気が許しますが、本気は赦しませんよ」
「待て誤解だルシール! 俺はやましいことなど何一つしていない!」
「あらそうなのですか? これは申し訳ありませんでした。ではこのケネス様とデメトリオ様から報告書と、泥棒猫――へスター様からの離縁状に御心当たりは一切ないのですね?」
「何故そんなものが!?」
「皆様、それはとてもとても協力的で好感が持てる方々でしたわ。泥棒猫――へスター様も、お兄様と一時とはいえ身体の繋がりがなかったのなら、良いお友達になれそうでしたのに。残念です」
それから一週間ほど、ユーインは体調不良で休暇を貰ったそうである。
それについては様々な憶測が飛び交ったのだが、真相は闇の中であったとさ。
商業都市グレンカダムは、大陸の中央付近に位置している、広大な領土を誇るストラスアイラ王国の最北に在る都市である。
地形は四方をそれぞれ天を衝く山脈に囲まれた広大な盆地であるため、その気候は比較的温暖で過ごし易い。
そして夏に南から吹き下ろされる風により涼しく過ごし易い南方のアバフェルディ山脈の麓は、地形がなだらかな森林地帯であり、避暑のための別荘地として名を馳せていた。
「商業都市」と銘打ちされているが、最も盛んなのは実は農耕であり、都市周辺には広大な農耕地帯が、それこそ盆地の隅から隅まで広がっている。
いや、盆地の隅から隅までではなく、常に寒風吹き荒ぶ厳しい環境の、魔獣の巣窟であるディーンストン山脈とは対照的な南のアバフェルディ山脈は、別荘地を除くその裾野の三合目付近まで多種多様な果樹園で埋め尽くされており、そしてそれは今も、可能な限り拡大中であった。
そんな険しい山脈に囲まれたグレンカダムだが、他の都市との交通は蒸気機関と鉄道交通が発達していなかった時代には、荷馬車で北方を除く三方の山脈に連なる山々から流れ出でる河川に沿った鞍部や切戸を縫うように移動していたため、いくら有数の穀倉地帯とはいえお世辞にも発展しているとは言い難かった。
その状況を打破したのが、前述の通りの鉄道技術である。
当初その交通機関を構想したときは、荷馬車と同じく山々を縫うように設計されていたのだが、それでは工事に時間が掛かるばかりか最高速度が荷馬車とほぼ変わらないため、一時はそのような荒唐無稽な計画は止めるべきだという意見が大半を占めていた。
だがあるとき、グレンカダム内で土木工事を請負う商会、工務店が一堂に介しての交流会食の席で、従業員数名で細々と工務店を営んでいた岩妖精の親方が、その遠大な事業を止める止めないで蹇々囂々している一同へ、最近出回ったばかりだが大変好評なリンゴ酒が注がれたグラスを片手に、
――通れないなら山なんぞぶち抜いてしまえば良い。
そう言い放った。
完全に酔った勢いでの大言壮語であるのだが、別名〝錆の民〟とも呼ばれ岩魔法に精通している岩妖精がそんな戯言を言う筈がないという謎の信頼感があり、その親方を中心に計画の見直しがされることとなった。
当然ではあるが、酔っ払った岩妖精の言うことに信頼などある筈もなく、ジガー(45ミリリットル)のロック一杯でヘベレケであったその親方は、自分が誇らしげに言ったこと全てを綺麗さっぱり忘れ去っていたそうな。
だが翌日の昼下がり、二日酔いで苦しんでいる彼の元へ、その計画書を携えた男が訪問したのを切っ掛けに、このときやっと親方はことの重大さと責任による重圧に気付いたのだった。
訪問した男はグレンカダムの中堅議員で、珍しい 西蔵驢馬の獣人族で、知的能力が低いと言われている彼ら種族ではあるのだが、ストラスアイラ王国の王都ブルイックラディで唯一の王立であるポートエレン司法大学を主席で卒業した才子であり、また自身の故郷であるグレンカダムの未来を憂える一人でもある。
彼は、ことの重大さに気付いて頭を抱える親方を他所に、ビックリするほどの熱量で鼻息も荒く暑苦しく語り、あまりの展開に呆然とする親方を置き去りに、ついでに計画書も置き去りにして去って行った。
こんな展開になるとは露ほども思っていなかった親方は、だがすぐに切り替え自分には絶対に無理だと正しく判断し、更に計画書を見る限り今更出来ないと言えないとも判断した上で、自身の出身地である東のドラムイッシュ山地の山肌に沿うように広がっている、岩妖精の国スペイサイドの首都エドラダワーにある職人集団、工業ギルドに助けを求めたのである。
その間にも計画はどんどん進み、そしてエドラダワーからの返答が一切無いばかりか音沙汰すら無く、親方の頭に心労のため白金貨ハゲが無数に出来始めた。
そして遂に、アバフェルディ山脈にトンネルを掘る計画を立案する段階になって親方が死を覚悟した頃、突然グレンカダムに一千名の岩妖精の集団が訪れたのである。
彼、彼女らは自らをエドラダワーから来た職人であると名乗り、先頭に立っている代表だと思しき威風堂々たる風格の女性が、
「同胞が面白そうなことをおっ始めると聞いたから来た」
と豪快に笑いながら、言い放った。
其処からの工程は、共に工事に関わっているグレンカダムの技術者達が度肝を抜かれるほどの速度で進んだという。
そしてトンネルを掘る段階になったとき、その起点の真正面で代表の女性―― ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドを中心に置いて、総勢八百名から成る超広範囲儀式魔法《リー》が展開された。
それから起こった超常現象を、当時その工事に携わっていた人々は生涯忘れることはないであろう。
トンネルの起点にするべく山肌を切り崩し、当たりをつけて打った鋲を中心として山肌が蠢き始め、見る間に鏡面のように滑らかな壁面を残して掘り進められる。
そしてその速度が度肝を抜くほど速く、更に壁面からの水漏れなど一切無いという常識的に有り得ない現象すら、それが当り前であるかのように固定されて行く。
その一つの山に、文字通りの風穴が開くまでその儀式は続き、だが僅か三日と半日でそれが出来上がるという異常事態が発生し、その後の儀式参加者の休養三日間で残る岩妖精二百名が総出でちょっとやそっとでは壊れない頑丈な橋梁を作り上げる。
そしてその後に同様の儀式魔法が展開されるという、有り得ないというか奇々怪界というか、ぶっちゃけバカじゃねーのと言いたくなるような無茶な出来事――そうとしか言えない出来事が繰り返された。
そんな主要施工主の全てを呆然とさせる岩妖精集団の無茶苦茶な工事が繰り返され、遂に僅か一ヶ月半でアバフェルディ山脈を貫く路線が開通したのだった。
そしてついでに、その山脈の隙間を縫うようにして細々と暮らしている小さな村の人々をも巻き込んで、何処から引っ張って来たのか開拓開墾大好き土妖精の集団五百名が、苦情が出る間も無く有無を言わさずあれよあれとという間に其処を休憩の要所とするべく開墾してしまい、満足したのか報酬など一切受け取らずに去って行ったという。
――土妖精は、満足な開拓や開墾が出来ればそれで良い、ちょっとアレな変態集団であった。
そのときいた土妖精集団の代表は、名をトールヴァルド・アードリアン・レダイグという壮年の男で、岩妖精の代表ヴラスチスラヴァの依頼――というか唆されて土妖精の国から駆け付けたそうな。
その二人は人目も憚らず、TPO全無視でイチャイチャしていたそうなのだが、それはどうでも良いだろう。互いの種族仲間も生温く見守っていたし。
ちなみに土妖精の国は、ドラムイッシュ山地の南方に位置するインヴァーアラン平原という肥沃な大地が特徴な地点に在る。
国の名は、レダイグ王国という。
その後の岩妖精達はワーカーズ・ハイになったのか、それとも当り前に仕事中毒なのか、ほぼ休む間も無く軌条の設置とトンネル内の通気のために用いる〝微風〟を付与した魔法柱を定間隔での設置などを気付いたらおっ始めており、またしても開通から僅か三ヶ月後に鉄道事業が完遂してしまった。
ちなみに、同様に東のフェッターケアン山脈と西のベンロマック山脈も、アバフェルディ山脈と条件は同じであったのを目敏く見付けちゃった岩妖精達は、規模が全然違うのに一つも三つも同じだという謎理論を掲げて、同じように工事を開始してしまった。
――そして一年が過ぎ、地理的に不可能とされていたグレンカダムに、念願の鉄道が開通したのである。
その無茶な工事に協力してくれた岩妖精達には感謝の意として莫大な金銭が支払われる予定であったが、代表のヴラスチスラヴァはそれを辞退し、それよりも鉄道が開通したのだから岩妖精の国スペイサイドと交易してくれるように依頼したという。
岩妖精の中に彼女の言葉に否と言う者は存在しなく、そしてそれはその総意であるし、そもそも一都市にそれを拒むだけの権限があるわけもなく、ストラスアイラ王へ上申して決定するとだけ返答した。
――で。
開通記念の祝賀会で出されたリンゴ酒をいたく気に入ったヴラスチスラヴァは、よせば良いのに立て続けにダブル(60ミリリットル)をロックで二杯も空け、そのままぶっ倒れたそうである。
そしてそれはその他の岩妖精達にも言えることであり、総勢一千名の死屍累々は、ある意味壮観であったらしい。
ちなみにそのリンゴ酒を卸した新進気鋭の酒造商会は、参加者が一千五百名を超える大宴会であるにも拘らず、10ガロン(約38リットル)の樽が十樽も出なかったことに驚き、商会長はもう岩妖精には出さないと言っていたそうな。
だがその後、ストラスアイラ王国にスペイサイドから直接そのリンゴ酒を仕入れたいと嘆願書が届き、結局は卸すことになったという。
出荷量が極端に少ないため、あんまり儲けには繋がらなかったらしいし、そもそも下戸の酒好きとか意味が判らんと、その商会長は呆れを通り越して感嘆しちゃったらしいが。
程なく、その酒造商会にスペイサイドの女王直筆の感謝状が届いた。
女王の名は、ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドと署名されていたそうである。
交通に関してそんな歴史があるグレンカダムなのだが、冬は北にあるディーンストン山脈から吹き降りる風雪によって気温は零下にまで下降し、更に前述の通りの盆地であるため雪深く、そして厳しい。
そのためグレンカダム周辺の、いわゆる郊外と呼ばれている土地は軒並み深い雪に閉ざされるため、冬の期間のみグレンカダム市街へ避難する者も多かった。
だがここ十数年、魔法や魔道具の技術に頼らない科学技術が大いに発展し、蒸気機関を組み込んだ車両や、またその魔道具も根強く開発と改良が成され、それによる除雪が可能となり完全に閉ざされることがなくなった。
勿論鉄道に関しても同様で、軌条に定感覚で温度調整の魔石が設置され、それが一五〇度まで加熱することで凍結を防ぎ、そして雪でも列車が走行可能となったのである。
そのため、慣れ親しんだ我が家を、一時とはいえ離れる者は少なくなったのである。
もっとも、あくまでも少なくなっただけであり、現状では市街への避難を優先する者は多数いるのも事実だが。
なにしろ除雪をしてくれるのは、あくまでも公道のみであり、それ以外の自宅周囲は自力で雪掻きをしなければならないのだから。
そんな雪深いグレンカダムなのだが、その冬に教会ではある儀式が、通例で行われている。
その儀式は〝齢の儀〟といい、基本的に初夏と初冬の年二回、一〇歳を迎えた子供達の魔法適性を調べ、そして正しく導くという体で行われているのであった――
――以上。
ほぼ余談でしかなかったが、あのとき語られなかった珍事を――
当事者から言わせれば、迷惑極まりなかった出来事を――
そしてそんな珍事と迷惑が、商業都市グレンカダムを大きく揺り動かす大事件となったのを――
――今こそ語ろう。
~導入~
魔法の聖女と大いなる勘違い。
――教会騒動――黒の章
セシル達がストラスアイラ王国の商業都市グレンカダムに居を移してから季節は巡り――といっても訪れたのが初秋であったため、初冬な現在ではそれほど日数は経っていなかったりする。
まぁそんな短い期間ではあるのだが、セシル達はシェリーに良いように使われ忙殺されており、その濃度があまりに濃くて期日の日数への換算なんて出来ていないのが現状であった。
中でも最も忙しかったのが、なんとレオンティーヌであったのである。
彼女の――レオンティーヌの服飾と洋裁技術を高く買ったシェリーは、即日商業ギルドへ針子は元より事務職や管理職候補、運送専用馬車の御者などの募集を掛け、更に岩妖精の職人さんにそれ専用の作業場建設を依頼してしまった。
そして一週間後。
リンゴ酒に釣られてシェリーに良いように手の平で転がされた岩妖精の本気が、作業場ばかりか倉庫や事務室、従業員の休憩場や寮、そしてやたらと収納が多くてしっかりしている所長の個室までもを、たったそれだけの工期で創り上げてしまうという異常事態を発生させた。
岩妖精はまさしくバカモノ――もとい、バケモノの集団である。
関係ないが、岩妖精達は落成後の宴会で出されたリオノーラ監修の料理を爆食いしてその美味さに感涙し、そしてリンゴ酒と炭酸水とその他色々を使ったやたらと薄いシトラス系のカクテルの口当たりが良かったためにつるつる呑みまくってしまい、例によって悉く酔い潰れたという。
だがその後、そのカクテル――岩妖精達は勝手に〝リオ・ジャック〟と名付けていた――は岩妖精の中で爆発的な流行となってしまい、どーせ隠す必要もないからとレシピを公開したリオノーラ宛に後日、岩妖精の女王ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドと、何故か土妖精の王トールヴァルド・アードリアン・レダイグの連名で感謝状と記念品が届き、当り前だが戸惑いまくったそうな。
届いたのは、巨大〝冷却箱〟に所狭しと大量に収納された旬のお野菜詰め合わせ各種、そして岩妖精の特級刀匠作である牛刀包丁《ナイフ》、ペティナイフ、筋引き包丁、パン切り包丁、そして骨切り鉈の、料理人垂涎間違いなしな高級包丁五点セットである。
しかも付与魔法まで施されており、多少の刃毀れなど勝手に自己修復するというとんでもない代物であったため、引き続き喜びより戸惑いが大きいリオノーラであった。
ちなみに――
「魔力を帯びた魔鋼鉄も余裕で一刀両断出来るから、武器としても使えるよ。指も生物もあっさりスパッと逝くから、取扱には充分気を付けてね。使用者登録してあるから、リオちゃん以外が使ってもただの鈍だから安心して。でももし盗まれたら言ってね。犯人を見つけ出して生まれて来たのを後悔させてあげるから。それから、いつになるか判らないけど、今度スペイサイドに招待するから、お楽しみに♡」
と、見なかったことにしたい余計な注釈もついていたそうな。
岩妖精の女王は、文章ではお茶目な性格だった。
――話しは戻って。
そんな離れ業を成した岩妖精達もそうなのだが、シェリーの決断の早さも行動の迅速さも、常々それらが常軌を逸していると思っていたセシルを凌ぐ勢いで事態が進んだのである。
そしてそのあまりの展開の速さに呆然とするレオンティーヌを所長として、あれよあれよという間にアップルジャック商会に服飾部門を立ち上げてしまった。
受注生産や古着が全てであるこの世界で、なんと初の既製品専門店である。
更に言っちゃうと――
「今秋開店。服飾専門店〝碧瑠璃の海妖精〟。既製品の取扱い専門ではありますが、受注生産もお手頃価格で承っております。お気軽に♡」
などというとんでもないうたい文句まで掲げてしまっていた。
そして所長となる筈のレオンティーヌには、当り前に無許可である。
言ったところで承諾しないであろうし、下手を打って逃げられたら堪ったものではないから。
ちなみに商業ギルドに提出した募集要項には、このように書かれていた。
『この度、アップルジャック商会では服飾部門を立ち上げる運びとなり(中略)オープニングスッタフを募集します。片付けがちょっと苦手だけど超美人な海妖精の所長と働いてみませんか。針子見習いも大歓迎。お申し込みは商業ギルドまで――』
とまぁ、こんな感じで。
知っている方々にとってはある意味で詐欺のようなのだが、残念ながら虚偽ではない。程度の問題である。
そしてその募集要項には、見た目は男女問わず十人が十人振り返るほどの、水面のように儚げな美女が多いと言われている海妖精の彼女が、ちょっと憂いを含んで窓辺で佇む写真付きであった。
何故そんな写真が撮れたかというと、片付けられないなら夕食は魚介盛り合わせだとセシルに脅されて、ショックを受けてそうなったそうである。
凄く大したことのない出来事であった。
ちなみに写真は、趣味が再燃したシェリーが撮ったものである。
最近セシル達のおかげでちょっと時間が出来たためか、色々撮りまくっているらしい。
セシルの湯上がり半裸とか、寝起きで着衣が乱れまくっているが見えそうで見えないクローディアとか、ロリ巨乳なラーラの胸部装甲の峡谷とか、洗濯物が溜まり過ぎて着る物が無くなったレオンティーヌが薄着で窓際に佇み逆光で色々拙いことになっている写真とか――
ほぼ、というか、全て盗撮なのだが、被写体側は特別なんとも思っていないらしい。減るものでもないし。
それに特殊性癖者が九割を超える、ある意味では非常に問題のあるアップルジャック商会内で、そんな写真の需要なんて――
「セ、セセセセセセセセセシルの半裸……なんて素晴らし怪しからん――! ぐふぅ、鼻から止めどなく赤い汗が……おかしい、元旦那を襲って発散させた筈なのに足りないだと……!」
――変態にしかなかった。まぁ、未だにセシルから意味不明に逃げ回っているが。
だがそれでも、デシレアのそれだけはどうあっても撮れないそうだ。ガードが固いという以前に、そういう姿は自身の伴侶にしか見せないのが植物妖精であるから。
ちなみに植物妖精は女性しかおらず、生まれて来るのも絶対に全員女児で、他種交配であろうと須く植物妖精になる。
まぁ、種族の性質上で他種交配しか出来ないが。
関係ないが、デシレアの目標は子供一二人らしい。大体三つ子で生まれるから、最低四回で目標達成だと無邪気に言っていたそうな。
そしてそれを話しているときの仕草が妙に可愛くて、その後はちょっと賑やかだったらしい。夜中なのに。
そんな服飾部門の責任者になっちゃったレオンティーヌだが、やっぱり色々ゴネたものの、好きな服が思う存分作れると言い含めるシェリーの口車にまんまと乗せられ、結局は引き受ける羽目になった。
責任者とはいっても、基本的に片付けすら出来ない彼女にそんな役職が務まるわけはなく、就職希望者から厳選し能力次第で副所長という体で決めようと画策するシェリー。
だがそんな中、実働部隊に疲れちゃった事務とか整理整頓が得意な人材がいると、商業ギルドのサブマスターのデリック・オルコックから出向受け入れの要請があり、とある理由で――某変態さんと一度とはいえ夫婦であった強者な彼を絶対的に信頼しているシェリーは、渡りに船だとばかりに二つ返事で受け入れることにした。
その人材の名はウッツ・ロイスナーというヒト種の男性で、以前は監査特務隊に居たそうである。
一人暮らしが長かったためか、家事全般を卒なく熟せる優秀な人材である上、整理整頓能力が変態的なほど熟達し過ぎて同僚に疎まれているそうだ。
そして彼が初出勤し、平気で素肌にキャミソール一枚という実に目の保養――もとい目の毒な格好でところ構わずその辺をウロウロする海妖精を目撃して絶句し、呪禁のように「俺にはへスターがいる俺にはへスターがいる俺にはへスターがいる」と繰り返し呟き、だが彼女の私室をうっかり目撃して秒で落ち着いたという。
そんな感じで服飾部門のアレコレがあった後に無事(?)ひと段落し、セシルとラーラとウッツの間で謎の一体感が生まれたりしながら、アップルジャック商会内で実は急速に進められていた人材育成がひとまず終わりを迎えた。
それらを請負っていたのが、ちゃっかり教員資格持ちのセシル、クローディア、デシレア、そしてラーラなのである。
四人は他国でも教師として活動出来る、国際教員資格を持っていた。
デシレアとラーラは仕事上で必要だから取得したのだが、セシルとクローディアは「持っていれば食うに困らない」という理由で取得していたりする。
堅実といえばその通りな二人だった。
ちなみに、レオンティーヌが所持している資格もそれと同様に国際資格であり、国際服飾士と呼ばれている。
そして意外にその数は少なかった。何処でもどの街でも針子さんはいるから。
そんなこんなで色々落ち着いたセシル達は、冬が本格的に始まる前に四人で暮らせる戸建てを新築しようと計画していた。
幸いにもアップルジャック商会本店周囲の建造物は、本店に繋がっている住み込み社員用の社宅、併設されているその辺の教会よりもよほど立派なチャペルと巨大式場、ちゃっかり合併吸収しちゃったレストラン「オーバン」、社長のアイザック・セデラー夫妻宅、元々其処にあったザカライア爺の自宅と酒蔵しかない。
・・・・・・。
結構あった。
ともかく、ダルモア王国の交易都市バルブレアでマーチャレス農場を経営していたセシルは実はちょっとした資産家であり、豪邸でなければ戸建てを新築出来るだけの資産は持ち合わせている。
それにグレンカダムに来てからシェリーに良いように扱き使われ、だがそれに見合った給与を貰っており、更に使い所と時間がない上に衣食住の全てを支給されていたため、貯まる一方であった。
そんな事情で戸建てを新築したいとシェリーに言ったところ、
「ああ良いんじゃない。この辺一帯は地価も安いし誰かさんが衝動発散で定期的に魔物とか盗賊とか山賊とかを間引いているから治安も良いし」
龍は定期的に破壊衝動が発現するため、たまーに発散しないといけないらしい。
それは性衝動に変換可能であるらしいが、ナニかがとっても凄い誰かさんの夫はともかく、誰かさんの恋人はヒト種で体力も並よりちょっと優れている程度であるためか、加減しないと身が保たないそうな。
真剣にナニかの仲間が欲しくなって来る、メガネがよく似合う三つ編み元修道女な誰かさんだった。
「あ、でも戸建てを新築するならグレンカダムの戸籍省に住民登録しないといけないわよ。それからどんな家が良いの? 参考までに聞かせてくれない?」
サラッとそんなことを言い、セシル達と理想の自宅について楽しく語り、その後ついでとばかりに商会の担当国法士に話しを付けてくれて、滞りなく住民登録と土地の権利証が手に入った。
その担当国法士は、見た目も話し方も「ヤ」が付くヤヴァイ自由業のお方にしか見えなかったが、滅茶苦茶良いヒトであったそうな。
――それで。
「ちょっと待て、俺はまだ土地なんて買っていないぞ。なんで権利証があるんだ?」
そう、セシルはまだ土地を買っていない。なのに何故か手に入っていた。
それをシェリーに問いただすと、
「気にしない気にしない。ただの賞与だから」
「いや賞与で土地くれるとか、バカじゃねーの!?」
そんなセシルの真っ当なツッコミなど鼻歌で一蹴し、気付けば既にお得意様になっている岩妖精の職人連合が大挙で押し寄せ勝手に戸建てを建築し始めてしまった。
「いやちょ待てよ! 家って、自宅ってさ! もっとこーワクワクドキドキしながら皆で楽しく悩みながら計画も設計もするもんじゃないのか!? こんなにあっさりしてて良いのか!」
「ウルサイわねー。そんなケツの穴の小さいことを言ってんじゃないわよ見苦しい。アンタは黙って新築の自宅で奥さん達に思う存分生殖器をぶちこんでいれば良いのよこのハーレム野郎が!」
「言い方! それにまだ成人したての女の子がそんな直球で下品なことを言っちゃいけません!」
「飾り立てたって表現抑えたって意味は一緒でしょうが。大体ね、毎晩毎晩煩くて仕方ないのよ。コッチまで変な気分になったらアンタ責任取ってくれるの!?」
「セシルのソレは普通サイズだと思うわ。他所を知らないからなんとも言えないけど。あとセシルなら甲斐性もあるから責任はしっかり取ってくれるわよきっと。なんならシェリーも混ざる?」
「いやソレの実際のサイズ云々言われても知らないわよ。ま、確かにセシルなら甲斐性もあるしちゃんと責任取ってくれるだろうとは思うけど、でも私って独占欲が強いから、きっとディア達を許せなくなると思う。私は皆とは良い関係でいたいのよ。だから嫁仲間は他を当たって」
「あらそう。残念だわ。セシルは床上手だから初めてでも無茶はしないから安心なのに。あと一人で相手してると大変だから、独占欲とかどうでも良くなるわよ。一回試してみたら良いわ。私もデシーもラーラも全然構わないわ」
「そんなになの? あのハーレム野郎は。でもそれは断固として遠慮しとく。それに私ってお母さんと一緒で男運無さそうだから、一生独身でも良いかなーって思ってるのよねー」
「あのなディア。横から割って入って唐突に嫁を増やそうとするんじゃないよ。それから、こう言うのは卑怯かも知れないが、ディア以外は全部俺が嵌められたんだからな。強精剤と媚薬を飲まされた上で目の前で誘惑されたらそうなるのは当り前だろう」
「ふふ、あの頃のセシルは初々しかったわね」
「最初から猛々しかったら逆に嫌だろう。というか問題がすり替わってんぞ。そもそも幾らするんだこの土地と戸建て」
「だから賞与よ賞与。細かいことは気にしないの。これでも私はアンタを高く評価しているんだからね。四の五の言わずに受け取りなさいよ面倒臭い。あと贈与税の支払いも終わっているから、懐は一切傷まないわよ」
「面倒臭い言うな。それにそんな至れり尽くせりな賞与を出してくれる経営者なんて、一体何処に居るんだよ」
「此処に居るわ!」
左の拳を腰に当て、サムズアップした右手で自らを指差し程よいサイズの胸を張る。
シェリー、渾身のドヤ顔。
気の所為か、その背後に「バアアアアン!」という擬音が浮かんでいる錯覚に囚われるセシル。
それくらい、このときのシェリーはイケメンだった。
まぁそれはともかく。
「納得出来るかーーーー!!」
セシルのやっぱり至極真っ当なツッコミは、虚しく虚空へ消えて行ったそうである。
――そして一週間後の昼過ぎ。
セシル達五人の自宅は無事完成した。
――そう、完成しちゃったのである。
「これでアンタとその奥さん四人が仲良く暮らせるわよね」
「ツッコミどころが満載で何処から突っ込んで良いか判らねぇよ。まず、なんでシェリーの自宅と渡り廊下で繋がってんだ? あと一人増えてんぞ。まさかシェリーの気が変わって一緒に住む気か? それかまさかのレオンティーヌも混ぜる気じゃないだろうな」
「レオを混ぜるのは本気で危険だから数には入っていないわよ。なによアンタ忘れちゃたの? もう一人可憐しくアンタを待っている乙女がいるでしょうが」
そう言うと、シェリーはそのまま奥に引っ込み、暫しの後に鬼人族の女性を引っ張って来た。
彼女を、セシルは知っている。
初めて自分に、飾らず真っ直ぐに好意を伝えてくれた女性。
アップルジャック商会仕入れ担当精肉鮮魚係、レスリー・レンズリー。
「会長はん、これはどういう状況でありんすか? この新築の家に住めとおっせいしても、あちきは社宅で充分でありんす……あ――」
恐らく説明なんてされずに引っ張って来られたのだろう。状況が全く掴めずに、当り前に戸惑いまくってそう言うレスリーだが、連れられた先にいる人物を認めて動きを止めた。
「おお、久しぶりだなレスリー」
こっちも状況が飲み込めず、だが相手を見知っているために、なんの気無しにセシルは軽く挨拶する。
だがそうされたレスリーは――突然ポロポロと涙を零して声もなく泣き始めてしまった。
そしてそんなレスリーの様を見て、意味が判らず絶句するセシルを他所に、
「はぁ……コイツってハーレム野郎のクセに朴念仁なのね。言ったでしょ、可憐しくアンタを待っている乙女がいるって。レスリーはね、アンタがいつになるか判らないけどグレンカダムに行くって言ったのを信じて、一日千秋の想いで待ってたの。そんな女の想いの一つくらい、受け入れてやりなさいよ。それに今更一人二人増えたってどうとでもなるでしょ」
「いやそんなこと言ったって、鬼人族は一夫一妻が掟なんだろ。それを無視しろって言うのは違うんじゃないのか?」
「主さん、それは違ったでありんす。あちきは孤児でありんしたから、鬼人族の常識は物語でしか知りんせんした。以前セラフィーナ様――マスター・グレンヴェルの奥様とお会いいたしんしたときに、それは他種族が勝手におっせいしているだけだと知りんした。だから――」
零れる涙をそのままに、緋色の瞳で真っ直ぐにセシルに視線を向け、そして、喘ぐように息を詰まらせながら、
「あちきも、主さんのお傍に置いておくんなんし」
きっと――セシルは思う。レスリーは純粋に自分が好きなのだろう。
気付けばそんな関係になっていたクローディアとも、言ってしまえば成り行きでそうなったデシレアとも、ある種の打算であるラーラとも違う。
理由などない、ただ純粋な想い。
「まったく……」
俯き、溜息を吐いてから顔を上げ、真っ直ぐにレスリーの視線を受け止める。
「俺なんかの何処が良いんだ?」
セシルは、相手からの好意は理解出来るが、相変わらず愛だの恋だのは理解出来ない。
きっとそれは、そう思う心に理論付けをしようとするからであろう。その感情に理論を付ければ、必ずと言ってしまっても良いほど一つの結論に行き着くから。
つまり、それはただの性欲だ――と。
それも全て含めてのそれであると、理解出来ないのだ。
「そう言いなんすな。あちきは、きっとディアはんもそちら御二方も、そんな主さんを好いているのでありんす」
「いや、でもなぁ……」
「はーい、一旦終了」
それでもそう言い淀むセシルを制し、シェリーが手を叩いてそれを中断させる。ぐじぐじ言っているセシルを見ていて、焦れたらしい。
「このハーレム野郎の意見なんてどうでも良いわ。あとは皆で相談して決めてね。ああそうだ、言ってなかった。セシル、アンタ今日から私の家令だから。はいこれ辞令ね」
「は?」
自分で振っておきながら、即結論が出ないのが面白くないのか面倒臭くなったのか、必要事項を言い捨てて羊皮紙を渡し、呆然としているセシルを置き去りにして退室するシェリー。なんだかやりたい放題である。
「はぁ!?」
まさに寝耳に水な状況で、そう言うのが精一杯なセシル。なにがどうなってそんなことになったのか、切実に説明が欲しかったのだが、それはきっと出来ない相談なのだろう。
「意味が判らん! なんで俺がシェリーの家令なんてやらなきゃならんのだ!? 本気で意味が判らん!」
その訴えが、言った本人へ届くことはなかった。仮に届いたとしても、聞き入れられることなどないのであろうが。
「そもそもなんでも出来るお前に家令なんか必要ないだろうが! 俺になにをしろって言うんだよ! 何処ぞのお姫様みたいに朝の着替えとか風呂の世話とかしろって言うのか!?」
「……セシル、シェリーにそんなコトしたいの? 確かに私たちにはない魅力があるだろうけど、手を出したら地雷にしかならないみたいよ。本人も言っていたし」
「まぁ、確かにシェリーはこの中にはいない属性の女の子だけどな。美人のお前とか知性溢れる神秘的なデシレアとか、快活で天真爛漫な合法ロリ巨乳なラーラとか……」
「あと、引き締まった高身長色白美人でボンキュボンなレスリーとかね。どうしてもシェリーを加えたいって言うなら、説得してみるわよ。きっと頑張って押せば、攻略出来ると思うわ」
「それなんてエロゲだよ。俺はハーレムルートは望んでいないぞ」
「……ふうん、そう。その『えろげ』とか『ハーレムルート』とかはよく判らないけど、そういうことにしておくわ」
「いや本当に望んでいないからな。フリじゃないじゃないからな。それにそんなに嫁さん増やして、お前は俺になにをさせたいんだよ」
弁明や釈明にも似たセシルの訴えは、やっぱり虚しく虚空へ消えて行ったそうな。
そしてその後――セシルを交えないで開催された嫁会議で、目出たくレスリーは仲間入りを果たすこととなった。
そのときの花が咲いたような笑顔を浮かべる彼女に、セシルは不覚にもちょっとキュンと来ちゃったそうである。
そうして新生活を始め、家令になってしまった以上は仕事をしっかり熟そうと、意外とクソ真面目なセシルがシェリーの世話をし始め、だがやっぱり自分でなんでも出来るし他の世話までやっちゃう彼女に世話なんて必要ある筈もなく――
例えば朝、起床のお世話をしようとすると、
「(ノック三回)おはようございます」
「ん? ああ、起きてるわよ。構わないから入って」
「失礼しま……て! なんでパンツ一丁なんだよ!」
「はぁ? アンタなに言ってるのよ。朝起きたら着替えるのが当たり前でしょ。それに嫁さんいっぱいいるんだから、今更私の貧相な身体なんか見てもなんとも思わないでしょバカじゃないの」
「バカはお前だバカヤロウ! お前はもっと自分の容姿とか無駄のない体型とか自覚しろよ。だからなんで隠すとかしないで仁王立ちなんだ?」
「あーはいはい。リップサービスは要らないわよ、幼児体型は自覚してるからね。こー、ラーラやレスリー並みにバインバインとか高望みはしないけど、ディアとかデシーくらいにならないかなこのオッパイ。揉めば大きくなるの?」
「揉んでも変わらんと思うぞ。じゃなくて、良いからさっさと服着ろよ。なんで目の前に男がいるのに平気なんだよ」
「……そう言うけどね、アンタが出て行けば全て解決なんじゃないの?」
「………………あ」
「嫁が多い割に案外純朴そうだなーとかは思って見てたけど、ホントにそうなのね。まぁこの期に及んでまだガン見しているあたり、男として正しくスケベだなーとも思うけど」
「失礼しました――」
食事の用意とかも、
「あ、出来てるわよ。冷めないうちに食べてー」
「なんで俺より早起きなんだよ。なんのための家令だよ、出番が無いだろう」
「なに言ってるのよ。早起きしないとアンタ私の着替え覗きに来るでしょ。しかも正面から堂々と。まったく、こんな貧相な身体なんて何処にも需要がないじゃない」
「いや充分スタイルが良くて綺麗だと思うぞ。無駄が一切ないし」
「……ふうん」
「なんだよその目は? 別にお前を狙ってるわけじゃないからな――て、生温く見るな! ツンデレしてるワケでもないからな? その視線ヤメロ!」
「その『つんでれ』とかは判らないけど、まぁそうね。十年後くらいに私がまだ独身で、貰い手が居なかったらアンタに貰ってもらうのも良いかなーとか思ってるだけだから」
「なんだよその究極の打算は。言っておくが、それはきっとナイからな。振りじゃなくて本当でだからな。そもそも嫁さんは一人で充分だったのに、どうしてこうなった……」
「……それはアンタがはっきり断れない優柔不断野郎だからよ……」
「ガフぅ(図星を突かれた)」
そしてあるとき、
「(浴室から)ごめーん、着替え持って来るの忘れたー。テキトーで良いから持って来てー。ついでにタオルもー」
「あー、はいはい。入口の前に置いとくぞー」
「いやタオルも無いから脱衣室が水浸しになっちゃうでしょ。バカなこと言ってないでさっさと入りなさいよ」
「どんどん恥じらいが無くなってくなこのお嬢様は――いや最初から無かったか。失礼します」
「着替えそっちに置いて。タオルちょうだい、湯冷めしちゃう」
「ちょ! おま! バカじゃねーの!? なんで隠さずフルオープンなんだよ! 二度目だけどバカじゃねーの!!」
「は? アンタこそなに言ってるのよ。別に一回見られてるんだからもう平気でしょ。性器ガン見されてるワケでもないし」
「言い方! だからなんでそんなに明け透けで露骨なんだよ」
「本っ当に面倒臭いわね。アンタにその気があるならもう私は今頃妊婦になってるわよ。アンタは意外に紳士だから、劣情に任せて襲ったりしないでしょ。今更なに言ってるの。こう見えても一応信用してるんだからね」
「お、おう。そうか――」
「ああ、でも劣情に負けても怒らないわよ。責任を取って貰うだけ」
「だからその思考をなんとかしろよーーーー!」
といった具合に即日手持ち無沙汰になってしまったセシルである。
まぁ手持ち無沙汰というか、身の回りのことは自分できっちり出来る割に意外と裸族なシェリーの世話をしていると、自分の理性の箍に自信が持てなくなるから自主的に止めたという方が正しかったのだが。
余談。
「ねぇシェリー。最近セシルが更に凄くて四人相手でも圧倒されるときがあるんだけど、心当たりなんてある?」
「ああ、私の世話をしようとして着替え半裸見たり湯上がり真っ裸見たりしたからじゃない? その辺の男の事情とか機微は良く判らないけど」
「……シェリー、それ止めてあげて。というか本当に止めて。ああ見えてセシルはバカが付くほどの真面目だから、言われれば言われるまま着替えも風呂の世話も、剰えトイレの世話までするでしょうけど、実は人一倍スケベなの。シェリーが襲われることはないでしょうけど、それの被害が来るのは私達だから。おかげで今日のラーラとレスリーは、午前中いっぱいは使い物にならないわ」
「そんなに凄いの?」
「私やデシーはもう慣れたけど……そうね。今度そんなことがあったら、本気でシェリーに責任取って貰おうかしら」
「ごめんなさい。襲われないって確証があったし、反応が面白くて揶揄ってたけど今後は控えるわ」
そんなのんびり(?)とした日々が続き、そしてある日――そのセシル達新規住民登録者宛に封書が届いた。
封書は五通。そして宛名はそれぞれセシル、クローディア、デシレア、ラーラ、そしてレスリーであった。
そう、実はレスリーも、新規住民登録者の中の一人であったりする。
彼女は今までアップルジャック商会の社宅に住んでおり、言ってしまえば固定した居を構えていなかったのだ。
それに元々狩猟民族である鬼人族であるため、そんな概念が薄いというのも理由にあるが。
そんなレスリーにもついでとばかりに届いたその封書の差出人は、ベン・ネヴィス教会。
西のベンロマック山脈の麓、切り立った断崖に沿うように燦然と在る、世界一美しいと謂れている教会からであった。
何故そんなところから封書が届いたのかは謎ではあるが、セシルはそれをひっくり返して封蝋をしげしげ眺め、なんで交差する直剣と重なる十字架とか物騒な紋章なんだ? とか全くどうでも良いことが気になったが、なんだか厄介ごとのような気がして封書箱に放り込み、そのまま放置してしまった。
もっともそうしたのなら、いっそそのままにしてしまえば良いのに、ある日の昼食時にうっかりそれを思い出してしまい、封書箱へ乱雑に放り込んでいたそれを取り出してシェリーに見せた。
「なぁ、すっかり忘れていたがこんなのが届いていたんだ。これってなんだと思う?」
デシレア謹製の完全菜食主義者仕様な特大のバケットサンドに大口で齧り付こうとしていたシェリーは、封蝋を見てその口のまま数瞬動きを止め、不自然にツイと視線を逸らしてそれに齧り付き、モッキュモッキュと咀嚼し素知らぬ顔をする。
「いや訊いてんだから、知ってたら答えろよ」
絶対何か知っていると悟ったセシルは、その特大バケットサンドをひょいと取り上げ半眼でシェリーを見る。
だがシェリーはそれを飲み込んだ後も、決まりが悪そうな表情で明後日の方向へ視線を送るばかりだ。
よほど言いたくないことか、思い出したくないことがあったらしい。そう悟ったセシルは盛大に溜息を吐き、そして自分宛の封筒を手品のように何処からか取り出したペーパーナイフで開封する。
「〝齢の儀〟?」
それは教会からの、それへのお誘いであった。
「なんだこの〝齢の儀〟とかいうのは?」
「さぁ。私は知らないわ。デシー知ってる」
「知りませんね。なにぶん此処数十年ほどはダルモア王国近辺にいましたので。ストラスアイラ王国は実は百年以上ぶりです。なにしろ山々に囲まれた国だったので山越えしなければならず、来るのが面倒でしたし」
「ラーラも知らない。そもそも教会って草原妖精を敵視してるんだよ。奔放に生きてるーって。そんなことないのに」
「ああ……〝齢の儀〟でありんすか……」
セシル特製の肉食主義者垂涎、三種の肉入りバケットサンドの分厚いベーコンを犬歯で咬み千切って幸せそうに咀嚼し、だが遠くを見るようにレスリーが独白する。
シェリーを除き、この中で事情を知る唯一と言って良い彼女は、数ヶ月前の騒動――というかバカ騒ぎというか、とにかくそれを思い返し、一度シェリーに目を向けてから溜息と共にその双眸を伏せた。
「このときあちきは、新規の仕入先を開拓するのにグレンカダムを離れていんした。そして色々整えて戻ると、会長はんが大きい軍旗を掲げて猛者どもをまとめ上げ、教会相手に戦争を仕掛けるとこでござりんした」
レスリーが齎したとんでも情報がイマイチ理解出来ず、暫し首を捻って情報を整理するセシル。
そしてやっと出た言葉が、
「…………本当に?」
物凄く月並みなものであった。
「ほんざんす。あのときの会長はんは、ほんに楽しそうでありんし――ああ会長はん、あちきのバケットサンド取らないでおくんなんし」
「煩いわね。余計なことを言うレスリーはコレでも食べてれば良いのよ!」
「うう……あちきは草ばかりのバケットサンドは要りんせん。それにそれは主さんがあちきのために作ってくれんしたものでありんす。返しておくんなんし」
「うわナニコレうんま! 鶏の燻製と香ばしく焼いてタレを絡めた鹿、あと猪のベーコンが挟んであるの? ちょっとセシル、私にも作りなさいよ!」
「いやさっき肉より野菜が良いって言ってたじゃねぇか。だからわざわざデシーが作ってくれたのに。というか、考えてみればなんでシェリーがウチで飯食ってんだ?」
「いやほら、向こうは大人が多いじゃない。こっちは歳が近いし良いかなーって」
「歳が近いって言ったって――まぁ近いっちゃそうだが……」
言いつつ、その場をぐるりと見回すセシル。
セシルとクローディアは二一歳。デシレアは年齢不詳で本人も忘れるくらい。ラーラは二七歳で、一番歳が近いレスリーだって一九歳で、そしてシェリーは成人したての一五歳である。
「まぁ、本人がそれで良いってんなら良いけど。なんつーかこー、イマイチ釈然としないというかなんというか……」
「セシル。深く考えない方が良いわよ。シェリーが居心地が良いって言うならそれで良いじゃない」
「んー、ディアがそう言うなら良いのか?」
完全菜食主義者サンドと肉食主義者サンドを幸せそうに交互にモッキュモッキュしているシェリーに白けた視線を送り、だがいい加減になにがあったのかを教えて欲しいと、わりと切実に思うセシルであった。
ところで――
「え? ちょっと待って! 私ってハブられてませんか!? 服飾部門で好きなだけ服を作って良いよーって甘言に騙されてません? それにセシル分が足りません! というワケで帰らせて頂きます!」
「なに寝言いっていやがるんですかレオンティーヌさん。既製品の新作がまだ出来ていませんよ。針子達が待ってるんですからとっとと設計図を仕上げやがって下さい。あとなんなんですかその『セシル分』とかいう意味不明なのは」
「セシルから出る癒し成分です。そんなコトも知らないんですかまだまだですね。私はそれを定期的にペロペロしないと、ウサギのように孤独死してしまいます。ではそういうワケで、セシルの元に還元と書いて還らせて貰います」
「そんな成分なんて出してねぇぞセシルは。あとペロペロするとか、微妙に変態発言混じってんぞ。それからウサギが孤独死するとか嘘だからな。アイツら一羽でも逞しく生きて行くんだからよ。面倒臭ぇけど全ツッコミするが、少なくともオメーがセシルに『還元』なんて出来るワケねーだろうが判れや。まったくどんな身の程知らずだよ」
「いーえ、セシル分はありますぅー。ちゃんと洗濯物に染み込んでますぅー。特に朝に出る洗濯物にはいっぱい染み込んでて、時々付いてるネバネバな当りをペロペロスーハーすると五百年は生き返るのですぅー。私まだ二三歳ですけど」
「やたらと腹立つ言い方だし闇が深ぇなオイ。なんでセシルはこんな化物を野放しにしてんだ? 連れて来た責任でとっとと娶ってくれた方が世界のためなんじゃねーのか?」
「ウッツさんもそう思いますか? 私とセシルがお似合いだって!」
「いやそれは言ってな――」
「私は常々思っているのです。凛々しいセシルの隣には私がいるのがお似合いだ、と!」
「……まぁ、絵面だけ見れば美男美女で映えるよな。絵面だけは」
「ですよね! なので私はローブ・ドゥ・マリエを仕立ててセシルの元へお嫁に行きます! そしてセシル液を直接注入して貰うのです!」
「夢見る女から一転しての下ネタかよ。それはどーでも良いから仕事しろよ。あと受注生産品も山積しているんですから、ガタガタ文句言わずにキリキリ働いて下さいよ面倒臭ぇな」
「ちょっとウッツさん! 言葉の端々に明らかな悪意が見え隠れしているんですが! 私にはマゾっ気が無いんですから、そうされて悦ぶ相手は一人しかいません! もっと優しくして下さい私は褒められて伸びるタイプなんです!」
「褒められて伸びるヤツは自分からンなこたぁ言わねぇよ莫迦じゃねーのか。それは自分を甘やかしたいヤツの言訳だろうが。あーもー鬱陶しいなこの女は。良いからさっさと仕上げろや。その間に部屋の掃除してやるから」
「……ウッツさん、もしかして私のこと好きなんですか?」
「あ゛?」
「でもごめんなさい、私にはもう身も心も捧げると決めた男性がいるのです。貴方の気持ちは有難いですが、それは受け入れられません」
「なに唐突に口走ってやがるんですか、しょちょーさんよ。なんでいきなりそんな結論に達しやがったんです?」
「え? だって、部屋を掃除してくれるって……」
「それはオメーの部屋があまりに汚ぇから仕方なくしてんだよ! そもそも俺には恋人がいるからそれはノーセンキューだ。まったく、なんなんだよこの勘違いチョロインは!?」
レオンティーヌは、いつでも何処でも通常通りであった。
煩いわねー。私だって言いたくないことの一つや百個くらいあるのよ。
……あり過ぎだって? なによ、乙女の秘密に文句でもあるの?
――無いならよろしい。
でもね、本当にくっだらない話しなのよ。
これから話すのは、魔法を神聖視し過ぎた、妄執に取り憑かれたヤツに振り回された女の子――まぁ私なんだけど、そのお話し。
ただ他人より魔法の資質が高かったがためだけで、勝手に〝聖女〟と呼ばれて祭り上げられ、そしてその身を教会に尽くすべしと強要された少女のお話し。
――当事者とはいっても、あくまで主観でしか語れないからね。
それを踏まえて、一生懸命に注意深く聞かないでくれると助かるわ――
――*――*――*――*――*――*――
シェリー・アップルジャックは、便宜上アップルジャック商会の四代目になるべくして育ち、だが事実上ではそれの相続を強要されてはいなかった。
初代で曽祖父のニコラスは酒が美味しく飲めれば満足で、商会の存続などには興味がなかったし、二代目で祖父のカルヴァドスも必ず継いで欲しいとは考えていなかった。
そして三代目である父のイヴォンに至っては、継ぐ継がない以前に放蕩が過ぎて正常な経営すら出来ない有様であり、諸事情により妻になっちゃったエセルがいなければ早々に勘当されていたであろう。
事象に「もしも」は存在しないがあえて言わせて貰えば、もしかしたらその方が色々と、経営的にも後に勃発する混沌とした廃業活動も回避出来ていたのかも知れないという点についても、とても良かったのかも知れないが。
そのアップルジャック商会は、初代のニコラスが深酒が祟って他界し、次いで数年後に次代を期待された鬼才で奇才なエセルが列車事故に巻き込まれて事故死した後、立て続けに二代目のカルヴァドスも急逝したため大混乱に陥った。
その混乱を鎮め、解れた紐を紡ぎ直すように束ねたのが、三代目であるイヴォンではなく四代目となる、当時まだ九歳の少女――シェリー・アップルジャックであったのは知っての通りである。
もっともどれほど上手に紐の解れを紡ぎ直したとしても、それが元に戻ることなどある筈もなく、より細くより脆くなるだけであった。
そしてそれに気付けない三代目が、思うまま掻き回した上に用途不明で意味不明な出費を存分に増やし、結果として多額の負債を抱える有様となったのである。
そうしてその結果、三代続いて老舗の仲間入りを果たす筈であったアップルジャック商会は経営破綻し、現在その負債を作り出したイヴォンは消息不明であった。
もっともその負債も、シェリーが法の穴を突いて全てイヴォン個人の資産という体にし、それを理解出来ずに資産を欲した強欲な誰かさんへ「相続」という形で受け取って貰ったが。
そんなこんながあり、また色々な事情で商会をもう一度立ち上げることとなり、商業ギルドへの申請のときにうっかりミスでシェリーは会長になってしまったのである。
もっとも実務は社長のアイザック・セデラーが主導で行いシェリーは口を出さないでノンビリしようと心に誓い、更に公言していた――のだが、任せるとか委託とかそういうことが根っから出来ないシェリーは、結局陣頭に立ってアレコレやり始めてしまっていた。
「ノンビリしよう」という初志貫徹がなっていないシェリーである。
それはともかく。
時期として、商会を立ち上げるより前――
初夏となり、シェリーが一五歳の成人を迎えたある日のこと。
商会が無くなり、そして成人したのにいきなり無職な自宅警備員となり暇を持て余しているシェリーが、自分で淹れた紅茶を楽しみながら、自室でなんとなーく自分宛の封書を整理して見直していると、自身が九歳のときに届いていた封書を見付けた。
そういえばあの頃は、商会の書類整理や現金出納帳の管理、そして商品の仕入れと管理に追われて自分宛の手紙なんて気にする間もなかったなー。
とか茫洋と物思いに耽り、だが、あまりにも聡いシェリーは学校に行く必要もないくらいであったため、同世代と関わる時間が全くと言って良いほどなかった。
そしてその必然として、悲しいことに現在進行形で友達の一人もいない。
よって、シェリー個人宛に手紙など届く筈もないという、実に見事な三段論法が成立するのである。
自分でそんな分析をしつつ、若干の自爆で自傷しながら、だがすぐにそんな些末な事項は忘却の彼方へと処分する。
別に、寂しくなんかない。
ないったらない。
そうしてなにかを補完し終え、改めてその手紙を不思議に不審に思い、それをひっくり返してみる。
差出人はベン・ネヴィス教会で、内容は十歳になる子供たちへの〝齢の儀〟出席のお誘いであった。
文面の書き出しが「十歳を迎えるあなたへ」とあるから間違いない。
そういえば――シェリーはまたしても感慨深く物思いに耽る。いつの間にか一二歳になってて、十歳前後の記憶が「忙しかった」しかない。
まぁだからといって、遊びたい盛りな貴重な子供の時間を無駄にしたとかは一切思わない。
例えるならば、酒を呑まないひとが「酒を呑まないのは人生の半分損している」とか言われてもピンと来ないばかりか「苛ぁ!」として殺意を覚えるのと同じである。
それはともかく。
それを見付けた――というか見付けちゃったシェリーは、あーやっちまったなーと独白し、これって年数が経ってても平気なのかと有効期限の記載を探し、それが見当たらなかったために、
「使用期限とか有効期限の記載をするのは商業としての最低限な礼儀でしょうがぁー!」
誰もいない自室で、ただ一人で興奮するシェリー。勿論ツッコミなどいる筈もなく、そもそも相手は商業ではなく宗教であるため、その訴えは既にイチャモンでしかない――
「――て判ってるわよ相手は商人じゃないし宗教よ! そもそも宗教になんて興味ないわよなんで封書来るのよ! それも判ってるわよ〝齢の儀〟ね! ハイハイってそれってなんなのよ判んないわよ『それ常識だろ』みたいに説明なしで用件だけ送ってくるんじゃないわよ! 常識って国とか種族や環境、思想、身分、職業、その他諸々で全然変わってくるじゃないの莫迦じゃないの! 常日頃壇上でクッソ偉そうに書面棒読みで説法しているクセに、説明ってなのためにあるか判っていないわね! なんで世の中には『ほうれんそう』が生えていないヤツが多いのよ!」
宗教に対してなにか嫌な思い出でもあるのか、更に誰へともなく取り敢えず文句を言い始め、そしてセルフツッコミを織り交ぜながら一通り言い終わると、満足したのか妙にスッキリした顔ですっかり温くなった紅茶を呷り、頬杖を突き足を組んでキメ顔をする。
無論だが、それは誰も見ていない。
しかしそんな些事など気にするシェリーではなかった。伊達や酔狂で友達がいない独り上手をやっているワケではないのだ。
なので、悲しいとか寂しいとか思うなど、あろう筈もない。
断じてない。
ないったらない。
そんな独白を脳内再生させ、だが結局その〝齢の儀〟とやらが気になってしまったシェリーは、階下にいるであろう誰かに訊こうと判断し、ティーセットのトレイを器用に片手に乗せてリズム良く階段を降りる。
かくして、確かに階下には誰かがいた。
その誰かとは――
「おや、お嬢。お久し振りですね」
常に笑みを顔に貼り付けているような表情の草原妖精、リー・イーリーであった。
「うわ、リー。いつ戻ったのよ。というか商会がなくなったんだから、アンタはここに来る必要はないんじゃないの?」
一仕事終えて来たのか、結構綺麗な百合が描かれている湯呑みに、古くから草原妖精が愛飲している若干クセのある緑茶を注いで啜っているリーへ、露骨に嫌そーな表情でそう言うシェリー。遠慮も配慮も優しさも一切ない。
だがそう素気無く冷たくされたとしても、普通ではなく特殊性癖者なリーにとって、それはこの上ないご褒美である。
シェリーのそんな言葉だけでも頬を赤らめハァハァさせる始末。今日もリーは絶好調だ。
「ふふ、相変わらずイイですねお嬢。その調子で蔑んで下さい。そうすれば私はお嬢に一生仕えましょう。ヒト種と草原妖精では基本的な寿命が違いますから、お望みとあらば老後から看取りまで全てのお世話を致しましょう。無論シモの世話もバッチ来いです」
「うんそれは絶対に嫌。虫唾が走るわ」
シェリーにしてみれば、なにが悲しくて変態野郎にそんな世話をされなければならないのかと言いたいのだろうが、このときはリーが実は女で、しかも離婚歴まであるとは知らなかった。
そしてその事実を知ったとき――まぁ驚いたが彼女への関心がそれほどあるわけでもなく、それより変態を自称しているクセにわりと純情で貞淑であるのが発覚して、そっちの方で驚愕していたが。
それはともかく、変態を差し引いた(?)としてもリーの情報収集能力の高さと見聞と見識の広さには定評があり、情報を集めるにはこれ以上ない人材であるのは確かである。
変態だけど。
「おや? もしかして何か知りたいことでもあるのでしょうか。ちなみに私のスリーサイズは110、110、110です」
思案顔のシェリーを首をコテンと傾げて見詰め、そして最後を口元に笑みを貼り付けたまま一筆書き出来そうな双眸を鋭くし、全く意味不明なことを言う。
「知りたいことがあるのはその通りだけど、少なくともそんなことじゃあないわ。それになんなのその酒樽サイズ。アンタその半分もないでしょう」
「ああ、これはエセル様が商談相手のエロ爺いに訊かれたときに答えていた常套句です。なんでも未来から来た青い猫型タヌキのサイズだそうですが、ちょっと私には意味が判りませんでした」
「……たまーにお母さんって意味不明なことを口走って謎のドヤ顔してたものね……」
「判る者には判るのでしょう。裏を返せば、それ以外には一切判らないのでしょうが。……セシルは何故か判っていて吹き出していましたねぇ……」
珍しく染み染みと独白するリー。きっと今は亡き故人を、エセルを偲んでいるんだろうなぁと察したシェリーは、それ以上なにも言わなかった。
決して必要以上にリーとの会話を続けたくないとか思っているなどということは――六割くらいしかない。
そして残りの四割は、会話を膨らませるのが面倒臭い、である。
「それで、この私めになにを訊きたいのですか? ちなみに私、雑食ですので男女どちらもイケます」
「うん死ぬほどどうでも良い。まぁリーで良いか。ねぇ〝齢の儀〟ってなにか知ってる?」
両刀発言を即却下し、他に誰も居ないため仕方なしに、本当に仕方なしに、そう訊くシェリー。
するとリーは、本気かボケかが微妙な発言を却下されたことなど一切気にせず、だが目元を僅かに引き攣らせてから、
「ああそれなら、魔法が神聖だとこの科学技術が発達した現代においても声高々にほざき腐りやがっている神殿、教会が年に二度開催し腐っていやがる、意味なんて全くない儀式のことです。なんでも魔法適性を調べてその長所を重点的に伸ばすのが目的という、特化型育成推奨で努力全否定な温床を育むクソな行事です」
いつもは飄々としているかハァハァしているかのどちらかなのに、珍しくちょっと怒気を含む口調で一気に言った。
「いや、物凄ーく良い笑顔でそんな悪口雑言みたいな情報を言われてもね……」
「なにを言っているのですかお嬢。私は悪口雑言なんて言っていませんよ。事実を客観的に捉えた上で、主観を交えた罵詈雑言を垂れ流しただけです。情報は正確に捉えないといけないと、まだ小さくて可愛くてペロペロしたくなる頃から言っているじゃないですか。天才的頭脳の持ち主なのに肝心なところが抜けているとか、本当に困ったお方ですねお嬢は――」
「……控え目に悪口雑言って言ったんだけど、罵ってる自覚はあったんだ。あと情報は正確に~とかには全面的に賛成するけど、それを以って抜けているとか言われるのは心外の極みね。それと、まさか本当にペロペロしていないわよね? もししていたらアンタを全力で抹殺しなければならないわ」
「したかったのですが、エセル様に全力で阻まれました。あのときのエセル様が私に向けた汚物を見るような視線……ああ、思い出しただけでもゾクゾクします!」
「理解も共感も出来ないけれど、とりあえずお母さんに良くやったと言いたいわ」
神殿や教会に対してなにかイヤな記憶があるのだろうかとも思ったが、ペロペロ発言でどうでも良くなったシェリーである。
「アンタの変態発言を聞いてると、なんだか他のことがどうでも良くなるという不思議現象が起きるわ。ホント、幸せそうね」
精一杯の嫌味のつもりで言ってみるが、言われた方は表情を一切変えずに茶を啜り、
「『変態は百難隠す』と古来から言いますし」
そしてキメ顔でそう言った。
過去類を見ないほど「苛ぁ!」とするシェリー。だが此処で反撃すると、きっと更に喜ぶに違いないと先回りして考え、気持ちを鎮めるために深呼吸する。
「おや、呼吸法の練習ですか? 以前は『ひ、ひ、ふー』が効果的だと言われていましたが、あれは全く意味がないそうですので、今では陣痛に合わせていきんで良いんですよ?」
だがそう畳み掛けるリーに、やっぱりイライラが止まらない。それでも此処で激昂したり反撃したりすれば、きっとそれは御褒美になると学習しているシェリーは、感情を抑え込んで穏やかな水面のように平静になる。
ちなみに「ひ、ひ、ふー」が意味も効果もないのは本当で、そもそもそのときにそんな呼吸法をする暇も余裕もない。
「そんな呼吸法なんて使ってないわよ。それに今後ともそんな予定なんて無いんだから、私には必要ないわよ放っといて」
我ながら悲しいことを言っているなぁという自覚はあるが、本当にそんなものに興味はないし、それに母親のような男運の無さが遺伝していたらイヤだ。
「お嬢。もしかしてエセル様のように男運が悪かったらイヤだ、とか思っていません?」
父親(仮)を思い返し、ウンザリして深い溜息を吐くシェリーの思考を看破し、天変地異が起きるのではないかと思われるほど真面目に、糸のような目を僅かに見開いてそう言うリー。
その意外な言葉に驚いているシェリーに、リーは続けた。
「大丈夫です。エセル様は男運が悪いわけではありません。ただ順番を間違えただけです。エイリーンには申し訳ありませんが、イヴォンより先にザックと出会っていたのなら、きっとこんな柵などなく他所が羨む鴛鴦夫婦となっていたでしょう」
「リー……」
その言葉に、僅かだが胸が熱くなり、そして――
「もしかして、お父さんのこと知ってるの?」
誰とは言わず、ちょっとカマを掛けてみる。
「知っているもなにも、私はエセル様の護衛だったのですよ。なので抵抗もせずにおっ始まったときはどうしてくれようと思いました。もしエセル様が一方的にされていたなら、ザックを殺す覚悟で突入しようと考えていましたが、嫌がるでもなくノリノリでしたし、良いかなーと判断しました」
「……え……もしかして、ソレの一部始終を見ていたの?」
「はい、この目でしかと。あのお美しいエセル様が乱れる姿は、この上なく極上でしたね。おかげでこの私めも濡れ捲って、暫く一人で捗りました。もっともその後に裏工作をして、計算がズレないようにイヴォンと性交渉をしたように偽装しましたよちゃんと。あの屑はそういう面だけは注意深いからな。大海原に縫針のくせに」
そんなリーの覗き魔発言にドン引きし、だが、気に入らないヤツは子々孫々諸共全て憎いと公言しているリーが、何故戸籍上はイヴォンの娘である自分をこの上なく気にしてくれていたのかが理解出来た。
初めから、判っていたのだ。
自分の実の父親がイヴォンではなく、冒険者集団〝無銘〟のリーダー、アイザック・セデラーであることを。
知っていながらそれを黙していたのは、きっとエセルに頼まれたばかりではなく、リーなりの気遣いであったのだろう。
「そう、リーは知っていたのね。でも黙っていてくれた。それには礼を言うわ、ありがとう」
微笑みを浮かべて、シェリーは素直に礼を言う。そしてリーは、そんなことを言われて再び首を傾げたが、素の笑みを浮かべて「どういたしまして」とでも言わんばかりに頷いた。
――だが。
「それはそれとして――」
笑顔のままゆっくりとスカートをたくし上げ、そしてすらりと無駄のない、だがバランス良く筋肉が付いている足を振り上げる。
「おっ始まったら覗いてないで席を外しなさいよ! この変態がー!」
「いえでもそんな好機は二度とないと思ったの! だってエセル様の『うっふんあっはんいやいやー』が見られるなんてレアな現場、見逃せる筈がないじゃない! むしろ身銭を切ってでも覗くべきよ!」
「ええいカマ語になるな! 成敗!!」
「ああ……やっぱりお嬢には純潔の白がよく似合うべら!」
振り上げられた足から繰り出される踵落としが綺麗に見事に頭頂を捉え、そのままリーは謎の言葉を残して床に転がった。
もっとも、冒険者として荒事で鍛え上げられているリーにとって、瓦三〇枚を一撃で粉砕する程度のシェリーのそれなど、痛痒にも感じない。
むしろ御褒美である。
人外の領域に踏み入れている実力は伊達ではないのだ。
草原妖精だけど。
残心後に構を解くシェリーの足元で、これ以上なく幸せそうでだらしない表情のリーが、妙に艶っぽい声を上げながら転がっていた。
ベン・ネヴィス教会は、商業都市グレンカダムの四方を囲んでいる山脈の内、西のベンロマック山脈の麓に建立された聖教会である。
そしてそのベン・ネヴィス教会の更に奥、険しい岩壁から成るベンリアック聖山の壁面に沿うように建立されているのが、魔法神を崇敬する人々が住まう神殿――ベン・リアック神殿と修道院。
数十年前まではその教会と神殿への行き来は、岩壁の峡谷に架けられた長さ100メートル超の不安定な吊り橋しか無かったのだが、あるとき勢いとノリに任せてベンロマック山脈をぶち抜いて鉄道を作り始めた頭がおかしい仕事中毒な岩妖精達が、ついでとばかりに本能と職人魂と趣味の赴くままに、当時としては貴重で希少な魔鋼鉄製アーチ状の橋梁を片手間に作っちゃったのである。
当時、というか現在もなのだが、枢機卿である森妖精のアーリン・ティム・ジンデルは、岩妖精のその行いに最上級の感謝と祈りを捧げたのだが、彼、彼女らはそれらを一切受け取らずに去って行ったという。
その慈悲深く無欲な姿に更に感動した彼は、その岩妖精を率いていた女性を〝橋梁の聖女〟と勝手に認定し、橋が開通した日をやっぱり勝手に記念日にした。
ちなみに聖女認定も記念日も、当り前に彼の独断であるため非公式である。
枢機卿猊下は、聖女萌えだった。
一応だが教会本部には、枢機卿から「そうしたい。そうするべきだ。そうじゃなきゃヤだ」とかに限りなく近い、年齢数百歳のくせに駄々っ子のような内容の書状が届いたらしいが、また始まったと呆れ果てた教皇様が念のためその勝手に聖女認定されちゃった女性―― ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドへ、本当にして良いのかを確認したところ、
――絶対ぇヤだ!
と、マジギレ返答があっために却下されたそうな。
彼女ら岩妖精からの反論は、
「ノリと勢いと趣味と本能と煩悩と自己満足の赴くままにやった。反省はしているが後悔はしていない」
――だ、そうである。
そして感謝と祈りを受け取らずに去った理由は、「それだと腹が膨れないから」という実にシンプルでごもっともなものだった。
それはさておき。
ベン・ネヴィス教会がベンロマック山脈の麓に在るのは前述の通りであり、そして当り前だが連なる山々の総称である「山脈」自体の麓にあるわけではない。
厳密に言えば、古くより「聖山」と呼ばれ崇められている、低木帯の岩山であるベンリアック山の真正面に位置するように、深さ150メートルの圏谷壁である峡谷の底から垂直に建材や石材を積み上げて建立されている教会で、建立開始から完成まで、実に五十余年の歳月が費やされた。
ちなみに、立地が何故にベンリアック聖山の真正面に位置しているかというと、神々の通り道という意味があるらしい。
そのわりには架かっているのが吊り橋と、あまりにお粗末であったとツッコミが入りそうなのだが、幅100メートル超、深さ150メートルの圏谷壁が立ち塞がる峡谷にそれを架けるのは、あの岩妖精でも難しい技術であるため勘弁して欲しいと、関係者なら誰しも口を揃えて言うであろう。
それほどの歳月を賭して建立されたその教会は、峡谷の底から突出しており、山稜に達して初めてらしい教会となる。
その外観は、中央に尖塔が聳り立つ白を基調とした外壁で構成され、採光窓は全て美しく、だが華美にならない彩色硝子の嵌め殺し窓で統一されていた。
そしてそのベン・ネヴィス教会の背後、ベンリアック聖山の壁面に、教会と同じく建材と石材を積み重ねて建立されたのが、聖女萌えな枢機卿猊下や司教などの聖職者が住まう神殿――ベン・リアック神殿なのである。
その立地は、麓とはいえ険しい野山や峡谷を切り開いて建立された建造物なだけはあり、その場所へ行くだけでも相当な労力が必要であった。
それに以前は先に述べた通りに其処への往来が、直下150メートルを超えるという険しさとは別種の試練である吊り橋であったため、それはもう一部の高所が嫌いな人々じゃなくても色々と命懸けな行程であったのである。
皮肉というかなんというか、岩妖精達のノリと勢いと気紛れと、好きなことの前に立ち塞がる障害が高いほどに燃えて萌える変態的趣味人としての矜持によって、偶然か必然かそれらがうっかり重なってしまって出来上がったその橋梁が、結果的に教会と神殿を更に発展させる要因となったのであった。
――いや、要因というより原因と言った方が、もしかして適当かも知れない。
そんな岩妖精達の案外軽いノリで作られちゃったその橋梁は、ベン・ネヴィス教会の正門へと滑らかに繋がれ、一部の違いも狂いすらない配色で作られており、継ぎ目も一切見えないという徹底ぶりであった。
そしてその橋梁は「聖ヴィレーム橋」と枢機卿猊下がやっぱり勝手に名付けてしまい、挙句橋梁の入口にそのように碑文として刻まれた石碑をデカデカと置いちゃったそうな。
本当は高欄の親柱に刻みたかったのだが、何をどうやっても傷一つ付けられなく、更に無理にそうしようとすれば、付与されている強化魔法が消滅して橋自体が崩壊すると予測されたため、それは断念したそうである。
枢機卿猊下はどうあっても刻みたかったらしいのだが、最終的に誰も引き受けなかったために泣く泣く諦めて、代わりにその石碑を置いたらしい。
明らかに景観として合っていないが。
そうしてベン・ネヴィス教会への出入りは容易になったのだが、そもそもな立地が西の涯であるベンロマック山脈であるため、グレンカダムからの交通手段が徒歩か馬車であった時分では辿り着くだけでも数日を要し、よって教会で〝齢の儀〟を受けようとする者など限りなく少なかった。
だがそれも、幸か不幸か鉄道が開通したことで利便性が増し、別に教会を訪れる人々のために作られたわけではないのにその門前町のような役割になっちゃっている、過去の迫害と侵攻により落ち延びた落人がひっそりと生活していた集落と、今度確実に訪れるであろう観光客の助けに僅かにでもなるようにと作られた駅により、誰でも容易に訪れるのを可能としたのである。
その集落はリトルミルと呼ばれ、身長僅か1メートル強の小妖精族が、前述の通り落ち延びた場所であった。
あと誤解している者どもが多数いるのだが、小妖精族が住まうから「小さい粉」ではない。
彼、彼女らが某帝国の侵攻から逃れて辛うじて落ち延び、だが過酷な逃避行に年老いた者達は次々と倒れてしまい、最後は年若い者しか残らなかった。
そのようにしてこの地に辿り着き、そして住まうと決めたとき、喩え小さき者であっても千の想いを以って誇り高く生きるべしという誓いと願いを込めて名付けたのである。
「若き千」――と。
岩妖精達が何故そのリトルミルに駅を作ったのか。それは決して同情や憐憫ではなく、絶対に教会や神殿のためでも、二度目になるが決してない。
リトルミルに駅をつくった理由、それは――鉄道工事のためにたまたま立ち寄った其処に、見付けてしまったのだ。
源泉掛け流し、ちょっと熱めの炭酸水素塩泉を!
そう、美肌とリラックス効果で有名な、ちょっとしょっぱめヌルヌルなあの温泉である。
発見した当時、それぞれ鉄道工事と開墾に従事していた岩妖精と土妖精は、それらを率いていた者達の鶴の声で、仕事そっちのけで湯治施設を瞬く間に造り上げてしまった。
そして温泉を心行くまで楽しみ、その後その管理を小妖精たちへと委託した――というか押し付けたのである。
落ち延びる原因となった某帝国の侵攻とは別の意味で、小妖精達はメッチャ戸惑ったらしいが。
そんな無茶振りをされたのだが、元来小妖精は朴訥で真面目な種族であり、それに岩妖精や土妖精、そして草原妖精と親和的であったため、それを快く引き受けた。
だがそんな性格な種族である小妖精は、簡単に悪い奴らや狡い奴らに騙されてしまうと予想されるため、岩妖精と土妖精の女王と王、そして草原妖精の首領、更に、実は湯治大好き鬼人族の総意により鬼王が、それぞれ連名で管理協力者として名乗りを上げ、挙句の果てにグレンカダムに遣わしている巡検使館《かん》の役職員へ、定期的に巡検するように命じたのである。
その巡検の役割は競争率が非常に高く、毎回熾烈な争いが繰り広げられているそうなのだが、それはどうでも良いだろう。
あ、あと嘘か本当か不明だが、子宝安産の温泉でもあるそうで、発見当時に岩妖精と土妖精の代表が一週間くらい其処に滞在しちゃって工期が押したそうだが、それもどうでも良いだろう。
その遅れは張り切りまくった両名のおかげで、僅か二日であっさりと取り戻したそうだし。
それから小妖精なのだが、争いを忌避してはいるが実は決して戦闘能力が低いわけではない。むしろ高い。
彼、彼女らは確かにその身は小さな体躯ではあるのだが、土、岩、草、木、風の属性魔法に精通しており、そしてなにより魔法の波長を他者に重ねる術に長けていた。
よって複数人が同時に同じ魔法を行使することにより、儀式を行うことなく強力な魔法を行使可能なのである。
その効果は、高位の儀式魔法である〝共時共鳴魔法〟と同等かそれ以上。
更に、実は狩猟民族でもあるため探知能力と気配を断つ技術が凄まじく、野生動物ですらそれらを察知出来ないほどであった。
帝国のぉ! 科学力はぁ! 世界一ィィィィ!! と宣言していて、ついでに魔法大嫌いと公言している、最強でいなければ気が済まないという痛い思想な某帝国が危険視するには、それで充分である。
「戦わなければ生き残れない!」と合言葉のように言い合っているらしい殺伐とした某帝国が小妖精族に強襲を仕掛けたのは、実はそういう理由であった。
――で。
そんな歴史をつらつらと能書きのように並べて現在に至る小妖精族の町リトルミルに、特に深い考えもなくシェリーは一人で訪れていた。
深い考えがないとはいっても、目的は興味本位で〝齢の儀〟を受けるためであるのだが。
数十年前は、最速でも一週間程度の旅になる往来であったのだが、現在はグレンカダムから鉄道に乗って数時間でリトルミル駅に着き、其処から乗り合い馬車に揺られて数十分でベン・ネヴィス教会に到着するという、案外お手軽なお出かけ感覚で行けてしまうようになっていた。
げに、鉄道技術は偉大である。
もっともリトルミルは温泉地として名を馳せているため、巡礼目的ばかりではなく、湯治や保養、そして教会への観光目的な旅行者も少なくない。というかどちらかというと其方の方が多かった。
全く以て、鉄道技術は偉大である。
シェリーがこの町を訪れた目的は、先に述べた通り〝齢の儀〟を受けるためなのであるが、本音を言えば退屈凌ぎに旅行に来ただけで、商業都市として発展しているグレンカダムから離れてノンビリしたいと衝動的に考えただけだった。
やっぱり、深い考えなどない。
もちろんシェリーが一人で出掛けるのを猛烈に反対した過保護な父親もいたのだが、既に成人しているし、そもそも九歳から魑魅魍魎が跋扈しているような取引商会の相手をして来た彼女が、母親譲りの魔法の才に加えて最近では〝六重詠唱〟を修めて〝七重詠唱〟の修練を始めている上に、義理の母親から徒手空拳の格闘術――龍纏武術というらしい――も伝授されている彼女が、その辺にいる中途半端に腕が立つと自称している奴らに後れを取る筈がない。逆に、狙った方が哀れである。
そんなある意味で、実力的に歩く凶器とか一人戦略級魔法使い扱いされそうなシェリーなのだが、現在の格好は年齢通りの女の子をしているわけで、具体的に言えば、初夏らしい白のワンピースに黄白色のサマーカーディガンを合わせ、同じく白の鍔広帽子を被り、小さめのキャリーバッグを引いて足取りも軽くリトルミル駅の構内を歩いていた。
因みに宿は既に取っていた。多少値は張るが、商業ギルド管轄の温泉宿を紹介して貰い、電信で予約したのである。
お支払いは、商業ギルドにあるシェリー名義の貯蓄から自動で引き落とししてくれる、ポイントも付く便利なギルドカードで。
シェリー名義のそれは、どういうわけか光沢のある黒色重金属製で、それの意味など全然知らないが、綺麗だからお気に入りであった。
ちなみに其処に幾ら入金されているのかというと、実はシェリーは把握していない。
無くなりそうになったら連絡が来るだろうと、深く考えずにのほほ~んとしているから。
だが実は、母親から相続した特許の期間が結構残っており、バカみたいに使わないと全然減らないくらいな金額が、雪ダルマなネズミ算方式で増えまくっている事実を、シェリーはまだ知らない。というか意図的に目を逸らしているだけかも知れないが。
まぁそれはともかく、殆どの客層が家族連れとかイチャコラ男女やワケありカップルだったり同性カップルであったりするために、一人の旅行者は案外珍しく、個室の予約は簡単であった。
宿や部屋の質に関しては、ギルドのサブマスターに一任しちゃったけど。
本当は、同じく〝齢の儀〟を受けていないリオノーラと来たかったのであるが、現在彼女はレストランの経営が芳しくなく、そんな余裕はないらしい。
その原因の殆どが、アップルジャック商会が倒産して食材確保が難しくなったからなのだが。
まぁそれでも、伝手を辿ってダルモア王国のとある農場から良質の食材を取り寄せているらしく、それでなんとか回っているらしい。
肉とか鮮魚に関しては、レスリーがやたらと忙しなく港町や海や河川や野山を駆け回ってなんとかしているらしいし。
――いや物理的に狩猟してんのかーい!
と、それを見ていたシェリーが全霊のツッコミを入れ、言われたレスリーは、とーっても妖艶で満ち足りた良い笑顔を浮かべたそうな。
鬼人族である彼女が返り血を浴びた姿でそんな笑顔を浮かべても、それは恐怖体験でしかない。しかもレスリー自身が美女であるため、より恐怖度が増すばかりである。
関係ないが、鬼人族の女は陽に当たっても日焼けしないし火膨れにもならないそうだ。熱や火に対して絶対的な耐性があるらしい。実に羨ましい限りである。
それはともかく。
取り敢えずリトルミル駅を後にし、駅前にある案内板の前に立ち、目的の宿が何処にあるのか探していると――
「お嬢ちゃん、一人かい? オレたちもこの汽車で来たんだが、困ってるなら一緒に観光しないか?」
――チャラい男達にナンパされた。
おお、人生初ナンパ。などとどーでも良いことを考えながら、だが残念ながらそんなものには一切興味もなく、更に言うなら周りに最高な異性しか居なくそれを見慣れているシェリーは、言ってしまえばそんな程度の低い奴らなど塵芥程度にしか感じられない。
まぁ最高の異性とはいっても、色々問題があるのばっかりだけど。最高に変態的だという意味で。
心中でそんな独白をし、だが言い寄る男達を一瞥しただけで華麗に無視する。そしてそのような態度をとると、そういう男達はまぁテンプレ的に一つの行動をとるわけで、案の定というべきかお約束というべきか、しつこく声を掛けるだけではなく取り囲むようにして行く手を遮り始めた。
因みにどのように声を掛けられ続けていたのか、シェリーは一切覚えていないし聞いてすらいない。人は路傍の石が転がる音に、興味など持てる筈などないのだから。
取り囲んで周囲から見えないように肉壁を作ろうとする男たちの行動を待つわけがないシェリーは、その囲いが完成するより早く、僅か一歩だけ踏み出してその囲いの完成を妨げる。所詮素人の動きなど、目の粗い笊のようなものだ。
そしてその動きを捉えられなかった男達は、案の定何が起きたのかが理解出来ず、だがすぐに何かを大声でがなり立ててシェリーに掴み掛かる。
そんな大声を上げれば誰でもその異常に気付くのは当然なわけで、シェリーに掴み掛らんと伸ばされたその手が、真下から突然現れた小さな手に捕まれ阻まれた。
それはシリキ紋様が刺繍されている駅員装を纏った、小妖精の駅員であり――
「おぎゃぐさん、こったらどごでさわがねんでけねすか。ほがのふとさわりすべ」
――そして男達を見回して、鋭くもつぶらな黒い瞳のキメ顔でそう言った。ただし、訛りが酷くてなにを言っているのかが全く伝わらなかったが。
その所為もあり――いや、その所為でしかないのだが、男達は逆上して更に喚き立てる。
「駅員が俺たちの出会いを邪魔してんじゃね――」
だがそんな脅しに屈する小妖精ではない。なにしろ彼は今、仕事中なのだから!
「さわがねんでけれってへったすべ。なしにわがねだべこのびっきわらしっこ」
そして小妖精の言葉も、やっぱりなにを言っているのか判らない。
ちなみに翻訳すると最初のは、
「お客さん、こんなところで騒がないでくれませんか。他の方に迷惑です」
という意味で、次のは、
「騒がないで下さいと言いましたよね。どうして判らないのでしょうかこのクソガキ」
で、ある。字幕スーパーがないと、きっと一部の人しか解さない言語であろう。
もちろんシェリーにも、彼がなにを言っているのかは全然判らない。だが判っているのは、この駅員は並々ならぬ実力の持ち主で、そして仕事中であるということだ。
なにしろ小妖精は性根が何処までも真っ直ぐで、更に「バカ」が付くほど生真面目であるため業務は確実に熟す優秀な人材揃いなのである。
よって業務遂行に支障を来す要素の排除には、一切の容赦をしない。
そして数秒後――
男達はたった一人の、身長1メートルに満たない小妖精により制圧されていた。
「助けて頂き、ありがとうございます」
意識を刈り取られた男達を、集まって来た小妖精の駅員達数名が「おいさ、おいさ」と山車のように担ぎ上げて何処かへ運んで行くのを首を傾げて見送り、シェリーはその小妖精に頭を下げる。
「さもねった」
その駅員はシキリ紋様の鉢巻きをクイっと直し、口角をニヒルに上げてニヤリと笑った――つもりなのだろうが、身長と見た目が愛らしい小妖精の容姿補正によって、格好良いじゃなくほんわか和んでしまう。
「わやらねったっておめぼでぐりまわしたべ。 こったらどごで魔法やられてぐねったいに」
そしてそうキメ顔で言った――らしいのだが、やっぱり訛りが酷くてシェリーは一切理解出来なかった。
キメ顔で難解な言語をかたる小妖精の駅員にとりあえずもう一度礼を言い、案内板の閲覧を諦めて駅を後にする。
そしてそのシェリーの目に飛び込んできた光景は、湯気が立ち込め白い花が咲き誇っているかのように平瀬を湯華が彩る川が町を二分するように流れ、そしてそれに沿うように木造建築物が整然と立ち並ぶ町であった。
それが、岩妖精達が発見し、そして本能と煩悩と趣味と好奇心の赴くまま全力全開で創り上げてしまい、そして小妖精に管理を委託した、今となってはストラスアイラ王国内で有数の湯治場へと発展した町――リトルミルである。
それは、実はグレンカダムから出たことのないシェリーにとってとても新鮮であり、心洗われる光景でもあった。
そんな感じで年相応に目をキラキラさせて感嘆の吐息と共に街並みを見回し、それを目にした現地の小妖精や観光客をホッコリさせ、だがすぐに宿の場所確認と町の構造、道の把握のために商業ギルドから貰った地図を真顔で広げるシェリー。
その年相応らしからぬ変貌ぶりに、ホッコリしていた皆が今度はギョッとし二度見する。
そんな周囲の目を気にする筈のないシェリーは、キャリーバッグから徐に肩掛け鞄を取り出して襷掛けにすると、更に二つ折りになっている用箋挟を取り出して開き、流れるようにキャリーバッグを閉めつつ地図を適当な大きさに畳んでからそれに挟むと、同じくそれに挿してある鉛筆を抜き取って地図にメモし始めた。
肩掛け鞄を襷掛けにするとショルダーストラップで胸部装甲が強調される描写があるのだが、シェリーはバッグを正面に下げているためそうはならない。掏摸予防にもその方が安全と理解しているから。
貴重品を無防備に後ろへぶら下げて歩くなど言語道断。何処へ行こうとはしゃいでいようと、警戒心は常に持っておくべきだと常々シェリーは思っている。
町の状況やら宿までの道程にどんな店があるのかを地図へと色々書き込むその様は、まるで取材に来た雑誌記者のようであり、
「え? なにこの丸いの。温泉饅頭? うわ甘! うんま! え? 温泉の蒸気を利用して蒸してるんだ。燃料要らないなんて、なんて環境に優しいの」
だがその先々の店舗で取り扱っている飲食物を口にして、その都度感激し、
「この薄い丸いのなに? 煎餅? 粳米? を蒸して潰して作るの? 出来立て? うわ、熱いけどパリパリで美味しい! なにこれなにこの味付け? ちょっとしょっぱいけど塩だけじゃないわよね。醤油? へー、おもしろーい。色々応用が効きそうな調味料ね」
そしてそれに使われている調味料や材料、製法をざっと訊いて感嘆し、
「え? この玉子ってほぼ生なんだけど。食べてお腹壊さない? 採れたて新鮮だから平気? ホントに? ……ちょっと、おいひいんだけどなにこれなにこれ!? 玉子ってこんなに濃厚で美味しかったの知らなかったよ。いつも加熱調理してカチカチでしか食べてなかったから。あれ、この汁なに? これ垂らしてから食べるの? 早く言ってよぉー、もう食べちゃったじゃない……え? オマケでくれるの? ありがと〜。ふわああああああああ! おいひすぎるぅ〜〜〜〜」
更に見聞きしたこともないものを口にして感動していた。
そんな服が弾けるんじゃないかとばかりな過剰とも言えるリアクションの所為なのか、それとも容姿補正のおかげなのか、はたまた食レポが異常に上手だからなのか、あるいは記者のようにメモしつつそんなコトをしている効果なのか、シェリーが立ち寄って去った後で遠巻きに寄ろうか迷っていたらしき観光客が大挙して詰め掛けるという珍事が起き、そして売上が相当伸びたらしいが、それはどうでも良いだろう。
必要なのは、今現在シェリーがリトルミルにしかないであろうグルメを堪能し、そして地図にそのご当地グルメの詳細をびっしり書き込んで、非常に満足しているということだ。
だがそんなことばかりをしていられないのも事実であり、実は宿に荷物を置いたらその足でベン・ネヴィス教会へ行って、夕方まで行われているという〝齢の儀〟の最後の方に滑り込めれば良いかな〜とかのーんびり考えていたりする。
そんな風にのんびりと食べ歩きしつつ、先々でお勧め品を訊いて誘蛾灯に誘われるなにかのようにフラフラと其処彼処に立ち寄るシェリー。その食欲は全開だ。
それもその筈。着いて行こうとする皆を振り切るように始発で来ちゃったため、まだ昼前だというのに滅茶苦茶空腹なのである。
更にいうなら、実はシェリーは何故か若干成長が遅く、そして未だ成長期であるため、結構な量を食べるのだ。
ちなみに今までダイエットなるものをしたことなど、一度たりとも無い。どうやら太り難い体質であるようだ。太り易い体質の怨嗟の声が聞こえてきそうである。
そしていつまでもそんなことをしていられないのもやっぱり事実であり、その考えにやっと至ったシェリーは、今更ながら予約した宿「カネキラウコロ」を探そうと行動に移す。
手始めに、現在シェリーがもりもり食べているゴマ串団子を販売しているお店の、多分おばちゃんに訊いてみた。
何故に多分かというと、相手が小妖精だから。小妖精は、草原妖精以上に年齢不詳なのである。
「あー、カネキラウコロだばあっこのでっけぇどごだぁ。いぐんだばなんぼが歩がねばねったいにこえぐなるばって。車っこさ乗ればこえぐねぐ行げら」
……はい、なにを言っているのか判りません。
笑顔のまま動きを止め、どうしてくれようかと思案するシェリー。ぶっちゃけ理解出来るまで訊き続けるか、取り敢えず指を差している方向へ行ってみるかの二択であるが。
そんなことを考えていると、
「かっちゃ。ダメだべ観光客さ訛ってへったってなもわがねべしゃ。見れほらなんとへばいんだがわがねぐなってら」
後ろからそんな声がする。
振り向くと、其処には紺色のスーツを着た、若干粗野な雰囲気の男が溜息混じりに頭を掻きながら其処にいた。
彼が着ているスーツの襟元には、商業の象徴ともいうべき二匹の蛇が巻きつく杖の紋章が刺繍されているため、彼は商業ギルドの職員であり、そして結構な要職に就いているか特務隊員であるのだろうとシェリーは考える。
あるいは巡検使としてギルドからこの地の治安維持のために遣わされたか。
何にせよその紋章は信頼出来る人物の証でもある。
彼はシェリーを気遣うような視線を送り、だが抱えている紙袋からなにやら中に葉物野菜らしきものが入っている饅頭のようなものを取り出し頬張りながら、おばちゃんにやっぱり理解不明な言葉で話し掛けた。
「すったらごどへらいだって、わこれしかへらいね。んがわがるんだばへってけれ」
そしてまたしても理解不能な言葉を高速で捲し立てる。笑顔のまま固まるシェリーは、本気でどうして良いのか判らない。
それを尻目に、その饅頭のようなものをモゴモゴしている男はシェリーを一瞥して小首を傾げ、懐から写真を取り出して一人で納得したように頷いた。
「えーと、間違っていたら申し訳ないが、キミはシェリー・アップルジャックかい?」
串団子屋のおばちゃんに「ほれこれやっからへでってやれ」と言われてゴマ串団子五本入りを渡されている男が、正面からシェリーを見詰めて何故か納得げに頷き、だが「いや要らねでば。わ甘もんかねがら」と言いながらそれをおばちゃんに返そうと無駄な努力をする。
そんな漫才のようなやりとりを、どんな表情をして良いのか判らず、取り敢えず凍りついた笑顔のまま見守るシェリーであった。
「いきなり名前を訊いて済まなかったな。実はリトルミルの年寄りは訛りが酷いから助けてやれって、サブマスターから頼まれてな。写真を頼りに捜してたんだ。会えて良かったよ」
そう言い、男はニカっと笑う。その口には鋭い歯が並び、そして表皮は若干しっとりしている。そして所々薄く鱗が浮いていることから、彼は魚人族で、鱗がはっきりしているところを見ると、きっと鹹水の、であろう。
「デリックさんが? なんか其処までして貰うと悪いなー。恩がどんどん積み重なっていっちゃう。というかね、なんでデリックさんが私の写真持ってるの? そっちが方が不思議でびっくりよ」
「いやそんなこと俺に言われてもな。渡されたのがこの写真なんだが、髪の長さがちょい違うがお前さんだろ?」
そう言い、差し出された写真には、風に靡く美しい白金色の髪と、光の加減で色が変わる翠瞳の女性が、微笑みを浮かべている姿が写っていた。
それに、その写真に、シェリーは見覚えがあった。なにしろ、幼少期に自分が撮ったものであったから。
「て、お母さんの写真じゃない! 確かに瓜二つって自覚はあるけど! というかなんでデリックさんがお母さんの写真持ってるのよ!? そっちの方で驚くわよ!」
「そんなの俺に訊かれてもな。でもサブマスターが言うには、これは商業のお守りみたいなもんで、役員の連中は全員持っているらしいぞ。会計課のエヴラール課長は執務室に拡大印刷したこの写真を神棚に祀っているらしいし。あと汚したら懲戒処分で失くしたら殺すって笑顔で脅された」
「お母さん……勝手に神格化されてるよ……。それと失くしても、私ネガ持ってるから幾らでも現像出来るわよ。それにしても、一体何処から手に入れたのよその写真」
生前から嘘か本当かとんでも逸話が多い母親であったが、逝去してなおそれを増やすとは。そんなことを考え、なんとなーく、頭の頭痛が痛くなるシェリーであった。
ちなみにどんな逸話があるのかというと、トミントール公国のノッカンドオ高地に作られた高山鉄道設計に深く関わっているとか、岩妖精の前王に求婚されて断り失脚させたとか、帝国がリンクウッドの森のとある村を焼き討ちして延焼した森林火災を瞬く間に鎮火させたとか、列車事故に遭い瀕死になりながらも乗客全てを救った――などなど。
一人の人物が抱えられる逸話の量を遥かに超えているし、そもそもそれらが事実だったとしても、それを可能にするとかどんな万能超人なんだろうか。
いくら色々非常識な母親であったとしても、尾鰭が付くにも限度というものがあるだろう。
よって、そんな逸話など、シェリーは一切信じていない。例え共に帰って来た変態から土産話で色々聞かされていたとしても、自分の母親がそんな非常識を仕出かすなどという事実は、あってはならないのだ。
だからその逸話は、色々なことに尾鰭がついているのだろう。
そうに違いない。
……多分、きっと、なんとなく……。
「それで? 初対面の女子に声を掛けてナンパして来いってデリックさんに言われたんだ。へー、ふーん」
うん、そういう反応になるだろうなぁ。彼はそう考えて溜息を吐き、だがそれはきっと正しいんだろうとも考え、無駄に愛想を振り撒くよりはずっとマシだとシェリーの評価を引き上げ――
「ナンパなんて生まれてこの方一度たりともしたことなんてねーよ。ユーインの旦那じゃあるまいし。あとナンパなんかじゃなくて案内な。さっきも言ったが、此処の連中は標準語なんて覚える気が全然ないから訛りが酷ぇんだよ。それと、警戒しなくてもなんもしねぇよ。それこそユーインの旦那じゃあるまいし」
「……ユーインさんって、そういうキャラだったんだ……。ふーん」
そして自分の上司の為人をさり気なく暴露して評価を駄々下がりさせる。
「そういうキャラというか、なんというか軽いんだよあの人。〝自称〟妹と暮らしているクセにその辺のねーちゃんにすーぐ声掛けるし」
「ふーん。で、そのお零れに貴方も?」
「……生まれてこの方そんなの考えたことすらねーよ。悪かったな恋人いない歴が年齢で」
「悪いことじゃないわよ。そんなの気にするのは男だけだし、女はそういうのなんて気にしないわ。もし気にするのがいたとしても、それは大したことのないヤツよ」
「へぇ、そういうもんかい」
「そういうものよ。私だってそんなの居たことなんてないわ」
そりゃそうだろう。シェリーのそんな発言に、当り前のようにそう考える。なにしろ母親が急逝した九歳の頃から家業の切り盛り一辺倒で、年相応の生活の一切を送れていないのだ。そうならない方がおかしい。
そしてそれは、商業ギルド内では周知の事実で、更にその父親がロクデナシというのも、同じく周知の事実であったりする。
などと、さも当然のように個人情報を把握しているのだが、シェリー自身もそれを隠しているわけでもなく、むしろ大真っ平に言ってくれた方が色々便利だとすら思っていた。同情してくれて商取引が有利に進むから。
「ところで、貴方の所属は判ったけれど、まだ名前を聞いていないわ。初対面ならちゃんと名乗りなさいよ。そんなことをしていると女子にモテないわよ」
「おお、そうだったな済まん。俺はデメトリオだ。見ての通りの魚人族で、きっと気になるだろうから先に言っておくが赤鯛の魚人だ。あと、女子にモテたいと思ったことなんざ一度たりともないが面と向かって言われると地味に傷付くからやめてくれ」
「あら、そうなの。口ぶりからチャラそうなユーインさんの部下っぽかったから、モテるモテないとかクッソ下らないことが気になると勝手に思っていたわ。偏見だったわねごめんなさい」
「容赦ねぇな嬢ちゃん。なんか嫌な想い出でもあるのかい?」
「……貴方も商業ギルド員なら判るでしょう。ウチのロクデナシ親父の素行とか」
「あー……」
商業ギルドに所属しているデメトリオには、心当たりがありまくる情報であった。
「そんなことより、デメトリオさんて赤鯛の魚人なの? 珍しいわね。確か赤鯛の魚人って過去に乱獲されて……」
「『さん』はいらねぇ。デメトリオで良い。あとそれはただの噂だからな。魚と魚人は種として全然違うから、俺等は食用には適さねぇよ。そのネタは少数な俺ら赤鯛の魚人の一部が広く認知させるために、やめときゃ良いのにそう言って盛大に滑った黒歴史なんだよ。おかげでこちとら良い迷惑だ」
「魚人族にもそんな莫迦がいるんだね……」
「莫迦は種族を超えるんだよ」
「うわ~、名言」
「『迷う』方のだけどな」
苦笑してそう答え、デメトリオは紙袋から先程も食べていた饅頭のようなものを取り出して頬張る。それはちょっと――いや、相当美味しそうだ。
「私のことは『嬢ちゃん』じゃなくてシェリーって呼んでね。呼び捨てで良いわよ。そもそも貴方の方が年上だろうし。それと、それってなに? ちょっと美味しそうなんだけど」
「ん~……嬢ちゃんを『シェリー』て呼び捨てにすると上司に殺されそうだから勘弁して欲しいんだが。とりあえず『シェリーの嬢ちゃん』で勘弁してくれ」
「……なんなの貴方の上司達って。私をなんだと思っているのかしら」
「いや知らんよ。俺が聞きたいくらいだし。それとこれは高菜饅頭っていってな、饅頭の中に葉物野菜を調味料で漬け込んで熟成させたものが入っているんだよ。俺は甘いものが苦手だからな。食べてみるかい?」
そう言いながら、齧った饅頭の断面をシェリーに見せるデメトリオ。そしてそれを見たシェリーは、一切の躊躇もなく齧り付いた。
「え? て! おまなにやってんだ! それって間接……」
その想定外の行動に一瞬凍り付き、だがすぐに慌てふためきそんなことを言う。そしてその顔が、見る間に真っ赤になって行く。
「うん、これも美味しいわね。ねぇ何処に売ってた……なんで真っ赤になってるの?」
「………………年頃の娘が男が齧ったものに口を付けちゃいけません」
「なんで説教が始まるのよ。そんなの気にしなくても良いでしょ。実際にチューしたわけでも生殖行動したわけでもないのに」
「ぶっちゃけ過ぎだよ! こちとら女子に免疫ねぇんだから勘弁してくれ!」
「え? あー、ごめんなさい。チャラい上司に風俗店とかいっぱい連れて行かれてるとか思っちゃってた」
「そんなところに行こうと思ったことすらねぇよ! くっそー、全部あの女っ誑しなクソ上司が悪いんだ!」
「なんか本当にごめんなさい。デメトリオも苦労しているのね」
「良いよもう。俺が勘違いするような行動をとってくれなければ問題な――」
「ちゃんと養ってくれるなら、私は誰でも構わないわよ。愛情なんて後から生えてくるだろうし」
「ヤメロ!」
瞬間的にシェリーとのお付き合いとか、結婚とか新婚生活とかを夢想してこの上ない幸福感に浸り、だがそれに伴い付随するであろう最強で最恐で最凶な元冒険者パーティ〝無銘〟の面々に思い至り、命の危険が危ないと判断して滅多なことは出来ないとその思考を消し去るデメトリオ。命懸けの恋愛や結婚生活などご免だ。
そんな実のない会話をしつつ、デメトリオの案内で宿「カネキラウコロ」を目指すシェリー。もちろんその過程でご当地グルメに舌鼓を打つのを忘れない。
もっともデメトリオにしてみれば、さっさと宿まで送ってお役御免になりたいと思っているのだが、そんなことを許すシェリーではなかった。
キャリーバッグをゴロゴロ引きながら年相応にはしゃぎ、そんな重い物を引くのも大変だろうとそれを預かるデメトリオの空いた腕に自分の腕を絡ませてあっちこっち引き回す。
そんなことをしているシェリー自身は無自覚なのだが、やられているデメトリオは堪ったものではない。なにしろ年齢が恋人いない歴なのだ。
ちなみにデメトリオは、見た目の印象に合わず純粋でお堅く面倒見が良く、実は結構評価が高い。デリックがシェリーの案内役に選んだ所以である。
――なのだが、そんなシェリーの無自覚攻撃に純粋さとお堅さでコーティングしてある理性が崩壊の危機に陥り掛け、自分に「これはただの案内」と言い聞かせて堪える始末。
更に無理矢理だが腕を組まれているためか、たまーに柔らかななにかの感触が伝わって来てしまい、崩壊の危機に拍車を掛け、挙句自分を見上げる屈託のない笑顔が素敵過ぎて、何度も「もうどうでも良いかな」とか理性と思考を放棄しそうになる己と格闘する羽目になっていた。
だがそれも、宿に着くまで。
そう考え直して己を奮い立たせて、大袈裟だがデメトリオにとって永遠ともいうべき時間の経過と共にやっと宿「カネキラウコロ」に到着した。
「それじゃあ、俺はこれで――」
そう言い残して立ち去ろうとするデメトリオの耳に、
「あんだシェリー・アップルジャックだが? あんいやまんずいぐ来てけだなぁ。なんぼ待ってらってなも来ねったいになんとしたべがど思ってらったっきゃ。ほらこっちゃけ。荷物っこ持ってぐはんで上がってけれ」
シキリ紋様が刺繍されたアットゥシと呼ばれる民族衣装に身を包んだ宿の女将らしき小妖精の女がシェリーを出迎え、早口に訛りという呪文を唱える。
振り返れば、その女将を前にして張り付けた笑顔のまま凍り付いているシェリーがいた。
「女将、んが観光客どもなんぼでもへってらべ。なしにわがらねのおべででそったごとばりへるやった? 見れほらなんとしていがわがねぐなってら」
「あんいやまんずおめだばわがるやったが。さもね、訛ってへればおもへがらへってらやった。なんぼがへばちゃんとへるったいに」
そして始まる呪文の応酬。当然シェリーは蚊帳の外で、どうして良いのか判らず曖昧な笑顔を浮かべているだけである。
「あらあらごめんなさいね。最初にこれやっておかないと、小妖精族の話し言葉がどんなものか判らない人達が多いから」
コロコロ笑いながら、身長が1メートル前後の女将がシェリーを見上げてそんなことを言う。そのシェリーはというと、やっぱり曖昧な笑顔継続中であった。
「まったく……真面目で実直で正直者なクセに、他所から来た人らにわざと訛って話し掛ける悪癖があるんだからよ。んじゃあなシェリーの嬢ちゃん。あとは一人でも大じょ――」
言い残し、立ち去ろうとするデメトリオの上着の裾を掴まえ、
「ごめんなさいデメトリオ。もうちょっと付き合って」
言葉が通じないのが相当心細いのか、結局そのまま付き合う羽目になった。
可愛いから良いがな!
何かが吹っ切れたのか、そう考えるデメトリオ。諦めた、もしくは開き直った、あるいはヤケクソになった、ともいう。
そんなこんなで済崩し的にベン・ネヴィス教会前まで一緒に行き、そしてそれほど時間が掛かるものでもない儀式であるためデメトリオは外で時間を潰しつつ待つことになった。
しかし――
いくら待てども、シェリーが戻ることはなかった。
彼女より後に教会を訪れた者達が立ち去った後も、そして――その教会の明かりが消え始めても、シェリーは戻らない。
不審に思い、意を決して閉門間際に教会へ踏み込み、そして傍にいる修道女にシェリーのことを尋ねたのだが――
「そのような方は、いらしていません」
取り付く島もない返答が返って来るばかりであった。
「いやそんなわけはないだろう! もう何時間も前に教会に入ったんだ」
「それならば、既に帰られたのではないでしょうか。申し訳ありませんが、時間となりましたのでお引き取り下さ――」
「待てよ! 教会からの帰り道はこの橋だけだ! 擦れ違ったり気付かなかったりする筈はないだろうが! もういい、勝手に捜させて貰――」
埒が明かないと判断したデメトリオは、修道女を押し退け奥へと踏み込もうとする。だがそんな彼を、既に奥で待機していたと思しき神殿兵が行く手を阻む。
実は荒事の多い部署にいるためそれなりに腕に覚えのあるデメトリオだが、完全武装でおまけに数の多い神殿兵に敵うわけはなく、あえなく教会の外へと叩き出されてしまった。
「……一体、なにが起こっていやがるんだ……?」
殴られ、だが鱗により大したダメージのないデメトリオは、閉ざされた扉を忌々し気に睨んでそう独白する。
そして――本来であれば遅くまで明かりが灯されているベン・ネヴィス教会が、その夜は夕暮れと共に暗がりへと沈んで行った。
商業ギルドのマスターは鬼人族のシオドリック・グレンヴェルであるが、実のところ彼はほぼギルドの仕事はしていない。
というか能力的に頭脳労働向きではなく、いってしまえば完全な脳筋であるため、やりたくても出来ないのである。
元々商業ギルドはそれとは名ばかりな傭兵団であり、戦地を点々として来た歴史があるためか、その上に立つものは腕に覚えのあるものが多い。というかそうでなければマスターとして選ばれないのだ。
そして現在のマスターであるシオドリック・グレンヴェルは、武芸者として他と一線を画し、だがそれでいて他者を慮れる人格者である。
まぁ、先に述べた通りに脳筋で頭脳労働には全く適さないが。
そんな脳筋マスターを完璧に補佐しているのが、サブマスターである草原妖精のデリック・オルコックである。
彼はかつて草原妖精族が多く住んでいる遊牧地であるマグダフ平原を、誰かさんと争い競い合うように二分し取り仕切っていた過去を持つ。
当時の彼を、誰が言ったかこう呼ばれて恐れられていた。
〝草原の破壊者〟――と。
その競い合っていた〝草原の災厄者〟な誰かさんとはいつしか何故か恋仲になり世帯を持ったのだが、その誰かさんがあまりに変態であったために付いて行けず、敢えなく離縁となったそうな。
だが本気で嫌いになったわけではないらしく、誰かさんのなにかが溜まっちゃったとき、たまーに発散目的の朝チュンをしているらしい。
そんな誰かさんは家事全般に精通しているし、もちろん料理上手でもある。更に気が利いていて相手がどうしたいのかを察する能力にも長けていた。
変態なのに。
そして残念ながらデリックは、変態ではなく至って普通であるため、それを理解出来なかった。
普通と変態の軋轢は、想像以上に根深いものである。
そんなデリックの元に秘匿回線からの直通電話があったのは、彼が日も暮れてそろそろ帰宅の途に着こうかと用意を始めた頃合いであった。
『ああ、デリックさん。良かった、まだギルドにいてくれた』
電話の相手は、とある極秘任務のためにリトルミルに遣わしたデメトリオであった。
「そろそろ帰宅しようとしていたのですが……どうしたのですか、そんなに私の声が聞きたかったのですか? 言っておきますが私は変態が嫌いですよ。それに男色も他所様が勝手にするのは一向に構いませんが、私は絶対に無理ですからね」
などと軽口を言ってみる。だが今のデメトリオには、それに反応する余裕はない。
『そんなことはどうでも良い! 大変な事態になった! シェリーの嬢ちゃんが、教会に入ってから行方を晦ませちまった!』
「……なんだと?」
デメトリオが焦燥しながら訴えるそれを聞き、底冷えする言葉を吐くデリック。
それを聞いて心胆寒からしめるデメトリオだが、そんなことよりもシェリーが行方不明になった経緯の報告を優先させる。
そして一通り報告を聞いて、デリックは椅子に深く腰掛け溜息を吐いた。
『済まねぇ、デリックさんが俺を信じて与えた任務なのに、それすら満足に熟せねぇ自分が情けなくて嫌になる』
「自分を卑下するのは止めなさいデメトリオ。あなたは良くやってくれていますよ。ちょっと実力不足は否めませんが、ユーインの部下にしておくのは勿体ないくらいです」
『いや、でもよ――』
「まったく、チンピラ然としている容姿のくせにバカが付くほど真面目なのは相変わらずですね。どうしてこんな良い男を世の女性諸姉は放っておくのでしょう。やはり見た目でしょうか?」
『貶すのか褒めるのかどっちかにしてくれ。物凄く反応に困る』
「まぁそれはそれとして――」
一度言葉を切り、デリックは表情を引き締める。その雰囲気が伝わったのか、通話先のデメトリオも息を殺して次の言葉を待った。続くそれを、聞き逃さないために。
「私が貸したエセル様の写真、汚したり紛失したりしていないでしょうね? あれは現存するものでは最後の原物ですから」
『え? あ、ああ、それか。それならシェリーの嬢ちゃんがネガ持ってるそうだ。言えばいくらでも現像してやるって言っていたぞ』
「デメトリオ、君は素晴らしい。ギルドに戻ったら今月の総支給額の500%を特別賞与として支給しましょう。いや、戻るまでもなく君のギルド口座に即振り込んでおきます。そして明日より三〇日間の特別有給休暇を与えます。これは業務命令ですので、必ず受け取り休養するように。総務課のサロモンも会計課のエヴラールも、絶対に否とは言わないでしょう」
『は? え? あれ? ちょっと待ってくれ、意味が判らん。それに今月の給与って、例のオスコション商会への強制捜査とか残業とかも結構あって特別手当が加算されているから、収入としては相当多いんだけど――』
「君はそれだけの功績を上げたのですよ、デメトリオ。大丈夫です、税金は掛からないように裏工作しますし、誰にも文句は言わせません。文句があるなら私やサロモン、エヴラールが相手になります」
『組織のNo.2なアンタと二人のNo.3が相手って……逆に空恐ろしいわ。それに組織の上に立って不正を取り締まる筈の役職が脱税を推奨するとか、どうしてくれようか反応に困るぞ』
「綺麗事では世の中は渡って行けないのですよ、デメトリオ。いつか君も判る日が来ます」
『判りたくないわ! 本来なら賞与も特休も嬉しい筈なのに、内容聞いたら全然嬉しくない。それに金と休日があっても恋人の一人もいないんじゃあ意味ないだろう。誰かいないかデリックさん』
「私の心当たりは一人だけですね。紹介しましょうか? 変態ですけど」
『俺そんなに変態には抵抗ないし、むしろちょっと心惹かれるが、それアンタの元奥さんだろ? 良い加減に諦めて復縁しろよ。変態だって慣れれば可愛いもんだろうが』
「いえ、変態は認めません。そんなわけで、シェリーさんが行方不明になった原因に心当たりがあるので調べてみますね。……きっとあのクソ森妖精が一枚噛んでいるどころか根源なんだろうし」
『お似合いなんだけどなー。良いじゃねぇかちょっとくらい変態でも。……て! もしかしてアンタが直接動くのか!?』
「当り前です。シェリーさんはエセル様の娘なのですよ。この意味、貴方は判りますよね?」
『え? いや、鐚イチ判らないが――』
「ふふ、ふっふっふ。私もすぐに其方へ行きますから、そのときによーーーーーーく説明してあげましょう」
そして切れる通話回線。デメトリオは暫く受話器を持ったまま、空恐ろしいなにかに触れてしまったのを理解した。
だが、それでもまだ、その理解は足りなかった。
シェリー・アップルジャックという個人へ不当に手を出すという行為が如何に愚かで恐ろしく、そしてその感情を抱くことすら生易しく感じさせる者ども――既に眠りに就き、二度とそうであると名乗らないとした誓約すら破棄させ覚醒させるほどの絶望的な所業であることを――。
この日、既に引退して平穏な日常に生きると剣を置いた一人の男が、それを再び手に取り仲間と共に再始動した。
――男の名は、アイザック・セデラー。
魔法生物だろうと亡者だろうと、そして神龍であろうとその全てを物理で粉砕すると恐れられた冒険者集団〝無銘〟のリーダーであり、一人でも災害級の能力を持つとされる仲間を取り仕切っていた、そして暴走する三人の仲間をたった一人で抑えていた、最強と謂れている商業ギルドのマスター・グレンヴェルにして戦いたくないと言わしめた唯一の男。
その身に急所を守る最小限の鎧を纏い、神龍より授った灼熱と極寒の大太刀を腰に差し、そして極光の棍を携え、全身から迸っているであろう殺気を無理矢理抑え込む。
それは、その殺気は、愚かな行為に及んだ者どもと対峙すまで解放するわけにはいかない。気の弱い者ならば、それに充てられただけで生を放棄する場合もあるから。
デリックから手短に事情を聞き、そして最短で身支度を整え、彼は仲間と共に用意された特別列車でリトルミルへと発った。
たった一人の、己が娘を救うために。
――*――*――*――*――*――*――
ベン・ネヴィス教会に足を踏み入れ、その絢爛でも華美でもない教会堂の美しさに目を奪われ、シェリーは感嘆の溜息を吐いた。
白を基調とした内装に、おそらく自然のものであろう同じく白い石壁面と建造物との継ぎ目が見えないほど巧緻な技術によって構築された内壁材と立ち並ぶ石柱が見事に融和し、それ自体が芸術作品と言ってしまっても過言ではないと、シェリーは思う。
そして採光窓を彩る彩色硝子も必要以上に原色ではなく落ち着いた、だが見る者の目を釘付けにするほどに繊細で一部のズレもない、神々しいとはこの光景を言うのだろうと、重ねてシェリーは考え一人頷いていた。
「おかーさん、あのおねーさんひとりでうんうんしてるよ」
「しー! そっとしておいてあげなさい。きっと、理由があって、独りで教会に来てるんだから……」
我が子の恐れを知らない指摘にそう言い返し、そっと同情の涙を拭う母親。その視線は「強く生きてね」と言っているかのようで――
――なんかヘンな誤解された!?
そんな母子の会話を耳にし、その対象が自分であると理解したシェリーは、ちょっと慌てて周囲を見回した。
周りには親子連れや夫婦、そして恋人同士であろうイチャコラしているヤツらが結構いる。そんな中に女子が独りでいたのなら、そりゃあ誤解もされるだろう。
だがそもそもな話し、別になにか理由があって独りなわけではない。逆に独りであることに、特別な理由などあるワケがないし。
まぁ強いて言うなら、一緒に来てくれる友達がいなかっただけ。実に寂しい女子である。
――て喧しいわ!
などと心中で一人ボケツッコミをするシェリー。当り前にそれが誰かに気付かれることなどあるワケがないないため、「独り上手」と「一人ボケツッコミ」の技術が天元突破して行く。そんな技術は存在しないけれど。
こんな性格だし、おまけに精神的に相当擦れているから同い年の友人は望むべくもないが、せめて同世代の友人が欲しいと、わりと本気思うシェリーだった。
それはともかく。
自分の目的は別に観光をするためではないし、それにはあまり興味も――興味は……はいごめんなさい、興味ありました。
噂に聞いた世界一美しいと称されているベン・ネヴィス教会には、実は子供の頃から来たいと思っていたのである。
だが母親が何故か頑なに拒んでいたため、結局は現在のように一人で来るしかない。
本音を言えば、リトルミルの温泉も、このベン・ネヴィス教会にも、母と一緒に来たかった。
父親とは来たいとも思わないし、その発想すら湧いてこないが。
でも、どうしてお母さんは此処には絶対に行かないって言っていたんだろう? 温泉は嫌いじゃないだろうし。もしかして、宗教とか信仰とかが苦手だったのかな?
そんな取り留めもない夢想をしながら、案内に従い〝齢の儀〟が執り行われているベン・リアック神殿の聖堂へと移動する。
ちなみに先程シェリーを見てなにを思ったのかそっと涙を拭った母子は、そのすぐ前にいた。
教会堂を抜けて渡り廊下を進み、神殿の聖堂に入る。其処は教会堂より幾分華やかであり、だがそれよりもまず目についたのが、それが行われている場に置かれている、高さ3メートル、幅1メートルもある六角形の巨大な魔水晶であった。
「うわー、でっかーい。というかこれって一体お幾ら枚の大白金貨を注ぎ込んだんだろう」
などと、それを見て無邪気にキャッキャ騒いでいる子供達や、その大きさと荘厳な雰囲気に感心している大人達とも一線を画す感想を漏らすシェリー。
ちなみに例の母子にはしっかり聴こえていたようで、首を傾げる子供の傍で母親が微妙な表情を浮かべていた。
ある程度の人数が集まった頃合いを見計らい、神父らしき法衣を纏った壮年の男が壇上に立ち、咳払いをしてから厳かに――
「えー、この魔水晶は~、魔力を流すことでー、えー、それぞれのぉ~、えー、属性に光りー、えー、どの属性が――」
説明下手か!
シェリー、渾身のツッコミ。
だが流石に声に出すわけにもいかないために、心中で思うままそうして独り上手スキルの熟練度上げに勤しむ。そろそろスキルレベルが上がりそうである。転職はあるのだろうかとか、やはり意味のないメタメタしい思考を巡らせ更なる熟練度上げに余念がない。
「ふーん、凄ーく綺麗に磨かれているわねー。いっぱい触られて手垢とか付いたら大変そう。気後して触るの躊躇する人もいるんじゃないかしら」
小声で、またしてもそんなどーでも良いだろうと言われるであろう独白をする。だがこれには、やっぱり聞こえている例の母親も頷いていた。どうやら同じ発想に至り、そしてそのまま気後しているらしい。
まぁ、ちょっとくらいの汚れが付いたくらいなら修道士や修道女が頑張って磨き上げるだろうし。
今度はそう考え、だがその直後、
「乳液べっちょりな手で触ってやろうかしら」
とっても悪い笑みを浮かべながら、そんな言葉が口を衝くシェリー。
そしてそれが聞こえている母親は――ちょっとそれを考えていたため肩越しに振り返り、アイコンタクトの後で同じく悪ぅい笑みを浮かべた。
このお母さんも、ちょっと色々溜まっているらしい。きっと家族旅行も兼ねていたのであろうが、父親が急な仕事とかで結局母子旅になっちゃったのであろう。
などと勝手に他所様の家庭の事情を連想する。
正解であった。
神父の、きっと重要なのであろうが万人の記憶に一切残らないのは確実な解説が終わり、修道士や修道女達がそんな解説なんかよりよほど効率的で的確で要点をまとめた説明をしながら誘導する。
中でも茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんは群を抜いており、必然的に其方へ人が流れて行くのだが、それすら上手に操作して均等に割り振って行く。
あのお姉さん、欲しい!
などと考えるシェリー。だが悲しいかな、残念ながら現在は無職な自宅警備員である自分。部下や従業員など必要ない。
それに残念ながら、終生請願をしているであろう修道女を、そう易々と勧誘出来る筈がない。
だがそれでも彼女のウィンプルは肩までしかないから終生請願の前だろうしワンチャンある筈! などとちょっと意味不明な悪足掻きを勝手にし始める始末。
独り上手の熟練度が鰻登りである。
優秀な修道士と修道女により効率良く儀式は進み、あと数名が終わればシェリーの番になるというとき、徐に肩掛け鞄からポーチを取り出して中から小瓶を摘み出し、手の甲に乳液を垂らした。
あ、本気でやるんだ。ゴソゴソしているシェリーを伺い見ている例の母親が、そう言いたげに小さく溜息を吐き、ちょっと呆れた視線を向けている。
「ねぇ、どうすればいいの?」
次が自分の番になり、目の前で母子が魔水晶に触れて感嘆の声を上げているのを尻目に、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんに訊いてみる。
「魔水晶に触れるだけで良いのですが、もし魔力を扱えるのでしたら意識して流して貰えれば、より詳しく結果が表れます。大丈夫です。気を楽にしてまず触れてみましょう」
そしてにっこり笑顔を浮かべるお姉さん。
その笑顔は、彼女の相貌と修道服効果も相まって、反則的なほどに魅力的である。
ああ、お持ち帰りしたい!
などと親父的、もしくは犯罪者のような発想に至るシェリーであるのだが、その原因は幼少期から見て来た元従業員どもにある。
朱に交われば赤くなるとは良く言ったものだが、変態や豚野郎に囲まれていれば少なからず影響を受けるらしい。
実に恐ろしい現象である。
そして遂にその時となり、その魔水晶を見上げるシェリーは、聖堂のテラスに赤いキャソックを身に纏っている森妖精を目撃した。
服装からしてきっと枢機卿なのだろうと考え、だがそれより、言い方は悪いがこんな辺境にある神殿なのに、何故そんなお偉い様がいるのだろうかと怪訝に思い、更に、森妖精の聖職者? レアだ! とも考えて、未確認動物でも見付けたかのように繁々と観察する。
すると彼も自分を見詰めるシェリーに気付き、口元に笑みを浮かべて見詰め返した。
その笑顔を見た途端、シェリーの全身がザワッと粟立ち、そして半眼になってから視線を逸らす。
なにやら見てはならないなにかを見ちゃったり、触れてはいけないなにかに触っちゃったような悍ましい感覚に襲われた気がしたから。
そんなシェリーを見て緊張しているのだろうと察した、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんが、優しくその背を押して促した。
好き♡
そのさりげない気遣いと優しさに、おかしな扉を開き掛けるシェリー。もう枢機卿なんてどうでも良い。
そして、乳液たっぷりの両手に容赦なく魔力を込めて魔水晶に触れる。
その瞬間――
その場にいる全ての者が言葉を失った。
本来であれば魔水晶の変化は、時間の経過と共に現れる。それにどれほど短くても、十数秒は掛かる筈だ。
だがシェリーの場合、触れた瞬間その全ての変化現れた。
それは、彼女が桁違いの魔力を保有しているということ。
そしてシェリーが触れたことで現れた変化は――
「なんだ、これは……!」
そんな呟きが、上にあるテラスから聞こえる。
魔水晶は、シェリーが触れたその一瞬で、可視光のほぼ全てを捕らえて吸収する色――ベンダブラックに染まっていた。
水晶という鉱物は色素が混入していない限り無色透明であり、そして、魔力を通すことで十一種の色を放つ魔水晶も、その例外ではない。
魔水晶に浮かび上がる色は、それに触れた者によって種々様々な色を放ち、人それぞれに個性があるのと同じく、限りなく近い色はあるものの、誰一人として同一になることはない。
ベン・リアック神殿が建立された当時から其処に住まう、百余年前から神殿を牛耳っていると自負するアーリン・ティム・ジンデル枢機卿は、年に二度行われる〝齢の儀〟に集まった人々がそれに触れることで様々な色に染まり、そして発現する幾通りもの結果によって一喜一憂する様を見物するのが楽しみであり、そして今もテラスに用意させた座り心地の良いふかふかソファに独りで座ってふんぞり返り、その変化を楽しんで――
「ふん、あの程度の魔力しかないのか。今回も不作だな。だがそれは仕方のないこと。ワタシのように神に愛され魔法の才に恵まれたものなど、そうそういるものではないからな」
――愉んでいた。
そんな独りで勝手に愉悦に浸っている、若干どころか結構性格が悪い枢機卿猊下は、懐から懐中時計を取り出してその時計盤へ目を遣り、そろそろ終わりであろうと下を覗き込む。
そして――ある意味で運命の相手であろう自分を見上げている一人の少女と、幸か不幸か目が合った。
いや、合ってしまった。
『森妖精であるワタシの美貌に見惚れているのだろう。そうに違いない』
そんな自惚れ全開で見当違いなことを考え、鏡に映る己を見ながら幾度となく――いや、すでにそれが日課となっている鍛錬し研鑽された笑顔を浮かべて見詰め返す。
大抵の女性はそれだけで頬を染めて恥じらうものだ。少なくとも、枢機卿猊下は常々そう思っており、そしてそれが当然だと信じて疑えずにいた。
――だが。
その少女は猊下の百戦錬磨の微笑みを直視した瞬間、穢らわしいなにかを目撃してしまったかのように、そりゃあもう盛大に表情を歪め、そしてさっさと視線を逸らしてしまった。
そのあまりといえばその通りな反応に驚き、だが自分を見詰めた明らかに他と一線を画す視線にちょっとゾクゾクしちゃった猊下。新たに特殊な扉を開いて気持ち良くなっちゃったらしい。
俄然その少女に興味が湧く。
それを向けられる側にしてみれば、確実に迷惑極まりないのだが。
――長寿を誇る森妖精である枢機卿猊下は、その例に漏れずに長く生きており、当然ではあるが様々な経験を重ねているためであろうか、その性癖は特殊であった。
これは当り前なのだが、全ての森妖精が猊下や何処ぞの愛を語る国法士や、やんちゃな王様だったりあらあら系で物理攻撃超特化な最強撲殺女王様なわけではない。
森妖精は本来であれば穏やかな性格であり、良く言えば分け隔てのない平坦な人格者揃いである。悪く言えば他に興味を示さない冷淡な性格であるのだけれど。
まぁ、世界総人口の三割を占めるまでに増えちゃったために、そういう特殊な性癖の持ち主が現れたとしても、なんの不思議もないのは当然だ。
もっともその程度の性癖など、昨今廃業したリンゴ酒を取り扱っていた商会の従業員達の高度で高性能なソレに比べれば、まだ可愛いものである。
それほどその商会の従業員達は優れていたのだ。色々と。
最後の最後でそんな少女と見つめ合えて御満悦な枢機卿猊下は、改めて階下にいる今まさに魔水晶へ触れようとしているその少女――シェリー・アップルジャックを熱っぽく見詰める。
そんな有様な枢機卿猊下を、傍付きの修道士達はやれやれと言わんばかりに、傍にいる筈なのに半眼で見遣り、ほぼ同時に深い深い溜息を吐いた。
どうやらそれは心の距離であるようで、傍付きであるため離れられない分せめてそれだけでも離れようと、もしくは離れていたいという願望の表れであるのかも知れない。
そんな猊下に対して不敬な諸々を気付かれない程度に細々としている修道士達は、だがいつまでもそんな猊下を見るのもイヤ――もとい、そのようにするのはそれこそ不敬であるために、儀式の最後であるだろうその少女の結果を注視する。
俗世との全てを切り離し、神々へとその身全てを捧げる終生請願をしている修道士達も、少なくともおかしな性癖の枢機卿猊下より、目麗しい少女を見ている方が数段マシなのであろう。
そしてその少女が、何故か妙にしっとりしている手で魔水晶に触れたそのとき――
「――魔水晶が……消えた……?」
瞬間的にその魔水晶があるべき場所に、ポッカリと漆黒の穴が空いた。
少なくともその現象を目撃したその場にいる全ての者は、それをそのようにしか認識出来なかった。
それほどそれは、怪奇で不可解であったのである。
実際に魔水晶は消えてはおらず、その形を保ったままその場から僅かも動いていない。
本来であればどのような色であっても――例えそれが黒であっても、光を受けて反射し輝く筈の魔水晶が、その光すら呑み込み一切の輝きを発しないという事態は、明らかに異常であるとしかいえないのだ。
黒より黒い漆黒――ベンダブラックに染まる魔水晶を目の当たりにして、騒然とすらせずただ言葉を失う一同を尻目に、アーリン・ティム・ジンデル枢機卿はいち早く我に返り、
「聖女だ……」
立ち上がりながらそう呟き、次いで声高々に、
「――聖女が顕現された!」
滂沱の涙を落としながら、その両手を広げて宣言した。
――で。
そんな意味不明な宣言をされちゃったシェリーはというと、ベンダブラックに染まった魔水晶を目の当たりにして、
『うわぁ、腹の色まで出ちゃうのコレ?』
腹黒な自覚があるのか、そんな的外れなことを考えており、だがその現象に驚き思わず尻餅を付いてしまっている、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんへ目を向け、捲れているスカートの奥を視界に収めて心情的にサムズアップする。
清楚な白だけど凝ったレース生地で紐っていうギャップが唆る。なによりスパッツを着けずに生足というのがポイントが高いわ! 生足バンザイ!
そんなことを考えるシェリー。明らかにエロオヤジ的発想である。そして確実に、元従業員どもの悪影響が如実に出ていた。
そんなアホなことを考えながらも、魔水晶に直で魔力を流し続けるシェリー。その遠慮もなにもあったものではない行為に、ちょっとミシミシミチミチいっているのは聞こえなかったことにする。
そういえば――シェリーはふと思い出した。
まだ五歳くらいであった頃に母親から聞いたことだが、故あって水晶球を手に入れたことがあり、魔力を込めれば様々な効果あるらしいと聞いて興味が湧いた母親は、試してみようと思いっ切り流してみたところ、それが壊れるでも弾けるでもなく砂となり崩れ落ちたそうな。
――あ、これ拙いヤツだ。
夢想から我に返るシェリー。此処で魔水晶を壊してしまったら、その賠償金はとんでもない額になるであろう。
そう判断し、同時に脳内でJJ謹製の算盤を弾く。こんなところで負債を抱えるなど真っ平御免である。
そんなちょっとズレた思考の後、なにやら頭上で喚いていたなぁと思いながら見上げると、例の穢らわしい視線の、多分枢機卿が立ち上げっており、両手を広げてメッチャ泣きながら大騒ぎしているのが目についた。
うわ! 気持ち悪い!
「キモい」ではなくシェリーは素直にそう思い、思わず更に魔水晶へと魔力を流す。すると今度は共振し始め、ミシミシミチミチがメキャメキョと軋みだし、やっとそれに気付いて慌てて手を離した。
それによりその共振はすぐに収まったのだが、漆黒に染まった魔水晶はそのままである。あと少し遅かったなら、きっとそれはちょっと考えたくないような事態になっていたであろう。
これは私の腹が相当黒いという嫌がらせなのかな?
大惨事になりかけた事実から綺麗に目を逸らし、 未だ漆黒に染まっている魔水晶を眺めつつ、そんなことを重ねて考えるシェリー。完全に被害妄想である。
だがいつまでもそんな被害妄想に浸っている余裕などあるわけもなく、これは面倒の予感がすると察したシェリーは、
「お……邪魔しましたー……」
そそくさと襷掛けにしている肩掛け鞄を正してその場を去ろうとする。
だがその判断は既に遅く、枢機卿猊下の宣言を聞いた神父、修道士、修道女を始めとする神殿、教会関係者が一斉に膝を着き、シェリーへと祈りを捧げた。
関係ないが、シェリーより前に儀式を終えた例の母子は、聖堂の門扉付近でその様相に呆然としていたりする。
そして先程シェリーにスカートの中を観察されちゃった、 茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんも同じく呆然としていたが、捲れ上がっているスカートに気付いて慌てて抑えて膝立ちになり、だが訳が分からなかったためとりあえず皆に習って祈りを捧げた。
シェリーが小さく舌打ちをしたのは言うまでもない。
それにしても――そんな有様になっているのに心当たりなど一切ないシェリーは、どうしてこうなったと困惑し、だが先程テラスで変た――じゃなくて枢機卿らしき森妖精が喚いていた言葉を反芻する。
『せいじょ』って言った?
誰を?
私を?
え?
なに?
私が?
私が――『せいじょ』!?
「性女ってどういうことよ! 失礼な!!」
フンガー! と擬音が付きそうなくらいに激昂するシェリー。だがその場にいる聖職者達は、何故にそうなっているのかが判る筈もなく、
「おおおおお落ち着き下さい聖女様」
慌てて宥める、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さん。
だがいくらシェリー好みの彼女でも、明らかに侮辱されたと勘違いしているシェリーの怒りが収まるわけもなく、
「だから! 誰が性女よ!『様』付けしたって意味は一緒でしょうが失礼な!」
確かに一緒である。字面と意味が違うだけで。
そして何故にそこまで怒り狂っているのか判らない一同は、戸惑い全開で呆然としていた。
「落ち着きなさい、少女――いや、聖女よ」
そんな中、事の成り行きを見守っていた枢機卿猊下が、テラスからシェリーを見降ろし厳かにそう言い――
「だーかーらー! 誰が性女よ! 失礼にも限度ってものがあるでしょ! なんなの? 此処ってヒトを莫迦にして楽しむ儀式でもあるの!? ヒトを蔑めるのも仕事のウチなの!?」
「いや、蔑めているわけではないし、そうは言っていないが……」
「自覚もなく言っているんじゃあ尚タチが悪いわよ!」
「えええええぇぇぇぇぇぇ……」
だがそんな地位ある人物からのお言葉に畏るほど殊勝なわけでも気弱なわけでもなく、一五歳にして魑魅魍魎が住まうと揶揄される会頭どもが集う商工会に通い詰め、互角以上に遣り合った実績持ちのシェリーが黙っているわけなどない。
世間一般じゃあ『聖女』って蔑称だっけ? シェリーのあまりな激昂ぶりに、思わずそんなことを考え始める枢機卿猊下。百余年も俗世から離れていたために、現在の風潮に疎い自覚は確かにある。
階下で地団駄を踏み、
「危のうございます。そんなに暴れては――」
「誰が変態だ!!」
「言ってない!」
今にも暴れ出さんとして、茶系金髪で青い瞳の、 眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんとそんなことを言い合っている少女へ視線を落として溜息を吐き、枢機卿猊下は戸惑い全開な神殿関係者へ、未だ僅かに残っている礼拝者に帰って貰うように指示を出し、更にシェリーを別室へと案内するように言い付ける。
「落ち着いて下さい聖女様! 何故そのようにぷんすこ怒っていらっしゃるのですか!?」
「まだ性女言うか! そんなに何回も性女性女言われたら誰だってぷんすこ怒るわよ! ……ていうか表現可愛いわね貴女。お持ち帰りしたいわ~」
「なんで!?」
視線が瞬時にエロオヤジ化するシェリーに身の危険を感じる、茶系金髪で青い瞳の、眼鏡がとってもよく似合う可愛らしい修道女のお姉さんは即座に距離を取りたくなったが、階上でこちらを見降ろしている枢機卿猊下の手前それも出来ず、その指示に従い泣きそうな顔で、ペタペタお触りして来るシェリーを神殿の奥へと案内して行った。
――この日、建立より絶やすことなどなかったベン・ネヴィス教会の灯が、初めて途絶えた。
――ところで。
「いやー、凄かったですねぇ。最後の女の子。あ、聖女様ですか」
「ですねー。まさか魔水晶が真っ黒に染まるなんて。ワタクシ初めて見ましたわ」
「十一種の属性全てに適性があればそうなるらしいですよ。見ることが出来てワタシは幸せです」
「黒に近い色がいままで数名は居られて、その全てが聖者、もしくは聖女となられたらしいですね」
「では我らは世紀の瞬間に立ち会えたのですね」
「そうなります。なんという幸運……あら、魔水晶に汚れが……手形が付いていますね。何方かが緊張のあまり手に汗を握っていたのでしょうか?」
「無理もないことです……ってなかなか落ちませんねこの汚れ。なんでしょうか、乳液のような……」
「あら? 魔水晶の輝きが僅かに歪んでいるような……中に傷があるような……」
「いえいえ、まさかそんなことがあるわけ――」
神殿の片付けと清掃をしている小間使い達は、そんな談笑をしていたそうな。