シェリーに言われた通り、完全予約制でオープンという体の再オープン直後の「オーバン」は、僅かな間だがその制限に対してクレームがあったものの、店内の落ち着いた雰囲気とサービスが行き届いた店員の対応により、それも徐々に鎮静した。
だがオープンから僅か三ヶ月。グレンカダムで結構部数が出ている批評記事を売りにしている俗っぽい雑誌「オーロコンシリョ」に取り上げられて、勝手なことを言いたいだけのその他大勢どもが、完全予約制とか予約は僅か一週間後までしか受け付けないとかが気に入らないなど陰口を叩き始め、それが再燃してしまったのである。
もっとも、その雑誌の記事を挙げた記者もそれらに対して良い感情を持っていなかったのか、なかなか辛辣な文章の羅列をしていたのも一因であったのだろう。
もっともそう書かれた一番の原因は、オーナーシェフは壮年の男であるべきだという固定概念が蔓延っていて、不文律としてそれが当然であると理解されているこの業界の中にあって、「オーバン」のそれはまだ成人したての少女であった、というクッソ下らない理由なのだが。
言ってしまえば、ただのいちゃもんの類である。
だがそんな古き悪しき時代の偏見に凝り固まった下らない批評も、商業ギルドが年四回発行している、グレンカダムの商業情報が詰まった季刊誌が出版されたことで一変した。
このときの季刊誌には、商業ギルドのマスターであるシオドリック・グレンヴェルに娘が誕生した記事が掲載されていた。
そう、そこにはゴリゴリマッチョでまさしく鬼のようなシオドリックと、産後とは思えないくらいスタイル抜群ボンキュボンな高身長色白美人のセラフィーナ、そしてその腕に抱かれている娘のフェリシアの家族写真か載っていたのである。
記事の内容としては、なかなか子宝に恵まれなかったグレンヴェル夫妻が、とある小さな食堂の店主に出会ったのが切っ掛けで子を生せたと当時を振り返っているもので、そしてその食堂は現在完全予約制のレストランとなっている、というものであった。
商業ギルドの季刊誌であるため公平を期す必要があり、そのレストランの名は伏せられていたのだが、最低限の情報として「オーナーシェフが成人したての少女である」としか明記されていない。
ギルドマスター夫人が懐妊した時期に、確かにとある小さな食堂で食事をした夫婦は子宝に恵まれると、実しやかに囁かれていたのは事実である。
そしてそれは結構有名であり、実際それを望む夫婦は挙ってその食堂へ通ったものだ。
シオドリックの記事はまさしくそれを想起させるのに充分であり、更に彼は、成人後であるならオーナーシェフの年齢など関係ないし、そして実力よりも年齢や性別でしか判断出来ないなどという稚拙で蒙昧で闇弱な行為は、知性あると自称し社会人として当たり前に生活していると自負するならばしないだろうと、雑誌記事を真っ向から否定してみせた。
ちなみに記事を書いたのは、サブマスターのデリック・オルコックである。
シオドリックは口下手の筆無精で有名で、出来れば文字を書きたくないそうだ。
字がとても下手だから。
そしてそれを指摘されると結構落ち込み、妻のセラフィーナに「そこがまた可愛いのでござりんす」と言われて謎の惚気が始まるまでがセットであった。
影響力が有りまくるシオドリックが書いたとされたそれは結構評判となり、それ以降は評論家を自称する輩どもの「オーバン」を批評をする雑誌記事は鳴りを潜めたという。
彼の意見じゃないのに。
更にその評判を聞いて、
「美味!? 喰わずにはいられない!」
と良く判らない高揚感に突き動かされた美食家を自称する者どもが挙って「オーバン」を訪れ、絶品ではないがクセになり飽きないその料理にすっかり虜になっちゃったそうな。
その虜になった者どもの中に、例の記事を書いて「オーバン」を扱き下ろした雑誌「オーロコンシリョ」と部数を競っている「アオスクンフト」という雑誌の編集長がおり、彼自らが偏見も贔屓もない客観的な事実を書き連ね、最後に一言だけ述べた感想とオーナーシェフへのインタビューによって「オーバン」の人気は加速した。
余談だが、そのインタビューをするために編集長は従業員出入口前でリオノーラを出待ちして、
「お願いします!(インタビューを)させて下さい! ちょっとで良いんですほんのちょっとで! もし(インタビュー)させてくれたら言われた額だけ謝礼払いますから! お願いします(店内に)入れさせて下さい!(理念の)先っちょだけで良いですからすぐ済みますから!」
などと言葉足らずに喚き散らして一緒にいた部下をドン引きさせ、当然そういう意味で理解したリオノーラのワンパンで意識を絶たれたそうな。
その後部下によりしっかりとした説明が為され、本来ならば絶対しないのだがぶっ飛ばしてしまった手前イヤとは言えず、だがやっぱり傍に寄って欲しくないのか刻印魔術で編集長を縛った上でそれに応えた。
リオノーラは魔法は苦手ではあるが、魔法陣を用いて効果を発揮する刻印魔術が得意だった。以前経営していた食堂への嫌がらせは、それを施すことで防いでいたのである。
大きな声では言えないが、実は刻印魔術は口伝ですら伝わっておらず、分類としては逸失魔法であった。
勿論リオノーラはそのことは知っておらず、孤児院時代に魔法を教えてくれた人が、相性が良いという理由だけで教えてくれたのである。そしてそれに、特に理由はなかった。強いて言うなら、趣味、であろうか。
情報誌「アオスクンフト」の特集ページに掲載された「オーバン」の記事の最後は、このように書かれていた。
『絶品なだけの料理を提供するのは難しくない。だが飽きさせない料理を提供するのは難しい。それを「オーバン」は事も無げにやってのける。そして年齢や性別といった偏見だけでその有り様を判断するのは、グレンヴェル氏の言う通り知性ある者がする行為ではない』
その反響は凄まじく、おかげで扱き下ろし記事を載せた「オーロコンシリョ」は、暫く売り上げ部数が半減したそうな。
「オーロコンシリョ」編集部はこのままでは拙いと思ったのか、起死回生を狙って止せばいいのに経営が傾いた某リンゴ酒を製造販売している商会の扱き下ろし記事を掲載し、何故か方々から批判を浴び捲ってしまった。
しかもそれでは終わらず、所属記者達が著名人の醜聞を狙って付き纏いしていたことや、編集長の脱税が何故か発覚したことにより「オーロコンシリョ」は廃刊に追い込まれ、一時グレンカダムはその話題で持ち切りになったそうである。
「いやぁ、不思議なこともあるものですねぇ。まぁ最後に話題を独占したようですし、本望でしょう」
その某リンゴ酒を製造販売している商会直営店舗の副店長は、茶を啜りながら細い眼を更に細めて感慨薄げにそう呟いたのは、完全にどうでも良いことだろう。
そんなこんなで、経営が軌道に乗って順調に行っていた「オーバン」なのだが、少しずつではあるが売り上げが落ち始めていた。
少しずつ、少しずつ、誰もその変化に気付かないように、仕入れ値が上がって行き、それに伴い純利益が落ち始めたのである。
当時リオノーラは、キッチン業務に集中せざるを得ない状態になっており、仕入れや売上計上に関しては支配人に一任していた。
そう、イーロ・ネヴァライネンに、金銭に関わる全てを一任してしまっていたのである。
本来、従業員に役割を与えるのは、決して悪いことではない。リオノーラはそれを理解していた。
――だが、ただ一人に与えてはならない役割があるということを、彼女は正しく理解していなかったのである。
それの最たる例が、金銭に関わる役割だ。
イーロは元々要領だけは抜群に良く、見るもの見れば小狡いと感じるだろう。
だが実際はそのように見せているだけであり、その性質は傲慢で狡猾であった。
彼がリオノーラに近付いた理由は、当初は失敗が目に見えているレストランを立て直す風を装い、隙を見てされるであろう融資を着服するためであった。
しかし予想外な人物の手助けによってその計画は破綻し、レストラン「オーバン」はイーロの予想を遥かに超える売り上げを叩き出し始めることとなる。
これはイーロにとっては完全に誤算であり、だが嬉しいそれでもあった。
確かに融資の着服は一時的な大金が手に入る。だがそれだけであり、よほど巧く立ち回らなければ捕縛されるという危険も高い。
ならば、リオノーラを信用させて金銭の管理を任せられるようになり、そこから少しずつ自分の利益を増やしていけば良い。
キッチン業務や仕入、売上の計上と、誰よりも忙しく働くリオノーラを慕う従業員は多い。
というか全員がリオノーラを慕っているというかファンになっているというか、サインが欲しいというか一緒に写真を撮って欲しいと思っているというか、ちょっと怒って欲しいというかヒールで踏んで欲しいと思っているというか、キッチンですれ違い様に肩が触れただけで昇天しそうなるというか、肩じゃなくてお尻が当たろうものなら天上へ逝っちゃいそうになるというか、とにかく皆が皆してそう想っていた。
だから、そんな忙しく働き目の下に隈を作って御尊顔を曇らせるなど言語道断だと考えている彼らに、役割分担も必要で、そうすればリオノーラの負担も減ると言って信用させるのは造作もないことであった。
そうして順調に私腹を肥やし続けて三年が過ぎ、とある事件が起きた。
食材の仕入れ先である商会――アップルジャック商会が倒産したのである。
元々三代目は無能で放蕩であると評判であったために予想は出来ていたことではあるが、そこから安価で仕入れていた食材が入らないということは、通常の値で仕入れているという体で差額を着服していたイーロにとって痛手であった。
だがアップルジャック商会の倒産の余波で混乱しているのは好機と見るべきだと、イーロは考える。
何故ならリオノーラのアップルジャック商会に対しての信頼は絶大であり、其処からの仕入れであったのだからこの値で抑えられていたと言訳が効く。
これからは新たな仕入れ先をイーロ自ら開拓し、そしてより思い通りに金の流れを操作出来る。
そう考えていた矢先、元々アップルジャック商会で食材の仕入れをしていた小煩い三人娘がしゃしゃり出て、あっという間に新規の仕入れ先を開拓してしまった。
しかも今回の仕入れ先はアップルジャック商会ではないために、イマイチそれを信用しきれないリオノーラ自らが携わることになったのである。
これは完全に予想外であり、だがそれならば別の方法があるとばかりに、今度は食材の仕入れ先が変わったという理由でメニューの値段を釣り上げた。
元々会計は支配人であるイーロが全てを仕切っており、それぞれのテーブルで支払いを済ませる仕様になっているため、それが判明しづらいのを逆手に取った遣り口である。
更にイーロは、富裕層の客に対してその理由を付けて暴利を貪り始めた。
幾ら仕入れ先が変わったとはいえ、其処まで不自然に値上がりすれば客足が遠のくのは当然であり、そしてそれを不審に思った新生アップルジャック商会の会長で、義理とはいえリオノーラの妹であるシェリー・アップルジャックが、帳簿の一切合切を持って出頭するように命じた。
そしてリオノーラがシェリーの自宅を訪れ、愛想笑いをしながら整理されていない乱雑なそれらをテーブルに置き、JJの頬が若干引き攣ったとき、訪問を告げるノックが三回し、そして――
「え? あ、ちょっとなにするのよ! これはわたしとアップルジャック商会の……問題だから、ええと、ちょおっと口は出さないでくれると嬉しいかなぁセシルん……」
四年振りに逢った、自分の教師であり兄とも呼ぶべき濡烏色の髪と灰色の瞳の色白な美丈夫を目の当たりにして、リオノーラは柳眉をハの字にして、今にも泣きそうに俯いた。
グレンカダム市街と郊外を行き来している二頭立て乗合馬車を運行している御者のドロテオは、昼過ぎからほぼ休まず御者台に座っているためいい加減に疲労困憊であった。
もっとも一番そうなのは馬だろうとツッコミが入りそうなのだが、その馬は昼下がりと夕方には交代しており、休まずにいるのはドロテオだけだったりする。
二頭立ての馬車を操るのは存外技術が必要で、そして神経も使うのだが、それを理解してくれる人は驚くほど少ない。
そのためずっと座って手綱を握っているだけなのに、一体どうして疲れるんだと言われることも屡々あるのが現状だ。
本気で転職しようかな?
そんなことを考えながら、そういえば新生したアップルジャック商会が募集していたな。御者も雇ってくれないかなーとか、わりと本気で考えているドロテオ。だがそんな甘い考えではきっと雇ってくれないだろうとも考え、深い溜息を吐いた。
夕方も過ぎたし既に暗くなっているため、郊外からの客は誰も乗っていない。
これからグレンカダムに到着してからまた夜の便があり、それには郊外に帰宅する酔っ払いが結構多く乗り込むため、それを考えて更に憂鬱になる。
ゆっくり行って焦らしてやろうか。
などと僅かに邪悪な誘惑に駆られるが、それをして絡まれるのも面倒臭い。それよりも早目に市街に到着させて、馬を休ませる方がよほど有意義だし自分もそれなりに休める。
そう考えてドロテオは、手綱を緩めて速く走らせ始めた。派手に揺れるため、客が乗っているときは絶対にしない速度でグレンカダム市街へ向う。
そして市街の灯りが近くなり、やれやれと首を回して筋肉を解し、だが手綱はそのままに馬車を走らせるその後方から、なにかが高速で接近して来るのに気付いた。
急ぎの馬車か?
そう考え、速度はそのまま僅かに車体を道の端へ寄せる。
そして――
「うふふふ、捕まえてごらんなさーい♡」
草原妖精にしては妙に身長が高い、更にやたらとメリハリがありスタイル抜群な女がそう言いながら、軽く結んだ手を左右に振りつつ内股気味にする走法――乙女走りで、だが高速で馬車を追い抜いて行く。
……まぁ、この世界には軽くその程度は出来ちゃうヤツが結構いて、商業ギルドのサブマスターなんかは列車よりも早く走れるから、特に驚くことでもない。乙女走りでそうするというのは聞いたこともないが。
ドロテオはそう自分に言い聞かせ、ドップラー効果を残して駆け抜けて行った今のは見なかったことにしようと――
「待て待てこいつぅ♡」
――したのだが、更に黒髪の妙に色白なヒト種であろう男がそれを追い、何故かスキップのように弾む走法で、またしてもドップラー効果を残して走り去るのを目の当たりにして、
「オレ、疲れてるんだな。うん、きっとそうだ」
そう独白し、労働量が給料に見合わない今の運行業者を退職して新天地への転職を決めたそうである。
物凄くどうでも良いことではあるが。
で、そんなキャッキャウフフな台詞をドップラー効果付きで言いながら駆け抜けて行った二人なのだが、
「……ねぇセシルくん、今のってなにか意味があったの? 言われたからやってみたけど、ラーラちょっと理解出来ないよ」
すん……と素に戻り、追い付いて隣を走るセシルを見上げてラーラが訊いた。若干目が死んでいるのは気のせいだと思いたい。
「あー、いや。男女で走るんならコレだよなーとか思ってキャッキャウフフしてみたんだけど、思いの外どーでも良かった。やっぱりこういうのは夕暮れの海岸でするのが定石かな?」
もしかしたらそんなシチュエーションに憧れでもあったのだろうか。だが実際やってみたら、言った通りどーでも良かったらしく、ちょっとだけ後悔していたりする。
「更に意味が判らないよ。それにこの乙女走り? 凄く走りづらい。あと『捕まえてごらん~』って言ったけど、捕まったらどうなるの?」
「そりゃあまぁ、キャッキャウフフして捕まえたなら、恋人同士がするベッドでの儀式に雪崩れ込むんだよ」
次の瞬間、ラーラの両手のひらが軽く握られ外を向き、意味もなく左右に振られ始め、更に足も内股気味で細かく歩を刻む乙女走りにシフトチェンジされた。
「うふふふ、捕まえてごらんなさーい♡」
「なんでだよ!」
そんな意味なんて一切無い遣り取りをしながら、セシルとラーラは平均時速が10km/h前後の馬車がドップラー効果を体感出来るほどの速度で駆け抜けていた。
いや、今は速度を速めているため、大体の時速は20km/h弱くらいは余裕で出ているであろう。
少なくとも二人は、最低でも100mを八秒以下の時間で駆け抜けたことになるのだ。
それだけでも充分驚異的であるのだが、実は商業ギルドのサブマスターやアップルジャック商会の副店長などは、平均時速80km/hの蒸気機関車を追い越すほどの俊足である。
それに比べたら、たかが100mを八秒台――時速45km/h程度は可愛い方だ。
そんな傍目からは遊んでいるようにしか見えないバカなことを大真面目に繰り広げながら、二人はグレンカダムに到着するなりその城壁を駆け上がり、人の気配がないのを確認して侵入する。
アイザックに見せて貰った地図には、城壁の何処からなら侵入し易いかも描かれていたのだ。
何故そんなところまで調べる必要があるのかは不明であり、別に城攻めをするわけでもないのにと軽ーく突っ込もうかと思ったのだが、やけに彼の笑顔が怖くてちょっと訊くのを躊躇ってそのままになっている。
もしかして、過去にそれをする必要でもあったのだろうか? などと想像し、だが物凄く危険な気がして考えるのを止めたセシルだった。
そんな益体のないことを思い返しているセシルに、
「お待ちしておりました」
いつの間にか目の前に草原妖精の女がおり、流麗にお辞儀をしていた。
気配を察知出来なかった!?
僅かな焦燥と共に身構えるセシルとラーラに、彼女は頭を上げて妖艶に微笑みながら続ける。
「わたくしはリー・イーリー様直属部隊〝ラ・クレム・シトロニエ〟の一人でございます。アイザック様よりお手伝いを申しつかっておりますので、此処からは我らが誘導致します」
微笑みは崩さず、彼女はそう言った。そう、それはとても妖艶で魅力的で、見る者が見たのなら本能のままに襲い掛かってしまうかも知れない。
それほど彼女の微笑みは、強烈だった。
但し、コッテコテの草原妖精で背が低く、体型もどちらかというと幼児のようであるが。
そしてその容姿も、黒髪で細い目であるためその辺で走り回っている子供のようだったりする。
まぁ、とある属性持ちであったのならば飛び付くかも知れないが。
「そうか。ご苦労」
努めて平坦に、セシルは答える。その対応が意外であったのか、彼女は細い目を更に細めてやっぱり妖艶に笑う。
「ふふ。わたくしを見ても劣情に駆られないとは、なかなかやりますね」
いや一体なにをどう思ったらお前をそんな対象に見られるんだよ。
物凄く得意げに、黒髪をサラリと撫でてそんなことを言う彼女に、心中でツッコミを入れる。
客観的に見れば、子供が背伸びしてそんなマセたことを言っている風にしか見えないし。
そんなツッコミをされているとは露知らず、彼女は「美しいのは罪ね」とか黙られている理由を明後日どころか明明後日くらいの方向で理解しているようである。
「わたくしの美しさに心奪われているところ悪いのだけれど――」
違うそうじゃない。
「地図のこのルートで行くのが最短よ。途中にもわたくしと同じ〝ラ・クレム・シトロニエ〟の隊員がいるから安心なさい。ふふ、それとも美しいわたくしに付いて来て欲しいのかしら? 言葉を失っちゃって、可愛いわね」
黙っている理由はそれじゃない。
「でも残念。わたくし、お子様には興味が無いの。わたくしに相手して欲しかったら、あと十年は男を磨いて来なさいな」
いやそれより、誘ったり告白したりしていないしする気も無いのに、なんで振られたみたいな扱いになってるんだ?
あと何処から来るんだその謎の自信? これがラーラみたいにボンキュボンな草原妖精なら理解出来るが、凹凸の乏しいコッテコテなそれに言われたって誰得だよ!
「解せぬ」
薄っぺらい胸部装甲から地図を取り出して道筋をなぞり、そして自身の容姿に恍惚とする彼女を半眼で見詰めて独白する。だがそれを突っ込んだとしても、きっと暖簾に腕押しだろう。
しかし、それよりなにより――
「なぁ、なんでそんな部隊員なのにメイド服なんだ?」
そう、彼女は何処から見てもメイドだった。しかもミニスカなメイドなどではなく、きちんとしたそれなのである。
「……なにを言っているのですか?」
言われて、彼女の動きが数瞬止まる。
そしてグリンと首が動き、細い筈のその双眸が大きく見開かれ、ハイライトが消えた全てを飲み込みそうな漆黒の瞳が真っ直ぐにセシルへ向けられた。
「メイド服は淑女の戦闘服なんですよ、判っていますか? 判っていませんよね? だからそんな無神経且つ意味不明なことが言えるのですよね。そう淑女の象徴といえばメイド服なのです。バニーとかスリットドレスとかゴシックロリータとかカフェユニフォームとかがイイとか戯けたことを言う無知蒙昧な奴もいますが、誰がなんと言おうとそれだけは絶対に譲れません。まぁ中にはミニスカメイドで絶対領域がイイとかワケの判らないコトをほざき下さりやがるクズもいますが、それはテメーの欲望だろうがナニ口走ってんだ××××潰して死なすぞ不能野郎が! 至高のメイド服を改造するなど言語道断! 長いスカートをたくし上げるから興奮するのであって、最初からフトモモ見えているのなど有り得ない! それはただの露出狂だろうが! メイド舐めんな――」
なにやら勝手に誰へともなく白熱し始める草原妖精をそのままに、その彼女が持っていた地図に目を通す。
その道筋は、路地裏や下水溝内だったり、石造の集合住宅外壁の垂直登攀だったり、カチャカチャ煩い瓦屋根だったり、高低差が5メートルだったりとなかなかにパルクールなものであった。
「ふん、もっとも貴方達みたいなヒト種や半端な草原妖精じゃあまともに通れないでしょうね。良いですわよ、我らが〝ラ・クレム・シトロニエ〟に泣きついて協力を乞うのも一つの手段で――」
「んじゃ行こうかラーラ」
「はい、ラーラです。余っ裕ぅです」
「――しょうけどうぇええええええぇぇぇ!?」
黒髪をサラリと撫でてそんなことを言い出す草原妖精メイドを他所に、まるで平地でも歩くかのようにひょいひょいと、更に音もなく流れるように走り出すセシルとラーラ。
そんな二人の技量に、思わずおかしな声を上げる草原妖精メイド。だがその感嘆(?)は、既に彼方へと至っている二人には届かない。例え届いていたとしても、相手を見下すヤツなど気にも止めずに流すだけだが。
そして地図にある道筋通りに進んでいると、要所で〝ラ・クレム・シトロニエ〟の隊員らしき草原妖精が二人を待ち構えて誘導してくれる。
それはとても有難い。
なのだが――
「なぁラーラ」
「はい、ラーラです。どしたのセシルくん」
「ちょっと気になったんだが、草原妖精って、みんな同じ顔してるのか? あいつら服装以外は全部一緒なんだけど」
「ラーラは半分ヒト種だから良く判らないけど、同じじゃないと思うよ」
「そうかぁ。あいつらがおかしいだけなのかな? あと、なんで最初のと同じくメイド服で統一じゃないんだろうな」
「それはラーラ知らない。仕事の都合なのかな? あとは、ただの趣味」
「流石に趣味はないだろうけど……」
そう、誘導してくれる草原妖精達は、一様に同じ容貌をしていた。だがその服装は、スリットドレスだったりゴスロリだったり十二単だったりボンテージだったりしていたのである。
そう。明らかに、隠密行動には不向きな装いであった。
……………………。
「……うん、深く考えるのは止めよう」
早々にセシルは思考を放棄し、二人はイーロ・ネヴァライネンの邸宅へと走って行った。
イーロ・ネヴァライネンは焦燥していた。
彼はいつも「オーバン」閉店後に帳簿を付け、そして収入と支出を出してから帰宅するのが日課となっている。
そう――帳簿に記入すべき金額と収益が同じになるように。
だが今日は、それが出来なかった。
オーナーシェフであるリオノーラが早々に、本日の売上伝表と収支決算表を回収して事務室に引っ込み、出掛けてしまったのである。
まぁ此処数年のそれを付けていたのは自分であり、一度くらい見たところでそれが判る筈がない。
もっとも商業ギルドのサブマスター、デリック・オルコックだったらそれだけで判ってしまうだろうが、それだけ優秀な王定一級会計士などそうそういない。
後日また帳簿合わせをすれば良い。イーロは気を取り直してそう考え、行きつけの綺麗どころのおねぃさんが揃っているバーで豪遊し、良い気分で夜半過ぎに帰宅の途に着いた。
もっとも豪遊といっても、行方を晦ませたリンゴ酒を販売していた商会の三代目のように、分別を無くするくらい酩酊したりしない。
彼は計算高く、綿密に謀略を張り巡らすのを信条としていると自称しているのだ。
そういえば、そろそろ納税申告用に取っておいた正規の給与明細と実際に貰っている給与の明細を処分しなければならない。
証拠がなくなってしまえば、手出しなど出来なくなるのだから。
黒い笑みを浮かべながら、イーロは帰宅する。
そして運河沿いの高級住宅街にある自宅についたとき、その前にスーツ姿の六人の男女がいるのが目に付いた。
彼らはイーロを認めると、露骨に安堵の溜息を吐いて近付いて来る。
その様が異様であり、そして直感として悪い予感がしたため、彼は素知らぬ顔で踵を返した。
「あー、逃げちゃダメですよー」
だが向きを変えたその正面に、満面の笑みを浮かべた肉感的で野生的な女が、いつの間にか回り込んでいた。
「ダメっスよー。へスターっちの神速移動は、転移かよ! ってツッコミが入るくらいなんスから、逃げられないっスよー」
そう言いながら、表皮がやけにツヤツヤしている男――淡水の魚人が警棒を手の中で回しながら半眼で言う。
「ケネスの電撃棒も大概だけどな」
そしてその後ろで、ヒト種の男が呆れたように溜息を吐いていた。
「それよりへスターになにかあったら、ユーインさんが激怒するだろうが」
更にもう一人の、表皮に鱗が僅かに浮いている、同じく魚人だが鹹水魚の男が、ノコギリのような歯を剥いてそんなことを言っている。
ちなみに鹹水の魚人の容姿も、魚要素は一切ない。そして彼は塩味が苦手で、出汁を大切にする料理男子だったりする。
「ズルイですへスターばかり! いつになったら私も貰ってくれるんですか!?」
そんな中、もう一人いる岩妖精の女が、持っているやたらと太い3メートルはある鋼鉄の棒をミシミシ軋ませて、だが可愛らしく頬を膨らませてプリプリ怒っていた。
「どうでも良いけど小さいし年寄りで食い出が無さそうです」
そしてへスターは、今日も平常運転である。
「いやオネルヴァを貰う予定はないからな? やっとのことで妹にへスターを認めて貰えたのに、これ以上増えたらマジで殺される」
「いつも死んじゃうーってくらいされてるのはあたしの方でしゅ(ガチン)。きゃ!(ぽ♡)」
「くぅ、羨ま妬ましい! ユーインさん、この私オネルヴァも内緒の愛人で良いので『死んじゃうー』ってして下さい! 大丈夫です、責任取れって自宅に突撃しませんから!」
「絶対ぇウソだ! 本当にそう思ってんなら、そもそもその発想は出て来ないだろうが!」
女子の部下二人にそんな風に好意を寄せられているユーインを、その他の男子三人は、
「……美人で森妖精な義理の妹と物理的比喩的に肉食系ワイルド美人な獣人族部下の二人相手に、連日寝不足だってほざきやがるリア充の上司ってどう思うっスか?」
「死ねば良い」
「殺すべき」
「まったくその通りっスよね」
そんなことを言いながら、それぞれ持っている電撃棒だったり棘付きナックルダスターだったり二刀トレンチナイフだったりを構えている。
無論冗談で、そんなリア充上司を本気で害そうなどとは考えている筈は、勿論ない――
「殺っちまうか」
「死体はディーンストン山脈に捨てれば魔獣が処理してくれるな」
「そのままだと運ぶのが大変っスから、取り敢えず二十分割くらいにすれば良いっスね」
――と思う。多分。
そんな冗談か本気か判断出来ない殺人予告をしている部下に若干引きつつ、だがそんなことは聞かなかったとばかりに、ユーインはイーロの前に出る。
「イーロ・ネヴァライネン氏ですね。我らは商業ギルドの監査特務隊です。貴方がレストラン『オーバン』で、開店から三年に渡り売上金を横領していると善意の第三者からの垂れ込――情報がありました。よってこれから貴邸宅の強制捜査をさせて頂きます。あ、これ審判省の捜査令状ね」
貼り付けたような笑顔をそのままに、捜査礼状を広げて掲げて見せるユーイン。そしてそれは、イーロにとってまさしく寝耳に水であった。
だがそれより、何故自分がそれをしていると判断出来たのかが疑問だ。帳簿に偽りなど残していないし、終始決算にもそんな証拠はない筈なのに。
「待って下さい、そんなことを言われてもなんのことだか――」
よって、そんな証拠などないと確信しているイーロは、そうするのが当然であるかのように身の潔白を訴えようとする。
だがそうなるのは織り込み済みなユーインは、頷きながらその訴えを途中まで聞き、
「あー、イーロ氏。貴方の残した帳簿は――」
「お前の残した帳簿には、確かにそんな証拠はなかったっスね」
「――て、おいケネス」
先回りされて言おうとする台詞を部下に取られた。
「ま、大概は騙せるんだろうけどな」
「――待てウッツ」
更に続けてヒト種の部下が、トレンチナイフを器用に回して続ける。
「だがなぁ、帳簿ってのは一方だけにあるんじゃねぇんだよ。取引相手だってちゃあんと付けてるんだよ」
「――デメトリオ、お前もか……」
そして両手に填めた棘付ナックルダスターを合わせて打ち鳴らし、鹹水の魚人が、鋭い歯を剥き出して言う。
「食材の仕入れ先の帳簿も確認したところ、取引価格に明らかな差異がありました」
「え……待ってオネルヴァまで俺の台詞取っちゃうわけ?」
ドズウウゥゥン……と地響きを立てて鋼鉄の棒を石畳に下ろし、ふんぞり返って得意げに岩妖精の女が続けた。岩妖精だけに小柄で筋肉質だが、その締まった肢体は無駄がない。性格は若干「アレ」だが。
そして――
「どうでも良いけど小さいし年寄りで食い出が無さそうです」
白虎の獣人族のへスターが、そう締める。
・・・・・・。
「いや待てへスター! そこはキメ台詞で〆るところだろ!? なんでそっち行っちゃうかな! あとコトある毎に相手を食料として評価しちゃいけません!」
「わたしとしてはケネスさんとデメトリオさんの評価が鰻の鯉幟です」
「え? なに? オレもしかしてへスターに狙われてるんスか? 比喩的に喰われるとか男として大変光栄な意味じゃなくて食料的な意味で! 確かにオレってばギュムノートゥスの魚人だけど!」
「ちょい待て俺を狙うなよ! 確かに珍しいし目出度いドラード・ルージュの魚人だし、喰ったら旨そうだというのは認めるが、そもそも食用魚としてのソレとは別種だからな!」
実はへスターに獲物として狙われている事実が判明し、慌てふためく魚人二名。そしてそのヘスターは、リアクションなど一切無く無言で見詰めるだけだった。
「ん、んん。とにかく、そんなワケだから、今から家宅捜索を開始する。言っておくが抵抗しても無駄だぞ。司法として正当な処置だからな」
咳払いを一つ。後ろで「何事もなかったかのように進めるな!」とか「大惨事じゃねーっスか!」とか言っているような気がするが、話が進まないためとりあえず無視してイーロを促す。
彼は観念したかのように項垂れて、ユーイン達を伴って邸宅へと入って行った。
(余計な抵抗はしないみたいだな)
鋼鉄の棒を持ったまま入ろうとし、当り前だが痞えて入れないと半泣きになっているオネルヴァへ氷点下の一瞥を与え、前回の反省から油断なくイーロを窺うユーイン。もう〝機関砲〟みたいに物騒なモノを相手取るのは御免だ。
取り敢えず部下四名に家宅捜索を命じ、ユーインは引き続きイーロを監視する。残り一名は、外でぶっとい棒を片手に入れないと悶えていた。
そうして捜索が開始されたとき、イーロはキッチンでなにやらやたらと豊富な調味料を弄っていた。
(気にし過ぎか)
少なくとも調味料でなにかが出来るとは、ユーインは考えられないから。
このとき、彼は判っていなかった。
調味料には、獣人を一瞬で戦闘不能にするものや、魚人を衰弱させるものがあることを。
監視しているのが料理男子のデメトリオであったのなら、もしかしたら気付いていたのかも知れない。
だが、いかんせんユーインは料理をするという発想自体が出てこない、一人暮らしをしたら遠くない未来に破綻するであろうなにも出来ない野郎であった。
「あ、あの、済みません。ちょっと皆さんにお話しがあるのですが……」
そしてイーロは、袋と瓶を持ってユーインに話し掛ける。
観念したと思い込んでいるユーインは、イーロのやけに殊勝な態度に疑問を持たず、捜査中の四人を招集する。
残りに一名は、どうすれば入れるのかやっと気付き、だが今度はその超重量な鋼鉄の棒をどうしようかと小脇に抱えてウロウロし始めていた。
それを尻目に、上司に呼ばれて集合する三名。その場にいない一名――ヒト種のウッツは、現在邸宅の奥で丁寧に捜査中で戻らない。
そんな集まりが悪い監査特務隊の面々に小さく舌打ちをし、だがそれはある意味で好都合だとイーロは切り替えた。
「あの、これなんですが……」
言いながら、袋の口を開いて差し出すイーロ。当然四人は、それを覗き込む。
中には白い結晶の粉末と、同じく黒い粉末が混合されたものが入っており、そしてそれを見た瞬間――料理男子のデメトリオがへスターとケネスの襟首を掴んで後退する。
だがそれは、明らかに遅過ぎた。
「〝微風〟」
顔を歪めて嗤うイーロが呟き、それによって発生した風が袋の中身を巻き上げ四人を包む。
まず最初にそれに反応したのは、獣人族のへスター。
彼女は巻き上げられたそれを真面に吸い込んでしまい、悲鳴を上げてのたうち回る。
次いでほぼ同時にそれを浴びたケネスとデメトリオの魚人コンビが、表皮から水分を奪うそれにより全身の掻痒感に襲われた。
最も近くにいたユーインも、それを吸い込んでしまって激しくクシャミをしながら蹲る。
その様を悠然と見下ろし、瓶の中身をへスターへと更にぶち撒けた。それを鼻先に浴びたヘスターは、頭を抱えて転げ回る。
「穏便にしていようと思ったが、もうここまでだな。仕方ない、思った以上に早かったが、帝国へ亡命するか……」
転げ回るへスターを蹴り、イーロはリビングのカーペットを剥がし、そこにある地下室への扉を開けて降りて行き、そしてそのまま施錠した。
「……あの野、郎……余計な真似、しやがっ、て……〝四重詠唱〟」
止まらないクシャミに涙目になり、だがユーインはなんとか魔法を紡ぐ。
「四連〝水球〟」
人が丸ごと浸かれるくらいの巨大な水の球体を四つ出し、それぞれ頭から被って浴びてしまった粉末と液体――塩コショウとワインビネガーを洗い流した。
その騒動を聞き付け、奥へ行っていたウッツが駆け付け惨状に唖然とする。そして玄関先にいるオネルヴァは、鋼鉄の棒を持って邸宅の壁やら柱やらを薙ぎ倒して入って来た。大惨事である。
「うーわ、酷ぇ目に遭った。つーかユーインさん油断し過ぎだよまったく!」
手足や頭を振って水を払い、ついでに首元にある鰓をパタパタさせてデメトリオが恨めしそうにユーインをジト目で睨む。
両手にナックルダスターを填めているスーツ姿の魚人の男のジト目なんて需要あるのか? などと惚けたことを考えるユーインだが、確かにちょっと油断していたのは事実であるため反論出来ない。
「そもそも、塩コショウとかの調味料だって立派な対人兵器に成り得るんだからな! なんで判んねぇんだ!? あークソ開かねぇ! 鍵掛けやがったなこん畜生!」
文句を言いながら地下室を開けようとし、だが開かずに悪態を吐くデメトリオ。
そんな彼の言葉に、ユーインはキョトン顔で首を傾げるだけであった。
「なに言ってんだデメトリオ。料理人でもないなら男は料理なんてしないし、そんなことなんて知るわけないだろう」
「は?」
そんなユーインの言葉に、その場にいる男衆がフリーズする。
ちなみにオネルヴァは棒が痞えてしまい、もがいて破壊活動の真っ最中。ヘスターは転げ回ったせいかそこらじゅう擦り傷だらけになっていた。
「まさかと思うが、ユーインさんは家事とか炊事とかやらねーのか?」
「『まさか』の意味が判らんが。何故に男の俺がそんなことをしなきゃならんのだ? それは女の仕事だろう。デメトリオも早く家事をする女を見つけて仕事に集中するんだな。じゃないと一人前の男にはなれないぞ」
『えー……』
ユーインの亭主関白宣言に、いまどき有り得ないとばかりに全力でドン引く三人の男衆。そしてヘスターも、自身の耳を疑ってフリーズしていた。
「そもそも男は外に出て働いて稼ぐものだ。それを支えるのが女の役割だろう。お前こそなに言ってんだ?」
重ねてそんなことを言い始めるユーインを、今度は汚物を見るような視線を男衆が向ける。
「現在の常識だと、夫婦共働きで家事も協力し合うんだが、まさかと思うがアンタ、籍入れたら女は仕事を辞めて家と家庭を守るのが当り前って言うヤツか?」
泣きそうになっているへスターの頭を撫でながら、ウッツが半眼で訊く。すると心の底から不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げるユーイン。
「そんなの当り前だろう。常識だよ常識。共働きとか家事分担とか有り得ない。それよりウッツよ、なんで馴れ馴れしくへスターを撫でてんだ?」
「恋人の本性を知って悲しくなってる同僚を慰めてんだよ。もう良い喋るなクズ野郎」
え? なんで? ヘスターは俺のだよ? とか呟きながら困惑しているユーインを今度は完全に無視して、
「オラァ!」
デメトリオが地下室を塞いでいる扉を殴ってブチ破る。
「おま……なにやってんだよ。俺らが壊したりしたら拙いだろうが」
強制捜査はあくまで捜査であり、基本的に建物や家具を壊してはならないことになっている。だが中には塗壁に帳簿や印鑑を隠している場合もあるため、そういうときは例外であるが。
「煩ぇよクズ野郎が。オネルヴァがもう壊しまくってんだから今更だろうがよ。あと、気安く話し掛けんなクズが感染る」
言い捨て、地下室へと身を躍らせるデメトリオ。礼儀正しい筈の部下からそんな罵詈雑言を浴びせられて閉口するユーインだが、すぐに我に返る。
「は? お前、上司に向かってなんて口の利き方……」
だが更に、人懐っこく温厚な筈のケネスが地下室へと歩を進めつつ、
「腐れ上司に口の利き方云々言われたくねーっスね。甲斐性あるなぁとか思ってたんっスけど、なんのことはない考え無しなクズだったんっスね」
侮蔑全開に吐き捨て、更にオネルヴァが絶対零度の視線を向け、
「ユーインさんって、女を自分の付属品程度にしか見てなかったんですね。良ーく判りました。へスターには悪いんですが、私は貴方のようなクズに純潔を散らされなくて心底良かったと、今現在進行形で痛感しています」
どうやら百年の恋が冷めたらしい。
だがそんな訴えなど、数百年に渡ってそれが当然だと信じて疑わないユーインには届かない。
泣き噦り、遂にはウッツの胸に顔を押し付けているへスターを信じられないとばかりに睨み付ける。
「……ごめんなさいウッツ。ありがとう。今仕事中だもんね、こんなことしてられない」
目を泣き腫らし、鼻を啜りながらヘスターが立ち上がる。
そしてユーインを視界に入れずに地下室へと降りて行こうとするのだが、それより早く多重障壁を展開したデメトリオが、床板をブチ破って吹き飛ばされ、そのまま天井にぶつかった――
何事かと言葉を失う一同の眼前で、デメトリオはぶつかった天井から床へと落ちる。
そして続けて、やはり多重障壁を展開しているケネスが地下室の入口から同様に吹き飛んで天井に叩き付けられた。
更にそれを追うようにして、四肢や頭、そして体幹に薄い外骨格のような部品を装着しているイーロがリビングに一跳びで現れ、地下室の入り口の傍に立つ。
「あー鬱陶しい。あー鬱陶しい。まさか使うまいと思っていた〝魔導鎧〟を使うハメになるなんて。もういい、こいつら血祭りにして帝国へ行こう」
半眼でそう言い、今まさに地下へ降りようとして傍にいるへスターへと、拳を覆っている外骨格鎧で横薙ぎに殴る。
へスターの全身の白い毛が逆立ち、頭に耳が、尾骶に尾が現れた。
横薙ぎに繰り出されたその拳を両手で受け止め、だが勢いを受け切れずに壁へと吹き飛ばされる。
しかしそれで打ち付けられることなどなく、飛ばされてなお壁に着地しそのまま外骨格鎧を纏ったイーロを、
「乙女の純情を弄びやがって! 何様だクソがー!!」
叫びながら殴り付けた。
そんなへスターを目の当たりにした男衆三人はそっと目を逸らして涙を拭い、オネルヴァは謎に拳を振り上げている。
だがへスターが何故そうしたのか、諸悪の根源である当(ユ》|の本人は気付いていなく、更に当然身に覚えのないイーロは困惑しまくっていた。
「なにが『お前みたいな情熱的な女は初めてだ』だコンチクショー!」
着地と共に床を蹴り、回転しながら真横に跳んで蹴りを放つ。履いている革靴が破れ、鋭い爪が伸びている素足が覗いていた。
「単に言い寄って来た女が都合が良いからってヤりたかっただけなんじゃねぇかこのクズが!」
その鋭い爪を床に突き立て、両の掌底に魔力を込めて滅多打ちにする。だがイーロの纏う外骨格鎧は魔法障壁を展開しており、その魔力を悉く弾いてしまっていた。
「確かにわたしは未経験じゃなかったけど、それだって好きにして良いってわけじゃないんだ! この――」
足を踏み出し床に叩きつけ、魔力を消して全身を捻り、それによって生じた力を収束して拳に込め、
「腐れヤリ◯ン野郎がぁ!!」
一気に叩き付ける。その拳速は音を超え衝撃波を伴って外骨格鎧に直撃し、それを覆っている魔法障壁を根刮ぎ弾き飛ばした。
そんな想定の埒外の攻撃に面喰らうイーロ。だがそれよりも、一切身に覚えのないことを言われながら攻撃されて、そっちの方で困惑してしまう。
それはともかく、砕かれた魔法障壁を即座に再展開し、直後の残心で動けないへスターへと腕を振り上げ叩き下ろす。それは頭に直撃し、その衝撃でヘスターは膝を折った。だがそれで終わりではなく、続いて繰り出された蹴りをも真面に喰らい、ユーインの傍の壁に叩き付けられてしまう。
「へスター!」
壁に叩き付けられ、そのまま床に落ちるへスターを抱き起こそうとするユーイン。
その行動は上司として、そして恋人として当然なのだが――だがそうされそうになっているへスターは、朦朧としていてそんな判断は難しいはずなのに一瞬でその場を離れてウッツの隣へ移動する。しかもユーインが視界に入らないようにウッツの陰になる徹底ぶり。本気で愛想を尽かしたようだ。
「大丈夫かへスター」
二刀トレンチナイフを構え、自分に凭れるへスターを庇うように移動するウッツ。誰から庇っているのかは、敢えて伏せておく。
「大、丈夫……あれ滅茶苦茶硬いにゃー……でもウッツが守ってくれるにょ、久し振りだにゃあ……」
「そりゃあ今じゃお前の方が強いからな。本来俺は事務職なんだよ」
「……そんなのどうでも良いにゃ。……ウッツがしっかり捕まえてくれてたら……ううん、これ八つ当たりにゃ……ごめん、忘れて――」
「いつでも守ってやるよ。ま、物理的には守って貰う方だがな」
「ウッツ……ありがとにゃ……」
戦闘中で枷が外れているためか朦朧としているためか、ヘスターの語尾がおかしくなっているがそれは流し、だがそれより、そんなことより、どうしたことかピンクの雰囲気を醸し出し始めている二人に、敵味方問わず困惑する一同。
一体どうしてこうなった。
戦闘中にも拘らずイチャつくウッツとへスター。絶賛困惑継続中な一同の中で、そういえばとケネスが口を切る。
「そういや二人は幼馴染で、ジュニアハイからハイスクールまで交際していたって噂が……」
なんとなく呟いたつもりだったのだが、静まったその場では思いの外その声は響いてしまい、一同洩れなく二人を凝視する。
特にデメトリオとオネルヴァの眼力と眼光は凄まじく、呪殺されるのではないかと背筋が凍る二人であった。
「にゃに言ってんだケネス! 今それどころじゃにゃいだろうが! それに学生にょ頃にょ話しだ!」
平静を装ってはいるものの何故か顔を真っ赤にし、更にどういうわけか色々噛んじゃうウッツ。
「そ、そうにゃのにゃ……学生にょ頃にょ話しにゃにょ。あにょ頃はお金もにゃいからあまり出掛けられにゃかったし、ウッツも性欲大魔神だったから暇さえあれば一日中してたにゃ……」
「へスター?」
顔を真っ赤にしてにゃーにゃーと爆弾を投下させ、油を注いで大炎上させるへスター。そんな様を目の当たりにし、ケネスとデメトリオの独身魚人コンビは血涙を流さんばかりに歯噛みする。
「寂しい独身仲間だと思ったら、過去とはいえリア充だったっスか! こちとら未だ清い身体の童な帝王なのに!」
「有り得ねぇ! こん裏切りモンがぁ! シレっと清い身体同盟に近付いてんじゃねぇ羨ましいだろうがチクショー! こうなるんなら新人時代に俺をじっと見詰めてたへスターを迷わず誘っとけば良かったー!」
「いや待つっスよデメトリオ! それ絶対喰われるっスよ! 食事的な意味で!!」
「……なんなんだお前ら」
錯乱している魚人コンビへ、完全に蚊帳の外になっているイーロが呟いた。
「交際しているとかいないとか、男だとか女だとか、実に下らん連中だ」
外骨格鎧に組み込まれている膂力強化補助機構へと、その胸部に組み込まれている魔石から魔力を注ぎ込む。
それは、厳しい研鑽と努力の果てに、更に選ばれた者しか為し得ない極致へと凡人を導く強化魔法であり、自動的に展開される防御魔法障壁と併用することにより攻防一体となる究極の強化鎧。
「女などに現を抜かすからそうなる。それに比べて男は裏切ることなどない! 裏切らないのだ、漢女ならな!」
・・・・・・。
その容量度外視で湧き出す魔力に、イチャコラな二人も激昂している三人も我に返って身構える。
色々魔力に慣れているユーインは、へスターの変貌ぶりに未だ戸惑っていたが。
――イーロの相当問題がある発言は、取り敢えず全霊で聞かなかったことにしようと……
「なんだ? 何故誰も同意しない!?」
……断固として自身に誓う、いたって正常な男衆と腐っていない正常な女子二名であった。ちなみに同意をする筈がない――
そもそも何故あのような規格外の物がこんなところにあるのか。イーロが纏っている外骨格鎧を凝視する一同。あんな兵器は、このグレンカダムはおろかストラスアイラ王国にも存在しない筈だし、当り前だが一般人が手に入れられる限度を超えている。
可能性があるとすれば――
「なぁ、あいつさっき『帝国に亡命』とか言っていなかったか? つーかウッツ、お前ぇ後で殴る」
ナックルダスターを填めた手を振りながら、デメトリオがウッツとへスターの傍へ寄る。
「ああ、言ってたっスね。もしかして前と同じくアレも帝国製っスかね。それからウッツ、後で電撃刑っスよ」
そしてケネスも同じように傍に寄りながら、なにに使うのか帯電している警棒を油断なく構えた。
「そうかもですね。アレを作るだけの技術力は、残念ながら現在の王国にはありません。ま、王国は魔法技術先進国だから必要ないって理由もありますが――」
鋼鉄の棒で家屋破壊を絶賛継続中のオネルヴァも、皆の傍に来る。五人してユーインをガン無視である。
それはともかく、オネルヴァは「岩妖精達の噂だけど」と前置きして続けた。
「さっきイーロ氏が言っていたんですけど、あの鎧は〝魔導鎧〟っていうそうですね。噂は聞いたことがありますよ。帝国で対魔法兵器として開発されているものの一つだそうです」
「え? ちょっと待て。もしかしてアレって以前の脂肪ダルマのときにブッパされてた〝機関砲〟と同じモノ?」
「だと思います。帝国はここ十余年ほどキナ臭いですし。それに九年前のタムドゥー渓谷橋崩落事故は、帝国主導のテロ行為だって噂もあるくらいです。あとウッツん、私は殴ったりしませんけど、ちゃんと傷心のへスターを幸せにして下さいね。間違っても早速摘み食いしないことです」
「え? 摘み食いしちゃだめにゃの?」
「へスターさん?」
オネルヴァに、認めたくないが思わず確認してしまうウッツ。そして彼女はそんな説明をしつつ、ゆっくりと頷いた。
あとあんまり関係ないが、へスターがガッツリ両方の意味で肉食系だと再確認したオネルヴァだった。学生の頃のウッツが云々と言っていたが、案外それは逆かも知れない。
それはそれとして。
オネルヴァのやたらと不穏な情報を聞き、五人は互いに顔を見合わせる。敢えて口には出さないが、どうやら考えていることは同じであるようだ。
「オレ、帰ろうと思うんっスけどどうっスか?」
「賛成」
「意義なし」
「全力で帰りましょう」
「わたしはこのあとにゃにか食べに行きたいです」
そんな五人全員の意見が綺麗に合致し、互いに頷き合う。
そして――
「おい待て! 敵前逃亡は――」
「オネルヴァ、フルスウィング!」
「アイアイ、ウッツん。ボーラ・ヴィーア!」
「へべ!?」
「おおおおおおわああああぁぁ!」
オネルヴァの全身の筋肉が唸りを上げ、全長3メートルの鋼鉄の棒が邸宅をモノともせずに横薙ぎに振り切られる。
そういえば述べていなかったが、オネルヴァが持っているそれは、全長だけではなく太さも結構あったりする。大体直径20センチメートルくらい。
そして持ち手が片側にあるため様々な長さで使える優れ物である。更に司令言語でサイズも変更出来る、実は岩妖精秘蔵の逸品だった。
だが使用者である当のオネルヴァは、そんな秀逸な性能を慌てふためいてよく忘れるという、まさしく宝の持ち腐れであったりする。
そんなガチムチ岩妖精のオネルヴァが繰り出すフルスウィングを避けるべく他の四人は一斉に伏せ、だがそうされるとは思いも寄らないユーインとイーロはそれの直撃を受けて邸宅外へと放り出された。
ちなみに、最初の方がユーインの断末魔(?)である。
「じゃああとよろしくっス、クズさん。さてウッツよ、飯行くっスよ。ちょおっとOHANASHIしようか?」
「今日なんもしてねぇんだから働けやクソが。調味料すら知らねぇとか、ないわー。よしケネス、俺も混ぜろ。つーかへスターも来いよ?」
「ヘスター泣かせやがってこんクズが! 手前ぇの部下なんざこっちから願い下げだ! とっとくたばれ腐れサゲ◯ン野郎! え? お前らと飯? 普通に嫌だぞ。これからへスターと飯喰って帰るんだからよ」
「なんだか今日のウッツん素敵です(ぽ♡)」
「流石はわたしの幼馴染でしゅ(ガチン)」
石畳に勢い良く転がるユーインとイーロを尻目に、そそくさと去って行く部下五名。それを呆然と眺め、そして我に返る。
「おいちょっと待て! 仕事放棄する気か!? そんなことしてただで済むと思っているのか!」
飛び出す言葉が小物臭い。それに放棄もなにも、自分の手に負えない案件と判断したのなら撤退しても問題ないと、商業ギルドのマスターであるグランヴェル氏が言っている。命あっての物種だから。
だがそれは平のギルド職員に限ることであり、一定以上の実力があると判断された役職員は、その限りではない。
つまり、部下五名は撤退しても許されるが、役職員であるユーインは余程のがない限りそれは叶わないのだ。
「くっそー、あっさり逃げやがって! あいつら覚えとけよ!」
悪態を吐き、石畳に転がっていたイーロがガチョンガチョンと奇妙な音を立てて起き上がるのを正面から睨む。
そのまだ体勢が整っていないイーロ目掛け、
「面倒だから一発で決めてやる! 死んでも文句言うなよ!」
全身から魔力を迸らせ、魔法を紡ぐ。
「〝大海嘯!〟」
ユーインの魔法が完成し、途端に運河の水が溢れ出して直立する。それが一気に質量を増し、やがて分厚い壁となってイーロへ倒れて行った。
〝大海嘯〟
それは大規模破壊魔法であり、大量の水と水圧で全てを洗いざらい押し流す、戦場では非常に有効な魔法である。
だが、ここは住宅街。
そんな場所でこんな魔法を使った日には、惨事を通り越して災害である。
頭に血が昇って「つい!」使ってしまったが、流石にこれは拙い。
我に返って慌てて詠唱破棄しようとするが、焦っているためそれすら巧く行かない。
そしてそうやって血の気が引いているユーインを他所に、イーロは慌てず〝魔導鎧〟を稼働させた。
「〝魔法消滅結界〟」
イーロを中心として円形の結界が発生する。それはブレアアソール帝国が開発した、魔法に対する絶対的な防御結界。
勿論前回の〝機関砲〟にも組み込まれていた機構であり、帝国製の兵器に痛い目に遭っているのならば、同じ機能があると容易に予測出来るだろう。
つまり、気合を入れてせっかく使った大規模破壊魔法は一切意味を成さず、そればかりか災害を起こすだけであった。
(やべー、これ始末書じゃ絶対済まない)
独白するユーインの脳裏に、瞬時に「降格」「左遷」「懲戒処分」の文字が浮かぶ。
そんなことを連想する前に、まず詠唱破棄をするべきであるのだが、テンパっている彼はそれすら出来ない。それに、始末書を書くハメになるとかを心配している時点で既に見当違いである。
色々と別方向で覚悟を決めたユーインの耳に、
「セシルくん、こんなところで〝大海嘯〟使ってる人がいるよ」
「は? 莫迦じゃねーの。災害起こす気か? どんなテロリストだよ」
「面倒ねぇ、まったく……」
そんなのんびりした会話が聞こえ、そして――
「〝 強制詠唱破棄〟」
やけに気怠げな女の声と共に、ユーインが放った〝大海嘯〟が一瞬で消滅した。
商業ギルドの監査特務隊が、イーロ・ネヴァライネン邸へと強制捜査に踏み入った時刻より二時間ほど前のこと――
「ねぇセシル。リオノーラのトコのなんとかっていう支配人の家に行って来たみたいだけど、そのラーラ用の色々を買って来る必要はあったの?」
ニコニコで買って貰ったその色々を、皆がいるリビングで早速広げているラーラを眺めながら、それに対して特に怒っているわけでもなく、ただなんとなく訊きたかっただけのクローディアがそう切り出し、だがそれをどう感じたのか、シェリーを始めとするアップルジャック商会の面々が向ける氷点下な視線が突き刺さり、こちらも特になにも考えていなかったセシルは、何故にそんな目で見られなければならないのだろうと怪訝な表情を浮かべた。
「恋人がいるのにそれに断りも入れないで、他の女に色々買ってあげるなんて。一体どういうつもりなのかしら、このハーレム野郎は」
マーチェレス農場謹製、セシルお勧めなブルーベリーのフレーバード・ティーを傾けながら、頬杖を突いて白けたように独白するシェリー。
まぁその独白は、無論ワザとだが結構な音量があり、その場にいる皆に丸聞こえであったが。
「そうね。まだラーラとはそういう関係じゃないでしょうから、一言デシーに断りを入れるべきだったわね。案外セシルはそういうところが抜けているから」
やれやれと言わんばかりにそう言い、ローズのセンティッド・ティーを傾けるクローディア。まるっきり他人事なその反応に、アップルジャック商会の面々は目を見開いて首を傾げ、ジャスミンのセンティッド・ティーを楽しんでいるデシレアが、同じく「やれやれ」とでも言いたげに頭を振っている。
「え? ディアってセシルと、あの、そういう関係なのよね? 違ったっけ?」
若干困惑しながら、控えめに訊くシェリー。言わんとしていることは判るし、年齢的にも直接的に言うのは憚れるのだろう。
だがそういうことに空気を読むクローディアではない。
不思議に思っている一同に、茶系金髪の長い髪を掻き上げて耳に掛け、
「違うわよ。私とセシルは身体だけの関係よ。もうずっとそうやって過ごして来たわ。セシルの恋人はデシーよ」
なんでもないようなことのように、さもそれが当然であるかのようにクローディアがそう言い、付け合わせのビスケットを口に運んでサクサクしてから手元の紅茶をコクコク傾ける。
それを受けて、事情の詳細が判っていない一同が、更に冷たくなった視線をセシルに向けた。
そんな凍えそうな目で見られているセシルだが、
「あれ? こんなおパンツ買ったっけ?」
「いやラーラよ、お前特に深く考えないでサイズ重視で選んでたろう。布面積とか見てから買えって言ったの覚えてねーのかよ」
「えへへ、そうだっけ。でもセシルくんだって止めなかったよね。これ穿いてるラーラ見たいの?」
「あのなぁ、女性下着店で恋人でもなんでもない俺が口出ししたらおかしいだろ。あと此処でパンツ広げるな」
そんな視線にも効果がある筈はなく、無邪気な口調に一切合っていない布面積がやたらと少なく一部紐だけという、どう考えてもアレ目的でしかないおパンツを広げているラーラへ、効果が一切ないであろうやる気のない注意をしていた。
そして言われたラーラも、やはり無邪気に笑いながら「後で見せてあげるね」とか言いながらそれを仕舞う。
今現在どう見ても、セシルとラーラがそういう関係にしか見えないアップルジャック商会の面々。クローディアとデシレアは、いつものことであるため全く気にしていないが。
関係ないが、レオンティーヌは結局デシレアに笑顔で説教された挙句、充がえられた部屋で不貞寝しているそうな。今後の展開如何では、確実にサスペンスになるであろう。
「結局あのハーレム野郎の恋人って誰になるの?」
ハッキリしない所為か苛立たしげにテーブルを指でコツコツ叩きながら、ジト目なシェリーがセシルを睨め上げる。
もしこの場に商会の若いモンがいたのなら、その視線だけでバケット五本はイケるだろう。
それはともかく、そんなシェリーの質問にクローディアはデシレアを指差し、デシレアは自分とクローディアを指差して、更にラーラはクローディアとデシレアを指差すという、相当混沌とした有様になった。この場にレオンティーヌがいないのが本当に幸いである。
もっともいたところで、軽ぅ~く流されて終わりのような気がしないでもない。
「ねぇデシー。私はセシルの恋人じゃないわよ。恋人は貴女でしょ? それとも身体だけの女が傍らにいるのが気に入らないのかしら」
「この際に本音を言わせて貰えば、本人同士がどう考えていようと、お二人は恋人以上で既に夫婦と名乗っても遜色ありません。どちらかといえば、知らなかったとはいえ私が割って入ってしまったことを怒ってもいいくらいです」
「おかしなことを言うのね。私の方こそ邪魔だっていうなら消えるわよ」
「それは絶対にいけません。セシル様にはディアが必要なんですよ。仮に私だけがそうなのなら、こういうのは露骨ですが、どうしてセシル様は真っ先にディアを求めるのですか? その事実だけで充分です。あと、私は一人だけ幸せになろうとは思っていません。ディアだって幸せになって欲しいのです」
「ん~……セシルが真っ先に私を選ぶのは、お互いの好きなトコロを熟知してるからよ。もう六年間くらい私がダメなとき以外は毎日シてるから。それくらいシてれば判らない方がおかしいでしょう」
「そればかりではなく、セシル様の旅支度や荷造り、用意する装束だって完璧に出来ますし――」
「それも一緒に暮らしていれば誰でも判るわ。なにしろ一〇年以上の付合いだし」
「どんなに疲れていても、セシル様の翌日の装いの用意をしていますし――」
「同居人として、セシルに見窄らしい格好をさせるわけにはいかないでしょう。当り前のことよ」
「セシル様の食事の好みも完璧に把握しているのは勿論、これ以上ないくらいバランス良く用意していますし――」
「ひとの食事にはこれ以上ないくらい気を使って用意するのに、セシルって自分の食事には本当に無頓着なの。放って置いたらいつ作ったのか判らない硬くなったライ麦パンを、生温いミルクに浸して啜ってたりするのよ。そんなの見たら誰でもそうするわよ」
ああ言えばこう言いながら、どうあっても認めないクローディアに、デシレアは溜息と共に肩を落とす。
そしてそんな遣り取りを黙して聞いているアップジャック商会の面々は、一様に思った。
それ、どう考えても夫婦だろう――と。
そんな無自覚なんだか意図的にそう思わないようにしているのか不明ではある二人だが、この機会にもっとお互いの気持ちを理解して貰おうと画策したデシレアが、
「ラーラだけが市街観光したのは不公平ですので、セシル様とディアとで行って来たら良いのではありませんか?」
名案と言わんばかりに「パン」と手を合わせて言ってみた。
すると二人は互いに顔を見合わせて、
「え、嫌だよ。ディアって俺が行きたいところにしか行こうとしないんだら」
「嫌よ。セシルったら私が行きたいところにしか行きたがらないもの」
そんなことを言う始末。裏を返せば、互いが行きたいと思うところで充分満足だということなのだろう。
「砂糖吐いて良いかな」
独白するシェリー。どうあってもイチャついているようにしか見えない。
「それに、そもそもな問題としてこんな夜遅くまで営業している小売店ってあるわけないでしょう。少なくとも交易都市と銘打っているバルブレアでさえ、二〇時を過ぎているこの時間じゃあ酒場とかバーみたいな処とか風俗店くらいしか営業していないで――」
「二三時くらいまで開いてるわよ」
ダルモア王国の常識を例に出して行かない理由を並べるクローディアだが、残念ながら此処はストラスアイラ王国であり、更に最も商業が盛んな〝商業都市〟グレンカダムである。
業種によっては仕遅くまで営業するのは当り前であり、更に自営であるなら休日はほぼ無いに等しい。
そんな方々のために、様々な小売店やら服飾店やら食料品店やらも営業しているし、なんなら夕方に開店して明方まで営業しているそれらや、中には夜だけ開業している診療所まであったりするのだ。
需要があるから供給されるのは、いつの時代も何処の世界も一緒である。
「二人で行って来たら良いでしょ。どうせ此処はいつでも誰かしら起きているから、迷惑なんて思わないわよ。お父さ――ザック、商業地図出して」
言われて、先程取り出したグレンカダムの地図とは別の物を棚から取り出すアイザック。
シェリーが何故かちょっと言い淀んで、そして何故かアイザックがちょっと嬉しそうな顔をしているのはどういうわけだろう。
それはともかく、アイザックがテーブルに広げたそれは、グレンカダムの商業区にある夜間営業店舗が多く点在している区画の地図だった。
それには各店舗の取扱商品と営業時間、オススメ度や電話番号まで書かれている。但し、相当大きくなってしまっているが。
「うちの手の者が集めた情報を元に作った店舗情報地図だ。これを押さえておけばまず間違いない」
先程グレンカダム全体地図を提示したときと変わらないトーンでアイザックがそう言う。ちょっと得意げなドヤ顔が、若干鬱陶しい。奥さんのエイリーンは、そんな彼をポーッとしながら見ていたが。
そしてそんな情報量の多い特大の地図を、半眼で胡乱な表情で見下ろすセシルとクローディアの二人。
「……これを覚えろと? 面倒だな」
「私はイヤよ。覚えてても今後に役立つとは思えないもの。それに商店なんて水ものでしょう。いつ無くなったり変わったりするか判らないから容量の無駄はしたくないわ」
「……この似た者夫婦は……!」
せっかく出した、贔屓目に見ても大変良く出来ている、あたかも「る◯ぶ」や「まっ◯る」のような地図を目前にしてそんなことを言っちゃう二人に、苛ぁ! っとしながら歯噛みするシェリー。
誰も全部覚えろとは言っていない。行きたい店舗を事前に調べて、無駄のないようにした方がいいと考えて提示しただけである。
もっともセシルにしてみれば、そんな地図だからこそ信用出来ないと思ってしまっているのだが。
過去の何処かで信じてハズレを掴まされ、地元の情報通な乗合馬車業者に大笑いされたことでもあったのだろう。
だがそれは、行ったことすらないし行こうとも思っていない場所を、さも「行って来ましたオススメしますよ良かったDEATH!」と言わんばかりに記事にしている、そんな某とは違い純度一〇割な地元民情報であるため信頼に足る情報である。
いや、素行はともかくそういう作業では絶対に外さない変態の手の者の情報であるから、信用も信頼も出来る筈だ。
なのに、この言い草。相手がシェリーじゃなくても誰でもそうなるだろう。もっともそのシェリーだって、決して気が長いわけではないが。
「はいはいはーい。地図はラーラが覚えるから、一緒に行ってもいいよー。大丈夫、二人の邪魔しないから」
一切地図を見る気のない二人を他所に、ラーラがそう提案する。
「いやそれは……」
二人きりにさせたいと画策するシェリーがそう言い淀み、だがふと我に返って何故に自分がそこまで心を砕かないといけないんだと考えて沈黙する。
そしてそれをどう捉えたのか、とても良い笑顔なデシレアが、
「良いと思います。ラーラは地図をしっかり読めますし、案内も上手ですので適任です。なにより雰囲気も読めるので二人の邪魔はしませんよ。深く考えずに、案内付きの観光程度な気分で行って来れば良いのです」
ラーラの両手を握ってバンザイさせ、それごと身体をヒョコヒョコ持ち上げながら良い笑顔で言う。デシレアは意外に力が強かった。
どうでも良いが、そうされることでラーラの豊かな胸部装甲が強調されてたゆんたゆんする。どうやら戻った時点で即、摩擦と揺れから保護する武装は弛めたようだ。
おかげでアイザックとJJの視線が落ち着かなくなる。気にしていないと公言しているものの、思わず奥さんだったり恋人だったりのなにかと比べちゃったようだ。
そんな男二人に、エイリーンとコーデリアの視線が各々に突き刺さりまくる。
「悪かったわねツルペタで」
「……これでも私だってそれなりな自負はありますが、ジャック様は物足りないのでしょうか」
ちょっとしたサスペンスになっている夫婦と恋人同士は置いといて、セシルとクローディアは互いに視線を交わし、
「行くか?」
「ん~、それなら行っても良いわよ」
イエス! と心中で独白し、更にラーラをヒョコヒョコしてたゆんたゆんさせるデシレア。
誰かさんと誰かさんが水飲み鳥のようになっているのだが、そんなのお構いなしである。
そしてそうされているラーラ(二七歳)も、無邪気にキャッキャ言っていたが。
その後クローディアが出掛ける用意を僅か二分で終わらせ、だが案内する筈のラーラが、全然出来ていないばかりか取り掛かってもいないのに業を煮やしたセシルが、まだデシレアにバンザイさせられてキャッキャ言ってるその服の下に手を突っ込んで保護武装を締め上げ、更に豊かな胸部装甲を鷲掴みにしてしっかり収めるという実力行使に打って出た。
一見荒っぽいようなのだが、実はとても優しく丁寧にしたためラーラにダメージは一切なく、逆に呼気も荒く頬を染め、潤んだ瞳で上目遣いに見詰められて、
「セシルくん、好き♡」
と、誰もが見惚れて「ズキュウウウン!」しちゃいそうな仕草で何故か言われたそうな。
当のセシルに効果は無かったが。
そんな平然とたゆんたゆんを鷲掴んだセシルを、アイザックとJJはわりと本気の殺気が籠った視線を向けていた。
「ズキュウウウン!」効果の所為か、両手を不自然にワキワキさせているのが謎であるが。
そしてそんな二人に、奥さんだったり恋人だったりする約二名の凍てつく視線が突き刺さっているのに、実はまだ気付いていなかった。
それから数分後に繰り広げられているサスペンスを他所に、シェリーとやけに良い笑顔なデシレアに見送られた三人は、乗合馬車に揺られて出掛けて行った。
ちなみに、御者は例のドロテオである。あれから更に、帰宅で利用している酔っ払いに絡まれながら一往復していた。
そして馬は交代したのだが、彼は交代出来ていない。乗合馬車業者は、相当黒い企業であった。
そんな疲労困憊なドロテオが、それの限界を超えてナチュラル・ハイになり掛けているのを不憫に思ったセシルは、乗客がいないのを良いことに、半ば無理矢理に客席のロングシートに放り込んで御者を交代してしまった。
明らかに規律違反だし、なにより突然見ず知らずの者が手綱を握れば馬が混乱するのだが、彼はわざわざ馬車から降りてその二頭に挨拶をしてから軽くブラシで毛並みを整えてやり、結果その二頭にめっちゃ懐かれていた。
ちなみにその二頭は牝馬であり、クローディアは「馬まで誑し込んでる」と呟いて「ぷくす~」と笑っており、更にラーラは「真っ先に誑し込まれたのはディアだよね?」とか言っちゃって怪訝な顔を向けられていたが。
そんなこんなで出掛けた三人なのだが、その夜間営業の店舗が集中している区画に真っ先に行ってまず思ったのが、
「想像以上だ。なんか皆に悪いことしちゃったな」
「夜なのに此処までしっかり営業しているなんて。『バルブレアの商業は世界一ぃ!』ってふんぞり返っている商業組合の役員に見せてやりたいわ」
クリスタルガラス張りのショーウィンドウ・ディスプレイをしげしげ眺めながら、感心しながら言う二人。ちなみにショーウィンドウを見ているだけで、ディスプレイには興味がないのか見ていない。
「で、だ」
「そうね」
そのショーウィンドウ・ディスプレイを見て満足したのか、もう帰宅準備に掛かるセシルとクローディア。
「ええええ? 待って待って二人とも。なんでもう帰ろうとしてるの?」
そんな様を見て、ちょっと慌てるラーラ。だが満足しちゃった二人は小首を傾げるばかりである。
「ほらほら、ディアも服買ってオシャレしなさいよ。あ、此処の服飾店がオススメみたいだよ」
「……そう。面倒だけど行って来るわ」
「おお、行ってらっしゃ――」
「セシルくんも行くの!」
心の底から面倒そうに、ラーラが言うところのオススメ服飾店に入店するクローディア。それを見送ろうとするセシルの背を押し、ほぼ無理矢理後を追わせる。
――二〇分後。
疲れた表情のクローディアと、クラフトペーパー製の袋を抱えて若干不満顔のセシルが、その服飾店から出て来た。
喧嘩でもしたのだろうか? その様子から、焦燥しながらそんな予想をするラーラに二人は、
「ラーラ聞いてくれ。こいつ待たせるのが嫌だからってろくに選ばないで試着もしないで買おうとするんだ。有り得ないだろう」
「ラーラ聞いて。セシルったら待たせたくないっていう私の気持ちを無視して色々と選んだり着せたりするのよ。信じられないわ」
「は? 何言ってんだ。あんなサイズだけ合っているテキトーに選んだ服だと似合うわけがないだろう。お前は美人なんだからそれなりの格好をしないといけないんだぞ。レオンティーヌだってそこだけはしっかりしているしな」
「良いじゃない、服なんて別にどうでも。それにレオ姉さんを引き合いに出さないで欲しいわ。例えどんな汚部屋の主だとしても、あの人は最高峰の針子で服飾士なのよ。そういう面だけは同列にすら並べないわ」
「まぁそれもそうだな。だが下着を選ぶときもちゃんとカップに納めないでただ押さえるっていうのはいただけないぞ。型崩れ起こしたらどうするんだ」
「それはいつも通りにセシルがしてくれれば良いのよ。貴方以外には見せないんだし。あと湯上がりに美容マッサージという体で全身撫で回して私の体型を整えてくれてるんだから良いのよ。もっともその後はいつも通りに始まっちゃうけど」
などと、文句なんだか惚気なんだか良く判らないことを互いに言い出す始末。
自分の気遣い返せと、貼り付けたような笑顔で思うラーラである。若干目が死んでいるのだが、それも気のせいではないだろう。
そんなことより、女子の買物が僅か二〇分で終わるという有り得ない事態が信じ難い。
「それはともかく、この際だから私だけじゃなくてセシルも買いなさいよ。不公平だわ」
「え? 面倒なんだけど。それに服なんて着れたらなんでも良いよ。どうせ誰も見ていないんだから」
「そんなわけにはいかないでしょう。誰も見ていなくても私が見ているのよ。みっともない格好なんてさせられないわ。まったく、放っておくと継ぎ接ぎだらけの野良着で出歩こうとするんだから」
「良いじゃないか野良着。汚れなんて気にならないんだぞ。それに物持ちが良いのは悪いことじゃないだろう」
「それを悪いとは言っていないわ。物持ち良く大切にしているセシルも素敵だけど、時と場所と場面を弁えて欲しいと言っているの。それに、貴方にはいつまでも素敵でいて欲しいって思っているのはいけないことかしら?」
「あー、うん、そうだなぁ。俺もディアにはいつまでも綺麗で可愛くいて欲しいって思うし」
そんな言い合いをまたしても始める二人である。
一体何を見せられているのだろう?
先程と同じ表情と目のままその様子を眺めるラーラ。そろそろ砂糖を吐きそうだ。
そしてこんな会話を恥ずかし気もなく平然としているにもかかわらず、恋人でも夫婦でもないと謎に言い張る二人であった。
「そういえば、デシー先輩も地図読むの得意だったよね。もしかしてこの無意識無自覚ノロケ夫婦を見たくないから押し付けられた?」
出発時の、やけに良い笑顔で見送るデシレアを思い出しながら、遂にラーラは事実に辿り着いてしまった。
――なのだが。
「でもセシルくんとデシー先輩だって充分イチャラブだよね。もしかして先輩も自覚ないのかな?」
類が友を呼んじゃったのに、実は気付いていないようである。
それはともかく、皆を満遍なく大切にするなんて無理! とか言っているセシルなのだが、充分出来ているようにしか見えない。どうやらこっちの方も無自覚であるようだ。
「もう一人くらい増えても、セシルくんならきっと平気だよね」
オススメの男性用服飾店へ仲良く入って行く二人を見送り、ラーラはそんなことを考える。
まぁそれはともかく。
またどうせすぐに終わるであろう買物に向けて、手ブラで来てしまったためにこのままでは三人が荷物で溢れ返ってしまう。
よってラーラは、それを収納するための大きめザックを二つほどシレっと購入した。
収納ポケットが多数ついているし、丈夫で色合いも野外活動に差し支えない上物である。
そうやって待つこと暫し――というか結局二〇分後なのだが、クラフトペーパー製の袋を抱えて疲れた表情のセシルと、若干不満顔のクローディアが、その服飾店から出て来た。
それを見て、激しくデジャヴるラーラ。
「ラーラ聞いてよ。セシルったら待たせるのが嫌だからってろくに選ばないで試着もしないで買おうとするのよ。有り得ないでしょう」
「ラーラ聞いくれ。こいつ待たせたくないっていう俺の気持ちを無視して色々と選んだり着せたりするんだ。信じられないよ」
「え? 何言ってるの。あんなサイズだけ合っているテキトーに選んだ服だと似合うわけがないでしょう。セシルは美男子なんだからそれなりの格好をしないといけないわ。レオ姉さんだってそこだけはしっかりしているでしょう」
「良いじゃないか、服なんか別にどうでも。それにレオンティーヌを引き合いに出さないで欲しいよ。例えどんな汚部屋の主だとしても、あれは最高峰の針子で服飾士なんだぞ。そういう面だけは同列にすら並べないからな」
「まぁそれもそうなんだけどね。でも下着を選ぶときもちゃんと動き易さとか肌触りを考えないで、入れば良いっていうのは違うと思うわ」
「それはいつも通りにディアが選んでくれれば良いよ。どうせディアとデシー以外には見せないんだし。あと湯上がりにマッサージという体で全身撫で回して俺の筋肉を整えてくれてるんだから良いじゃないか。もっともその後はいつも通りに始まっちゃうけど」
などと、やっぱり文句なんだか惚気なんだか良く判らないことを互いに言い出す二人。
いい加減に砂糖を吐きそうなラーラなのだが、そんな言い合いをしている二人を無視して黙々とザックへそれらを詰めて行く。
ちなみにラーラはそれが上手であるため、結局最大容量の半分くらいにしかならず、使い道がなくなったもう一つのザックは綺麗に畳まれて更に収納された。
やがて一通り言い合いという体のイチャイチャが終わり、既に収納が終わりザックを背負って死んだ目でなんともいえない複雑な表情になっているラーラに気付き、
「じゃあそろそろ」
「そうね」
言いつつ、またしても帰ろうとする二人。そしてそれを、全力でラーラが止める。
「ねぇ二人とも。このネタもう良いんじゃないの。なんで何回も繰り返すの」
「いや、もう用が済んだから」
「そうよ。これ以上何をすればいいの」
「せっかく来たんだから、ご飯食べて行こうよ。ラーラもうお腹空いたよ」
そんなラーラの提案に、顔を見合わせて小首を傾げ、そして思い出したかのように同時に手を打ち合わせる二人。「外食」という判断が一切なかったようだ。
「そういえばそうだな。いつもは出掛けるのが面倒で、自宅で済ませてたから気付かなかった」
「そうね。外で食べるのも悪くないわ。考えてみれば、私って外食したことないわ。列車内でも作るのがセシルとラーラだったからいつも通りだったし」
そんな爆弾発言をするクローディア。それを聞いたラーラは、そんなひとが今時いるのかと驚愕し、だが考えてみれば、バルブレアに設立した教育校の宿舎で共同生活をしていた頃から、彼女が外出しているのを見たことがない。
食材は併設しているマーチャレス農場から無償で届くから一切困らないし、服もレオンティーヌが定期的に作ってしまうから問題ない。
つまり、バルブレアにいた頃は衣食住の全てが自給出来ていたため、出掛ける必要がなかったのである。
あと主な理由は、クローディア自身が出不精であることと、セシルの帰宅に合わせて夕飯だったり風呂の用意だったり寝所の手入れだったりをしていたからだ。
そんなことを考え、そしてやっぱり奥さんじゃないかとラーラは独白する。言っても仕方ないから言わないが。
そして三人は、アイザックが見せてくれた例の地図でイチオシと銘打たれたレストランを素通りして、若干萎びている串焼き屋さんに行っていた。
理由は、セシルとラーラが匂いに釣られ、更に店頭で焼いている親父の手際と素材の良さが気に入ったからだ。
其処は持ち帰りも出来るし、ちょっと狭いが店内でも食べられるお店である。そして酒類やお茶、果汁などの清涼飲料も提供していた。
時間も時間であり、既に客も疎らではあるためこれ幸いと入店し、窓際の席に陣取ると大量に注文し始める。
関係ないが、ラーラは小さい体に全く似合わず半端ではないくらいの大喰いだ。
そしてクローディアも普段はあまり食べないが、その気になれば肉などキロ単位で平らげる。
更にセシルも、本気を出せば物理的に有り得ないだろうとツッコミが入るであろうくらいの大食漢だった。
そんな三人が窓際で美味しそうに、肉類だけではなく野菜や魚介類、燻製ウィンナーやベーコン、ちょっと溶ろけたチーズなどの串焼き、更には貝類の炉端焼きや壺焼きまでを次々と、串焼きは飲み物ですと言わんばかりにツルツル食べて行く。しかも、メチャクチャ美味しそうに。
美男美女のセシルとクローディアだけではなく、小さいのにスタイル抜群なラーラがそんなことをしていれば、例え二一時を過ぎていようとも否応なく人目を引くわけで――
実は客も疎らで減って来ているし、そろそろ採算が取れなくなって借金も増えてしまったため、店を畳もうかと思っていたその串焼き屋「ブロシェット」の店主ヘルマンニは、この日を境に転期を迎える。
――そんなモリモリ食べている三人に、スーツにトレモント・ハットを合わせた紳士が話し掛ける。
彼は、グレンカダムで情報誌を扱っていると自己紹介をした後で、
「お願いします!(インタビューを)させて下さい! ちょっとで良いんですほんのちょっとで! もし(インタビュー)させてくれたら言われた額だけ謝礼払いますから! お願いします(感想の)先っちょだけで良いですからすぐ済みますから!」
などと誤解を招くことを喚き散らし、だが言った相手がセシルであったためそっち目的ではないだろうと、ちょっと確証はないが判断した上で聞き返し、括弧部分を理解した上でそれに応じた。
まぁ、何故この店を選んだのかとか、味はどうだとかその感想は――とかであったが。
もっとも感想だけ聞くより実際に食すべきだとセシルが提案し、論より証拠が重要だということで彼も一緒に食べ始めた。
余談だが、三人は酒ではなくお茶を飲んでいるのだが、その紳士はあまり流通していないシードル・スパークリングがあると店主から聞き、キンキンに冷えた、リンゴに口付ける森妖精のラベルが貼られたそれを瓶ごと注文していた。
ちなみに、それを取り扱って小売店は一箇所しかない。
後日。グレンカダムで一番の発行部数を誇る情報誌「アオスクンフト」のとあるページ、編集長の独り言という記事に串焼き屋「ブロシェット」の情報が掲載され、店内での飲食は勿論持ち帰りも出来る絶品串焼き店として、その日のうちに其処は話題の店として大忙しになったそうである。
それはともかく。
食事を終えた三人は、腹ごなしに運河沿いを散歩してから、最終二三時の乗合馬車で帰ろうと考えていた。
商業都市グレンカダムは海からも遠く、どちらかというと山沿いではあるのだか、ディーンストン山脈から流れ出でる大河「タリバーディン」の豊かな水源を引き入れた運河により、より豊かになっている。
しかもそれはグレンカダム中に張り巡らされており、だがそれとは別に下水溝をも完備されそれと交わることは決してなく、更に厳しい規制を掛けているため飲料水として利用も可能だ。
ちなみに過去うっかり運河に排泄しちゃった酔っ払いは即日捕縛され、街中全ての運河を一度空にして清掃した上で浄化させ、再び水を通す作業全ての費用を負担することになったそうな。
当り前だが個人にそんな金額は一生掛かっても返済など出来る筈もなく、その酔っ払いは破産申請をした上で郊外にひっそりと一人で暮らしているという噂である。
そんな豊かで美しい水を湛える運河は、まだ営業している店舗の明かりや街灯を反射し映し出し、まるで夜空のように輝いている。
そして街の明かりが消えれば、晴天であれば満天の星空や輝く月をも映し出すという、まさしくカップル御用達の場所なのだ。
まぁそんなロマンチック・スポットを、セシルは串焼きを齧りながら歩いて台無しにしているが。
理解のない恋人を連れているのなら惨事になるのだろうが、
「ねぇ、まだ串焼きある?」
「んあ? あるぞ」
「あ、ラーラも食べたい」
ロマンチック? なにそれ食えるの? と言わんばかりに一緒になってそれを齧り始めるクローディアとラーラ。
魅惑のスポット涙目である。
そんな感じで色気より喰い気を体現しつつ運河沿いを歩き、そろそろいい時間だから戻ろうかと考えていると――彼方でその運河の水がそそり立っているのが見えた。
それは、上級の水魔法である〝大海嘯〟。
災害級の戦略魔法である。
「セシルくん、こんなところで〝大海嘯〟使ってる人がいるよ」
そんな危ない魔法を目の当たりにして、だが慌てずのんびりそう言うラーラ。自分ならなにがあっても絶対に逃げ切れるという自信があるのだろう。
「は? 莫迦じゃねーの。災害起こす気か? どんなテロリストだよ」
そしてそれはセシルも同じであり、しかし一つだけ違うのは、たった今この瞬間、隣にクローディアがいるため逃げる必要などないと判っていることだ。
「面倒ねぇ、まったく……」
そんなのんびりした会話をしながら、そして――
「〝 強制詠唱破棄〟」
やけに気怠げなクローディアの声と共に、誰かが放った〝大海嘯〟が一瞬で消滅した。
高濃度の魔力により複雑に織り込まれて構築され、そしてその複雑さ故に他の干渉の一切を拒絶している筈の術式が、それら全てを自ら緩めて解き始めているかのように解体されて霧散する。
それはまるで奇跡のような光景であり、だが同時に、秘奥とも言うべきそれを一瞬で消し去られた事実を突き付けられた、自他共に優秀だと認めているユーインの矜持が粉々に砕かれた瞬間でもあった。
そうして呆然として膝から崩れ落ちているユーインを他所に、明らかにその場にフラッと現れただけの男女三人が、のんびりと周りを見回している。
そして外骨格鎧などという奇異なものを纏っているイーロに気付いたらしく、三人のうちの背は低いがやたらとスタイルが良い女があからさまに指を差す。
「ねぇセシルくん。なんかあそこに変な鎧を着てる人がいるよ」
「いや俺は今、串焼きに夢中なんだから……ってなんだあれ? あー、魔石の魔力で膂力を補助する魔法機構か。でもアレって帝国の技術だぞ。なんでこんな場末でオッサンが着けてるんだ?」
「それラーラが訊きたいよ……わ、なんかこっち来た!」
一目見ただけで〝魔導鎧〟を見抜ける者はほぼ居らず、だがもしそれが可能であるのなら、そいつは危険であるとこれを売った商人が言ってた。
だから、片付けなければならない。
〝大海嘯〟が通りすがりと思われる誰かに強制破棄され安堵し、だがそのあまりの出来事に衝撃を受け呆然としているユーインを完全に無視し――それ以前に敵として認識する必要すらないと判断したイーロは、組み込まれている魔石の魔力を最大稼働させ、のんびりと談笑している男――セシルへ高速で突き進む。
何故そのような考えに至ったのか、イーロには判らない。そもそも彼は姑息な謀を画策する方を好み、力で捻じ伏せるなどはする人物ではない。
なのに彼は今、強化装甲に包まれた拳で、突進の勢いそのままに殴り掛かっている。それは彼にとって、明らかに正常とは言えない行動であった。
驚異的な速度で接近し、そして殴り掛かるイーロ。だが、突き出されたその拳にセシルの左手が添えられるように軽く触れた瞬間、イーロの視界が急転してその背が石畳に叩き付けられた。
その衝撃は、頑丈で分厚い筈の石畳が砕けるほどであり、強化装甲にその身を包んでいるイーロにも突き抜けた。
なにが起きた?
その衝撃により数瞬視界が暗転し、そしてそんな信じられない現状をイーロは把握出来ない。いや、より正確には認めたくないのだろう。
暗転した視界が回復した瞬間、その視界の隅に小柄だがやけにスタイルの良い肢体が映ったが、それを気にする暇すらないイーロは即座に立ち上がろうと身を起こす。
そして不自然に重くなった身体を這いつくばらせて、セシルから離れた。
背はまだ痛いが、この程度で戦えなくなるわけでは――わけでは……何故自分は戦おうとしていた?
自分の心の変化に戸惑い、その両手を見る。なんの変哲もない、〝魔導鎧〟など纏っていないいつも通りの自分の手。
え?
いつの間にかその全身を外骨格のように包んでいる〝魔導鎧〟が、体幹を除いた全てが外されていた。
「セシルくん。この鎧って立て付け悪いよ。ビスがこんなに簡単に外れちゃう」
ドライバーを片手に取り外したビスをパラパラ落としながら、そんな身も蓋もないことを言うラーラ。簡単に取れちゃって面白くなかったらしい。
「いやラーラよ。なにそのスリも真っ青な瞬間解体技術。というかなにしてくれちゃってるの? 他所様の鎧をバラしちゃいけません!」
そんなお行儀の悪いラーラをぷんすこ怒るセシル。だがそんなことを言われているラーラは、満面の笑顔で「褒めて褒めて」と言わんばかりにキラキラお目々を向けていた。
そんな飼い犬が飼い主に向けるような期待に満ち満ち溢れている視線を送っているラーラは、セシルより七歳ほど年上である。
「良いわね。なんだかんだでラーラとも仲良くしてくれれば、私の負担がもっと減るわ」
どう見ても飼い主と犬みたいな遣り取りをしている二人を微笑ましく眺め、そして満足げにそう言いながらクローディアは頷いている。
そんなクローディアへと視線を移し、セシルは怪訝な表情で、
「なぁディア、なんでお前は俺の嫁を増やそうとしているんだ?」
心底不思議そうにそう訊いた。するとクローディアは困惑しているようにちょっとだけ押し黙り、だがすぐにやれやれと言わんばかりに溜息を吐いて頭を振る。
「なに言ってるの? 優秀な種は沢山撒かなくちゃいけないのよ。それには畑も沢山ないといけないでしょ。それにデシーの種族は一度に三人くらい生まれるそうよ。だから出る母乳を増やさないといけないの。そんなわけで、デシーのためにもラーラとも子作りを……どうしたのラーラ」
「ラーラじゃなくても、クローディアが生んであげれば良いのです。それで全て解決です」
今まで空気を読んで、言いたくても誰も言わなかったことを、無邪気にニコニコ笑顔を浮かべながらラーラが言う。
責任を取れとかケジメを付けろとかは煩く散々言われて来たが、こんなにニコニコ明け透けにそんなことを言われたのは初めてである。
結果、互いに居心地悪そうに目配せをするセシルとクローディア。だがその視線が合うと、すぐにいつもの二人に戻った。この場にデシレアがいたのなら、なかなか手強いと独白していただろう。
それはともかく、装着していた〝魔導鎧〟がそんな有様になってしまったイーロは、脱力してその場にへたり込んだ。
だが、まだ装着している〝魔導鎧〟の体幹部に埋め込まれている魔石が怪しく光を放ち、その込められている魔力が制御から外れて肥大化する。
「あれ? なんかあの人の鎧がおかしなことになってるよ」
「ラーラに分解されて怒ったんじゃないかしら? ほら、暴走し始めてるし。あら困ったわね、この規模だと半径1キロメートルは焦土になるんじゃないかしら」
「わあ、大惨事だね。セシルくん、なんとかして」
「あのな、魔力が暴走した魔石を俺がどうこう出来ると思ってるのか? 失敗したら確実に死ねぞ」
「セシルなら大丈夫でしょう。もしダメでも、私が一緒に死んであげるわ」
「ラーラは死ぬ気はないよ。セシルくんなら出来るよ」
「ちゃんと出来たら、今夜は私から色々してあげるわよ」
「あーはいはい。まぁやるだけやってみるよ。失敗しても恨むなよ」
恨むもなにも、失敗したら即座に死亡が確定してそれどころじゃないが。
そんな惚けたことを独白しながら食べ終わった串焼きの串(竹製)を咥えたまま、暴走している〝魔導鎧〟を外そうとしているイーロに近付いて行く。
ちなみにユーインはというと、暴走が始まった直後から水路に逃げ込んで成り行きを静観していたりする。
情けないと思われるかも知れないが、魔力が暴走を始めてしまえば、専門的な知識がない限り解体や正常化は難しい。よってユーインの行動は、決して間違いではないのだ。
情けないのは事実だが。
そんな暴走している魔力の奔流の中、まるで微風の中を歩くようにのんびり近付くセシル。
その傍まで来ると、へたり込んで動けずにいるイーロを踏ん付けて仰向けに転がした。
そしてその体幹の装甲に埋め込まれた魔石の位置を確認し、続けて懐から万年筆を取り出して魔法陣を装甲へと直接描き込み、そして――
「こういう危ねぇモンはぶっ壊すに限る」
咥えている串を指で摘んで構え、描かれた魔法陣の中心目掛けて突き立てる。
その装甲の素材は魔鋼――魔力を付与しながら鍛えた鋼鉄――なのだが、その串は折れることなく粘土に刺さるように装甲へと沈み、あろうことかその奥にある魔石すら貫き粉々に砕く。
本来であればそのような暴挙をすれば、込められた魔力が一気に解き放たれて大爆発を起こすのだが、その気配は一向になかった。
代わりに、描き込まれた魔法陣の中心に突き立っている串を消し炭に変えながら膨大な魔力が天高く打ち上げられ、中空で大爆発した。
「見事な花火だねぇ」
暴走していた魔力がそうして打ち上げられ、その結果に満足するセシル。
そしてそれを運河の縁から驚愕しつつ、呆然と見詰めているヤツの存在には当然気付いていたが、それは無視する。
「ねぇクローディア。セシルくんはなにしたの? もう平気っていうのは判るけど、ラーラどうなったのか判らない」
「うん、あれは魔力に指向性を持たせる魔法陣を描いて、爆散させずにその中心から直線で放出させるようにしただけよ。魔法陣を解しているなら、やろうと思えば誰でも出来るわ。私はやらないけど」
「誰でもは出来ないよ。セシルくんだから出来るんだよね。だけど、クローディアも凄いよ。あんな状況で『ダメだったら一緒に死んであげる』って言える人はいない。本当に、セシルくんを愛してるんだね」
「???? なに言ってるのラーラ。私は別にセシルを好きとか愛してるわけじゃないわ。ただ、死ぬときに一人っていうのは寂しいでしょう。だからそう言ってるの。セシルだって私と同じことを言うわよ」
「(それが『愛』なんだけど。なんでこうなのこの夫婦は)」
そんな独白をするラーラを他所に、やれやれと言わんばかりに首を回して肩を解すセシルに近付くクローディア。
「お疲れ様」
そう言いながら鞄からタオルを出し、セシルの汗を拭く。
どう見ても夫婦である。
そして三人は、
「あ、やべ。なぁ乗合馬車の最終便って何時だ?」
「えーと、ラーラの記憶が確かなら、二三時だったよ。今は二三時一〇分だけど」
「乗り過ごしてんじゃねーか。どーすんだよ。走るか?」
「私は嫌よ。どうやったって二人に追い付けないもの。どうしても走るっていうのなら、抱いて運んでよ」
「あーはいはい。じゃあそうするよ。おんぶと姫抱っこ、どっちが良い?」
「おんぶの方が負担は少ないのかな? でも結構荷物あるからどうしよう。私が荷物背負ってセシルにおんぶ? の方がセシルの背中が幸せじゃないかしら」
「いや俺は胸に執着ないから。じゃあ俺が荷物背負うから姫抱っこで良いよ。大した距離じゃないから一五分くらいで着くだろう」
「うんそうだね。あ、荷物はラーラが持つから二人はしっかりイチャイチャしててね」
そんなほのぼのしながら(?)準備を整え、三人はちょっと常人には不可能だと思われる速度でその場を後にした。
関係ないが、三人は帰宅途中で乗合馬車に追い付き、疲れ切っている御者のドロテオと走りながら交渉して乗せて貰ったそうな。
その際セシル相手に現在の勤務状況について色々愚痴を零し、ちょっとだけスッキリした。
だが翌日になって彼が出勤すると、勤務先の乗合馬車業者に抜き打ちで査察が入っており、職員の勤務状況が悪いことや休日、有給休暇がお座なりになっていること、更に残業手当の未払いが大量にある事実が発覚した。
そのためそこへ商業ギルドの指導が入り、後にその勤務状況が一変した乗合馬車業者は、ちょっとした人気の事業所となったそうな。
そしてドロテオは、その腕前を見込まれてアップルジャック商会専属の御者として引き抜かれ、決まった休日と無理のない勤務形態を与えられてとても満足な生活を送ることになった。
本気で関係ないことだが。
三人が去った後、退避していた運河から這い出したユーインは、破壊された〝魔導鎧〟の残骸を装着したまま倒れているイーロの傍に寄る。
そして完全に意識を失っているのを確認して安堵の息を漏らし、そして――
「イーロ・ネヴァライネン。業務上横領、並びに公務執行妨害及び殺人未遂の現行犯で捕縛する」
誰にともなくそう独白し、イーロを後ろ手に縛って捕縛した。
――セシル達がグレンカダムを訪れて、早速一騒動が起きてそれを片付けてから一ヶ月が経った。
その間に、何故か済し崩し的にアップルジャック商会に就職したことになっていたセシル達は、気付けば唐突に積み上がる仕事に忙殺されていたりする。
更にその商会の仕事とは別に、お世話になっている本社兼社宅である郊外の邸宅でそのお礼にと炊事を、片付けられない汚部屋の主な某水妖精以外が担当したのだが、中でもセシルとクローディアとラーラのそれが非常に気に入られ、おかげで現在は朝食をシェリーとセシルが、昼食をシェリーとクローディアが、そして夕食をセシルとラーラが担当することになってしまった。
余談だが、クローディアとラーラが朝のそれを担当していない理由は、共に何故か朝が弱くなってしまったという怪奇現象があったからである。
そんな怪奇現象の犯人は非常にタフで、更にどういうワケかやる気に満っち満ち溢れちゃったらしく、平気で朝と夕食の担当になっているが。
一応ではあるのだが、仮にも会長であるシェリーがそれの人員に名を連ねているのを気にしてはいけない。
単に一緒に生活している某社長の某奥さんと、某会計監査の某恋人の、唯一と言ってしまっても良い女性陣二名は、炊事がちょっとアレなだけだ。
ちなみに野郎連中のソレは壊滅している。
まぁ、意外にもリーは料理上手ではあるが、アレはアレで別件を結構抱えていて忙しく、とてもじゃないがそれに時間を割くことなど出来ない。
そもそも実は社宅にいることすら稀であったりするし、最近ではセシルを見掛けるたびに、なにがあったのか何故か妙に恥じらって逃げ回っていたりする。
そんなリーの奇行を見て、思わず「可愛くなっちゃったよ」とか思ってしまうセシルではない。
その程度の奇行が増えたくらいで、過去に負ったセクハラ行為の心的外傷が払拭出来る筈はないのだ。
残念ながら、セシルの心には既にリーが入り込む隙間は一切存在しない。諦めて他所を当たって欲しいと切実に願うセシルであった。
――きっとその願いは叶わないであろうが。
そんな感じで、相談などは全然していないにも拘らず、いつの間にか、それこそ済し崩し的に炊事当番が決まってしまっていた。
ちなみに、それにデシレアが名前が連ねていないのには理由がある。
彼女は大変料理上手で、しかも大変美味しく、更に身体に優しい優れた出来栄えに仕上げるのだが、軒並み動物性の素材を一切使わない野菜類しかないために、肉食種や狩猟民族などの物理的な肉食系である皆様には残念ながら不評であった。
もっともデシレアは、自分がそれだからそんな料理しか作りませんとかワケの判らないことをほざく輩と同列ではなく、若干の忌避感はあるものの、ちゃんと動物性の物を含んだ料理も用意出来る。ただ慣れない所為か、それがちょっとアレなだけだ。
そもそも植物妖精は食事を必要とせず、水と陽光さえあれば生きて行ける。口からの摂取は付き合いと趣味程度なのである。
関係ないが、セシルが一度だけ「我儘を言うとデシレアの料理を喰わせるぞ」と商会員達に言ったことがあり、皆して平伏して「それだけは止めてくれ」と懇願されたそうな。
だがそんな罰ゲームよりなにより、プンプン怒ったデシレアにセシルが胸をポコポコ叩かれるという、傍から見ればイチャコラしているようにしか見えない場面を見せ付けられて、独り身が多い彼らは軒並み血涙を流しそうになったり、あらゆる甘いものを吐きそうになったという。
ある意味、罰ゲームより酷い仕打ちである。
そんな完全菜食主義な料理は、セシルやクローディア、そしてコーデリアさんには大変好評であったが。
余談。
クローディアとラーラの二人と同じ状況である筈のデシレアなのだが、彼女は変わらずセシルと同時刻に起床して、植物妖精の固有技能が薬師であるためそれを応用し、草魔法と木魔法を駆使して植物性の洗濯用洗剤を調合する。
そして洗濯物を中心に(空)気魔法で気体の閉鎖空間を構成して調合したそれを入れ、水魔法で生成して精製した純水を熱魔法で温めつつ攪拌して洗濯を始め、洗い終わったら風魔法と熱魔法で乾燥させるという、魔法としては非常に高次で高度な技術をしれっと披露して、シェリーの憧憬の視線をほしいままにしていた。
そして洗濯物を良い塩梅に、なんでもないことのように攪拌している魔法は、ごく小規模で展開された〝潮流渦〟という、実はそれに巻き込まれた物体は生物だろうが岩だろうが鋼だろうが例外なく、漏れなく細切れにされるという、凶悪極悪極まりない戦略級魔法であったりする。
ついでに、デシレアは最大十五もの魔法を同時行使可能な、〝十五重詠唱〟の〝魔法使い〟としてその道の者達の中では有名だった。
ちなみに世界最高の〝魔法使い〟と謳われている森妖精の王は〝十三重詠唱〟の使い手である。
もっとも魔法使いの優劣は、そんな多重詠唱が出来る出来ないは関係ない。象徴や憧憬の対象になるのは否定出来ないが。
あと、同じ〝魔法使い〟でも男と女とでは呼び名が違う。男が〝魔法使い〟で女が〝魔法使い〟である。
どうでも良いことではあるが、念のため。
そして、そんなこんなな或る日――
日当たりの良い窓際で、嗜好しているブルーベリーのフレーバード・ティーの香りを楽しみながら、セシルは座り心地の良いソファに身を委ねて緩やかな時間を満喫していた。
そしてその隣には、チョコレートを口に含んでゆっくり溶かして味わいながら、オレンジのセンティッド・ティーを嗜んでいる茶系金髪と紫の瞳を併せ持つ、整った容姿の女性――クローディアが当たり前に座っている。
「良い天気じゃのう。のうクローディアさんや」
「……『そうですねぇセシルさん』――これで良い?」
「うん、ありがとう」
自分の望んでいる返答がちゃんと返って来て、ちょっと涙目になるくらい嬉しいセシル。なんだか色々お疲れである。
そしてこの遣り取りの意味がちょっと判らないクローディアなのだが、セシルがやりたいと言うのなら叶えてあげたいと思っていた。
もっとも、それ自体に意味などありはしないとも理解出来ているが。
そんな感じで優雅なティータイムを楽しんでいる風な二人なのだが、別に休日の昼下がりとかでは一切なく、現在交代制の昼休憩なだけであった。
セシルの担当している仕事は多岐に渡っており、忙しいところに必ず放り込まれる。
なにしろ彼は優秀で、出来ないことを探した方が早いくらいなんでも出来るのだ。
そして、同じくなんでも出来る会長様とセットで修羅場に放り込まれる場合が多く、互いに申し合わせてすらいないのに阿吽の呼吸で、常人にはちょっと無理なんじゃね? と思われるほどの仕事量を熟していた。
曰く――なにが必要でなにをすれば良いかが判るから楽。
だ、そうである。
そんな二人を見たクローディアも流石にちょっと驚いて、だが考えてもみれば、シェリーは僅か五年で商会の純利益を百倍以上にしたあのエセルの愛娘であり、セシルはそのエセルのお気に入りで、手塩に掛けて――かどうかは不明だが、とにかく特別な教育が成されていたのである。この程度は出来て当然であろう。
――その有能という範疇にすら収まらない鬼才なエセルの法律上の配偶者である誰かさんは、それら莫大な資産を僅か五年で丸ごと失くすばかりではなくマイナスにするという、ある意味では非常に優秀なコトをやってのけちゃった挙句に高飛びするという離れ業までやってのけたが。
それにセシルは体力が純粋に半端なくあり、シェリーならば疲労困憊してしまう仕事量も難無く熟し、しかもその速度が落ちないというバケモノぶりを発揮していた。
まぁ、例えどれだけ体力があろうとも、「出来る」ことが多いと「疲労」も多くなるのは当然だが。
そんなお疲れな上に気持ち良い陽光に当てられてうつらうつらしているセシルの隣に、クローディアはなにも言わずにただ傍にいるだけであった。
声を掛けるでもなく――
労うでもなく――
――ただ、その傍にいるだけだ。
やがて、そのクローディアの肩になにかが乗り、青みを帯びた黒の――濡烏色の髪が流れ落ちるように零れる。
「……こんなところで寝ちゃうなんて、バカね」
ティーカップをソーサーに戻し、テーブルに置く。
そして空いた手で自分の肩に乗っているセシルの頭を優しく撫で、そのままゆっくりと、自身の大腿を枕にして横にした。
「いくら仕事が出来るといっても、一人じゃあ限界があるのよ。まったく、なんだかんだ言ってても昔からお人好しよね。ホント、私がいないと何処までも無理しちゃうんだから」
そう、昔から。
エセルが彼を伴って孤児院を訪れ、名も無く番号でしか呼ばれていなかった彼に「セシル」という名を与えたときから、彼は――セシルは誰よりも働いていた。
当時まだ九歳でしかなかったのに、誰よりも、成人間近な子供達よりも、働いていたのだ。
元々孤児院での食事は、一〇歳前後の女の子達が担当していたのだが、気付けばそれすらセシルが全て請け負っていた。
結果的には、一人に任せるのはいけないことだと言ったクローディアと、見様見真似でやっているうちに料理の楽しさに目覚めたリオノーラの三人が主に請け負うこととなったが。
そればかりではなく、孤児院内の全ての掃除や其処で生活している子供たち全ての洗濯も始めてしまい、流石にそれは皆のためにもならないと、孤児院を管理していたレミーに注意され、それだけは皆で協力してやることになったのだ。
――可能性としての憶測ではあるが、もしかしたら誰かさんが片付けられない汚部屋の主となったのは、セシルにも責任の一端があるのかも知れない。
それはともかく。
そんな風に一人で大量に抱え込んで、だが仕事が回らないなどは一切なく、逆に全てを完璧に仕上げてしまう。
セシルはそんな危うい離れ業を、幼少期から当たり前に熟していた。
「――貴方は昔からそう。他人に頼らず、常に全部を背負って努力して頑張って。でもきっと、貴方は言うんでしょうね。『頑張ってはいない』って」
努力は必要だ。
頑張ることも必要だし価値あるものだ。
だが――過ぎればそれは猛毒になる。
自分にとっても。
他人にとっても。
そしてそれらは、本人は元より周囲すら判断も理解も出来ない内に簡単に閾値を超え、場合によってはその全てを巻き込んで盛大に瓦解する。
交易都市バルブレアで教育校を設立したとき、同じく設立仲間であったデシレアもそれを感じていたようで、そのときは実力行使で休ませていた。
もっともそれが出来るのは、同じく仕事が出来るデシレアだけであり、クローディアには出来る筈もない。
だから、彼女は常にセシルの傍にいる。
生き急いでいるようにしか見えないセシルが、仮に閾値を超えてしまったときに、仮にその全てが終わってしまったときに、共に終わるために――
『ねぇセシル。どうしてそんなに頑張るの? そんなに急いだら疲れちゃうわよ』
『急いで……いるかな? でも、そうしないと全部無くしちゃう気がするんだ。今まで失うばかりで得られなかったから……だから、頑張って「今出来ること」をしておきたいんだ』
『……そう。判ったわ。じゃあもしもセシルが力尽きたときには、私が一緒にいてあげる。独りは――淋しいから』
――*――*――*――*――*――*――
商業ギルドの監査特務隊がイーロ・ネヴァライネン邸を強制捜査し、ある意味で色々と甚大な被害が出ちゃって一ヶ月後。
既に提出して受理印が押印されている報告書を前にして、ユーイン・アレンビーは引き攣った笑みを浮かべていた。
報告書が置かれているのは、サブマスターであるデリック・オルコックの机上であり、更に言うなら其処は彼の執務室であった。
「まぁ、あれだ」
脂汗を滴らせているユーインを、極上の笑顔で迎えるデリック。だが組んでいる手にとてつもない力が込められているのに、目敏いユーインは気付いている。
彼が――デリックがそうなっているときは、間違いなく碌でもないことしか起きない。
「実は先日、離婚れた妻と偶然に逢ってね」
「はあ」
突然なにを言い出すかと思えば。確かにデリックには離婚歴があると聞いたことがあるが、それに触れる命知らずはいない。
なにしろ彼は、名実共に商業ギルドのナンバー2であり、過去には〝草原の破壊者〟と呼ばれて怖れられていたのだから。
「ある不一致で離婚れたとはいえ、一度は夫婦であったからある程度は情が湧くものでな。酷く落ち込んでいたから話を聞いたんだ」
その後で有り得ないくらい絞られたが。一瞬だけだが半眼になり、えらく疲れた表情で独白するが、そんな些事などどうでも良いだろう。
「彼女は変態だから痴情の絡れだろうと思ったが、意外に操を立てていたのにはちょっと可愛いかなとは思ったが、問題は其処じゃない」
ちょっと惚気始めるデリックを、珍獣でも見つけたかのような視線を向けるユーインだが、目が真剣な笑顔を向けられて瞬時に凍り付いた。
「ネヴァライネン氏の装備品は、やはり帝国製で間違いないようだ。オスコション商会のときに騒動の種になった〝機関砲〟と入手経路は同じらしい。どうやら裏できな臭いことを始めているようだ」
「なんと!」
予想は出来ていた。
そもそも他国の介入なくして、このストラスアイラ王国で〝機関砲〟や〝魔導鎧〟などという兵器が手に入る筈がない。
「それは由々しき事態ですね。それで、どうするおつもりですか?」
表情を引き締め、真剣な眼差しを向けるユーイン。それに対してデリックは深い溜息を吐き、
「ああ、避妊する暇すら与えてくれなかったから、元妻が懐妊していないことを祈るばかりだよ。まぁでも以前に比べてちょっとまともになっていたから、そうなったらなったで復縁しても良いかな、とも考えているが」
「は?」
デリックの口からまさかな言葉が飛び出し、思わずユーインは自身の耳を疑った。
「あの、俺が訊きたかったのは帝国の動向とかであって――」
「そんなのは国が考えることだ。情報は提供するが後は知らん。それはさておき、そのときのピロトークで耳にしたのだが、ネヴァライネン邸の強制捜査があった夜、誰かが〝大海嘯〟を構築していたらしい」
とても良い笑顔で、だがやっぱり笑っていない目を向けられて、再び凍り付くユーイン。
実は実害が一切なかったために、その事実は報告書には上げていなかった。それにギルドの目撃者もおらず、いたとすればそれを強制詠唱破棄した誰かだけである。
よって、それが露呈するなど無いと考えていた。
「ちなみに、お前の大海嘯を〝 強制詠唱破棄〟したのは、私の元妻が勤務している商会の客人らしい。なんでも十年以上前からの顔見知りだそうだ。さて、申し開きはあるかな?」
その後、部下との痴情の絡れや他の諸々がコロコロ露呈しちゃったユーインは、チームを解体された上に半年間の85%減俸処分となったそうな。
まぁだからといって、高給取りな彼が生活に困るほどの減俸ではなく、更に言うなら財布をしっかり自称妹に握られているため、そういう面では大して痛くなかったそうな。
だが――
「あらお兄様。どうしてそのような処分が下されてしまわれたのですか? まさかとは思いますが、あの泥棒猫に現を抜かしてしまわれたのでしょうか? 困ったお兄様です。浮気が許しますが、本気は赦しませんよ」
「待て誤解だルシール! 俺はやましいことなど何一つしていない!」
「あらそうなのですか? これは申し訳ありませんでした。ではこのケネス様とデメトリオ様から報告書と、泥棒猫――へスター様からの離縁状に御心当たりは一切ないのですね?」
「何故そんなものが!?」
「皆様、それはとてもとても協力的で好感が持てる方々でしたわ。泥棒猫――へスター様も、お兄様と一時とはいえ身体の繋がりがなかったのなら、良いお友達になれそうでしたのに。残念です」
それから一週間ほど、ユーインは体調不良で休暇を貰ったそうである。
それについては様々な憶測が飛び交ったのだが、真相は闇の中であったとさ。
商業都市グレンカダムは、大陸の中央付近に位置している、広大な領土を誇るストラスアイラ王国の最北に在る都市である。
地形は四方をそれぞれ天を衝く山脈に囲まれた広大な盆地であるため、その気候は比較的温暖で過ごし易い。
そして夏に南から吹き下ろされる風により涼しく過ごし易い南方のアバフェルディ山脈の麓は、地形がなだらかな森林地帯であり、避暑のための別荘地として名を馳せていた。
「商業都市」と銘打ちされているが、最も盛んなのは実は農耕であり、都市周辺には広大な農耕地帯が、それこそ盆地の隅から隅まで広がっている。
いや、盆地の隅から隅までではなく、常に寒風吹き荒ぶ厳しい環境の、魔獣の巣窟であるディーンストン山脈とは対照的な南のアバフェルディ山脈は、別荘地を除くその裾野の三合目付近まで多種多様な果樹園で埋め尽くされており、そしてそれは今も、可能な限り拡大中であった。
そんな険しい山脈に囲まれたグレンカダムだが、他の都市との交通は蒸気機関と鉄道交通が発達していなかった時代には、荷馬車で北方を除く三方の山脈に連なる山々から流れ出でる河川に沿った鞍部や切戸を縫うように移動していたため、いくら有数の穀倉地帯とはいえお世辞にも発展しているとは言い難かった。
その状況を打破したのが、前述の通りの鉄道技術である。
当初その交通機関を構想したときは、荷馬車と同じく山々を縫うように設計されていたのだが、それでは工事に時間が掛かるばかりか最高速度が荷馬車とほぼ変わらないため、一時はそのような荒唐無稽な計画は止めるべきだという意見が大半を占めていた。
だがあるとき、グレンカダム内で土木工事を請負う商会、工務店が一堂に介しての交流会食の席で、従業員数名で細々と工務店を営んでいた岩妖精の親方が、その遠大な事業を止める止めないで蹇々囂々している一同へ、最近出回ったばかりだが大変好評なリンゴ酒が注がれたグラスを片手に、
――通れないなら山なんぞぶち抜いてしまえば良い。
そう言い放った。
完全に酔った勢いでの大言壮語であるのだが、別名〝錆の民〟とも呼ばれ岩魔法に精通している岩妖精がそんな戯言を言う筈がないという謎の信頼感があり、その親方を中心に計画の見直しがされることとなった。
当然ではあるが、酔っ払った岩妖精の言うことに信頼などある筈もなく、ジガー(45ミリリットル)のロック一杯でヘベレケであったその親方は、自分が誇らしげに言ったこと全てを綺麗さっぱり忘れ去っていたそうな。
だが翌日の昼下がり、二日酔いで苦しんでいる彼の元へ、その計画書を携えた男が訪問したのを切っ掛けに、このときやっと親方はことの重大さと責任による重圧に気付いたのだった。
訪問した男はグレンカダムの中堅議員で、珍しい 西蔵驢馬の獣人族で、知的能力が低いと言われている彼ら種族ではあるのだが、ストラスアイラ王国の王都ブルイックラディで唯一の王立であるポートエレン司法大学を主席で卒業した才子であり、また自身の故郷であるグレンカダムの未来を憂える一人でもある。
彼は、ことの重大さに気付いて頭を抱える親方を他所に、ビックリするほどの熱量で鼻息も荒く暑苦しく語り、あまりの展開に呆然とする親方を置き去りに、ついでに計画書も置き去りにして去って行った。
こんな展開になるとは露ほども思っていなかった親方は、だがすぐに切り替え自分には絶対に無理だと正しく判断し、更に計画書を見る限り今更出来ないと言えないとも判断した上で、自身の出身地である東のドラムイッシュ山地の山肌に沿うように広がっている、岩妖精の国スペイサイドの首都エドラダワーにある職人集団、工業ギルドに助けを求めたのである。
その間にも計画はどんどん進み、そしてエドラダワーからの返答が一切無いばかりか音沙汰すら無く、親方の頭に心労のため白金貨ハゲが無数に出来始めた。
そして遂に、アバフェルディ山脈にトンネルを掘る計画を立案する段階になって親方が死を覚悟した頃、突然グレンカダムに一千名の岩妖精の集団が訪れたのである。
彼、彼女らは自らをエドラダワーから来た職人であると名乗り、先頭に立っている代表だと思しき威風堂々たる風格の女性が、
「同胞が面白そうなことをおっ始めると聞いたから来た」
と豪快に笑いながら、言い放った。
其処からの工程は、共に工事に関わっているグレンカダムの技術者達が度肝を抜かれるほどの速度で進んだという。
そしてトンネルを掘る段階になったとき、その起点の真正面で代表の女性―― ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドを中心に置いて、総勢八百名から成る超広範囲儀式魔法《リー》が展開された。
それから起こった超常現象を、当時その工事に携わっていた人々は生涯忘れることはないであろう。
トンネルの起点にするべく山肌を切り崩し、当たりをつけて打った鋲を中心として山肌が蠢き始め、見る間に鏡面のように滑らかな壁面を残して掘り進められる。
そしてその速度が度肝を抜くほど速く、更に壁面からの水漏れなど一切無いという常識的に有り得ない現象すら、それが当り前であるかのように固定されて行く。
その一つの山に、文字通りの風穴が開くまでその儀式は続き、だが僅か三日と半日でそれが出来上がるという異常事態が発生し、その後の儀式参加者の休養三日間で残る岩妖精二百名が総出でちょっとやそっとでは壊れない頑丈な橋梁を作り上げる。
そしてその後に同様の儀式魔法が展開されるという、有り得ないというか奇々怪界というか、ぶっちゃけバカじゃねーのと言いたくなるような無茶な出来事――そうとしか言えない出来事が繰り返された。
そんな主要施工主の全てを呆然とさせる岩妖精集団の無茶苦茶な工事が繰り返され、遂に僅か一ヶ月半でアバフェルディ山脈を貫く路線が開通したのだった。
そしてついでに、その山脈の隙間を縫うようにして細々と暮らしている小さな村の人々をも巻き込んで、何処から引っ張って来たのか開拓開墾大好き土妖精の集団五百名が、苦情が出る間も無く有無を言わさずあれよあれとという間に其処を休憩の要所とするべく開墾してしまい、満足したのか報酬など一切受け取らずに去って行ったという。
――土妖精は、満足な開拓や開墾が出来ればそれで良い、ちょっとアレな変態集団であった。
そのときいた土妖精集団の代表は、名をトールヴァルド・アードリアン・レダイグという壮年の男で、岩妖精の代表ヴラスチスラヴァの依頼――というか唆されて土妖精の国から駆け付けたそうな。
その二人は人目も憚らず、TPO全無視でイチャイチャしていたそうなのだが、それはどうでも良いだろう。互いの種族仲間も生温く見守っていたし。
ちなみに土妖精の国は、ドラムイッシュ山地の南方に位置するインヴァーアラン平原という肥沃な大地が特徴な地点に在る。
国の名は、レダイグ王国という。
その後の岩妖精達はワーカーズ・ハイになったのか、それとも当り前に仕事中毒なのか、ほぼ休む間も無く軌条の設置とトンネル内の通気のために用いる〝微風〟を付与した魔法柱を定間隔での設置などを気付いたらおっ始めており、またしても開通から僅か三ヶ月後に鉄道事業が完遂してしまった。
ちなみに、同様に東のフェッターケアン山脈と西のベンロマック山脈も、アバフェルディ山脈と条件は同じであったのを目敏く見付けちゃった岩妖精達は、規模が全然違うのに一つも三つも同じだという謎理論を掲げて、同じように工事を開始してしまった。
――そして一年が過ぎ、地理的に不可能とされていたグレンカダムに、念願の鉄道が開通したのである。
その無茶な工事に協力してくれた岩妖精達には感謝の意として莫大な金銭が支払われる予定であったが、代表のヴラスチスラヴァはそれを辞退し、それよりも鉄道が開通したのだから岩妖精の国スペイサイドと交易してくれるように依頼したという。
岩妖精の中に彼女の言葉に否と言う者は存在しなく、そしてそれはその総意であるし、そもそも一都市にそれを拒むだけの権限があるわけもなく、ストラスアイラ王へ上申して決定するとだけ返答した。
――で。
開通記念の祝賀会で出されたリンゴ酒をいたく気に入ったヴラスチスラヴァは、よせば良いのに立て続けにダブル(60ミリリットル)をロックで二杯も空け、そのままぶっ倒れたそうである。
そしてそれはその他の岩妖精達にも言えることであり、総勢一千名の死屍累々は、ある意味壮観であったらしい。
ちなみにそのリンゴ酒を卸した新進気鋭の酒造商会は、参加者が一千五百名を超える大宴会であるにも拘らず、10ガロン(約38リットル)の樽が十樽も出なかったことに驚き、商会長はもう岩妖精には出さないと言っていたそうな。
だがその後、ストラスアイラ王国にスペイサイドから直接そのリンゴ酒を仕入れたいと嘆願書が届き、結局は卸すことになったという。
出荷量が極端に少ないため、あんまり儲けには繋がらなかったらしいし、そもそも下戸の酒好きとか意味が判らんと、その商会長は呆れを通り越して感嘆しちゃったらしいが。
程なく、その酒造商会にスペイサイドの女王直筆の感謝状が届いた。
女王の名は、ヴラスチスラヴァ・ヴィレーム・スペイサイドと署名されていたそうである。
交通に関してそんな歴史があるグレンカダムなのだが、冬は北にあるディーンストン山脈から吹き降りる風雪によって気温は零下にまで下降し、更に前述の通りの盆地であるため雪深く、そして厳しい。
そのためグレンカダム周辺の、いわゆる郊外と呼ばれている土地は軒並み深い雪に閉ざされるため、冬の期間のみグレンカダム市街へ避難する者も多かった。
だがここ十数年、魔法や魔道具の技術に頼らない科学技術が大いに発展し、蒸気機関を組み込んだ車両や、またその魔道具も根強く開発と改良が成され、それによる除雪が可能となり完全に閉ざされることがなくなった。
勿論鉄道に関しても同様で、軌条に定感覚で温度調整の魔石が設置され、それが一五〇度まで加熱することで凍結を防ぎ、そして雪でも列車が走行可能となったのである。
そのため、慣れ親しんだ我が家を、一時とはいえ離れる者は少なくなったのである。
もっとも、あくまでも少なくなっただけであり、現状では市街への避難を優先する者は多数いるのも事実だが。
なにしろ除雪をしてくれるのは、あくまでも公道のみであり、それ以外の自宅周囲は自力で雪掻きをしなければならないのだから。
そんな雪深いグレンカダムなのだが、その冬に教会ではある儀式が、通例で行われている。
その儀式は〝齢の儀〟といい、基本的に初夏と初冬の年二回、一〇歳を迎えた子供達の魔法適性を調べ、そして正しく導くという体で行われているのであった――
――以上。
ほぼ余談でしかなかったが、あのとき語られなかった珍事を――
当事者から言わせれば、迷惑極まりなかった出来事を――
そしてそんな珍事と迷惑が、商業都市グレンカダムを大きく揺り動かす大事件となったのを――
――今こそ語ろう。
~導入~
魔法の聖女と大いなる勘違い。
――教会騒動――黒の章