磁石式卓上電話機の受話器をそっと置き、ヒューは無意識に浮かんで来る笑みを抑えきれずにニヤニヤ笑う。

 だがすぐにその表情を引き締め、併設されている事務所から自宅へ戻ると、卸したての白シャツに着替え、光沢のある青緑色(ターコイズ・ブルー)のネクタイを締め、取って置きであるドットストライプ地のダブル・スーツに袖をとおす。
 前ボタンは閉めない。その方がワイルドさが際立ち、自分に合うから。

 洗面台の姿見に自分を写し、これから会う少女に失礼がない容姿か、また不快感を与える印象がないかを確認する。

 姿見には癖のない細く短い金髪と、抜けるような空色(スカイブルー)の瞳の男が写っていた。
 そのひょろりと背の高い容姿は、一見線が細い若者にも見えるのだが、彼の耳を見れば見た目どおりの年齢ではないと判るだろう。

 彼の耳は細く長く、そして先が尖っていた。

 そう、彼はヒト種ではなく、森妖精なのである。

 森妖精は一般的に長命で、その個体によっては人種の十倍以上も生きる者もいる。

 遥か昔、現在のように科学が一般的ではなく剣と魔法が全てであった時代では、その魔法適性の高さから「幻の種族」とも呼ばれていた。
 だが魔法も一般的に普及し、そして科学も発展している現代では、それらは珍しくもない「ただの人」である。

 まぁ森妖精の国の王族のような純血であれば、現代でも珍しいのだが。
 なんといってもその王の年齢は数千歳だと言われており、更には本人も、覚えていないばかりか訊いたとしても、

「ンなのイチイチ覚えていられるか! 泣かすぞオラ!」

 と逆ギレされて態度悪く言われるのがオチである。

 森妖精の王は、ちょっとヤンチャ(ヤンキー)なのであった。

 もっともそんなことを言っていると、のほほ~んとしている「あらあら系」な千年くらい年上の王妃に、

「あらあら~。も~、みんなを脅しちゃダメよ~。困った子ね~も~」

 と言われて何処かへ強制連行されて行き、真っ白い灰になるまでがセットで、そしてお約束となっていた。

 関係ないが、一般的に森妖精は子宝に恵まれないという定説があるが、それは全くの流言蜚語(デマ)である。
 確かに医療が今ほど発展していなかったときにはそうであったが、現在ではそんなことはない。
 そもそも森妖精は活動量がやたらと多く、具体的には人種の四倍くらい活動するため、妊娠初期も変わらずそうしてしまって着床する前に流れてしまうのだ。
 それが判った現代では、逆に増え過ぎてしまったため避妊を推奨したり、政策の一環でひとりっ子の世帯には年間金貨三枚(三百万円)を支給するなどを打ち出しているのだが、イマイチ効果がない。
 何故なら、森妖精は死ぬまで元気に老若男女問わずに働けるため生産年齢人口は増えるばかりで減らないし、そのため収入に困る世帯は殆どなかったから。

 なにしろ森妖精は老いないし、身体も全身に魔力が循環している所為かやたらと強靭で、更には免疫力も相当高く病気知らずである。そしてほぼ寿命がないというオマケ付き。

 この現代で、森妖精が珍しくもなんでもなくなった所以(ゆえん)である。

 そのうち世界は森妖精だらけになるだろう。

 あと余談だが、その(ヤンキー)に子供は数百人おり、(しか)も全て王妃が生んでいた。
 そう、医療がまだ原始的であった時代から、コロコロ生んでいたのだ。

 王国に伝わる伝承によると、数千年前に子宝に恵まれない王妃の元に、あるとき顔に向う傷がある人種で、ジャックと名乗る黒衣の医師が来訪したという。
 彼は前述のとおりに激しい運動を控えることと、体温を測って高い時期を狙えば出来るだろうと言った。
 そしてその結果を確認し、第一子をその医師自らが取り上げて、暫く経過を診たあとに誰にもなにも言わずに姿を消したという。
 但しその莫大で法外な報酬だけは、しっかり受け取っていたらしい。

 王国ではその救世主とも呼べる黒衣の医師に敬意を評し、こう語り継いだ。

 偉大なる黒(ジャック・ラ・グ)のジャック(ラン・ノワール)――と。

 そして数百年前、王家の秘伝とされていたその方法――「基礎体温法と安静」が何処からか漏れ出てしまい、子宝を望む民衆へ爆発的に拡がってしまい、この有様である。

 中には人口が溢れる森妖精の王国を去り、その居住地を海へと移した者達もいた。

 彼らは自らを「海妖精」と名乗り、其処で新たに建国しという。

 それが概ね二百年前。

 因みにその建国王は、国王(ヤンキー)の第二子だった。

 そんなこんなで全然珍しくもない種族の森妖精であるヒューは、姿見に写る自分に満足してキメ顔をする。
 だがその尖った耳がピコピコ動いているために全然格好が付かないのだが、それには一切気付いていない。
 傍に猫がいたのなら、ピコピコ動くそれに飛び付かれているだろう。
 実際飛び付かれて齧られ蹴られ引っ掻かれて血だらけになったこともあり、それ以来ヒューは猫嫌いであった。原因が自分にあるのに、理不尽である。

 着替えが終わってそれに満足すると、受付事務のアーリーンへ出掛けると伝えながらハットスタンドからホンブルグハットを取り、くるりと回してから頭に乗せた。その仕草が、いちいち気障ったらしい。
 そのためかどうかは知らないが、言われたアーリーンは一瞥しただけで生返事を返し、書類整理を続けてる。

 ヒューが突然出掛けると言い出すのはいつものことで、それにそうしたとしても困ることなど一切ないから。

 そもそもヒュー自身が出張らなければならない案件はそうそうある筈もなく、もしあるとすればそれは各ギルドの上層部や地方自治領主、そして王国貴族などからの指名依頼くらいだ。

 そして平和なこのご時世、そんな依頼がコロコロ転がっている筈もなく、彼は此処数年は仕事らしい仕事はしていない。

 事件なんてそうそう起きるわけもなく、行く先々で殺人事件に巻き込まれる秘密な小道具を持っている少年や、怪文書に招かれて事件に遭遇して謎が全て解けちゃう探偵の孫なんていないのだ。

 そもそもそんなに人死にが出たら、堪ったものではない。

 ただでも都市部では結構お亡くなりになる方々がいて葬儀屋さんは忙しいのに、更に増えちゃったら過労で倒れてしまうだろう。

 そんなすることがないヒューがシェリーの電話に喰い付いちゃうのは、最早必然であった。

 そのシェリーはというと、ヒューが直接関わることを躊躇していた。

 何故なら、あまりに役不足であるから。

 彼は国法士(こくほうし)になってから数百年もの間、意図的には結構あるものの、それ以外での示談交渉や裁判で負けたことなど、ただの一度たりともなかった。
 意図的に負けるのは、自身が調査し明らかに依頼者に責があるときだけだ。

 彼は不正を絶対に許さない。

 その代表例が、約一五〇年前に起きたストラスアイラ王国の公爵家による国庫贈収賄、及び横領事件である。

 当時まだ二級国法士であり、公立国法事務所の職員であったヒューは、ふとした切っ掛けで地方都市の議員による収賄事件を担当していた。
 その事件は、当初その議会員によるものだと思われていたのだが、調べて行くうちに金の流れがおかしな方向へ行っており、更にその額が桁外れに大きいことに気付いたのである。

 その時点でその公爵家から圧力が掛かり、事務所から調査の中止命令が出されたのだが、ヒューはそれを止めなかった。

 命令など完全に無視して、調査を継続したのである。

 そんなことをすれば当然事務所にはいられない。

 案の定と言うべきか、彼は即座に懲戒処分となったのだが、逆にそれで完全に枷が外れることとなる。

 その異常ともいうべき洞察力と、森妖精特有の能力を存分に発揮し、自身や周囲の近しい者達に危害が及ぶ前に全ての証拠を言訳など絶対に許さないほど完膚なまでに揃え、直接王国宰相へ突き付けた。

 結果、その公爵は言い逃れが全く出来ない窮地に追い落とされ、そしてその金額があまりに多過ぎたために並の処分は有り得ないと国王自ら断罪した。

 その公爵は爵位剥奪の上斬首となり、数十年に及んで甘い汁を啜り続けて改心の余地がない一家徒党、そして同じくそれに加担していた家令や使用人は全て犯罪奴隷となり、残らず命ある限り強制労働をすることとなった。

 このときの横領額は公表されていないが、一説によると王国国家予算の十年分はあったと噂されている。

 どちらにしても真相は闇の中で、今後語られることはないだろう。国の恥だし。

 そして事件後、ヒューを懲戒処分とした事務所の所長が揉み手をしながら菓子折を持って訪ね、職場復帰を命じたという。
 だが事件の捜査をしていたにも(かかわ)らず一級資格を取得していた彼は、資格証である『王定資格(ロイヤル・クォリフィ)』のメダリオンを突き付けて却下した。

 そんなヒューは一度、国王自らに王宮勤務を薦められたのだが、自分がそういうところへ行くと怯える貴族が出てくるからと、正式に辞退した。

 公爵失脚の立役者であり、然もそれを単独で行ったバケモノで、更に寿命が無いに等しい森妖精であるヒューが王宮にいれば、確かに貴族どもの心胆を寒からしめるだろうと王は大笑いし、だが心底残念そうにその申し入れを受け入れたという。

 そんな実績持ちのヒューが、傾き掛けている商会の失踪した会長が使った無駄金(交遊費)の額を調べるなどという、言ってしまえばしょーもない仕事を請け負うというのだ。恐縮しない方がおかしい。

 だがヒューにしてみれば、仕事の質などどうでも良いのだ。

 この仕事に、大きいも小さいも無いのだから。

 それに彼はシェリーのことが大好きで、彼女のためなら道を外しても散財しても良いとすら思っている。

 いや、大好きなのではなく、最早愛していると言っても過言ではない。

 流れる美しい白金の髪(プラチナ・ブロンド)、光の加減で色が変わる翠瞳(エメラルド・アイズ)、まだ幼さが残る表情、だが何処か大人の色香が漂い始める肢体。

 それを回顧するだけでヒューの背筋に電流が走り、そしてその鼓動と呼吸が速くなる。

 しかし彼は、そんな燃えて萌えるような想いを心に募らせているのだが、決してシェリーに触れはしない。

 それは彼自身が己に課した制約にして誓約、そして聖約!

 あのときシェリーを見たときから、エセルの腕に抱かれて眠る、可愛らしくも美しいシェリーを見たときから、ヒューは彼女に無限の愛を捧げると誓った。

 森妖精が信仰する精霊にではなく、誰にでもなく、そう――己自身に。

 この胸に熱く(たぎ)る愛を――

 心を焦がし焦がれる愛を――

 凍った感情を融かして溢れ出る愛を――

 全身を貫き燃えて萌える愛を――

 愛を、愛を! 愛を!!

 その全ての愛を!

 余すことなく欠片も残さず捧げよう!

 彼女の――愛するシェリーのためならば、ヒューはその全てを賭してその障害を排除しよう!

 そう、これは聖戦!

 そして負けることなど許さない!

 ならば捧げよう!

 約束された勝利を!

 だが――

 幼いシェリーに触れるのは断じて許さない!

 幼子は、遠くに眺めて愛でるもの!

 それが――紳士の(たしな)み!

 そう、ヒュー・グッドオールは、紳士!

 (まご)うことなど一切ない、完璧なる紳士!

 人は彼を、ヒュー・グッドオールを畏怖と畏敬の念からこう呼ぶ。

 ――変態紳士――と。



 ――*――*――*――*――*――*――



 グッドオール国法事務所への電話を切り、大変なことになったと溜息を吐いているシェリーは、編集が終わった帳簿を呆れながら捲っているときに突然の悪寒に襲われたという。

 然もそれは、一度や二度ではなかった。

「どうしましたお嬢?」
「あ、ザック。大したことじゃないんだけど、何故かさっきから悪寒が止まらないのよ。おっかしいなぁ……風邪引いたかな?」

 シェリーの不可解な体調変化にいち早く気付いた店長――アイザック・セデラーは、心配しながら怪訝な表情で訊く。
 そして出されたその答えに、類は友を呼んじゃったのかと溜息とともに何故か納得して、呟くように言った。

「あー……それきっとヒューの旦那がまた『愛を愛を愛を』って騒いでるんじゃないですか? なにしろあの人、変態紳士ですから」
「ヤメテ!」