私は灰色に染まってしまった。
周りの目が気になって、同調して、飲み込んで、愛想笑いを繰り返す。そうして私の色は、他人の色と混ざって灰色に濁っていく。
自分ではない誰かになりたい。こんな自分が嫌でたまらなかった。
強い意志を持っている人。
周りを笑顔にすることができる人、輪の中心にいる人。
そんな鮮やかな色を纏う人たちが羨ましい。
でも、どうせあんな風にはなれない。そう諦めていた。
だけど私は、なに色にだってなれる。
***
「楓はどれがいい?」
問いかけられて、視線を上げる。美来が袋からなにかを取り出して、机に並べた。
「これ、バングル?」
「うん! きのう三百円ショップで売ってるの見つけたんだけどさ、かわいくない? お揃いでつけようよ〜! ゴールドとシルバーどっちがいい?」
朝のホームルームが始まるまでのわずかな時間、教室は賑やかな声で溢れている。
最近の私は美来とふたりで他愛のない会話をしながら過ごすことが多い。大抵は何事もなくチャイムが鳴って一日が始まるけれど、時々こうして選択を迫られることがある。
——どうしよう。
伸ばそうとした手に迷いが生まれて、指先を握りしめた。並べられたふたつのバングルは、私にはどちらも同じに見える。違いがよくわからないまま、右側を指差した。
「……私は、こっちがいいな」
手渡されたそれは、触れるとひんやりとしていて硬い。
「楓はこっち選ぶかと思った!」
「え?」
「シルバー系の方が好きって前言ってたじゃん?」
今私の手にあるのは、ゴールドのようだ。バングルを握りしめながら、私は笑みを浮かべる。
「この色も好きなんだ」
不審に思われることなく対応ができたかひやひやする。私がシルバーを好きと言っていたのは夏前の話で、今では自分がなに色を好きなのか、よくわかっていない。
私には——全ての物がモノクロに見えている。
「かわいいね!」
腕にはめて見せると、美来は満足げに頷いた。
「お金払うよ」
「いいのいいの! 私が楓とお揃いでつけたかっただけだから!」
「ありがとう。大事にするね!」
「てか、聞いてよ! プチプラで可愛いアイシャドウがあって、次のバイト代入ったら買っちゃおっかなー」
ゴールドのバングルを選んだことにあまり追及されなくてよかった。乗り切れたことにほっと胸を撫で下ろす。
あることがきっかけで、私の視界から突然色が消えた。
淡青の澄んだ空も、深緑の黒板も、木製の唐茶色の机も、全てがモノクロに見えるようになってしまったのだ。
最初は自分でもなにが起こったのか理解できず、戸惑いながら必死に調べた。ネットを駆使して、なんとか原因を探ろうしていると、あるページが目にとまった。
——タイトルは、灰色異常。
視界が灰色になる病。色覚異常の症状と異なる点は、人の纏っているオーラだけが色づいて見えるそうだ。けれどそれ以上の情報はいくら調べても出てこず、まるで都市伝説のようだった。こんな奇妙な体験を誰かに話しても信じてもらえるような気がせず、二ヶ月が経った今でも誰にも言えていない。
最近だんだんとわかってきたのは、オーラの色が同じ人は似たタイプ。
美来みたいな好奇心旺盛でリーダー的な存在は橙色のオーラが多く、クラスの発言力のある男子もこの色だ。他には、黄色や赤色、緑色などの鮮やかな色がある。けれど、私のオーラは、ひとりだけ灰色だった。
最初は自分のオーラが見えないだけだと思っていた。でも他の人のオーラの見え方とよく似て、身体に滲んでいる。学校や街で様々な色を纏った人を見てきたけれど、灰色に染まっているのは私だけ。この色がなにを意味するのか、よくわからない。
「そういえば隣のクラス、入り口のアーチ作り結構進んでるっぽいよね〜」
美来の言葉に私は頷く。土台は既にできているようだった。
もう九月だし、私たちのクラスもそろそろ作業しないと待ち合わなくなっちゃう。そう言いたいのに、言葉が上手く出てこない。
「展示の作業っていつから始めるのかな……」
緊張しながらも話題を振ると、一瞬沈黙が流れた。
失敗した。言うんじゃなかった。冷や汗が背中に滲み、手のひらを握りしめる。もっと違った言い方をするべきだったかもしれない。この空気をどうやって戻そう。焦るほど、言葉が思い浮かばなくなっていく。
「このままなにもやらずに終わった方が楽じゃない?」
私に同意を求めるように美来が笑いかけてくる。
うん、わかるよ。そう答えれば、この場をやり過ごせるとわかっていた。だけどこれは本音じゃない。でもまた微妙な空気になってしまわないか怖くて、口に出せなかった。
「一年の文化祭って本当やる気でなくない?」
不満を漏らす美来に、私は曖昧な笑みでなにも答えられない。けれど、美来はどんどん話を進めていく。
「なんで雑用とか展示なのって感じ。展示なんてサボったってバレなくない? これだけ人いるんだしさ」
美来の声が響いてしまい、窓側にいる一部の女子たちが眉を顰める。そのことに美来は気づいていないようだった。
「まあでも早く二年になりたいよね。屋台とかの方が絶対楽しそう! ね!」
自分の本当の気持ちを隅に追いやる。そして私は目をぎゅっと瞑るように視界を潰して笑った。
「だね」
私は展示作業が楽しみだな。たったそれだけのことが言えない。
これを口にしたところで私を否定したりしないかもしれないのに、周りと違う意見を持つことが怖くて、些細な言葉さえ躊躇ってしまう。本当の気持ちを嚥下して、笑みを貼り付けたまま、腕についたバングルを指先でいじる。どうして私は、こんなに臆病なんだろう。
予鈴が鳴り響くと、大きな足音を立てて男子数名が教室に流れ込んできた。
「掴むなって、馬鹿!」
「はい、俺が先―!」
競争していたのか、お互いの服を掴み合いながら騒いでいる。他の生徒たちの机にも容赦なくぶつかっていて、私の机も斜めに曲がりペンケースが勢いよく床に落ちてしまった。
その衝撃でプラスチック製の蓋が開いて、ペンが散らばる。近くの椅子の足に弾かれると、ペンが少し遠くまで転がっていく。取りに行こうと一歩動いたところで、誰かが拾い上げてくれた。その相手を見て、息をのむ。
——藤田良くん。
深く刻まれた二重のラインは目尻に向かって上がっていて、不機嫌そうに曲がっている口角。近寄りがたい威圧感があり、騒がしいわけでもないのに目立つ存在だ。
そして纏っている真っ赤なオーラは、意志の強さが現れていた。この色の人は、物事をハッキリと口にする人が多く、真っ直ぐで頑固なところがある。
自分の方が先に着いたとふざけながら言い争っている男子たちを、藤田くんが睨みつける。
「おい」
彼が一言発するだけで、場が凍りつく。
「ぶつかってんだろ」
「……悪い悪い!」
空気を和ませようとしたのか、へらりと笑って男子が彼の肩を叩こうとすると、藤田くんがその手を払い除けて、「うぜぇ」と一蹴する。男子たちの表情が強張り、空気が一層重たくなった。
周りの反応などお構いなしといった様子で、藤田くんは視線を私に向けて、歩み寄ってくる。彼の圧に押しつぶされそうな感覚になりながらも、金縛りにあったように動けなくなった。
近くまでやってきた藤田くんは、無言でベンを私の机に置く。そしてすぐに背を向けてしまった。
「……ありがとう」
口の中が乾いて声が掠れる。既に離れた席へ戻っていった彼には、私の言葉なんて届かなかったかもしれない。
「なんだよ、あいつ」
「ねえ、楓のペン散らばったんだけど! ちゃんと拾ってよ!」
苛立った様子で文句を言おうとする男子たちの腕を美来が軽く叩く。
「ごめん」
男子たちは気まずそうにしながらも、ペンを拾い集めてくれた。ケースに仕舞い終わると、離れた席にいる彼に視線を移す。頬杖をついて退屈そうにしている。
「喧嘩でも始まるかと思った」
「あれくらいじゃ喧嘩にならないっしょ」
「いや、だって藤田くんって、ぶつかっただけで他クラスの男子を殴ったらしいよ」
女子たちが小声で話しているのが聞こえてくる。彼がクラスで浮いているのは、言いたいことをハッキリと口にする性格だからではない。
入学して二週間で起こした問題が原因だ。学校内でタバコを吸い、さらには暴力沙汰を起こして停学になった。他にも喧嘩っ早いという噂も流れている。
ペンを拾ってくれたことは感謝しているけれど、言葉がキツくて周りの空気など気にしていない様子の彼のことが私は少し怖かった。
教室がざわつき始めると、前方のドアが開かれた。早く席に着くようにと担任の先生が促していく。
「文化祭実行委員、前に出てきてくれ」
今日は出席をとることなく、担任の先生が文化祭実行委員のふたりを黒板の前に呼ぶ。気怠そうで機嫌があまりよくなさそうだった。
そこまで大変じゃないし、十一月の本番までに間に合わせればいいと先生が言ったため、九月になった今でも誰ひとり声を上げずにここまできてしまった。
さすがにこのままでは、まずいと思ったのかもしれない。
「今日中に役割くらいは決めて、グループで動くようにしてくれ」
スケジュール管理をするグループ、デザインを考えるグループ、制作や材料を調達するグループの大きく三つに分けるそうだ。
「あとこのクラスのテーマカラーは青だからな」
クラスカラーというのが最初から決まっていて、体育祭のハチマキや文化祭のクラスTシャツで使うことになっている。展示もクラスカラーを使うことになるみたいだ。
「それぞれやりたいものに挙手して決めるように。じゃあ、あとは頼んだ」
先生はプリントを文化祭実行委員に渡すと、進行を任せて教室から出て行ってしまった。ドアが閉まった直後、各々が周囲の人と小声で話しだす。一緒にやろうと声を掛け合っている生徒や「展示ってなにするの?」という声が聞こえてくる。
このクラスで本当にやりたいものに挙手できる人は、どのくらいいるのだろう。
「ねー、スケジュール管理とか楽そうでよくない?」
隣の列の前方に座っている美来が振り返って、私に声をかけてくる。クラス全体に聞こえていて、私は自分たちに集まっている視線を散らしたくて、「そうだね」とすぐに了承する。
「はーい、私たちスケジュールやりまーす!」
響き渡った美来の声に、実行委員の子は少し困ったように眉を下げた。手に持っていたプリントの束を教卓に置いて、控えめな声で呼びかける。
「……スケジュール希望の人、手を挙げて」
暗黙の了解といった形で、美来と私だけが天井に向かって片手を伸ばす。本当は制作グループがよかったけれど、美来は嫌がるはずだ。それなら一緒に楽しくやれそうなのを選んだ方がいい。
スケジュールの定員は三人だったものの、他の人は誰も手を挙げない。以前だったら三人グループだった私たちは、ぴったりだったはずなのに。
「じゃあ、ひとまず別のグループを先に決めます。デザイングループ希望の人、手を挙げて」
展示のテーマやデザインを考えるグループと、制作グループが決まっていく。最後に残ったひとりが誰なのか予想がつき、私は冷や汗が額に浮かぶ。
「えっと……藤田くん、スケジュールで大丈夫?」
「別にいいけど」
文化祭実行委員の子が顔色をうかがうように聞くと、藤田くんはすんなりと受け入れた。藤田くんと美来と、私。歪な三人が同じグループになってしまった。
「今からグループに分かれて、この紙を確認して」
実行委員の子から渡されたのは、担任が作成した各グループの役割詳細だった。私たちのグループは、他のグループと連携をとりながら全体のスケジュールを組み、随時進捗を聞きながらスケジュール管理をしていくサポート係みたいだ。そして文化祭当日、展示の前に立つ人のタイムスケジュールも決めなければならない。
「えー……なんか意外と面倒くさそう」
やめておけばよかったと、美来が口を尖らせた。けれどもう他のグループも決定してしまったので、今更撤回もできない。
「こんなのあるなら先に配ってほしかったな〜」
美来がプリントの端を指先でくるくると丸めながら、不服そうに眉を寄せる。
「あ……」
「てかこれ、私たちでどこまで決めちゃっていいの? 当日までの制作スケジュールって、作業する人たちに聞かないと難しくない?」
言葉を迷っているうちに、話がどんどん進んでいってしまう。美来の会話のペースに乗り遅れてしまい、唇を結ぶ。
実行委員の子がプリントの束を持っていて、配ろうとしてたよ。私たちが先にスケジュールをやりたいって言ったから、先に決めてくれたのかも。
……そう言えばよかった。
なるべく相手を不快にさせないように、上手に話したい。そんなことを考えすぎて、よく私は話すタイミングを失ってしまう。
「プリント配る前に菅野がスケジュールやりたいって言ったからだろ」
空いていた椅子が埋まり、声の主は不機嫌そうに美来を見やる。藤田くんが話し合いに参加してくれることに驚きながらも、美来は指摘されたことがおもしろくなさそうだった。
「……私のせいってこと?」
「実行委員は悪くねぇだろってこと。それよりスケジュール、早く決めねぇと他のグループが困る」
ふたりの間に微妙な空気が流れ始める。
「え、まじ? これ絶対いい案だと思ったのに!」
窓側から大きな声が響いた。誰かひとりが噴き出すと、小さな笑い声が波紋のように広がっていく。展示のテーマやデザインを決めるグループだ。美来と同じリーダーシップを取るのが得意な橙色を纏った男子が中心となって話していて、楽しげな雰囲気だった。
彼らとの温度差に、私たち三人の空気はますます淀んでいく。
どうしたらこの空気が変わるのか方法が思い浮かばない。こんなとき、あの子だったら上手にまとめてくれた。
教卓側に集まっている制作グループに視線を向ける。赤いオーラを纏っていて、肩にかかるほどの長さの髪にゆるくウェーブをかけた女子がすぐに目にとまった。
真剣な表情でなにかを話している彼女の姿は、夏前と変わらない。変化があったのは私の視界と、私たちの距離だけ。彼女の視線が近くにいた女子から、廊下側へと流れていく。その瞬間、目が合った気がして慌てて俯いた。
心臓が嫌な音を立てて、思い出したくない記憶を蘇らせる。
閉じ込めて目を逸らしていた出来事の再生ボタンが無遠慮に押されて、当時の光景が脳裏に流れていく。
『なに考えてんの?』
苛立ちを含んだ声がセミの鳴き声に混ざって鼓膜を刺激する。信号の青い光が警告するように点滅していて、立ち止まった私たちの横を生温い風が吹き抜けていった。
『楓は——』
見ないで。そんな軽蔑するような眼差しを向けないで。下唇を噛み締めて、目蓋をきつく閉じる。
「ねえ、楓がリーダーするのはどう?」
右側から聞こえてきた言葉に、我に返って顔を上げた。
「え? リーダー?」
「うん!」
意識が逸れていたせいで、どうして突然私がリーダーをやるという話になったのかがついていけない。
「そういうの苦手で……向いてないよ」
「そんなことないって!」
美来が声を弾ませる。
「楓って周りと上手くやるの得意なイメージだし、合ってると思う!」
私のことをそう思ってくれるのは嬉しいことだけど、足を引っ張ってしまいそうだ。美来のような言葉に力がある人がまとめ役の方が私よりもずっと向いている。それに、私のイメージってどこからきているんだろう。
「無理に押し付けんなよ」
藤田くんが咎めるように言うと、美来は「だって」と口を尖らせて、教卓側へ視線を向ける。
「私は、リーダーはやりたくないし」
誰のことを見ているのかすぐにわかった。
美来が避けているのは、先ほど私が見ていた女子——瀬尾めぐみ。
制作グループのリーダーはめぐみらしく、輪の中心になってなにかを話している。リーダーになると必然的に関わることになるので、やりたくないみたいだ。
めぐみは七月の前半までは私たちのグループにいて、美来が大好きだったはずの子だ。
自分の意志を強く持っていて、曲がったことを嫌い、真っ直ぐな言葉を投げかけてくる。そういう彼女を美来は気に入っていて、ペアでなにかをするときはいつもめぐみに声をかけていた。だけど、美来に対してめぐみがハッキリと物申したことによって、平穏だった三人の関係は変化した。
めぐみへの好意は、オセロのようにひっくり返って、敵意になってしまったのだ。
「お願い、楓! リーダー、頼んでもいい?」
本当はやりたいくない。でもやりたくないのは美来も同じで、誰かがやらなければいけないことだ。それに美来は私がリーダーをやるのを望んでくれている。少しだけ気分は憂鬱だけど、期待に応えたい。
「うん。やってみるね!」
「笹原は、本当にそれでいいわけ?」
「大丈夫だよ」
口角を上げて笑みを作る。居場所を失いたくない。失敗をしてガッカリされないように、やるならしっかりしなくちゃ。
「ありがと〜! やっぱ楓は優しいし頼りになるね」
心になにかが引っかかる。美来がくれた優しいとか頼りになるという言葉は、いい意味のはずなのに、素直に喜べない自分がいた。
***
その日の夕方、私のスマホに電話がかかってきた。相手は前のバイト先の店長で、話すのは約二ヶ月ぶりだった。
「……え? 新店舗で面接ですか?」
告げられた内容に驚愕して、思わず大きな声を出してしまう。
四月頃から学校近くのファミレスでバイトをしていたけれど、七月で営業が終了してしまったのだ。店長は他の店舗に異動になったそうで、そこが私の最寄駅にある新店らしい。
『今人手が足りなくて、前の店舗の子たちにも声をかけてるけど、もう他で決まってる人ばかりで。笹原さんは他のバイト決まっちゃった?』
「いえ……」
『よかった! 会社の決まりで一応面接からしないといけないんだけど、どうかな』
バイト代が入らなくなったことは痛手だったので、有難い話だけれど、ひとつ懸念があった。同じバイトの経験があるとはいえ、灰色異常のことがある。
「でも、私辞めて数ヶ月経ちますし、そこまで役に立てない気がして……」
『大丈夫! 笹原さん、しっかりしてるイメージだから、新しい場所でもすぐ仕事覚えられるよ!』
私は、しっかりなんてしていないのに。言葉に出してしまいそうになって、口を閉ざす。あの頃、初めてのバイトで慣れるのにいっぱいいっぱいだった。ミスだってたくさんしたし、周りに助けてもらっていたからできていただけだ。
『お願いできないかな?』
かなり困っているようだったので、ひとまずは面接だけでも受けるという形に収まった。バイトをまたやりたいのか、やりたくないのか。自分で決められないまま、また流されてしまった。私は自分の意思がどこにあるのか見えなかった。
そうして早速翌日面接を迎えた。従業員用の裏口からファミレスへ入ると、四十代くらいの女性が「笹原さん!」と私に明るく声をかけてくれた。電話をくれた店長だ。
纏っているのは緑色。灰色異常になって、店長のオーラを見るのは今回が初めてだった。前にバイトしていたときは、ちょう発症する前にお店が閉まったので、オーラを見る機会はなかったのだ。
緑色は周りから好かれやすい。学校でも何人か緑色の人がいるけれど、人当たりが良くて親切なタイプが多かった。
従業員の休憩スペースに入ると、私と店長は他愛のない話をしながら、パイプ椅子に座る。まだ迷いがあるとはいえ、面接を受けると決めた以上はきちんと形式に沿って履歴書を提出した。
「よろしくお願いします」
「そんな堅くならないで。季節のメニューとかは変わってるけど、グランドメニューはほとんど変わっていないし、こっちの方が最新設備だからやりやすいかも」
作業などは前の店舗でしたこととほぼ変わりないことなどの説明を受ける。そのことに安堵したものの色のことがあって頷けずにいると、せめて冬の繁忙期だけでもバイトをしてほしいとお願いされた。
「私、足を引っ張るかもしれないです」
「笹原さんなら大丈夫。真面目だし、仕事覚えるのも早かったでしょ」
流されてばかりの私は、本当に真面目なのだろうか。そんな疑問が浮かび上がる。
「でも……」
「今、キッチンの人手が足りてないの。お願いできない?」
必死に懇願されて、言いたかったはずの言葉を飲み込む。
できませんなんて言える空気じゃない。断るのなら面接を受けにくる前に言うべきだった。だけど私でも役に立てて、必要としてもらえるのなら有り難いことだ。せめて繁忙期が終わるまで働こう。自分に何度も言い聞かせながら、私は口角を上げる。
「はい」
店長の表情に明かりが灯り、引き受けてくれてよかったと安堵していた。そしてすぐにでも人手が欲しいという要望で二日後の木曜日からバイトに入ることになった。
***
バイト当日、久しぶりのバイトに緊張しながらも、真新しいキッチン用のユニフォームに身を包む。今は色が見えないけれど、ライトイエローのシャツと茶色と白のストライプ柄のズボン。そして帽子は茶色だ。
いくら経験があるとはいえ、数ヶ月だけしか働いておらず、新人みたいなものなので早く仕事に慣れなければいけない。気を引き締めて従業員スペースを出ると、近くで店長が私を待ってくれていた。
「笹原楓です! あの……よろしくお願いします!」
改めて自己紹介をすると、店長に軽快に笑われる。
「緊張してる?」
「二ヶ月ぶりくらいなので……」
「大丈夫だよ。笹原さんも知っての通り、キッチンの仕事って簡単料理だから」
ここのファミレスの料理はそこまで複雑なものはない。基本的に冷凍が多いので、揚げたり、湯煎にかけたりする。とはいってもメニュー数は多いので、まだ全て頭に残っているか自信がなかった。
「それじゃあ、まずはここで手を洗って消毒ね」
「は、はい!」
手を洗って消毒をし終えると、キッチンの設備についての説明をしてくれた。私が以前働いていた場所よりも最新の機器で使い方が違うらしい。
「あ、そうそう。フライヤーだけど、なにを揚げるのかボタンで選択してね。ちょうどいい温度になったら、音が鳴るから」
フライヤー以外にも、いくつか前の店舗とは異なる使い方の物があり、メモを取っていく。
「あとはー……ちょうどいいところに藤田くんが来たね!」
足音が聞こえてきて振り返ると同じユニフォームを着た男の子がいた。まさかこんなところで会うなんて想像もしていなかった。
「笹原さん、藤田くんと同じクラスなんだって?」
「え、あ……はい」
「昨日それ聞いてびっくりしたよ! クラスメイトならやりやすいね!」
クラスメイトといっても、最近初めて関わりを持った相手。日常会話をしたこともない彼に親しみは持てず、むしろ困惑の方が大きい。
「ちょっと本部に連絡することがあるから、少しの間外すよ。それじゃあ、あとは藤田くんよろしくね〜!」
藤田くんと向き合いながら、鋭い眼差しに息をのんだ。
燃えているような赤いオーラが、逃げ出したくなるような焦燥感を与えてくる。意志を強く持っていて、周りの目を気にせずに自分を貫いている人。
めぐみとの関係がうまくいかなかったこともあり、同じ色を纏っている藤田くんにも苦手だ。それに噂のこともあり、些細なことで怒らせたらと思うと怖かった。
「ょ……よろしくお願いします!」
声が微かに震えてしまう。戸惑いを悟られないように、笑顔を必死に浮かべるけれど、藤田くんは機嫌が悪そうに眉を寄せている。
「よろしく」
素っ気なく返されて、ますます萎縮していく。店舗が違うため、勝手が異なることだってこれから出てくるはず。わからないことがあったら、この人に聞かないといけない。毎度どんな反応をされるかと考えるだけで、胃がきりきりと痛む。
「洗い物は洗浄機を使うけど、ドリアとかソース類がこびりついているやつは、手洗いしないときちんと汚れが落ちないから、そこのシンクで洗って」
私が以前他の店舗で働いていたことを藤田くんは知らないのかもしれない。だけど、知ってますなんて言いにくい。
「なに?」
私がなにかを言おうとしたことに気づいた藤田くんが、じっと見つめてくる。
「そういえば別の店舗で働いてたんだっけ」
「……はい」
「俺も同じ。オープニングスタップ探してたから、こっちの面接受け直した」
「あ……そうなんですね」
もっと話を広げるべきなのに、頭が上手く働かない。どこの店舗だったんですかとか聞くと詮索しているようだし、何ヶ月目なんですかと聞いてもそのあとに続く言葉がない。
藤田くんは「じゃあ説明いらないか」と私の傍を離れていく。食器洗浄機から綺麗になったお皿を取り出して、素早く仕舞っている彼の姿を眺めながら、私は漏れそうになるため息を飲み込んだ。他愛のない会話すら、私は上手にできない。
調理台の上に置いてあるタブレットから電子音が鳴る。
「注文俺がやるから、そこのドリアの皿とか洗っておいて」
「わ、わかりました!」
注文が入るとデータが届く仕組みになっていて、タブレットにはオーダーの品が記載されていた。
藤田くんはテキパキと動き、同時進行でふたつの料理を作っている。その姿を横目で見ながら、私は与えられたお皿洗いを遂行していく。汚れがこびりついているお皿だけ洗ってから、他の食器は全て洗浄機にかける。それが終わったタイミングで藤田くんも料理が完成したらしい。完成したパスタとピラフのお皿を持って、受け渡し口に置いた。
「バジルパスタと、エビとマッシュルームのピラフ」
彼の声に反応して、ホールの人がすぐに料理を取りに来る。基本的に前の店舗と流れは一緒だ。藤田くんは棚の中からメニュー表を取り出すと、私の前に置いた。
「メニュー全部覚えてる?」
「……一応。でも所々自信なくて」
「じゃあ、全部ちゃんと覚えて」
「す、すみません! ちゃんとします!」
私の返事に、藤田くんの動きが止まる。眉を寄せたまま、短く息を吐いた。前に働いていたくせに暗記できていない私に呆れているのかもしれない。
機嫌を損ねてしまったことは間違いないので、焦りが全身に駆け巡る。できるだけ迷惑をかけないように、メニューを完璧に覚えたい。それ以外にもメモも素早く取って、負担を少しでも減らしたい。
「あとこれ、季節のメニュー。今は栗。プリンとパフェで使う栗の種類違うから気をつけて」
失敗なく追われますようにと、何度も心の中で祈りながら、藤田くんの説明を聞いて、必死にペンを走らせる。
「すげぇメモとるんだな」
「えっ! あ……すみません」
「は?」
あまりにもメモを取ることに夢中になってしまったので、逆に不快に思われてしまったのかもしれない。藤田くんは顔を顰めて、「意味わかんね」と吐き捨てる。びくりと身体が震えて、ペンをきつく握りしめた。
怒らせたくないのに、うまくできない。どう返せばよかった?
「藤田くん、優しくね?」
キッチンへ戻ってきた店長が、少し離れた位置で作業をしながら笑顔で指摘する。藤田くんはぎこちなく口角を上げて顔を引きつらせながら頷く。そして視線を巡らせるとパフェのグラスを手に取った。
「笹原、パフェのオーダー入ったから頼んでいい?」
「っ、はい!」
チョコレートパフェの作り方を、タブレットに表示させる。これなら前に何度も作ってきた。念のため手順を確認しながら、グラスをデジタルスケールの上に置いて、シリアルを記載された量まで入れていく。
「ブラウニーとホイップは、そっちの冷蔵庫の中」
「わ、わかりました!」
調理スペースの隣にある冷蔵庫からブラウニーを取り出して、角切りにして四つ入れて、ホイップクリームをぐるりと一周させる。
「バナナ」
それだけ言うと、藤田くんは目の前の調理台にバナナを置いた。皮を剥いて輪切りにしたバナナを、絞ったホイップの上に重ねる。間違っていないか、藤田くんの顔色をうかがう。けれど隣でじっと見ているだけで、特になにも指摘してこない。
「アイスは冷凍庫の二段目」
冷凍庫を開けて腰を少し屈めると、横長の容器がずらりと並んでいる。チョコレートとバニラと蓋に書いてあるアイスを取り出して調理台に戻ると、先が丸いディッシャーという器具を渡された。
「硬かったら、温めてから使って」
凍ったアイスの表面を削り、丸く窪んだ中に詰めていく。硬いけれど、私の力でもできる。パフェ容器の上にチョコレートアイスとバニラアイスを丁寧に飾りつけた。
「仕上げのソースは、この下の冷蔵庫」
調理台の下は冷蔵庫になっているらしい。扉を開けると、ミルクやソース類が仕舞われていた。
ソースに手を伸ばそうとして、動きが止まる。並んだソースは、どれも透明な容器に入っていて名前がない。色が見えていれば、見分けがつくものかもしれない。けれど私には似たような色に見えて、どれがチョコレートなのか確信が持てない。
真ん中の容器がチョコレートだろうか。手に取ってみて、観察してみるけれどよくわからなかった。
これで合っているかなんて聞いたら不審に思われてしまうかもしれない。むしろ色のことを藤田くんと店長に今話したほうが——
「それ、キャラメルソース」
「すみません!」
「ごめん、洗い物溜まってきたから、頼んでいいー? ちょっと今、揚げ物作ってて手が離せなくて!」
店長の声がキッチンに響く。藤田くんはパフェとシンクを交互に見ると、短く息を吐いた。
「あとは俺がやるから、皿洗いと洗浄が終わった食器を仕舞って」
指示された通り、パフェの残りの作業は藤田くんに頼んで、お皿洗いに移る。気持ちが空気の抜けた風船のように萎んでいく。私の作業が遅かったせいだ。こんなこともできないのかと幻滅されたに違いない。色の判別ができないと、やっぱりこのバイトは難しいかもしれない。
汚れのこびりついたお皿を洗ったあと乾いた布巾で拭いた。手洗いをする必要のなさそうなものは、そのまま洗浄機にかける。一部の食器だけ仕舞う場所がわからず探していると、藤田くんが近づいてきた。
「終わった?」
「あ、はい……すみません」
洗う作業ですら遅くて見にきたのかもしれない。足を引っ張ってばかりだ。これくらい早くできないと邪魔者になってしまう。
「その皿は、ここに仕舞って。カトラリー系は、こっち」
藤田くんに言われた通りに、洗い終わった食器類を仕舞っていく。平皿の場所は覚えたけれど、小鉢の場所がまだわからず、立ち止まる。
「あの、この器は……」
「それはここ」
「すみません……ありがとうございます」
藤田くんは振り返り、目を細めた。眼差しから私への不満を感じて、嫌な汗が背筋に滲む。
「すみませんが口癖なわけ?」
「え……」
「なんで俺がなにか言う度に、すみませんって言うんだよ。別に悪いことしてねぇのに口癖みたいに謝るのやめろ」
飲み込んだ生唾が喉に刺さるような痛みを残していく。
適当に謝った気はなかった。迷惑をかけてしまっているので、口にしたけれど、藤田くんにとってそれは不快なことだったみたいだ。
なにか言わないと、ますます気を悪くさせてしてしまう。だけどここで謝っても逆効果かもしれない。自己防衛のように自然と口角を上げて弧を描く。そして、なるべく当たり障りないように声を振り絞って返答する。
「気をつけます」
けれど、それすら不快なようで藤田くんは顔を顰めた。
「そういうのもやめたら?」
めぐみの言葉と重なり、笑みが抜け落ちていく。
『——ヘラヘラ笑って、やり過ごすのやめたら? そういう生き方って、しんどくならない?』
握り締めた手に爪が食い込む。……やっぱり赤色の人は苦手だ。
藤田くんやめぐみには、私の気持ちなんてわからない。そんな薄暗い感情が心を侵食していく。言いたいことを口にした方がいいときもあるけれど、揉めることが私は怖い。平和を守るためには飲み込むことだって必要なはずだ。
それから藤田くんは業務以外のことを口にすることはなかった。私は指示されたことをきちんと覚えられるように、必死に頭に叩き込んだ。
バイトを終えて、ユニフォームから学校の制服に着替える。立ちっぱなしだったからか、足が重たい。ヘアゴムを取ると、ほんの少し髪に跡がついてしまっていた。ちょっとだけ気分が落ちたけれど、これから家に帰れるのかと思うと緊張の糸が解れていく。
「おつかれさまでした。お先に失礼します」
店長や他の従業員の人に挨拶をして、裏口のドアを開けた。外はすっかり暗くなっていて、生温い秋風が頬を撫でる。
ファミレスの横の細い道を進んでいくと、フェンスに寄りかかるようにして立っている女の子の姿があった。バイトが終わる前に店長に呼ばれて、自己紹介程度だけ会話を交わしたホール担当の岡辺知夏さんだ。
彼女も同じ高校らしく、商業科だと言っていた。けれど普通科の私とは教室が離れているため、学校では一度も見たことがなかった。
短く折られたスカートからは、すらりと長い脚が伸びていて、胸元まで伸びた髪は綺麗に巻かれている。上向きな睫毛に猫のような大きな瞳は愛らしく、目を引く容姿をしていた。そして彼女には黄色が滲んでいる。黄色は明るいムードメーカーだ。
私に気づいた岡辺さんが、スマホをいじるのをやめて片手を振ってきた。
「おつかれー! 楓ちゃん!」
いつのまにか下の名前で呼ばれている。距離の詰め方に驚いたけれど、岡辺さんの笑顔は愛嬌があって親しみやすい。
「おつかれさまです!」
「敬語いらないよ」
可笑しそうに、声を上げて笑われた。
「仕事早いんだって? すごいね〜!」
一体どこからそんな話が出たのかと、目をまん丸くして瞬きを繰り返す。店長が大袈裟に褒めてくれたのかもしれない。
「藤田がびっくりしてたよ〜。楓ちゃん、仕事熱心だって」
「え? 藤田くんが? むしろ仕事遅いとかじゃなくて……?」
あんなに迷惑そうにしていたのに、仕事が早いと言っていたなんて信じ難い。パフェだって、途中で中断させられたほどだ。
「もしかして素っ気ない態度でもとられた?」
「……多分怒らせちゃって」
「そんな気にすることじゃないよ! あいつ真面目で融通効かないし、わかりにくいんだよね〜。いっつもこーんな怖い顔してるじゃん?」
わざとらしいくらいに眉を寄せて、口を曲げる岡辺さんに、私は耐えきれず噴き出してしまう。藤田くんには申し訳ないけれど、少し似ている。私の反応に、岡辺さんは表情を緩めて口角を上げた。
「でも嘘は言ったりしないよ」
どことなく真剣さが伝わってくるような声音だった。藤田くんが私を褒めてくれたなんて想像がつかないけれど、岡辺さんがお世辞で言っているようにも感じない。
「とりあえず、なにかあったらいつでも相談してね!」
風に髪が靡くと、岡辺さんの耳についたフープピアスが揺れた。笑うと八重歯が見えて、無邪気だけれど魅惑的な雰囲気を醸し出している。
私も彼女のような黄色だったら、藤田くんを苛つかせることなく、初日から仲良くなれたのかもしれない。ないものねだりをする自分を惨めに思いながら、それを押し隠すように微笑みを浮かべて指先に滲む灰色を握り締めた。
岡辺さんと別れて、居酒屋が立ち並ぶ賑わった道を抜ける。バス停の脇道を進み、人通りが少ない場所へ出ると、信号のところで男の子の後ろ姿が見えた。
あれは間違いなく藤田くんだ。私よりも先にバイト先を出たため、鉢合わせることはないと思っていたので油断していた。
手にはビニール袋を下げていて、コンビニに寄っていたみたいだ。近くにいるのに話しかけないことに気づかれたら、感じの悪いやつだと思われるかもしれない。
それに信号待ちをしている彼が少し意外で、声をかけることに躊躇してしまう。この道は信号が設置されているものの、車なんてほとんど通らない。今だって車の姿はないのに、きちんと彼は信号を守っている。
学校では不真面目なはずなのに、パズルのピースが合っていないような妙な気分になる。そういえば岡辺さんが〝真面目〟だと言っていた。
——楓ちゃん、仕事熱心だって。
本当に彼が私のことをそう言ってくれていたのか、まだ信じられないでいる。岡辺さんの嘘だとは思わないものの、気遣いも含まれているのかもしれない。
声をかけようか迷っていると、気配を感じたのか藤田くんが振り返った。そして「おつかれ」と言って、また前を向いてしまう。
これだけ悩んでいたのに、会話の終了が呆気なくて表紙抜けてしまう。でもせめて私も一言くらい返したい。今度の関係のためにも気まずさは残したくない。
「っ……、お、おつかれさまです!」
失敗した。こんなに大きな声で言うつもりなんてなかったのに、人が少ないとはいえ静かな夜の街に響いてしまった。
恥ずかしくて逃げ出したい気持ちになりながら俯く。どうしてこれくらいのことも、上手くできないんだろう。自分がますます嫌になる。
「なんで敬語?」
岡辺さんと同じ指摘をされてしまった。顔を上げると、藤田くんが再びこちらを向いている。視線を泳がせながら、不快にさせないような言葉を探す。
「バイト先では先輩、なので」
私の返答は失敗したのか、藤田くんはなんとも言えない表情でため息を吐く。
「クラスメイトなのに変な感じするから、敬語いらねーよ」
「は、はい」
「とれてねぇじゃん」
「緊張しちゃって……」
なんで?とでも言いたげな藤田くんに、私は苦笑する。目立たず周りに合わせて、個性を殺しながら溶け込んでいる私と、周りになにを言われようと己を貫いている藤田くん。私たちは同じ教室にいても、世界がまるで違う。少し前までは、こうしてふたりきりで話すことなんてないと思っていた。
けれど、今ならあのとき届かなかったお礼を言うチャンスかもしれない。
「……ペン拾ってくれてありがとう」
「ペン?」
「床に散らばったとき、藤田くん拾って届けてくれたのにお礼言えてなかったから」
「あー、こないだのやつか。……困ってるように見えたから」
確かに机にぶつかられてペンをばら撒かれて、戸惑っていたけれど、藤田くんは単にうるさいのが嫌で怒ったのかと思っていた。
「それで怒ってくれたの?」
「ああいうのくだらねぇじゃん。周りのやつらも迷惑そうにしてたけど、言いにくそうだったし」
「……そうだったんだ」
彼へのイメージに変化が生まれる。藤田くんは他人に興味なんてないと思っていた。けれど、ちゃんとクラスの人たちのことを見ているんだ。
僅かな沈黙が流れて、私は他になにか話題がないか必死に考える。そういえば大事なことを謝罪できていない。
「バイトで色々迷惑かけちゃってごめんね」
「は?」
たった一言で空気がピリついた気がして、肩が飛び上がりそうになる。言葉を間違えてしまった。
「迷惑ってなにが?」
「えっと……その、私に教えるせいで藤田くんの時間拘束しちゃったし……パフェ作るのも遅くって。だからそれで迷惑かけちゃったかなって」
「笹原はこの店舗初めてなんだから、教えるのは当たり前だろ」
藤田くんはどこか戸惑ったような声音だった。視線が交わると、気まずそうに目を伏せる。
「俺の方こそ、怖がらせて悪かった」
「え?」
「言い方キツいから、嫌な思いさせただろ」
藤田くんの口調は強くて萎縮してしまうこともある。けれど、彼はそのことを気にも留めていないと私は決めつけていた。けれど違ったみたいだ。
「それとパフェの途中で俺が交代したのは、混んできたからってのもあるし、様子が変だったから」
「あ……それは」
「忘れることくらいあるし。別に気にすることじゃないだろ」
ソースの色が見えず、手が止まったことについて、藤田くんは私がどのソースをかけるのか忘れたのだと思ったらしい。
「それに手際いいから片付けとか速いし俺は結構助かったけど」
「……邪魔だったからではないの?」
「そんなこと一度も言ってなくね?」
「言われてはないけど……邪魔って思ってるのかなって感じて……」
眉間にシワを寄せたり、不機嫌そうにため息を吐かれたり、てっきり教えるのが面倒なのだと思っていた。すると、苦々しい表情で藤田くんが「俺に対して敬語だったから」と零す。
「笹原は俺と話すの嫌なんじゃないかって思って、なるべく業務以外のことは話さないようにしてたんだけど。それが態度悪く感じたならごめん」
「え、どうして私が藤田くんと話すのが嫌なの?」
歩行者用の信号に歩く人のマークが映し出される。だけど、私たちは動き出すことができずに見つめ合う。
「俺の噂知ってんだろ」
噂といえば、タバコと暴行事件だ。そのことを藤田くん本人が気にしているのは意外だった。
「だからそういうので関わりたくないのかと思ったから」
藤田良は暴力的で怖い人。噂を聞いてそういう印象を抱いていた。そして更に纏っている色が赤だったこともあり、彼への苦手意識が強くなったのだ。
「……ごめんなさい」
きっと私の態度に現れていた。噂や表面上だけで藤田くんのことを決めつけて、自分の目で彼を見ようとしていなかった。
藤田くんは私のことを邪魔なんて思っていなくて、手際がいいと言ってくれたのに。本心なんて知ろうともせず、勝手に私は怖がっていた。
「いい噂ねぇのは事実だし、別に謝ることじゃないだろ」
「でも、私も態度がよくなかったから……」
私が敬語を使ったり、何度も謝っていたことについて嫌そうにしたのは、藤田くんに怯えていると捉えられたようだ。
「だから、ごめんなさい」
「気にしなくていいって。俺も誤解させたし」
素っ気ないけれど、でも棘はなくて声が柔らかくなった気がした。
「次同じシフトのとき、遠慮せず笹原に作業頼む。あと季節のメニュー作り方複雑だから、早めに覚えておいて」
「っ、うん! 季節のメニューもちゃんと覚えるから、作らせて!」
勢いよく答えると、藤田くんは目を見開く。我に返り、はしゃいだような反応をしてしまったことに羞恥がこみ上げてくる。引かれたかもしれない。
すると、藤田くんは表情を緩めた。
「いいよ」
初めて見る彼の笑った顔に釘づけになってしまう。そして、視界に映った色に目を疑った。
——緑……?
見間違えかと思ったけれど、間違いなく藤田くんの赤色の中に緑色が見える。どうして他の色が混ざっているのだろう。
「うわ、信号青になってんじゃん」
歩行用の信号が、チカチカと点滅をしていた。それよりも私は彼の纏う色の方が気になってしまう。赤の中に隠れていた緑は淡くて、よく目を凝らさないとわからない。
「なにしてんだよ。早く渡らねーと」
「え……っ!」
慌てた様子で藤田くんは、私の腕をとって走り出す。夜の横断歩道を、腕を掴まれたまま一歩、また一歩と進んでいく。チカチカと点滅をする中で、私は半歩先の赤色から目が離せない。
赤色の人は苦手だ。頑固で自分の意見を貫き通す人で、傷つけることも言う。
だけど車なんて一台も走っていなかったのに信号を守っていて、腕を掴む手は強引なようで力はあまり込められていない。焦ったように点滅する信号を渡る姿は、ちょっとだけ子どもっぽい。私の中のイメージと違う。
藤田くんがどんな人なのか、今ではもう言葉で上手く説明できなくなっている。
信号を渡りきると、腕は離れて「こっち来て」と手招きされる。パーキングエリアを曲がると、十字路に出た。そこは他のアスファルトよりも凹凸があり、視界がモノクロな私にもわかるほど地面が細かく光っている。
「こんな道、初めて見た」
「ガラスが混じって、キラキラしてるんだってさ」
「……星みたい」
街灯の光を反射していて、まるで満天の星を映した道のようだった。気が緩んで妙なことを口走ってしまったかもしれないと、慌てて唇を結ぶ。すると、振り向いた藤田くんが、ほのかな笑みを見せた。
「俺もそれ思った」
直視できなくて視線を地面に下ろす。今度は別の意味の恥ずかしさがじわりと熱を持って、頬に浸透していく。
「あ、悪い。寄り道させちゃったな。俺、若葉町の方なんだけど、笹原は?」
「私は高木町だから、すぐそこだよ」
「結構近所なんだな」
中学は違うものの、どうやら私たちは同じ市内に住んでいるらしい。親近感を覚えながら、お互いの出身中学はどこかなどの会話が続き、無言になることはなかった。
星の道を抜けて、そのまま住宅街へと進んでいく。五分くらい歩いていくと、分かれ道へと差し掛かり、足を止めた。
「俺、こっち」
「あ、うん」
あんなに気まずいと思っていたのに、その気持ちは嘘みたいに消えていた。
「じゃあな」
軽く手を振って、藤田くんは左の道を進んでいく。その後ろ姿を眺めながら、私は口を何度も開閉させた。
緊張とか、どう思われるかとか、そんなことよりも、私が今伝えたい言葉で頭がいっぱいになる。
「っ、また明日!」
夜道に響いた声は、藤田くんへ真っ直ぐに届く。振り返り、眉根を寄せた彼が破顔した。
「声、でけぇよ」
そんな風に笑って突っ込みながら、「また明日な」と返してくれる。再び軽く手を振り合って、私たちは別々の道を歩き始めた。
時折吹く柔らかい秋風は心地良くて、バイトで疲れ切ったはずの足は軽やかにアスファルトを踏む。
また明日。何度も誰かと交わしたことがある言葉のはずなのに、どうしてか今夜は特別に感じて胸が躍った。