編集者としての役割は、大まかにいえば小説家のサポートだ。打ち合わせをして、原稿の手直しを繰り返し、共に作品を作り上げていく。だが勘違いしてはいけないのは、あくまで自分は作品作りの手伝いをしているだけであって、作ったわけではないということだ。その事をいつも肝に銘じてこの仕事をしている。
 編集者になって三年。まだまだ未熟な自分だが、それなりに仕事を楽しんでいる。学生だった頃は小説家になることを夢見ていた。コンテストの開催を見ては、昼夜問わず物語を書き続け応募した。頭の中に、書きたい物語が溢れていて、それは途切れることは無かった。自分も誰かの心に残る物語を書ける。本気でそう思っていた。だが、現実はそんな甘いものではなかった。小説家が一つの物語を生み出すだけでどれだけの時間と体力を使うのか。たとえ、自分の全てを捧げようとも、その作品が世に出る割合なんて、極めて低い。その事に自分は耐えられなかった。いつだって小説家は、選ばれる側だ。それに八人兄弟の長男として、家計を支えるのに、小説家という収入が不安定な職を選ぶことは出来ない。編集者になったのは逃げだったのかもしれない。努力を重ね続ければもしかしたらなれていたのかもしれない。だがそのいつかきっとを、自分は待つことが出来なかった。
 梢子ちゃんに出会ったのは、編集者になって半年が過ぎた頃だった。前任の編集担当が産休に入る事になり、当時、新人でサポート係をしていた僕が付く事になった。この時から梢子ちゃんは既に売れっ子作家で、うちの編集部の八割は梢子ちゃんの仕事で出来ていた。そんな、有名な先生のもとで働ける事になった時は、本当に嬉しかった。梢子ちゃんの第一印象は、綺麗な女の人。スラっと伸びた高い身長に、金色に輝く髪。どこかの国のハーフなのかと勘違いした。しかしその見た目とは裏腹に、彼女の書く作品は、残酷な描写が多くも、どこか切なげだった。それに加え、あのリアルさ。時々、想うんだ。これは、彼女自身なのではないだろうか――? と。僕が夢に見ていた、人の心に残る作品を彼女はいとも簡単に書く。すごすぎて、嫉妬を通り越して、もはや尊敬と憧れしかない。梢子ちゃんは若くして、この道のプロになった。だけど、昔の事はあまり話したがらない。でも僕が出会った時の梢子ちゃんには、両腕があった。長くしなやかに伸びた。美しい両腕が。その両腕でよく教会を訪れては、子供たちに演奏を披露していた。両腕を失った今は、あまり行ってないみたいだけど。あの一件以来、梢子ちゃんは笑わなくなった。酷く衰弱しきって。このままでは、梢子ちゃんは死んでしまうのかもしれないと思った。だから、僕は言ったんだ。呪いとも受け取れるあの言葉を――。それでも、今でも梢子ちゃんは、あの頃のように、物語を書く事は出来ないけど。だけど、最近、大きな変化があった。そう、青星くんとの出会いだ。華奢な体つきに、色白で細くて長い手足、日本人特有の真っ黒なストレートな髪に、吊り上がった細く鋭い目。瞳は、夜の深海に沈む星々のような色。これまた美少年で、ジブリにでも出てきそうな美しい少年だった。彼は梢子ちゃんの横で、警戒するように僕をじっと見ていた。しかしその視線は、どこか恐怖を感じているようにも思えた。青星くんとお父さんの事は、あの後、梢子ちゃんから聞いた。なんて酷な事なんだと思った。その上、借金を肩代わりして、クラブで働いていたと聞いた時は、本当に気の毒でならなかった。これは僕のエゴなのかもしれない。同情なのかもしれない。それでも、僕は彼に何かをせずにはいられなかった。そう思って、梢子ちゃんに学校に通わせることを提案してみた。梢子ちゃんも僕と同じ考えをしていたみたいで、青星くんに、もっと外の世界を知ってもらいたいそうだった。それから、青星くんには、仕事の合間を見て、梢子ちゃんと二人、勉強を教えた。覚えが早い事に驚いたのを今でも覚えている。彼は理解するだけではなく、その先を読んで質問をしてくるんだ。本当に賢い子だと思った。梢子ちゃんも、そんな彼のすごさにすぐに気づいたようで。初めての勉強会の後、「将来は大学にでもいかせたいな」と言っていた。青星くんと出会ってから、梢子ちゃんは変わった。苦しい顔をして、何かを一人でに考える事は少なくなったし、作品にも、前より覇気が出てきた。なにより、よく笑う。こんなに素晴らしい事はない。きっとこれは、良い事なんだ。僕はそう思っていた。
 今日はこれから、梢子ちゃんとの打ち合わせがある為、僕は電車を乗り継いで、このマンションに訪れた。今まで何億というお金を稼いだ小説家先生が住む家にしては、とても庶民的に思えるが、贅沢をしないあたりが梢子ちゃんらしくて好きだ。
 エレベーターを待っていると、出口の方に引越し業者の人の姿が見えた。
 誰か越してきたのかな。
 上に上がり、数メートル歩き、間宮の表札の前で足を止める。インターフォンを押し、ドアの前で待つ。
「はい……」
 すぐにインターフォン越しに、梢子ちゃんの気怠そうな声が聞こえてきた。
「牧野です」
「ああ……」
 鍵が開く音がして、ドアノブを回す。靴を脱ぎ、端に寄せると、廊下を通り、リビングへ。
「原稿、どうですか」
 丸まった背中に声をかけると、梢子ちゃんは振り向くことなく、ただ首を横に振った。
「お前の言う通りだ。全然良くない……」
 ここのところ、梢子ちゃんの現行の進み具合は良くない。物語を書くのを再開してから、書いては消し、書いては消しを繰り返している。本人も長い事それに悩まされていて、苛立ちを感じている。
「協会のシーン、あれは良かったと思いますよ。特にあの、主人公の少年がピアノを弾くシーン」
 肩に掛けていた、ショルダーバッグを外しながら、牧野は言った。
「あのシーンはとても神秘的で、安らかで、穏やかでした。まるで……読んでいる僕ら読者が、そう感じてしまっているように思える。リアルさが売りの間宮先生らしいワンシーンでした」
「私、らしい。か……」
 梢子は椅子に寄りかかり、天井を見上げた。
「あれは、青星をモデルにしたんだ」
「え……青星くんをですか??」
「ああ」
 そうだったんだ……全然、知らなかった。
「今回のコンセプトは良いと思ったんだが、やはりそう簡単にはいかないな……」
 梢子ちゃんの今回の作品のコンセプト。それは、
「平凡な人生を生きるよりも、暗闇の中で、必死にもがいて生きる人間こそ、真に美しい。――なんて、そんもの、光が当たらない地獄を生きている人間の強がりだ」
「梢子ちゃん……」
 神様……あなたはあの日、彼女の大切なものを一つ残らず奪ってしまったのですか。だとしたら、僕は、あなたを許せません……。
 梢子は時計を見ると立ち上がり、ベランダの鍵を開けた。
 時刻は午後三時を回ったところ。そろそろ、青星が返ってくる頃だ。
 ああやって、梢子ちゃんはほぼ毎日、青星くんが帰ってくる時間になると、ベランダから、学校へ続く道を見下ろしている。僕には決して上げられない気持ちを、青星くんは梢子ちゃんにあげる事が出来る。悔しいけど、僕は編集者としてでしか、彼女を支える事は出来ない。それでも、僕は彼女の傍にあり続けようと思う。彼女が、手を止める、その日まで――。
 青星が帰って来たのが見えたのか、梢子はにこやかに下に向かい手を振っていた。
 牧野はその姿を見て、悔しくも、嬉しく思った。