どれくらい眠っていたのだろうか。少し昼寝をするつもりが、すでに日は落ち始め、部屋の中は先ほどよりもうっすらと暗くなっていた。
 またよく寝たな。
 ここに来てからというもの、昼寝をするようになった。それに一度寝てしまうと、どうも起きない。酷い時は二時間くらい起きない時もある。寝過ぎだと分かってはいるが、寝る事が心地いい。
 ベッドから上体を起こし、窓の外の景色を見つめた。雨が降っていたせいか、空には虹がかかっていた。
 冬の虹は虹蔵(にじかく)不(れ)見(みず)といい〈虹を見かけなくなる〉という言葉があるくらいとても珍しい。冬場は夏に比べて、太陽が出ている時間も少なく、日差しも弱い。太陽の光が空気中の水蒸気に当たり、屈折して出来る虹にとって、日差しは人間でいう食事のようなもの。なくては形を維持出来ない。降り積もる雪の上に天と地の懸け橋とされる虹がかかる。こんなにも贅沢なものを見る機会は、もしかしたら、これが最初で最後なのかもしれない。そう思うと、この虹がまだ閉ざされてほしくないと願うもの。
 寝室を出てリビングに行くと、パソコンが置かれたダイニングテーブルの上で、顔を伏せている梢子が居た。規則正しい寝息を立て、気持ちよさそうに眠っている。
 ……疲れてんだな。
 青星はソファーの上に置かれていたブランケットを取り、梢子の肩に掛けると、書斎に入った。
 部屋の中は作業用のデスクに、大きめの本棚が二つ並んでいつだけのこぢんまりとした空間が広がっていた。こまめに掃除をしているのか、本棚には、埃一つなかった。
 ここに来た日、時間がある時は、本を読むと良いと奴に言われたが、俺が奴と生活する上で、本に触れないという事はまずない。
 知識。それは、どれだけ身に着けようとも自分だけの物。奪われる事しかなかった俺の人生に、奴は残るものを何か与えようとしているのか。
 ざっと見た感じ、歴史書が多いな。もしかして奴は、時代小説が専門なのか? 
 青星は梢子の書いた本を読もうとたが、そこには間宮梢子という作家の名前の本はなかった。自分の本は置かない主義なのか。作家によっては、自分の作品が目に届くところにあると、プレシャーになってしまう人いる。梢子もその一人なのだろうか。
 仕方ない。他のにしよう。
 そう思い、目についた一冊の本に手を伸ばした。その本の題名は、
 百万回生きた猫――と書かれていた。
 ……絵本? あいつ、こういうのも読むんだな。
 本をぱらぱらとめくると、記憶が思い起こされた。
 百万回生きた猫。昔、まだ母さんがいた頃、読んでもらった記憶がある。確かこの主人公の猫、ずっと自分だけしか愛さなかったのに、ある時、出会った猫を好きになって、最後その猫が死んだ時、泣くんだ。猫は生まれて初めて、自分以外の相手を想ったんだ。
 母さんは自分の膝の上に俺を置いて、抱きしめるような形でこの本を読んでくれていた。
 もう、何もかも置いてきた思い出だが。
 本を閉じたと同時に、ドアの方から人の気配がして振り向くと、そこには寝ていたはずの梢子がいた。その肩には青星が掛けたブランケットが。
「起きたのか」
 梢子は眠そうな目をしながら、部屋の中へ入って青星の隣へとやって来た。
「何を読んでいたんだ?」
「ん」
 青星は持っていた絵本を梢子に渡した。
「あーこれかー」
「お前、絵本なんて読むんだな」
「これは特別だ。いい話だろ。他人を思いやる心を大切にする事を教えてくれる」
「あの猫は最後に、一体何を見たんだろうな」
「さあ、それはあの猫にしか分からん。……だが、これはあくまで私の解釈の仕方だが、猫は幸福な気持ちを抱き、その生涯を終えたはずだ」
「そんな気持ちを抱えて死ぬなんて、いい人生だな」
 梢子は頷いた。
「そうだな。でも私は、幸せに満ちて死にたいとは思わないな」
「え……どうして」
 幸せで死ぬことの何が嫌だっていうんだ。俺は、どうせ死ぬなら、幸福で死にたい。誰だってそうだろう……??
 梢子は顔を俯かせ、何かを……誰かを想っているようだった。
「まあ、考え方はそれぞれだ」
 ぱっと顔を上げそう言うと、梢子は棚に本を戻した。
「もちろんこの猫の場合は、それで良かったと思うがな」
 もし、百万回生きた猫のように、死ぬことが幸せに思えることが現実にもあるとするならば、俺は、その人生をお前に生きてほしいと思う。



「さてと、やるとするか」
 目の前に広げられた大量の資料に、梢子は次から次へと目を通していた。ダイニングテーブルを挟み、互いのスペースを取るように、二人は対角線上に腰を下ろした。
「お前には、ここに書いてあることを調べてまとめてほしい」
 梢子は青星に一枚のメモ用紙を渡した。青星はそれを受け取り、上から下まで目を通した。
「これ、全部か?」
 梢子が渡してきたメモには、作品に関わる内容が事細かに記されていた。
「量が多いな」
「間違ったこと書いて、読者を混乱させるわけにはいかないだろ? 充分過ぎるくらい調べるんだ」
「ふーん。小説家様も大変なんだな」
「様はいらん」
「はいはい」
 やっぱり、『きっちり体で払ってもらうぞ』あの言葉はこういう事だったのか。
 俺を助けた理由を聞いた時、あいつは店の奴らとは違うと言った。その言葉を聞いた時、小説家としての仕事を手伝う労働力という意味で、体でと言ったのだろうと思った。俺の受け取り方がどうこうではなく、世間一般的にみても、奴のあの言い方はそういう意味だと捉えられる。しかし、相手はこの間宮梢子。世間一般的、普通などは通用しない。
 変に、面白いが加わったな。
 梢子は時々手を止めながら、考え込むように執筆をしていた。
 この体で、小説を書く。それは安易なことではない。梢子は額から流れる汗を拭い、必死に物語を作り続けていた。間宮梢子。努力を怠らず、どんな些細な妥協も許さない。たとえ読者が気づかない僅かな点でも、彼女は追及する。その物語を作り上げることへの熱量は、他の作家にも比肩を取らない。
 義手が煩わしく感じてきたのか、顔をしかめてはパソコンと義手を交互に見ていた。
「休憩するか」
「いやいい」
 梢子は少し強めの口調でそう言った。
「でも、あんま無理してもだろ」
 席を立ち、青星はキッチンへ。その様子を見た梢子はパソコンから手を離し、背もたれに寄りかかった。
「……すまない」
 出されたお茶に口付けると、梢子は短く息を漏らした。きっと、嫌気がさすのだろう。思うように動かせない体に。
「お前は優しいな。人を気遣える」
 それは相手がお前だからだ。
「お互い様だろ」
「私が? ないない」
 冷静に話す青星に、冗談を言われていないことを分かっていたが、梢子は失笑してしまった。
「ある。だってお前、本当は知ってたんだろ。俺が……捨てられた事も……虐待、されていた事も……」
 そう、こいつは知っている。俺の身に何があったのか全て――。
 俺が牧野に両親の話をした時、こいつは少しも驚いた顔を見せなかった。冷静な一面があるこいつが、ただ単に顔に出さなかったとも考えられるが、俺と真正面からぶつかろうとしているならあの時、知ったと言うだろう。
 知らなかった。そう言ってくれる事を少し期待した自分がいた。
「――ああ、知っていた」
 梢子がそう答えた時、青星の心に、重りのような物がのしかかった。ずるずると青星を引きずるように沈んでいく重り。
 嫌だった。自分が、誰にも愛されていない、惨めな人間だと思われることが。怖かった。自分が、なんの価値もない人間だと思われることが。お前に、否定されることが。
 お互いに何も言わない時間が流れ、部屋の中がやたらと静かに感じられて、聞こえるのは自分の苦しみの鼓動だけだった。
 青星の顔は下を向き続けた。
 寒い。急に、寒さが襲ってきた……。あいつの顔を見られない。どん顔をしているのか知りたいけど、知りたくない。頼む、俺を、拒絶しないでくれ――。
 拳を握りしめ、唇を噛んだ。
 梢子は腰を上げると、窓辺に立ち、どこか遠くを見ていた。
 何しているんだ……。
「今夜は、星が綺麗だろうか……」
 うわ言のように呟く梢子。
 そう言い、コートを手に取った梢子。
「青星。お前に、見せたいものがある」



 坂道を上ること数十分。梢子はぐんぐんと進んでく。家で仕事をしている小説家の割には、体力があるようだ。一方の青星は、体力も筋力もない体のせいで、すでに疲労が溜まっていた。
 歩いている最中、梢子は青星に、『絶対に上を向くな』と言った。
 こんな中、上を向かないなんて、どうにかなりそうだと青星は思っていたが、そんな事を梢子に言っても、どうにもならない。
「どこに向かっているんだ」
 息を荒げながら、青星は聞いた。
「まあ、そう焦るな。じきに分かる」
 いきなりに外に連れ出され、坂道を上らされる。そこまでして、見せたいものなんて、一体何なのだろうか。
 真冬の夜にわざわざ自分から外に出るなんて、俺一人だったら絶対にしないな。
 後ろくらいは見てもいいかと思い、明かりが灯る、街の方に目を向けた。
 黄色い光、オレンジ色の光。同じ家の光のはずなのに、光から感じられるものが違うのは、住んでいる人間や環境が異なるからだろう。
 坂道の次は、長く続く、コンクリート製の階段上らされた。これが上ってみると、意外に急な階段で、たまに後ろを振り返って見ては、さっきまでの坂道を簡単に見下ろせた。どうやらこの先に、奴の言う、見せたいものがあるらしい。
「青星。お前は知らないようだから、私が教えてやる」
 青星より、数段先の階段に居る梢子が前を見ながら言った。
「お前の名前である青星というのは、星座のシリウスからきている」
 シリウス。それは大犬座(おおいぬざ)で、太陽を除いた全天で、最も明るい星と言われている。日本では冬の南の空に、やや低いあたりにみられ、約八千六百個あると言われている全天の中から、シリウスを見ることが出来るのは、とても貴重な事。古代ギリシャ語では、セイリオスと言い、意味は焼き焦がす・輝く。中国名では天の狼と書いて天狼(てんろう)と言う。
「別に、輝いているって言っても、シリウス自体が輝いているわけじゃないだろ」
 シリウスが明るく見えるのは、地球との距離が近い事が関係している。シリウスが、ではない。
「まあ、そうだな。じゃあこれは知っているか?」
「??」
「シリウスの由来、それは、すべての人に、親しみを持ってもらえるようにと、名付けられたと」
「え――?」
「さあー、ここら辺でいいかな……」
 気が付くと、そこは小さな公園だった。木製のベンチと滑り台にブランコがあり、あまり人が立ち寄らなさそうな、ひっそりした雰囲気があった。
「なあー、まだ俺は上を見ちゃいけないのか」
「ちょっと待て」と言われ、空を見上げられない事が、段々ともどかしく感じられてきた。
 本当に何がしたいんだ。いい加減、俺にも見せてくれ。こんなんじゃ、さっきのこともあって、余計に気持ちが下を向く。
「あ……」
 梢子は、思わず零れたようにそう声を漏らすと、「見ろ!」と、天に向かって指を差した。
 青星はその指先の方向に視線を向け、
 ――息を飲んだ――。
 空を浮かぶ星の中で、どの星にも負けずひと際輝いている星。それはそれは、美しい星――。
「……あれが……シリウス、なのか……」
 信じられない。あれが、俺の名……。
「どうだ、お前はこんなにも、素晴らしい存在なのだぞ」
「俺が……? 言葉にならない……」
 今の俺は、そう答えるので精一杯だった。
 肌で感じていた寒さも、ここまで辿り着くための疲労も。感じていた煩わしさも、悲観的な考えも、気持ちも、全てがこの一瞬で消えた。
 奴は、俺の心を救おうとここに連れて来た。
「お前、誕生日はいつなんだ」
「え、七月二日だけど」
「やっぱりなー」
 梢子はひしひしと頷いていた。
「それがどうかしたのかよ」
「シリウスは、七月二日の誕生星なんだ」
 誕生星。花に誕生花があるように、星にも誕生星というものが存在する。青星はこの時、それを初めて知った。
「お前の母親は、生まれたお前を見て、何よりも輝いて見えた。まるで、あのシリウスのように。お前は愛されていた。たとえ、どんな事があろうとも――」
「……」

『母さん! 母さん!』
『なーに? 青星』
『僕ね、母さんがだーいすき! 母さんは??』
『母さんも、だーいすきよ!!』

 遠い記憶の中の母は、自分にそう言ってくれていた。
 心から、母を愛していた。でも、もう母はいない。
 しばらく星空を見上げた後、「冷える前に戻ろうと」梢子が言い、俺たちは公園を後にした。
「そういえば、星って、私たちが今見ているものはリアルタイムじゃないらしいぞ」
 階段を下っていると、奴がそんな事を言ってきた。
「えっ! そうなのかよ!? ……てか、今そういう事を言うかね」
 せっかく人が感動していたっていうのに、リアルタイムじゃないとか、なんか萎えてくるだろ。
「光が伝わる速さは、この世界で一番早いと言われている。しかし、星たちは地球からとても離れたところにいるため、私たちが見る空に届くまでは、時間がかかるんだ」
「へー……なんかすげぇな」
「そう思うと、星を見るのが何だか楽しくならないか?」
「……確かに、楽しいかもな……」
 奴は小説家だから多くの知識がある。知ることは楽しい。学ぶことは生きる事。この時、その事も奴から教わった気がした。
「質問していいか」
「お、何だい?」
 梢子は嬉しそうに、にやにやと笑った。
「シリウスは、この星に届くまで、どれくらいかかるんだ??」
 知りたい。自分はどれほどの時を経て、ここに存在しているのか。
「そうだなー……」


 ――八年という長い歳月を超え、遥か彼方、君と出逢った。

 ――幾千年にも感じられる孤独に耐え、今、あなたという夜明けと巡り合った。


 これは、必然的なこと。
 私達は、出逢うべくして出逢い、別れるべくして別れる――。

「――八年だ。シリウスが、ここに辿り着くまでは八年……!」

 そう奴は、その鋼の翼を大きく広げ、声高らかに言った。
 八年……。俺が、母さんに捨てられ、父さんの暴力に耐え、生きてきた日々と同じ。



――この時の俺たちは、これから待ち受ける困難など、知るよしもなかった。ただ、今あるその日々を抱きしめていた。


 カーテンの隙間から見える、小さな日の光に導かれるように、梢子は床に足を着けた。閉め切っていない部屋のドアを体で押し開けると、洗面所へと続く廊下を歩く。夜が明けたばかりの部屋の中は薄暗い。鳥の鳴き声一つしない朝に、異様な世界観を感じる。
 一つ一つの作業に時間がかかる梢子にとって、早起きは鉄則だ。梢子が起きてまずするのは、トイレをする事でも、歯を磨くことでもない。義手を装着することだ。これをしなければ、梢子は一日を始められない。
 義手はいつも洗面台の隣にある洗濯機の上に置いてある。両腕のない梢子にとって、命の次に大切だと言える義手を洗濯機などの上に置くのは、装着するのに洗濯機の高さが、家にある物の中で、一番合っているからだ。
 腕が無くとも、足と口はある。かぶれないように着けている布を口で噛むと、右肩に、左肩にと着けた。そしてお待ちかねの義手の装着。少し背中を丸め、肩にはめやすい大勢をとる。初めは上手く出来なかったこの動作も、今じゃ慣れたもの。だがそれなりに体力を使う。ただ日常を過ごすだけでも、梢子にとっては苦労が付き物となる。
 義手を装着し終わるとトイレを済ませ、口に歯ブラシが刺さらないように、ゆっくりと歯を磨き、そしてようやくカーテン開け、日の光を浴びる。この瞬間、梢子は生を実感出来る。
 水を干している体に、コップ一杯分の水を与えると、枯れた体が潤った。朝一の空気を吸うため、ベランダに出た。寒い冬の時期でも、静まり返ったこの時間の中、気持ちを整えるのは、梢子にとって大切な時間だった。ごろ寝をする為に買って敷いた芝生の上に寝そべり、空を眺める。
 今日の空は雲の流れが速い。今は快晴の空が広がっているが、これから天気が悪くなるのだろうか。
 風の赴くままに、心と体を解放させる。ひんやりとした風が梢子の身体にあたる。ふと電信柱の方を見ると、カラスが二匹離れた位置でとまっていた。まだ鳴く気配はない。その時を待っているかのように、カラスはその場にじっとして動かないでいた。
 カラスは、夜明けの少し前から山から下りてくるらしい。生き物全体で見たら、一番、早起きな生き物は、何なのだろうと、梢子はそんな事を考え始めていた。そしてこの世界をどれだけ生きても、必ず分からないものがある中で、人は死んでいくのだろうと思う。それでもなるべく多くの事を知ろうと、梢子は今日も朝の情報番組に耳を傾ける。
 今日は動物虐待に対するニュースが大きく取り上げられていた。水を飲み、太陽を浴び、風を感じ、栄養の取れた食事をする。こういう事をしていると、人間も植物も動物も変わらないと思う。命の価値はみな同じ。それなのに、なぜ世界はこうも、虐げる事を好むのか。
 ニュースは朝であろうが昼であろうが関係なしに刺激が多い。時に今以上に残酷な内容が映し出される。誰かが、何かが死んだ。誰が、何かが殺した。そんなワードを耳にしない日はない。別に自分を善人などとは思わないが、心が痛まないこともない。だがそれも一時のことで、すぐに何もなかったかのような扱いにする。理由は簡単だ。自分が関わっている事ではないから。
 お湯が沸く音がして、我に返った。
 キッチンに行き、火を消すと、耐熱性プラスチックのマグカップを取り出し、集中してやかんのお湯を注ぐ。少しの気の緩みで、火傷をしかねない。
 梢子はやかんを持つ手に入れられるだけの力を込めた。
 両手で包み込むようにしてマグカップを持ち白湯を体に流し込む。
「ふうー……」
 しばらくして、朝食を作り始めた。
 義手で手の込んだ料理をするのは難しいということもあるが、同居人が出来た今は少し頑張ってみる。
 テーブルには、二人分の朝食をセット。そこでタイミングよく寝室の扉が開いた。上下チェックのパジャマに、寝ぐせがついた髪。年相応で可愛い姿で登場だ。
「おはよう。よく寝られたか?」
 そう声を掛けると、大きくあくびをして、匂いにつられるようにテーブルに近づいて来た。
「こらこら、先に歯を磨いてこい。朝食はそれからだ」
 寝起きのせいか、青星は気怠そうだった。
「今日、図書館行くんだろ」
「ああ」
 資料集めをするために、今日は図書館に行く事になっていた。今は何でもネットで調べられる時代だが、より正確な情報と幅広い知識を求め、紙の本に頼る。
「分かった」
 そう言うと青星は洗面所に消えて行った。
 ――一浪が、青星を探している。
 阿久津からそう言われた時、梢子は戦慄した。
 昨日、牧野と打ち合わせをするため、外出をしていた際、阿久津に出くわした。阿久津は梢子の顔を見るなり、複雑な顔をした。「話がある」そう言われ、梢子は開店前の阿久津の店を訪れた。
 店に行く事は、もう二度とないと思っていたし、阿久津の顔を拝むのも、最後にしたかったが事態が事態。
 阿久津は、バーカウンターの席に座り、煙草に火をつけると、大きく煙を吐いた。
 梢子はその煙をよけるように、阿久津から離れた位置に立っていた。
 あの時、梢子が壊したドアは既に修理されていた。店の中は少しグレードを上げたのか、以前よりも、高級度が増したような気がした。でもあの汚らわしい空気は変わらなかった。
「一浪が出所した」
「……出所?」
 一浪は、窃盗の容疑で最近まで刑務所に収監されていたのだ。
「金も権力もない一浪は、真っ先にここを訪れた。青星が借金を払い終わり、ここを辞めたことを話したら、一浪は不気味なまでの笑みを浮かべていた。おそらく、まだ青星に使い道があると判断したのだろう。あいつは間違いなく、お前らの居場所を突き止めるだろう。そうなる前にこの町から去る事だ」
 阿久津は未成年である青星に対し、男娼の真似事をやらせていた。これは完全に性犯罪の問われる問題。そんな奴がどうして青星の身を案じるような事を言ってくるのか。
「お前、一浪に私の事は話したか」
「まさか、話すわけがないだろ」
「そうか。出所の事も、青星は知らないんだろうな?」
「知らない。俺はあの日から、青星には接触していない」
「それなら、あいつには言うな。……知らない方があいつのためだ」
 あいつを壊すことにもなりかねない。
 阿久津がどういうつもりで、梢子にこの話をしているのか。青星に執着しているとも思ったが 阿久津はそういうタイプの人間ではない。ストカー気質の人間には、いくつかの特徴があるが、阿久津はそのどれにも当てはまっていない。第一、本当に執着心があるのならば、力づくでも、自分から青星を奪い返そうとするはず。
「お前の目的はなんだ」
 裏の社会で生きている阿久津が、自分にメリットがあること以外、するはずがない。裏社会とはそういうものだ。
「言え」
 梢子は阿久津を問い詰めた。
「……罪の償い。とでも言っとこうか」
 阿久津はそう答えた。
 阿久津は後悔しているのか。青星にあんな真似をさせた事を。子供を道具にしている事を。
「そうか。でも、その償い、一生かかっても償いきれんぞ」
 梢子は冷たくそう言い放つと、足早に店を後にした。
 青星、お前は自由なんだ。もう、何かを奪われることはない。私が、そうさせない。絶対に――。
 私は青星の父親には会ったことはないが、阿久津から、元軍人の体格のいい背の高い男だと聞いている。仮にどこかで出くわしてしまった場合、こいつの怯えを見れば、一発で分かるだろう。……見たくないのが、本音だが……。
 戻って来た青星を共に、テーブルを囲む。お茶を飲もうとコップを掴もうとしたが、中々上手く握れない。やはりガラスだと重さも関わってきて、余計に持ちづらいか。
 ……クソッ。阿久津の事もあって、余計にイラつくな。
――ガッシャーン……!!
 しまった……。
 コップが床に落ち、ガラスが飛び散った。
「大丈夫か」
 青星はそう言い、キッチンの棚から塵取りを持ち出し、割れた食器を片し始めた。
 梢子は苦笑いをして「すまないな」と言った。
 飲み物を好きなコップで飲むことなんて、誰でもするだろう? でも、そんな小さな幸せさえも私は噛みしめられない。何とも憎たらしい。
「これ、お気に入りだったんだろ?」
「え?……あ、まあーな」
 一緒に過ごしていて分かったが、青星は観察力に長けている。それは長い間、大人との関わりを余儀なくされ養われたものだろうが、それは生きていく上でも大きな武器となる。
「綺麗だよな。薩摩切子」
 梢子のお気に入りのコップ。それは、鹿児島で製造されている、薩摩切子だった。
「ああ、とても。シンプルだが、磨き上げられた美しさの中には、ダイナミックさも眠っている。これは素人には絶対に出来ないことだ。……それに、こういう、何代にもわたって受け継がれている物には、何だが好感を持てるんだ」
 祖父・祖母から父・母へ。そして子へ。それは未来に繋げる襷(たすき)。それに私は憧れている。
「いいな……そういう物の見方」
「お前だってしているさ、気づかないだけで」
「だと、いいな……」
 青星は手際よくガラスを片付けると、棚から新しコップを取り出し、お茶を注ぐとテーブルの上に置いた。
「それ、この家にある中で、俺のお気に入りのコップ。貸してやるよ」
 それは、梢子が割ってしまった、薩摩切子のペアグラスだった。
 今、この場だったら普通は、プラスチック製のコップを出してくるところだ。でもこいつはガラス製のを選んで出してきた。まるで私を障害者などではないかのように。
 梢子は失笑した。
「これは私のだ」
 ありがとう。青星。お前のその気遣いのない振る舞いが、私を救う。
 梢子はコップを持ち、お茶を飲んだ。
 うん。美味しい……。 



 午後になり、梢子と青星は図書館へ。今日は今季一番の寒さ。いつもより着込んだ体は膨れていた。後ろを歩く青星の鼻は、トナカイのように赤くなっていた。梢子は自分の首元に巻いていたマフラーを取り、青星の首元に。
「ありがとう」
 青星は少し照れくさそうにそう言った。年相応なその顔は、梢子が見たかったものだ。
「雪だ……」
 空から、静かに雪が舞い降りていた。スローモーションに見える雪。冬は神秘的な静寂を創り出す。その静寂の中、梢子は雪に触れようと、手の平を上に向けた。腕に体温がない梢子。少しはこの結晶が消える時間を稼げているだろうかと思う。だが思っていたよりも早く、雪は梢子の手の平から消え去ってしまった。
 青星は空を見上げ、舞い降りる雪を儚げな瞳で見ていた。
 図書館に着き館内に入ると、会員証を見せ入室する。館内の人はまばらだったが、中には勉強中の学生もいた。
 ここに来るのも久々だな。
 机と椅子の数が減っただろうか。近年は電子書籍が主流となってきた時代。誰もが手軽に本を読めるようになったが、紙の本を読む人が減っているのは事実。それは小説家として、少し悲しい気もする。
「じゃあ、参考になりそうな本、探してくる」
「ああ、頼んだ」
 一旦、青星と行動を別にし、梢子は一番端にある、窓側の椅子に腰かけパソコンを開いた。起動を待つ間、スマホのメールをチェックをする。メールボックス内は、通販サイトからのセール情報や、携帯会社からの今月の請求額メールなどが届いていた。どのメールにも目を通すことなく、一括でメールを消去。と、ボックス内を空にしたと同時に、メールが一件届いた。相手は、牧野だった。仕事の話かと思ったが、要件は青星の事についてだった。
 あれから、牧野に幾度となく青星の話をされた。両親は今どこいるのか。借金はどうしたのか。クラブとの縁は切れたのか。その質問に梢子は、青星の自尊心を傷つけないように、牧野に理解してもらえるように、丁寧に答えた。
 愛情深さに比例して、過保護過ぎる牧野は、青星が心配で心配で仕方ないのだろう。それは梢子も同じだが、守るばかりが、青星にとって良い事ではないのは分かっている。だから、いつまでも、あいつを家だけにいさせる気はない。
 梢子は牧野に「考えとく」とメッセージを送ると、携帯をコートのポケットにしまった。
 今日は雪がよく降るなー。
 ボケっと窓の外を眺めていると、女の子たちの話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、見た? すごい綺麗じゃなかった?」
「でも、まだ子供だよ」
「いいじゃん。年下、可愛いって~」
 二人の視線の先には、先ほど青星が足を踏み入れた、歴史書物が置いてある棚の欄だった。
 梢子は開けたばかりのパソコンを閉じると、鞄に入れ、席を立った。
 数メートル先のその場所に進むと、そこには、本棚と本棚の間にある通路に、一人、静かに座って本を読む青星の姿があった。その姿はまるで、群れを離れた、迷子の子供のオオカミのようだった。
 青星がこちらに気が付き、本から顔を上げた。
「参考になりそうな本は見つかったか」
 梢子はそう言い、青星に近づいた。
 青星は怪訝そうな顔をして、
「まだ10分くらいしか経ってないぞ」
「ははっ。そうだったな」
 梢子は青星の横に座り、本を覗き込んだ。
「何を読んでいたんだ?」
 青星は本を閉じ、タイトルを見せてきた。
「日本のステンドガラスの歴史についてだよ。あんたが調べろって言ったんだろ」
 梢子が今、書いている作品には、主人公が教会に迷い込むシーンがある。そこで主人子は、美しいステンドガラスに心奪われる。
「何か収穫はあったか?」
「まあ、基本的な内容はな。でも、文字だけじゃ分からない事もある。これは感性的な問題でだ」
「その通りだ。より鮮明に物語を作るには、自分の目で見ることが一番だ」
 青星は、先ほどよりもさらに怪訝な顔した。
「……お前、初めからその気だっただろ」
 梢子はにんまりと笑った。
 今度は二人で椅子に腰掛けると、梢子は青星に必要な個所をメモさせた。
「よし、行くか」
 来て四十分足らず。二人は図書館を出て、ある所へ向かった。
 


 向かったのは、町の小さな教会だった。今日の梢子の本当の狙いは、この教会に来る事。もちろん、図書館での事も必要だった。
 いつでも、誰でも、足を運べるようにと建てられ、無料で見ることが出来るこの施設は、飲食、大声での私語禁止以外は、自由だ写真も撮っていい。
 中はステンドグラスの美術品が、数多く壁に並べられていた。来門者にステンドグラスの美しさが伝わるよう、建物の中はいつも薄暗くしてある。ステンドグラスの光が、タイル製の白い床に反射し、床でさえも、神秘的に光り輝いていた。青色のステンドグラスが映っていると、そこに海が広がっているようで、黄色ステンドガラスが映っていると、あたり一面、花畑。緑色のステンドガラスが映っていると、芝生の絨毯が敷かれているようだった。
「どうだ、幻想的だろ?」
 返事が返ってこないあたり、青星は既にその世界観に引き込まれているようだった。
「この作品を作ったのは、ルイス・C(カムフォート)・ティファニーと言う、アメリカ出身の芸術家だ。ルイスは、あのティファニー社の跡取りとして生まれたが、宝飾に興味はなく、ガラスの製造や工芸に惹かれていったんだ」
「ずいぶんと詳しいんだな」
「私は、彼の作品のファンだからな」
 太陽の光に、負けじと光輝く、ガラス細工たち。何枚ものガラスを重ね合わせ、世界に一つだけしかない、彼にしか出来ない手法で作りあげられたその作品は、梢子の心を奪った。
 二人は、女性の天使が描かれている作品の前、足を止めた。
「少年、知っているか。愛する人を救うために、自分の身を滅ぼした天使の話を」
 その天使は、好きになった男の命を救うために、自ら死を選んだ。生前天使は言った。『愛する人のために死ねた私は、他のどんな者よりも幸せだ』と。結果的に悪魔に生まれ変わった天使は、愛した男の事も忘れ、一人孤独に生きた。
「天使は恐れなかったのだ。死を。変わりゆく事を」
「……お前には、誰か想う奴がいるのか……」
 遠慮気味に口を開いた青星に梢子は、
「いないさ……」
 と、まるで水たまりに広がる波紋のように、静かにぽつりと呟いた。
 教会の奥に進むと、そこには一台のグランドピアノがあった。天井にある窓から光が差し込んで、ピアノを照らしていた。それは〈天使(てんし)の梯子(はしご)〉のようにも思えた。
 美しいな……一度でいいから、本物を見てみたいものだ。
 教会とは、なんとも不思議なもの。無駄な音楽もなく、建物内の温度も一定に保たれている。他を何も感じさせない。その世界感だけを与えてくれる。
 いくら義手を使いこなす私でも、今はこれを弾く力はない。
 梢子はピアノに寄りかかり、天井を見上げた。
 すると、すぐ横からピアノの音色が響いた。驚いて横を見ると、そこには椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を乗せている青星の姿があった。
「お前、もしかして、ピアノが弾けるのか?」
 青星は無言で頷くと目を閉じ、軽く息を吐き手を動かし始めた。
 ――優しい、音がした。それは、もう二度と感じる事はないと思っていた、ぬくもりの音――。
 そのぬくもりの音に身をゆだねるように、梢子は静かに目を閉じた。
 少しして、一度、目を開け青星を見たが、すぐに目を閉じ、また静かにピアノの音色に耳を傾けていた。
 今だけは、何も考えない。お互い。たまには私も、ピュアという心を持ち、これは、天使がくれた時間だと思う事にしよう。
 美しい、穏やかな時間が流れた――。



「お前、なかなかの腕前だったな」
 帰り道、二人並んで歩きながら、梢子は青星のピアノの腕を褒めた。
「客にせがまれて、引いていた事があるんだ」
「なるほど……」
 美しい少年に、芸術的なピアノ。絵になるそれをただ見たかったのだろう。クソ単純な発想過ぎて、思わず冷笑しそうになるが、青星のピアノは、糸の縫い目のように繊細で、押し寄せる波のように穏やかだった。
 こいつは自分のその容姿で、これでもかというくらい、嫌な目に遭ったはずだ。外見の美。それは、傲慢な生き物である、人間が形成しているこの社会では、時に呪いを呼ぶものとなる。
「お前は、ピアノが好きか」
 青星が梢子に訊いてきた。
「ああ、鍵盤に触る感覚と、耳に入る音が心地よくて好きだ。でも今日ので、弾くより、聞く方が好きになったなかもな」
 こいつのピアノは、泣きたくなるほどに優しいものだった。あんなに優しい音を奏でられるのだ。こいつの心は美しい。
 梢子は立ち止まり、青星の背中を見つめた。
 こいつの未来を、少しでも明るいものにするのが、今の私の役目だ。さっきのように、避けさせてばかりはいられない。
 立ち止まる梢子に、青星は首を傾げて「何をしているんだ」と言ってきた。
 お前を想うのなら――。
「青星。学校へ、行かないか――?」
 お前を想うのなら、この選択を与えるべきだ。
 朝、不快な音で目を覚まし、冷たい水で顔を洗う。着慣れない制服に、身に着け慣れない通学用鞄。夜型だった今までの過ごし方と逆転し、朝早く起きて生活する日々。
「いってきます」
 ドアの前、振り向いた先にいるのは、もちろんあいつだ。
「行って来い!」
 いってきますに対して、威勢の良い声と言葉で、俺を送り出す梢子。そんな梢子に見送られ、俺は家を出た。
 外に立つ木々は、桜の花が散り、黄色緑の葉が色づき始めていた。
 毎年、桜の木を見るのも、もう、これで最後かもしれないなと思って見ていたな。今、俺がここにいる奇跡。それを痛いほどに感じている。
 少し前までは、真っ白な雪で覆われていたアスファルトも、今では光を浴び、力強く俺を誘導してくれていた。
 ――学校に行かないか。
 そう梢子に言われた時は驚いた。考えてみれば、普通、俺の年齢で言ったら学校に通い、部活や習い事、友達との時間に明け暮れる日々だ。だが、俺の居た環境は、普通ではない。だからこうして、中学にまともに通う事なく、高校に通う事となった。と言っても、今は六月。色々な事情が重なり、俺は二ヶ月遅れで高校生活のスタートさせる。
 学校に行くなんて、どのくらいぶりだろうか。
 青星が学校という名の集団に属していたのは、もう何年も前の話。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる自分には、もう、一生関わり合う事はないと思っていた。
 ギリギリまで寝ていたいと、学校は、徒歩圏内の場所を選んだ。同じ制服を着た、人々に続き、青星も校内へ。行きかう人々の視線が、自分に向いていることは分かっていたが無視した。
 下駄箱で靴を履き替え、職員室へ行く。朝の職員室の空気は少しピリついているのか、険悪なムードが漂っていた。しかし、連絡帳と書かれた黒板を見て、その理由がすぐに分かった。そこには、一学期期末試験。と、書かれていた。六月の下旬からあるテストで先生たちは、今から神経を尖らせているのだろう。無理はない、受験を控えている三年生にとっては、成績を上げられる、大切な試験となる。
 そこでチャイムが鳴り、周りにいた生徒は小さな悲鳴を上げ、風のように消え去っていた。
「ごめん、ごめん、待たせたね」
 そう言い、スーツ姿で青星を迎えたのは、大宮(おおみや)という青星の担任になる男だ。大宮は二十代後半で、教師としてはまだ新任の男だ。聞くに、クラスを受け持つのはこれが初めてで、気合は充分といった感じだ。
「髪、切ったんだね」
 柔和な顔をして、人差し指で自分の頭を指差しながら大宮は言った。
 髪にこだわりはないが、校則がなんやらと、梢子に伸びた髪を短く切れと言われ、切ったまで。
「じゃあ、行こうか」
 大宮に続き、広い廊下を進む。
 大宮とは会うのは、これで三度目。通う前に、学校の様子や手続きなどを行う為、牧野と一緒に来た事がある。最初は梢子と来るはずだったが、締め切りが間に合わないと、牧野が変わってくれたのだ。心配性な牧野は、あれもこれもと確認をしていた。そんな牧野に、多少は困っていたと思うが、大宮は嫌な顔一つせず、牧野の質問に答えていた。
 まあ、悪いやつではなさそうだけど、人を簡単に信用しないのが青星。
「ここで待っててね」
 大宮そう言うと、教室の中へ入って行った。
 青星は俯き、ドアの横に立った。
 ここの扉を開けたら、世界はどんな風になっているのだろうか。色に例えると、オレンジ? 黄色? ピンク? それとも赤? 青? それとも……黒、か?……どれにせよ、俺が知らない、未知の世界が広がっているのは確かだ。
 深呼吸をしていると、ドアが開く音がした。中からは騒がしい声もした。きっと青星が来ている事を知ったクラスメイトが、自分がどんなやつなのかと想像しているのだろう。
「緊張してる?」
 優し気な声で言う大宮。
 青星は軽く頷いた。
「大丈夫、一緒に行こう」
 その言葉通り、大宮は青星と並び、教室の中へ入った。
 教卓の横に立ち、狭い教室を見渡す。自分と同じ制服を着た同じ年頃の男女が、瞳をぎょろぎょろを動かし、自分を見ていた。
「彼は七瀬青星くん。今日からこのクラスの一員だ」
 感じたことない感情が、自分の中をうごめく。
「じゃあ、七瀬君みんなに一言、お願いできるかな」
 緊張、委縮する気持ち。初めてからくる恐怖心。そのどれもを断ち切る。背筋を伸ばし堂々と。
 再び深呼吸をし、青星は前を見た。
「七瀬青星です。よろしくお願いします」
 クラスから拍手が沸き上がった。
「じゃあ席は……春一の横でいいかな」
 青星は机と机の間を通り、教室の一番後ろの席へ。通学鞄を机の上に置いたと同時に、肩に重くのしかかっていた石が外れた気がした。
 ふうー。今日の任務を終えた感じ。
「よお、転校生」
 隣を向くと、少しくせ毛な髪をなびかせ、クリっとした瞳で青星を見ている男子生徒がいた。
「俺は、本田春一! 春一でいいよ!」
 クラスメイトの本田(ほんだ)春一(はるいち)は、自分とは正反対で、ヒーローのように明るかった。
 出会いの記念に握手だと言い、春一は右手を差し出してきた。
「青星。七瀬青星。よろしく」
「うん聞いてた! 青星。良い名前だな!」
 それを言われるのは、二度目だな。俺の名を初めて褒めてくれたのは、言うまでもなく、梢子だ。そしてその名に、意味があることを教えてくれたのも。
「それにしても、お前、ずいぶんキレな見た目してんだなー。入って来た時、一瞬どっちか分かんなかったぜ」
 自分の見た目にも興味はないし、周りにそう言われて何とも思わない。
「ほらその証拠に、女子達がウキウキしちゃってる。気をつけろよ~」
 耳元でそう言う、春一はどこか面白げだ。あたりを見渡すと、確かに女子達の視線が刺さった。
「興味ないから」
「お、いいねー クールボーイで」
 本当に興味なんてない。第一俺は、青春を送りたくてこの学校に来たんじゃない。俺が学校に通うと決めたのは、梢子の強い勧めがあったからだ。
『お前が傷ついたのは、人のせいだと言うことは分かっている。しかし、その傷を癒すのも、また人だ』
 人間は、周りの人や環境により、白く生まれた心に色をつける。鮮やかな色だけで生きられればいいが、そんな事はまずないだろう。誰しも、たくさんの異色が混ざりあって、生きていく。しかし、場合によっては、一生洗い流すことの出来ない色がつく事もある。
 梢子、俺はお前が居ればそれでいいと思う。勉強が大事だと言うのなら、お前に教わればいい。お前が頭が良い事は一緒に仕事をしていて分かっている。負担だと言うのなら、本を読んで自分で学ぶ。俺には、ここで過ごす時間よりも、お前と過ごす時間の方が俺は大切なんだ。
 ホームルームを終えると、一人の女子生徒に話しかけられた。甘ったるい声を出し、上目遣いで俺を見てくる。それに何だこの香り。香水か……? あいつらみたいで、不快だ……。
「ねえ、無視?」
 面倒だ……。
 席を立ち、廊下に出ると、その後を春一が追って来た。
「あいつ、お前に好意があるみたいだな」
 いい迷惑だ。会って数十分のくせに、俺のどこを見て好意を持ったと言うんだ。どうせ、見た目しか見ていないくせに。……先が思いやられるな。
 昼休みになり、青星は、春一に学校を案内してもらう事に。
 去年新たらしく建てられた学校は、どこの施設も綺麗に整えられていた。でも、肝心な事はそこではない。青星が一番気になるのはこの学校の脳。つまりは、図書室だ。
 春一に連れられ、渡り廊下を通り、一階の図書室へ。扉を押さえてくれる春一に礼を言い入室。中はびっしりと木製の本棚で埋め尽くされていて、棚には隙間なく本が並べられていた。
 期待以上だな。
「図書室なんて、俺、初めてきたな。お前に言われなきゃ絶対に来なかったよ」
「ここ、人って来るのか」
「さーどうだろう。でも、渡り廊下を通るやつはそうそう見ないから、そんな来てないんじゃね?」
 春一はサッカー部に所属しているらしく、使用しているグラウンドから、図書室に続く渡り廊下がよく見えるらしい。
 人が来ないことは好都合だ。梢子にはああ言われたが、俺はここで、必要以上に人と関わる気はない。
 青星は室内を歩き回り、以前から気になっていた本を探した。
 数少ない図書委員が、綺麗に整頓しているのか、見つけやすいように、本には番号が書かれたラベルが張られていた。そのおかげで、すぐに本を探し出すことが出来た。
 青星は一冊の本に手をかけた。
 作者名は間宮梢子――。タイトル――〈緋色の悲鳴〉――。
 さすが、百万部の大ヒット作なだけある。高校の図書室にも置かれているのだから。これは梢子のデビュー作。青星は以前から梢子の作品が気になっていたが、自宅には梢子の本はなく、頼まれ事をされない限りは、図書館に行く事もなかった。
 ここに来れば、あいつの本が読めると思った。デビュー作、それは作家の全ての始まりで、全ての終わり。あいつが何を思い、何を考え生きてきたのか、少しは分かるはずだ。
 本を手に取ると、青星はそのまま図書室を出ようとしたが、春一に止められた。
「それ借りるなら、なんか書いたりしないといけないんじゃないの?」
 確か入学式に、大宮がそんなことを言っていたはずだと、春一は言った。
 ああ、ここも図書館のように、そういうのがあるのか。
「後でやる」
 そう言うと、青星は春一と共に、図書室を出た。
 


 放課後、青星は再び図書室へ行き、本を借りていた。放課後だと言うのに、図書室内の人はまばらだった。どうやら春一の言う通り、本当に使用する者が少ないらしい。
 返却期間は二週間後だと言われたが、仕事や学校の合間に読めば、三日もあれば読めるだろうと思った。なにせ梢子の仕事を手伝ってからというもの、青星は読む力が鍛えられたのか、本を読むのが早くなった。それに、電子機器の使い方も上手くなった。
 渡り廊下を進んでいると、名前を呼ばれ、足を止めた。ふとグランドの方を見ると、春一がこちらに向かって大きく手を振っていた。
 部活か……。 
 春一の周りには人が多くいた。見た瞬間から思っていたが、やはり彼は人気者らしい。
 周りの部員は手を振る春一の視線を追い、その先にいた青星の事を首を傾げて見ていた。青星はその視線から逃れるように、再び歩き出した。
 玄関に行き、靴を履いて校門の前まで歩くと、見慣れた男が立っているのが見えた。制服を着ている生徒しかいない校門前の立つそいつは、明らかに目立っていた。
 あいつ、なんでここに……。
 二十代半ばの丸メガネ――そう、牧野だ。
 牧野は青星に気づくと、足早に近づいてきた。
「どうだった……!?」
 緊迫した様子で、前のめり気味にそう訊く牧野に、青星は小さくため息をついた。
「なんともないよ……てか、何でここに……?」
「いやー、青星くんが心配でさ。どうせこれから梢子ちゃん家に原稿取りに行くし、良いかなって思って寄ってみたんだ」
 そう言えば、今日が締め切りだとか言っていたな。昨日もずっと夜中まで仕事していたみたいだし、寝ていないのに、見送りさせちまったな。
「友達は出来た?」
 歩きながら、牧野が訊いてきた。
「いや」
「え、出来てないの!?」
「ほっとけ、居なくたって生きていけるだろ」
「それじゃ駄目だよ……!」
 俺が学校に通う事になったもう一つの理由。それは牧野の勧めだ。そもそも、俺を学校に通わせようと言い出したのは牧野だった。もっと広い世界を知って、夢を持って生きてほしいと言うのが牧野の願い。その為には学校という名の教育の場が必要だと考えたのだ。
 将来何になりたいとか、そんなもの俺にはないし、なくたっていいと思っている。俺はただ、今ある幸せを誰にも何にも奪われたくないだけだ。それに牧野には、学校という場が、輝きに満ちただけの場だと思っているのかもしれないが、それは大きな間違いだ。学校という見えない階級制度がある場は、弱肉強食社会だ。子供だからと甘く見られては困る。子供でも知能を持った人間だ。善か悪の区別がつき始め、成長段階の人間は一番侮れない。そう、今の俺たちの年代だ。
「梢子ちゃん、言ってたんだ。『私は、あいつに当たり前をあげたい』って」
「当たり前……?」
「うん、そう当たり前」
 ――朝起きて、学校へ行くあいつに、いってらっしゃいと言う。
 ――一日を終え、帰って来たあいつに、おかえりと言う。
 ――疲れて眠るあいつに、おやすみ。ゆっくり休めと言う。
 ――嬉しい時、楽しい時、一緒に笑う。そして、泣きたい時や、辛い時、大丈夫だと背中を摩る。
「そんな当たり前を私はあいつにあげたいって。だから、学校も、もっと積極的に過ごせばいいよ」
「……梢子」
「梢子ちゃんは、いつも君の事ばかりだ」
 家に着くと、リビングの床で大の字になって寝ている梢子の姿があった。どうやら原稿を書き上げ、息絶えそうになっているらしい。
 牧野が梢子の体を揺すり起こすと、梢子はパチッと目を開け、勢いよく上体を起こした。
 そしてあくびをしたかと思えば、青星の顔見て、
「おかえり。青星」
 だから青星も、
「……ただいま。梢子」
 俺は幸せで、欲深くなってきてしまったのだろうか。こいつがくれる当たり前。俺はそれを、ずっともらっていたいと思った。
 二人が打ち合わせをしている間。晩御飯を作ろうと、青星はキッチンに立った。
 今日は牧野もいるから三人分だ。米を研ぎ、炊飯器にセットする。梢子に余裕がない時は、こうやって青星が晩御飯を作ったりしている。
 料理をするようになったのも、ここに来てからだ。阿久津さんから借りて住んでいたアパートは、土足で出入りしていたから、特に洗掃除はしていなかった。洗濯も、気が向いたらという感じだった。だから、今の自分は、とても生活感のある暮らしをしていると思う。
「もうすっかり型にはまっているな」
 声がして、下に向けていた顔を上げると、梢子がいた。
 寝不足のせいか、目の下にはクマができていた。
「学校はどうだった」
 デザートにと切っておいたイチゴを一粒食いに頬張りながら、梢子は訊いてきた。
「別に普通だ」
「それは良かった。普通が一番だ」
「寝ていた方がいいんじゃないか」
 この後、直しが入るとすると、こいつはまた寝れなくなる。少しでも寝る時間を作らなければ、体がもたないだろう。
「感想が気になって、眠られない。それに牧野の事だ、すぐに読み終わる」
 あれでも一応、編集者の牧野。文章を読むレベルは一般人とは比べ物にならない。
「だから、お前の話を聞かせてくれないか。お前が今日一日、どんな事をして過ごしたか。私は今それが知りたい」
 俺の過ごした日常が、感じた事が、お前の人生を一部にしてもいいと言うのなら、俺は――
「……俺は、今日――」
 誰かに、自分の身に起こった事を共有するなんてなかった。少なくとも、こいつに出会うまでは。
 梢子は終始にこやかに青星の話に耳を傾けていた。大した話をしていないような気がしても、梢子のその表情が心地好くて、青星は話す事を止めなかった。

 当たり前の日々を、お前と共有する喜び。それは、これ以上にないくらいに幸せなのではないだろうか――。

 しばらくして、「終わりましたよ」という牧野の声で、俺たちの穏やかな時間は終わりを告げた。
 青星は、梢子が書斎に戻っていく姿を目で追いながら、終わりを告げてもなお残り続ける、心の安らぎを感じていた。
  編集者としての役割は、大まかにいえば小説家のサポートだ。打ち合わせをして、原稿の手直しを繰り返し、共に作品を作り上げていく。だが勘違いしてはいけないのは、あくまで自分は作品作りの手伝いをしているだけであって、作ったわけではないということだ。その事をいつも肝に銘じてこの仕事をしている。
 編集者になって三年。まだまだ未熟な自分だが、それなりに仕事を楽しんでいる。学生だった頃は小説家になることを夢見ていた。コンテストの開催を見ては、昼夜問わず物語を書き続け応募した。頭の中に、書きたい物語が溢れていて、それは途切れることは無かった。自分も誰かの心に残る物語を書ける。本気でそう思っていた。だが、現実はそんな甘いものではなかった。小説家が一つの物語を生み出すだけでどれだけの時間と体力を使うのか。たとえ、自分の全てを捧げようとも、その作品が世に出る割合なんて、極めて低い。その事に自分は耐えられなかった。いつだって小説家は、選ばれる側だ。それに八人兄弟の長男として、家計を支えるのに、小説家という収入が不安定な職を選ぶことは出来ない。編集者になったのは逃げだったのかもしれない。努力を重ね続ければもしかしたらなれていたのかもしれない。だがそのいつかきっとを、自分は待つことが出来なかった。
 梢子ちゃんに出会ったのは、編集者になって半年が過ぎた頃だった。前任の編集担当が産休に入る事になり、当時、新人でサポート係をしていた僕が付く事になった。この時から梢子ちゃんは既に売れっ子作家で、うちの編集部の八割は梢子ちゃんの仕事で出来ていた。そんな、有名な先生のもとで働ける事になった時は、本当に嬉しかった。梢子ちゃんの第一印象は、綺麗な女の人。スラっと伸びた高い身長に、金色に輝く髪。どこかの国のハーフなのかと勘違いした。しかしその見た目とは裏腹に、彼女の書く作品は、残酷な描写が多くも、どこか切なげだった。それに加え、あのリアルさ。時々、想うんだ。これは、彼女自身なのではないだろうか――? と。僕が夢に見ていた、人の心に残る作品を彼女はいとも簡単に書く。すごすぎて、嫉妬を通り越して、もはや尊敬と憧れしかない。梢子ちゃんは若くして、この道のプロになった。だけど、昔の事はあまり話したがらない。でも僕が出会った時の梢子ちゃんには、両腕があった。長くしなやかに伸びた。美しい両腕が。その両腕でよく教会を訪れては、子供たちに演奏を披露していた。両腕を失った今は、あまり行ってないみたいだけど。あの一件以来、梢子ちゃんは笑わなくなった。酷く衰弱しきって。このままでは、梢子ちゃんは死んでしまうのかもしれないと思った。だから、僕は言ったんだ。呪いとも受け取れるあの言葉を――。それでも、今でも梢子ちゃんは、あの頃のように、物語を書く事は出来ないけど。だけど、最近、大きな変化があった。そう、青星くんとの出会いだ。華奢な体つきに、色白で細くて長い手足、日本人特有の真っ黒なストレートな髪に、吊り上がった細く鋭い目。瞳は、夜の深海に沈む星々のような色。これまた美少年で、ジブリにでも出てきそうな美しい少年だった。彼は梢子ちゃんの横で、警戒するように僕をじっと見ていた。しかしその視線は、どこか恐怖を感じているようにも思えた。青星くんとお父さんの事は、あの後、梢子ちゃんから聞いた。なんて酷な事なんだと思った。その上、借金を肩代わりして、クラブで働いていたと聞いた時は、本当に気の毒でならなかった。これは僕のエゴなのかもしれない。同情なのかもしれない。それでも、僕は彼に何かをせずにはいられなかった。そう思って、梢子ちゃんに学校に通わせることを提案してみた。梢子ちゃんも僕と同じ考えをしていたみたいで、青星くんに、もっと外の世界を知ってもらいたいそうだった。それから、青星くんには、仕事の合間を見て、梢子ちゃんと二人、勉強を教えた。覚えが早い事に驚いたのを今でも覚えている。彼は理解するだけではなく、その先を読んで質問をしてくるんだ。本当に賢い子だと思った。梢子ちゃんも、そんな彼のすごさにすぐに気づいたようで。初めての勉強会の後、「将来は大学にでもいかせたいな」と言っていた。青星くんと出会ってから、梢子ちゃんは変わった。苦しい顔をして、何かを一人でに考える事は少なくなったし、作品にも、前より覇気が出てきた。なにより、よく笑う。こんなに素晴らしい事はない。きっとこれは、良い事なんだ。僕はそう思っていた。
 今日はこれから、梢子ちゃんとの打ち合わせがある為、僕は電車を乗り継いで、このマンションに訪れた。今まで何億というお金を稼いだ小説家先生が住む家にしては、とても庶民的に思えるが、贅沢をしないあたりが梢子ちゃんらしくて好きだ。
 エレベーターを待っていると、出口の方に引越し業者の人の姿が見えた。
 誰か越してきたのかな。
 上に上がり、数メートル歩き、間宮の表札の前で足を止める。インターフォンを押し、ドアの前で待つ。
「はい……」
 すぐにインターフォン越しに、梢子ちゃんの気怠そうな声が聞こえてきた。
「牧野です」
「ああ……」
 鍵が開く音がして、ドアノブを回す。靴を脱ぎ、端に寄せると、廊下を通り、リビングへ。
「原稿、どうですか」
 丸まった背中に声をかけると、梢子ちゃんは振り向くことなく、ただ首を横に振った。
「お前の言う通りだ。全然良くない……」
 ここのところ、梢子ちゃんの現行の進み具合は良くない。物語を書くのを再開してから、書いては消し、書いては消しを繰り返している。本人も長い事それに悩まされていて、苛立ちを感じている。
「協会のシーン、あれは良かったと思いますよ。特にあの、主人公の少年がピアノを弾くシーン」
 肩に掛けていた、ショルダーバッグを外しながら、牧野は言った。
「あのシーンはとても神秘的で、安らかで、穏やかでした。まるで……読んでいる僕ら読者が、そう感じてしまっているように思える。リアルさが売りの間宮先生らしいワンシーンでした」
「私、らしい。か……」
 梢子は椅子に寄りかかり、天井を見上げた。
「あれは、青星をモデルにしたんだ」
「え……青星くんをですか??」
「ああ」
 そうだったんだ……全然、知らなかった。
「今回のコンセプトは良いと思ったんだが、やはりそう簡単にはいかないな……」
 梢子ちゃんの今回の作品のコンセプト。それは、
「平凡な人生を生きるよりも、暗闇の中で、必死にもがいて生きる人間こそ、真に美しい。――なんて、そんもの、光が当たらない地獄を生きている人間の強がりだ」
「梢子ちゃん……」
 神様……あなたはあの日、彼女の大切なものを一つ残らず奪ってしまったのですか。だとしたら、僕は、あなたを許せません……。
 梢子は時計を見ると立ち上がり、ベランダの鍵を開けた。
 時刻は午後三時を回ったところ。そろそろ、青星が返ってくる頃だ。
 ああやって、梢子ちゃんはほぼ毎日、青星くんが帰ってくる時間になると、ベランダから、学校へ続く道を見下ろしている。僕には決して上げられない気持ちを、青星くんは梢子ちゃんにあげる事が出来る。悔しいけど、僕は編集者としてでしか、彼女を支える事は出来ない。それでも、僕は彼女の傍にあり続けようと思う。彼女が、手を止める、その日まで――。
 青星が帰って来たのが見えたのか、梢子はにこやかに下に向かい手を振っていた。
 牧野はその姿を見て、悔しくも、嬉しく思った。
「青星くん」
授業を終え、学校を帰宅しようとすると、女子生徒に話しかけられた。 甘ったるい声に、不快な香水――。振り向くと、そこには想像していた通りのやつが居た。
「帰るんでしょ? 私も一緒にいい?」
「……なんで俺がお前と」
「いいじゃん。クラスメイトなんだから」
そう言って、俺の腕を掴み、自分の体にぐいっと引き寄せた。
胸に押し当てて、俺を誘惑しているつもりか? 
「離せ。お前みたいな人間は嫌いなんだよ」
掴まれた腕を力づくで振りほどき、歩きだした青星。
たくっ……こんな事なら、共学の学校を選ぶべきじゃなかったな。あの家で眠りたいばかりに、選択をミスったかもれない。
後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえる。青星は足を止めた。
するとガツっと後ろから肩を掴まれた。
しつこい……
青星は掴まれた肩の手を振り払うように、勢いよく、後ろに振り向いた。
「俺に近寄るなよっ……――!」
だが、そこにいたのはあの女子生徒ではなかった。
「どうした……いきなり……」
 春一は大きな瞳を見開き、青星を見ていた。
「あっ……いや、悪い……」
 驚く春一に、青星は申し訳なさから顔を背けた。
 鬱陶しさからつい、きつい言い方をしてしまった。
「どうした? そんなカリカリして」
「あの女かと思ったんだよ……」
「あー……もしかして、真理愛(まりあ)の事?」
「真理愛……?」
「そう、進藤(しんどう)真理愛 。同じクラスのやつだよ」
 春一以外のやつの名前なんて、俺は知らないからな。名前を言われても、いまいちピントこないが、多分その真理愛とかいうやつだと思った。
 春一と真理愛は同中で家が近所の幼馴染らしい。進藤は真理愛の事を少々強引なところもあるが、根は真面目でいいやつだと言っていた。
「あいつ、イケメン好きだからな~ でも、青星は、恋愛とか女には興味なさそうだもんな」
 あるわけがない。少なくとも、俺がここにいるやつらに、そういう類の感情を持つことなんてない。
 今日は部活が休みだという春一と共に学校を出る。
 さすがに、牧野の姿はないか……。
「はあ……」
 自然と出た溜息。牧野が居ないことに安堵しているのか、その逆か。
 夕暮前の公園には、子供が多くいた。砂場で城を築いたり、ブランコでどこまでこげるか競争したり、追っかけっこをしたり。
 青星は立ち止まり、その光景を眺めていた。
 公園なんて来たのは、数えられる程度だ。平日は母親の仕事が終わるまでの間、よく公園で一人、暇をつぶしていた。人見知りだったせいか、友人と呼べる友人も、幼少期の俺にはいなかった。
 寂しい幼少期。それでも、母親の帰りを迎えられた事が、あの頃の俺にとって、最高の喜びだったのは間違いない。
「すいませーん」
 サッカーをしていた少年たちのボールが青星の足元に転がって来た。こっちに蹴ってほしいと言う少年たちの言葉をよそに、青星はそのボールを上から見下ろしていた。
「おい、青星。蹴ってやれよ」
 隣でそう言う春一。
 だが、これをどうしていいものか、青星には分からない。
「俺、サッカーとかやったことないから」
「は?……マジかよお前」
 春一はあんぐりと口を開け、青星をまじまじとみた。
 サッカーどころか、スポーツなんてやった事もない。
「とりあえず、それ貸せ。俺が蹴ってやる」
 春一は青星からボールを受け取ると、「いくぞー!」と大きな声で少年たちに声をかけ、ボールを空高く蹴り上げた。
 ボールは宙高く舞い、空に浮かんでいた太陽まで届きそうだった。
 少年の一人はそのボールを体で受け取っていた。
「おお、トラップうめえじゃん!」
 春一は、ボールを受け取った少年を見てそう叫んだ。青星にとっては、なんてことない動作に見えてもサッカー好きの春一にとっては興奮するようなものらしい。お礼を言う少年らに、春一は笑顔で手を振った。
「……で、お前、サッカーやったことないってマジ?」
「マジ」
「そっかー マジかー……」
 変わり者だと思われただろう。でも、それは間違ってはいない。俺がどんなところで生まれ育って、今まで何をしてきたのか話したら、こいつは俺の前から消えるだろうか。俺とは違い、日向の道だけを歩いてきたであろうこいつに、俺の闇を見せて、苦しんでしまわないだろうか。俺は、自分のせいで、周りの人間の光が一瞬でも消えるのが嫌なんだ。
「やる? やらない?」
「……え?」
「だから、サッカー。やる? やらない??」
 選択肢を与えられる事の喜び。人と関わり合う事は、怖い事。でも、こんな俺でも、わがままを言ってもいいのなら。
「やりたい。サッカー、したい……!」
 青星がそう言うと、春一は前歯を見せて、ニヒっと笑った。
「そうこなくっちゃ!」
 春一は公園に居た少年たちを集め、自分たちをサッカーに混ぜてほしいとお願いした。少年たちは快く承諾してくれ、青星は初めてサッカーを経験する事に。
 自分の足元に渡されたボール。その上に足を置き、靴を通しボールの感覚を知る。前方にあるゴールをめがけ、ボールを前に押し出すようにして走る。だんだんと息は荒くなっていき、額には汗が流れる。
「青星――!」
 自分の名を呼ぶ友の声に反応し、俺は友へパスを送る――。そして何度かパスを繰り返し、ゴールは俺のすぐ目の前に現れた。ゴールキーパーの動きを見て、俺は正確なシュートを決める。
――パッシュ……!!
「よっしゃあ……!」
 決まったゴールを見て、春一は青星の元に駆け寄った。
「ハイタッチしようぜ!」
 顔の前で、手の平を見せてくる春一。青星は自分の手を春一の手に合わせた。
――パッチン!
 また一つ。俺の中に不思議な感覚と感情が生まれた。今日は、人と何か成し遂げた時に湧く感情と、そこに辿り着くまでの経緯で感じた感覚だ。
「また一緒にやろう」帰り際、春一はそう言ってくれた。
 春一は、本当に俺とは正反対な人間だ。キラキラしていて、いつも人に囲まれていて、太陽みたいに明るい。その光できっと、多くの人を照らしてきたのだろう。今日、俺を照らしてくれたように。でも、春一の光は、もっと別のやつに渡してほしいと思う。春一を想い、好いてくれるようなやつに。俺の光は、あいつだけで十分だ。あいつ以外の光を望むなんて、それこそ本当に強欲だ。
……いや、違うな。俺はきっと、あいつだけがいいんだ――。
 家までの残りの道のりを一人歩く。少し坂になっているこの道を登れば、ほら、見えてきた。
 俺を見て微笑む。あいつの顔が――。
 午後は気温がどんどん上昇すると、朝のニュース番組で気象予報士が言っていた。こんなに暑いと、外にも出たくなくなるが、今日は出なくてはならない。
 梢子はノースリーブのワンピースを手に取った。普段は長袖を着ていることが多い梢子。義手を着けていることで感じる、人からの視線を気にしているわけではない。だからと言って、日焼けを気にしているわけではない。単に長袖が好きなだけだ。肌触りの良い素材の洋服を着ているとなんとも心地よく安心するのだ。
 夏にと思って買った、大きめのマクラメバッグをクローゼットの奥から取り出し、荷物を詰め込む。梢子は荷物を多く持ち歩くタイプの人間だ。特に夏が多く、財布や家の鍵などの貴重品以外に、水筒や日傘も持ち運ぶ。外を歩く時は日傘を差さないと、頭皮が焼けて頭痛がするのだ。
 玄関に鍵をかけ、エレベーターに乗り込む。途中、ベビーカーを押した子供連れの母親が乗って来た。
 子供は、まんまるとした大きな黒い瞳で、梢子をじっと見つめていた。
 赤ちゃんはこの世に、ただ一つだけ存在する純真無垢な生命だ。この目で、これから多くのものを見て、知っていくのだろう。どうかその先にある未来が、明るいものであるようにと、梢子は赤ちゃん笑いかけた。きっとその笑顔は世界一ぎこちなかっただろう。
 ウイーンと音を立てて開いたドアの奥から、強い日差しの暑さを感じ、梢子は愕然とした。
 暑い……暑すぎる……まだ夏前だろ。
 梢子は持っていた日傘を差し、再度カバンの中に水筒が入っていることを確認して、エントランスを出た。道中、ワイヤレスイヤホンを耳に着け、音楽を再生した。外の音が拾えるように、音量は小さめに。梢子が使っているイヤホンは、昔の友人からプレゼントで貰ったものだ。その友人は機械に詳しく、一緒に電気屋に行き店員におすすめを聞きいて、梢子の耳に合うものを選んで買ってくれた。
 最近のワイヤレスイヤホンは、性能がよく驚いたものだ。前に一度、バスターミナルでバスを待っていた時、横から気配を感じ向くと、七十代くらいのおばあさんがいた。そのおばあさんは、トイレに行くのに荷物を見ていてもらいたかったほしく、何度か私に声を掛けていたみたいだったが、私は全く気づかなかったのだ。自分は耳がいい方だと思っていたが、自分の感覚で丁度良い音くらいの音量にすると、周りの音が全く聞こえなくなってしまうのだ。音楽を聴くことに特化したイヤホンなのだろうが、何かあった時に対処出来ないとその時に実感した。しかしそうは言ってもプレゼントで貰ったもの。結局気に入って、出かける時や、仕事中気分がのらない時などと、毎日のように使っている。ただし、注意をして。
 時計を見ると、午後三時を回っていた。そろそろ学校を終えた青星が、こちらに向かってきている頃だ。今日は、青星と買い物に行く約束をしていて、学校終わりの青星と駅で待ち合わせをすることになっている。しかし、待ち合わせ時刻を過ぎても、青星は現れない。
 何かあったのだろうか。学校の都合で遅れているとかならいいのだが。
 待ち合わせ時刻から遅れる事、数十分。青星の姿が見えた。
「おーい、って……は? なんだあれ……」
 見ると、青星の後ろには、同じ制服を着た少女が居た。青星は不機嫌な顔をしながら、ズカズカとこちらに歩いて来たが、少女の顔はいたって普通だった。
 なんなんだ……。
「ついてくんじゃねーよ……!」
 青星は怒鳴るように少女にそう言った。
「おいおい、一体どうしたんだよ」
 梢子がなだめるようにそう言うと青星は、溜息をつき、少女を睨みつけた。
「こいつが勝手に俺の後、つけてきやがったんだよ」
「酷いよ青星くん! 私は話がしたいって言ったのに、全然聞いてくれないからじゃない!」
「俺はお前なんかと話す事はないんだよ! さっさと俺の前から消えろ、目障りなんだよ」
「そんな……酷い……」
 少女は顔を手で覆い、泣き始めた。
 ああ……泣き始めた……
「勝手に泣いてろ。行こうぜ梢子」
「あ、おい……!」
 そう言って梢子の腕を引っ張る青星。
「いや待て、このまま一人にも出来ないだろ」
「は?……こんなやつ、どうだっていいだろ。俺は被害者なんだよ。こないだっからずっと、嫌というほど追っかけ回されてんだよ!」
「しかしなあ……」
 周りの人たちは何事かと梢子たちを見ていた。
 完全にカオスだな。
 えっと……こういうのはどうすればいいんだ。
「あの……君。あのさ、なんか、青星に話があるんだろ? 私はここで待っているから、そこの喫茶店でも入って、話してくれば?」
「は、おま、待てよ! 俺は話す気なんてねーよ……!」
「お前はなくとも、この子は話したがっているじゃないか。とりあえず、話だけでもいいから聞いてやれよ」
 青星の言い分も分かるが、どっちにしろ、この子は話を聞いてもらうまで、引き下がるようには思えんしな。今ここでどうにかしとかないと、面倒なのは青星だ。
「君。それでいいか?」
 梢子がそう言うと、少女はこくりと頷いた。
「でも……」
「でもなんだよめんどくせ……」
「あなたも、一緒にお願いします」
 そう言い、少女が見ていたの、梢子だった。
「え……私??」 
 


 なぜこうなったのか。それは梢子には分からないが、今、梢子は青星のクラスメイトの少女と、三人で喫茶店に来ていた。綺麗なネイルがされた手で、オレンジジュースの入ったグラスを持つ少女。先ほどまでの泣き顔はどこにいったのかと思うぐらいに、にこにことしていた。
 まあ、こういう感じの子だと言うのは分かっていたが、それを目のあたりにすると、なんか怖いな。それに今どきの子ってのは、みんなこういう感じなのか。メイクして、ネイルして、髪も染めて。私の時代はあんなことしたら、許されなかったぞ。
「要件を早く言え」
 隣に座る青星は先ほどと表情を変えず、いやむろ、先ほどよりも表情がきつくなっている。まあ、無理もないだろう。学校で追いかけ回され、放課後も追いかけ回されたかと思ったら、公共の場で泣かれる。最悪すぎる。
「ケーキも食べようかなー」
 メニュー開き、愛らしい声で話す少女。
 少女は俗にいう、あざとかわいい女子なのだろう。男という生き物を知り尽くしたような甘い話し言葉に態度。男慣れしているのは見ていれば分かる。
「ふざけるな。お前のせいで俺たちは時間を無駄にしているんだ。これ以上、俺をイラつかせたくなかったら、さっさと話せ」
 青星の尖った声と鋭い目を見て観念したのか、少女はメニュー閉じた。そして、梢子に向き直った。
「私、青星くんと同じクラスの進藤真理愛って言います」
 意外にも、律儀に頭を下げる真理愛。礼儀はそれなりにあるようだ。
「間宮さん、ですよね?」
「え、あ、はい……」
 なんで私の名前を。
「私の事、ご存知ありませんか??」
「えっと……」
 うーん……誰だ? 
 人好き合いが多くない梢子。知り合いだったら、すぐに分かるはずだが、真理愛の事はこれっぽっちも思い当たらなかった。
「すまない。私は君を知らない」
「そうですか……まあ、無理もないです。引っ越してきたばかりですし。マンションだと、あまり他の人にも会いませんしね」
「マンション??」
「はい、私、間宮さんと青星くんと同じマンションに住んでいるんですよ」
「……えっ! そうだったのか!?」
「はい、何度か二人を見たことがあって」
 なるほど、それで私の名前も知っていて青星にも。……まあ、青星に近づいたのはそれだけではないような気がするが。
「……最悪だよ……お前なんかと同じマンションとか……」
 青星は頬杖をついて、外を眺めていた。機嫌は悪くなる一方だ。
「まあ、まあ、そう言わず」
 そんな青星を梢子はさらになだめる。
 話から察するに、この子は私と青星が一緒に住んでいるのを知っている。私をここに居させたのも、私たち二人の関係を知りたがっているからだろう。最初は青星に訊こうとしたが、相手にしてもらえず、たまたま居合わせた私を見て、こっちに訊いた方が早いと思ったのだろう。青星も限界のようだし、ここはさっと話をまとめて、退散してもらうとするか。
「真理愛ちゃん。と呼んでもいいかな?」
「はい」
「君が想像しているような事は、私たちの間にはないよ」
 そこは誤解があってはならないと、きっぱり言い切る梢子。
「ただ……」
 だが、そこで言葉に詰まった。
 この気持ちをどう言語化すればいいのか。どんな風に言うのが正しいのか。いざ言葉にすると、その続きを上手く言えない。
 ずっと考えていた、私たち関係を。青星にとって、私はでも兄弟でも、親戚でもなんでもない、全くの赤の他人。周りの人間から見れば私たちの関係が一体どういうものなのかと、頭をひねるのも当然の事。でもこれだけは確かだ。
「私は青星を大切に想っている」
 真理愛は、それでは納得がいっていないと言うような顔をしていた。血のつながりのない男女が、一つ屋根の下に暮らしている事は変わりない。何かあると思うのが普通だ。しかも相手は未成年。世間一般的に、私がしている事は、犯罪にも繋がりかねない。しかし、私は全て覚悟の元で、今、こいつの隣にいる。たとえ、こいつがこの先、私以外の誰かと生活を共にするようになって、いつか私の元を離れて行ってしまうような事があっても、私はこいつを想うだろう。とても大きく言ってしまえば、死んでもだ。
「俺は……」
 隣で黙って話を聞いていた青星が、ゆっくりと口を開いた。
 お前が、私をどう思っているのかを、訊くのはこれが初めてだな。
「俺は、こいつを想っている。こいつと同じようにだ」
 じんわりと、じんわりと、心に広がっていく互いの言葉。その言葉が離れないように、二人は己の心に、鎖をつけたのだった――。 



 改札を通り、風に吹かれながら電車を待つ。
 電車に乗るのは、久々だ。どこに行くのも近場で済ませる青星は、バスや地下鉄などの交通機関は使わないのだ。若干、閉所(へいしょ)恐怖症(きょうふしょう)のところがあり、閉じ込められた感のあるバスや地下鉄は、嫌で避けているという点もあるが、単に移動がめんどくさいという事もある。
「悪かったな」
 遠くの景色を眺めながら、青星は言った。
「気にするな。お前の学校での姿が見えた気がして、楽しかったよ」
「……みんなにああなわけじゃねーよ」
「分かっているさ」
 少し口を尖らせて言う青星を、梢子は可愛いと思った。
 ドア付近に立ち、町並みを見ながら電車に乗る。ドアが開く度に流れてくる風が体を涼しくさせた。
 ここ最近、続いていた雨が嘘のように、今日の空は穏やかだった。
 電車を降り、歩くこと数分。二人が立ち止まったのは、二文字のローマ字とオレンジ色が目印のお店。
 梢子は青星に、店前で待つように言い、一人、店の中へ。ガラス張りの店内越しに見ると、梢子は店の店員と何かを話していた。
 すぐに梢子が店の中から出てきた。手には紙袋があった。梢子はその紙袋を青星の胸の前に突き出した。
「え、なに」
「開けてみろ」
 そう言われ紙袋の開封すると、中には頑丈な箱に入ったスマホがあった。
「今日は七月の二日。お前が生まれた日だ」
 そうだ……今日は、俺の誕生日。
「覚えててくれたのか……」
「当たり前だ」
 俺は、込み上げてくる涙を止めようと、必死だった。自分が生まれてきた事を人から祝福されるのは、まるで、自分がこの世に生きていていい存在だと、認めてもらえたかのようだった。
「まだまだ子供のお前だから、私が支えるとしよう」
 梢子、俺は……
 青星は梢子に近づき、温かさを感じられるその肩に、自分の額を置いた。
「ほんと、お前には何もかも、もらってばかりだな……」
「そんなことない。私だって、お前から色んなものをもらっている。ただそれは、目に見えないから、お前は与えていると思わないのだ」
 梢子は片手で青星の後頭部を優しくなでた。
 あったけえ……あったけえなあ……。
 梢子の義手である手から感じた温かさとはおそらく、ぬくもりと言う名の温かさなんだと思う。それは紛れもなく、俺がずっと欲しかったものだ。
 俺は完全に、強欲な人間になった。このぬくもりを、永遠にもらいたと思ったんだ――。
「さあ、用事も済んだ事だし、この辺を散歩して帰ろう」
「……ああ」
 離された手。体温は引いていき、ぬくもりが消えていくように思えるが、それは違う。胸に、残っているんだ。
 自然を満喫しようと、梢子は山地に行こうと言い出した。暗くなる前に帰ることを条件に、青星は同意した。
「あまり奥に行くなよ」
 前を行く梢子の背中に青星は言った。
 しかし、梢子はぐんぐん進んでいく。雨が降っていたせいで、地面は滑りやすくなっていた。
 歩きにくい……。
「おわっ……」
「大丈夫か!?」
 青星は梢子に駆け寄った。
「ちょっと躓いただけだ」
「頼むから、ひやひやさせないでくれ」
「すまん。お前がいると、ついな」
 それは、安心していると捉えてもいいのだろうか。俺がいるから、自分は大丈夫だと言っているのか。ふと横に目をやると、そこには、見たことのない綺麗な花が咲いていた。
 すげえ……なんだこれ。
 その花は透明で葉がギザギザと尖っていた。青星はその場にしゃがみ込み、その花をじっと見た。花屋とかでも見た事ないやつだ。
「どうした?」
 そう言い、青星の隣にしゃがむ梢子。
「見ろよ、この花」
「これは……」
 梢子は身を乗り出しその花を見ていた。
「お前、運がいいな。この花は山荷葉(さんかよう)と言って、条件がそろわないと、この透明な状態を見ることは出来ないんだ」
 山荷葉……初めて聞く花の名前だ。
「初めて見た」
「私も長いことここに住んでいるが、透明な状態を見たのは初めてだ。……美しいな……」
 花を見ている梢子の横顔は、生命の尊さを愛しんでいるようだった。
 今、この花を見ているこいつの瞳は、少女のように可憐だ。だが、一度この花から目を背ければ、こいつの瞳は、深い悲しみを持つのではないかと、俺はそう思ってならなかった。
「なんだ、そんな見つめて」
「……儚いな」
 そうだ。お前はとても儚い。
「この花がか?」
「いや、梢子が」
 梢子はじっと青星を見つめた。青星は喉に詰まった唾を飲み込んだ。
 女にこんなに見つめられたのは初めてで、心臓が変に動く……。いや……お前だからなのか……??
 数秒間、お互いを見合った。だが、その時間は、時が止まったかのようだった。
「……お前、芸術家みたいな事を言うな」
「へ?……」
 そう言い、腰を上げる梢子。
「せっかくだ、その携帯で写真でも撮っていけ」
 青星はポケットとからスマホを取り出すと、カメラを山荷葉に向けた。
――カシャッ。
 ……いいじゃん。
 スマホに収めた山荷葉の写真は、とても愛らしかった。
 家に帰る前に、スーパーに寄り夕飯の買い出しをした。仲良く一つずつ紙袋を持ちながら、二人は、夕暮れ時の空の下を歩いていた。
「結構買ったな」
「梢子は大食いだからな。怪獣みたく食べる」
「おいおい、レディーに対する言い方じゃないなそれは」
「お前は女でもか弱い女じゃない。握力なんてゴリラ並みにあっただろうに」
「……」
「いや、否定しろ? 俺がマジでいじめている見たくなるから」
「え?」
「え?」
「「……え?」」
 二人は顔を見合わせた。
「プッ……ハハハハッ! お前といるとしょうもない事でも笑えるなほんと」
「ガキのおもりは得意なんだよ」
「そうかそうか」
 日々は、こういう、何でもない瞬間が一番楽しいものだ。俺はお前と居てそれを知った。
 帰ったら、まず何から作ろうか? その後はなにをしようか? そうやって俺たちは、なんでもない話をしていた。
 真理愛の乱入で最初はどうなる事かと思ったが、今日はすごくいい日だった。

 ――このまま、二人笑いあった日で終わってほしかった。

「梢子――?」
 信号待ちをしていた時、後ろからそう呼ぶ声が聞こえた。
 振り返った先にいたのは、梢子によく似た女性だった。
「久しぶりね。元気だった?」
「うん……元気」
 梢子はその女性相手に、静かにそう答えた。女性は隣にいる青星を見ると、小さく会釈した。
「私の仕事を手伝ってもらっているの」
「そうなのね。いつも娘がお世話になっています」
「娘……?」
 ってことは……
「私の母だ」
 どうりで似ているわけだ。そう言えば、梢子から親の話を聞いた事はなかったな。
 母親は穏やかで、とても優しそうな人に見えた。梢子と俺の関係を知りたそうにしていたが、気を遣ったのか、何も聞いてこなかった。そう言うところが、また似ていると思った。相手の事に関して余計な事は、自ら首を突っ込まない。というところが。
「あ、そうだ。さっきね、ようかんを買ってきたの。あなたここの好きだったでしょ?」
 梢子の母はそう言い、持っていた紙袋を梢子に渡してきた。
「ありがとう……」
「よかったらあなたも食べて」
 青星は軽く会釈をすると、自分が持つと、母親から紙袋を受け取った。
 と、その時だった。
「――皐月」
 その声を聞いたとたん。梢子の顔から血の気が引くのが分かった。だがこれは、恐怖心からのものではない。これは、嫌悪だ。
 背の高い、男性がこちらに近づいてきた。男性は梢子を見ると、驚いたように目を丸くしたが、それも一瞬だった。そして溜息をつくと、
「なんだ、お前か……」
 男性は冷たげにそう言った。
 なんなんだ、こいつ……いきなり会って、その言い方は。よく分からないが、すごく嫌な感じだ。態度は威圧的で、人を見下しているような、この目……。
「……父さん」
「――え?」
 なんとそいつは、梢子の実の父親だった――。 



 最悪だ……どうしてこんな日に限って、今に限って。今日はあいつの喜ぶ顔見たさに、プレゼントを用意して、滅多に見る事の出来ない山荷葉を見られて、スーパーに寄って、楽しく会話をして、笑って一日が終わると、そう思っていたのに、なんで、なんで今なんだ……。
 青星は庇うように梢子の前に出た。梢子から青星の顔は見えなかったが、その背中からは警戒していることが見て取れた。
 きっと父を睨みつけているのだろう。
「何なんだ君は」
 父は青星を見下すように見上げていた。
「青星、私は大丈夫だ」
「……」
 だが梢子がそう言っても、青星は下がろうとはしなかった。
「小説家になると、啖呵を切って家を出て行ったくせに、最近はろくに結果も残せていないんじゃないか?」
 父はまだ私を罵倒してくる。
「お前程度の人間が何をしようと、底辺以下の結果しか出せないんだ」
 吐き捨てるようにそう言う父。
 心が痛い……痛くて、痛くて、おかしくなりそうだ――。
「あなたっ……! そんなこと言う必要何でしょ……?」
「皐月、お前はこいつに甘すぎるんだ」
 握りたくとも、握るこぶしすらない……私は、弱い……誰か、誰か、助けてくれ――。
「――謝れよ」 
 怒りが滲み出ている声。
「……青星……」
「お前みたく、人を使い捨ての駒のようにしか思わない奴に、こいつの人生が少しでも奪われたかと思うと、虫唾が走る……」
「ガキがいきがるなよ」
「大人はそんなに偉いのか? 俺からしたらあんたは、人の気持ちも理解できないで、ただ歳食っただけのおじさんにしか見えないけどな?」
「こいつ……」
 父親は青星の胸ぐらに掴みかかり、揺すった。細くて華奢な青星は人形のようにふらふらだった。
「お父さんやめて……!!」
「あなたもうやめて下さいっ……!!」
 梢子は母と必死になって、父親の腕を掴み、青星から手を離すように訴えづけた。
「っ……取り消せよ……こいつにさっき言った事……取り消せって言ってんだよ……クソジジイ……!!!」
 青星は勢いよく体を後ろに反ると、父親の顔をめがけて足を振り上げた。青星の膝は父親の顎に直撃した。衝撃からきた痛みで、父親はその場にしゃがみ込んだ。
「貴様……」
 父は青星を憎そうに睨みつけていた。プライドの高い父が子供の青星に口答えをされるのは許せなかっただろう。
「行くぞ、梢子」
 青星は梢子の手を引き、歩き始めた。梢子は引かれるがまま歩いた。後ろを振り向くと、涙を流す、母の姿があった。
 お母さん……ごめん……。
 自宅までの道のり、青星が何かを言うことはなかった。ただ、梢子の手を強く握り、歩き続けた。
 玄関に入って、青星は梢子の手を離した。
「……青星」
「怒るんだろ……なんであんなことをしたんだって。でも、俺は間違ったことをしたと思っていない」
「青星、私は大丈夫だ」
「何が大丈夫だよ……そんな見えすいた嘘、なんでつくんだよ……! それに……! たとえお前がよくても、俺が我慢ならなかったんだよっ……!!」
 誰かが自分なんかのために怒ってくれたのは、生まれて初めてのことだった。
 梢子は溢れそうな涙を必死に堪えた。
「青星……」
 声が少し、枯れていただろうか。こいつに、涙を堪えていることを、悟られてはいないだろうか。
 梢子は青星の胸に寄りかかった。
「お前がいて、良かった……」
 瞼を閉じて、次に目を開ける時、これが夢であってもいい。それでもいいから、今だけは、こいつの体温をこの胸で感じていたい。
 ――この日、梢子の笑い声を聞く事はなかった。
 夏本番を迎えていた今日この頃、俺は二者面談のため、放課後、学校に残っていた。夕暮れ時の校舎に人は少なく、居るのは同じく二者面談を待っている生徒と、部活に励む生徒のみだった。
 空は茜色に輝き、眩しかった。廊下の手すりに寄りかかりながら、外の景色を眺める。
 あの時の空も、こんな風に綺麗だったな。
 結局、あれからあいつが親の話をしてくる事はなかった。次の日にはけろっとして、何事もなかったように振舞っていた。あいつらしいっちゃあいつらしい。あいつなりに俺に気を遣ったのかもしれないが、俺はそんな事をしてほしくなかった。自分の中だけで痛みをとどめるのではなく、俺はあいつの痛みを共に背負いたかった。でも、それは俺が一方的に思っているだけであって、あいつは違う。考えてみろ、親しい相手でも、遠慮なしにずかずかと心の中に入ってこられるのは、誰だって嫌なはずだ。心を許して、信頼している相手だからこそ、言えない事もある。だから、あいつが話してくれるまで、俺は待つことにした。
 教室の扉が開く音がして振り向くと、そこいは春一の姿があった。隣には髪がショートの春一と同じ、大きな瞳を持つ女性も。青星は春一の母親に軽く会釈をすると、駆け寄って来る春一に向かって、あいさつ代わりに片手を挙げた。
「次、お前の番だろ?」
「ああ」
「親は、まだ来てないのか?」 
 春一はあたりを見回しながら言った。
 俺は春一の事が好きだし、信頼もしている。だが、過去の事や家の事は一切、話してはいない。知られるのが怖いわけではない。仲間思いで優しい春一の事だ、自分の事のよう捉えて辛くなるだけだ。そんな思いしてほしくない。
「そのうち来る」
「そうか。じゃあ俺は行くよ。また明日な!」
「ああ」
 手を振り去って行く春一に応えるように、青星も手を振って見送った。
 梢子のやつ、忘れてるわけじゃないよな。あんな事があったが、最後に牧野と自宅で打ち合わせしたをしたあたりからか、仕事の調子が良いみたいだった。前までは、唸ってばかりいながら執筆をしていたが、最近はそれがなくなった。執筆に没頭して日付と時間の感覚が狂ってなきゃいいが。
 大宮には、中で座っているように言われたが、青星は教室の前で梢子を待ち続けた。そして予定していた時間から遅れる事、十分。梢子はやって来た。
「悪い……! 道に迷ったんんだ……!」
 ここまで来るのに走ったのだろう。息を荒げ、額には汗が流れていた。
「大丈夫かよ……水とか持ってきてんのか?」
 こんな暑い中、走るなんて脱水症状でも起こした大変だ。
「いつものようにここにある」
 そう言い、肩に掛けていたバッグをポンポンと叩く梢子。今日も義手を着けている。
 大宮と挨拶を済ませ、水分補給をしてから二者面談は始まった。十分遅れでのスタートだが、今日の面談は青星で最後だったため、問題はないと言われた。
 大宮はすぐに梢子の腕が義手であることに気づいたようだった。珍しい物を見るような目で見ていたが、梢子の両腕は展示品などではない。
「んで、先生。進路の事ですよね」
 高校一年でも、進路の事について考えなくてはならない。高校生活の三年間は、俺たちが思っている以上に短く、あっという間に終わるらしい。
「七瀬は、何かやりたい事はあるのか?」
「特には」
「即答だなお前」
 大宮の問いに間を開けずに答えた青星に、隣に座っている梢子の鋭いツッコミが入る。
 この歳で、自分の将来を決める方が難しいと思う。
 春一はサッカー推薦で、既にいくつかの学校から声がかかっているらしい。一年生でレギュラーに抜擢される才能の持ち主。それに加えて、あのセンス。春一のすごさは、以前、一緒にサッカーをした時に嫌というほど知っている。
 梢子のように、若くして自分で事業を行う人間もまれだ。何がやりたいか明確に決まっている人間を羨ましく思う。
 大宮は持っていたファイルを開くと、いくつかの大学のパンフレットを見せてきた。
「何か一つの道を究めるのだったら、専門を進めるが、やりたい事が何か分からないから大学に行くというのも、一つの手だ」
 大学か。興味がないわけじゃない。今よりも多くの事を学べるし、関わる人間も国境を越える。  
 高校に入って気づいたが、知識と言うものは、紙だけで学べるものではないという事だ。誰かの話に耳を傾ける事で、得られる知識もある。例えば、その人物の今までの経験の談とかで。
「好きな事とかでもいいんだぞ、何か七瀬がやっていて楽しいと思える事はないのか?」
「楽しい……」
 楽しと思える事。そう訊かれ、青星の頭の中で、すぐに一つの事が浮かんだ。
「ある。一つだけある」
「おおなんだ?」
 大宮は食い気味に訊いていた。
「――小説を読む事だ」
 もちろん春一とサッカーをするのも、梢子と過ごす日常も楽しい。でも、俺が無我夢中になって、楽しいと思えるものは、小説を読む事だ。
「お前の小説が教えてくれたんだ」
 梢子、俺はお前の書く物語が好きだ。お前には言っていなかったが、俺はお前の今まで創り上げた物語を全て読んだ。雑誌で連載されていたのも、短編集も含め全部だ。最初はお前の事が知りたくて、あの本を手に取ったが、いつしか、ただお前の物語を読みたて、手に取るようになった。
ネット上に上がるお前の作品へのコメント読んで、作品を読んで分かったことがある。お前の小説は、人の痛みや苦しみの寄り添ってくれている。お前そのものなんだ。
――悲しいけど、温かくなった。
――辛いけど、生きたいと思った。
――孤独だけど、微かな光を集めたいと思った。
 全部、お前の小説を読んで人が思った事だ。どこの誰とも顔も知らない人の言葉だが、すごいと思わないか? どこも誰とも、顔も知らない人が、お前の作品を読んで、生きたいと思ってくれているんだ。お前は人に、生きる希望を与えてくれている。
「梢子。俺に、楽しいを教えてくれてありがとう」
 本当は、もっともっとたくさんのありがとうを伝えたい。でも、今ここで言うのは違うよな。
 梢子は「ふっ」と口元を緩ますと、
「お前には、適わないな」
 ――その言葉の本当の意味を、俺はのちに知る事となる。
「先生」
 梢子が真面目な顔で大宮に向き直った。その様子に、大宮も真剣な顔で梢子を見る。
「私は、この子の母親ではありませんし、血縁関係もない。先生からしても、私は得体のしれない存在でしょう」
 大宮は偏見がある男ではない。しかし、進藤のように、俺と梢子の関係を不思議に思っているのは確かだ。梢子は、色んな覚悟の元、俺と居てくれる事を選んでくれた。
「私は、この子の幸せを切に願っている。ですが、私一人の力では、この子を守り抜く事は難しいのかもしれない。だから、どうかこの子が道を誤らないよう、しっかり見ていて上げてほしい」
 「お願いします」と、深々と頭を下げる梢子。そんな梢子に、大宮は少し驚いたようだったが、決意の固そうな瞳で「はい」と頷いた。
 そして、梢子は俺に向き直った。
「私は、将来を選択する際、一番邪魔になるものは、周りの視線だと思っている。何を言いたいかは分かるな?」
 青星は静かに頷いた。
「誰かに自分の人生を委ねるような事はするな。世間に許されたいと思うな。何があっても、自分の心に従うんだ」
 梢子は、年齢や立場で相手を判断しない。相手が子供であっても、自分と同じ対等な存在として、いつも同じ目線に立って接する。今だってそうだ。俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺と真摯に向き合っている。だから俺も、いつもこいつに、正直でありたいと思うんだ。
「――で、大学には行くか?」
 その問いに、俺がなんて答えたかは、安易に予想がつくだろう。



 二者面談を終えて家に帰宅すると、話があると、梢子は青星をリビングに呼んだ。その表情は、少し硬い気もしたが、あの時のような嫌悪さはない。
 これから話してくれる事は、きっと梢子の中でも覚悟がいる事だ。自分で自分に、プレッシャーをかけているのかもしれない。だから少しでもリラックスしてもらいたい。
「話って?」
 なるべく柔和に、青星は問いかけた。
「私の両親について……父について、話しておきたいんだ」
 青星は梢子の座る、目の前の椅子に腰を下ろした。
 そして、梢子は深く、短く息を吐いた。
「父は厳しい人だった――」
 梢子の父親は、いわゆる完璧主義者だった。学生時代には、生徒会長も務める文武両道の優等生。国立大学をしてからは、日本有数の大手企業に勤めた。その経験を生かし、今では自身で会社を経営しているという。そんな父親の一人娘であった梢子は、親の期待を一身に背負った。
「父に褒められるのは嬉しかった」そう梢子は言った。
 学校でも、塾でも、成績優秀で何をやっても常に一番だった梢子。周りからも優秀な娘さんがいて羨ましいと言われ、近所でも梢子の評判の女の子。そんな梢子を父親も自慢に思っていただろう。あの時までは――。
「だが、私は父の思うような娘にはなれなかったのだ」
 父親が梢子を罵倒し始めたのは、梢子が中学受験に落ちた時だった。同じく受験をした知人の子供は全員受かったが、梢子だけが、落ちてしまったのだ。
「その時に知ったよ。努力は、どれだけしても足りない。した全てが、報われるわけではないと」
 父親は酷く梢子を嫌った。お前のせいで、恥ずかしくて近所の人にも顔向け出来ないと、お前は私たちの恥だと。
 話せば話すほどに、梢子の表情は沈み、下を向いた。そんな梢子を見るのは青星にとっても辛い事だった。
 あの男に会った時、頭ではなんでもないと思っていながら、気が付いたら体が勝手に反応していた。こいつを梢子に近づけてならないと、梢子を守らなければと、体が言っていた。それは多分、いつの日かまで、自分が感じていたものと、似ていたものを男から感じたからだと思う。
 青星が身体的な暴力を受けていたなら、梢子は言葉の暴力を受けていた。体は何ともなくとも、心はずっと悲鳴を上げていた。助けて。助けて。と。
「お前のデビュー作、読んだ。あれは……お前自身だったんだな」
 梢子のデビュー作、〈緋色の悲鳴〉物語の主人公は、厳格な父を持つがゆえに、人生に生きずらさを感じる。最初は自分のためだと感じていた事も、成長するにつれ、それが歪んだ愛である事を知る。
「ああ、そうだ。それが今の出版社の目に留まり、私は小説家という職を手に入れた」
 父親には、そんな現実を見ない生き方なんて、絶対に上手くいかないと批難されたが、梢子は構わず家を出た。出来損ないだと蔑まれ続けた梢子は、文章を書く事でしか精神を保っていられなかったのだ。
「私は、小説を書く事でしか、自分の存在価値を見出す事が出来ない人間なのだから」
 自分はまるで、存在価値のないような人間。あいつに出会う前の自分が思っていた事。俺は母に捨てられ、父に虐待され、自分の身体を売りながら生きてきた。こんなにも無様で、可笑しい話は他にないと思っていた。でも、こいつも俺と同じだったんだ。俺はいつだって、自分の不幸ばかりを見ていた。何も知らなかっただけで、こいつはずっと苦しんでいたんだ。それに何も気づいてやれなかった自分に腹が立った。
 握った拳に自然と力が入った。
「梢子。俺に、何が出来る……?」
 俺がそう言うと、梢子はゆっくりとその場から立ち上がった。そして、俺の目の前に来ると、自分の胸の中に、俺を優しく引き寄せた。
「……何もいらない。お前は何もしなくていいから、ただ明日も私の傍にいてくれ」
 脆くて、儚いその存在を、俺は強く抱きしめ返した。
「ああ、分かった……」
 約束する。俺はお前から離れないと。たとえ、どんな未来が訪れようとも、俺の心も身も全て、お前のものだ。
 長い、長期休みが終わり、学生たちが現実に戻った九月上旬、梢子は程よく冷房の効いた、喫茶店を訪れていた。いつもの席に、いつものコーヒー。必要なとき以外、冒険をしないスタイルは、昔から変わらない。
 九月と言っても、まだまだ暑い日は続く。窓越しに見える景色には、スーツを着たサラリーマンが、ハンカチで額の汗を拭い歩いていた。
 世の男性たちはこうして仕事をしているのに、加齢臭だのなんだの言われると、侵害だろう。自分は涼しい店内で仕事だものな、ありがたい。
「おかわりはいかがですか」
 横から和む声がして見ると、コーヒーサーバーを持った花田がいた。今日も白いシャツに、黒いエプロン姿だ。額を出した白髪の髪は、綺麗にまとめられていて、背筋を伸ばし佇むその姿は、気品が漂う。初めて花田を見た時、素敵な人だと梢子は思った。
「いただきます」
 にっこりと微笑みながらそう答え、おかわりを注いでもらう梢子。湯気と共に、ふわりとコーヒーの香ばしい香りがして思わず鼻で香りを吸い込む。
 ああいい香りだ……
「どうぞ」
「どうも」
 会釈をすると、梢子はコーヒーを一口飲んだ。
 ……最高。
 梢子は花田を見ると、またにっこりと微笑んだ。そんな梢子に返すように、花田も微笑んだ。笑った時にできる目尻の皺が、また和む。
「最近、何かいい事ありましたか?」
「え?」
 急にそんな質問をされ、梢子は首を傾げた。
「いや、こないだ来てくれた時よりも、表情が晴れやかなので、何かいい事でもあったのかと思いまして」
 自分では気づかないが、そんな顔をしているだろうか。……でも、そうなのだろうな。
「そうですね、ありましたね、良い事」
 梢子がそう答えると、花田は微笑み、「良い一日を」と、カウンターの中へ戻って行った。
 青星に父の事を話して、私の心は安らいだ。でも、出来ればあいつに、あんな自分の姿は見せたくなかったし、父のような人間をあいつの世界には入れたくなかった。あいつには、もう少しの苦しみも与えたくない。
 人間って、絶対に下手くそな生き方しか出来ないようにつくられている。進んで、転んで、立ち上がって、また進んで、また転んで、後ろを見るけど誰もいなくて、絶望を感じてもう無理だってなるけど、ふと隣をみたら誰かが居てくれて。そして一緒に手を取り合って、前に進む。でも、時々、傷つけたり、傷つくのが怖くて、その手を掴めない時もあるけど、それでも多くの人に救われ、懸命に生きていく。それなのに、どうして私の父は、一人で完璧に生きようとするのだろうか。完璧な人間などいないのに。弱さを見せる事が、父にとって、一番の恥なのだろう。でもそれでは、失う事の多い人生となってしまう。そんな人生で、あの人は本当に幸せなのだろうか。
 切っても、切れない関係。血のつながった関係というもの。嫌いになりたいのに、本気で捨てる事は出来ない。だから、こんなにも頭を悩ませる。
 ……もうやめよう。私があの人の事をどうこう考える必要はない。
 父親の頭の隅に追いやるように、梢子はコーヒーを飲み干した。
 牧野が来ると、世間話もほどほどに、すぐに打ち合わせを始めた。
 注文したアイスコーヒーを飲むと、牧野は鞄から茶封筒を取り出した。だが牧野がテーブルの上に置く前に、梢子が一つの原稿を取り出し、テーブの上に置いた。
「……これは?」
 突然出された原稿に、牧野は目を丸くして、何度か瞬きをしたのち、そう問いかけてきた。
「実はな、別に他の原稿を書いていたんだ」
 タイトルは無題だった。牧野はその原稿を手に取り、最初のページをめくった。
「梢子ちゃん……これって……」
 それは梢子の自筆の原稿だった。両腕がなく、義手で生活している梢子が、自筆で書いている事に、牧野はとても驚いただろう。
「これは、一体どういう事?」
 牧野は必死に考えを巡らせていた。梢子が、わざわざ辛いやり方を選ぶその理由が、分からないのだろう。
「それだけはどうしても、手書きで書かなければならないんだ」
「読んでもいい?」
「もちろんと言いたいところだが、今はダメだ。時が来たら、必ず見せると約束する。それまでは、何も言わずに待っていてくれないか?」
「……何か、理由があるんだね?」
 梢子は頷いた。
 牧野は原稿を閉じ、梢子の元へ返した。
「すまないな、牧野」
 梢子はその原稿をカバンにしまった。
「こっちの方は、白紙に戻すよ」
 そう言うと、牧野は持ってきた原稿を梢子に返した。
「いいのか……?」
「うん」
「あいだあいだのストーリは絶賛していたから、てっきり直されるのかと」
「そのつもりだったけど、今の話を聞いて、気が変わった」
 梢子は書く事でしか自分の存在価値を生み出せない人間。だがそこには、小説を好きだと言う、物語を書く事が好きだという前提がある。本当に書きたいものを楽しいんで書けなければ、梢子にとって意味がない。そんなところも、牧野は理解してくれている。
「編集長には、僕から上手く言っておくから。書いて梢子ちゃん。梢子ちゃんの本当に書きたいものを」
 牧野は、眼鏡の奥の糸目を下げ、少しばかり頬を緩めた。梢子は知っている。これは牧野が誰かを思いやる時にする表情だ。
「……うん。ありがとう」
 なんとしても、この物語だけは、自分の手で、完成させなければならないんだ。
【私は花と散った――】
「今日はここまでにしよう」
 その言葉に従い、青星はペンを置いた。
 ここ数日、義手の調子が悪いと言う梢子のために青星は代筆をしていた。
 作品作りを手伝っていて、分かった事がある。梢子は、おおよそのストーリー構成を決めたらすぐに書き出す。キャラクターの人柄などは書いているうちに勝手にそうなったという感じで、話の展開や結末も、最初の設定ではなく、大幅に変更になる事もある。何にも縛られない、自由な制作の仕方だ。
 もちろん、自分の事を主題としたデビュー作は、モデルとなる存在が居ての作品作りだったと思うが。
「私も死ぬのなら、花と散りたいものだ」
 花と散る――。それは花のように散り、潔く死ぬこと意味する言葉だ。
 梢子は鏡の前に立つと、義手を着けていない、自分の体を見つめた。
「私がお前くらいの時は、天才と謳われたものだ。でも、今はどうだ。落ちた小説家。落ちたって、どっちのことを言っているのだろうな」
 人間は皆、交わる事の出来ない生き物。ベストセラーを生み出した梢子にも、一部の人間から誹謗中傷の声はある。俺は知っている。五体満足で生まれてきて、何不自由なく生きているやつらが梢子に向けている視線の数々を。
 こいつを見た時の人の反応はそれぞれだ。不思議がる者。初めて見たと興味を持つも者。偽物だとバカにする者。変だと気持ち悪がる者。はたから見れば、若くしてプロの小説家になり、数々のヒット作を生み出した間宮梢子の人生は順風満帆。しかしそう見えるのは、誰も本当の彼女を知らないからだ。
「お前は訊かないんだな。私に両腕がない理由を」
 鏡越しに会った梢子の目は、とても切ないものだった。
 俺が知っている梢子は、強く、でも弱く、儚い。
「話したいのなら訊く。でもそうじゃないんだったらいい」
 知りたい。だけど、こいつの気持ちを一番に考えたい。話して、辛くさせるような事はさせたくない。それに、なんとなく分かる気がするんだ。どうしてお前に両腕が無いのか。そして、それと同時に、誰を失ったのか。
「いや……訊いてほしいんだ。お前には、私の全てを知っていてもらいたい」
 梢子は力なく、椅子に腰を下ろした。
「……人生でたった一人、愛した奴がいた。でも、そいつは私のせいで死んだ」
 
 ――やっぱりまたここにいた。
 
 鬱陶しいと思っていた、その言葉を待つようになったのは、一体いつからだっただろうか。
 奴は決まって私の前に現われては、私を叱りつけた。そこは本を読んでいい場所じゃない。と。
 (うるさい奴め)
 私は、毎度心の中で悪態をついていた。

 ――三年前――

 夏の日差しが差す、暑い日のなか、私たちは出逢った。
 執筆に息が詰まった時は、家の近くにある図書館に来て、物語の世界に足を踏み入れる。
 私のお気に入りは、図書館の端にある、本棚の間と間のスペース。夏は日を避け、そこで本を読んでいた。歴史書しか置いていない、そのスペースに立ち入る人は、ほとんどいなかった。
 奴、以外は――。
「すいません。そこ、邪魔です」
 奴の第一印象は、そう。嫌な奴。
 声の先に視線を向けると、そこには古風そうな男が立っていた。
 邪魔って、もっと他の言い方があるだろ……
 梢子は男を無視して、視線を本に戻した。
「あの、聞いてます?」
 めんどくさい奴……
 梢子は寄りかかっていた本棚から背中を離し、腰を上げ、別の場所に移動した。
 少し日は当たるが、我慢するとしよう。
 そう思い、梢子は窓辺から一番離れた席に座った。
 それから三十分ほど経った頃だっただろうか。あの男がもう一度、私の元に来たのは。
「あの……」
 図書館では静かにしましょう。子供から大人が知るルールがあるの中、小声で話しかけてきた奴の声は、弱弱しかった。
 またお前か。
 梢子は鬱陶しそうな顔を男に向けた。
「僕、もう行くんで」
「はあ……?」
 そう言い、男は図書館を出て行った。梢子が元の場所に戻ると、寄りかかっていた本棚に、メモ用紙くらいの小さな紙が貼られていた。

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読書中、ごめんなさい。
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僕は、一ノ瀬幸太郎と言います。
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またあなたにお会いしたいです。
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古風そうな男より
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 そいつは一ノ瀬(いちのせ)幸太郎(こうたろう)と言い、その見た目通りの達筆な字で私に手紙を書いてきた。
 古風そうな男より。か…… 私の心を読んだのか。
 ――またあなたに、お会いしたいです。
 その言葉通り、奴はまた私の前に現れた。
「こんにちは」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、あいつがいた。
「……どうも」
 梢子は愛想なくそう言い、立ち上がろうとした。
「あ、いいんです……!」
「は?」
「ここにいてもらって、いいんです……」
 そう言うやつの目は、少しばかりか緊張しているようにも思えた。
 なんなんだ……こいつ……
 梢子は不審に思いながらも、その場にいる事に。
 奴は何を言ってくるわけでもなく、ただ私の傍にいた。歴史が好きなのか、誰も読まなさそうな古い分厚い書物を読んでは、顎に手を当て、何かを考えていた。時々私を一瞥しながら。私はその視線に気づかない振りをして、本を読んでいた。
 日が暮れ、図書館も閉まる時間になり、私は本を閉じ、その場を去ろうとした。
「あっ……」
 奴は立ち去る私を見て、焦ったような声を出したが、追ってはこなかった。
 私は本棚に読んでいた本を戻すと、図書館を出た。
 ……結局、何もなかった。あんな手紙を残して、どういうつもりだったのか。
「……」
 梢子は立ち止まった。
 なんだ……この残念がる気持ちは……
 梢子は胸に片手を置いた。
 やめよう…… こんなの、私らしくない。
 再び歩き出した時だった。
「―――ません――――すいません……!!」
 振り返ると、奴が私の元へ走って来ていた。
 え……
 奴は私の前で止まり、
「あの……その……ゲホゲホッ……」
 息を切らせながらも、何かを話そうとしてきた。
 ……たくっ
「え、あ……」
 梢子は幸太郎の手を引くと、近くにあったベンチに座らせ、隣にあった自販機で水を買って渡し、隣に腰を下ろした。
「すいません……」
 幸太郎は貰った水をゴクゴクと飲みは始めた。
 そんなに必死になるほど、一体私になんの用なんだよ……
 幸太郎が落ち着いてきたのを見計らい、梢子は幸太郎を咎めた。
「おい、お前」
「はい……!」
 返事はするものの、幸太郎は梢子を見ようとしない。
「一体何なんだ? 何が目的で私に付きまとう」
「や、その……僕は付きまとっているつもりはなくて……」
 幸太郎は慌てた様子で、誤解だと両手の手の平を前につきだしてきた。
「これが??」
「いや……その……」
「ああもう! 女々しい奴だな! はっきり言え!!」
 梢子は強気な口調で言った。
 すると幸太郎は、
「……君のことが気になって」
 夏の夕暮れ。それはオレンジ色の太陽が、キラキラと輝く日だった。
「何だよ、それ……」
 それから私たちは、毎日のように図書館で顔を合わせるようになった。奴は決まって本棚と本棚の間に座る私を注意した。
 まるでそれが自分の役割であるかのように。
 私がここに座る理由を話した時は、奴は何度か瞬きをした後、そんな事かと腹を抱えて笑った。
 そんなこととはなんだ。失礼な奴だ。
 ――だが、奴はすんなりと私の心に入り込んできた。
 幸太郎は歴史学を専攻する大学院生だった。研究に没頭する日々は忙しいが、とても充実していると言っていた。あの古くて分厚い書物を読んでいる理由も理解出来た。
「僕は将来、博士号を取って、今以上に多くの研究をするんだ」
 奴の話す、夢の話が好きだった。
 頬を染め、鼻高らかに話す、あの表情が好きだった。
 幸太郎は幼い頃に父親を亡くし、母親と二人暮らしだと言っていた。
「いい会社に就職して、母さんに楽をさせてあげたいんだ」
「いい息子を持って、お母様も幸せだろうに」
「そうだといいなー」
 奴の隣は、とても居心地が良かった。
「梢子は好きな人いないの?」
 深々と降り積もる雪の中、奴は聞いてきた。
「……いないな」
 そう答える私に、奴は「ほんとに?」と聞き返してきた。
「ほんとだよ」
 幸太郎は眉を上げ、「ふーん?」と言ってきた。
「僕はね、いるんだ、好きな子」
 好きな子。いい年して、随分と可愛い表現をするな。
 聞いてもいないのに、奴はそいつの事をべらべらと話し出した。
「不愛想な奴だな」
 幸太郎が私を想っていることは知っていた。だが、私は奴の気持ちに気づかないふりをしていた。大切なものを失う辛さは、痛いほど知っていたからだ。
「でしょ?? でもそんなとこもろもまた良くて。僕も最初はあんな言い方するつもりなかったんだけど、彼女を見ると、緊張して……ついああ言ってしまって……僕を初めて見た時の彼女を顔、今も忘れないよ。こんな風に眉間に皺をよせてさ」
 幸太郎は両手で眉を寄せ、モノマネをしてきた。
 それが面白くて、梢子は笑った。
「ははっ! 私はそんな顔はしていないぞ!……あっ……」
 しまった……
 そう思った時はもう遅かった。
 幸太郎は梢子を見つめた。
「……お前、絶対わざとだろ」
「だって、梢子が素直じゃないから……」
 寒さで悴んだ手で、あいつは優しく私の頬を包み込んだ。
「僕を受け入れてくれる?」
「……もう、とっくにお前は私の心に入っている」
 幸太郎は「ふっ」と小さく笑った。
 重ねられた唇に、安心したのを覚えている。
 次の日の朝、目覚めた私の隣に奴がいたことで、私は初めて幸福をというものを知った。
 ――あいつと過ごす度に、私の心には、幸福が積み重なっていった。
「今度、梢子の事を母さんに紹介したいんだけどいい?」
「私を?」
「うんっ」
 私なんかで、いいのだろうか……
 私は、お前のような奴と、肩を並べて歩けるような人間じゃない。
「いてっ」
 下を向く梢子の頬を幸太郎が引っ張った。
「なにするんだよ……!」
「だって梢子が浮かない顔するから。どうせ自分でいいのかとか、思ってたんでしょ」
「え?……なんでそんな事まで分かるんだよ」
「梢子は分かりやすいんだよー」
「私が……??」
 今までの人生、自分の感情など押し殺し、人のために生きてきた。
 私は人の考えていることが分かった。もっと深く言えば、相手が自分に何を求めているかがだ。だがそれは超能力とかの類ではない。これは私が育ってきた環境や今までの経験からのことで、私は相手が望む自分を演じられる。昔からそうだ。相手が今、どんな自分を求めていて、どんな言葉を欲しがっているのかが分かる。だから人付き合いで揉めたことはないし、いじめに遭ったこともない。だがいつしか自分を見失っていた。
 ……疲れたんだ。だから私は自分の殻に閉じこもり、人と深く関わることを避けた。でもその先に待っていたのは孤独だった。
 私は、透明人間だった――。
 だがそれを奴が変えた。
「初めて会った時、僕を古風そうな男だなって思ったでしょ??」
「まあ……」
「フフッ……ハハハハッ!」
「なんだよっ……」
「いや、梢子はさ、言動は素直じゃないけど、表情豊かで、なんか、いいなって……」
「……お前はよく分らん奴だがな」
「ハハハッ! そんな事ないよ! 僕は梢子の前では、いつも自分らしいよ!」
 そんな奴との何気ない日々が好きだった。
「僕はね、梢子。君が出かける時は、いってらっしゃいと言う。君が帰ってくる時は、おかえりとなさいと言う。そして君に温かいご飯を作って、おやすみと言う。そんな当たり前を君と共にしたいんだ」
「当たり前……」
 ずっと、奴の傍にいたい……この幸福で満ちた心を抱えて、奴と生きて、もっと幸せになりたい。それは誰もが願ったことのある願いだった。
 ――だが、それは私には許されない事だった。
 二人で、実家を訪れる日のことだった。その日は、奴の母親の誕生日で、あいつは朝から頬を緩ませていた。
「母さん、喜ぶだろうな~ まさか彼女を連れてくるなんて、思ってもみないだろうにっ!」
 子供のような無邪気な笑顔を浮かべ、私の手を引き歩く。
「やっぱり、ちゃんと連絡をした方がいいんじゃないか……?」
 私は不安だった。せっかくの誕生日に、見知らぬ女がやって来るなんて、いい気がしないのではないかと。
 幸太郎は立ち止まり、振り返った。
「何言ってんの! これはサプライズなんだよ?」
「サプライズ……」
「そう。梢子と僕から、母さんへのサプライズ」
 そう言い、幸太郎は梢子の両手を握った。
 ――奴からの愛が、私の心から溢れた。
 真冬の一月。テレビでは連日、自動車交通事故の様子が報道されていた。雪が氷となり、道路はブラックアイスバン状態。自動車がスリップし、人が巻き込まれて死人が出ている事故もあった。私はそれを他人事のようにニュースで見ていた。まさか、自分たちが被害者になるなんて、思いもしなかった。
「行こう、梢子」
 強く握られた手は、とても温かかった。私は、奴に身を寄せながら、再び歩き始めていた。
――プゥゥゥゥゥ……!!!!
 そのクラクッションが聞えた時には、もう既に遅かった。
 目が眩むくらいの眩しい光で、前が見えなかった。
「梢子……――!!」
 気が付いたとき、私は両腕の感覚がなかった。私の上には、血まみれになっている奴が覆いかぶさっていた。
「こう、たろう……こうた、ろう……」
 私が呼びかけても、奴はぴくりとも動かなかった。
 頼む……返事をしてくれっ……私を置いていくなっ……
「っ……くっ……うぅぅぅ……」
 私達を轢いた運転手は、すぐに救急車に連絡をしてくれたが、奴は帰らぬ人となった。私は両腕の切断を余技なくされた。私が助かったのは、奴が私を守ってくれたから。事故が起きる瞬間、奴は私を庇うように覆いかぶさった。だから私は生きられた。
「あなたのせいで息子は死んだのよ……!! あなたとなんて……出逢わなければよかった……」
 奴の母は、私は私を責めた。当然の事だと思う。私は頭を上げることが出来なかった。
「息子は死んだ。……あなたは……その程度で、よかったんじゃない……??」
 大切な息子を奪われたのだ。そんな事を言われても、私が奴の母親に、憎しみや怒りの感情を持つことなんてなかった。
 もう、何もない……。
 私は心を持たない、人のカタチをで息をするだけ、何者でもない、ただの物となった。そんな空っぽな私に、牧野は言ったんだ。
「先生、書きましょう。書き続けるしかないんです。ここで終わってはダメです。負の感情に呑み込まれてはダメです」
 私は前よりも物語にのめり込むようになった。そうしなければ、やっていけなかったのだ。
 ――梢子。
 奴が最後に見たものも、最後に口に出した言葉も、私だった。
 血に染まる、白い雪――
 一度失ったものは、もう二度と戻らない。もう、お前の声を聞く事も、お前の笑顔を見る事も、お前に触れる事も、何も叶わない。タイムリープやパラレルワールドなんて、あんなものは物語の中での事にしか過ぎない。
 私の時は完全に止まった――。
「……彼は夢を持ち、希望に満ち溢れた人生を送っていた。それなのに死んだ。……私のせいで」
 梢子は淡々と語っていたが、その表情からは、喩えようのないほどの哀しみと苦しみがあった。
「私が……死ねばよかったんだ」
 梢子の目は虚ろだった。 
 青星は怖くなった。梢子が消えてしまうのでないかと。
「やめろ……そんなこと言うな……お前は、お前は生きるべきだった……!」
 だが青星がそう言っても、梢子は口を閉ざさなかった。
「いや、死ぬべきは、私だった……」
「っだから……やめろって言ってんだろ……!!」
 青星は声を荒げた。
 梢子は驚いた顔をして、青星を見ていた。
「頼むから……やめてくれ……」
 青星の声は震えていた。
「これは罰なんだ……私の罰……」
 両親の話を聞いたとき、もうこれ以上の不幸は、こいつには降りかからないだろうと思っていた。だが違った。こいはずっと暗闇の中にいた。永遠に出口のない、深い、暗闇の中に。
 自分を抱きしめるように、体を丸め座る梢子を青星は抱き寄せた。何も言わずに、ただ心は傍にいるということだけ、伝わるように。
 たとえ、この世界の誰もがお前を責めようとも、俺だけはお前の味方でいる。
 なあ、梢子。俺をお前の心のより所にしてくれ……。
 そして神様頼む、もうこれ以上、こいつを傷つけないでくれ――。

〈――我のみやよをうぐひすとなきわびむ人の心の花と散り花――〉