朝、不快な音で目を覚まし、冷たい水で顔を洗う。着慣れない制服に、身に着け慣れない通学用鞄。夜型だった今までの過ごし方と逆転し、朝早く起きて生活する日々。
「いってきます」
 ドアの前、振り向いた先にいるのは、もちろんあいつだ。
「行って来い!」
 いってきますに対して、威勢の良い声と言葉で、俺を送り出す梢子。そんな梢子に見送られ、俺は家を出た。
 外に立つ木々は、桜の花が散り、黄色緑の葉が色づき始めていた。
 毎年、桜の木を見るのも、もう、これで最後かもしれないなと思って見ていたな。今、俺がここにいる奇跡。それを痛いほどに感じている。
 少し前までは、真っ白な雪で覆われていたアスファルトも、今では光を浴び、力強く俺を誘導してくれていた。
 ――学校に行かないか。
 そう梢子に言われた時は驚いた。考えてみれば、普通、俺の年齢で言ったら学校に通い、部活や習い事、友達との時間に明け暮れる日々だ。だが、俺の居た環境は、普通ではない。だからこうして、中学にまともに通う事なく、高校に通う事となった。と言っても、今は六月。色々な事情が重なり、俺は二ヶ月遅れで高校生活のスタートさせる。
 学校に行くなんて、どのくらいぶりだろうか。
 青星が学校という名の集団に属していたのは、もう何年も前の話。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる自分には、もう、一生関わり合う事はないと思っていた。
 ギリギリまで寝ていたいと、学校は、徒歩圏内の場所を選んだ。同じ制服を着た、人々に続き、青星も校内へ。行きかう人々の視線が、自分に向いていることは分かっていたが無視した。
 下駄箱で靴を履き替え、職員室へ行く。朝の職員室の空気は少しピリついているのか、険悪なムードが漂っていた。しかし、連絡帳と書かれた黒板を見て、その理由がすぐに分かった。そこには、一学期期末試験。と、書かれていた。六月の下旬からあるテストで先生たちは、今から神経を尖らせているのだろう。無理はない、受験を控えている三年生にとっては、成績を上げられる、大切な試験となる。
 そこでチャイムが鳴り、周りにいた生徒は小さな悲鳴を上げ、風のように消え去っていた。
「ごめん、ごめん、待たせたね」
 そう言い、スーツ姿で青星を迎えたのは、大宮(おおみや)という青星の担任になる男だ。大宮は二十代後半で、教師としてはまだ新任の男だ。聞くに、クラスを受け持つのはこれが初めてで、気合は充分といった感じだ。
「髪、切ったんだね」
 柔和な顔をして、人差し指で自分の頭を指差しながら大宮は言った。
 髪にこだわりはないが、校則がなんやらと、梢子に伸びた髪を短く切れと言われ、切ったまで。
「じゃあ、行こうか」
 大宮に続き、広い廊下を進む。
 大宮とは会うのは、これで三度目。通う前に、学校の様子や手続きなどを行う為、牧野と一緒に来た事がある。最初は梢子と来るはずだったが、締め切りが間に合わないと、牧野が変わってくれたのだ。心配性な牧野は、あれもこれもと確認をしていた。そんな牧野に、多少は困っていたと思うが、大宮は嫌な顔一つせず、牧野の質問に答えていた。
 まあ、悪いやつではなさそうだけど、人を簡単に信用しないのが青星。
「ここで待っててね」
 大宮そう言うと、教室の中へ入って行った。
 青星は俯き、ドアの横に立った。
 ここの扉を開けたら、世界はどんな風になっているのだろうか。色に例えると、オレンジ? 黄色? ピンク? それとも赤? 青? それとも……黒、か?……どれにせよ、俺が知らない、未知の世界が広がっているのは確かだ。
 深呼吸をしていると、ドアが開く音がした。中からは騒がしい声もした。きっと青星が来ている事を知ったクラスメイトが、自分がどんなやつなのかと想像しているのだろう。
「緊張してる?」
 優し気な声で言う大宮。
 青星は軽く頷いた。
「大丈夫、一緒に行こう」
 その言葉通り、大宮は青星と並び、教室の中へ入った。
 教卓の横に立ち、狭い教室を見渡す。自分と同じ制服を着た同じ年頃の男女が、瞳をぎょろぎょろを動かし、自分を見ていた。
「彼は七瀬青星くん。今日からこのクラスの一員だ」
 感じたことない感情が、自分の中をうごめく。
「じゃあ、七瀬君みんなに一言、お願いできるかな」
 緊張、委縮する気持ち。初めてからくる恐怖心。そのどれもを断ち切る。背筋を伸ばし堂々と。
 再び深呼吸をし、青星は前を見た。
「七瀬青星です。よろしくお願いします」
 クラスから拍手が沸き上がった。
「じゃあ席は……春一の横でいいかな」
 青星は机と机の間を通り、教室の一番後ろの席へ。通学鞄を机の上に置いたと同時に、肩に重くのしかかっていた石が外れた気がした。
 ふうー。今日の任務を終えた感じ。
「よお、転校生」
 隣を向くと、少しくせ毛な髪をなびかせ、クリっとした瞳で青星を見ている男子生徒がいた。
「俺は、本田春一! 春一でいいよ!」
 クラスメイトの本田(ほんだ)春一(はるいち)は、自分とは正反対で、ヒーローのように明るかった。
 出会いの記念に握手だと言い、春一は右手を差し出してきた。
「青星。七瀬青星。よろしく」
「うん聞いてた! 青星。良い名前だな!」
 それを言われるのは、二度目だな。俺の名を初めて褒めてくれたのは、言うまでもなく、梢子だ。そしてその名に、意味があることを教えてくれたのも。
「それにしても、お前、ずいぶんキレな見た目してんだなー。入って来た時、一瞬どっちか分かんなかったぜ」
 自分の見た目にも興味はないし、周りにそう言われて何とも思わない。
「ほらその証拠に、女子達がウキウキしちゃってる。気をつけろよ~」
 耳元でそう言う、春一はどこか面白げだ。あたりを見渡すと、確かに女子達の視線が刺さった。
「興味ないから」
「お、いいねー クールボーイで」
 本当に興味なんてない。第一俺は、青春を送りたくてこの学校に来たんじゃない。俺が学校に通うと決めたのは、梢子の強い勧めがあったからだ。
『お前が傷ついたのは、人のせいだと言うことは分かっている。しかし、その傷を癒すのも、また人だ』
 人間は、周りの人や環境により、白く生まれた心に色をつける。鮮やかな色だけで生きられればいいが、そんな事はまずないだろう。誰しも、たくさんの異色が混ざりあって、生きていく。しかし、場合によっては、一生洗い流すことの出来ない色がつく事もある。
 梢子、俺はお前が居ればそれでいいと思う。勉強が大事だと言うのなら、お前に教わればいい。お前が頭が良い事は一緒に仕事をしていて分かっている。負担だと言うのなら、本を読んで自分で学ぶ。俺には、ここで過ごす時間よりも、お前と過ごす時間の方が俺は大切なんだ。
 ホームルームを終えると、一人の女子生徒に話しかけられた。甘ったるい声を出し、上目遣いで俺を見てくる。それに何だこの香り。香水か……? あいつらみたいで、不快だ……。
「ねえ、無視?」
 面倒だ……。
 席を立ち、廊下に出ると、その後を春一が追って来た。
「あいつ、お前に好意があるみたいだな」
 いい迷惑だ。会って数十分のくせに、俺のどこを見て好意を持ったと言うんだ。どうせ、見た目しか見ていないくせに。……先が思いやられるな。
 昼休みになり、青星は、春一に学校を案内してもらう事に。
 去年新たらしく建てられた学校は、どこの施設も綺麗に整えられていた。でも、肝心な事はそこではない。青星が一番気になるのはこの学校の脳。つまりは、図書室だ。
 春一に連れられ、渡り廊下を通り、一階の図書室へ。扉を押さえてくれる春一に礼を言い入室。中はびっしりと木製の本棚で埋め尽くされていて、棚には隙間なく本が並べられていた。
 期待以上だな。
「図書室なんて、俺、初めてきたな。お前に言われなきゃ絶対に来なかったよ」
「ここ、人って来るのか」
「さーどうだろう。でも、渡り廊下を通るやつはそうそう見ないから、そんな来てないんじゃね?」
 春一はサッカー部に所属しているらしく、使用しているグラウンドから、図書室に続く渡り廊下がよく見えるらしい。
 人が来ないことは好都合だ。梢子にはああ言われたが、俺はここで、必要以上に人と関わる気はない。
 青星は室内を歩き回り、以前から気になっていた本を探した。
 数少ない図書委員が、綺麗に整頓しているのか、見つけやすいように、本には番号が書かれたラベルが張られていた。そのおかげで、すぐに本を探し出すことが出来た。
 青星は一冊の本に手をかけた。
 作者名は間宮梢子――。タイトル――〈緋色の悲鳴〉――。
 さすが、百万部の大ヒット作なだけある。高校の図書室にも置かれているのだから。これは梢子のデビュー作。青星は以前から梢子の作品が気になっていたが、自宅には梢子の本はなく、頼まれ事をされない限りは、図書館に行く事もなかった。
 ここに来れば、あいつの本が読めると思った。デビュー作、それは作家の全ての始まりで、全ての終わり。あいつが何を思い、何を考え生きてきたのか、少しは分かるはずだ。
 本を手に取ると、青星はそのまま図書室を出ようとしたが、春一に止められた。
「それ借りるなら、なんか書いたりしないといけないんじゃないの?」
 確か入学式に、大宮がそんなことを言っていたはずだと、春一は言った。
 ああ、ここも図書館のように、そういうのがあるのか。
「後でやる」
 そう言うと、青星は春一と共に、図書室を出た。
 


 放課後、青星は再び図書室へ行き、本を借りていた。放課後だと言うのに、図書室内の人はまばらだった。どうやら春一の言う通り、本当に使用する者が少ないらしい。
 返却期間は二週間後だと言われたが、仕事や学校の合間に読めば、三日もあれば読めるだろうと思った。なにせ梢子の仕事を手伝ってからというもの、青星は読む力が鍛えられたのか、本を読むのが早くなった。それに、電子機器の使い方も上手くなった。
 渡り廊下を進んでいると、名前を呼ばれ、足を止めた。ふとグランドの方を見ると、春一がこちらに向かって大きく手を振っていた。
 部活か……。 
 春一の周りには人が多くいた。見た瞬間から思っていたが、やはり彼は人気者らしい。
 周りの部員は手を振る春一の視線を追い、その先にいた青星の事を首を傾げて見ていた。青星はその視線から逃れるように、再び歩き出した。
 玄関に行き、靴を履いて校門の前まで歩くと、見慣れた男が立っているのが見えた。制服を着ている生徒しかいない校門前の立つそいつは、明らかに目立っていた。
 あいつ、なんでここに……。
 二十代半ばの丸メガネ――そう、牧野だ。
 牧野は青星に気づくと、足早に近づいてきた。
「どうだった……!?」
 緊迫した様子で、前のめり気味にそう訊く牧野に、青星は小さくため息をついた。
「なんともないよ……てか、何でここに……?」
「いやー、青星くんが心配でさ。どうせこれから梢子ちゃん家に原稿取りに行くし、良いかなって思って寄ってみたんだ」
 そう言えば、今日が締め切りだとか言っていたな。昨日もずっと夜中まで仕事していたみたいだし、寝ていないのに、見送りさせちまったな。
「友達は出来た?」
 歩きながら、牧野が訊いてきた。
「いや」
「え、出来てないの!?」
「ほっとけ、居なくたって生きていけるだろ」
「それじゃ駄目だよ……!」
 俺が学校に通う事になったもう一つの理由。それは牧野の勧めだ。そもそも、俺を学校に通わせようと言い出したのは牧野だった。もっと広い世界を知って、夢を持って生きてほしいと言うのが牧野の願い。その為には学校という名の教育の場が必要だと考えたのだ。
 将来何になりたいとか、そんなもの俺にはないし、なくたっていいと思っている。俺はただ、今ある幸せを誰にも何にも奪われたくないだけだ。それに牧野には、学校という場が、輝きに満ちただけの場だと思っているのかもしれないが、それは大きな間違いだ。学校という見えない階級制度がある場は、弱肉強食社会だ。子供だからと甘く見られては困る。子供でも知能を持った人間だ。善か悪の区別がつき始め、成長段階の人間は一番侮れない。そう、今の俺たちの年代だ。
「梢子ちゃん、言ってたんだ。『私は、あいつに当たり前をあげたい』って」
「当たり前……?」
「うん、そう当たり前」
 ――朝起きて、学校へ行くあいつに、いってらっしゃいと言う。
 ――一日を終え、帰って来たあいつに、おかえりと言う。
 ――疲れて眠るあいつに、おやすみ。ゆっくり休めと言う。
 ――嬉しい時、楽しい時、一緒に笑う。そして、泣きたい時や、辛い時、大丈夫だと背中を摩る。
「そんな当たり前を私はあいつにあげたいって。だから、学校も、もっと積極的に過ごせばいいよ」
「……梢子」
「梢子ちゃんは、いつも君の事ばかりだ」
 家に着くと、リビングの床で大の字になって寝ている梢子の姿があった。どうやら原稿を書き上げ、息絶えそうになっているらしい。
 牧野が梢子の体を揺すり起こすと、梢子はパチッと目を開け、勢いよく上体を起こした。
 そしてあくびをしたかと思えば、青星の顔見て、
「おかえり。青星」
 だから青星も、
「……ただいま。梢子」
 俺は幸せで、欲深くなってきてしまったのだろうか。こいつがくれる当たり前。俺はそれを、ずっともらっていたいと思った。
 二人が打ち合わせをしている間。晩御飯を作ろうと、青星はキッチンに立った。
 今日は牧野もいるから三人分だ。米を研ぎ、炊飯器にセットする。梢子に余裕がない時は、こうやって青星が晩御飯を作ったりしている。
 料理をするようになったのも、ここに来てからだ。阿久津さんから借りて住んでいたアパートは、土足で出入りしていたから、特に洗掃除はしていなかった。洗濯も、気が向いたらという感じだった。だから、今の自分は、とても生活感のある暮らしをしていると思う。
「もうすっかり型にはまっているな」
 声がして、下に向けていた顔を上げると、梢子がいた。
 寝不足のせいか、目の下にはクマができていた。
「学校はどうだった」
 デザートにと切っておいたイチゴを一粒食いに頬張りながら、梢子は訊いてきた。
「別に普通だ」
「それは良かった。普通が一番だ」
「寝ていた方がいいんじゃないか」
 この後、直しが入るとすると、こいつはまた寝れなくなる。少しでも寝る時間を作らなければ、体がもたないだろう。
「感想が気になって、眠られない。それに牧野の事だ、すぐに読み終わる」
 あれでも一応、編集者の牧野。文章を読むレベルは一般人とは比べ物にならない。
「だから、お前の話を聞かせてくれないか。お前が今日一日、どんな事をして過ごしたか。私は今それが知りたい」
 俺の過ごした日常が、感じた事が、お前の人生を一部にしてもいいと言うのなら、俺は――
「……俺は、今日――」
 誰かに、自分の身に起こった事を共有するなんてなかった。少なくとも、こいつに出会うまでは。
 梢子は終始にこやかに青星の話に耳を傾けていた。大した話をしていないような気がしても、梢子のその表情が心地好くて、青星は話す事を止めなかった。

 当たり前の日々を、お前と共有する喜び。それは、これ以上にないくらいに幸せなのではないだろうか――。

 しばらくして、「終わりましたよ」という牧野の声で、俺たちの穏やかな時間は終わりを告げた。
 青星は、梢子が書斎に戻っていく姿を目で追いながら、終わりを告げてもなお残り続ける、心の安らぎを感じていた。