静まり返った部屋の中、牧野は一人、原稿を握りしめていた。
この気持ちは、言葉一つで説明できるものじゃない。
春の訪れを感じるようになった、ある日の事だった。母が亡くなったと、梢子ちゃんから連絡が入ったのは。
それは急な事ではなかったみたいで、梢子ちゃんのお母さんは、長い間、癌を患っていた。
梢子ちゃんには、その事を告げることなく、お母さんは黄泉の国へと旅立ってしまった。
『優しい母の事だ。私の重みを背負わせたくなかったのだろう』
そう、梢子ちゃんは言っていた。
梢子ちゃん曰く、お母さんが亡くなった日、その日は何もかもが上手くいっていたそうだ。上手く、いきすぎていたくらいに。
空に広がる雲はゆるやかに流れ、天からは温かな光が降り注いでいた。まるで、お母さんがその一日を作ってくれているかのように。
二度と手を通したくないと思ていた喪服に手を通し、お母さんに、ありのままの自分を見てもらいたいと義手を着けず、梢子ちゃんは葬儀に向かった。
春の訪れを待つ木々たちが立ち並ぶ、並木道を歩くき、見慣れた、だけど、どこか遠く感じるこの道を梢子ちゃんは歩いた。そして、数十年ぶりに訪れた家の奥からは、風に乗せられてやってきた、お線香の香りがしたそうだ。
布団の上で、綺麗にお化粧をされた姿で眠るお母さんは、呼びかければ今にでも目を開け、答えてくれそうな顔をしていたらしい。
人は生まれたからには死ぬ。頭では理解していても、心は追いつかない。人間は強くも弱い。
梢子ちゃんのお父さんは、目を真っ赤に腫らし、衰弱しきっている様子だったらしい。梢子ちゃんに両腕がない事を知ると、その場に崩れ落ちるように、座り込んだという。梢子ちゃんが知っている、威厳のあるお父さんは、もういなかったのだ。
そんなお父さんの横を通り過ぎ、梢子ちゃんは、最後に、お母さんいた寝室へ向かった。中は、綺麗に整理整頓されており、机の上には三年前ほど前に出版した、梢子ちゃんの小説が置かれてあったそうだ。
梢子ちゃんのお母さんは、かなりこの作品を読み込んでいたのか、紙質が、何度もページをめくったかのように、薄く変化していたらしい。それだけでなく、手に汗を握るシーンでは、思わず指に力が込められてしまったのか、指の跡らしきものが残されていた。そして驚いたことに、そのような状態だった本は、それだけではなかった。部屋の本棚に並んでいるのは、梢子ちゃんが書いた小説のみ。梢子ちゃんはその本、全てに目を通したが、そのどれもに、同じような状態が見られた。
『デビュー作もお母さんは読んでいた。きっと、自分たちが物語の中に登場している事に母は気づいているだろう。私が父に対して感じていた事や、思っていた事。母に知ってほしかった事。あの本には、その全てがある』そう、梢子ちゃんは言っていた。
本棚に本を戻そうとした時、本を床に落としてしまったらしい。両腕が無い梢子ちゃんにとって、足は手の代わりをしてくれる大切な身体の一部。何かを開いたり、閉じたり、掴んだり話したりするのは足を使う。しかし、慣れてはいても、その動作は困難を極める。
足で本を持ち上げようとした梢子ちゃんだったけど、本の最後のページに、何かが挟まっている事に気づいた。
それは、お母さんが梢子ちゃんに宛てた、最初で最後の手紙だった。
梢子ちゃんはその手紙を読んで、
ーーずるい。
ただその一言を呟いたと。
そして考えた。母は、この手紙を私に渡そうとしていたのだろうか。それとも、余命僅かなである自分の死期を悟り、この手紙を私が見つけてくれる事を願って、ここに隠したのだろうか。と。
その後、梢子ちゃんは行先を決める事なく、ただただ一人、夜の街を彷徨った。
そして気が付くと、あの場所に来ていたそうだ。
青星くんと出会った。阿久津さんが経営していた、クラブの裏口の前に。
阿久津さんの事は、梢子ちゃんから話を聞いていた。一度も会った事はなかったが、青星くんを助けてくれて事に関しては、僕も感謝している。
三年前のあの事件の後、クラブは無くなり、警察により店内の物は全て押収され、もぬけの殻状態。そんな場所に、梢子ちゃんの心は、一体、何を求めてそこを訪れていたのか。
あの後、青星くんの卒業式を終えた梢子ちゃんは、突然、僕の元を訪ねて来た。そして言ったんだ。
『あいつの事を頼む』と。
青星くんとのために貯めていた生活資金と、大学へ通う為の費用が入ったカードと通帳を僕に預け、梢子ちゃんは、僕の前からも消えた。
僕は止めなかった。止められなかった。もしかしたら、もう二度と梢子ちゃんが戻ってこないかもしれない。そう分かっていても、自分の「行かないで」その一言が、梢子ちゃんを苦しませる事になってしまうかもしれないからだ。そうなるくらいならと僕は止められなかった。
彼女の命を僕に縛る権利はない。
『なんだよこれ』
それが横たわる梢子ちゃんの前、彼が最初に言った言葉だった。
彼はこの世の光を失ったかのような暗く、虚な瞳で、冷たくなった頬を撫でていた。その間も、彼が涙を流すことはなかった。
彼は自分の中で生き続けている彼女だけを見ている。そして、今もあの家で一人、抜け殻のようにいる。
今、牧野の手にはあの原稿があった。梢子が最期の時まで必死に書いた物語。梢子は長い小説家生活で、多くの作品を世に送り出してきた。しかし、これは、小説家、間宮梢子としての作品ではなく、ただの、一人の人間としての、間宮梢子としての、全身全霊をかけ書いた物語だ。それを、牧野は託された。
彼はこの物語を読んで、どう思うのだろうか。ちゃんと梢子ちゃんの想いは伝わるのだろうか。僕はこの物語を読んだ時、どうして途中で読ませてもらえなかったのか、分かったよ。だってこれは、彼と梢子ちゃんの物語だ。だから、他の誰の意見も、同情も、嫉妬も何もいらない。読者なんて、必要ないんだ。この物語は、二人が確かに生きていたという証。
お互い、口には出さなかったけど、多分、二人の間には、特別な感情があったのだと思う。僕らは立ち入る事の出来ない特別な感情が。
僕に出来る事。それは彼に、この小説を届ける事だ。
牧野は覚悟を決め、椅子から立ち上がると、鞄に原稿を入れ、玄関へ走った。
外は、雪が降り始めていた――。
耳を澄まさなくとも聞こえる、水滴が落ちる音。うるさいほどに鳴り響く秒針。あの日から、俺の時間は止まったままだというのに、時間は知らぬ顔をして、今も動き続けている。
カーテン越しに見える、光の中を彷徨う雪。
雪は嫌いだ。あいつと出逢った季節であり、あいつとの思い出が溢れている季節だから、あいつを酷く思い出す。
俺の卒業式を最後に、あいつは俺の前から姿を消した。
[すまない。旅に出る]
そう書かれた小さなメモを残して。
俺はあいつを必死に探した。だか、まるで神隠しにでもあったかのように、どこを探しても、あいつはいなかった。
俺を一人にしないと言ったあいつが、俺の前から消えた。嘘つきだ。でも、そうしなけらばあいつは自分を保っていられなかった。それほどまでに、あいつの心は押しつぶされていたのだ。
何が全てをあいつに捧げるだ。覚悟をしたような顔をして、俺は何も覚悟を出来ていなかった。自分の言動にたちまち嫌気がさす。
もっと俺が早く気づけば、もっと俺がちゃんとあいつを見ていれば、今もあいつは生きて笑っていただろうか。
自分で、自分の命を奪うような真似なんてしなかったのだろうか。
梢子は半年前、あの公園で自殺した。犬の散歩に訪れた近隣住民が、ベンチに横たわり息をしていないあいつを見つけた。
俺は牧野から連絡を受け、運ばれた病院へと向かった。司法解剖の結果、死因は、市販の風邪薬を大量に摂取した事だったと言う。
市販薬を買うには自殺を防止するために制限がある。梢子は二カ月という期間をかけ、薬を集めていたのだろう。
あいつの遺体を目の前にしたと時、俺は涙も流さなかった。実感が湧かなかったんだ。あいつがもういないという、実感が。そして受け入れなかった。あいつの死を。これはあいつじゃない。そう思ったのだと思う。
葬儀は、牧野を含めた、編集部のわずかな人間と、あいつ親しくしていた友人のみで行われた。俺は葬儀にも出ることはなく、今日まで、あいつの墓にも行っていない。それも、あいつの死を受け入れられてない証拠となっている。
でも月日が経って、周りからあいつの話が出なくなって、あいつの本の貴重価値が上がって、あいつの存在が薄れていく事を感じた。
時々、あいつとの未来を想像するんだ。もしも、あいつが生きていたらという世界を。でも我に返った時、苦しくて、苦しすぎて上手く息が出来なくなる。心が張り裂けそうになる。そして体中にある水分を全て出し切るかのように、頭痛がするほどに涙を流す。
夢だって見るんだ。でも目覚めたら、あいつが居ない世界だけがここにある。だから目を覚ますのが嫌だった。現実を突きつけられたようで、お前の大切な存在はもこの世にはいないのだと、お前は孤独なのだと、言われているようだった。耐えきれなかった。あいつが居ない世界を生きる事が。
今まで、どれだけ体の痛みを感じても、心は上手く機能していたのに、俺はあいつを失って初めて心の痛みというものを知った。時には、胸に尖ったナイフのようなものが突き刺さっているようにズキズキと痛んだ。また時には、胸を強く圧迫されているかのような圧に押しつぶされそうになった。でも、そんな痛みを知ってもなお、俺は梢子に逢いたくて、逢いたくて仕方がなかった。信神にまで、本気で願った。あいつに逢わせてくれと、あいつを返してくれと。
あいつの頬には、涙が渇いた跡があった。あいつは泣いていたんだ。悲しかったんだ。辛かったんだ。苦しかったんだ。
でも、一つだけ不可解な事があった。あいつの顔は微笑んでいた――。
泣いていたのに、なぜ笑う? あいつは死ぬ間際、一体何を考えていたのだろうか。何を見ていたのだろうか。俺はそれが知りたかった。
うるさい……。
さっきから家の中にインターフォンが鳴り響いている。梢子が死んだ今、この家に来るのは、ただ一人だけ。
青星は重い腰を上げ、ソファーから立ち上がると、玄関へ。扉を開けると、そこには牧野の姿があった。
「入ってもいい……?」
そう尋ねる牧野に、青星は何も言わずに、部屋の中へ通した。
牧野はあれ以来、仕事の合間、俺の様子を見に来る。変わった事なんてあいつが死んだ以外、何もないのに、毎日のようにだ。遺言だが何だか知らないが、人の重りになるような事はごめんだ。
それに一番は、牧野に会うと梢子を思い出してしまうという事もある。
「何もないから、帰ってくれ」
「分かってる。でも、今日はどうしても、君に渡さなくてはならないものがあるんだ」
「俺に? 一体何をだ。俺は何もほしくない……俺のほしいものは、もう手の届かないところにあるんだ……」
そうそれは、決してどれだけ手を伸ばそうとも、手に入れられないもの。
「青星くん……」
牧野は悲し気に俯いた。
「本当に帰ってくれ、あんたのそういう顔、見たくなんだよ……」
「青星くん、僕はただ」
「なんでだ……」
「え?」
青星は牧野の言葉を遮るようにそう言った。
「なんであいつを一人にしたんだよ……!!」
突然、怒鳴り声を上げた青星に、牧野の体は固まった。
自分が心底嫌だった、憎かった。嫌いだった。そして、悔しさが溢れた。
分かってる。こんなの、ただの八つ当たりだ。牧野は何も悪くない。こいつは梢子の意志を尊重した。俺と違って、自分のための選択をしたんじゃない。梢子のための選択をしたんだ。
「俺は……何も出来ていなかった……。ただ穴の開いた己の心を埋めるために、あいつの傍にいた。自分のためだ……!」
「それは違うよ……!」
牧野は必死な顔でそう言った。
「だったらなんであいつはここにいない……!? 俺が救えなかったからだ……! そうだろ……?? 」
「違う……」
歯を食いしばり拳を握る牧野。
「梢子ちゃんは、梢子ちゃんは、君に救われていたんだ……!」
「……は……?」
呆然とした顔をする青星。
牧野は鞄から原稿用紙を取り出し、青星に差し出した。
「梢子ちゃんが、僕らの前から姿を消してからの二か月間で完成させた物語だ。梢子ちゃんが、君に残した。最後の贈り物だ。読んでほしい」
「……梢子が?……」
牧野はゆっくりと頷いた。
これが、あいつが何年もかけて、寝る間も惜しみ、幻肢痛に苦しまされながらも、それでもなお、手書きで作り続けた、あの物語なのか?
「……」
青星はその原稿の手を伸ばした。
タイトルは、――夜明けのシリアス――
間違いない。これは、あいつの字だ……
線が細く、川に水が流れるように緩やかで、繊細な、あいつの字。
青星は、手でゆっくりと、タイトルの文字を上から下へとなぞった。
梢子。感じさせてくれ、お前の存在を。教えてくれ、お前が最後に何を思っていたのか。何を見ていたのかを。
速まる鼓動を落ち着かせながら、青星は最初のページをめくった――。
深々と降り積もる雪の中、私達は出逢った。
小説家である私は、編集部の創立記念パーティーに参加していたが、正直、気が乗っていなかった。事故で両腕を失ってからというもの、私は編集部から、ガラスを触るような扱いを受けている。
少しくらいの気遣いは社会人ならするだろう、しかし、周りが私に対する気遣いは、五体満足な人間からすると、過剰に見える。こうしている今だって、食べ物をよそったりするのを引き受けてくれるが、そのくらい義手をしていれば、自分で出来る。
優しさだって事は分かる。しかし、その優しさを私は素直に受け取れない。それは、ある者とない者が分かりある事が難しいからだろう。
息苦しさの原因が自分にある事は分かっている。だが、こうも気を遣われると、この場にいたくなくなる。担当編集者には、悪いと思ったが、抜け出して、一人、街の中を彷徨う事にした。
人混みが嫌いだった私は、出来るだけ人を避けようと、暗い路地裏に足を踏み入れた。
そして、一人の少年が視界に入った。
未成年と思われたその少年は、煙草を片手に、いかにも違法そうなクラブの店前で空を見上げていた。
少し遊んでやろう。そんな出来心というやつだった。
静かに忍び寄り、少年の横に座ると、寒い雪の中だと言うのに、そこはとても暖かく思えた。
ずっと探し求めていた存在に出逢えたのか。
――クソくらえだこんな世界。
少年はそう叫んだ。
家族に罵倒され、恋人を失い、挙句の果て、両腕を失った私にとって、その言葉はもっとも同感すべき言葉だった。
同じような事を思っているやつがこんなにも近くにいたのかと、なんだかおかしく笑いたくなった。
そして安心した。
初めて私の顔を見た少年は、強気なモノ言いな反面、何かに怯えているようだった。
どこかで見た事のあるようなその表情に、私は強く惹かれた。
少年は私に両腕がない事を知ると、輝きのある瞳で私を見てきた。こんな奴は初めてだった。私を見る者の瞳は必ず濁るからだ。まるで自分が貴重価値の高い人間かのように錯覚するくらいに、いい気分だった。
きっとこれは、あまりにも不幸な私に同情した、天からの贈り物だったのだと思う。
私は、少年と旅をする事にした。
少年は幼い時から、実の父親から暴力を受け育っていた。大人の私を見て怯えていたのは、そのせいだと分かった。
私も父は嫌いだった。そんなとこまで気が合う。
自分の身体を売る事でしか生きられない。そんな子供がこの世界に大勢いると、少年は言っていた。
心を痛めた。
少年くらいの年頃は、学校に行き、友人たちとの時間を過ごし、親や兄弟、周りの人間に守られながら、社会の分別を学んでいく。争い事などとは無縁だ。それなのに、少年は生まれた環境のせいで、身体的苦痛を受けていた。弱い者は生きられない。力が全てだった。
憎悪と嫌悪の日々を簡単には忘れられない。だから、何かに打ち込んで、今までの日々を少しでも記憶の外に出してほしかった。私が、小説に打ち込んだように。
誤魔化しに過ぎないかもしれにと思ったりもしたが、間違いではなかった。
少年を図書館に連れて言った時の事だった。あれは、多分、無意識だったのだと思う、本を読んでいる少年が、頬を緩ませて穏やかに微笑んでいた。その表情を見て、私は嬉しかった。
実はその時、私はそこで驚くべき光景を目にした。少年は本棚と本棚の間に腰を下ろし、本を読んでいたのだ。それは、昔の自分と全く同じ行動だった。変り物がここにもいたかと、面白かった。
あまりに行動がリンクしていて、一瞬、体が動かなくなったが、すぐに我に返った。
彼が、私の辛い過去を和らげてくれた。
最初は同情だと思った。自分と同じように親から酷い目に遭わされて、行き場を失っている。
でも違った。
――私が彼を求めていたのだ。私は彼に救われていた。
月日が流れるのは早いもので、少年はあっと言う間に、大人の青年へと成長した。
晴れ舞台の上に立つ少年を見て、私はとても誇らしく感じた。
立派になった。本当に、本当に、立派になった。
胸が、いっぱいだ――。
ずっと、私の人生、所詮こんなもんだって。大切な人は、私の前からいなくなる。でも彼に出会えたことで、私の中で何かが変わった。
あの時、両腕を失ってでも、生きたのは、彼に出会うためだった。彼を幸せにするためだった。
私は今、とても幸せだ。あいつを抱きしめ、あいつの傍に生きられた。誰が何と言おうと、私は幸福に包まれているのだ。
しかし、人間はというものは孤独に勝てても、人の死というものには、やはり勝てないと知った。
私は自分のする選択に、後悔などしない。旅の終盤には、確かに光が存在していたのだから。
私が、人生最大で最後を飾る場所として選んだのは、あの公園だった。
後ろ振り向くことなく、ゆっくりと、この坂を上り、あの階段上がって行く。公園に着くと、私はベンチに座った。
息を吐くと白い。空は淀んだ色をしている。でも雲の隙間からは光が漏れていた。薄明光線、別名 <天使の梯子> と言われるものだ。とても綺麗だ。私を歓迎してくれているのだろうか。
なあ、少年。私はお前と出逢えたことが何よりも宝だった。
あの日、子供のお前は、まるでこの世の全てを理解したような顔をして私の前に現われた。
私はその時に思ったんだ。<お前を守りたい>と。でもそう思ったのは、けして年齢や体の大きさのことなどではない。一人の人として、お前の幸せな人生を守りたかった。だが私は歳ばかりを重ねて、大人になれていない未熟者だ。そんな私がお前に何が出来るだろうか? 考えても、明確な結論は出なかった。だがお前の笑顔を見らえた日は、お前を守れたのだと思った。私は嬉しい、嬉しいんだ。お前の笑顔を見られることが。
お前の幸せは、私の幸せだ。そしてこれだけは言える。
お前は、幸せになる為に生まれてきた人間だ。
私はあの時から、上手く生きられなかった。孤独を抱え、心の隙間を埋めるように身を削って小説を書き続けた。でもお前のおかげで、束の間だったが、こんな私でもまた幸福だと思える時間を送れた。ありがとう。
でもな、私はこれから先、生きることより、今、このままの気持ちを抱えて死にたいんだ。あの天使のようにな。その方が私は幸せだからだ。自分勝手でごめんな。
……ああ、視界がぼやけていく。体も軽くなっていく。死は安らかなものだ。だから死ぬことは怖くない。
空から、小さな雪がゆっくりと降り注ぐ。
こっちは今、雪が降っている。お前の元にも降っているだろうか。降っているといいな。この雪に、私の想いをのせて行ってもらうよ。
美しいな……
頬を涙が伝った。
冷たい風が突き抜けていく。
その風に身を任せるかのように、座っていたベンチに、私は体を横に倒した。目線の先には、あの花があった――。
私の頬は緩んだ。その表情は、さぞ穏やかだろうに。
さよならだ、青星――
青星は原稿を閉じた。
自分の持てる全ての感情が、一度に波のように押し寄せてくる。
青星と過ごした日々が、梢子の人生の中で、一番幸せな時だった。
「青星くん……」
「ごめん。ごめん牧野。俺、もうっ……」
「……うん。いいんだよ」
青星は声を上げて泣いた。涙と鼻水で、綺麗な顔はぐしゃぐしゃだった。
梢子、今、何を見ている? ひと時の幸せなんかじゃない俺はお前に、もっともっと生きて幸せになってほしかった。本当は死なんて選んでほしくなかった。
「梢子ちゃんは、青星くんが大好きだったよ」
口を開けば、青星の事を話していた梢子。彼女がここまで生きて来られたのは、彼女が彼女でいられたのは、間違いなく、七瀬青星という存在がいたからだ。そして、青星にとってもまた、間宮梢子という存在がいたから、諦めないで生きて来られた。二人は確かに互いを支え合っていた。
「……俺もだよ、梢子」
青星は原稿を胸に抱いた。
その手は力強く、原稿には皺が出来てしまいそうだった。
「……大好きだ……」
青星は泣き続けた。泣いて泣いて、また再び、朝焼けがやってきた。
あれから十三という年月が経ち、俺はあいつが生きた歳の分だけ歳を重ねた。
早起きをして、窓を開け、太陽の日の光を浴びながら、新鮮な空気を吸い込む。そして、始める一日に挨拶をしたら、ホットウオーターで一息入れる。それが終わると、身支度を整え、栄養の取れた朝食を摂ると、家を出る準備をする。
全て、あいつに教わった事だ。
規則正しい生活をして、時間と己の心に余裕を持つ。当たり前の日々を幸せに感じる事も、今も変わらない。
「いってきます」
青星はドアの前に立ち、振り向きそう言った。
これもあの頃と変わらない事。
――いってこい。
今はもう、その声は聞こえないが、きっと見守ってくれている信じて、今日も世界への扉を開ける。
もう随分と見慣れた、歩き慣れた道を行く。生ぬるい風を感じながら、もう夏が近いという事を知る。
スーツの内ポケットに入れていた携帯が鳴り、取り出すと、表示されていたのは春一だった。
青星は足を止め、電話に出た。
〈あ、青星? 朝からわりーな〉
変声期を迎えているはずの声は、昔と変わらず今も高い。
〈いや、大丈夫〉
〈真理愛が早く聞けってうるさくてよ〉
電話の向こう側から、春一のため息交じりな声が聞こえる。
進藤の相変わらずさに手を焼く春一を、俺はこの先も見る事になるのだ。
〈それで、こないだの件なんだけど、承諾してくれそ?〉
仲良く並んで歩く、制服姿の男女三人の学生が、目の前を横切る。いつしかの自分たちの姿と重なって見えた。
あの頃、何も知らない俺たちは、互いを守り合う方法をただ必死に探していた。傷つけたくなくて、遠ざけて自分の殻に閉じこもろうとした事もあったけど、拒むことも出来なかった。必要だったから。そんな大切な相手の願い事。断る理由がない。
〈ああ、俺でいいなら〉
〈よっしゃありがとう! 俺、絶対お前が良かったんだ!〉
ガッツポーズをしている春一の姿が分かるように頭に浮び、青星は思わず笑ってしまった。
詳細は追って連絡をすると言われ、電話を切った。
職場に着き、職員に挨拶をして、自分のデスクに腰掛ける。
鞄から仕事道具を出していると、携帯にメールが届いた。
【ありがとう、青星くん!】
早速、進藤からのお礼メールだ来た。
メールを返信していると、突然耳元で声がした。
「何しているんですか」
驚いて横を見ると、桜井(さくらい)先生がいた。
「桜井先生……驚かせないで下さいよ」
「だって、来て早々、携帯なんて見ちゃってるから。何しているのかなーって思って」
今年の春に新任教師として来た桜井梓(あずさ)先生は、昔の進藤を思わせられる。
「もしかして、彼女ですか?」
「違いますよ。友人です」
疑っていそうな目で青星を見る梓。
「本当に?」
「はい」
「本当に本当に?」
引かない梓。
そこでパチンと手を叩く音が聞こえ、振り向くと、手を合わせ柔和な笑みを浮かべる男が立っていた。
「桜井先生。七瀬先生が困っているじゃないですか」
「えー。だって気になるんですもん」
「それは分かりますけど。プライベートな事に、なんでも口を挟んではいけませんよ。さあさあ、朝礼を始めますから、席について」
男にそう言われ、梓は叱られた子供のように「はーい」と返事をすると、自分のデスクに戻って行った。
「相変わらずのモテっぷりだな。七瀬」
「大宮先生」
助け舟を出してくれたのは、大宮だった。
見た目は歳を取ったが、その穏やかさや優しい話し方をするのは、今も変わらない。
大学を卒業した青星は、地元で母校であるこの高校に教師として就職した。専攻科目は、世界史。自分の生きている世界で何が起こっているのかを学ぶ事が楽しくて、その道に進んだ。
「やっぱり変な感じだなー」
「何が?」
「お前が教師をしているのが。まあ、教え子であった七瀬が、教師になってくれた事は、俺としては嬉しんだけどな」
照れくさそうに、人差し指で首筋を掻く大宮。
教師になったのは、日々知らない事を学ぶ楽しくて、今度はその楽しさを人に教えたいと思ったからだ。
「でも、先生を見ていて、こんな風に将来働くのもいいなって思った」
青星がそう言うと、大宮は時でも止まったかのように、体を硬直させ青星を見ていた。
「……おい。聞いてるのか」
「あっ……悪い。そんな風に思ってくれているとは思わなくて」
自分が青星に何か影響を与えられていた事に大宮は心底驚いた。
なんとなく、二人の間にぎこちない空気が流れた。
「そう言えば、俺の所にも、招待状届いたぞ」
照れ隠しだろうか。大宮は話を逸らすように、話題を変えた。
腕を組み、しみじみと頷く大宮。
「まさか、春一と進藤とはな~」
春一と真理愛は同じ地方の大学に進学。のちに仕事を通して再会し、昔話に花を咲かせ意気投合。二人が付き合っているという事を知ったのは、数年前にあった同窓会での事だった。
自分以外の他の同級生はその事を知っている人もいたみたいだが、青星は進学も、大学も、全て地元を離れる事がなかったため、二人に会うのは、二人がこちらに帰って来る時のみだった。
お前にはちゃんと直接言いたかった。そう春一に言われた。
幼馴染でもある二人は、互いをよく理解し合えている良き友人、良きパートナーだ。青星は友人とし二人を応援していた。
それに、俺は初めから、あいつら二人がお似合いだと思っていたしな。
そして、そんなある日の事だった。電話で春一に、真理愛にプロポーズをしようと思うと言われたのは。青星はもちろん、背中を押した。
そして数カ月前、二人が共にここに帰って来た。春一はプロポーズを成功させ、二人は夫婦となるべく、互いの両親に挨拶をしに来たのだ。
大切な友人二人が共に人生を歩む。素直に嬉しいと思う。
――今なら分かる。梢子は、俺に人と人との繋がりの大切さを知ってほしかったんだ。
「俺は進藤が七瀬を諦めるとは思わなかったな。周りの女子が近づこうもんなんら、目で殺しに行ってたもんな」
「ある意味助かってたけどな」
進藤が周りの女子を近づかせないおかげで、俺の学生生活は安定していたところがある。でもその反動で、ファンクラブなんてものが出来たらしいが。もちろん進藤真理愛には内密の。
卒業式の時にそれが明らかになった際は、進藤は春一に止められながらも怒っていたな。
「進藤は、絶対に七瀬を諦めないと思っていたな」
「進藤からしたら、俺は顔が好みのアイドル的な存在だったんだろ」
「ははっ、なるほどな。……お前は、結婚とかはしないのか?」
あえて明るく訊いてくる大宮。一応、元教え子の将来を心配しているのだろう。
あいつは、過去の人間。現在も、未来にも、あいつは存在しない。でも、それでも、俺は今も変わらず、あいつを想う。
「俺、一途だから」
大宮は、分かっているよ。と言うように頷くと、青星の肩をぽんぽんっと叩いた。
もしもあいつに出会わなかったら、俺の人生は、どうなっていたのだろうか。喜怒哀楽。そんなものも知らず、生きる意味も、生まれてきた喜びも、命の尊さも、何もかも知らず、ただ生きたのだろう。そして、この心に芽生えた、気持ちも知らずに――。
坂道を上がる。振り返ると、茜色の夕焼け空の下に街並みが広がっていた。空を見上げようとして、動きを止めた。
……危ない。まだ見ちゃだめだ。……って、何してんだ。今は冬じゃない。ましてや夜でもないだろ。
「……お前の事ばっかだよ……」
行き場のない声が地面に落ちた。
梢子が生前書いた、『夜明けのシリウス』は、世に出される事はなく、今も静かに、あの部屋の引き出しに眠っている。
亡くなった人気作家が最後に紡いだ物語。人々が惹かれるくらいのキャッチコピーは、充分にあった。あの小説が出版されれば、出版社には多大な利益が、原作者である梢子には、多額な印税が入る事は間違いないだろう。しかし、編集担当であった牧野は、あの作品を世に出す事を拒んだ。
『これは、青星くんと、梢子ちゃんの物語だから』と。
青星も牧野と同意見だった。この本が出版されれば、多くの人間がこの本に触れる。小説家として、それは嬉しい事なのかもしれない。だが、あいつの想いや、心の奥底にある悲しみや苦しみを、何も知らないやつらに、同情として寄り添ってはほしくないし、勝手な憶測で、物語に価値をつけてほしくなかった。だから俺たちは、あの原稿を永久に人前に出さない事に決めた。
最初は牧野に現行の保存をお願いしようとしたが、牧野が、『ここにいたいと思う』と言い、あいつの仕事部屋として使われていた書斎のデスクの引き出しに、しまっておくことにした。
『好きな時に読みなよ』
牧野は俺にそう言ってくれた。だから時々、あいつを感じたくて、あの引き出しを開けようとするが、読めたことはあれから一度もない。
辿り着いた先は、梢子と星を見上げ、梢子が息を引き取った、あの公園だった。昔と変わらず、人けのないその公園には、ぽつりと木製のベンチが置かれていた。
たまに、息抜きがしたくなった時に、青星はこの公園を訪れていた。亡くなってしばらくはこの公園を避けていたが、今では梢子がいるのかもしれないという、会いたいという願いから、この場所に訪れるようになっていた。
青星はベンチに腰を下ろした。
そしてしばらく街並みを見つめた後、仰向けになり体を倒した。
目を閉じ、あいつが去った日の事を考える。
それは、俺が家を空けた、僅かな時間で起こった。
コンビニに行ってくる。そう言い、家を出たあの日。早々に買い物を済ませ、コンビニから出ようとすると、梢子の言う通り、雨が降った。
「風を引いたらいけない」そういい、俺に傘を持たせた梢子。いなくなるなんて、考えもせず、俺はいつものように、家の扉を開け、
「ただいま」その一言を言った。だが、部屋の中から「おかえり」という言葉が返ってくる事はなく。
梢子は、タイミングを見計らっていたんだ。そして一人になったあの時、姿を消した。そのまま牧野の家に行き、俺の事を託した。
家には、あいつの携帯が置かれていて、荷物を詰めた様子もなかった。母親が家を出て行った俺のために、あいつは自分の全てをあそこに置いて行ってのだと思う。
青星はゆっくりと目を開けた。
茜色の空が、視界を埋め尽くす。
空に向かって片手を伸ばした。
空って遠いいなぁー……本当にあんなところから、俺が見えているのか。
この十三年、幾度となく季節は繰り返されてきた。
春は、桜が人々を祝うように、満開に咲きほこり。
夏は、向日葵が太陽に憧れて、上を向いて咲く。
秋は、恋をする女の子ように、健気に儚げにコスモスが咲く。
冬は、生命の強さを象徴するかのように、バラが雪に埋もれながらも咲く。
その尊さを共に愛しむあいつの存在は、どの季節にも居なかった。
去り行くその季節に別れを告げるように、俺は前を向こうと、努力してきた。しかし、俺の時はやはり止まったままなのかもしれない。
ふと顔を横に向けた。
――え……。
思いもよらぬものが、青星の視界に入った。
蓮……?
青星は起き上がり、地面に咲くその花に近づいた。
ギザギザとした、大小、特徴的な葉の上に成り立つ、透明な花。
どうして、こんなところに……? ここはこの花が咲くような土地もないし、ここ最近、雨が降る事もなかった。それなのにどうして。
本物は、一度しか見た事がないけど、間違いない、これは、山荷葉だ。
ここに毎年、ずっと咲いていた? 気づかなかった。でも、だとしたら、最後あいつは、本当にこの花を見て……
――記憶の中、俺はあいつの影を探した――。
――少年漫画に出てきそうな、豪快な笑い声。
――若者を気遣った、味付けの濃い料理。
――日向のみちしるべのような、お日様の香り。
降り続く雪は、永遠にかと思わせるように、止まる気配を見せず、溶けることなく、心に降り積もっていく。こんな世界で生きるくらいなら、死んだ方がマシだと思った。でも、それでも、いつか、光が訪れる事を信じ、暗いトンネルの中を歩き続けた。
人は生まれながらに、ある程度、生き方を制限されている。そんな残酷とも言える世界でも、それでもかすかに零れる光を掴み、人は自由に生きたいと願うもの。
厳しい現実。
生きづらい現代。
だけど、生きる事への希望を捨てない。
平凡な人生を生きるよりも、暗闇の中で、必死にもがいて生きる人間こそ、真に美しい――。
梢子。俺もそう思うよ……。
あの花の通り、お前は確かに、幸福に包まれていた。信じるよ。俺はお前を救えていた。これがお前の望んだ結果で、お前がそれでいいと言うなら、俺はもういいかげん、前に進まないといけないよな。
「……分かったよ、梢子」
あいつがいる季節は終わりを告げた。俺はこの先もずっと、あいつの影を追い続けると思う。でも、俺は不幸でも、可哀そうなやつでもない。俺もあいつと同じように、幸せなんだ。あいつに出逢え、想え、傍にいられた。そして、あいつも同じように想い、生きてくれた。俺はこの人生を、間宮梢子という人物を誇りに思う。だから生き続けよう、あいつがくれたこの新しい人生を。
青星は歩き出した。もう下を向く事はない。それは梢子と互いに、光を分け合ったからだ。
何度生まれ変わっても、俺はお前の元に駆ける。そして、伝えるんだ「だいすき」を。
後ろには、山荷葉の花が誇らしげに咲いていた――。
山荷葉の花言葉――〈幸せ〉〈自由奔放〉〈親愛〉
夜明けのシリウス