あれから十三という年月が経ち、俺はあいつが生きた歳の分だけ歳を重ねた。
 早起きをして、窓を開け、太陽の日の光を浴びながら、新鮮な空気を吸い込む。そして、始める一日に挨拶をしたら、ホットウオーターで一息入れる。それが終わると、身支度を整え、栄養の取れた朝食を摂ると、家を出る準備をする。
 全て、あいつに教わった事だ。
 規則正しい生活をして、時間と己の心に余裕を持つ。当たり前の日々を幸せに感じる事も、今も変わらない。
「いってきます」
 青星はドアの前に立ち、振り向きそう言った。
 これもあの頃と変わらない事。
 ――いってこい。
 今はもう、その声は聞こえないが、きっと見守ってくれている信じて、今日も世界への扉を開ける。
 もう随分と見慣れた、歩き慣れた道を行く。生ぬるい風を感じながら、もう夏が近いという事を知る。
 スーツの内ポケットに入れていた携帯が鳴り、取り出すと、表示されていたのは春一だった。
 青星は足を止め、電話に出た。
〈あ、青星? 朝からわりーな〉
 変声期を迎えているはずの声は、昔と変わらず今も高い。
〈いや、大丈夫〉
〈真理愛が早く聞けってうるさくてよ〉
 電話の向こう側から、春一のため息交じりな声が聞こえる。
 進藤の相変わらずさに手を焼く春一を、俺はこの先も見る事になるのだ。
〈それで、こないだの件なんだけど、承諾してくれそ?〉
 仲良く並んで歩く、制服姿の男女三人の学生が、目の前を横切る。いつしかの自分たちの姿と重なって見えた。
 あの頃、何も知らない俺たちは、互いを守り合う方法をただ必死に探していた。傷つけたくなくて、遠ざけて自分の殻に閉じこもろうとした事もあったけど、拒むことも出来なかった。必要だったから。そんな大切な相手の願い事。断る理由がない。
〈ああ、俺でいいなら〉
〈よっしゃありがとう! 俺、絶対お前が良かったんだ!〉
 ガッツポーズをしている春一の姿が分かるように頭に浮び、青星は思わず笑ってしまった。
 詳細は追って連絡をすると言われ、電話を切った。
 職場に着き、職員に挨拶をして、自分のデスクに腰掛ける。
 鞄から仕事道具を出していると、携帯にメールが届いた。
【ありがとう、青星くん!】
 早速、進藤からのお礼メールだ来た。
 メールを返信していると、突然耳元で声がした。
「何しているんですか」
 驚いて横を見ると、桜井(さくらい)先生がいた。
「桜井先生……驚かせないで下さいよ」
「だって、来て早々、携帯なんて見ちゃってるから。何しているのかなーって思って」
 今年の春に新任教師として来た桜井梓(あずさ)先生は、昔の進藤を思わせられる。
「もしかして、彼女ですか?」
「違いますよ。友人です」
 疑っていそうな目で青星を見る梓。
「本当に?」
「はい」
「本当に本当に?」
 引かない梓。
 そこでパチンと手を叩く音が聞こえ、振り向くと、手を合わせ柔和な笑みを浮かべる男が立っていた。
「桜井先生。七瀬先生が困っているじゃないですか」
「えー。だって気になるんですもん」
「それは分かりますけど。プライベートな事に、なんでも口を挟んではいけませんよ。さあさあ、朝礼を始めますから、席について」
 男にそう言われ、梓は叱られた子供のように「はーい」と返事をすると、自分のデスクに戻って行った。
「相変わらずのモテっぷりだな。七瀬」
「大宮先生」
 助け舟を出してくれたのは、大宮だった。
 見た目は歳を取ったが、その穏やかさや優しい話し方をするのは、今も変わらない。
 大学を卒業した青星は、地元で母校であるこの高校に教師として就職した。専攻科目は、世界史。自分の生きている世界で何が起こっているのかを学ぶ事が楽しくて、その道に進んだ。
「やっぱり変な感じだなー」
「何が?」
「お前が教師をしているのが。まあ、教え子であった七瀬が、教師になってくれた事は、俺としては嬉しんだけどな」
 照れくさそうに、人差し指で首筋を掻く大宮。
 教師になったのは、日々知らない事を学ぶ楽しくて、今度はその楽しさを人に教えたいと思ったからだ。
「でも、先生を見ていて、こんな風に将来働くのもいいなって思った」
 青星がそう言うと、大宮は時でも止まったかのように、体を硬直させ青星を見ていた。
「……おい。聞いてるのか」
「あっ……悪い。そんな風に思ってくれているとは思わなくて」
 自分が青星に何か影響を与えられていた事に大宮は心底驚いた。
 なんとなく、二人の間にぎこちない空気が流れた。
「そう言えば、俺の所にも、招待状届いたぞ」
 照れ隠しだろうか。大宮は話を逸らすように、話題を変えた。
 腕を組み、しみじみと頷く大宮。
「まさか、春一と進藤とはな~」
 春一と真理愛は同じ地方の大学に進学。のちに仕事を通して再会し、昔話に花を咲かせ意気投合。二人が付き合っているという事を知ったのは、数年前にあった同窓会での事だった。
 自分以外の他の同級生はその事を知っている人もいたみたいだが、青星は進学も、大学も、全て地元を離れる事がなかったため、二人に会うのは、二人がこちらに帰って来る時のみだった。
 お前にはちゃんと直接言いたかった。そう春一に言われた。
 幼馴染でもある二人は、互いをよく理解し合えている良き友人、良きパートナーだ。青星は友人とし二人を応援していた。
 それに、俺は初めから、あいつら二人がお似合いだと思っていたしな。
 そして、そんなある日の事だった。電話で春一に、真理愛にプロポーズをしようと思うと言われたのは。青星はもちろん、背中を押した。
 そして数カ月前、二人が共にここに帰って来た。春一はプロポーズを成功させ、二人は夫婦となるべく、互いの両親に挨拶をしに来たのだ。
 大切な友人二人が共に人生を歩む。素直に嬉しいと思う。
 ――今なら分かる。梢子は、俺に人と人との繋がりの大切さを知ってほしかったんだ。
「俺は進藤が七瀬を諦めるとは思わなかったな。周りの女子が近づこうもんなんら、目で殺しに行ってたもんな」
「ある意味助かってたけどな」
 進藤が周りの女子を近づかせないおかげで、俺の学生生活は安定していたところがある。でもその反動で、ファンクラブなんてものが出来たらしいが。もちろん進藤真理愛には内密の。
 卒業式の時にそれが明らかになった際は、進藤は春一に止められながらも怒っていたな。
「進藤は、絶対に七瀬を諦めないと思っていたな」
「進藤からしたら、俺は顔が好みのアイドル的な存在だったんだろ」
「ははっ、なるほどな。……お前は、結婚とかはしないのか?」
 あえて明るく訊いてくる大宮。一応、元教え子の将来を心配しているのだろう。
 あいつは、過去の人間。現在も、未来にも、あいつは存在しない。でも、それでも、俺は今も変わらず、あいつを想う。
「俺、一途だから」
 大宮は、分かっているよ。と言うように頷くと、青星の肩をぽんぽんっと叩いた。
 もしもあいつに出会わなかったら、俺の人生は、どうなっていたのだろうか。喜怒哀楽。そんなものも知らず、生きる意味も、生まれてきた喜びも、命の尊さも、何もかも知らず、ただ生きたのだろう。そして、この心に芽生えた、気持ちも知らずに――。



 坂道を上がる。振り返ると、茜色の夕焼け空の下に街並みが広がっていた。空を見上げようとして、動きを止めた。
 ……危ない。まだ見ちゃだめだ。……って、何してんだ。今は冬じゃない。ましてや夜でもないだろ。
「……お前の事ばっかだよ……」
 行き場のない声が地面に落ちた。
 梢子が生前書いた、『夜明けのシリウス』は、世に出される事はなく、今も静かに、あの部屋の引き出しに眠っている。
 亡くなった人気作家が最後に紡いだ物語。人々が惹かれるくらいのキャッチコピーは、充分にあった。あの小説が出版されれば、出版社には多大な利益が、原作者である梢子には、多額な印税が入る事は間違いないだろう。しかし、編集担当であった牧野は、あの作品を世に出す事を拒んだ。
『これは、青星くんと、梢子ちゃんの物語だから』と。
 青星も牧野と同意見だった。この本が出版されれば、多くの人間がこの本に触れる。小説家として、それは嬉しい事なのかもしれない。だが、あいつの想いや、心の奥底にある悲しみや苦しみを、何も知らないやつらに、同情として寄り添ってはほしくないし、勝手な憶測で、物語に価値をつけてほしくなかった。だから俺たちは、あの原稿を永久に人前に出さない事に決めた。
 最初は牧野に現行の保存をお願いしようとしたが、牧野が、『ここにいたいと思う』と言い、あいつの仕事部屋として使われていた書斎のデスクの引き出しに、しまっておくことにした。
『好きな時に読みなよ』
 牧野は俺にそう言ってくれた。だから時々、あいつを感じたくて、あの引き出しを開けようとするが、読めたことはあれから一度もない。
 辿り着いた先は、梢子と星を見上げ、梢子が息を引き取った、あの公園だった。昔と変わらず、人けのないその公園には、ぽつりと木製のベンチが置かれていた。
 たまに、息抜きがしたくなった時に、青星はこの公園を訪れていた。亡くなってしばらくはこの公園を避けていたが、今では梢子がいるのかもしれないという、会いたいという願いから、この場所に訪れるようになっていた。
 青星はベンチに腰を下ろした。
 そしてしばらく街並みを見つめた後、仰向けになり体を倒した。
 目を閉じ、あいつが去った日の事を考える。
 それは、俺が家を空けた、僅かな時間で起こった。
 コンビニに行ってくる。そう言い、家を出たあの日。早々に買い物を済ませ、コンビニから出ようとすると、梢子の言う通り、雨が降った。
「風を引いたらいけない」そういい、俺に傘を持たせた梢子。いなくなるなんて、考えもせず、俺はいつものように、家の扉を開け、
「ただいま」その一言を言った。だが、部屋の中から「おかえり」という言葉が返ってくる事はなく。 
 梢子は、タイミングを見計らっていたんだ。そして一人になったあの時、姿を消した。そのまま牧野の家に行き、俺の事を託した。
 家には、あいつの携帯が置かれていて、荷物を詰めた様子もなかった。母親が家を出て行った俺のために、あいつは自分の全てをあそこに置いて行ってのだと思う。
 青星はゆっくりと目を開けた。
 茜色の空が、視界を埋め尽くす。
 空に向かって片手を伸ばした。
 空って遠いいなぁー……本当にあんなところから、俺が見えているのか。
 この十三年、幾度となく季節は繰り返されてきた。
 春は、桜が人々を祝うように、満開に咲きほこり。
 夏は、向日葵が太陽に憧れて、上を向いて咲く。
 秋は、恋をする女の子ように、健気に儚げにコスモスが咲く。
 冬は、生命の強さを象徴するかのように、バラが雪に埋もれながらも咲く。
 その尊さを共に愛しむあいつの存在は、どの季節にも居なかった。
 去り行くその季節に別れを告げるように、俺は前を向こうと、努力してきた。しかし、俺の時はやはり止まったままなのかもしれない。
 ふと顔を横に向けた。
 ――え……。 
 思いもよらぬものが、青星の視界に入った。
 蓮……?
 青星は起き上がり、地面に咲くその花に近づいた。
 ギザギザとした、大小、特徴的な葉の上に成り立つ、透明な花。
 どうして、こんなところに……? ここはこの花が咲くような土地もないし、ここ最近、雨が降る事もなかった。それなのにどうして。
 本物は、一度しか見た事がないけど、間違いない、これは、山荷葉だ。
 ここに毎年、ずっと咲いていた? 気づかなかった。でも、だとしたら、最後あいつは、本当にこの花を見て……
 ――記憶の中、俺はあいつの影を探した――。
 ――少年漫画に出てきそうな、豪快な笑い声。
 ――若者を気遣った、味付けの濃い料理。
 ――日向のみちしるべのような、お日様の香り。
 降り続く雪は、永遠にかと思わせるように、止まる気配を見せず、溶けることなく、心に降り積もっていく。こんな世界で生きるくらいなら、死んだ方がマシだと思った。でも、それでも、いつか、光が訪れる事を信じ、暗いトンネルの中を歩き続けた。
 人は生まれながらに、ある程度、生き方を制限されている。そんな残酷とも言える世界でも、それでもかすかに零れる光を掴み、人は自由に生きたいと願うもの。
 厳しい現実。
 生きづらい現代。
 だけど、生きる事への希望を捨てない。
 平凡な人生を生きるよりも、暗闇の中で、必死にもがいて生きる人間こそ、真に美しい――。
 梢子。俺もそう思うよ……。
 あの花の通り、お前は確かに、幸福に包まれていた。信じるよ。俺はお前を救えていた。これがお前の望んだ結果で、お前がそれでいいと言うなら、俺はもういいかげん、前に進まないといけないよな。
「……分かったよ、梢子」
 あいつがいる季節は終わりを告げた。俺はこの先もずっと、あいつの影を追い続けると思う。でも、俺は不幸でも、可哀そうなやつでもない。俺もあいつと同じように、幸せなんだ。あいつに出逢え、想え、傍にいられた。そして、あいつも同じように想い、生きてくれた。俺はこの人生を、間宮梢子という人物を誇りに思う。だから生き続けよう、あいつがくれたこの新しい人生を。
 青星は歩き出した。もう下を向く事はない。それは梢子と互いに、光を分け合ったからだ。
 何度生まれ変わっても、俺はお前の元に駆ける。そして、伝えるんだ「だいすき」を。
 後ろには、山荷葉の花が誇らしげに咲いていた――。



 山荷葉の花言葉――〈幸せ〉〈自由奔放〉〈親愛〉





                 夜明けのシリウス