深々と降り積もる雪の中、私達は出逢った。
小説家である私は、編集部の創立記念パーティーに参加していたが、正直、気が乗っていなかった。事故で両腕を失ってからというもの、私は編集部から、ガラスを触るような扱いを受けている。
少しくらいの気遣いは社会人ならするだろう、しかし、周りが私に対する気遣いは、五体満足な人間からすると、過剰に見える。こうしている今だって、食べ物をよそったりするのを引き受けてくれるが、そのくらい義手をしていれば、自分で出来る。
優しさだって事は分かる。しかし、その優しさを私は素直に受け取れない。それは、ある者とない者が分かりある事が難しいからだろう。
息苦しさの原因が自分にある事は分かっている。だが、こうも気を遣われると、この場にいたくなくなる。担当編集者には、悪いと思ったが、抜け出して、一人、街の中を彷徨う事にした。
人混みが嫌いだった私は、出来るだけ人を避けようと、暗い路地裏に足を踏み入れた。
そして、一人の少年が視界に入った。
未成年と思われたその少年は、煙草を片手に、いかにも違法そうなクラブの店前で空を見上げていた。
少し遊んでやろう。そんな出来心というやつだった。
静かに忍び寄り、少年の横に座ると、寒い雪の中だと言うのに、そこはとても暖かく思えた。
ずっと探し求めていた存在に出逢えたのか。
――クソくらえだこんな世界。
少年はそう叫んだ。
家族に罵倒され、恋人を失い、挙句の果て、両腕を失った私にとって、その言葉はもっとも同感すべき言葉だった。
同じような事を思っているやつがこんなにも近くにいたのかと、なんだかおかしく笑いたくなった。
そして安心した。
初めて私の顔を見た少年は、強気なモノ言いな反面、何かに怯えているようだった。
どこかで見た事のあるようなその表情に、私は強く惹かれた。
少年は私に両腕がない事を知ると、輝きのある瞳で私を見てきた。こんな奴は初めてだった。私を見る者の瞳は必ず濁るからだ。まるで自分が貴重価値の高い人間かのように錯覚するくらいに、いい気分だった。
きっとこれは、あまりにも不幸な私に同情した、天からの贈り物だったのだと思う。
私は、少年と旅をする事にした。
少年は幼い時から、実の父親から暴力を受け育っていた。大人の私を見て怯えていたのは、そのせいだと分かった。
私も父は嫌いだった。そんなとこまで気が合う。
自分の身体を売る事でしか生きられない。そんな子供がこの世界に大勢いると、少年は言っていた。
心を痛めた。
少年くらいの年頃は、学校に行き、友人たちとの時間を過ごし、親や兄弟、周りの人間に守られながら、社会の分別を学んでいく。争い事などとは無縁だ。それなのに、少年は生まれた環境のせいで、身体的苦痛を受けていた。弱い者は生きられない。力が全てだった。
憎悪と嫌悪の日々を簡単には忘れられない。だから、何かに打ち込んで、今までの日々を少しでも記憶の外に出してほしかった。私が、小説に打ち込んだように。
誤魔化しに過ぎないかもしれにと思ったりもしたが、間違いではなかった。
少年を図書館に連れて言った時の事だった。あれは、多分、無意識だったのだと思う、本を読んでいる少年が、頬を緩ませて穏やかに微笑んでいた。その表情を見て、私は嬉しかった。
実はその時、私はそこで驚くべき光景を目にした。少年は本棚と本棚の間に腰を下ろし、本を読んでいたのだ。それは、昔の自分と全く同じ行動だった。変り物がここにもいたかと、面白かった。
あまりに行動がリンクしていて、一瞬、体が動かなくなったが、すぐに我に返った。
彼が、私の辛い過去を和らげてくれた。
最初は同情だと思った。自分と同じように親から酷い目に遭わされて、行き場を失っている。
でも違った。
――私が彼を求めていたのだ。私は彼に救われていた。
月日が流れるのは早いもので、少年はあっと言う間に、大人の青年へと成長した。
晴れ舞台の上に立つ少年を見て、私はとても誇らしく感じた。
立派になった。本当に、本当に、立派になった。
胸が、いっぱいだ――。
ずっと、私の人生、所詮こんなもんだって。大切な人は、私の前からいなくなる。でも彼に出会えたことで、私の中で何かが変わった。
あの時、両腕を失ってでも、生きたのは、彼に出会うためだった。彼を幸せにするためだった。
私は今、とても幸せだ。あいつを抱きしめ、あいつの傍に生きられた。誰が何と言おうと、私は幸福に包まれているのだ。
しかし、人間はというものは孤独に勝てても、人の死というものには、やはり勝てないと知った。
私は自分のする選択に、後悔などしない。旅の終盤には、確かに光が存在していたのだから。
私が、人生最大で最後を飾る場所として選んだのは、あの公園だった。
後ろ振り向くことなく、ゆっくりと、この坂を上り、あの階段上がって行く。公園に着くと、私はベンチに座った。
息を吐くと白い。空は淀んだ色をしている。でも雲の隙間からは光が漏れていた。薄明光線、別名 <天使の梯子> と言われるものだ。とても綺麗だ。私を歓迎してくれているのだろうか。
なあ、少年。私はお前と出逢えたことが何よりも宝だった。
あの日、子供のお前は、まるでこの世の全てを理解したような顔をして私の前に現われた。
私はその時に思ったんだ。<お前を守りたい>と。でもそう思ったのは、けして年齢や体の大きさのことなどではない。一人の人として、お前の幸せな人生を守りたかった。だが私は歳ばかりを重ねて、大人になれていない未熟者だ。そんな私がお前に何が出来るだろうか? 考えても、明確な結論は出なかった。だがお前の笑顔を見らえた日は、お前を守れたのだと思った。私は嬉しい、嬉しいんだ。お前の笑顔を見られることが。
お前の幸せは、私の幸せだ。そしてこれだけは言える。
お前は、幸せになる為に生まれてきた人間だ。
私はあの時から、上手く生きられなかった。孤独を抱え、心の隙間を埋めるように身を削って小説を書き続けた。でもお前のおかげで、束の間だったが、こんな私でもまた幸福だと思える時間を送れた。ありがとう。
でもな、私はこれから先、生きることより、今、このままの気持ちを抱えて死にたいんだ。あの天使のようにな。その方が私は幸せだからだ。自分勝手でごめんな。
……ああ、視界がぼやけていく。体も軽くなっていく。死は安らかなものだ。だから死ぬことは怖くない。
空から、小さな雪がゆっくりと降り注ぐ。
こっちは今、雪が降っている。お前の元にも降っているだろうか。降っているといいな。この雪に、私の想いをのせて行ってもらうよ。
美しいな……
頬を涙が伝った。
冷たい風が突き抜けていく。
その風に身を任せるかのように、座っていたベンチに、私は体を横に倒した。目線の先には、あの花があった――。
私の頬は緩んだ。その表情は、さぞ穏やかだろうに。
さよならだ、青星――
青星は原稿を閉じた。
自分の持てる全ての感情が、一度に波のように押し寄せてくる。
青星と過ごした日々が、梢子の人生の中で、一番幸せな時だった。
「青星くん……」
「ごめん。ごめん牧野。俺、もうっ……」
「……うん。いいんだよ」
青星は声を上げて泣いた。涙と鼻水で、綺麗な顔はぐしゃぐしゃだった。
梢子、今、何を見ている? ひと時の幸せなんかじゃない俺はお前に、もっともっと生きて幸せになってほしかった。本当は死なんて選んでほしくなかった。
「梢子ちゃんは、青星くんが大好きだったよ」
口を開けば、青星の事を話していた梢子。彼女がここまで生きて来られたのは、彼女が彼女でいられたのは、間違いなく、七瀬青星という存在がいたからだ。そして、青星にとってもまた、間宮梢子という存在がいたから、諦めないで生きて来られた。二人は確かに互いを支え合っていた。
「……俺もだよ、梢子」
青星は原稿を胸に抱いた。
その手は力強く、原稿には皺が出来てしまいそうだった。
「……大好きだ……」
青星は泣き続けた。泣いて泣いて、また再び、朝焼けがやってきた。
小説家である私は、編集部の創立記念パーティーに参加していたが、正直、気が乗っていなかった。事故で両腕を失ってからというもの、私は編集部から、ガラスを触るような扱いを受けている。
少しくらいの気遣いは社会人ならするだろう、しかし、周りが私に対する気遣いは、五体満足な人間からすると、過剰に見える。こうしている今だって、食べ物をよそったりするのを引き受けてくれるが、そのくらい義手をしていれば、自分で出来る。
優しさだって事は分かる。しかし、その優しさを私は素直に受け取れない。それは、ある者とない者が分かりある事が難しいからだろう。
息苦しさの原因が自分にある事は分かっている。だが、こうも気を遣われると、この場にいたくなくなる。担当編集者には、悪いと思ったが、抜け出して、一人、街の中を彷徨う事にした。
人混みが嫌いだった私は、出来るだけ人を避けようと、暗い路地裏に足を踏み入れた。
そして、一人の少年が視界に入った。
未成年と思われたその少年は、煙草を片手に、いかにも違法そうなクラブの店前で空を見上げていた。
少し遊んでやろう。そんな出来心というやつだった。
静かに忍び寄り、少年の横に座ると、寒い雪の中だと言うのに、そこはとても暖かく思えた。
ずっと探し求めていた存在に出逢えたのか。
――クソくらえだこんな世界。
少年はそう叫んだ。
家族に罵倒され、恋人を失い、挙句の果て、両腕を失った私にとって、その言葉はもっとも同感すべき言葉だった。
同じような事を思っているやつがこんなにも近くにいたのかと、なんだかおかしく笑いたくなった。
そして安心した。
初めて私の顔を見た少年は、強気なモノ言いな反面、何かに怯えているようだった。
どこかで見た事のあるようなその表情に、私は強く惹かれた。
少年は私に両腕がない事を知ると、輝きのある瞳で私を見てきた。こんな奴は初めてだった。私を見る者の瞳は必ず濁るからだ。まるで自分が貴重価値の高い人間かのように錯覚するくらいに、いい気分だった。
きっとこれは、あまりにも不幸な私に同情した、天からの贈り物だったのだと思う。
私は、少年と旅をする事にした。
少年は幼い時から、実の父親から暴力を受け育っていた。大人の私を見て怯えていたのは、そのせいだと分かった。
私も父は嫌いだった。そんなとこまで気が合う。
自分の身体を売る事でしか生きられない。そんな子供がこの世界に大勢いると、少年は言っていた。
心を痛めた。
少年くらいの年頃は、学校に行き、友人たちとの時間を過ごし、親や兄弟、周りの人間に守られながら、社会の分別を学んでいく。争い事などとは無縁だ。それなのに、少年は生まれた環境のせいで、身体的苦痛を受けていた。弱い者は生きられない。力が全てだった。
憎悪と嫌悪の日々を簡単には忘れられない。だから、何かに打ち込んで、今までの日々を少しでも記憶の外に出してほしかった。私が、小説に打ち込んだように。
誤魔化しに過ぎないかもしれにと思ったりもしたが、間違いではなかった。
少年を図書館に連れて言った時の事だった。あれは、多分、無意識だったのだと思う、本を読んでいる少年が、頬を緩ませて穏やかに微笑んでいた。その表情を見て、私は嬉しかった。
実はその時、私はそこで驚くべき光景を目にした。少年は本棚と本棚の間に腰を下ろし、本を読んでいたのだ。それは、昔の自分と全く同じ行動だった。変り物がここにもいたかと、面白かった。
あまりに行動がリンクしていて、一瞬、体が動かなくなったが、すぐに我に返った。
彼が、私の辛い過去を和らげてくれた。
最初は同情だと思った。自分と同じように親から酷い目に遭わされて、行き場を失っている。
でも違った。
――私が彼を求めていたのだ。私は彼に救われていた。
月日が流れるのは早いもので、少年はあっと言う間に、大人の青年へと成長した。
晴れ舞台の上に立つ少年を見て、私はとても誇らしく感じた。
立派になった。本当に、本当に、立派になった。
胸が、いっぱいだ――。
ずっと、私の人生、所詮こんなもんだって。大切な人は、私の前からいなくなる。でも彼に出会えたことで、私の中で何かが変わった。
あの時、両腕を失ってでも、生きたのは、彼に出会うためだった。彼を幸せにするためだった。
私は今、とても幸せだ。あいつを抱きしめ、あいつの傍に生きられた。誰が何と言おうと、私は幸福に包まれているのだ。
しかし、人間はというものは孤独に勝てても、人の死というものには、やはり勝てないと知った。
私は自分のする選択に、後悔などしない。旅の終盤には、確かに光が存在していたのだから。
私が、人生最大で最後を飾る場所として選んだのは、あの公園だった。
後ろ振り向くことなく、ゆっくりと、この坂を上り、あの階段上がって行く。公園に着くと、私はベンチに座った。
息を吐くと白い。空は淀んだ色をしている。でも雲の隙間からは光が漏れていた。薄明光線、別名 <天使の梯子> と言われるものだ。とても綺麗だ。私を歓迎してくれているのだろうか。
なあ、少年。私はお前と出逢えたことが何よりも宝だった。
あの日、子供のお前は、まるでこの世の全てを理解したような顔をして私の前に現われた。
私はその時に思ったんだ。<お前を守りたい>と。でもそう思ったのは、けして年齢や体の大きさのことなどではない。一人の人として、お前の幸せな人生を守りたかった。だが私は歳ばかりを重ねて、大人になれていない未熟者だ。そんな私がお前に何が出来るだろうか? 考えても、明確な結論は出なかった。だがお前の笑顔を見らえた日は、お前を守れたのだと思った。私は嬉しい、嬉しいんだ。お前の笑顔を見られることが。
お前の幸せは、私の幸せだ。そしてこれだけは言える。
お前は、幸せになる為に生まれてきた人間だ。
私はあの時から、上手く生きられなかった。孤独を抱え、心の隙間を埋めるように身を削って小説を書き続けた。でもお前のおかげで、束の間だったが、こんな私でもまた幸福だと思える時間を送れた。ありがとう。
でもな、私はこれから先、生きることより、今、このままの気持ちを抱えて死にたいんだ。あの天使のようにな。その方が私は幸せだからだ。自分勝手でごめんな。
……ああ、視界がぼやけていく。体も軽くなっていく。死は安らかなものだ。だから死ぬことは怖くない。
空から、小さな雪がゆっくりと降り注ぐ。
こっちは今、雪が降っている。お前の元にも降っているだろうか。降っているといいな。この雪に、私の想いをのせて行ってもらうよ。
美しいな……
頬を涙が伝った。
冷たい風が突き抜けていく。
その風に身を任せるかのように、座っていたベンチに、私は体を横に倒した。目線の先には、あの花があった――。
私の頬は緩んだ。その表情は、さぞ穏やかだろうに。
さよならだ、青星――
青星は原稿を閉じた。
自分の持てる全ての感情が、一度に波のように押し寄せてくる。
青星と過ごした日々が、梢子の人生の中で、一番幸せな時だった。
「青星くん……」
「ごめん。ごめん牧野。俺、もうっ……」
「……うん。いいんだよ」
青星は声を上げて泣いた。涙と鼻水で、綺麗な顔はぐしゃぐしゃだった。
梢子、今、何を見ている? ひと時の幸せなんかじゃない俺はお前に、もっともっと生きて幸せになってほしかった。本当は死なんて選んでほしくなかった。
「梢子ちゃんは、青星くんが大好きだったよ」
口を開けば、青星の事を話していた梢子。彼女がここまで生きて来られたのは、彼女が彼女でいられたのは、間違いなく、七瀬青星という存在がいたからだ。そして、青星にとってもまた、間宮梢子という存在がいたから、諦めないで生きて来られた。二人は確かに互いを支え合っていた。
「……俺もだよ、梢子」
青星は原稿を胸に抱いた。
その手は力強く、原稿には皺が出来てしまいそうだった。
「……大好きだ……」
青星は泣き続けた。泣いて泣いて、また再び、朝焼けがやってきた。