静まり返った部屋の中、牧野は一人、原稿を握りしめていた。
 この気持ちは、言葉一つで説明できるものじゃない。
 春の訪れを感じるようになった、ある日の事だった。母が亡くなったと、梢子ちゃんから連絡が入ったのは。
 それは急な事ではなかったみたいで、梢子ちゃんのお母さんは、長い間、癌を患っていた。
 梢子ちゃんには、その事を告げることなく、お母さんは黄泉の国へと旅立ってしまった。
『優しい母の事だ。私の重みを背負わせたくなかったのだろう』
 そう、梢子ちゃんは言っていた。
 梢子ちゃん曰く、お母さんが亡くなった日、その日は何もかもが上手くいっていたそうだ。上手く、いきすぎていたくらいに。
 空に広がる雲はゆるやかに流れ、天からは温かな光が降り注いでいた。まるで、お母さんがその一日を作ってくれているかのように。
 二度と手を通したくないと思ていた喪服に手を通し、お母さんに、ありのままの自分を見てもらいたいと義手を着けず、梢子ちゃんは葬儀に向かった。
 春の訪れを待つ木々たちが立ち並ぶ、並木道を歩くき、見慣れた、だけど、どこか遠く感じるこの道を梢子ちゃんは歩いた。そして、数十年ぶりに訪れた家の奥からは、風に乗せられてやってきた、お線香の香りがしたそうだ。
 布団の上で、綺麗にお化粧をされた姿で眠るお母さんは、呼びかければ今にでも目を開け、答えてくれそうな顔をしていたらしい。
 人は生まれたからには死ぬ。頭では理解していても、心は追いつかない。人間は強くも弱い。
 梢子ちゃんのお父さんは、目を真っ赤に腫らし、衰弱しきっている様子だったらしい。梢子ちゃんに両腕がない事を知ると、その場に崩れ落ちるように、座り込んだという。梢子ちゃんが知っている、威厳のあるお父さんは、もういなかったのだ。
 そんなお父さんの横を通り過ぎ、梢子ちゃんは、最後に、お母さんいた寝室へ向かった。中は、綺麗に整理整頓されており、机の上には三年前ほど前に出版した、梢子ちゃんの小説が置かれてあったそうだ。
 梢子ちゃんのお母さんは、かなりこの作品を読み込んでいたのか、紙質が、何度もページをめくったかのように、薄く変化していたらしい。それだけでなく、手に汗を握るシーンでは、思わず指に力が込められてしまったのか、指の跡らしきものが残されていた。そして驚いたことに、そのような状態だった本は、それだけではなかった。部屋の本棚に並んでいるのは、梢子ちゃんが書いた小説のみ。梢子ちゃんはその本、全てに目を通したが、そのどれもに、同じような状態が見られた。 
『デビュー作もお母さんは読んでいた。きっと、自分たちが物語の中に登場している事に母は気づいているだろう。私が父に対して感じていた事や、思っていた事。母に知ってほしかった事。あの本には、その全てがある』そう、梢子ちゃんは言っていた。
 本棚に本を戻そうとした時、本を床に落としてしまったらしい。両腕が無い梢子ちゃんにとって、足は手の代わりをしてくれる大切な身体の一部。何かを開いたり、閉じたり、掴んだり話したりするのは足を使う。しかし、慣れてはいても、その動作は困難を極める。
 足で本を持ち上げようとした梢子ちゃんだったけど、本の最後のページに、何かが挟まっている事に気づいた。
 それは、お母さんが梢子ちゃんに宛てた、最初で最後の手紙だった。
 梢子ちゃんはその手紙を読んで、
 ーーずるい。
 ただその一言を呟いたと。
 そして考えた。母は、この手紙を私に渡そうとしていたのだろうか。それとも、余命僅かなである自分の死期を悟り、この手紙を私が見つけてくれる事を願って、ここに隠したのだろうか。と。
 その後、梢子ちゃんは行先を決める事なく、ただただ一人、夜の街を彷徨った。
 そして気が付くと、あの場所に来ていたそうだ。
 青星くんと出会った。阿久津さんが経営していた、クラブの裏口の前に。
 阿久津さんの事は、梢子ちゃんから話を聞いていた。一度も会った事はなかったが、青星くんを助けてくれて事に関しては、僕も感謝している。
 三年前のあの事件の後、クラブは無くなり、警察により店内の物は全て押収され、もぬけの殻状態。そんな場所に、梢子ちゃんの心は、一体、何を求めてそこを訪れていたのか。
 あの後、青星くんの卒業式を終えた梢子ちゃんは、突然、僕の元を訪ねて来た。そして言ったんだ。
『あいつの事を頼む』と。
 青星くんとのために貯めていた生活資金と、大学へ通う為の費用が入ったカードと通帳を僕に預け、梢子ちゃんは、僕の前からも消えた。 
 僕は止めなかった。止められなかった。もしかしたら、もう二度と梢子ちゃんが戻ってこないかもしれない。そう分かっていても、自分の「行かないで」その一言が、梢子ちゃんを苦しませる事になってしまうかもしれないからだ。そうなるくらいならと僕は止められなかった。
 彼女の命を僕に縛る権利はない。
『なんだよこれ』
 それが横たわる梢子ちゃんの前、彼が最初に言った言葉だった。
 彼はこの世の光を失ったかのような暗く、虚な瞳で、冷たくなった頬を撫でていた。その間も、彼が涙を流すことはなかった。
 彼は自分の中で生き続けている彼女だけを見ている。そして、今もあの家で一人、抜け殻のようにいる。
 今、牧野の手にはあの原稿があった。梢子が最期の時まで必死に書いた物語。梢子は長い小説家生活で、多くの作品を世に送り出してきた。しかし、これは、小説家、間宮梢子としての作品ではなく、ただの、一人の人間としての、間宮梢子としての、全身全霊をかけ書いた物語だ。それを、牧野は託された。
 彼はこの物語を読んで、どう思うのだろうか。ちゃんと梢子ちゃんの想いは伝わるのだろうか。僕はこの物語を読んだ時、どうして途中で読ませてもらえなかったのか、分かったよ。だってこれは、彼と梢子ちゃんの物語だ。だから、他の誰の意見も、同情も、嫉妬も何もいらない。読者なんて、必要ないんだ。この物語は、二人が確かに生きていたという証。
 お互い、口には出さなかったけど、多分、二人の間には、特別な感情があったのだと思う。僕らは立ち入る事の出来ない特別な感情が。
 僕に出来る事。それは彼に、この小説を届ける事だ。
 牧野は覚悟を決め、椅子から立ち上がると、鞄に原稿を入れ、玄関へ走った。
 外は、雪が降り始めていた――。