桜の花びらが、踊り子のように舞う春。暖かい、洗いたてのような、お日様の光が大地を照らし、心地よい風が吹く。
 青星は鏡の前、制服に袖を通していた。
 あの日よりは、顔つきもキリっとしていて、制服も似合っている。初めてこの制服の袖を通した日の事を、ついこないだの事のように思える。
 あの日の朝は、自分が知らない、未知の世界に足を踏み入れようとしていて、一歩ずつ、近づいてく校舎に、人知れず不安を覚えていた。でも扉が開かれ、その場所に踏み出すと、意外にも、どうって事はなかった。
 思えば、少しひねくれていたのだと思う。自分はこんな事をするためにあいつの傍にいるのではないと。見下していたのだと思う。まともに生きて来られなかった自分が、あんな平和ボケしている連中と共同生活を送るなんてと。でも、喧嘩して、自分の過去を打ち明けて、少しずつ知っていった、〈友人〉という存在の意味。
 この日まで、何度も青星の眠りを守ってくれたベッドにお礼を言うように、青星は布団を整えていた。
 後ろから足音がして振り向くと、梢子が部屋の中に入って来ていた。
 今日の梢子は、いつもと違う。普段、身に纏っている、ただのワンピースを着ているのではなく、この日のために店まで行って買った、サテン素材である、膝丈の紺色のワンピースを着ていた。深海のような色のワンピースが、より一層、その美しさを輝かせていた。耳元には、母からもらったと言う、ダイヤのピアスを身に着けていた。
「ネクタイ、結ばせてくれ」
 梢子は机の上にあった紅色のネクタイを手に取ると、青星の着ているワイシャツの襟元へ。
「今日はお前の晴れ舞台だ。しっかり、送り出したい」 
 指先に力を入れるようにして、懸命に手を動かす梢子。大変なはずなのに、その表情は終始にこやかだった。
 その指先すらも、何度見ても美しい。青星は、そう思って結ばれていくネクタイに触れる梢子の手を見ていた。
「よしっ」
 そう言うと、青星の胸元を軽くポンと叩く梢子。これも送り出しに必要な、気合入れの一つだ。
「ありがとう」
 青星は結ばれたネクタイを見てそう言った。
 その言葉に、梢子は満足そうに頷いた。
 梢子が青星の両肩を掴み、二人で並んで鏡の前に立ち、その姿を見ていると、梢子は驚いたように口を開いた。
「青星、お前……」
「ん……?」
「背が、伸びたんじゃないのか? ほら……」
「ほんとだ……」
 青星は、とうに梢子の身長を抜かしていた。
「全然気づかなかったな」
「最近は互いを見て話す時間もなかったからな」
 青星が退院してからというもの、梢子は仕事に打ち込んでいた。毎日家にこもり、最低限の睡眠と食事をと休息以外は全ての時間を費やしていた。幻肢痛は未だにたびたび起こるが、以前よりも頻度が減ったり、痛みも弱くなった。病院の医者からは、心に優しいお薬でも出来ましたかなんて事を言われたそうだが、梢子はそうなんですと、答えたらしい。
 出会ったばかりの頃は、梢子よりも小さく、細い、華奢な体つきをしていたのに、今では青星も、少年から青年に変わりつつあった。
 子供の成長は早いのだと、梢子は青星を見てしみじみと感じていた。
「……」
 梢子は青星の頬に触れた。
 その表情からは、何を思っているのか、感じ取る事が出来なかった。
 成長した俺を見て、ただ喜んでいるのか。嬉しくもあるが悲しくもあるのか。分からないけど、俺はこの手をいつもより、大切に包むべきだと思った。
 しかし梢子はするりと青星の頬から手を離した。
 梢子……
 俺は思った事がある。最近の梢子はやけ素直だ。それにとても穏やか。それが始まったのは、俺が春一たちとの旅行から帰って来た時からだ。
 卒業後、地方の大学に進学が決まっている春一と真理愛。忙しくなる二人のため、旅行を卒業前にしていた。
 もちろん、何かあったのかと聞いたが、食べ過ぎて、少し太った。仕事で疲れたなどという事しか言わなかった。仕事で疲れているのは本当の事だと思う。しかし梢子の体はどちらかというと、細い。それもなんとなく、以前よりも細くなった気がした。
 やっと訪れた本当の自由と平和。当たり前の日々がここにあるのに、それなのに、どうして俺の胸は、こんなにも騒がしいのだろうか。
「遅刻するぞ」
 そう言い、部屋から出て行こうとする梢子。その耳に着けられた、ダイヤのピアスは、悲し気に揺れているようだった。
 


 卒業式を終え、三年間過ごした校舎に別れを告げる時間がやって来た。
 なんやかんやで、三年間、一度もクラス替えをする事がなく、春一と真理愛ともずっと一緒で、担任も大宮のままだった。
 優しい友人に理解ある教師。偽りで始まり、終わると思っていた関係も、いつしか本物になっていた。俺は、この子の日を迎える事が出来た自分を誇りに思ているし、感謝している。自分をここまで導いてくれた大人たちに。
 クラスの友人や、いつの間にか出来ていたファンクラブの後輩と写真を撮り、何気なくあたりを見渡している時だった、ある人物が視界に入ったのは。
 生徒の保護者なのか、学校関係者なのか。その女性は離れた位置から一人佇んで、こちらを見ていた。
 肩くらいのセミロングの髪の長さに、平均的な身長。そして自分と同じ、夜の闇に潜むような、日本人特有の漆黒な色の髪。
 一瞬、女性と目が合ったが、女性はハッとしたような顔をすると、すぐに青星から目逸らし、背を向け、校舎裏へと足早に消え去って行こうとした。
 青星は、その女性を追わずにはいられなかった。
 違うかもしれない。でもそうかもしれない。もう終わった事。あの人が幸せでいるならそれでいい。でも、もし、今の自分を見に来てくれたのなら、俺はあの人に、伝えなくてはならない。
 俺も今、幸せだと――。
 必死に走る女性。しかし青星も負けじと走った。
 青星は女性の背中に、大声で呼びかけた。
「――母さん……!!」
 その声に、女性はピタリと足を止めた。しかし、こちらに振り向く事はない。
 青星は、ゆっくりと距離を詰めた。
 一歩前に出る度に、踏んでいる砂が、じりじりと音を立てる。いつもは気にもしないその音が今はやけに大きく聞こえる。
 女性と数メートルほど距離をとった位置で青星は足を止めた。
 音楽室の窓からは、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。卒業する三年生を交えて。最後の演奏をしているのだろう。大きな太鼓やシンバルンの音が胸に響き、自分の鼓動がさらに速まるのを感じた。
 伝えるべきことは分かっている。でも、まず、何を言えば。
「母さん、だよね……?」
 女性は何も言わない。持っていたバックを両手で抱きしめるように抱えている。
「俺、七瀬青星です。あんたの息子です」
 俺はもう、あの時のように、あんたの笑顔を見たり、笑い声を聞いたり、抱きしめたりもしてもらえない。もうあんたとの日々は戻ってこないけど、あんたは俺を産んでくれた、世界でたった一人の俺の母親だ。どんな事があっても、忘れられるわけがない。悲しくても、辛くっても、嫌いになんてなれない。ただ、ずっとあんたを想っているから。どうか元気でいてほしい。
「母さん、俺は元気だから心配しないで。ご飯もたくさん食べてるし、たくさん寝てる。 これから大学にだって行くんだ。……色々あったけど、なんとか生きて来られたし、ここで友達も出来た。大切な人もいるんだ。だから……だからっ……」
 青星は涙を堪えた。
「だから安心して! ……母さん。生きていてくれてありがとう。……俺を産んでくれてありがとう……愛してくれてありがとう……俺は今、とっても幸せだからっ……!!」
 精一杯の言葉を伝える。
 女性は俯き、肩を震わせていた。 
 やっぱり母さんだな……
 結局、女性が振り向く事は一度もなかった。撫でるように頬に触れる春風を、青星は母からの贈り物だと、解釈したのだ。
 さよなら、母さん――。



 教室には、一人、青星を待つ梢子の姿があった。窓辺に立ち、手すりに両腕を置いて空を眺めていた。
 通知音がした携帯を見ると、春一からクラス会の場所と時間が送られてきていた。返信は後にするとして、携帯をしまう。
「お前だろ。母さんに連絡したのは」
 手すりに背中を寄りかからせながら、青星は言った。
「息子の晴れ舞台だ。見たくないわけがないだろ」
「そんな事だろうと思った」
梢子は明日香の事を気にかけているのを青星は分かっていた。そして梢子もまた、本当は青星が心のどこかで明日香に会いたがっていると思っていたのだ。
「で、お母さんはなんて?」
「別になんも……振り向きもしなかったよ。……でも、それでいい。あそこで振り向かれちゃ、俺だってどんな顔していいか分かんねーもん」
「……そうか。でも、伝えるべきことは伝えられたんだな」
「ああ……」
 梢子は「ㇷッ」と笑った。いつもよくする顔で。でも……
「それでいい。生きている間に、想いはちゃんと伝えるべきだ」
 ほんと、どうして気づかなかったんだ。
 いつから、ちゃんとあいつの心に寄り添えなくなっていた? いつからあいつの心を見られなくなっていた? 俺は心底、自分が嫌になった。どうして、何も気づいてあげられなかったのか。俺はいつも、あいつの一番近くにいて、誰よりもあいつを理解していたんだ。でも、それは、つもりでいただけだった。俺は自分の存在を過信し過ぎていたんだ。自分さえいれば、あいつは大丈夫だと。だからあいつは俺の目の前から消えた。

――間宮梢子は死んだ。もうこの世界に希望などない。