数日後、青星は無事に退院し、以前のような日常に戻っていた。
 病院を出て、久しぶりに外の空気を体、全体で感じた時は、しばらくその場から動けなかったものだ。
 空は澄み渡るように青々と広がっていて、とてもすがすがしかった。その時の俺の表情はまさに大病を克服した少年と言えただろう。
 病院からの帰り道、梢子は言った。
「お母さんに会いにいかないのか?」と。
 母さんがくれた手紙には、住んでいるのであろう家の住所が書かれていた。会いに行こうと思えば、そこは会いに行ける距離だった。
 梢子は、俺が人目でも母親に会うことが出来れば、また一つ、気持ちに区切りをつけられるのではないかと思っていたのだ。
 会いたいと思わない事はない。しかし、もういい事と言えばいい事だった。
 俺はずっと、心のどこかで、母さんを憎んでいた。なんであの時、俺を置いて行ったんだと。一緒に連れて行ってくれれば、俺はあいつに暴力を振られる事もなく、自分を売ることもしなかったのにって
 でも、今はこう思う――。
 生きててくれて、ありがとう。
 と。
 そう思えるのは、きっと俺が梢子から、愛情をもらったからだ。
 母は、生きている。母を大切にしてくれる誰かと、結婚して、幸せに生きている。それだけで充分だった。
 警察から押収されていた携帯や貴重品は全て手元に戻り、春一らとも連絡を取ることが出来た。  
 電話をかけると、春一は飛びつくようにコールボタンにを押し、電話に出たようだった。最初はお説教から始まったが、最後はお前が無事で何よりだと言ってくれた。その時、春一は泣いていたと思う。 
 進藤は、家を直接訪ねて話をした。俺の顔を見るなり、あいつは泣き崩れた。子供のようにわんわんなく叫び、ごめんねとよかったと繰り返していた。相変わらず、騒がしいやつ。でも、あいつのは俺の中で、ちゃんと大事な存在だと思う。
 大宮は、梢子が連絡を入れてくれた。話の終り、俺の声を聞かせてほしいと言う大宮に梢子は受話器を渡してきた。「先生」と受話器越しに言うと、大宮は少しの沈黙の後、「学校で待ってるからな」と言った。その言葉だけで、大宮の想いが伝わったし、俺もその言葉に「うん」と返すだけだったけど、それだけで大宮にも、俺の気持ちは伝わっていると思った。
 そして、牧野はというと――
「この二週間、一体何をしていたのかちゃんと話してもらうからね梢子ちゃん!」
 ただいま、絶賛、梢子をお咎め中。
 梢子は床に正座をさせられ、背筋を伸ばしていたが、目は牧野ではなく、別の方向に向けていた。
 きっと別の事を考えているのだろう。例えば、今日の晩御飯とか。なんなら、あの空に浮かぶ、あの雲、美味しそうなんて。俺はそう思った。
 この二週間、梢子は俺の事で付きっきりで、ろくに仕事をしていない。幻肢痛の事はもちろん牧野も分かっている。しかし独断で原稿を書かせてもらっている以上、責任は全て梢子に問わられるが、事情が事情だったため、牧野のお咎めも、今回はほどほどで終わった。
 でも、あいつはどうして手書きで原稿を書いているのだろうか。そうまでして、あいつは何の物語を書いているのだろうか。俺にはそれがさっぱり分からなかった。
「青星くん」
 牧野は青星を抱きしめた。
 こちらも相変わらずだ。
 こいつの子供も、安心する鼓動だ。
 青星は無言でその胸に包まれた。
 大人は嫌いだ。男は特に。でも牧野は違う。梢子だって違う。
 流れてこんでくるんだ。こいつらの優しさが――。
 生まれて、親に捨てられ、虐待され、己の魂を削る仕事をし、幾千にも感じる嫌悪と孤独の時を生きた。そしてやっと出逢えた。これは必然的な事。俺たちは出逢うべくして出逢った。
「梢子」
 青星は牧野の胸の中から離れると、床に座る梢子の前に膝をついた。
「俺は幸福だ。お前はどうだ――?」
 梢子は一度、俯き、息を吐き、鼻で「フッ」と笑った。そして、俺の顔を真っ直ぐと見て、
「当たり前に、幸福だ――」
 星屑のように金色の煌めく細い髪。少し吊り上がった狐のような瞳。何よりも、その欠けた、儚くも美しい姿。

 ――間宮梢子は、俺の人生を変えた。

 通知音がして、青星はポケットから携帯を取り出すと、相手は真理愛だった。
【雪が溶けて、春が来たら、今度、春一と三人で旅行でもしよう!】
 俺は自然と顔を緩ませていた。
「どうした? 女からのメールだったか?」
 からかうようににやにやとした顔をして青星を見る梢子。
「バカ。ただの進藤だよ」
「いや、真理愛ちゃんは女の子だろ!」
 そう言い、笑う梢子。
 この笑顔をいつも一番、近くで見ていたい。この先も、自分がこの笑顔の理由になっていたい。俺はそう思った。
「いいじゃないか旅行。行って来い」
「うん」
 ――そして、幾度となく季節は流れ、あいつと出逢い、三度目の春がやってきた。